00:06
それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回は、他者編の雑談ということで、あれですよね、前回、ちょっと前にまた雑談しましたけど、
あれは、西洋から東洋の頭を切り替えるためのプチ雑談みたいなところだったんですね。
あれは、他者っていうテーマの中で整理してみようという感じだったので、
今回はいつも通りのテーマが終わっての雑談みたいな感じで、
テーマに関係あることないことをいろいろ話していけたらなと思っている感じでした。
雑談みたいな感じなんだけれども、最近、面白い本を読むことが多くて、面白い本に当たってるなという感覚があって、
その本の話をしたいなと思っているんですけど、
友達でも、それ哲ラジオを聞いてくれている人がいて、
その人が、ちょくちょくメッセージで、面白かったよとか、ここまで何話まで来てよとか送ってくれるんですけど、
その人が、会社の上司の方に、それ哲ラジオをお勧めしてくれたんだって。
へー、そうなんだ。ありがたい。
ありがたい、そうなんですね。
それを手伝うのが好きそうだとお伝えしたら、その上司の方がすごいハマってくださって、
実は今度は京都に来てくださるということで会うんだけど、
そこまで話が進んでいないんだけど。
行きながら会いましょうみたいな。
その時におっしゃったのが、いつだったかちょっと忘れたんだけど、
兄貴と僕が話している中で、
僕が西洋哲学のことについては、うんうんって聞けるみたいなのは受けられるんだけど、
東洋哲学のことについては違うときは違うって言っちゃうみたいなことを話したの。
何か覚えてる?
東洋側の方が評議具合が高いみたいな話ですね。
そうそう。
それを言われたときに、確かにそういうのあったよなって思ったんだけど、
ちょうどそれに関連するような本を1冊読んでいた。
2冊の本の話をしたいんだけど、
これ2018年に出ている本なんだけど、
南直載さんっていう、まさにお坊さんというか、
そういう方の超越と実存っていう本があって、
ちょっとタイトルいかついんだけど、
基本的には、いわゆるゴータマシタルタの仏教から、
まずやった神論とか道元とか、
っていうところまでの仏教の流れをたどりながら、
無常、いわゆる諸行無常とかの無常について、
03:00
各時代でどんな風に変わっていったのかみたいなことを書いている。
ちょっと仏教史的な本なんですよ。
なるほど、無常観みたいなやつの変遷をたどる本なんだね。
そうそうそう。
やっぱり問題意識があって、
自分として、
我とは何かとか、世界とは何かみたいなことを色々考えているときに、
結局、根拠なんてないんじゃないかみたいな話にたどり着いたらしいよね。
その筆者の方がね。
筆者の方がそう。
筆者の方が。
それで色々やっている中で、
仏教だけがまさにそれをちゃんと捉えていたんだ、みたいなことに気づいて、
仏教の道に入るみたいなお話なんだけど。
つまり何かっていうと、
ミナミさん曰く、
他の例えばキリスト教であれ、ユダ教であれ、色んな宗教あるんだけれども、
基本的には、いわゆる超越心、
超越自尊というときの超越心というのはそうなんだけど、
いわゆる人を超えたとか、
人間の認識ができないところに、
いわゆる人間を超えた存在がいるみたいな、
そういうのを基本的にみんなやっぱり宗教とかって考えています。
なるほど、その創造主だよね。
人間もあれでもその人が、人とか神が作ってくれたっていう意味でも。
そうそうそう。
そうですそうです。
実は西洋哲学っていうのはそういうふうな考えから生まれてるんだよね。
生まれてるっていうのは、
いわゆるアルケーっていう言葉としてあると思うんだけど、
根源とか、
いわゆる源的な、
何かの根っこがあって、
いわゆる万物の根源は水であるとかさ。
はいはいはい。
そういうふうに何かから始まって、
僕らの世界とか、
僕ら人間の存在っていうのはあるよねみたいな、
そういう考え方なんだけど、
仏教だけはそうじゃないと。
仏教だけは、いわゆる世界の根源とか、
いわゆる創造主みたいなものを一切、
基本的には設定しないんだよね、本来。
まあ、確かにそれはまさに前回の話だよね。
そうそうそうそう。
実は優位識っていうのは、
仏陀からは500、600年、もっとかな。
違う、もっとだ。1000年くらいか、経ってて。
だから優位識でただ識があるっていうのは、
実は仏教の中でも、新しいとは言わないけど、
ちょっと根源チックな考え方になるんだよね。
根源があるっていうふうに寄った考え方なんだよね。
はいはい。一緒に見たら、仏陀が最初の仏陀が、
仏陀が最初だとすると、最初だと思うんだけど、
仏陀が最初だとして、
そこからはちょっとアレンジされてるんだよね。
そうそうそう。そうです。
あとは、空間の時にやった大日如来っていうのがいて、
06:01
それが宇宙の根源とか言葉として、
大日如来から世界が現れてくるんだみたいな話っていうのも、
ある種ちょっと超越心、創造主的な話になっちゃってます。
うんうんうん。
でも本来、仏教ってそうじゃないよねみたいな話から、
なんでそれが変わってしまったのかっていうのを、
このみなみさんの本では書いてたんだけれども、
おー面白そうだね。
そう。なんかそれがすごい、
自分が今考えたことをそういう的確に言葉にしてくれたし、
それを自分が思ったことは間違ってなかったなっていうのを、
ちゃんと本にしてくれてるなっていうふうに思ったんだよね。
なるほどなるほど。
感覚的に理解しようとしてたことを言語化してくれてた本だったみたいな。
言語化ができつつあったものを、
なんか違う言葉で話してくれたっていう感じかな。
僕の中では超越とかってちょっと上にある感じするじゃん。
神とか超越者とか創造主っていうと。
そうね。超越もその中にするね。確かに。
僕は根源っていう言葉で考えてて、
いわゆる存在のもとになるものとか、
宇宙の根本原理みたいな話って、
土台で僕らを支えてくれてるみたいな。
だから上っていうよりは自分たちの土台にあるもので、
実はないんじゃないかみたいなことをずっと考えてたのよ。
だから実は今年もこのスウェーデンスラジオのテーマとしては、
存在と属性化っていうところから始めたじゃない。
性質ね、性質。
性質はそうか、性質ね。
で、存在っていうものがやっぱりもともとあって、
そこに性質っていうものがくっついたりくっつかなかったりするみたいな。
でもそれって簡単じゃないよねってことから始めたんだけど、
そもそも存在っていうものが根本にあるとか、
存在っていうものから始めるってこと自体が西洋的とか哲学的なんだよね。
はいはいはいはい。
仏教で言ったら存在などありませんみたいな感じだから、
そうっていうふうな意味で言うと、
西洋と東洋で世界の捉え方とか、
物事の生まれる見方って全然違う?
だから西洋的に言うと、
確かにそういうものを根源としたら、
そういうふうに考えられてわからないって因果とか言えるんだけど、
東洋というか仏教的に言うと、
そもそも存在があると前提している時点で、
あなたの言うことは間違ってますみたいな。
はいはいはいはい。
っていうふうな世界観になっているんだなっていうのを、
ちょっと自分でも振り返って思ったんだよね。
その本を通じてね、またね。
その本を通じたり、うん。
あとはね、もう一個インドのことなんだろうな、
09:04
聖書とまではないけど、
そういう物語的な本とかも読んで、
空の青さは幻想であるとか、
ろうそくの炎は幻想であるとかっていうのがいっぱい書いてある本を読んで、
ふむふむみたいな、確かに全部幻想だみたいなことを思ってたっていうのがあるんだけど、
はいはいはいはい。
はい。
っていう感じで、すごくいい時にいい本に巡り合ったなっていうのを、
これはちょっと一個思ったんですよね。
うーん、えー、そうなの。
その本の内容をもうちょっと教えてほしいな。
どういう話だったのか。
あー、そうね。
うん。
私とは何かとかさ、やっぱり、
生とは何か、死とは何かとかって、
そういうちょっと哲学的とか、
あるいは、なんだろうな、
人間が向き合いがちな問いとかってあるじゃないですか、
うんうんうんうん。
うん。で、
まあ、それを最後考えた時に、
結局その、なんだろうな、
やっぱり、
これも何度か言ってるけれども、
信じられるか信じられないかみたいな話が出てきますと。
うーん。
神の存在を信じて、
神っていうものが自分を作ったっていうことを信じられれば、
多分その宗教の、なんだろうな、
信者として生きていけると思うんだよね。
うんうんうん。
うん。あるいは、
例えば死みたいなものに関しても、
いや、死んだ後には極楽浄土にそろそろ行けるんだとか、
うんうん。
あるいは、死っていうのはもうなんだろうな、
生きている状態とは違って、
もうその時には苦痛も感じないから、
むしろ死とは安らかな救いであるとかって言った時に、
その信じられればまあそれでいいじゃないですか。
そうね、うんうんうん。
うん。で、やっぱりこの作者というか筆者の南さんは、
そういうのはやっぱり信じられなかったんだって。
うんうんうん。
で、この出会った仏教っていうものは、
いや、そもそも、なんだろうな、
そういうことじゃないんだと、
問題の立て方が間違っていて、
私っていうものもないし、
生というものも死というものも、
別にそれ単体であるものではない。
それは結局言葉の問題だみたいな、
結構そういうことまで書いてるんだけど、
うんうんうん。
そういうようなことを、
仏陀はこんな風に言っていて、
仏陀の次のアビダルマンの人たちは、
こんな風に考えていて、
ただアビダルマンの人たちは、
仏陀の次というのは、
75個の要素とかで世界を構築した、
みたいな感じなんだけど、
それは結局、
世界のある種の超越というか、
そういう創造主的なものを考える方向だから、
ラーガルジョナができて、
大正仏教で無垢化したみたいな、
っていうことを、
結構時代にストーリーをさせて、
語ってくれてるみたいな本なんだよね。
うーん、あ、そうなんだ。
それで言うと、
例えば有識もあるに、
やっぱり識だけがあるのになっちゃうから、
仏陀が作ったのとは、
やっぱりちょっと経路が異なるというか、
若干、ある意味、
大衆がわかりやすくなってるみたいな話が、
たぶん前回もあったと思うんだけど、
12:00
そうだね、そうだね。
そういう話も書いてる。
有識のことも書いてる。
そういうニーズがあって、
有意識だったりとか、
さっきの大日如来みたいにさ、
あれ程、専門職じゃない人々が、
イメージ的な形に、
仕方がなく、
作っていったもんだみたいな、
そういう感じでもかな。
仕方がなくっていう話もあるし、
あとは、やっぱり弟子の方は、
伝えるときに、
それを理解しないまま、
自分の解釈でやっちゃったよね、
みたいな。
それは仏陀レベルの話って?
仏陀の弟子とかもそうだし、
例えば、
無邪気と誠心っていう
有意識を作った人の弟子、
みたいな話もそうだし、
それぞれがね?
それぞれが。
なるほど、なるほど。
例えば、もしかしたら、
無邪気とか誠心っていう人は、
そういう超越とか、
そういう創造主がないっていうところで、
考えたかもしれないけど、
やっぱり、
意識があるって言った瞬間に、
その弟子たちが、
いや、あるんだって思って、
その後の教えがついちゃった、
みたいな、
そういう風なこととかもあるんじゃなかろうか、
そうなんだ。
その後、
弊社の方に言うには、
例えば、
有意識っていうのがダメとか、
いわゆる、
仏教の原理主義とかではなくて、
多分、
無邪気誠心みたいな人も、
仏教のそこの真髄みたいなものは、
分かった上で、
有意識っていうものを作ってるし、
大日如来は空海ではないか、
大日経だってか、
大日経だもともとは。
そういう人たちが、
当時ごちゃごちゃしてたものを、
きちんと、
自分たちなりに、
オリジナルの仏陀レベルのお話を、
表現するのにあくまでも、
例えじゃないけれども、
作ったもので、
本質は理解してるはずだ、
みたいな感覚で書いてる、
みたいな感じの。
それは結構物によるかな。
大日如来とかはさすがに組っぽすぎるよね、
みたいな。
それもちゃんとコメントっていうか、
書いてたの、そういう風に。
書いてたと思う。
ごめん、いっぱいガッと読んだから、
細かくは覚えたいんだけど。
なるほどね。
その超越と実存だっけか。
うん。
超越っていうのがどっちかというと、
ダメというか、
ちょっと西洋的。
今回は東洋も主観だから、
視点だからどうしてもちょっと
西洋を落とす感じになっちゃうけれども、
超越っていうのは、
西洋に進むような感じの
イメージの本では。
そうです、そうです。
ダメというよりは、
基本的にはみんなそう考えてるよね、
っていう風に南さんは
フィッシャーを捉えてて、
やっぱりいわく仏教だけが
15:00
それとは違う考え方をしている。
結構仏教がそれ以外から
みたいなことを言ってるんだけど。
なるほど。
それは言い過ぎかなと思うし、
もともと仏教もインドだし、
インドの方にはね、
結構そういう超越を
設定しないような考え方も
あるはあるから。
うん、うん、うん、うん。
そうだよね。
ほとんどインドだから。
やっぱりある種、
インドかそれ以外かって言われたら、
確かにわかるみたいな感じは
なんかあるんだよね。
なるほど。
そんなことを考えて、
人がいるんだっていうのが
すごく面白かったし、
やっぱり自分が今考えるとしたことが
まさに言葉にされてるみたいな。
うん、うん、うん、うん。
しかもやっぱりもちろん
自分が言葉にするよりも
すごく正しくというか、
なんだろうな、
しっかりと言葉にしてくれてるから、
そこに共感するところもあれば、
いやちょっと俺は違うぞみたいな、
そういう風に思考が進むところもあって、
すごくいい本でしたね。
はい、はい、はい。
ファイト時にアップデートされた部分って
どこだったの、ちなみに。
アップデートされたのはね、
なんだろうな、
いや、アップデートは正直なかったんだけれども、
うん、うん、うん。
そうだね、学んできたことを
すごいちゃんと整理してくださってて、
めちゃめちゃわかりやすいというか、
自分は間違ってなかったんだみたいな感じなんだけど、
うん。
なんかね、やっぱり一番は、
なんだろう、
創越と実存ってあると思うんだけど、
うん、うん、うん。
要はその、諸行無常って
全ての実存は無常であるっていう風なことなんだよね。
えーと、もう一回、もう一回。
さらっと言われると、
ちょっと集中しよう。
諸行無常ってあるじゃないですか、
諸行無常っていう言葉って、
うん、うん、うん。
全ての作られたものは無常、
常なるものはないっていう風な言葉なんだけど、
うん、うん、うん。
全ての作られたものっていうのを
実存っていう風に、
多分みなみさんは解釈してるんだよね。
作られた、思ってた、
この世にあるもの全てと解釈していいのかな。
この世をどこまで広げるかだけど、
うん、アイシコールとかも全部そう。
そうか、この世、
そうなってくる、結局そうなってくるのか。
結局そうなってくる。
その仏とかも全部含めた、
地獄とかも全部含めたこの世にある、
あらゆるものは、
それを実存と呼びますと。
はいはいはい。
それでどうなの?
いわゆるねはんじゃないけどさ、
そっちとか地獄とかさ、
属性以外の場所か、いわゆる。
はいはい。
それ以外の場所はもう無常なの?
基本的には無常で、
ねはんだけは弱情だから、
いわゆる無常ではないっていう考え方もあるんだけれども、
うんうんうん。
でもねはんも結局ない。
悟りも仏もないっていう風な話もあるんだけど、
18:00
結局あらゆるものは実体化しちゃダメだよっていう風な話ではあるんだよね。
うんうんうん。
ちょっとごめん。
今の実存ワークのときの、
ファーってイメージで作るときの世界観の作り方、
動画イメージがさ、
いきなりぶっ壊れたからさ、
ついていってなかったから。
そうなっちゃうんだよね。
ごめんごめん。
確かにね、
やっぱりね、
そうなっちゃうんだよね。
ごめんごめん。
僕もさ、
仏教的な話をすると、
もう頭がさ、
この宇宙じゃないんだよね。
銀河系の150億年みたいな世界じゃなくてさ、
なんか、
あっちの方には阿弥陀如来がいるし、
こっちの方には仏がいるしみたいな、
そういう世界になっちゃうから、
なんかもうわかんなくなるよね。
そうなのね。
たぶん普通に、
じゃあ無常があって、
超越があって、
実存があってとかって時に、
作る世界はさ、
確かに確かに。
せいぜいマインクラフトみたいな世界だからさ。
確かに。
草があって、木があって、
たまにゾンビが出てくるくらいの世界だからさ。
確かに確かに。
一旦共有してもらわないとさ、
一気に旗出すというか、
置いてかれちゃう。
確かにね。
この世ってどの世みたいな対話にならないもんね、
普通。
この世って言われたら普通は、
普通の世界しか想像しないから。
確かに確かに。
そうですよね。
なので諸行っていうのは全部ですと、
想像し得るものというか、
この世界にあると思われるもの全部ですと。
涅槃とか地獄、
そういう部分も含めて。
地獄も含めて。
東洋モードにちょっと入っていかないと。
分かります。
それが無常、常なるものはない、
という話なんだけれども、
結局常なるのは、
結局常なるものはないから、
僕らは、
これを思いなさい、
みなみさんの話というのは、
僕が思ったことなんだけど、
不安に思ったりとか、
そういう自分の存在に耐えきれずに、
いわゆる想像主とか、
根源とか、
超越的なものを、
ある種求めるんですと。
面白いね。
そうか、コンプレックスなんだ。
変わっちゃうことがね。
コンプレックスというか、不安なんだろうね。
F編のものにどうしても
惹かれちゃうと。
やっぱりこうね、
自己同一性とかさ、
自我みたいなものってあるじゃない。
これもちょっとインドの
そういう本とか読むと、
自我というものが全ての
エラーのもとであると。
自我というものが、
自分というのは存在し続けるとか、
世界というのは存在し続ける
というふうに思うということ自体が、
いわゆる執着だし、囚われだし、
仏教的に言うと苦なんだよね。
なるほど。
人間はそれが基本的に
21:00
合ってますよって話だよね。
基本的にはそういうモードの
やつになっちゃうから。
それもエラーなんだけれども、
やっぱりそういう人間として
生きなきゃいけないと。
そうなると結局、
自分というものが存在するからには
自分というものよりも
自分を存在たらしめている
より大きな存在というものが
あるはずだとかね。
この宇宙とか世界というものが
ある種この土台としてあるならば
その土台を作った人とか
存在もあるはずとか
というふうに
毎日普通に想像しちゃうよと。
そうやって超越的なものを
想像しちゃうって話だよね。
今回の言葉で言うとね。
だからこそ実存があると思うから
超越的なものを求めるし、
超越的なものがあってこそ
実存というものがある
というふうに人は
捉えるんだけれども
違う違うどっちも無常だ
そもそもエラーだっていうのが
仏教的なとか
南さんがおっしゃるようなこと
なんだろうと思うんだよね。
うんうんうんうん。
その世界に立つと
兄貴も僕も別に
実存じゃないから
存在しないから
大丈夫大丈夫みたいな。
苦しみも何もないよみたいな。
だってあなたどこにいるの?
みたいな話になっていくんだけど。
感覚としてはやっぱり
受け取りづらいよねっていう話。
まあそうだよ、腹を減るしね
痛いしみたいな。
そうそうそうそう。
だから前回の時に
臨済さんという人やったと思うんだけど
うんうんうん。
この本でも出てきたんだけれども
臨済さんは悟ったら
何が変わるんですか?
と弟子に言われた時に
何も変わらんと
日々ご飯を食べて寝て
暮らして生きて
そうするんだみたいな話をしてて
うんうんうん。
あれか
善の社会観だね。
善の社会観としては。
悟りっていうのは
何かを実践することでもないし
何か変化が起こるわけでもないし
ただ同じことやってるんだけれども
見てる世界とか
過ごしてる世界ってのは
前回のまさに有意識の話だよね。
うんうんうん。
それは全然違うんだぜみたいな
っていうことが
僕も本物的に結構
そこが半歩ぐらい
分かってきた気がしてて
悟りに近づいてる気がする。
悟りは近づくとかって
ものじゃないんだなって
ことが分かってきたんだよね。
なるほど近づくと表現した瞬間に
達成する気持ちとかさ
階段を登るみたいになるから
うん。
悟りとしてあるみたいな
そういう風になるんだって
発想的に。
別に
仕事とかね
こういう話をしてるときは
全然もう
カンの早いといますみたいな感じなんだけど
ちょっと寝る前とか
24:01
ゆっくりしてるときは
いないかもみたいな
別にどうでもいいかもみたいな
結構そういう時間を
ちょっとずつ最近増やすようにしてて
怪しい話かもしれないんだけれども
怪しいよね。
ここから聞いた人はもう
このラジオやべえ大丈夫だなと
はい。
大丈夫ですよ。
変なんですけれども
逆に言うと
いわゆるどうしても悟ったら
オッケーとか
悟りさえすれば
自分の人生安泰だ
みたいな風に思ってた。
結構3年前ぐらいまで
全然思ってたんだけど
そうじゃないなっていう風に
自分の中で結構
アップデートされてきたっていうのは
結構いろんなことを学んできて
良かったなっていう感じがありますね。
なるほどなるほど。
確かにそうだよね。
前の仏教編とかさ
いろいろやってきたけど
禅とかね。
確かに悟りがそもそも
あると思っている時点でおかしい
そこがゴールであると思っている時点で
やっぱり違うし
ある意味そこがスタートでもあるし
ただスタートっていうと
到達線な感じがするから
さっきの禅みたいなね
常に悟りとともにあるのだ
ご飯を食べても悟りらしいみたいなね
その境地って言っても
そのゴールっぽいから
本当に難しいんだろうね
その表現がね
そこに至った人からするとね
そうでまさにそれを書いてて
本の中にもね
やっぱり仏陀は悟ったとは
言ってるんだけれども
悟りとは何かみたいなことは
言ってないっていうのは
説明してないと
悟ったらこうなる
こうなるというか
説明してくれるんだけど
結局悟りとはこういうもんだって
定義みたいなのはやっぱりしてないんだよね
なるほど
何が起きたかって言うと
やっぱり仏陀が亡くなった後に
みんなが悟ったって言ってるんだけど
でも誰もそれを評価できないみたいな
面白いね
自分でも他人でも証明できないんだ
証明できないから
ある種
仏陀と同じことをした
それで自分が悟ったと言ってる人は
悟ったことにしようみたいな感じで
いわゆる修行っていうものが重視されるとか
座禅を組んで
仏陀が悟ったんだったら
やっぱり座禅が大事だっていうことで
座禅をみんなするみたいな
なるほど
そうそうそう
っていう風にどんどん後の人は
試行錯誤しながら
受け継いできたみたいな感じがあるらしいんだよね
そっかちゃんと
難しいね
それはすごく今回のテーマ
テーマって雑談の時に
話からすると
その徹底具合ってすごいね
そうなんだよね
ある意味作った人
仏陀がそれを作って残そうと思ってたかもしれないけど
27:00
聞かれたら多分答えとは言ったんだろうけど
そうだね
そういう人ってさ
もう残しちゃいそうじゃん
定義というかね
そうそう
だから
ただそれを残した瞬間に
たぶん悟った人からすると
矛盾してるんだよね
そうなんだよね
その行いがね
仏教とはこうであるみたいな
例えば
本みたいなものを書いたりとか
はいはいはい
ルール集
ルールブック作っちゃうと
もう矛盾してるからアウトなんだよね
そう
フリオ文字に近い感覚か
そう近いというか
まさに全員はそこを取り戻そうとして
フリオ文字と立てたという感じなんだよね
そうなんだ
もちろん勉強もするしやるんだけど
やっぱ文字にとらわれないとか
文字にしない
一対一の対話の中で出てくるものは
まだ許そうというか
そういうものはあり得るけど
やっぱりそれが
言葉の時にやったというか
言葉ってある種実態じゃないという話は
してきたと思うんだけど
やっぱり言葉にして
一人歩きした瞬間に
意味が固定化されちゃうから
それっていうのは
仏教的にはアウトというか
絶対に間違ってる
やっぱり空である
しか言えないしでも
空であり空でないって言わないと
やっぱり空であると言った瞬間に
空が超越しちゃうから
ダメみたいな
なるほど
いやー面白いね
道って感じがするね
いいね
まさに道なんだよね
武道とかもやっぱり
究極の一番強いのって
何やみたいな話
答えないじゃん
剣術にしても
空手とかにしても
最強とは何か
やっぱり一番強かった人みたいなの
創始者はいるだろうけど
そういう人はこうすれば
強くなるよみたいな
こういうふうにすれば
強くなるよとかって
残してないもんね
創始者そのものが
晩年に
よくエピソードだし
グラップラーバキとかでも
そういう
達人をオマージュした人が
いっぱい出てくるんだけど
もう達人の達人が
昨日まで俺は拳の握り方が
分かんなかったんだとかって
言い始める世界じゃん
そうね本当にそう
あれにブッダもそうだよね
自分が悟りの境地に達したのだと
多分言わずに死んでたんだろうね
多分ね
一応悟りを開いたとは言ってたし
一応自分の教えてあげよう
というふうに言ってたんだけれども
だから
むしろ
本当にそうなんだけど
探求するとかってなくなるんだよね
30:00
探求する我もなくなるし
探求するものもなくなるから
そうなの
うん
その境地に行っちゃうと
もう
自分
そのものしかないみたいな
だから武道とかでも
空手の市販があるじゃなくて
空手があるみたいな
空手もないみたいなこと言い始めるね
空手作った人が
空手もないのだみたいなことをね
そうそうそう
明神殿とかって前言ったと思うけど
弓のさ明神がさ
弓を持たずに鳥を落としてさ
その弟子が
弓を持たずに私も
撃てるようになりましたって言ったら
弓ってなんだっけとかって言っちゃうみたいな
確かに
そっかそっかそっか
そうだよね
早くもまさに弓道を得てたから
そういう道的なね
そうだよね
まあそうだね少しだけだけどね
やっぱりそういう
理想の教室か専任的な感じで
はあるけれど
やっぱりその自分っていう感覚が
どんどん落ちてく感じはさ
やっぱり殺人とかね
そういういわゆる老齢の方とかって
なんかイメージとしてもあるじゃない
俺は強いとかっていうものがなくなって
いやいや私なんてみたいなさ
うんうんうん
だからやっぱりそういう
なんていうのかな
いわゆるこう
突き詰めていった床先に
やっぱり何もないことに気づくとか
はいはいはい
うんなんかそういうこうなんだろうな
修行の果てに
修行など無意味だったのと
それこそ悟るみたいな
わーわーっていうか
すごい東洋的だよね
うんかなりそうだね
前回も悟りとはあれだよね確か
声をかけられた瞬間に
まだなくその瞬間に
ああと答えるようなものだみたいな
うんうんうん
そうですそうです
そういうのなんかもしかしたら
聞いたことあるしね
確かにね
武道とか球道とかで言ってもさ
そうそうそうそう
肩とかさなくて相手が動いた瞬間に
こっち側を合わせて
気づいたら相手が倒れてるぐらいの
そうそうそうそう
ある種呼吸があってとかさ
相手と自分が一体になってみたいな話って
やっぱあるらしいじゃん
すごいわからないけど
そうね合気道でそれ聞いたことある
あーやっぱそうだよね
相手と自分との境目がなくなっていくの感覚に
どんどんなっていくみたいな話を
本で読んだそれ
うんうんうん
そうそういうのはやっぱ身体的なものも
伴うだろうけれども
仏教の場合はもっと根源的に
そもそもない
相手と自分みたいなものもないし
それがなければ教会も当然存在しないし
みたいなやっぱり
だからといって別に
具合で存在
物理的に別に自分と相手がいなくなるわけではない
っていう
はいはいはい
33:00
そこが難しさ
空だからあらゆるものが消失してしまう
ニヒリズムだ虚無主義だ
ってことではなくて
そもそも虚無っていうためには
無と有がなきゃいけないから
無と有っていうもののそもそも
違いがないんだみたいな
そういうふうな世界にどんどん行っちゃうよね
確かにね
虚無主義にも確かに
有を前提してると言われたら
すごいだろうね
言われたらね
そうそう
それが違うんだってっていうのも
最近なんか
気持ちで言えるようになってきて
頭でじゃなくて
なるほどね
感覚で言われた瞬間に感覚が先に出てくる感じだね
違うんだけど
そうそうそう違うんだけど
なるほど
最近ね結構
そういう話をしてるから
この前ちょっとごめんなさい
自分の雑談
話した時にも
なんかこう
天才性とは何かみたいな話をしてたのね
はいはいはい
その友達は
結構人事とかの仕事をしてるんだけど
社内で天才っていうような
いわゆるエンタメとかそういう系の
会社で勤めてる人で
やっぱり天才的な発想とか
そういうのを持ってる人がいると
はいはいはい
天才とは何が違うのかみたいな話をした時に
なんか僕が
やっぱり天才っていうのは
自我が出るんじゃないかなみたいな話をしたの
まさに今のそういう
修行みたいな話で
自我が何の人
自我が減ってる人
減ってる人ねはいはい
でもなんか彼らは見ると
すごいなんか
我が強いというか
子が強い気がするんだよねとかって言ってたけど
でも自我と子って違うじゃん
って話をして
おー
はてなのね
そう
子は拡大して別に子を広げるとか
いわゆる子っていうものと
エンタメっていうものを
一体化することはできるけど
うん
我とエンタメっていうのが分かれたら
それはもう分離してるから
天才性じゃないみたいな話をした時に
なんかこう
むしろやっぱり相手もそうでしょ
キョトンとしたらね
自我と子が違う奴なんだみたいな
そうですよね多分
でもそこで
やっぱり友人なので
ちゃんとそこで食らいついてくれて
なるほどねもしかしてこういうこと?
みたいな話をして
確かにみたいな
いわゆる彼が天才性を持っていると思っている人は
自分の作品とかをやっぱり
批判されるとめちゃめちゃやっぱり
攻撃的になるんだって
あーなるほど
それが彼からすると
我が強いからだと思ったんだけど
いわゆる作品って子が一体化して
いるから
結局そういう風になるんだけれども
別にそういう意味で
自分自身というものが
いわゆる留まっているかとか
36:01
強固なものになっているかとか違うような
もちろん自分自身というものが
作品に溶けていって
この作品と一体化しているという意味では
子が広がっているけど
自我っていうのは減っているよねみたいな話をしたら
確かにそうかもみたいなことを言ってて
うーん
ちょっとよくわからないな
わからないかな
時間が減っているか
でも面白いね
ぜひあれだね
どこかで天才とは何かもやりたいね
あー天才ね
雑談1回とかでも
4回使わなくてもいい
はいはいはい
でも天才性な研究とかもあるだろうから
そういうのを人と引っ張ってきて
やるのは面白いよね
ちょっとね今回
時間それなりに経ってきたからさ
ここから天才とは何かについて
語り始めるとさ
何か倍ぐらいいきそうだから
すごい興味あるんだけどね
面白いテーマだと思うんだけど
確かにね
やっぱほら最近太い印象を減って
あーはいはいはい
やっぱりある意味天才の一言で
片付けられないというかさ
そうねー
多分そういう意味での
天才って面白いテーマだと思うんだよね
はいはいはい
単純に先天的なものなのか
そこがどのぐらい
ブレンドされているのか
はいはいはい
天才を構成する要素
天才
いわゆる先天的な要素があっても
この部分欠落してたら
その天才性って発揮できないよねとか
はいはいはい
出てこないよねとか
天才だけでも世に認められない人も
多分たくさんいるわけで
その人たちは天才じゃないのかとか
うんうん
定義からそもそもとか
はいはいはい
受け取れてないのかとか
本人は天才って言われてる側は
どう思ってるのかとかね
はいはいはい
すごい面白い話だと思う
そうねー
結構そんな話もしたな
ちょっとだけその話だけしちゃうと
最近新聞でも
いわゆる狂気なき天才
みたいなタイトルの記事があって
狂気なき
狂気なき天才
いわゆる大谷さんとか
将棋のね
すごく人柄も穏やかだし
別にスキャンダラスなこととかも
全然ないじゃない
まあそうだね
人柄もすごく評価されてるタイプだよね
そうそうそう
ちょっと前
30年前とかって
天才ってどっちかっていうと
スキャンダラスであるとか
ちょっとアウトローな感じ
むしろ狂ってるみたいな
北野たけしみたいな
絶対人格者なんだけど
ちょっと怖い部分が
前に出てくるというかね
雑誌
出版社襲撃してみたい
ちょっとやばい
絶対大谷にやらないでしょみたいな
絶対やらないと思う
事件とか起こさないじゃん
39:01
政務署に勝ち込まないよね
勝ち込まないと思う
やっぱりある種
それが天才性の
なんだろうな
一つの証明だみたいな話が
ちょっと前はあったと思うんだけど
今はそうじゃないよっていう意味で
狂気なき天才っていうタイトルが
あったんだよね
そういう意味でも
そもそも天才っていうものの
イメージが世の中で変わってる
っていうのもあるだろうし
あとはやっぱルールがある
っていうのも大きいなと思って
野球っていうルールの中で
二刀流っていうのが映えるとか
将棋っていうルールの中で
あれだけの序盤中盤終盤
っていうところの
天才の強さっていうのが
際立つみたいな
だからやっぱり
物差しは何を測るかっていう
天才を測るためのルール
っていうのが
あるかないかみたいな話でも
結構大事だなとは思うんだよね
なるほどなるほど
あとは
あれかもね
天才になるのも
難しくなってきてるというか
こんなに多様化が進んでるから
結構マスじゃないというか
マスメディア的な感じで
天才天才って盛り上げれば
天才になるわけでもなくて
結構
本物じゃないと
北尾崎氏がどうこうという話とは
もうその話とは
全然違う話で
演出された天才も
作りづらくなってるのかもね
それはあるだろうね
本物の天才が
本物じゃないと
そうやって
化けの皮じゃないけど
そうそうそう
化けの皮そうだね
結構僕思って
天才は言っても
異人はもう生まれないだろうなって
結構思ってることがあって
そうなの?
例えばレオナルド・ダ・ヴィンチみたいな
絵も描いて
学問もして
いろいろやってるじゃない
今度は異人の定義について
相談しないといけないけど
レオナルド・ダ・ヴィンチみたいな
そうそう
ダ・ヴィンチみたいな人とか
やっぱり仲が生まれないだろうな
これだけ世の中が
細分化してとか
実際は悪いことっていうよりは
なんだろうな
世の中そんなに変わってるだろうな
みたいなことも思ったり
そんな感じでいろんなことは
考えてるんですけど
今回は2つの本を
いくつか紹介できなかったわ
そう?
2つ紹介してくれたんじゃないんだ
そうしようと思ってた
これ1個だけ
途中インドの話とか出てきて
すみません
フワッと紹介したのかな
東洋の話の中で
ただ読んだよって話
それだけ最後紹介すると
イノッチの手紙っていう本があって
42:00
イノッチの手紙っていう本があって
これ
坂口強平さんっていう
なんだろうな
もともと建築のお仕事とかされてて
いまいろんなパッセル画とか
描いてるような人があるんだけど
その人が
イノッチの電話ってあるじゃないですか
聞いたことある
いわゆる自殺とか
いわゆるそういうことを考えたときに
掛けてくださいって
そこに掛けると
24時間話を聞けますよって
いうようなときに
取り組みがあるんだけれども
最近そういう有名人が
自殺してしまったみたいな
記事とかの下には
必ず書いてるよね
そうそうそう
やっぱりね
いわゆるセーフティネットとして
あるんだけれども
あれの問題点として
結局電話がつながらんっていうのが
あるんだよね
そんなに人気なの
そう
そしてやっぱり
自殺っていうのがあって
全然掛かりませんと
結構僕は
もともとカウンシリングとか
やっぱりなろうと思ったときに
やっぱりそういう
いわゆる自死とか自殺みたいなものって
すごく自分の中でも
別に周りでそういうことが
起こったわけじゃないんだけれども
やっぱり世の中にそういうことがあるっていうのは
課題感を持っていて
できることがないかと思って
考えたときにそういう現実を見て
なるほどここには問題があるな
そうなんですけど
坂井さんっていう人は
いのちの電話っていうのを作って
自分の携帯の番号をオープンにして
ここにかけてこいと
うーん
そしたら絶対出るからって言って
10年くらいそういう活動をしてたんだって
そうなんだ
ご飯食べてるときも
家族で寝てるときも
自分の仕事をしてるときも
電話がかかってきたら出て
どうしたんみたいな感じで
続けておられました
すごいなと思って
なんとなくはしてたんだけれども
全然その後はあんまり
思ってしなかったんだけど
いのちの手紙っていう本は
坂口さんという人と
あと精神科で結構有名な
斉藤玉樹さんという人がいるんだけど
ふんふんふん
この2人のテキストとかメールのやり取り
っていうものを本にしたやつなんだよね
へーそうなんだ
実際坂井さんが
相特性障害っていう
いわゆる精神病に
ご自身がかかっていて
そういう状態で
斉藤さんという精神科医の人からすると
そんな人が
まさに
つらい思いを抱えている人が
電話を受け取るなんて
本当にやめた方がいいと
それこそ自分をどんどん
追い詰めてしまうんだ
みたいなことを思って
見てたんだけれども
なんかやればやるほど
45:01
元気になっていくぞこの人
坂口さんはみたいな
へーなるほど
本当に興味を持って
それってなんでなのとか
そもそもどういうことをしているのとか
専門家の目からすると
言っても素人なわけだ坂口さんという人は
素人が全員でやっぱりそういうことをやって
むしろ悪くなったというか
愛を与えるようになったっていう
事例をいっぱい見てらっしゃるから
あーあるんだね
素人が相談に乗っちゃうみたいな
そうそう乗っちゃうとか
良かれと思ってやって
やっぱりうまくいかないみたいな
友倒れしちゃうとか
やっぱりあったから
坂口さんは大丈夫だろうかと思って見てたんだけど
なんかうまくいってるようだと
それってなんでなのみたいな話を
お互いにやりとりしながら
解き明かすというか
語り合っていく
平和していくみたいな感じの本なんだよね
へーはいはいはい
これはすごい面白くて
まず
自分を
そういうのってできたらいいのかって
ちょっと思ってたのよ
要は自己犠牲的な精神って
やっぱり美しいって思う瞬間があって
マザーテイストじゃないけど
自分を身横にして
人を救うみたいなのって
やっぱりすごく素敵だって
思ってしまうのですよ
でもやっぱり
言っても自分の生活もあるしなとか
自分の家族もいるしなっていう時に
できないよねっていう
でもそれができない自分って
弱いんじゃないかみたいな
そういうことを思ってたんだけど
やっぱり佐藤さんの話を読んでても
やっぱりすごく
本人はもうそれが別に
苦しくないと別に楽しいと
自己犠牲っていう風に思ってないと
うんうんうん
今は辞められてるから
ちょっと心境変化とかあったとは思うんだけど
当時の話でいくと
別にそれっていうのは
自分は別にできるからやってることだし
できなかったらやらないと
自分はやっぱり仕事が懐かしかったら
一応出るけど後で折り返すから
待っててって言って切るとか
家族と過ごしてる時に
ご飯を食べて優先したかったら
出ないとかっていうことは
ちゃんとある種切り分けてやってるんだよね
うんうん
なるほどなるほど
やっぱそれはある種
個人が勝手にやってるから
そういう判断ができる
今は功績のものとか
お金を取ってやったら
絶対それ上手くいかない
っていう話の中で
やっぱり作業師さんは別に
やりたいこととかやれることを
やってるだけだから
それを他の人には
押しつける気もないし
誰かに教えるって言っても
いっぱいやってみたけど
やっぱりうまくいかなかった
みたいな話が書いてあったんだよね
そういうのもやってみたんだ
そうそうそうそう
だからそれを読んで
そうだよなって
自分ができることをやってる以上のことは
ちょっと納得できて
うんうんうん
48:01
ある種自分が
こういうのをやれた方がいいんじゃないかって
ちょっとでも思ってたことを
実際にやってる人の言葉を
かつ精神科医の方と
ベースのアイドルをしてるから
この方の本
そこまで読んだことあるんだけど
結構発想が強いとか
やっぱりちょっと理解できない
みたいなこともあって
なかなかスッと受け止めきれなかったんだけど
この命の手紙っていう本を読んで
すごい
結構冷静に入ってきたというか
理解できたというか
うんうんうん
そういうのがあったから
さっきのミナミさんっていう
超越実論っていうのもそうなんだけど
やっぱり今ちょうど自分が
もうちょっとこれやれた方がいいんじゃないか
それこそ出帰して
お坊さんとかじゃないかとかさ
そうそうそう
そういう自己犠牲の精神も含めて
世の中にできることがあるんじゃないかとか
ちょっと思いはちなことを
読んで
別に自分はそうじゃなくていいやっていうのを
逆に思えたみたいで
はいはいはいはい
そういう意味で
すごい良い本だったんですっていうのを
ちょっと喋りたくて
今日は喋っちゃいましたみたいな感じですね
それは良い気づきだね
確かに
やっぱり当時は自己犠牲が尊いものだって
本当にその心の底から
自分の中から湧き上がる感情であれば
多分もうやってると思うんだよね
そうなんだよね
だからそれはやっぱり
多分思わされてる部分だったりとか
何かに操られてる部分って絶対
そうそうそうそう
そのバランスが必ずしも100じゃないとこが
多分難しいとこで
湧き上がるのを2で思わされてるのが8とかだと
実際やった時苦しいかもしれないしみたいなね
そうそうそう
自分で認識していくっていう
坂井さんは別に自己犠牲だと思ってないんだよね
うんうんうん
だからやっぱり自己犠牲っていうのは
周囲が見てあんなことは普通はできないから
きっと何かを犠牲にしているであろうとか
うんうんうん
自分の時間とか家族との時間を犠牲にしているであろう
って言ってる場合なんだなって思ったし
はいはいはい
自分の感覚との差を
ただ尊い表現してるだけに過ぎないとね
そうですそうです
だから別にそこに
坂井さんが何か言ってくれたより
外からの価値観を持ってただけだなってことにも
気づけたから
うんうんうん
何か無理しなくていいやっていうのを
思えたっていうのもあって
はいはいはい
そう
なかなかいいタイミングでね
そういいタイミングって言ったら
僕は今ちょうど2月で誕生日を迎えて
34歳になったんですけど
おめでとうございます
ありがとうございます
なので34歳はそういう
改めて無理しないというか
自分らしく
自分っていうものがないから
自分存在しない自分らしく生きる
うんうんうん
そういう感じのテーマで
生きていこうかなと思って
51:01
なるほどね
仏教と現世の狭間だね
自分らしく
自分らしく生きるのがいいのか
っていうところを含めてね
そうね
自分らしさっていうものがあるかは知らないけれども
でもなんかあるよねっていう
別に自我がなくても
自分っていう存在はあるから
否定できないものとして
ファンのハエトっていう存在として
生きるらしさって何だろうみたいな
うんうん
さっきの坂口さんのケガ
坂口さんのね
その方はその電話
命の電話をしたようにね
自然に
確かにな
それをみんな分かれば苦労しないんだけどね
難しいよね
自分らしく生きるという縛りもまた難しい
そうそう
素朴な感情なはずなのに
そうそう
だから素朴なように
自分のこれができないとか
あれをやらなきゃダメなんじゃないか
っていうよりは日々生きていく中で
何かできることを少しずつやっていきましょう
みたいな
そんな感じだよね
そこで虚無主義に走らないようにと
バランス取りながら
そうそうそう
なのでそんな感じで
普段は結構哲学者とか
何だろうな
という話をすることが多いですけど
僕もこういう哲学とは
また違うような話とか
小説とかも元々好きで
最近読んでなかったんだけど
読みたいなとかって思ってるものがあるんで
はいはいはいはい
そういうのもお話し
気になったものがあればできていけたら
楽しんでいただけるんじゃないかな
と思った感じですね
うんうんうん
分かりました
結局結構経っちゃった
結構しめったね
はい
今回は他者編というところは終了なんですけれども
次回ですね
正義編ということで
はいはいはい
正義もね色々あるんだけど
それはまた次回に置いといて
あくまで西洋哲学の中で
正義というものがどんな風に扱われているのかもそうだし
またやっぱり正義とか正しさみたいにすると
すごく身近なテーマでもあるので
うんうんうん
その辺りをちょっと兄貴ともね
話しながら深めていきたいなと思って
というような感じでございます
分かりました
そうだね
他者をやる中で
兄貴とは何かっていうね
そうそうそうそう
ぜひぜひ深掘りしたいなというところで
楽しみにしていきたいと思います
では次回も引き続きよろしくお願いします
お願いします
今回もありがとうございました