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  2. #377 明るい葬式のススメ?荘..
2025-12-10 46:49

#377 明るい葬式のススメ?荘子の世界観における生と死の境界線

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

荘子の世界観に基づいた葬式の考え方が議論されています。生と死の境界についての理解が深まり、死は休息や変化の一部として捉えられています。このエピソードでは、荘子の世界観を通じて生と死の境界について考察されています。天地の自然と一体化し、死を恐れない生き方が提唱され、鍛冶屋の比喩を通じた認識の変化が共有されています。ポッドキャストでは荘子の生と死の観点が探求され、死と生が地続きであるという思想が議論されています。生きることと死ぬことの境界線が曖昧にされ、哲学的な視点から日常生活における価値観の再考が促されています。荘子の視点から生と死の境界線について探求し、葬式を明るく迎える考え方が提案されています。

葬事の始まりとテーマ
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回は葬事第4回ということで、死に関して見ていくというような話でした。
そうですね。前回ですね、震災と座望っていう、ちょっと言葉は難しいですけれども、
心を空っぽにしましょう、体も忘れてアンラーニングしていきましょう、みたいな、そんな話をしたかなと思うんですよね。
ある種、もちろん生きている世界には自分というものもあるし、他人というものもあるんだけれども、
それを溶かしていって、さらに外にある言葉を越えた世界としての他王の世界、道の世界ではね、
そういうところと繋がりましょうというところを常に見ているわけですよ、葬事は。
そうなっていくと、どういうふうな生き方というか、死に方も含めて死生観ができてくるんですか、というところが今回のテーマなんですよね。
もっと言ったら死について。
まあ確かにそうだね、いろいろ区別しないみたいなところでいくと、生と死もどう区別するのかしないのかみたいなね。
やっぱりさ、普通に僕ら生きている世界においてはさ、やっぱり生きることって、生きることが辛い苦しいっていうのはあると思うけれども、
やっぱり死ぬことはもっと恐ろしいとか。
もちろんね、その死は救いであるみたいな発想もあるけれども、
あとはやっぱり誰しても本当に今死ぬんですよって言われたらやっぱりちょっと躊躇すると思うんだよね、もちろん。
まあね、私だと逆もしっかりというか、完全に分けてるもんね。
生が苦しくて死こそが救いだもんを、ただの逆というかね。
そうそうそう、一緒だよね。どっちかにやっぱり救いがあるとか、どっちかの方が良くてどっちかが悪いっていう発想っていうのはなかなか超えられないと思うんですけれども、
第2回の万物正道の時にも言った通り、善悪の区別がないのと同じで、生死の区別もありませんと。
いうふうなことを言ったと思うんですよ。
やっぱりこれがなんでっていう話だと思うので、今回はそこをお伝えしていくような、いろんな物語的なお話とか、
草寿の中のエピソードをお伝えする中でお伝えていこうと思ってますっていう感じなんだよね。
エピソードの紹介
結論としては、生死、生きる死ぬって分かれてるんじゃなくて、季節が巡る。春が夏になって、夏が秋になってみたいなさ、そういうのがあった時に、それと一緒なんじゃないみたいな感じなんだよね。
へー、そうなんだ。
そのぐらい軽やかな感じに捉えていくんで、その世界観を味わいながら、理解できるのかなとか、わかんないなとかっていうところを皆さんと見ていきたいと思ってますっていう感じなんだよね。
はいはい、どんな感じなんだろう。
では早速なんだけど、これも第2回からお伝えして、前回も触れた奥さんが亡くなった時の話、エピソードがあって、これもちょっと本当かどうかだったりするんだけれども、ちょっとお伝えしていこうと思っていますよと。
そうね、ソウジの奥さんが亡くなったんですけれども、その時に弟子かな、兄師っていう人がいて、この人が弔うんですよね、奥さんを。
で、あった時に、ソウジは、自分は一生懸命、兄師さんからすると弔うっていろいろやってんのに、あぐらかいてお盆を叩いてうたうたってるみたいな状況だったらしいんですよ。
そう。なんだこいつみたいな。おいおいって。一緒に暮らして子供を育てて、年を一緒になっとってさ、生きてきた人っていうのが亡くなったのに、その死に涙を流さないだけでもよほどなのに、盆を叩いて歌を歌ってるってひどくないみたいな。
ああ、はいはいはいはい。
当時からすると、やっぱり何かね、模範不屈じゃないけど、そういう時に、ちんとそこに気持ちを寄せるとか、悲しむっていうことが当たり前というか、むしろそれが礼儀みたいな世界なんだよね。
いやー、そうだよね。確か国礼だっけか、泣いて泊まるというか泣いた人とかにね、ちゃんとルールがあるはずだもんね、中国の時の。
だから、明らかに不自然というか、どう考えたらおかしい振る舞いなんだよね、掃除の振る舞いは。
それに対して掃除が言うのよ。いやいやそうじゃない、あなたは思い違いをしているんだと。
これ大事なのは、掃除が言ってるんだけど、奥さんが亡くなった時には、私も失ったことの大きさを感じて悲しかったんだと。
でも根本に立ち返ってみると、もともと性などなかったじゃないかと。奥さんも別に生まれてはいなかったところに生まれてきたというところじゃないかと。
で、その性がなかっただけじゃなくて形もなかったし、形がないだけじゃなく図もなかった。これ前回の話だよね。
そうすると奥さんというのはどこかから生じてきたんだけれども、そうやって変化であって、今また変化をして地に向かったんだと。
これはつまり、春夏秋冬の四季の巡りとともに動いただけであって、奥さんというのは、もちろん部屋の中で目を閉じてもう動かないんだけれども、
奥さんが亡くなって部屋の中で目を閉じてもう動かないっていう時に、私、そうじゃあ涙を流すしかなかったんだけれども、
これって命っていうものを知らなかった。そこに通じてなかったからだけであって、根本に立ち返ってその移り変わりっていうものを理解した時に、私は泣くのをやめたんだっていう風に言うんだよね。
これどうですか?
なかなかこう、どう捉えようみたいな話なんだけど、
このエピソードを聞かないと、結構なんか変なのって感じだけど、ちょっと無理やるんじゃないみたいな、人の気持ち無視してみたいな感じになるけど、
このエピソードを言うと一回めっちゃ悲しんでるんだもんね、ちゃんとね。
そうなんだよね。そこが大事で、やっぱり掃除って悲しむのがダメだとか、前回も言ったけど、震災ザボーっていう時にあらゆるものをなくすのが良い。
もう言わないんですよ。そうすると善悪になっちゃうじゃない。
前回のエピソードでも、孔子と弟子がいた時に、弟子が私は礼儀を忘れました、人儀を忘れましたとか、音楽を忘れましたっていう時に、いっぱいいいねいいねってちゃんと肯定してるんだよね。
つまり、最初から空っぽだからそれが全てだとかっていう風に言わないんですよ。
ちゃんと奥さんが亡くなったら、やっぱり泣くし悲しむし、それが人間だよねってベースはあるんだよね。
そのベースの上で泣き続けるっていうところが、命とか運命とか道っていうのを知らないやつだってことになるから、
それはおかしいって言って、そこでピタッとやめられるっていう、そういう風な人物像なんだよね。
いやー、そうはね。だからある意味、それまで孔子自身が他王みたいなところをある意味自分でやってきた中で、
たぶん初めて触れたんだね、そんだけ悲しい出来事にね。
まあそうだね。最悪奥様が亡くなった時にはそういう気持ちになったんだよね。
で、それと自分の感覚をもう一回考え直すと、あれっていう風に思ったみたいな。
その感覚は確かに、これを個人的なエピソード、奥さんの死を乗り越えるための個人的なエピソードと捉えるか、
他王として捉えるかみたいなところがまた面白いかなって思うね。
これ面白くて、やっぱり前回の個人の幅みたいな話をしたと思うんだけれども、
仮に掃除という人間を持ち出した時に、やっぱり泣かないとか悲しまないっていうのも幅から外れてるんですよね。
だって悲しいじゃないですか、奥様が亡くなったらね。
でもそれをちゃんと悲しむっていう自分の幅を捉えた上で、
でもそれは道とは違う、運命とは違う、分かってないやつなんだっていう風に見れるっていう、
この二重の視点がやっぱめちゃめちゃ大事なんだよね。
生と死の理解
はいはいはいはい。
だから悲しんでるなんて道を知らないとか、
要は気持ちが乱されてるなんて修行が足りないとかってことじゃなくて、
悲しむのも私、でもそれを乗り越えて道と繋がるのも私っていう、この両方が大事なんだよね。
うんうんうんうん。
そういうのはわかったとしても、相次さん個人の話じゃないですかっていう感じになっちゃうんだけども、
もうちょっと抽象的な話というか、どういうふうに捉えたらそんなことができるのっていう話もあって。
あーなるほど。はいはいはい。
今日はエピソード多めなんだけれども、
ちょっとそれがどんな話かというと、
やっぱり生きる死ぬとかって、当然第一海賊は戦国時代なので、あまりにも日常なんですよね。
やっぱり当然死にたくない、死ぬよりは生きていたほうがいいって思うのも当たり前なんだけれども、
そこに対して相次が言うんですよと。
死があり生があるっていうのは運命だと。
つまり生と死が一緒だとは言っても、やっぱり僕ら生きている世界にはそれはある。
っていうのは、夜と朝っていうものがある、切り替わるっていうぐらい自然なことなんだよね。
だからそれはもう人間の力ではどうしようもないと。
そうなんだけれども、その生と死っていうものをうまく捉えていけましょうっていう話があって、
どう捉えるかっていうと、そもそも自然。
これは3つと言ってもいいんだけど、そういう働きがあったときに、
それは我々をバイツの上に乗せる、要はこの世界に乗せるために肉体を与えて、
我々を労働させるために生を与えて、
我々を安楽、楽にするために老年、年を取るっていうのを与えて、
我々を休息させるために死をもたらすんだと。
つまり死は休息だっていうふうな発想が生じるんだよね。
なるほど。
なので、生と死っていうものは実は地続きであって繋がっている。
生きている間、若い間苦労したところを死んで初めて安らげるみたいなことがあったときに、
初めて安らかであるっていうときに、
生きるっていうものは良しとして、死っていうものは悪いとすることじゃなくて、
自分の生を良しとしたら死も良しとしなきゃいけない。
っていうふうに考えていくんだよっていうふうに言ってるんだよね。
なるほどね。
そういう発想も分からなくはないと思うんだよね。
そうだね。確かに今の話で聞くと、やっぱりさっきのエピソード、
奥さんが亡くなったときにめっちゃはしゃいだみたいなのは、
なんとなくこの絵に作られたエピソードっぽい感じはするよね。
そうだと思うね。
そこはもう真偽は誰にも分からないからだけど、
無用の世と同じような、今の掃除のね、
生きている時代の一般的な感覚の絵のアンチテーゼというか、
カウンターとしてみんな気づけよというような行動としてのインパクトがあまりにも強いから。
そうだね。
それがメッセージ的なところで、やっぱり本当に一緒なんだったら、
別に死んでも生きても普段通り生きてるみたいな思想があるし、
同時ないとかさ、何もしない、ただ日常を続けるとかってあると思うんだけれども、
そこで音楽を鳴らすっていうのは、要は別に、
それは悲しむべきことじゃない、喜ぶべきことだとか、
なんでもいいんじゃなくて、そういうふうに賑やかにする方がいいよねっていう、
やっぱりちょっとこのメッセージ的なものは入っていると思うんだよね。
ただそれもやりたかったらやればいいって話だったよね、掃除からすると。
そうね。だからどっちでもいいって話だよね。
しめやかに掃除してもいいし、賑やかに掃除してもいいし、
どっちでもいいよねみたいなのも同じだよね。
結局万物制度の話と一緒なんだけど、別にカレーでもラーメンでもいいんだと、
いいんだけど、それがどっちも同じだということをちゃんと通ってますかって、
ここに既に帰ってくるんだよね。
はいはいはい、なるほど。確かにこのエピソードだけ見ると、
しめやかな掃除は掃除的NGみたいにも見えるけど、
荘子における生と死の考え方
そういうことは意味してないんだよね、全くね。
そうそう、全く意味してない。別にそれでもいいんだよね。
泣いて、さめざめ泣いて、別にそれで自分が一番いいと思うならそれでもいいんですと。
ただ、そうやったらわかんないから、あえて泣くのをやめて音楽を鳴らしたっていう風に、
エピソード的にというか物語的にはしてるんだと思うんだよね。
はいはいはい。
もちろん、そういうことを自身が考えた時にやっぱりやりたくなってしまったってことかもしれないんだけど、
事実だと考えるとね。
どっちもありそうだもんね。
それはわかんないから。
みたいな話で、やっぱりそういう自然っていうものが僕らを作ったのであれば、
作ったこともそれが壊れることも一緒じゃないかって話だったりするし、
あともう一個面白い話があって、
ある種そういう変化がするじゃないですか。
前回、兄貴も最後の時に、自分の幅っていうものだけじゃなくて、
他のもっといい幅になれるかもとかさ。
象徴っていう幅になれるかもっていうところで、
なんかちょっと夢があるよねとかって言ってたと思うんですよね。
ああ、そうね。
そこの話でね、まさに面白いエピソードというか話があるのでこれも引きたいんですけど、
さっきさ、自然っていうもので僕らは生まれたっていう、
要は道で生まれたって言ったじゃないですか。
これ地下業の話より別の比喩で、
鍛冶屋、鉄を溶かしてものを作る人の比喩をやってるんですよ。
結構面白くて伝えたいなと思ったんだけれども、
その優れた鍛冶屋さんがいたという時に、
粉物、壺でもやかんでもいいんだけど、そういうのを作りましょうと思ってます。
で、鉄を溶かすんだけど、
その鉄が飛び出してきて急に、
いや、俺鉄なんだけど、どうしても名券になりたいんだよねみたいな。
すごい券になりたいんだけど、券として作ってくれよって言ったら、
きっと鍛冶屋びっくりするよねと。
で、この鉄だからちょっと触らんとこうって言って、
捨てられちゃうとは言ってないんだけど、そういう風になるよねっていう風に言うんだよね。
びっくりするね。
呪いの鉄じゃん、なんか知ってるって。
そう、で、それと同じように、我々ってその自然がさ、なんかね、こねこねして作られた人間となったんじゃない?
っていう時に、その人間が、いや俺はいつまでも人間でいたくって、
他のものになりたくないって言ったら、
その自然からさ、鉄と一緒じゃんっていう風に言うんだよね。
あー、なるほどね、この掃除の世界観の中ではそうなるか。
そうそうそう、鍛冶屋が自然とか道、タオで、人間が鉄になるっていう時に、
俺は絶対に人間でしかいたくない、嫌だ嫌だって言ったら、
壺なんか嫌だ、俺は明家になりたいっていう鉄と一緒だよねっていう風に言うんだよね。
あー、なるほど。
そうすると、その自然とかタオの目線からすると、
ちょっとあの人間なんか怖いなみたいな、
人間でしかいたくないとか言ってる、ちょっと怖いってなるよねっていう風に言うのよ。
おー、なるほどね。
そうそうそう、その道とかの目線からするとね。
で、我々が生きるとか死ぬっていうのもさ、
絶対に死にたくない、生きていきたいんだとかっていうのもやっぱおかしいことだし、
鍛冶屋の比喩
ずっと健康でいたい、死ぬまで病気になりたくないとかっていうのも、どうかってやっぱおかしいと。
はいはいはい。
っていう風なところもあって、やっぱりその大きな目線からすると、
何かになる、それは生きる死ぬもそうだし、病気になるならないもそうだし、
もしかしたら蝶々とかネズミとか、そういうものになるとかっていうことも、
全然あり得るよねと。
もっと言うと、前回おっしゃった新人とか震災座望の境地からすると、
空っぽなわけじゃん、心も体も。
ってことは別に何になってもいいんだよね。
まあそうね。
分かりました。私は別に人間でもいいし、ネズミでもなんなら、
別に虫でもいいですよ、何でもなりましょう、喜んでなりましょう。
それもあなたの鍛冶屋さんとか道っていうものの思うがままに従いますよ。
これがある種正しいというか、あるべき姿だよって言うんだよね。
さっき今、ハヤトが出したのはさ、虫でもみたいな全部生き物だったけれども、
これはフライパンでもいいし、石でもいいしみたいな。
もちろんもちろん。
朝顔でもいいし、朝顔も生きてる感じがあるから、
石とかね、生きてるみたいな。
木物でもそうそう、何でもオッケー。
オッケーね。
はい、これであなたも新人ですって感じなんだけど、どう?
いやあ、新人?
なるほど、今の感覚がある意味この掃除のタオルの、
あの、到達点じゃないけれども。
そうそうそう、これがやっぱり理想の状態だよね。
やっぱタオルの目線から見て、タオル目線でこいつやるじゃんって思われてるわけだから。
なるほど、今すごい唐突になんか終わった感じがしたけれども。
違う違う違う。
なんかすごいここまで4回聞いて思ったのが、
この掃除のタオルってさ、やっぱなんか、
雰囲気だけ聞くと、無であり有でありみたいなさ、
結構こう、ほんと捉えどころがないし、何言ってるかわかんないし、
気の持ちを次第じゃんみたいなさ、イメージがあったんだけど、
なんかここまで聞いてすごく絶妙なバランスで成り立ってる気がしてきたんだよね。
ついにそこを感じられました?
わかんない、ハヤトに思わされてるだけ説もあるんだけど。
ここまで聞いた感じね。
今まさにハヤトが言ってくれたように、
こういう結局一つであるみたいな話になると、
もう善も悪もないし、私もあなたもないしみたいな話になると、
で結局何なの?みたいな。
で結局自分はどうすれば?みたいな。
そこでこうふわっとして終わっちゃうっていうのが常だと思うんだけど、
この掃除に関して言うと、そこで終わらずにちゃんと、
とはいえ全部が一つなんだけど、
とはいえあなたはあなたですよみたいな、
自分の存在と自分がどう生きていくかみたいなものが、
ちゃんと残ってる感じがして、
その絶妙なバランスが面白いなって思い始めた。
嬉しい。
これはある種それ手伝いとされているというか、
僕が理解した掃除を今伝えているから、
その色が強くなっているとはもちろんあると思うんだけども、
やっぱり今僕が掃除面白いって言って、
ピエラドさんから続けてやりたいって言って、
わがままでやらせてもらってるのも一応そうなんだけれども、
まさにこのめちゃめちゃ絶妙なバランスを取りやすい話だと思ってたよ。
何かって言うと、
全部さ、やっぱ全てが一つであるとかって言うと、
空とかさ、仏教っていうのになると思うんだけれども、
やっぱりめちゃめちゃ好きだけど、
やっぱりちょっと独単だなって最近思ってるのよね。
出家して、やっぱり俗世との交わりを離れて、
あらゆるものが区切りがないとか、
物体がないと思いなさい。
理想としてはそうなんだけど、
僕みたいな人間からすると、
でも家族も大事だしとかさ、
それが執着だって言われたらちょっとしんどいよとかって思っちゃうんだよね。
前回ピエラドさんの話したけれども、
古代ギリシアのソクラテスの話も結構したじゃないですか。
独輩、独人人あおって死んだよっていう時に、
やっぱり死の瞬間まで哲学者であったとかさ、
生を貫いたっていうことの素晴らしさはもちろんあるんだけど、
そうするとやっぱり死が恐るべきものとか、
その素敵な生を終わらせるものっていう、
そういうところにやっぱり限界が出てくるなっていうのを感じるんだよね。
はいはいはいはい。
なので死を恐れないために生を鍛えましょうとか、
その真というものに打ち勝つために、
やっぱりこういうスキルを身につけましょう、
修練しましょうみたいな話って、
それは大事なんだけど、でも本当にそれだけでいいんだっけ?
要は死ぬとやっぱりそれって無理になるっていうことと結構近いじゃない?
っていうふうなところをどうなんだっけってなった時に、
そうじて、ある種二層構造で捉えてるからさ、
言葉とか認識が働く世界と、
言葉を超えた道の世界、道は全部に繋がってるんだけど、
っていう二層構造で捉えた時に、
現実世界ではみんな現実だからいろいろあるよねと。
それを超えた、その言葉を超えた世界まで行くと、
それは繋がってるっていうことがあり得るんだよって言ってくれた時に、
ある種だから死ぬのも別に大きな流れの一つだから、
そんな悲しむことないよ、怖がることないよ。
もっと言うと本当に、さっき言った命が帰っていくとか、
そのタウンのところにまた戻っていくだけだから、
それってむしろ休息とか安らぎなんだよとかっていう
発想があってもいいじゃんってやっぱ思うんだよね。
生き方の新たな視点
割と僕がそうじに理想を押し付けてるところもあるんだけど、
そういうのを読み取ったことを今回抑えしてるっていう感じはあるかもね。
でもすごい確かに応用が効く気がするね。
例えばさっき言ったソクラテスみたいな話で言うと、
死への恐怖みたいなものがなかったとかじゃなくて、
これ多分想像だけど、死への恐怖っていうものと
自分の生き様とか使命感みたいなものを天秤にかけたときに、
死への恐怖よりも自分の使命感みたいなものが上回るマッチョさみたいなものとか、
マッチョさっていうのは思想的マッチョさね。
使命感でもいいし、信仰でもなんでもいいんだけど。
怖いんだけど、怖い怖い怖い、でもこっちのほうが大事みたいな感じで、
なんとか乗り越えるみたいなイメージでしょ、さっきハヤトさんが言ったら。
強さが必要だよね、やっぱり。
だから自分も生きてるうちに鍛えましょうみたいな部分とか、
時代によっていろんな価値観があると思うんだけど、
例えば武士がさ、家のためにとか、
主人のためにみたいなさ、
それも一つの死は怖いし、常にすごい身近ではあるんだけれども、
でもそれ以上に価値観とか、自分だったり時代の価値観のほうが上回ってるっていうマッチョさみたいなのがあったんだろうなっていうのを
今のハヤトの話が感じて。
それで言うと僧侶は、今のような、今話した価値観も肯定する。
そういう場所に生まれちゃった人とか、そういう個性として生まれちゃった人はそうなるよねっていうのを、
この僧侶の中だと、あとはハヤトが言ってる幅だよね。
そこであなたはそういうふうに生まれちゃったんだから、
座帽をして震災したとしても、あなたはそう言うでしょうと。
もう自然にお生きなさいと。
ただ、いわゆる普通の庶民の家の五男とか五女とかで生まれて、
別に運命として、生死が直関わるような場所にいないと。
日々普通になんとか生きていくだけですみたいな時に、
そういう人が死の恐怖を乗り越えるために生きているうちから頑張れ、
荘子の視点
来たよって言われても何をするかみたいな話になっちゃうわけで、
そういう人はそういう人で、自分のやるべきこと、生きるために必要なことをやっていきながら、
あとは生きて死んでお行きなさい、みたいなさ。
町は町で、みたいなさ。
実はバランスと応用の利き方?
確かに思ってたタオの怪しさとか無な感じと違うなと思って、
じんわりとタオの方に引き寄せられてる気がする。
洗脳ですね、これはね。
そうそう、洗脳だね。
歩きに今の話が本当に面白いなと思っているのが、
やっぱり前回もお伝えした通り、僕自身がやっぱり平等な人間だし、
別に重要な使命を帯びている人間でもない中で、
やっぱり西洋哲学、古代哲学的なやつは、やっぱりスタファ的な何かを鍛えるとかさ、
人生の目標立ててそこに向かって突き通すとかって、
できないなって思っちゃうわけよね。
一方ね、宗教を信じることはなかなか難しい。
本当は仏教とかキリスト教とかいろんなもので、
これを自分は信じて生きていくんだってものがあれば、
それってすごく豊かだなって思うんだけど、
なかなかそれに出会えてないのか、そういう人間じゃないのかわからないんだけど、ないんだよね。
やっぱりいろいろ放浪してきたときに、
相次がちゃんと包み込んでくれたというか、
そういう人もいいんだよって言ってくれた感はあります。
ただこれ大事なのは、とはいえ相次も戦国時代に生まれた思想家で、
当然やっぱり君主を勝たせるとか、政治を良くするっていうことに向き合ってたはずなんだよね。
大輝君も言ったけど、結構優秀で、小役人みたいなところから、
うちの首相みたいになってくれって使わずは来るぐらいの人だから、
絶対もっと現実世界、戦国時代の現実世界に役立つようなことを言ってるはずなんだよね。
だからそれは僕は読み落としているのか、あえて今回触れてないのかっていうところはあるんだけれども、
そこの生きた現実で、本当に生き死にがあるっていうふうな世界で、
いやいやでも死ぬっていうのも生きるっていうのも地続きだよっていうふうな話と、
今僕がノホホンと生きている中で、
死の危険っていうのは今の日本においてはある人もいると思うんだけれども、
やっぱりだいぶ減ってると思った時に受け取る生としては地続きだよっていう話ってもちろん違うはずだけど、
だからそんな簡単に自分は掃除に救われましょうっていう話でもないんだけれども、
自分みたいな人間、平らで別に使命もなく普通に生きていけますみたいな人でも役立つというか、
自分の人生を重ねやすいようなものじゃないかなと思ったりするんだよね。
いやー甘いなそれは。
甘いかな、ダメかな。
甘いな、いきなりね。
いや、なるほど、そうはね、でもそういう、なんていうの、何の広さだっけそれ。
幅?幅じゃなくて。
幅じゃない。
懐?懐の広さ。
そういう懐の広さは感じたし、さっきの応用力みたいなね、応用が低いみたいなところと同じかなと思ったんだけど、
結構やっぱりとはいえ厳しいなっていう。
厳しいは厳しいね。
まさにさ、ハヤトがさっき仏教とかととことん無になって、資料ダウンとか属性離れたみたいになっちゃうみたいな話をしてたんだけれども、
やっぱり今回この掃除の言うさ、震災と座帽が、
やっぱり東映、あなたはあなたままでいいんですって言っているわけじゃなくて、
ちゃんとこの震災・座帽をちゃんとやれよっていう話だと思うとすると、
無用のようだったりとか、今回の奥さん死んだ時にめっちゃはしゃぎますみたいな、
ある意味一般常識だよね、とか自分の中の固定された価値観とは逆の方向をやるみたいなさ、
そうしないとアンラーニングできませんみたいな話で言うと、
いわゆる仏教とか禅とかの修行が、いわゆるアンラーニングするための技術だったとすると、
それは納得できる気がしない。
それが分からない状態で修行とか教義じゃないか、やるべきこと、体系とかを見ていくと、
どんどん無になっていって最終的に無くなったりとか虚無的になったりとかに旗からは見えるんだけれども、
その修行みたいなものをひたすら、いわゆる一般常識っていうものをアンラーニングするみたいな、
だから普通の生活からも離れて、俗世から離れるところも含めてひたすらアンラーニングし続けますっていう時に、
どっかでこの相似で言うところのタオルの感覚、バランスが取れたところ。
だから今回ってエピソードのどっちかというと逆ぶりじゃん。
だからどっちでもいいっていう話が逆ぶりになってて、
武教修行も逆ぶりにしか見えない部分があるからバランス欠いてるよねって見える部分もあるんだけど、
それを成し遂げた人はやっとバランスいいところにたどり着くみたいな。
話で言うと、たとえば平らな自分もいいって掃除さんが言ってるんですよだけじゃなくて、
その自分っていうものを審査員とか座法の観点から見たときに、
適切にというか、ありのまま捉えてますかっていう質問に置き換えると、
それはできてませんみたいな話になるはずだから。
そうだね。
価値観の再考
そういった意味で、掃除に頼ると俺も許されたみたいな話は難しいのかなーみたいな。
そういう厳しさもあるなーっていう意味で面白いなーって思った。
そこは間違いないし、やっぱり教えだよね。
まさに武教とかはそうだけれども、
やっぱり仏陀っていう仏になった人がいて、ゴータマ・シッタルタさんだよね。
その人の修行法を身につけると他の人も仏になれますよみたいな話じゃないですか。
なのでやっぱりそこって一層の体系だし、
仏さん、ゴータマ・シッタルタさんっていう人がいるからそこを目指しましょう。
そこに至らないとしても近づきましょうとかって成り立つわけだよね。
はいはいはいはい。
面白いのは、タオっていうものは地獄で道教っていうお城になっていくんだけれども。
あ、そうなんだ。道教かこれ。
道教です。道教の話。
それって実はまさに老子だよね。
その掃除の前の老子っていうものが神格化されて大乗老君となって神様になっていくんだよね。
あー、そうなんだね。はいはいはい。
で、そこで目指すのは実は不老不死なんですよ。
あ、そうなんだ。
錬炭術とかって聞いたことない?
なんか聞いたことある気がする。
そうそう。結構漫画とかでも出てくると思うんだけれども、
そういういろんなものを取り込んでタオと一体化すると自分が不老不死になるっていうところを目指すような宗教になっていくんだよね。
なるほどー。はいはいはい。
つまりこれは、掃除は生も死も同じだって言ってるんだけど、やっぱりそれってあんまり受け入れられなくて、
もっと老子のタオというものはこの世の根源で無であり一であり、そこと同一化すれば我々人間もタオになれるぐらいの発想になっていくんだよね。
なんか悪魔の契約みたいな。
ごめん、怒られるかもしれないけど。
そう、でもこの世の全てをお前に渡そうみたいなね。
渡そうみたいな。
実際連炭術って何にも死んでるからね。
うん、そうだよね。神の仕事やってそれで死んでるでしょ。
そうそうそう、確かそう。そうなんですよ。それは道教から来てるんだよね、やっぱり。
っていうのがあるので、掃除のこの話っていうのは、逆に本当に新人になりたいとか、新人を目指そうとした時にあまりにも手がかりがなかったりする?
まあそうでもね、確かに今は善とか仏教の比喩でさ、そこまで修行しないとここに至れないのかなみたいなさ、
まとを言っている言ってないはわかんないけども考えられるわけじゃん。
それがなくこれだけ言われた時、掃除って結構途方にくれるよね。
そうなんだよね。やっぱりその実効性とか、じゃあどうするの?みたいなところが正直少ないなと思ってて。
はいはい。
兄貴が言ってくれた、それって甘いんじゃない?っていうところは、やっぱりその掃除の中の弱さでもあると思うんだよね。
いやーでも難しいよね、ここまでちゃんと言ってさ、じゃあ具体的にどうする?みたいなところまでさ。
でも時代的には、中国だからまだ仏教の云々みたいなの入ってきないよね。
まだです、まだ全然まだ。逆にこの後にその仏教が入ってきて、この掃除とか労使とかの考え方をもって仏教を開拓するんだよね、逆に。
わーそうなんだ。混ざっていくんだ。
そう、そこまで年明けとかにやりたいと思っているんだけれども、そういう外来のインドから来た仏教ではね、これをどういうふうに理解しますかっていうときに、
まさにこの道、タオとかムとかそういうもので解釈するっていう風に流れが起きて、そこで仏教の中国化が進んでいくっていう流れなんだよね。
じゃあ今日掃除で言った人が死ぬとかイキリウムが、季節の移り変わりみたいな話と、いわゆる輪廻転生、輪廻転生だったり、その辺もまだ接続してない段階なの?
この段階は全然してないです。
だから中国にもともと輪廻転生的な概念があったとかではないんだ?
ではない。
おー面白いね。
ではない中で掃除がこういう風に考えたってことだね。
おーなるほどね。
やっぱりこれはすごく面白い。やっぱり本当に言う通りで、僕らの中に知識があって比較してしか受け取れないから、
本当にまさに巨神探偵、震災して心をコサッポにして掃除を受け取ろうなんてことは、やっぱりそれもすごく難しいわけではね。
難しそう。
でもそういうことが多分できると、きっと掃除はこう言ったんだとか、あるいは自分の幅だけで掃除を捉えることができるようになるはずっていう。
なるほどね。
で、何か外に言われたとか、仏教ではこうとかっていう解釈じゃなくて、それって耳で聞いてるのと一緒だからさ。
じゃなくて心でもなく、気で掃除と向き合いましょうっていうのが、要は理想なんだけど、それってめちゃめちゃ難しいわっていう話だよね。
まあできたら苦労はしないし、あれだもんね、小説の中では奥人に一人って言われてたからね。
一寸足らわずわかるのは奥人に一人って言われてたから。
そうそうそう。
これは掃除だけじゃないと思うけど、あらゆるものを向き合うときに、どこまで都心段階で向き合えますかとか、その一億人、二人の幅でできますかって言うと、それはできないよねって話だね。
できないというか、できるかもしれないけどやっぱり難しいって話だね。
なるほどね。すごいね。
生と死の地続き
なので今日ちょっと詩の話からいろいろ広がってはしまったんだけれども、
これって同じことを言ってますっていうのは多分何となく伝わってると思うんだけれども、
その1回目の無用の用も、2回目の万物正道も、3回目の心細座法も、同じ道とか他法っていう働きのある世界っていうものを捉えたときに、
僕ら結局そういう生き方になるよねとか、そういう価値観になるよねって話を手を返しなおか言ってるだけではあるんだよね。
そう考えると今回、正と詩は一緒だとか、地続きだとかさ、
そういうことも、まあまあそういう発想もなくはないかなぐらいまではご理解いただけたんじゃなかろうかと思ってるんだけど、どうかな。
いやー、そこは多分大丈夫だと思う。
自分がその状態に慣れるかって言われるとすげー難しそうっていう反応を持ったけれども、
何を言わんとしてるのか、他法怪しいっていうようなのとは全然違う改造を教えてもらったと思うね。
ありがとうございます。
そうなんですよ、そうなんですよって別に僕が誇ることじゃないんだけど。
ただ本を開いて記念賞してるだけだからね。
そうだね。今、掃除ファンがただ推しにきっついてなってるだけだから。
なるほどね。ただの推し活か。
推し活、そう。壮大な推し活だから、それって言ったらアジアは基本的に。
ディナーのところがあって、今回掃除やったんですけど、次回に一応最終回にしようと思っているんですけれども、
ここまで今朝、いろんな執着も手放しましたで、全ては同じ。
万物正道で、役立たないことも役立つ、むしろ役立たなくていいんだとかそれも超えるんだってことをやってきた中で、
結局、新人って話したじゃないですか。新なる人。
で、何なの?とか、そういう境地ってどんな境地なの?っていうところに、またキーワードで、
これね、また次回ちゃんと言います。もし気になったらひらがなで検索してもらったら出てくると思うんで、
しょう、よう、ゆうっていうのをやってほしいんですけど、
これまだ僕もちゃんとわかってないんで、また収録会1週間あるんで勉強しますって話してもらうんだけど、
しょう、よう、ゆうっていうのがアキセントだったのかすらわかんないんだけど、
これが一応掃除の究極の境地というか、理想の状態的な話らしいんだよね。
なるほど。
仏教で悟りにちょっと近いのかな。仏教は悟りというものを理想の境地にするじゃないですか。
そういう意味で、掃除の理想の境地っていうのはしょう、よう、ゆうって言葉らしいんだけど。
だからタオを完全に理解するとこうなりますよぐらいの感じかな。
そこもわかんない。タオを理解するって何?だってタオって理解できないからさ。
そうか、タオを理解するっていう、あとは当てていいものかどうか。
タオと一体になるとぐらいの感覚かな、たぶん。
そのタオと一体になると何ってわかんないからさ、今僕も。
それをちょっと私、今から勉強するので、
それを皆さんにお伝えできるように次回準備してこようと思っておりますっていう感じですね。
なるほど、わかりました。次回まで悟ってくるって話だね。
さっそく無理無理無理。
でも耳で聞いたことを皆さんにお伝えして、せめて心ぐらいでは聞きたいって感じだね。
はい、そんな感じでございます。
わかりました。では次回ですね、掃除最終回ということで楽しんでいきたいと思います。
では引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
46:49

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