1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #89 構造主義とは?サルトルの..
「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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00:00
♪~
はい、それ鉄ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
このラジオは、身近なテーマをきっかけに、哲学について楽しく学んでみようという番組です。
哲学好きの弟と、哲学に馴染みのない兄の兄弟二人でお送りしていきたいと思います。
改めまして、兄の関野京介です。
弟のハヤトです。よろしくお願いします。
さあ、今回からレビ・ストロース・構造主義ということで、どんどん現代に近づいてまいりましたと。
そうですね。本当にこの構造主義からが、いわゆる現代哲学みたいな感じで。
前回のサルトルマでは、実存主義の現代に続いては来るんだけれども、
いわゆる近代哲学の枠内というか。
そうなんだね。勝手に感想とかで、さすが現代とか、現代に近づいてきたとか言ってたんだけど、ここから現代なんだね。
そうですね。哲学の流れ的にはね。
サルトルとかはもちろん、時代的にも、本当にもう別に100年も経たないぐらいの人だから、
現代的なところにつながっている人ではあるんですけど、
いわゆるこの構造主義からポスト構造主義みたいな流れが、いわゆる僕らの常識的な考えに馴染んでいるというか、なっている。
そうなんだね。
という感じがあります。
その、いわゆる時代としては、1950年から60年代ぐらいなので、
聞いている方によっては、自分の両親とか、生きてたよ、生まれてたよとか、そういう本当に近い時代なのかなって思うんですけど、
結構この構造主義、何が面白いかっていうと、結構やっぱり難しいは難しいんですよ。
その難しさは、理解する難しさもそうなんだけれども、領域が一気に広がるんだよね。
これまではやっぱり、真理とはとは、自分で分というか主体がどういうような認識するかということを結構やってきたじゃないですか。
西洋哲学としてね。
どっちかというと、構造主義以降は、それまで大事にされていた、西洋哲学の流れで大事にされていた主体とか真理とかっていうのが、
ある種一個のそれも仮説とか、変え得るものだよね、っていう風になっちゃうんだよね。
そうなんだ。
哲学は伝統的に、真理とは何かとか、神とは何かとかっていうのを突き詰めてきてたんだけど、
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真理っていうのも前提とか状況とか環境によって変わっちゃうしとか、ある種相対化されていく。
それを、この構造っていうものを使った時に、それが人間とかもそうだし、文化とか、あるいはいわゆるジェンダー、性別みたいなものとかって、
ありとあらゆるところに応用可能性があるので、ある種哲学が細分化していくというか、いろんなテーマに派生していくのが、この構造主義とかポスト構造主義。
うーん、そうなんだ。さっき言ってた真理がないとこもだし、前回やったサルトロとかだと、自分スタート、自分はある、世の中もある、そこからスタートしようね、みたいな話があったけど、
そういうのも、真理と同じにあるっちゃあるみたいな話になってたのを、構造主義だとそこも別にないかもね、というか、
全部違う説明の手段みたいなのができちゃったみたいな話なのかな。
そうだね、説明の方向性がちょいちょい感じで、いわゆる仏教みたいに、個人とか我もない、無我だとかってことではなく、
そもそもデカルト的に言うと、小人から始まって世界を見出しましょうみたいな話なんだけど、
そうじゃないよね、世界があってその中に人間が生まれてくるんだよね、っていう世界観に割と切り替わっていくというか、そっちが強くなっていく。
他、ニーチェが神は死んだって言ったじゃないですか、それが構造主義になると、もう人間の死みたいな話になってくるんだよね。
そうな人間も死ぬし神も死ぬしって何に残るんだろうって。 そうそうそう、みんな死んでるやんけみたいな。
結局、いわゆる主体とか世界を決めつけ、ある種決めつけだよね。
サルトルはそれが自分の責任だし、そこに自由があるみたいに言ったんだけれども、
ある種、世界を決めつけれるというか、自分が好きなように決めつけれるみたいな感覚もあった時に、いやそんなもんじゃねえんだよと。
みたいなのが、構造主義的な考え方で、それを今回レビィ・ストロースで話していくんですけど、彼は実は哲学者というよりは人類学者なんだよね。
え、そうなの?哲学者じゃないんだ。 じゃないと言うと語弊がある。
哲学で大学も出てるし、哲学の教授もあったりしてるから。
でもその本質は人類学で、要は、クエもちょっと話していくんだけど、
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当時、西洋のヨーロッパから見た時に、野蛮だと思われていたような原住民、例えばアフリカとかブラジルとかの原住民の調査とかフィールドワークをしてるんだよね。
そこから、いわゆる当時の世界、ちょっとこれ長くなっちゃうかな。いいかな。
当時1900年代半ばの世界って、要は何が主流かというと、もうマルクス主義なのよ。
実音主義とかでもなく、マルクスなんだよね。 マルクス主義だね。実音主義はマルクス主義のある種、一部みたいな感じなんだけど。
一部というか、それの思想を土台にしてるんだけど。
要は、マルクス主義が何かっていうと、ヘーゲルなのよ。ヘーゲルの時にも、実はちょっとだけお伝えしてるんですけど、
ヘーゲルの次がマルクスだという話をした時に、ヘーゲルって弁償法じゃん。
世の中が対立と乗り越えを重ねていって、最高のものにたどり着くみたいな感覚なんだけど、
マルクスはそれを社会体制に置き換えたんだよね。
要は、ある種の王政が市民を打ち倒して、今の世の中をやってるんだけど、
今は資本家と労働者という対立があるから、それも労働者が乗り越えて社会主義の国が作られるみたいなのが、
すごいざっくりときのマルクス主義。
その考え方がすごくヘーゲル的だったんだね、弁償法として。
ヘーゲル的というか、ヘーゲルを使ったんだよね。
敵の頃じゃないんだ、むしろ。
敵じゃない。
まっすぐヘーゲルに乗っ取ってと。
それは現実の社会とか世界とか、いわゆる労働とかを説明するロジックとして使ったというのがマルクスなんだけど。
なるほど、そうだもんね。
確か当時って資本主義っていう言葉って、たぶんなかったところをマルクスがむしろ定義したみたいな話だもんね。
そうなのか、そこまではちゃんとわかってないけど。
これね、古典ラジオ情報。
マルクスが言う。
みたいな話があって、ヘーって思ったんだけど。
でも確かにそうだよね、当時、王政とか君主制みたいなものが廃止される中で、新しい経済というものになる中で、
当時自分たちが、生きている人たちがね、それに定義できないって部分ってあると思うんだよね、生きている人たちその瞬間ね。
それを外から多分、違うものとして、平等的な対立させるものとして、今の世の中、そういった資本家と労働者が対立しているような状況というものを資本主義。
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さらにそれの対立として自分たち共産主義みたいなものを名付けたみたいなね。
それをどう乗り越えていこう、もしくはそれを乗り越えとしたのを共産主義みたいなものを言ったみたいなね。
この前のヘーゲルトの話と、その歴史の話を勝手に解釈して楽しんでたって感じ。
本当そういう感じで、やっぱりその歴史の中に思想があるみたいな感じで、やっぱりマルクスはそういうことをやっているんだけれども。
だからそのマルクス主義的な考え方っていうのは、サルトルの実存主義にも引き継がれていて。
なので、歴史とか世の中っていうのは発展に向かっていきます。
そうすると共産主義に近い地域とか国こそが進んでいて、そうじゃない国は遅れているっていう当然価値観になるよね。
そのマルクス的に言うとね。
そうするとヨーロッパからしたら、そもそも資本主義段階でも至っていない、ブラジルとかアフリカみたいなところが、歴史としてはすごく遅れているみたいな。
要は西洋が先で、他の地域が後だみたいな。
そこがいわゆる帝国主義的なとか、植民地政策とかにもつながってきているんだよね。
はいはいはい、なるほど。早く追い越せって言うよりは、早く我々のところに来いみたいな感じだよね。
追いつけ。
追いつけ。なければならないみたいな世界観。
そう、っていうのがあるんだけれども、そこに対してレビストロースは、いやいやそんなことはないぞと。
西洋っていうのも一つの文化圏だし、アフリカにはアフリカの文化圏とか歴史とかがあって、それっていうのは別に一本の道筋なんじゃなくて、全然並立して存在するものだよねみたいなことを言っていくんだよね。
その考えが斬新だったんだ、当時は。
斬新ってかなかったのよ。
なかった。
西洋には。
それからこそ、前回サルトルの時に言ったように、いわゆる構造主義とかレビストロースがサルトルを乗り越えるとか、内山勝って話があったと思うんですけど、それもまたちゃんとお伝えしていくんですけど、
そこには歴史っていうものが一本筋で、要は最高のままに向かって進んでいくみたいな、マルクス主義とかヘーギュル的な思想と、いやそうじゃない。
それぞれ相対化されていて、それぞれに優れた文化とか思想とか、あるいは構造、まさに構造。構造とは何かとかもちょっと話すんですけど、そういうものが存在しているんだっていうのがレビストロース。
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なるほど。
じゃあ乗り越えっていうか、本当にさっきその考え方なかったって言っただけれども、感覚ね。そういった意味で全然もう違う価値観が生まれちゃったんだね。
1900年代半ばに。
半ばにそうなんだよね。
やっぱりここは、やっぱり20世紀は劇場の時代ってのはまさにたぶんそうで。
僕もさ、1990年代前だから知らないのよ。もうベルリンの壁崩壊したから生まれた時には。
実感しては全く知らないんですけど、哲学とかを勉強しているとはそういう時代だったんだなっていうのを後から知るみたいな。
その時代の後にやっぱり自分って生きてるんだな、生まれたんだなっていうことを思うわけですよね。
確かに今は密度がちょっと違う感じするもんね。昔だと「その600年後」とかって話してたのが、今だとね、もう同じ時代の人がこういうことを話してるみたいな。
そうそうそうそう。
というところで、やっぱりその構造主義っていうのは、ある種僕が哲学をやり始めたきっかけとして、なんで自分はこういうふうに考えるんだろうとか、どうしたらもっとうまくよりよく考えられるんだろうみたいなことを思ってたんだよね。
っていうところがやっぱり土台としてめちゃくちゃ大事だなと思うので、皆さんもそういうところを今回のレビューストロースとか今後の話も含めて感じていただけたらいいなと思っているところでございます。
はいはい。ある意味で一番今の感覚に近い考え方だったことなんだね。それを紹介してくれると。
実際に今回のレビューストロースを中心に話すのと、彼がやった意義とかどういうことをしたのかということを中心にお伝えしていきたいなとは思うんですけど、
当然やっぱりそれだけで構造主義をカバーできるかっていうことはそんなことはないんですよね。
さっき言った通り幅広くその分野が広がっちゃって言ったのもあるんですけど、いわゆるレビューストロースから構造主義が始まったっていうのもあるし間違いなく言えるんだけれども、
同時期にフランスにいろんな哲学者が活躍していて、例えば聞いたことあるかな、ミシェル・フーコウとか、ラカンとか、アルチュ・セールとかロランボルトとかいろんな人たちがいて、
こういう人たちはちょっとね、族っぽくなんか構造主義してんの?みたいな言われたりしてるんだけど。
そんな界隈があるんだね、ちゃんとしてんのってなるほどの、
構造主義界隈。
あるんだね、そういう場がね。
別に彼らが自分が俺は構造主義してんのかって言ってたわけじゃないんだけど、
まあやっぱりその行跡とかその着眼点とか手法とかで見ると、まあやっぱりそういう風にくくれるよねみたいな感じがあって、
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じゃあ逆にこういう人たちを見れば、構造主義がわかるかっていうと、実はそんなこともなくて、
あー、してんのだけじゃダメなんだ。
ダメ。なぜかっていうとそれは構造主義の後の話なんだけど、構造主義の前にもいろんな思想が合流してるんだよね。
例えば、いわゆるソシュールとかヤコブソンって言われる人たちの言語学みたいなものとか、
あとはね、造評論っていうの有名なマルセルモースっていう人がいるんだけど、
そういう人の人類学的な話とか、あるいは当時の数学とかっていうのを含めて、いろんなものをやっぱり取り込んで、
ある種体制化したというか、ある種レビストロスって天才が成し遂げた実績っていうのが、
そういう人類学的な実績であり、構造主義的な考え方。
あー、そうなんだ。じゃあいきなりレビストロスがバーンって考えついたとか、きらめいたっていうのじゃなくて、
割とそういう基礎研究的なものがなされていて、それを集めて集めてちゃんとプロダクト化して製品化して世に出したのがレビストロスみたいな感じなのかな、雰囲気的に。
もっと前からあったんだ、そういう一個一個の構造主義を構成する思想的な話とか考え方とか。
そういうのがあった、あれはあったみたいな。
あったって感じ。だからまさに今のプロダクト的な話でいうと、例えば教育業界でうまくいってた方法を、
エンタメ業界でやったらうまくいったよねみたいな、そんな感じ。
あー、そうなんだ。なるほど。
言語学っていうのでうまくいってた仕組みを人理学っていうので応用したらめっちゃうまくいったよみたいな。
あー、そうなんだ。じゃあそのエンジンがあってとかさ、ここのパーツがあって、このギアの機関があって、ギアがあって、
それを組み合わせたっていうよりは、ちょっと横展開くらいのイメージなのかな。
ちょっと横展した感じ。
言われてみればなるほどって感じもあるし、いやでもそれはやっぱりReviews Watchだけはできなかったよねみたいな、
そういう評価も受ける人ではあるんですけど、それを変えれば人類学とか、あとは晩年で言うと神話学。
神話。
人類学っていうのは今世の中実際にある社会の制度とか文化とか仕組みっていうのをある種研究していくんだけど、
神話学っていうのはある種それを一個メタ化したというか、やっぱその神話ってさ、もちろん物語ではあるんだけど、
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やっぱその地域とか民族とかの思想とか、そういったものがすごく反映してるよねっていう風に彼は捉えていて。
あれ日本だと天照す大神神とか、あとインドだとほら、なんかあったじゃん、神話でなんとか。
あるよ、日本書紀とか古事紀とか、日本ではそうだし、もちろん西洋で言うとキリスト教の聖書だし、
民族とかでいくと、本当にいわゆる素朴な信仰とか、村ごとにいわゆる神話が残ったりするわけよ。
なるほど、日本とかも、さっき天照すなとか言ったけど、もうこっちの例えば岩手の田舎だとこういうのがあってとか、そういうレベルでの神話っていうのか。
そういうのも神話。
鬼の手がやってきて、鬼に手をついて、それを退治したら三層奴隷で、みたいなのあったじゃん。
すごいローカルな、岩手の手は鬼の手だみたいな、そういう神話があるんですけど、まさにそういうやつ。
そういうのを研究していくと。
そこも入ってくるんだね。
そういう哲学じゃない分野で開発されていたものが、哲学の方法論というのに継承されていって、そこから現代層のカオスにつながっていく。
カオス?
必ずしもポジティブな表現じゃないね。
カオスだと思うんだよね。
それまでが、やっぱり閉じっこ込められていたというか、やっぱり真理とか主体とかみたいな、いわゆる西洋哲学的な伝統の上での哲学だったんだよね。
さっき言った通り、そもそも真理っていうのもないとか、それっていうのも西洋中心的な、味方でいうところの真理でしかないみたいなことがあったときに、
それまで2000年とか2500、600年くらいか、ソクアテスとかから続いてきたものが、初めて打撃を受けるわけですよ。
なるほど。それまでは実験室の中で擬似環境を作ってやってましたとか、そういう感じなのが、ちゃんともう実験室じゃなくて、外でフィールドでやろうよみたいなときの、
例えば風は無風とするみたいなのも実験してたときに、やっぱり外にいたら風あるじゃんみたいな。
そうだね、吹いてるしなみたいな。
そうするとやっぱり風が1mのときか5mのときは違うよねみたいな話をし始めたときに、そうするとなんかカオスな感じするよね。
今までは風なかったところだから正解だったけど、やっぱり一回外に出ると風吹いてると全然違うし、
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湿度でも違うしみたいな話をし始めると確かにもうカオスというかね、そういう感じなのかな、今の感じに対すると。
そうだよね、だからやっぱりいわゆる現代哲学では、やっぱり真理はあるんだって語るのも難しい。
そもそも真理はあるのかとか、真理とは何かっていうことがやっぱり問題だったりするし、
やっぱりこれまで散々やってきたサイトルの主体が世界を解釈するんだみたいな。
子供はやっぱり苦しくなっちゃう。
難しいよね、確かにな。
で、ケースだと本当その通りだって言うけど、じゃあ実践していこうってなったときの、その差は何だっていう話まで踏み込んじゃうと、みたいなね。
難しそうだな、確かに。
どっちもそうだだもんね。
そうなんだよね、だからどっちも正解だし役に立つんだけど、やっぱり当時の第二次世界大戦後の混乱期とか、
いろんな発展する中でどっちが役立ちましたかみたいな話になっちゃうんだよね。
それで言うと、ストライデスラジオでやってきたことは一体何だったのかみたいなことを思う方もいらっしゃるかもしれないんですけど。
今までこれまでやってきた話が全部乗り越えられちゃうね、この構造主義によってね。
そうそうそう。
やっぱりね、これまでと同じで、偉大な思想を知るには、乗り越えたものの偉大さを知るのがやっぱり大事だと思うので。
そうだよね、確かにいきなりじゃあ第一回レビストロースで成功の主義って言われてさ、多分わかんないよね。
わかんない、わかんないとか、いえいみたいな。
わかるというか理解できるかもしれないけど、なんでそれがすごいのかとか、生まれてきたのかとかってのはわかんないと思うから。
結局10時間くらい話すことになるみたいな。
そうそう、結局シャルトという人がいましてとか、そもそもコギトでデカルトが想定したものがありましたよみたいな。
それやるとね、じゃあ中世の、やっぱりそもそも人間の一生より神があった世界がありましたよみたいな、結局逆の方っていくから。
やることは同じなんだね、どっちから引っかけてほしい。
そうそうそう、やってることは一緒。
それを1年かけてやってきましたって感じだよね。
はい、なのでそういう意味で今回やっていきましょうって話なんですけど、まずはいつも通りレビストロースの猛威達というか。
人生とかを触れながらっていう感じなんですけど、彼は1908年に生まれますと。
亡くなったのは実は2009年なんですよ。
2000年代なんだ。
はい、100歳まで生きた、本当に現代の偉人みたいな感じなんですけど。
本当にもうつい最近まで生きてきた人みたいな感じですよね、感覚的には。
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前回取り上げたサルトルは1905年に生まれるのでほぼ同年代です。
レビストロースの両親はいわゆるユタ系のフランス人で、お父さんが画家だったんだって。
だからめちゃめちゃ儲かってたわけじゃないけど、いわゆる芸術とか文化とかっていうところにはすごく触れる安い環境にあって。
結構親御さんの影響で日本の浮世絵とかも集めたりしてたようです。
彼はパリで暮らすんだけど、何しも不自由なく、若い時に両親が仲良くなるとかもなく、普通に豊かに暮らしてパリ大学に入って法学部と文学部から学業を受けます。
その翌年には哲学教授資格試験という最難関の教員試験みたいなものがあって、それを合格して高校の哲学教師になります。
じゃあキャリアは哲学スタートなんだね。さっきほら人類学とかいろいろあったけれども。
日本だと哲学の高校教師とかって言っても不運って感じだと思うけど。
失礼な話だけどね。
不運って言っちゃった。いわゆる別に算数、数学とか何が違うのって感じだと思うんだけど。
実際そうだよね。哲学ってちょっとそういうのに劣るというか、このラジオやるまではあんまり意味ない感覚ってあるもんね。
ちょっと趣味というか、別に教科によって先生の優劣がつくとかって別にないじゃん。
日本の科学でいうと。やっぱりフランスパリで哲学の教授っていうのはちょっと文語のえているというか、地位が高い、いわゆる知識人だみたいな扱いを受けるんだよね。
ちょっとランクがあるんだね、その中で。
そう。いわゆる学業優秀な知識エリート階級みたいな感じで生まれ育って実際にそうなりますと。
このままで哲学の先生として活躍するかと思いきや、哲学に満足しきれない部分があったのか。
まさにアメリカの人類学者の本とかいろいろ読んで感銘を受けるらしいんだよね。
やっぱり哲学のいわゆる抽象的なものとかよりは現実とか人間が生きる世界とかに興味を持ったのか。
26歳の時にブラジルに新しくサンパウロ大学ができるんですけど、そこで社会学の教授のコストが空いてるよって話があって、ちょっと行って人類学やるかって不認されました。
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ブラジルまで行ったんだ。すごいね。
実際にブラジルには3年ぐらいしかいなかったって言われるんですけど、当然当時の現地の学生といわゆる授業をしつつ、休みの日にはいわゆる先住民のフィールドワーク。
そういう村とかに行って、その人の話を聞くとか仲良くなっていろんな暮らしを知るとかやっていって研究を進めていくんですよね。
本当に輝かしく大学教授でって感じだったんですけど、この頃がちょうど1939年なんだけど、サルトの時も言ったようにヨーロッパはものすごい第二次世界大戦前夜みたいな感じなわけですよ。
人らがフランスを攻めてくるぞみたいなところに、フランスでもいわゆる総動員令みたいな、要は兵器の義務を果たせみたいな感じになって、戦争に参加するために帰国しますと。
自分の意思でじゃなくて、もうさらないから帰ってこいって言われて帰ったんだ。
そうそうそう、要は召集令みたいなのが出ちゃって、徴兵されましたよと。
実際その戦場に行くんだけれども、フランスはドイツに降伏するわけだよね、その人らにやられてしまって。
その時に、さっき言った通り彼のご両親はユダヤ系なので、このまま行っちゃうと、ユダヤ人迫害、そんな人に捕らえられちゃうよというのがあって、
やっとのことで船に乗り込んでアメリカに亡命するんだ。
なるほど。
やっぱりアメリカも誰でも受けるわけじゃなかったみたいだから、その後の詳しい話は僕もわからないんだけれども、
いろんな杖をたどりながら、やっとのことでニューヨークに落ち着きますと。
フランス、パリで生まれるんだけど、ブラジル行って、その後はニューヨークに行くんだよね。
その後、第二次世界大戦が終わった後もアメリカに留まって、いわゆる白紙論文を書き続けて、そこから状況を持ち出したのでフランスに戻りますと。
すごいね、白紙論文を書いてフランスに戻ったって言ってるけど、やっぱり激動の時代を戦争にも参加して、ユダヤ系だからアメリカに亡命してて、
なんかすごい、やっぱ激動感すごいね。
やっぱり落ち着いて哲学とか人にふけりましたみたいな感じではない人でもあるんだよね。
やっぱりすごい研究とかの執筆っていうのはもう次々にされている方なんですけど、
もちろんいろんな哲学的な本とかも書きながら、一番有名になったのが1955年に出版された『悲しき熱帯』っていう、ある種エッセイ本みたいな、ちょっと辞伝的な本があって、
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そういうフィールドバーグで感じたこととか見聞きしたことっていうのを発表するんだけれども、それがすごく当時の、やっぱりこうヨーロッパこのままでいいのかとか、世界どうなんだっていう時に、
実は世界にはこんな人たちもいるんだよとか、こういう我々が未開人だとか、よくわかんない野蛮人だとか言ってる人たちにも、実はこんな生活があるんだよみたいな話をした時に、
すごく盛り上がるんだよね。なるほど世界はこんなことがあったのかみたいな。
ただの探検とか冒険みたいな異文化の紹介本とか言っているよりは、結構思想的にそういうところも含まれてたエッセイだったんだね。
そうだね、当然リビストロースの文才があったとかもあると思うんだけど、そういう哲学的なというか、エスプリの聞いた分は知的、好奇心も満たすような、やっぱりそういうジョッジ長男みたいな。
その取り上げ方がすごく共感を生むような取り上げ方をしてたんだね。そのリスペクトと、自分たちが植民支配をしようとしてた人たちに対するリスペクトみたいなものを感じさせる話というか本だったんだ。
そうそうそうそう。だからアマハルスは今後もやってくるんだけど、やっぱりいわゆる西洋的な観点からある種未開人だというふうに決めつけるんじゃなくて、やっぱりその未開人といわれているような先住民とか、
そういう人たちから見るとこういう意味があるんだよとか、そういう自分たちの視点をある種蹴り返させてくれるようなものなんだよね。
なるほど、それをやってのけたんだね、ルイス・トロースは。
今だとさ、例えば先に言うとロシアとウクライナの戦争があって、1年続くみたいな状況じゃないですか。
その時に、ちょっとこの脱線したんだけど、最初言ったマルクス主義的な観点から言うと、要は自在を進める方が正義だから、ある種社会主義的な思想を持っているロシアの方が正義で、
資本主義的な西側諸国に属するウクライナは遅れているから、それをロシアが引き上げてやるんだみたいなロジックがまかり通っちゃうわけよ。
はいはい、そうだね、その考え方からすると。
そう、そう、そう。かつそれは当時あったんだ。当時というか、冷戦時代あったんだよね、そういう考え方を持っている人たちがまだまだいたんだけど、やっぱり現代ではそうは考えないじゃん。
基本的にはまずそもそも戦争ってやっぱり良くないものだ、良くないというか社会的自由を乱すものだっていう感覚があり、その中でロシアにはロシアの論理というか多分正義があって、
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ウクライナにはウクライナの論理とか正義がある、みたいな感覚があるとは思うんだけど、それって実はすごく構造主義的なんだよね。
うーん、なるほど、それぞれの立場があるよね、みたいな話ってことね。
それぞれの目線で見た時に何が起きてるんですかね、みたいな。
立場じゃなくて目線か、そっかそっか。それぞれが本気で正義というか正しいと信じていることがそれぞれあるよね、みたいな話ね。
こっちが正義であっちが劣ってるっていう話じゃないよね、っていうね。
そうそうそう、あれだ、それっていうのは実は知らず知らず構造主義的に生きているというか、構造主義的な世界の中でやっぱり物事を考えているってことにも繋がるんだよね。
そうなんだ、なるほどね。
ちょっと脱線しちゃったんですけど、1955年に出した本で一躍有名になったレビストロースが、さらに1962年、50代後半ぐらいかな、半分ぐらいか、に野生の思考っていう本を出すんですよ。
ここの本の中で実はサルトル、当時知識人の中学であって、まさにこのある種実存主義的なものからある種名声を欲しいままにしていたようなサルトルっていうのを批判して、
実存主義に実質的な死亡宣告って言われてたんだけど、死亡宣告を突きつけますと、実存主義が終わったっていう。
へー、あれでもね、演説すればたくさんの人が集まったサルトルみたいな人気者をやっつけちゃったのか。
やっつけちゃった。
死亡宣告ね。
みたいなこともあり、やっぱりレビストロースはすごい、構造主義がすごいみたいになっていきますと。
はいはいはい。
でもこの話はまた次回以降もちゃんと話していきたいんですけど、そんなふうにですね、キャリアを積んでいって、さっきお伝えした通り人類学や例えば神話学みたいなものに領域を切り替えたりしながら、
メリッサの構造主義っていう手法がどこまで射程範囲にするのか、要はどういう領域まで実際にきれいに解き尽くせるのかとか、そういうことになっていくんだよね。
なるほど、そっか。今の話で聞くと確かにそうだね、元々哲学っていうのをやってて、人類学か、もっと大きな人間の文化とかみたいなもの、特に当時は異文化とされてたところに目が向いて、
さらに神話学っていうのは、さらにその人たちと関わる中で、さらにこの人たちとかこの人たちの立っている文化的背景みたいなものを考えていくと神話みたいなものにたどり着くって、
すごくこうやって聞いていくと、わかる段階を踏んでいるというかね。
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繋がっている感じがするよね。
そう、単純にパーッて横に飛んだ感じじゃないんだっていうのが、繋がりが見えてきた気がする。
そうそうそう。だからこそ、これまでの哲学の伝統的な流れって全然違う手法なんだよね。
まずは主体を立ててとか思考を使ってとかっていうのじゃなかったりするので、そういう意味でもやっぱり面白いし、やっぱり難しさはあるんだけれども、知る価値があるのかなというふうには思います。
さっき言った通り、人類学とか神話学っていうと、やっぱり普段生きている我々としてはそんなに馴染みがないというか、
神話とかも別に趣味で読むくらいの人がいればいらっしゃるかなくらいだと思うんですけど。
そうだね、小説みたいなイメージだよね。
ただやっぱり、かつて哲学とも違う印象を受けるかもしれないんですけど、実はそんなことはなくて、
さっき繰り返しになっちゃうんですけど、今では常識的になっているような、いわゆる多様性を尊重するとか、
相手の立場に立つとか、異文化を理解するみたいな話っていうのが、
基本的にはレビィストロース的な考えから出ている。
なので、ゲリランはそれ以前の西洋思想にはなかったんだよね、そういう感覚って。
あくまでも自分から出発して、他人も自分っていう、まさに即日退治みたいな話で、
どう自分の世界の中に多少を入れ込むかみたいな話だったんだけど、
そうじゃないんだよねっていう感覚が、この構造主義的な感覚。
なるほど、そう言われると確かに意外っちゃ意外だよね。
古代リーサとかでも哲学って、フラットの哲人政治、国家みたいな、結構集団とか共同体を概念として捉えているっていうのがあったから、
なんとなく、全然そういう構造主義的な、そこと共同体とは何かとか、
あっても良さそうだなと思ったけど、全然そもそも認識ってものが違ったんだよね。
そう、やっぱりその認識が違うと、やっぱり出てくる結論とか扱う定義も違う、まさにそんな感じで。
なので、さっきまでのロジックで言うとか、もっとマラクス主義的なロジックで言うと、
やっぱりこの世の中には先進国と後進国があって、先進国が後進国を導くのだみたいな発想なんだけど、
今はもう後進国って言わないじゃないですか、発展途上国みたいな言い方になって、
今は別に歴史は一本じゃないから、それぞれいろんな発展の仕方がある。
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そこに対して、もちろん資本主義的な流れってのは強いっていうのは、それは良いのかみたいな話は、
また別の政治的なとか、世の中的な話としてはあるんだけれども、
そういう国とか民族とか、あるいは先住民とかも含めて、そういう人たちの文化とかも尊重されるべき。
あるいはSDGsでも誰も取り残さない、みたいなことが言われたりして、
やっぱり誰かのある種、先民思想的に選んで救うんじゃなくって、
ちゃんと人類全体を捉えようみたいな感覚っていうのが、やっぱり21世紀で強くなってると思うんだけれども、
そうやって言うのは、この構造主義がやっぱり源流にあるんだよね。
うーん、なるほど。そんな最近の話だったんだね、この考え方ってのは。
そうそうそうそう。
それが面白い。
意外と若いんですよ。だからこそ、実は思想としてはまだまだ鍛えられてないというか、
なんで多様性尊重しちゃいけないの?自分が良かったらいいじゃん、っていう粗末な質問に答えにくかったりするじゃない。
うーん、なるほど。それに対しての答えとして、さっきの実存主義とかさ、そういうのが力持ってきそうな気もするしね。
そうそうそうそう。やっぱりそれがなぜダメなのかとか、ダメじゃないにしても、どういうふうに社会と結びつかなきゃいけないのかとか、
だからそもそも自分がやりたいと思っていることって、なんでそう思わされているのかとかっていう、やっぱりそういう問いが出てきたりするんだけど、
ある種そういうのに取り組もうとしているというか、そういうことに取り組めるのが構造主義みたいな感じかな。
すごく今フワッと言ったけど。
でもそうはね、今のハヤトの話って多分実存主義からもう一回転してしまってて、
本来は実存主義レベルの時だと、自分たちは何なのかみたいな話があった時に、その視点というものが、自分たちとか真偽とかっていう、ある意味一つの視点しかなかったものが、
構造主義によってもう一つ別の視点を手に入れたよっていう話で、
その視点の多様性みたいなものがあった時には、やっぱり出てくる悩みとか、それでもわからないものとか、
実験室から外に出たみたいな話で、この風こっちの向きの時ってやっぱりこうだよねみたいな話。
でも逆の風吹いた時はこっちだっていういろんな立場の人がいる中で、絶対的な正解というものが存在しない中なんだけれども、
とはいえ自分が生きていく中での正解というのはないと生きていけないよねっていう時に、もう一周して実存主義的な自分から世界を捉えていこうねっていうものが、
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このいろんな風が吹く中で、自分がそれをどうこの世界を認識していくかっていう意味では、
今この構造主義的な見方を得ている自分たちが、その上でさらに実存主義的な物事から自分たちで世界を捉えるっていう営みは、
当時のサルトの時と実存主義とは違う、実存主義2.0だよねみたいな話に聞こえた。
はいはいはいはい。本当にサルトやっぱすごいよね、その兄貴はその繋がりが強いなって思うんだけど、
本当にそうやっぱり兄ちゃんの時にも言った通り、相対主義とか、
なんでだろうな、こうやっぱり何でもあり、要は風ってどこからでも吹くからもう分からないじゃん、諦めようぜってなるとニヒリズムになっちゃう。
そうすると虚無的になっちゃって、やっぱりじゃあもう風なんてどこから吹くか分からないから、
どうぞでもあれみたいなことになっちゃったりします。そうじゃなくて、そんな中でも自分はこういう風に生きるぞみたいな感覚っていうのは、
やっぱり一人一人の人間が生きていく上では大事。
だからたぶんニーチェ今の人が呼んでも感銘を受けるって話だよね。
そうそうそうそう。そこにでもニーチェの時代から100年くらい200年が経って、
行動主義的なとはいえ多様性も大事とか、とはいえ自分が全く理解できない文化に対するリスペクトも大事みたいな前提の上で、
自分を大事にするってなんだっけみたいなのがやっぱりある種、今の現代人というか、僕らが直面している課題だなっていう感覚はあるんだよね。
いやー面白い。もしくはあれなのかもしれないよね。今生きている我々というか人間が、
このソレテツラジオを聞くまで実存主義もニーチェも構造主義も知らないわけよ。
まあそうね、もちろん確かに確かに。
そういう世界がある中で生かされている人間が、今のような「実存主義一周したよね」みたいな概念に至るかというか、ないんじゃない?
もしかすると人間がそっちに追いついていないだけの可能性もあるんだ。個々の人間がそういう構造主義的な概念に追いついていなくて、
それを言っている人はいるし、そういう世界なのかもしれないけど、その世界間でいろんな物事が成り立っているのかもしれないけど、
それを意外と認識していないだけみたいなね。
ああ、そうね。でも本当それはそうだよ。だって、空気みたいな感じは、構造主義的に生きていたらそれを意識する気は必要はないわけだよね。
機能している限りは。やっぱりその中で、あまり構造主義の話をちゃんとしていない中で、こんなに言うのもあれなんですけど、
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例えば「なんで自分はこんな風に考えるんだろう」みたいに考える僕みたいなちょっと変な奴とか、
やっぱりそういう風には生きたくないみたいに、もっと自分らしく生きたいみたいに思った人がいた時に、
例えばジェンダーとかまさにそうなんだけど、自分は性別的には男性なんだけど、心は女性だみたいな話がさ、
最近は全然普通に言われたりするわけじゃん。LGBTQとかも含めてだけど、
やっぱりそれがつい10年前とか20年前までは、やっぱり全然世の中的にも認知されていなかったし、
本人が苦しむしかなかった。でもその本人にとっては、なぜそういう性別って押し付けられるんだっていうことがやっぱりすごい重要なテーマを持つわけだよね。
あとそれは要は性別っていうちょっと構造的なものというか、世の中にあるものなんだけど、
それと接する自分という実存はやっぱり全然違ってくる。
いわゆる自分は男であり男だって思って生きている人と、自分は男性と言われてるんだけど女性だって思って生きている人はやっぱり全然違う。
それをちゃんと理解しましょうねとか、それをちゃんと理解した上でこの世界って成り立ってるんですよって思えるかどうか。
確かに、今性別の話が出たからそれで言うと、性別っていうものを実存主義的に理解するのと、構造主義的にそれぞれ文化で性別っていう定義も違かったりとか、
あるよねみたいなね。たまたま性別に関しては性物学的にというかさ、全然見た目が違う、機能が違うみたいなことがあるから、
そうやってどっちから見ても自分スタートでも社会的に見ても一致する部分がもしかして今まで多かったのかもしれない。
ただそれは多かっただけで、そこから例えばズレるじゃないけどね、そこと違うっていうのがさっきみたいにあった時に自分の一般的な男性っていうのを
「いや俺は女だ」とか逆もある。っていうのがやっぱりそれが一致しないっていう時っていうものの理解だよね。たぶんね、そのたまたま一致してた概念っていうものがあったのが、
その構造主義というものをちゃんと考えていくと、そのズレっていうものをちゃんと認識していくとか、話につながるのかなとちょっと思ったり。
そうね、だから本当にある種自分の思考を一段メタ的に見るという感覚もあるし、それによって、
もちろんこれまで知らなくていいことを知ってしまうってところもあるかもしれないけど、それぞれ聞いてくださるような方はそういうところに本当なく僕に受け止めていいんだろうかとか、
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本当にこの世の中はどういう形になってるのかみたいな、たぶんどこに興味を持ちやすい方だとは思うので。
そうね、こんな長い話をね。
そうそうそう、しっかり聞いていただけるってことは。なので、そういう意味で構造主義の中に僕らが生きているとか、現代がそこがつながっているっていうのは、
やっぱり知っておくべきものごと、ちゃんと考えるためにも知っておくべきことだなとは思うんですよね。
なるほどね。今回全然構造主義の具体的な話聞いてないんだけれども、これだけでもなんかへーと思うんだけれども、
ちゃんとこの構造主義とは何なのかって話があるわけだね、これから。
ある、もちろんもちろん。
もういいか、今回これで構造主義レビストロスでしたーで。
今だって神を信じていきましょうって同じだからね、今構造主義を信じていきましょうっていうのと全く同じだから。
それじゃダメなのか。
ダメ、そうだからちゃんと構造主義とは何かとか、構造主義が限界があったからこそやっぱりポスト構造主義みたいに乗り越えようみたいな話も出てるわけなので。
はいはいはいはい。
やっぱりこうね、ちゃんと知るっていうのは大事にしていただきたいんですよ、お兄さん。
そうだね、はいはい。
でもそうだね、なんとなく構造主義って、やっぱり今の自分たちに馴染みがあるんだなーっていう話とか、
そんだけそのサルトル、前回すごいと思ったサルトルから、全然やっぱ打ち負かしたっていう話もなんとなく見えてきた気がするから、
具体的なすごさみたいなね、何をやってたのかっていうところはちょっとすごい楽しみになってきたね。
ぜひ次回以降、ちょっと具体的な話もしながら構造主義の話をしていければというふうに思っております。
はい、了解でした。次回からそうだね、具体的な構造主義の中身を楽しんでいきたいと思いますので、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。では本日もありがとうございました。
[音楽]
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