1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #90 レヴィ=ストロースの構造..
2023-03-05 48:44

#90 レヴィ=ストロースの構造主義が西洋世界に与えた強烈なインパクト

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。

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(BGM)
はい、それ鉄ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
前回から構造主義、レビストロースという話に入っていきまして、レビストロースの生涯だったりとか、あと構造主義の大悪、サルトロをやっつけたんだよ、みたいな話を聞いてきたと。
今回から具体的な中身に入っていくというところでした。
はい、そうですね。普通ならレビストロースといえば、いろんな部族とか先住民の婚姻関係みたいな、それはある種人類学者としてやりましょうっていう話なんですけど、
それ鉄ラジオなので、哲学的なというか、ちょっと抽象的なところの話から具体に降りていくみたいな感じで話していきたいなとは思っています。
なるほど、具体的なとは言ってもってことか。いきなりその具体的な、この部族のこれはみたいな話はしないみたいな。
レビストロースの具体的な抽象との高い話をする。
なんだそれ。まあいいや。
結局そのレビストロースはもちろん人生かけていろんな研究とかをされているわけですけど、それで結果何を成し遂げたんだっけとか、
さっきナイキが言ってくれたようにとか、サルトルの時にも言っていた、
サルトルっていう当時の知識人のトップ、ドンみたいな人が、ある種こういうレビストロースという人にはやっつけられたよみたいな話があった中で、
それってなんでそれができたのとか起きちゃったのみたいな話を今回はちょっとしていこうかなと思います。
はいはい、前も話したけど、その生きているうちにさ、その哲学者が生きているうちにそれを乗り越えられるってさ、あんま今までなかったからさ、すごいなみたいな。
ただそのいわゆる実存主義が乗り越えられたとかっていうとまたちょっと違ったりはするんだけど、ただ明確にサルトルがいわゆるその寄って立っていたものが、
ある種レビストロースによってかなり批判を受けて、しかもそれが致命的だったっていうのは言えるし、ちょっと皆さんに今日お伝えできるかなとは思います。
はいはいはい。
レビストロースがそういう研究から何をある種成し遂げたかというと、もちろんいろんなことがあるんですけど、哲学的な観点で一言で言うと、
いわゆる西洋哲学の中心にあった主体、要は自我とか、小偽ととかって言ってるやつ、理性とかね、
そういう考え方と、あとはヘーゲル以降生まれていた伝承法的に発展していく歴史っていう、この2つの考え方を無効にしたんだっていうことが言えますと。
03:04
分かりやすいのは歴史の方なんですよね。
前回もおっしゃった通り、当時、言ってもつい60とか70年前なので、それこそ僕らの親世代とかおじいちゃんおばあちゃん世代が全然普通に生きている時代ですけれども、
やっぱりマルクス主義っていうのがすごい影響力を持ってたんですよね。
マルクスはやっぱりこんだけ話してるからどこかでやらなきゃいけないなとは思ってるんですけど、
そうなの、一哲学者としてね。
マルクスを哲学の流れでやっぱ話すのはしたいなと思ってるんですけど、
つまりその歴史の流れっていうのは、要はもう進歩主観だから、究極のこういう形に向かって順々に発展していくんだと思って、
そうするとマルクス主義は要は社会主義っていうのが資本主義の次に来るものだって言っているから、
つまり個々人がどう頑張ろうとか、人間がどんなに資本主義が好きでも、歴史の必然として資本主義が倒されて社会主義になるんだっていうのがマルクス主義的な考え方なんだよ。
はいはい、自然の流れなんだという話ね。
そうそう、説理とか運命だみたいな、そんな感じになるんだけど、結構やっぱり当時これがすごい流行ったからこそ、
あれだけ社会主義を作るぞとか資本主義を打倒せよみたいな動きが社会的になってたわけだよね。
ただ結構厄介なのが個々人がどう頑張ってもっていうところが厄介で、そうなるとやっぱり個人の幸せとか生き方みたいなのに執着しないんだよね。
ああ、その個人がどう頑張ろうとっていうのは結構社会主義的な、マルクス的な側の考え方ってことだね。
そうそう、マルクス主義的な考え方としても、歴史の一前だから、別に個人がめちゃめちゃ資本主義を守ろうとしても無理だし、社会主義を押し進めようとしても、結局はどうせ実現するから、その努力って歴史をちょっと早めるかもしれないけど、別に決定的じゃないよねみたいな。
なるほど、そこだけ聞いとると意外とフラットな感じがするっていうね。なるほどなるほど。
そう、いわゆるフラットだし、逆に言うと個人が歴史とどう関わるかみたいなのが結構大きな問題になるんだよね、こういう考え方からすると。
なるほどなるほど。
で、実はそこにはまったのがサルトルの実存主義で、つまりそういう歴史っていうのはある種決まった流れがあるよねっていう時代の中で、でも自分ってどういうふうな存在なんだっけとか、自分から始めて自由である存在、前回言った自由の権威にそせられているっていうぐらい自由が根本にある存在として、
06:08
その外部の存在とか他者とか社会とどう関わるかっていうのがサルトルの実存主義だったじゃないですか。
そうだねそうだね。
ある種そういう戦後とかの、なんか俺たちどうしたらいいんだっていうところに、まずはもう自分なんだみたいなところからある種指針を立ててくれたっていうのがやっぱりサルトルの実存主義だったんですよね。
ああ、そうかそういう順番だったんだ。なるほどなるほど。そうかなんかね、例えば川に流れる草のようにさ、その草って基本川を流れる身を任せるしかないみたいなのが、さっきのマルクス的に言う、個々人がどう頑張ってもその流れには基本下がれないよと。
君たちは一枚の葉っぱなんだと。という時に、その実存主義、サルトルはそういう葉っぱがあっても、今流れているこの川っていうものをきちんと目の前に捉えた時に、
自分たちがどう捉えて、その流れの中で流れるのはしゃーないとして、どう生きていくかっていうのは自分で決められるんだみたいな力強さがあったよねっていうところまで来てたってことだね。
そうそうそうそう。まさにそういうこと。海には絶対たどり着くんだけど、海へのたどり着き方とか、たどり着くまでの流れ方っていうのは、頑張ったらなんとかなるんじゃないみたいな、そういう感じ。
少しぐらい舵取りできるんじゃないみたいなのはまだあるよ、その人間の。
そう。
そういう人間の希望みたいなものを実存主義は作ってくれて、それが意外と社会主義と対立しなかったんだ。
いや、むしろハマるんだよね、それが。
ハマるんだね、面白いね、そこが。
だって、要は歴史の中で人間が川で流れている葉っぱだよってだけ言われたらさ、しんどいじゃん。何にしても一緒だなみたいな。
まあそうだよね、それはマルクス的には意外とそういう雰囲気ではあったんだ。フラットに、どう足掻いても歴史は早まらないし、黙っててもそっちにはいくっていう意味で、その葉っぱっぽいっていう感じはマルクス主義の中には雰囲気としてあるんだね、それは。
早まる可能性はあるんだよね。要は社会主義に参画するっていうのはそれだから。
はい、なるほど。
むしろその歴史の実現せよっていう感じなんだよね。要は伝承法的に進んでいく歴史っていうのをどんどん進めていくことで、最高の世界に至るわけだから。
だから主義というか、それはもう運動になっちゃうんだね。それを俺たちがブーストしてやるんだ、加速してやるんだっていう舵を取っていくんだみたいな話はそれなんだけれども、とはいえここの人間の扱いっていうのは、前回の虚無主義じゃないけどさ、どうせ頑張ってもみたいな風になりがちだったってことなんだね、そこは。
09:12
そうそうそうそう。そして当然第二次世界大戦の後悔した世の中ってのがある中で、よりそれが現実になるわけだよね。
なるほど、その辺が、そっかそっか、うまく重なってたんだね。
そう、時代と思想って重なる部分があるから、だからこそ思想っていうのもムーブメントというか、ブームみたいになっちゃうんじゃないかみたいな話とかって批判もあったりはするんだけど、一旦それを置いといて。
その意味でいうと、構造主義、今回テーマにしている構造主義も、個人と社会っていうのはどう関わるかっていうのはすごい重要視してるんだよね。
そこまでは一緒、個人と社会ってのは、個人っていうのは川に流れる草で別に虜にならない存在だとかっていうことではなく、もっと違う、川とか葉っぱとかじゃなくてちゃんとお互いに関係し合っているものだよねみたいな感覚はあるはあるんだけど、
大きな違いは歴史に対する見方なんだよね。サルトルはさっき言ったマラクス主義的な発想を取り込んでいるから、個人の行動の結果っていうのは歴史が証明するんだみたいなことを言いますと。
どうかというと、行動した時点ではいいかどうかわからない。自由だからいろんなことをするんだけど、それが本当に正しかったかどうかっていうのはその瞬間ではわかりません。
いろんな自由の観点があるから。でもそれが歴史が正しい方向に流れるとするなら、その正しい方向に沿って自分を進めていくっていうのが正しい行動だよねって考えるんだよね。
若干その辺は実存主義、サルトルの実存主義に基づいた倫理観みたいな、どういうことかみたいなところがちょっと含まれている感じがするね。
ヨウ:そうそうそうそう。さっき言った川の流れで言うと、川の流れに逆らうんじゃなくて、やっぱりその川をちゃんと進んでいくとか、他の葉っぱが詰まってたらちゃんとそれを押してあげるとか、そういうのがサルトル的にはそういう行動を人間はすべきだ、そういう責任があるんだみたいな論上になりますと。
言うてもそうだね、全員が出口から入ったらみたいな話だよね。
ヨウ:そう、そう、そう。よくないじゃん。
そっちが入口になるかもしれないけど、そういうことだね。どうせそういう歴史の流れがある以上、ずっと出口から入ってたとしても、どうせ入口からみんな入るようになるんだからみたいな感じだよね。
ヨウ:本当に出口から入るみたいなもので、自分責任とか歴史の流れから見た時に正しい行為なのかっていうのを考えなさいみたいな感じになるんだよね。
12:05
ヨウ:なので、知識人っていうのは、いわゆる哲学者も含めた知識階級っていうのは、そういう正しい歴史の流れを見定めていって、それが自分が常に正しいように誤りなく行動すべきなんだみたいなところにたどり着くんだよね。
ヨウ:要は歴史的に見て正しいとか、そういうところまでたどり着いてしまいますと。
はいはい、サルトルがここまで行ってたんだ。
ヨウ:そう。これはサルトルの存在だもの思想からはもう少し後半の話だから、あえて前回として話さなかったんですけど、サルトルの実存主義がマルクス主義とちゃんと紐づいて発展していくと、こういう考え方になっちゃう。
はい、なるほどなるほど。なかなか強力だね。
ヨウ:そうそう、ここまで強力になっちゃうと批判の対象にもなりやすくなっちゃうわけよね。
ヨウ:まさにレビィストロースが行動主義っていうのが批判したのはここで。
ヨウ:レビィストロースは前回おっしゃった通り、ある種人類学者に哲学で教授というか先生をやりながらもその後人類学者としてブラジルに行ったような人なんですけど、
ヨウ:彼は当時のヨーロッパから見た時の野蛮なとか未開の文明の人たちの暮らしとかを知っているわけだよね。
はいはい、当時の西洋諸国から見た時の野蛮人とか未開な場所みたいな話ね。
ヨウ:やった時に、世界の歴史っていうものがそういう弁償法的に王権を経て、市民社会に変わって共生になってとかだけじゃなくて、
ヨウ:全然違う歴史が世の中にはいっぱいあるってことを知っているわけよ、経験として。
なるほど。
ヨウ:確かに西洋っていうのは思想とか技術的に進んでいる部分もあるかもしれないんだけど、
ヨウ:それっていうのは別に各地の先住民とかが劣っているんじゃなくて、
ヨウ:ただその環境とか状況、暮らしているにはもちろん森に住んでいるのか山に住んでいるのかでも違うし、都市に住んでいるのかって全然違うんだけど、
ヨウ:別に都市に住んでいる人が進んでいるわけじゃないよと。
ヨウ:それぞれの思想とか技術を持って暮らしているっていうのが正しい姿であって、
ヨウ:それっていうのは優劣をつけるものじゃないし、そもそも別の思考なんだから、
ヨウ:ある種一つの歴史というのを前提として、人間の行動とか選択とかっていうのは正しいとか間違ってるっていうのって、
15:02
ヨウ:無意味だしそもそも愚かじゃないかみたいなことを考えるのね。
はい、なるほどね。そのブラジルに行ったりとかした経験でね、そこまで考えるってことね。
ヨウ:って言われちゃったら結構さ、うってなりそうじゃん。
結構難しいね。確かにって言わざるを得ないかも。
ヨウ:さらに手厳しいのはレビストロースがいろんなフィールドワークの知見から、
ヨウ:逆にあらゆる文明っていうのは、自分たちの考えが客観的に優れてると思い込みやすいんだっていうことを言うのね。
ヨウ:つまり、西洋的に、例えばロジカルで考えるのが正しいと思う人はやっぱりロジックを重視する人とか、
ヨウ:たぶん例えば平安時代の貴族とかあったら、
ヨウ:そんなロジックとかじゃなくて、やっぱり趣だとか。
宮城みたいな。
ヨウ:そう、宮城とか。そういうね、直接物事されるなんてありえない恥ずかしいみたいな、
ヨウ:そういう世界があった時に、それはそういう宮城なものを大事にするんだよね。
ヨウ:みたいな感じで、それぞれの人たちっていうのは、やっぱり自分の考えとか文明っていうのを当然大事にしちゃうから、
ヨウ:でもそれっていうのはフラットな姿勢じゃないよねっていうのをめちゃめちゃ言います。
なるほど、今の平安時代の例だと、時間軸でいうとさ、歴史的な比較だからさ、ちょっと優劣つけなんだな、あれだけども、
ヨウ:それがレビストロスはあれだよね、今この瞬間だよね。今生きてるこの瞬間、時間軸じゃなくて、
ヨウ:この瞬間、他の場所、地理的に別の場所にいたとしても、そういうことが起こってるよね。
ヨウ:あそこでは宮城っていうものをすごく大切に生きてるよね。
ヨウ:あっちは神様とか、信仰を重要視してるよね、みたいな。
ヨウ:そういう人たちが全然いるじゃん、みたいな話をしているってことだね。
ヨウ:しかもそれをその人たちは、自分たちこそが最高である、この考え方がとてもすごいものである、っていうものをプライドを持って生きているよ、
ヨウ:全然その幸せにプライドを、まあ幸せかどうかは、幸せじゃない人もいるかもしれないけれども、
ヨウ:みんな生きてるよって話だよね、それに従って。
そうそうそう。だから、ちょっと話が出ちゃうんだけど、面白い話があって、
レリソロスたちが、仙住民のところに、いわゆるフィールドワークに行ったときに、
西洋の学者の人が、その辺に生えている草かな、植物を見て、これは何ていう植物なんですかって聞いたんだ、仙住民の人に。
18:02
ヨウ:はいはいはい。
そう、要は学術的に見たことがないから、知りたいと思って聞いたら、なんか「ははー」みたいな、めっちゃ笑われて、
そんな使いようのない草なんかに名前なんかあるわけないじゃん、何言ってんのって言われたんだよ。
ヨウ:おおー、はいはいはいはい。
うん。つまり、その学術的なとか西洋的な感じで言ったら、要は目の前の方に名前をつけて区別していって、分類していくみたいなものがある、普通の考え方なんだけど、
仙住民として、その地域で暮らしている人からしたら、そんなことはわざわざする必要がない。
ヨウ:確かに。
うん。暮らすのにだって関係ないから。
ヨウ:うんうんうんうん。
これは別にどっちが良い悪いじゃなくって、それぞれの文化とか文明とかを持ってるよねってやっぱり話なんだよね。
ヨウ:うんうん、そうだね、はいはいはい。
うん。でも、たぶんその仙住民からしたら、なんかよくわからんとこから来た奴が変なこと言っとるわいみたいな感じで、
もしかしたら相手をちょっと劣っているというか、こいつ何言ってんだって思ってるとしたら、やっぱりそういう優劣をある意味つけちゃう。
ヨウ:うん、あーなるほど、向こうは向こうで、そっか、こいつこの食べれないくせに名前つけちゃってるよーみたいな、バカじゃねーみたいなことを。
何よくわからないこと聞いてんの?みたいな、意味あるその質問みたいな。
ヨウ:なるほど、愚かだねって思う。
そうそうそうそう。
ヨウ:あーなるほど、逆にね、そっかそっか。
うん。
ヨウ:はいはい。
その視点はだからお互い様なのよ。
ヨウ:なるほどなるほど。
うん。で、フォローまで来るとちょっと見えてくると思うんですけど、そういうレビューストローさんまさに、やっぱ自分は優れてアイデアを取っている。
だからもしかしたら西洋から、そういう、あのーなんだ、ブラジルとかそういう先住民だけじゃなくって、先住民から西洋っていう視点ももちろんあるんだけど。
ヨウ:うんうんうん。
そういうもの自体を、えーと、なんだろうな、今占めるんだけど、まさにその態度をマルクス主義の歴史家が持ったサルトロン実存主義っていう風に見出すんだよね。
ヨウ:あーなるほど、はいはい。
そう、さっき言った通り、一個の歴史を絶対大事だとして、そこの歴史に従わない人はとか、その歴史上、古い世界とか歴史に住んでる人は愚かだっていう風に言った時に、
でも世の中には、普通に例えば石器時代みたいに、縄を編んでとか、ハンマーも普通にその辺にある素朴なもので作ってる人達がいるんだけど、
彼らの生活には別に歴史もないし、当然歴史的にこれは自分の選択は歴史に貢献するのかどうかみたいな選択とか決断もないんだけど、
だからといって別に人間として全然自由だし尊厳もありますよね。
ヨウ:はいはいはい。
21:00
うん、思って言うと別に彼らがそういう西洋の歴史に追いつこうと必死になるわけでもないし、別にその必然性もないよねっていう風に言うのね。
ヨウ:まあそうだね、確かに。
そうそう、だから言われてるのは、そこに正しい歴史を歩んでいないとか、歴史の過程で取り残された未開示みたいな視点を持ち込むっていうのは、
ある種その伝承法的に現れる歴史っていうものさしで、
歴史的に正しいことをする人間だけが正解で、それ以外は間違ってるんだっていう風に断罪するっていう、
そういう一個の味方に囚われた発想だよね。
ヨウはそれって、サルトルが未開示とか非西洋人に対して「お前ら劣ってんじゃん」って言ってるのと、
全く同じ振る舞いをアンダしてますよねっていう風に言うのね。
要は自分の文明とか歴史とか思想に囚われてますよね。
これレビストロスが言うには、サルトルの哲学のうちには、野生の思考、
ある種未開示って呼ばれてる、別に未開示はいないんだけど、
あえて当時の言葉で言うとしたら、未開示の人たちの思考の特徴っていうのが見出されます。
それゆえにサルトルっていうのは、野生の思考、要はあいつらは野蛮だとか、未開だとかっていう風に、
そういう風に言う資格はないんだっていう風に私たちに思われるんだ、みたいなことを言っていて。
そういう実存主義、サルトルの言う実存主義っていうのが、
それ自体が否定する非西洋的なというか、
先住民の思考とそのパターンが変わんねえじゃんかっていうことを突きつけるんです。
はあ、すごいね。
へえ、この流れで言われちゃうと、確かにこれはあれだね、死ぬかも。
無理かも。
って思うでしょ。
そっか、それにどう反応しようかな。
だってね、言うても俺はあいつらとは違うんだ、みたいな話をしようとした時に、
ただこれ、そうだよね、弁償法的な話とか、そっちの視点から考えてると、
結局その同じ土俵に行っちゃう時点で、
もうあれだよね、これはレビストロース、これちょっと違うかもしれないんだけども、
レビストロースがサルトル実存主義と、
イエルスの人々、サルトルとかがもしかして野蛮だ、未開だと思ってた別の文化、
そういうところがアウフー・ヘイベンされた瞬間みたいな感じなのかな、みたいなね。
24:05
そこさ、一つの確認されちゃったじゃん、違うと思ってたのに。
君たち同じなんだよってさ、
君たち実は仲間なんだよってレビストロースに言われた瞬間、もう無理じゃん。
いや違う、俺たちはここが優れてるとかって言うと、いやもうそこ比較しちゃってんじゃん、みたいな。
もう無理だよね、そこやられちゃうと。
だからこそマラクシ主義自体も、やっぱりこの構造主義で乗り越えられてるってのはそういうことなんだよね。
要は歴史的な伝承法的な歴史観。
要は進歩式観で一直線に進んでいくって考え方自体が行き詰まっているっていうことの指摘に繋がるんだけど。
はいはいはい。
確かにそこで反論できるとすれば、実音主義というかサルトルにはその次元じゃない、
全然そことは違う次元でちゃんと考えてたんだっていう風にまた証明だったりとか論理展開できるはずが、
そこで言葉が詰まってしまうと、えっとってなってしまった瞬間負けなんだね。
負けだし、やっぱりサルトルはその自由な、自由の権威に支えられている人間の決断の正しさっていうのは歴史が証明するっていう風にやっぱり歴史と自分とくっつけちゃってるから、
歴史がないって言ったらじゃあ人間の正しさっていうのは証明されないという風になっちゃうし、
人間自由がないというか歴史だけが正しいってなると結局それは、
でもそもそも歴史っていうのはないからみたいな話でそれもやっぱり批判されてしまうから、
すごく苦しい立場になったってやっぱりそういうことなんだよね。
なるほどね、そこくっつけちゃったがゆえにね。
そうそうそうそう、と僕は思う。
だからこそそこくっつけなければね、多分人々からこんなに人気を博することはサルトルはなかったんじゃないかなとも思うしね、
当時どうしようって困ってた人が、やっぱりそのベクトルをちゃんと向けてあげるっていう場合だと、
例えばね、自分たちはこういうふうに物事を認識するんだよって言われても、
じゃあどうすればいいんだよってなるところに、じゃあどうすればいいっていうベクトルを多分、
伝承法と歴史観みたいなものとくっつけることで、人々が「うわーそうだ、相当にな」みたいな、
「俺たちはそういうふうに生きていくんだ」みたいな、やっぱりその力になった、パワーになった、相当になんだけれども、
それゆえの隙ってものがレビシドロースからすると、こういうふうな形でつけ入る隙ができてたってことなんだよね。
27:03
そうそうそうそう。
だからハヤトが実存主義そのものを構造主義が乗り越えたっていうよりは、どっちかというとサルトロを乗り越えたんだよというか、
そういう話につながってくる感じがしたね。
そうだね、実存主義自体は僕はすごく大事な観点だと思っているし、全然それでやっぱり救われる人がいるって、僕自身もそうなんだけど、
そう思っているから大事にしたいんだけど、やっぱりこの連勝法的力士観と紐づいた実存主義、サルトロ的実存主義っていうのは、やっぱりこうある種西洋中心主義と言われてもしょうがないというか。
そうなんだね、前回の実存主義からはね、その色はあんま見えなかった気がするけど、今の話聞くと結構色がついちゃってるんだね、このサルトロね。
あえてちょっとそれを消しちゃった感じかも、僕が前回は。
はいはい、フラットにするべきかということね、実存主義というか、勝手に焦点を当てる意味でね。
うん、はいはい。
そうなので、まさにマニキュやってくれた通りなんだけど、やっぱり思考とか文明には要は優劣がないよねっていう話をレビストローシとかしていて、
だからフラットにしようよ、同列にしようよって話なんだけど、サルトロからするとある種、1個だけが正しい、俺が、俺がというかこの思想が正しいって言ったところを引きずり下ろされて、結局実存主義っていうものの有意性がなくなってしまったみたいな。
なるほどね、前の話を持ってくるのはあれだけどさ、自分たちがヘイデルの回でハンバーガーやったじゃん。
はいはい、ハンバーガー。
まさにあれだよね、と思ったよ。
ちょっと、ちょっとだけ説明したいことは、ハンバーガー村でね、ハンバーガーだけで仲良くしている間はいいけど、俺はチーズバーガーだっていう人がいた瞬間に対立が生まれるみたいな話を確かしたんだよね。
そう、米治法理解する中でね。それと同じだよね。自分たちが、しかもその中で個人的に面白いと思ったのが、自分たちがハンバーガーだと認識していない状態でそれをやってるっていう話だったんだよね。
だから例えばサルトルが、それこそチーズバーガーだから俺たちはすごいって言ってる時に、ハンバーガーっていう概念がない時だよ。
で、あっちで、未開示みたいな人たちがただのハンバーガーだとすると、その、そのハンバーガーじゃないんだよ、自分たちはハンバーガーと認識していない状態で、あっちのただ肉に、パンに肉を挟んだ奴らは、こっちのチーズを挟んだ俺たちよりも劣っているんだみたいな話をめっちゃしてると。
で、俺たちはこのチーズを挟んだりとかレタスを挟んだりとかして、もっといいパンの料理になっていくんだみたいな話をしてて、あっちは劣っているみたいな話をしててみない、そうだそうだみたいな話をしてる時に、
30:15
で、ヴィストロースが、いや、言うて君たちハンバーガーじゃん、っていうそのハンバーガーっていう括りをつけたことで、あっ、あっ、ってなっちゃう。で、君たちもハンバーガーじゃん、そっちもハンバーガーじゃん、君たち同じだよ、みたいな話をされたサルトルが、
ナスすべなく立ちすくむ、みたいな話、もうちょっと想像した。 でもホントさ、言うてもあれチーズ入ってるし、どこかやっぱり言えないわけ。 言えないよね、おいしいじゃんとかしか言えなくて。そうするともう同じ土俵に立っちゃったもんね、みたいな。
そう、だから構造主義はまさにそういう、なんだろうな、その土俵をやっぱり作る、みたいなところとか、フラットにしたがゆえに、その思想としてやっぱ強くなったんだけど、さっき言った通り、今日の冒頭に言った通り、歴史の主体っていう話をしてないですか、
もうちょっと同じくらい主体側の話をすると、そのように歴史の正しい流れっていうのが存在しませんよ、っていう風になると、その世界で人間感もまた変わるのよね。
どうなのかっていうと、ある種その特定のやっぱ自在とか地域とか社会集団、ここにやっぱ所属している人間が、その囲まれた環境の中で、ある程度限定的に物事を考えているよ、っていう風な人間感になりますと。
むしろそうなってなかったの、サルトル。実造主義で。
だって自由だからさ。人間は自由に無制限に理性の力を使って、世の中の荒いものを知れるっていうのが西洋哲学の理性だからさ。
観渡的にやっぱ物自体は見えないけど、物自体のギリギリのところまでは見れるとか、神の存在も証明できて、自分たちの理性をちゃんと働かせると、世の中の隅々までちゃんと解き明かせるっていうのがその時の時世とか主体っていう話だから。
なるほどね。サルトルの実造主義であっても、そういうふうにさっきの歴史ね、伝承法的に歴史観っていうのはそういう方向に働くのか。
そういう自分たちが成長していく、発展していくと。
なので、ある程度やっぱり自在とか社会に慣れてたものを受け取って考えさせているんだっていうのは構造主義的な考え方として出てきますと。
これってめちゃめちゃ常識だって話だと思うんだよね。一気とかからしても。
そう思った。だから今の疑問。
33:02
でも実はこの間から常識になったっていうのは、西洋的な歴史観でいうと、ここ数十年の話だけで、人間の自由っていうのが環境によって一定制限されているとか、人間の思考っていうのも文明とか文化によって影響を受けているっていうのって、実はこの構造主義的な考え方なんだよね。
そうなんだね。
これが現代人がその構造主義の中で物事を考えて生きているっていうことで。
実はこれには裏返しがあって、つまり、要は社会とか文化から影響を受けるんだっていうことは、逆に言うと、自在とか社会とかが無意識に排除してしまっている問題っていうのは、そもそもその中に生きている個人の認識の対象にもならないし、考えることもできませんよっていうふうに言うのね。
そういうとおりだね。
だから人間っていうのは、自由で自律的で思考を巡らせれば何でもかんでも世の中の棲みをからすみまで解き明かせるって思ってたんだけど、実は全然そんなことがないんだよっていうのが構造主義的な人間観です。
なるほど。はいはい。
だから、わざわざ人間の自由が制限されているとか考えないとすると、ある種その社会における自由とは何かとか、真の自由とは何かみたいなことを考えない社会に生きているからそうなんだっていう。
誰が?我々が?
我々が。
ふんふんふん。
だってさ、別に生きてて不自由だとは思わないじゃん。
ふんふんふん。はいはいはい。不自由?
それこそサルトルみたいに言うと、やっぱり入り口と出口っていうのがあったときに、スーパーとかにね。
僕らは入り口から入るっていうのは当たり前に思ってるけど、当然出口から入るっていう自由もあります。
はいはいはいはい。
別にそれを言われなかったら別にそれは不自由だとは思わないでしょ。
まあ確かにね。はいはいはいはい。
なるほどなるほど。
そう、そんな不自由だと思わない。
例えば、なんで小学校6歳になったら日本では小学校行かなきゃならないの?とか、義務協力の義務って何?とか。
はいはいはいはい。
そう、なんで結婚しないと、なんかまだ白い目で見られる社会なの?とかって、普段は考えない。
ふんふんふん。なるほどなるほど。
でも、やっぱりこう、学校に行くんじゃない?って自分の子供が言うとか、自分は結婚せずに、例えば56歳だったときに、なんか周囲から白い目で見られるとかってなって初めてそこの矛盾に気づくっていう。
あーはいはいはいはい。
36:00
そう。
なるほどなるほど。そういう社会というか、そういう文化の中に生きているっていう意味でね。
意味でねってことね。はいはいはい。
そう。っていうのがすごく構造主義的な課題なんだよね。
ふーん。課題?
ふんふんふん。
うん、課題。だって無意識ってことはさ、問われないままに人間に影響を与えているものがあるってことじゃん。
うんうんうん。
ここから実はその後の権力とかジェンダーとか、そういう、あとは法律とかもそうなんだけど、そういうものの分析にこう、どんどんどんどん進んでいくんだけど。
はいはいはいはい。
なぜ男は男で女は女なのかみたいな問題も、やっぱちょうどこのぐらいの時代なんだよね、出てくるのって。
へー。
本当の意味で哲学的な対象として出てくるのって。
そうなんだ、そっかそっか。この構造主義があって初めてそういうものに焦点が当たるというか、その、認識されたんだ。その哲学の分野としてね。
そうそうそう。
が、まあ、そっか、はいはいはい。
それは要は、社会から無意識的に排除されてるんじゃないかっていう光が当たるようになったからなんだよ。
はいはいはいはい。無意識的なのか意識的なのか知らんけどね、みたいなね。
そう、そうそう。
うーん。
まあ、みたいなことがあるので、その構造主義的な考え方とかポスト構造主義みたいな考え方っていうのはすごく僕らの常識に当てはまってるんだけど、
うんうんうん。
やっぱ構造主義も乗り越えられる可能性がある思想だとか、むしろそれを乗り越えなきゃいけないって動きっていうのも実はすごくはらんでいる。
はいはいはい。
その構造主義的なものの中に。
それは今話してくれたことだよね。その構造っていうものに人間が支配というか、無意識的に、さっきのね、学校にはいくものだとかね、結婚するもんだ、何歳までにみたいなものに縛られてる、そういうルールの中で生きちゃってるとしたら、
逆にさっきハヤトが言った、そこに対して問題意識だったりとか課題感だったりとか、ある意味その持てなくするような大きな力も働いてるんじゃないか。
そうすることで、その共同体というか、そのコミュニティ、その文化自体っていうものが、その理想っていうものを本来的にこういうふうにもっと良くなっていくっていうようなことを考える人がちょっと少なくなっちゃったりとかして、
なんかその、悪くなっていくかもしれないとか、不具合が生まれるかもしれないみたいな。で、生まれた時にそれをうまく解決する、解決していく手段とかっていうものが、構造主義だけだと、
39:07
存在しないというか、ちょっと足りないな、みたいな感覚があるのかもね、みたいなのがさっきの主体に関わる話なのかな、ちょっと。
そうだね、うん。でもほんとそんな感じ。
そう、なのでやっぱりその構造主義を乗り越える人たちも当然この50年60年でいっぱいいらっしゃるわけだけど、それも構造主義の枠を越えないよねみたいな話のループに陥ってるというふうに言われている。
そうなんだ。
例えばさ、今言ってくれたような兄貴の多様性というか、それぞれにいいことがあるよねみたいな話って、結局その感覚自体は構造主義的なのよ。さっき言ったように西洋だけじゃなくて東洋もあるとか、
フラジルも南米もあるとかっていうのは構造主義という考え方だから、多様性を押し進めていっても構造主義の枠は越えないのよね。
はいはいはいはい。
だから前回に言ってくれた通りそういう改めて実論主義的なというか、統一とかそういう均一性みたいなものが哲学に戻ってくるんじゃないかみたいな感覚もあるのかもねとか話もあるというか僕も思ったりするんだけど。
やっぱりこの構造主義が行き過ぎると、相対主義、別にあなたもいいけど私がいいみたいな、私も別にいいよねみたいになって、そうするとニヒビズムになるわけよね。
でもまさに時代はやっぱりそのいわゆるマルクス的なとか伝承法的なこれが正解だっていう方といやいや正解なんてないんだよっていうことを行きつもどれつしていて、今はどっちかっていうとこれは正解ってないんだよの時代。
ただそうなると世の中的にも結局面白いのがブレグジとかでイギリスがEUから離脱するとか、アメリカトランプ政権で要は自国主義になって外交ってよりも内情を強くするみたいな話っていうのも全部そこの揺れ動きなのよね。
要は開いて統一するとか、価値観を共有していくってところからやっぱり自国中心主義とか自分たちだけがいいっていう風になっていくと分断されていくっていう。
でもそれはやっぱり経済の論理としては一種正しいんだよね。要は自分の国の富を外に飛ばしてしまうよりは、中で自国を揺らせた方がいいよねっていうのはもちろんあるわけだし。
結局外に開いておかないと、要は今の世の中ってもうめちゃめちゃ繋がっているからその流通が途絶えちゃって結局無事しくなっちゃうんだけどみたいな。
42:02
そこのバランスが揺れる動きっていうのは思想にもあるし、当然世の中の経済とか社会の仕組みとかっていうのにも影響している。
はいはい、なるほどね。今日ここまでの話を聞いて、今ね経済の話が出たからってわけじゃないんだけれども、すごく感覚としてマクロ経済とミクロ経済、だからマクロとミクロみたいな視点にすごく近いのかなとすごい感じたんだよね。
実存主義、このサルトルのちょっと色がついちゃってるって部分は今日初めて知ったんだけれども、その色がついてないとして、目の前にあるものを自分で捉えていくんだっていう感覚、それだけを見たときに
それってそれを素直に聞くとさ、今日話してくれた、何らかの制限の中、社会的制限、構造主義的なところの文化とか社会っていう制限の中で生きているっていう個々の人間は
自分のその認識対象だよね、サルトル的に言う、目の前に広がったものを見たときにも、基本そういう風にしか外部のものって認識できないわけだから、その理想が云々とかって言うわけじゃない部分ってあるじゃん。
その中に自分が出会う人、ものとかって見たときには絶対その社会の中にいる人達とものが、今SNSとかあるからちょっとあれだけれども、基本的にはそうなってくるというときに、その視点はすごくミクロ的な視点としてはあり得るよね、実存主義的なスタンスってものは。
一方で、じゃあそのマクロ的に、今の社会はどうなっているの?っていうのは、その素朴な赤ちゃん的なさ、僕は子供でもいいんだけど、そういう自分の今目の前に広がっている、じゃあ学校に行きなさいみたいなものだったりとか、朝会ったらおはようって挨拶しなさいみたいな、
そういうものに出会った自分っていうものが、それを社会的なマクロ視点でそれはなぜそういう風なルールになっているのかっていうのを知ることは基本できないんだよね。
親とか周りの環境から経験的になったりとか、それこそ義務教育で教わりながら、なんとなく教わるのか知るのか洗脳されるのか知らんけれども、それで培っていくもの、身につけていくもの。
だから人間が普通に素朴に生きていると、構造主義的な感覚っていうものは基本的には得ることはできないと思うんだよね。
っていう意味でのマクロ、哲学、哲学か知らんけどね。
そういうミクロとマクロで、それこそレビィ・ストロースが言った通り、どっちが優れてるとかじゃなくて、結構両輪な感じがしたよね。
45:07
そうだね。だから多分、現実的に僕らが普通に生きている中で考える間は、両輪だよね、両方大事だよねって多分よく言って。
思想的に突き詰めていくと、両方大事だとすごい緩くなっちゃうから、やっぱり突き詰めていくっていう風になった時に、構造主義はマクロ的な、兄貴がいるところのマクロ的なものを突き詰めていくんだよね。
だからね、そういった意味で、さっき言ったような権力とか、もちろん教育とかもあったりするんだけど、教育って何でこういう風に存在しているのかみたいな話とかもあるし。
それもあれか、構造主義的な哲学の範疇になってくるんだ。
教育学ではなく、教育学はどういう風に子供を育てるかだけど、そもそも教育というのは世の中的にとか社会的にどういう存在なのかとか、どういう働きを持つ概念なのかっていうことを考えるのは哲学なのかな、哲学的な教育を範疇にしたものみたいな。
そういうことになっていくんだよね。
そこは学問の面白さというか、深さという感じがする。
だからやっぱり混沌としてくるんだよね。テーマがすごく広がってくるから。
そういうのが構造主義以降の哲学だし、僕もその辺あたりもっとちゃんと勉強しなきゃなと思って、今改めてラジオをやりながら読んでるんですけど、やっぱり難しいというか、すごく広がっていくっていう。
みたいなところで原理がレビストロースのこういった報道主義的な考え方とか、サルトルの実存主義を乗り越えた批判のところに乗っかってきてますよ、みたいな話が今日でした。
確かにそれまでの西洋哲学ぶっ壊したというかね、全部ガラガラと崩した感じが半端ないね、今の話を聞いても。
そうなんだよね。
今ね、今回まさにそういう何を成し遂げたかみたいな、ちょっと大きな話、まあ抽象的な話をしまして、これに比べると個人的には何を実際研究しましたのですかとか、どういう手法を使ったのですかとかは、あんまり僕の魅力には感じない。
別に興味の範囲ではないみたいな。
面白いんだけどね。でもただ面白いので、私はやっぱりレビストロースでそういった手法をいろいろ組み合わせたっていうところが魅力の一つではあるから、
48:00
ちょっとそういうね、冒頭も言ったレビストロースといえば外せない婚姻関係の話、そこをちょっとお伝えしていって、よりレビストロースを詳しく知っていくという話でお伝えしていきたいなというふうに思っております。
次回はさらにちょっと具体的な話ということだね。
これをあれだね、今日聞いた話をどういうふうに構築していったのかっていう話を多分してくれるというところで、じゃあ次回も引き続きよろしくお願いします。
次回もお願いします。本日もありがとうございました。
(♪ BGM)
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