1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #32 カント編の前に近代哲学史..
2022-08-14 49:20

#32 カント編の前に近代哲学史。デカルト、カント、ヘーゲル、マルクスで近代西洋哲学の背骨を俯瞰する

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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♪~
はい、それ鉄ラジオ始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
このラジオは身近なテーマをきっかけに、鉄学院について楽しく学んでみようという番組です。
鉄学好きの弟と鉄学院なじみのない兄の兄弟2人でお送りしていきたいと思います。
改めまして、兄の元野京介です。
弟の駿人です。よろしくお願いします。
はい、よろしくお願いします。
前回は、近代鉄学入門というところで、近代鉄学の父のデカルトについて色々教えてもらいました。
はい、そうですね。今回ですね、前回からもさしていた通り、関東を取り上げていくんですけど、
色々僕も考えたりとか改めて学んでいる中で、兄貴も前回の雑談の時に言ってくれたんですけど、
全体が分からないと、その人が何をしたのかとか、何でそんなことを言っているのかが分からないとかってあるじゃないですか。
改めてデカルトやって関東やってって思ったんだけど、それぞれの人を見ても、僕も正直分からないというか、
あんまり喋っていても伝わる感じはしなかったんですよ。
なので、今回は一回分使って、関東入門みたいなところも含めて、近代鉄学の全体を見るというのは不可能なので、
全体というよりは、この有名な人というか、この大きな流れというのを一個捉えて、それが背骨みたいになっているのね、近代鉄学における。
それを押さえた上で、じゃあ関東って何した人なんだっけとか、デカルトとどういう関連があるんだっけみたいなことを、
ちょっと一回目でお伝えできると、この後も理解しやすいんじゃないかなと思ったので、
ちょっとそれをまとめて聞いてみましたっていうのが今回やろうとしていることです。
(岡田)了解です。
そういうことは、この前のデカルトの近代鉄学の父から繋がる子供、孫みたいな、そういう系譜みたいなものを見ていく感じなのかな。
そうだね。系譜っていうと、例えばデカルトの教えを継承して関東が深めたとかっていうイメージだと思うんだけど、実はそうではなくて、
乗り越えたり統合したり批判したりっていうのをいろいろバチバチやりながら、
元立ちゃんて言うんだけど、物の見方がその人を境に結構変わるとか、そういうのがあるんですよ。
なので、ちょっとそのあたりを今日はですね、大きくデカルトで関東、次のヘーゲル、あとマルクス、この4人っていうのを主題にお話ししていきたいなと思ってます。
はいはい。そうなんだ。じゃあ時代を遡るっていうよりは、どんどんデカルトから近代にどんどん向かってくる、現代に向かってくるみたいな感じです。
03:00
そうです。そうなんです。
デカルトは前回は最初のとおり1600年ぐらいの人なんだけど、関東は1724年生まれなので、デカルトから実はもうすでに100年ぐらい後の人なんですよね。
その後、ヘーゲルとかマルクスが出るのが1800年から1900年の間ぐらいなので、あと20世紀に入る手前ぐらいまでが近代哲学っていう。
はいはいはい。1世紀に1人ずつぐらいそういうイメージが出てきたねみたいな感じなんだけど。
そうなんだよ。ヒカロン的には。やっぱり思想とかってそのぐらい時間が経って変わっていくものかなとは思うんだけども、逆にデカルトと関東の間、1600年か700年の間に有名な人がいないかというと全然そんなことはないんですよ。
例えば、兄貴は何人ぐらい知ってるかとかわかるんだけど、例えばパスカルとかスピノザとかライプニッツっていう人たちがいたりして、この人たちは実はその大陸合理論っていう、いわゆるフランスとかドイツとかの大陸、ヨーロッパ大陸で活躍した人なんです。大陸合理論とかって言われたりしてますと。
もう一方にはイギリス経験論って言われる人たちがいて、これがロックとかバークリーとかヒュームって言われてる人たちなんだけど、大きく分けるとデカルトも前回お伝えした通りフランスの人なんだけど、なので大陸側の人なんだけど、結構合理性とか経験じゃなくて自分の考えてることとか心とかが大事だみたいな。
心っていうのも感情とかってよりは理性的なものだよね。っていう人たちがいて、一方ねイギリス経験論の人たちは経験っていうぐらいなので、別に観念とか、よくわからない考えるものとか言ってもなんだそれ全然わかんねえじゃねえかみたいな。
そのの規範だっていう批判はもちろんあって、だから経験、ロックとかがタブララサ、白紙って日本で言うと白紙っていう言葉があって、それも倫理の教科書とかに載ってたりするんだけど。
そういう何かもともとあるものを使って合理的に考えていくんだじゃなくて、人間は白紙だからそこにいろんな経験とかやっぱり体験を積み上げていっていろんなものができていくんだみたいな、すごいざっくりとね。みたいな結構大きな理大潮流があったんだよね。
はいはい、確かになんとなくあれだね、今まで大陸ゴリラの方が演劇法で、イリス的な方が機能法みたいな。
そうだね。
そういうざっくりと考え方で言うと、そういう元を作ったグループなのかなみたいなイメージは持ったかな。
もっと言うと、彼らの考え方とかから機能方法とか演劇法っていうものがもっとちゃんと精密になっていったみたいな感じかな。もちろん機能とか演劇っていう考え方はもともとあるんだけど。
06:09
今ね、ソラリテュートラジオは一人の哲学者にスポットを当ててやってるわけだけど、今あげただけでも6人くらいの人たちがいて、それ全部取り上げてたら、それだけで年越しちゃうし。
そう。僕が伝えたいなと思ってるのは、もちろん一人一人の哲学者、面白いよ、もそうなんだけど、それによって人間の考え方ってこう発展してきたよねとか、そういう考え方ってちょっと突飛に見えるけど、僕らも確かにそういう考え方してるよねみたいなことが面白いなと思ってるのね。
確かに、そうか。まずはそうだよね、自分も全然哲学って素人だから、例えばさっきので言うとパスカルこんなことしました、でも楽しめるとは思うんだけども、やっぱりちゃんと木の幹っていうものをしっかり古代西洋哲学があって、一方東洋はこうで。
暗黒時代を経て近代哲学になっていくとこんな感じっていうふうに、木の幹、枝、草葉みたいな意味でいろんなグループとかここを補強する、ここをもっと理解するにはこの草葉わかるといいよねっていう楽しみ方っていうのが、そういう順番でやってもらうと本当にすごい助かるというか、また楽しみ方に深みが出てくるのかなとかね。
わかってなかった、そうそう。そうだね、やっぱりその方がね、それぞれの点で理解するっていうよりは全体の中でこの辺の一致な人なのかなみたいなのがわかると思うし、っていう感じで大掴みでやっていきましょうと思ってるんだけど。
関東はね、何がすごいかっていうと、間違いなく関東って哲学界の大巨人で、普通にその学者さんとかに、その本を書いている学者さんとかに言わせても5本の指に入る、その哲学者で偉大な人をあげろって言われたら、5本の指に入るぐらいの人なのね。
関東は何がすごいかっていうと、さっき大陸合理論とイギリス経験論という2つの流派があるよって言ったじゃない。それを統合したのが関東って言われてるのね。
で、もちろんデカルトは近代哲学の父ではあるんだけれども、やっぱりまだその中性的な神とか宗教的な考え方っていうところから、当然抜け出せてはいない。そういうのを前提にしながら、ある種合理的に人間がどう考えるかということを進めていったっていう感じなんだけれども、
関東に至って時代がそこからさらに100年以上経ってるっていうのもあるし、思想も深まっているっていう中で、一旦神っていうものから切り離して世界とか真理っていうものを考え出すっていうのが関東がやってることなのね。
それでその観念論っていう理性を使えば何でもできると、経験論っていう人間は後から身につけたもので生きてくるんだっていう、ともすると矛盾してるじゃんそれって。
09:10
そうだね、対立してる気がする。 そうそうそう、交わらなそうなんだけど、これを交わらせてちゃんと理路整然とした考えまで消化させたのが関東っていう人なんですよ。
おー、それはすごそう。すごい。 すごそうだし、借りられた知識の中でいうとナーガール・ジュナ的な、中庸的な、それが妥協とかじゃなくてバランスとった方がいいですよレベルじゃなくて、もうガチでそれをもう、お議論レベルでやっちゃった人って感じなんだね。
そうだねそうだね。あとはやっぱりそのデカルトの同じで、じゃあ関東を学べば僕らが何か抱えている問題とか悩みが全部解決するかっていうとそんなことはもちろんないんだけれども、
むしろ誤解を恐れずに言うと、さっきお伝えしたデカルト・関東・ヘーゲル・マルクスっていう哲学者が考えていることって、僕らが普段生きている間に身につけるものの見方と結構重なるんだよね。
そうなんだね。 だから僕らが常識だと思っていることを、そもそも300年とか400年前に捉え直して、それが常識じゃなかった時代にきっと人間はこうだとか、世の中とか社会っていうのはこうだって言っている人たちがこの4人というか、近代哲学っていうものがそういう営みで、象徴的なのがこの4人であるみたいな考え方がありますと。
なるほどね。じゃあもう本当にかなりリアルな意味で、こういう人たちの作った土台の下で多分うちらは物事を考えたりだとか、学問をしたりだとかしている可能性がとても高いってことなのかな。
とても高いというか、まさにそうだね。正直最後にも言うんだけど、まだ21世紀に入ったけどマルクス主義を超えれてないみたいな話は結構あって。
社会とか経済みたいな時にそれを超える理論って言うて批判はするけど、じゃあそれを誰か乗り越えたの?みたいな話で言うと、まだ批判、ちゃんとした批判がないみたいな話か。
乗り越えてないって感じだね。批判はあるけど、それを乗り越える説ってなんだっけ?みたいな。っていうのがあるので、それもぜひ面白いので、ちょっとさせていきたいんですけど。
そんな意味で、じゃあ今日は4人はどんなことを言ったのかっていうと、すごくざっくりね。なので、間違ってる前提で聞いてほしいです。それぞれの人はそれぞれでちゃんと取り上げるんで。
これは間違ってるよっていうのはその時また言うんで。デカルトは前回までの話で言っていた通り、我ありから始めますよと。
彼が何をしようと思ったかっていうと、それまでの常識とか、世間一般の考えっていうのに頼らずに、自分でちゃんと自分の正しい道とか世の中の認識をやっていきましょうっていうことをやったっていうのがデカルトでしたと。
12:04
1600年当時で言う常識っていうと、神が作った世界とか神の真理みたいな、そこに頼らないでっていう意味でね。
普通に考えても、例えば日本では正しい、家に帰ったら靴を脱ぐみたいなものが、アメリカ、ヨーロッパのものか分からないけど、地域にあったら違うとかっていうのがあった時に、自分が正しいと思っていることって、実は時代を超えてとかいうことでも全然なく、普通に世の中一般に違うと思っている人がいるっていうのはあるじゃない。
あるある、確かに。 国がじゃなくても同じ、日本でももちろんそうだしってなった時に、自分で考えるか。
「のって大事だよね」とか「うのみにしちゃダメだよね」みたいなのは理解しやすいと思うんだよね。
確かに、自分がどういう社会とかどういう文化で生きているのかっていうのを認識しとくみたいな話だよね。
そうそうそうそう。で、ただね、兄貴も前回言ってくれた通り、誰もが自分で考えるだけで、それこそ人と共通理解を生むとか、普遍的にこれがいいことだよねみたいなものがないと、世の中、人間関係とか社会って成り立たないじゃない。
個人レベルで言えばそこはすごく自由だし大事だけど、社会とかコミュニティで言うとやっぱり難しくなっちゃうもんね、それは。
そうそうそうそう。果たしてそういう、そもそも共通理解とか普遍性ってないの?みたいなことを実は取り組んだのが、今回テーマで取り上げている関東なんだよね。
で、関東は何をしてやろうとしたかっていうと、すっごいざっくりだよ。すっごいざっくり言うと、デカルトの我ありに対して、デカルトは神を置くことで人間が存在するとか自分が存在するっていうことをある種保証したわけだよね。前回神の存在証明でお伝えしたんだけど。
ぜひまだ聞いてない方いたらデカルトの我ありからの神ありみたいな気配をぜひ聞いていただきたいんですけど。ただそうすると当然神がないと人間もないとか存在もないってなっちゃうから、
神、もっと言うと根本存在とか絶対的な存在というのは置かなくても、人間にとっての客観的な世界っていうのは一定の仕組みによって誰でも同じように見ることが、捉えることができるんです。
だから共通理解は可能。要は人間の物事を見る枠組みっていうのが一定定まったものがあるから、そこは実は共通理解が可能。同じような眼鏡を通して本当はちゃんと見てるから共通理解ができるんだよみたいなことを言うのね。
もっと言うとこれまでの哲学って、これまでの1700年くらいの哲学って、やっぱり真理とは何かとか本当とは何かみたいなことっていうのは結構重要なテーマだったんだけど、
15:01
その本当のこととか真理ってのは知らなくても、その意志、人間の意志の力によって実際の生活とか社会をより良くすることができるよねみたいなことを言いますと。
そっかそこが結構違うんだね。前と。
そう。だから結構それって常識的なことに僕らからしたら聞こえるんじゃないかなと思っていて、普段の生活でこの世の中とは何かとか、本質は何かとか考えなくても、
普通に誰かと仲良くしようとか、優しくすれば大事みたいな、別に精神論じゃないけれども、でもそういう心分けとかで世の中って良くなることは全然あるじゃない。
うんなし、そうだね。デカールとカントとか、こういう人たちが考えた哲学だったり思想っていうもとに、たぶん今後国とかが作られているとすると、これ単純に比べると違うとは思うし、もちろんよしやしではないとは思うんだけれども、
暗黒自体がカトリックとか神っていう真偽だったりとか共通認識みたいなものの中で世の中が回ってたとすると、その後、例えばさっきハイトが言ってくれた人と仲良くすべしだとか、みんなで協力すべしだとか、
道徳とか能生すべしとかいろいろあると思うんだけど、それを一人一人が個人が何も考えなくても、それに従って生きていくことで個人も幸せだし、社会的にも一定の方向に進む、悪くない方向に進むみたいな、そういう仕組みがもうできているとすると、
それは、ある意味人間個人のアップデートというよりは、ちゃんと社会がアップデートされたっていう感覚っていう意味で、何言いたいかわかんなくなってきたけど、この哲学がどう使われてきたかっていうところが、社会に向いたのか個人に向いたのかみたいなところがちょっとまた違いがありそうで面白いなっていうのを、今のって感じと、関東の比較っていうところは感じたっていう感じかな。
だからその影響が多分良い悪いっていうよりは、社会全体に対する影響力がすごく強かったとか、すごく利用というか活用された、みたいな面がちょっと今の関東の話から感じたっていう感じ。
なるほどね。もちろん一人の思想が世界を変えるみたいなことはそこまでではないから、関東がいたからその後の国がこうなったとかではないものの、マニキュアが言ってくれてる通り、多分時代の空気とか大きな流れを言語化して、こういうことなんだよって、ある種みんなが分かる、みんなっていうかちゃんと分かろうとする人が分かるようにしてくれてる人が哲学者だろうなと思うし、
今の話を持ったのが、例えば世の中が良くなるみたいな話もあれば、それは理想的な、要は自然に生きてれば人間っていうのが良さを発揮していくんだみたいな話もあれば、ホップズっていう人がいて、リヴァイアさん、
18:06
現者逃走状態だから、普通にしちゃうと人はそれぞれ自分の欲望とかで混乱して世の中にしかならんみたいなことをもちろん言う人もいて、その時々の時代背景とか状況とかその人の捉え方によって、いろんな説はあるんだよね。
ああ、そこはもうずっと理論され続けてるよってことなんだね、その辺り。
そうそうそう。さっき言ったデカルト・カント、ヘーゲル・マルクスの何がすごいかっていうと、そういう特定の立場とか観点からじゃなくて、その根底にあるのって何とか、全体に適応できる原則原理って何みたいなことを突き詰めてるのがすごいんだよね。
ああ、そっかそっか。それを元に国を作ったとかって言っちゃったけど、方法論じゃなくてそもそものの話をきちんとやってきた人たちなんだ。
そう、原則だね、そういう意味で言うと。あともう一個ちょっとこれは僕が今後の宣伝ですけど、さっき兄貴が暗黒時代って言葉を使ったじゃない?
中世のことを指してやっぱりキリスト教的なところで人間があまり進歩しなかったみたいなのがあるんだけど、まさにちょっと近代哲学やったら現代哲学行く前に一回中世に戻ろうかなと思ってて、中世は本当に暗黒時代だったのかっていうテーマで、
キリスト教的な西洋神学のちょっと発展とかを追ったらそれはそれ楽しいかなと思って。 うんうん、なるほど。確かに暗黒時代って啓蒙時代、この近代哲学から見た主観的な言葉だもんね、おそらく。
そうそうそう、あとの歴史からね、見た。逆に言うと近代哲学がやったことを多分知ると、そこから捉えた中世とか、キリスト教の時代ってどうだったの?みたいなのがわかりやすいとか面白いと思うんで、ちょっとそれはぜひまた今後のネタとして楽しみにしていただければっていう感じでしたと。
ごめんごめん、なんか楽しみだし、ごめんね、いろいろ変な感想入れちゃって、今どこにいる?
今ね、カントの話が終わって、なのでカントっていうのは、今言った通り神っていうのはわかずに、人間の存在っていうのがどうやったら、どういうふうなものかっていうことと、人間の意思っていうものが世の中を良くするのに大事なんだっていうことをちゃんと言った人ですと。
ただ実はデカイト・カントのままだと、あくまでも個人がどう生きるかに留まっちゃうんだよね。もっと言うと兄貴が言ってくれた通り、個人の意思によって社会が良くなるっていうのはあるんだけど、個人の意思が社会を悪くしようって思わせるものを捉えるものがないんだよね。
なくはないんだけど、本当にこの世界に悪いことをしようって心から思ってしまった人が生まれることを防げないの、カントの思想だと。みたいな時にそれを乗り越えたのがヘーゲルなんだけど、
21:10
この人は1800年前後、だからカントからも100年とはいかないまでも半世紀くらい後の人で、この人が実は近代哲学の完成者って言われてるんだよね。それくらい優秀とかすごい人たち。デカイトで1600年から始まった近代哲学は200年後の1800年のヘーゲルで完成するみたいに言われてるくらいなんだけど、
彼が言ったことの一部、これはもう間違いと思って聞いてほしいんだけど、歴史っていうのは必然的に進歩するっていうことを言うのね。もうちょっと説明すると、個々人っていうのは自由気ままにただ生きる存在ではないんだと。
われありのわれが好き勝手生きるんじゃなくて、成長するにしたがって自分っていうのは他者とか社会に支えられてたりとか、全体とかその調和みたいな秩序とかそういうものがあって、その一部を自分も担ってるっていうことに成長すれば気付くんだと。
そうすると人間がその良さ、本当の良さっていうものを発揮すると、当然自分が一部である社会とか国とか、そういうのの全体にも良い影響を与えて、そのシステム全体が良い方向に向かうんじゃないかみたいなことを言うのね。
つまりカントは個人が良いことをしようと個人の意思に従って生きるっていうのが良いんだって言うんだけど、それと社会全体が良くなるっていうのは直接は繋がってないのね、カントのままでは。
なるほど。 それを繋げたのがヘーゲルみたいな感じです。どうやって個人と社会が繋がるかっていうと、ヘーゲルが、これも本当に間違ってると思って聞いてほしいんだけど、ざっくり言ってるのは労働と共用です。
労働ってのは他人、他者との協調だよね。一緒に何かをやるっていう。だから自分が作ったものを買ってもらうっていうのも他人との関係性だから。
あとは共用っていうのは即個人としての広がりだよね。やっぱり知識を身につけるのもそうだし、いろんな経験をするとかっていうので、人として豊かになっていくと、逆に自分が世の中にある種、生かされているというか、社会と大きく関わっているというのがより分かってきますよね。
そうやって自分を高めて、社会的な存在としての自覚を深めるっていうのが理想的な社会に繋がっていくんだよと。
そうした個人と社会っていうのを全体とらえる思想っていうのは、実はそれまでの哲学にはほとんどないんだよね。
ああ、そうなんだ。今それが当たり前だからそう言われちゃうと。面白いね。
そう、社会とはこういうものであるとか、こういう要素が生まれているっていうのもあるし、個人っていうのはこうだっていうのもあるんだけど、それを全体を統合して、人と社会はどう関係しながらあるのかっていうのは、実は思想としてはここが出発点なのね。
24:18
はあ、これはあれだね。なんか近代って時代が古代と比べると近いから、すごい勘違いしちゃいそうだなって今聞いて思ったんだけど。
そうなんだ。
だから僕らが今思うように捉えちゃうと間違えるんで、だから間違いですっていうのも言ってるのもあるんだけど。
はいはいはい。
だからもっと言うとヘイヘルっていうのは結構進歩主観みたいな、歴史っていうのは必然的に進歩していって、より理想状態に近づくみたいなことを言っているのね。
僕らもさ、なんとなくあるじゃん。歴史っていうのは進めば進むほど良くなるみたいな。
でも仏教は逆なんだよね。末法思想で、ブッダが生まれた時から時間が経てば経つほどブッダの教えが薄れていって、世の中っていうのは悪くなるっていうことを言ったりしてるんだけど。
ああ、そうなんだ。キリスト教は違うの?なんかほら、終末思想ないっけ?キリスト教も。
キリスト教も、最後の審判とかはあるけれど、あれは別に時代が進んだらとかっていうわけではないのと、
別にエイデルとかはもうキリスト教的な考え方からは離れてるから言って。
ああ、なるほど。そっかそっか。仮にキリスト教的にそういうのがあったとして、ないけどあったとして、そこはもう自由になってるからねっていう話ね。
ある程度ね。だから実は僕らはなんとなく世の中っていうのはどんどん進歩していくんだとか、進歩すれば社会とか生活も良くなるんだ、良い社会になるんだっていうのは、
実はこの時代から生まれてることなんだよ、考え方的には。
うーん。
まだヘーゲルです。
大変だこれ。
でもここまではなんとなく理解できる?っていうか、なんともわかる?
そうそう、うん。だし大変だっていうのは、結構これを文字通り理解するのはもちろんできる、理解できるんだろうけれども、かなり自分たちの前提、今生きてる前提から理解しようとしちゃうとあまりに多分当たり前なのか、もしくはこういったものも上に乗ってるのか、もしくはちょっとだけその背景がちょっとだけずれてて、理解がずれちゃう可能性っていうのはすごくはらんでるなっていう。
すごくある。
うん、めちゃくちゃフラットに定義とかやってかないとこれ難しいぞっていう意味で、大変だぞっていう意味で思ってきた。
でもね、それがわかってもらえると嬉しくて、だから実は古代とかの方がわかりやすいのは結構それもあって。
うんうんうん。
さっき言った通り、この4人の考え方って僕らが生きていく上で結構常識的な見方なんだよね。
だと思っちゃいそうな気がしたけど、多分違うんだろうなっていうのを今思い始めてきた。なんか、緊密に言うとっていう。
27:03
いいですね。じゃあ次はマルクスはより現実が身近に感じられると思うんだけど、そのヘーゲルが近代哲学を完成させたっていう中で、要は思想として確立するんだけれども、それを批判して乗り越えようとしたのが実はマルクスなんですと。
さっきも言った通りマルクスって社会主義とか共産主義、要は今もロシアの問題とかあるけれども、やっぱりそれの思想的な土台になってたりするのよね。マルクス主義、マルクス例人主義みたいなものが。
だから結構、当然というか冷戦を経て社会主義っていうのが世の中的に失敗したって言われている評価と、マルクス主義は間違いだったみたいな評価とか反省とか、ちょっと世の中的に熱狂してきたみたいなものがあって、あんまりちょっとアンタッチャブルなところがあったりもするんだけど、思想上めちゃくちゃ重要なのね。
なるほど、それこそ、そっか。マルクス自体が悪いんじゃなくて、マルクスが作ったものを悪用というか、間違った使い方しちゃって、要法要領も守らずに使っちゃった人というか国があって、それであれ危ないねってなっちゃってるっていう、ちょっと可哀想な人でもあるのかな、思想的に。
でもあれか、マルクス自体もやってたもんね、革命運動やってたもんね。 なんかせよとか、だからビジネス的に言うと戦略と戦術ってやっぱり違うレイヤーじゃない?戦略は正しいというか、もちろんマルクス主義にも当然批判できるところはあるし、あれなんだけど、戦略としては一定、粗力とられたかもしれないけど、戦術が追いつかなかったとか、
間に合わなかったとかっていうのは当然あるよねと。 確かに考えた本人がやっちゃってるから、異論がかなりついちゃってるんだね。 そう、そう。だからやっぱり思想としてそれをあるし、フラットに受け入れるっていうのは、だから逆に僕らってさ、あんまりその、なんだろうな、東西冷戦がとか共産主義がっていうのも、ぶっちゃけ知らないっちゃ知らないじゃん。
知らない知らない。 よくも悪くも。だからこそ、フラットにマルクス主義とかマルクスの思想を見た時に学べるものは学ぶべきだと思っていて。 確かにそうだね、さっきの暗黒時代と同じ感覚だよね、多分ね。
そうそう、ちょっと蓋しちゃってるところがあるし、あんまりこんだけマルクスマルクスってここだけ聞いたら、なんかこいつらちょっとやべえラジオなんじゃないかと思われそうだけど、思想的にはフラットなんで、っていうのもお問い合わせ。
ただね、よく考えてほしいんだけど、思想としてとか、やっぱり方向論として優れてなかったら、あんだけね、厳立に影響を及ぼすことってないし、世界中の知識人というか、それの人たちがやっぱりマルクスすごいとか共産主義すごいってなるはずがないんだよね。
30:05
なので、その思想的な良さっていうのはぜひ知っていきましょう、知っていきたいよねって思っていて。あと一つちょっとさっきも言ったけど、人類はまだマルクスの思想を乗り越えてないって言われるぐらいこともあって、マルクスっていうことを知ることが僕らが今直面している課題に結構直結したりもする。
ちょっとね、マルクスも多分ちゃんと単体取り上げていくとは思うんだけど、すっごい簡単に言うと、さっきヘイゲルは労働と教養によって人間が良さを発揮して社会も良くなっていくみたいな、人間がどんどん社会化していくみたいなことを言ったんだけれども、それを批判するのね。
なんでかっていうと、確かに理想上はそうかもしれないけど、現実を見た時に近代国家の根底には富というか資本主義、それに紐付く貨幣っていうのがあるよねと。
なった時に、それがある以上、人間の個人的な欲望、要は自分だけ儲かりたいとかお金を貯めたいとか、贅沢をしたいという欲望と、社会により貢献したいとか、社会的に自分を開いていきたいみたいな社会性っていうのが永遠に分かれちゃうっていうのね。
(岡田)なるほどね。社会と個人がトレードオフの関係になっちゃうでしょうっていうことか。 (瀬尾)そう。その要約はめちゃくちゃ嬉しい。
でも本当その通りで、なんでかっていうと、例えば労働に焦点を当てると、労働って本当はというか、すごい原始的な、あとは最近のロハース的な、自分で作ったものを消費する地産地消的なものでいうと、自分が作った大切な食べ物とか作品を誰かに買っていただくみたいな、結構人間味があるものっていうのが、
逆に言うとそれがやっと出てきたんだよね、そのマルクスから150年くらい経ってかな。 (岡田)はいはいはい。ちゃんと一周したみたいな感じか。 (瀬尾)そうそうそうそう。
ただ当時で言うと、今もそうだけど、労働力も商品もお金で表されちゃうよね。あなたが作った野菜は500円です、でもこの人が作った野菜は1000円ですとか。ってなっちゃうと、もともとヘゲルとかが言っていた、労働を通じて他人と協調するとか、関係を深めるっていうものが立ち切れちゃうよね。
だからただ価値の交換をして自分の欲望を満たすとか、知恵とか権力を入れ替わったりするっていう活動に、本来は自分を発揮して人と繋がるっていう意味だったら労働が擦り替わっちゃうっていうのね。
(岡田)なるほどね。いろんな変数が本来さっき言ってた自分が作った野菜だったりとか、あの人が作った野菜だとか、そういったものって、そこには実は金では感ざできない価値みたいなものは本来的には存在していたんだけれども、
33:03
(岡田)貨幣っていうものが存在して流通し始めることで、一部の変数だけが強調されて、他の変数が消えちゃった感覚あるよねっていうことをめちゃくちゃ説明してくれてるっぽいね。
(山本)そういう通り。それが資本だよね。資本主義っていうのは資本を軸に捉えようっていう世界だから、だから本来関係性とか人と人との強調性って言われるものも、今関係資本っていう資本に取り込まれちゃってるじゃない。
(山本)だから関係性も資本の軸で考えないと捉えられない世界になっちゃってるんだよね、今は。
(岡田)うんうんうん。
(山本)で、マルクスは労働っていうのは、自分が生産物が阻害されているみたいな言葉とかも使いながら、労働の本質を捉えていくんだけど、
(山本)だからヘーゲルが言った理想的な国家、世の中が進めば進むほど実現されていく社会の理想っていうのは絶対に実現しないし存在しないって言い切るのね。
(山本)で、じゃあどうしたらいいかって戻った時にマルクスは、近代国家の根底に資本主義とか富の原理があるからダメなんだっていうところで、
(山本)それを転換しようとする。だから全国の労働者団結せよ、資本主義を倒せ、がスローガンになるよね。
(岡田)うーん、なるほどね。
(山本)現実的に言うと。ただそれは現実的にやっぱり挫折をしてしまって、一つは先進諸国、当時いう先進諸国とか西洋とかも含めてだけど、
(山本)マルクスが予想したような社会的な矛盾、めちゃくちゃ格差が起きると、格差起きてるんだけど、社会主義国で起きたようなものよりはまだマシだよねとか、
(岡田)はいはいはい。
(山本)あとは発展諸国ももちろんまだまだ貧しいし、いろんな問題もあるんだけれども、それなりに富とか製品が回っていって、なんだかんだ良くなっている人の生活は。
(山本)っていう風になった時に、これちなみにファクトフルネスっていう本があって、そこで実際に世の中がどんだけ良くなっているかみたいなデータとかが出てるのが面白かったりするんだけど、
(岡田)はいはいはい。
(山本)なので、マルクスが資本主義だと世界はもうダメだ、めちゃくちゃになるって言うほどは悪くはならなかった。っていうのが1個と。
(山本)あと2つ目は、さっきも言った通り、マルクス主義運動とかソ連みたいな社会主義国の現実っていうのが、人間存在の豊かさとか本質的な広がりっていうのに繋がらなかった。
(山本)っていうのがあって、やっぱりちょっと挫折、現実的な挫折をしますと。
(岡田)うんうんうん。
(山本)で、まとめると、ヘイデューとかマルクスっていうのは、デカルトカウントが近代で切り開いてきた、個人っていうものが人間の本質をどんどん発展していく。
(山本)ただそこと社会が繋がらないっていうのを乗り越えて、人間がその本質とか本来性を発揮していくと、
(山本)その個人の欲望を満たすっていう存在を超えて、社会の中で他人といい環境を作りながらいい社会を作っていくっていう、
36:06
(山本)そういうのが必然的にできるんだ、みたいなことを論争しようとしてるんだよね。
(山本)で、ただ、やっぱり資本主義においては、それはできないっていうのはマルクスは言っちゃったんだけど、
(山本)ただその大対策である社会主義とか、資本主義じゃない考え方っていうのも挫折しちゃって、
(山本)行き詰まってるっていうのが実は結構この現代思想の前提なのね。
(岡田)いやー、面白そうだね。いろいろ話を聞いても面白いし、たぶんね、かなりポイントを抽出してもらってるだろうし、
(岡田)入っても分かんないから、あんま大きなことは言えないんだけれども、やっぱりいかにして神っていう、
(岡田)その社会を綺麗にしてきたものを乗り越えるだったりとか、その代わりとなるものっていうものを、その代わりがお金なのか、
(岡田)もしくはそのマルクスが言った共産主義的な社会なのか、みたいなところを、まだ答え出てなさそうだな、答えなんてないのかもしれないしね。
(深井)うん、うん、うん。そうだね、答えはやっぱりないけれども、今とはいえ21世紀何が起きてるかっていうと、それこそASGとかSDGsみたいなものがあったり、
(深井)サステナブルポスト資本主義みたいなものとか、あとさっき言ったようなシェアリングエコノミーとかも含めてだけど、いわゆる資本主義の中なんだけど、
(深井)資本だけを前提としない経済活動とか、より良くしようと、矛盾を解決しようと、動きっていうのはどんどん出てきている。
(深井)実はそれはただの流行とか、なんだろうな、ただ生まれてるものじゃなくて、こういう自在な必然性とか流れがあるんだよね。
(岡田)はい、はい、はい。
(深井)その観点から見る必要があると思っていて、つまり人間というのは思想的には行き詰まっていて、それが出たのがまさに第一次、第二次世界大戦だよと。
(深井)かつそれを乗り越えた戦後の時代においても、それを乗り越えられる思想というのは出てきていないですと。
(深井)現実的には資本主義の中で富も求めながらとか、発展させながら世の中を良くするっていう動きも出てきていて、
(深井)グラミン銀行とかって知ってる?結構面白いんだけど、アフリカとかのお金がない人たちに超低利子でお金を貸し付けて、自分の事業とかをできるようにするみたいな銀行を作った人がいるよね。
(岡田)はい、はい、はい。
(深井)その活動をしたからノーベルヘアースとかやってるんだけど、要はお金を貸すって信頼だから、銀行を担保がないと貸してくれないとかってあるじゃない。
(岡田)そうだよね。銀行も資本主義の上に乗ってるからお金を稼がなきゃいけないからね。
(深井)まさにまさに。資本主義の媒介者だよね、銀行ってそれこそ。
(岡田)そうだね。むしろ技術させるプレイヤーだからね。国のお金を。
(深井)そうそう。ボトムオブピラミッドっていう、要はピラミッドの底って言ったら失礼だけど、本当にお金がなかったりとか、そういうお金的な信頼がない人たちにも、要は資本主義の力を渡すことで、ちゃんと自分の農作物が作れるとか売れるとか、子供が学校に行かせられるということで、どんどん生活が良くなるみたいな。
39:19
(岡田)そういうことも実は出てきてるんだよね。そういう意味で資本主義にお金をもっと良い世の中にしようという動きがもちろん出てきてはいるんだけど、やっぱり市場の拡大っていうのが資本主義の前提なので、それが行き詰まってるみたいなのが否定はできない。
(岡田)とってもままで来ちゃってるよねみたいなのが結構最近言われたりします。今一気に1600年から2020年のところまでガッと来たんだけど、
(岡田)すごいまとめると、西洋近代哲学の流れにおいて、現在に出てくる問題、貧困もだし、いろんな地球環境とか格差とかってある中で、そういったものが現実と結構リンクして起きてるんだよね。
(山本)すごいね。そっか、全然そんな視点で哲学とかって見たことなかったけど、かなりやっぱり自分たちの生活とか国、社会にこんなに密接に、無理やりちょっとね、うつみつけるのもあれやけど、やっぱり言うて関わってるんだね。
(山本)うん、と思ってる。もしかしたら今僕が自分の問題を哲学に引きつけたから、ちょっとこんな問題を言い過ぎてる可能性もあるけれども。
(岡田)まあ、本当に僕たちはそもそもの話を基本的にしてるのに、具体的な話になっちゃったって部分はあるだろうけど。
(岡田)これはね、別に僕だけが言ってるわけじゃなくて、関東の解説書を読むと、この4人っていうのがやっぱり背骨でとか、やっぱり現代まで関わってる問題であるっていうことは言ってはいるから、そんなに別に僕自身が勝手に言ってるわけじゃないっていうのは、皆さんも安心してほしいんですけど。
(山本)なので、やっぱり中世の神とか宗教を乗り越えて、個人を確立します。その個人っていうのが、近代国家との関係において、あるいは近代国家同士、国同士の関係において、世の中が扱えていきます、みたいなことまでは考えれるんだけど、
その根底に資本主義とか貨幣っていうのがある限り、人間っていうのは一般的に、自分と社会の関係っていうのをより良くするよりも、自分の欲望を満たすとか、資本主義経済に最適化するっていう方を普通は選んじゃうよねっていうのが、やっぱりこう、ある種、一つの結論になっちゃいますと。
(岡田)そうだね。死んじゃうからね。お腹空いちゃうから。 (山本)そうそう。そうなんだよね。でも本当は、お腹を空かせないぐらいの食べ物っていうのは地球上では生産されていて、それを買うお金がないから、植えてしまうとかっていう、これって本当に社会として正しいんだっけ?みたいな問題とかもあったりすると。
42:04
それは哲学っていうよりは、幻想問題なんで、ここでは取り扱わないけれども、そういった意味では、やっぱりマルクスの資本論っていう、さっきちょっと触れた方が出たのは1867年なので、そこから150年経っている。
ってなると、そろそろ哲学とか思想っていうのも、本当は変化してくるべきだよねとか、時代の流れ的には100年ごとに、それこそいろんな人が出てきたっていう意味においては、やっぱり出てくるよねみたいなことも考えたりしますと。
というのは、超多分長く喋ったんだけど、これが一旦、近代哲学っていうのをすごく荒く聞い取った一つの地点。
もちろん今のは、一本の幹であって、他にも木はあるし、その木の中にはいろんな枝葉があるから、ぜひそういうのも、ヘーゲルが言ってるのと全然違うところから世界を聞い取ったみたいな人たちもいっぱいいるんで。
そう、キルケゴールとかね、まさにそういう人も届けたいと思うんだけど、今の名前だけですけど。
いろんなものがあるから、それを全部学んでいきたい、このラジオを通じてとも思っているし、ともに一本のやっぱり幹を捉えることで、いろんな問題を相対的にとかちゃんと捉えられるかなって思ったので、ちょっと長くなったんですけど、そういう話を今回ちょっとさせていただきました。
てな感じです。
なるほど、それこそポイントを抽出して、間違ってるかも、もしくは正しくない理解されるかもっていう前提で喋っても、やっぱりこんぐらいかかっちゃうっていう。
今回改めて思った部分があって、古代西洋哲学だと、地を愛するみたいなところである意味完結するというか、もちろん地を愛するという個人だったりとか、そういう人たちが集まって国家をどう作っていくかみたいな部分はある意味共通するかもしれないなと思うんだけども、そもそもの前提というか、個人と社会っていうところにかなり言うてそもそもというのが目が向いてる。
そこからですよ、お前とか、そもそも自然とは何かとか、自然科学とは何かとか、芸術史とか何かみたいなやつが未成できてるとか、いろいろあったところが、この近代になってくると人はどう生きるべきかだったりとか、社会はどうあるべきかみたいな、神の代替物みたいなものを探し始めてるみたいなところだったり。
そうやって、やり放たれた人たち、やり放たれた国たち、もしくは神でもなくなった君主たちみたいな人たちはどう生きていくか、どう生かしていくかみたいなものに結構そもそもとはいつつも割と具体的なところに目が向いてるのかもなっていうのを今回聞いて思ったから、哲学の定義みたいなものをちょっとアップデートされてる感覚もあったりとか、
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あとは途中で言った、そもそも今とある意味ちょっと近いというか、今の結構直接的な土台となってる部分だから、ちゃんと丁寧にやっていかないと、言葉を理解したつもりで違った理解しちゃってる部分も多くなりそうだから気をつけなきゃなっていうふうに次回したっていうところと、ここまで大きな流れを見せてもらうと、すごい面白いよね。
古代が人類1.0で、キースト教仏教できた時が人類2.0で、神科の生えた時が人類3.0で、みたいなそういうかなり大きな転換点みたいなものを経験して、その中で人々がどう考えてきたか、こういう人たちがそこの転換点として考えてきたんだ、そもそもっていうところを考えてきたんだよ、みたいな、あんまり今まで考えたことなかった時間軸で、歴史だったり物事を捉えてる感覚も、
なんかあって、すごい個人的にね、なんか、やっぱ今までこのデカールドはどうだった?とか、できた部分から、結構今回、あえて関東っていう人を語るとか、近代的な世界を捉えていくっていう意味で広く語ってくれたと思うんだけど、やっぱこういう広く捉えるってものもやっぱ大事だなって、面白いなって思わされた。
そうだよね、ありがとう。そう言ってくれると嬉しくて、やっぱね、それこそね、歴史とかまさにね、ポテン・ラジオさんとかもそうだと思うけど、やっぱ縦と横、時代の、その国の縦の100年、200年、300年の流れと、あと横で同じようにどんな世界だったかっていう、やっぱり両方を知ると、すごく深みが出てくるというか、面白いってのも多分一緒で、
哲学もいろんな流れがあるし、当然デカイト・カント、ヘーギル、マルクスの横には、また全然違う考え方をした哲学者もいるし、あとさっきね、哲学のあり方が変わってるんじゃないかって言ってくれたけど、当然哲学の横には、ものすごい距離で発達してる科学とか自然科学があるわけですよ、テクノロジーがあるから、
彼らの方がむしろ世の中の本質をついてきたりとか物理学とかね、っていう中で哲学は何をすべきかとか、哲学者は何をやるべきかみたいな、多分そういった存在の問い直しみたいなものもあっただろうし、
っていうものがね、やっぱりいろいろ、今は哲学に沿って言ってたけど、本当は多分そこにいろんな複合的な要素があって、今があるみたいなことが、もちろん僕もまだ全然わかんないけど、やっぱり大事だなとは思ってて
はいはいはい、いや本当なんか面白いなと思ったし、逆にね、多分そういう意味で言うと、この話自体もだし、ピックアップした人たちもだし、絶対的な正しいわけでもないっていうところは常に思いながら、
もちろん楽しみながらだし、教養としてはもちろん事実とか、歴史を伝えてくれてるから、そこは教養として覚えながらも、ちゃんとそれに引きづらいないようにね、という意味でも、なんかね、いやー
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でもなんか哲学は、前の雑談会でも話した通りちょっと面白いね
それがね、30回話してきて哲学は面白いっていうのが伝わるっていうのが一番嬉しいので、なんでその面白さとか奥深さっていうのはやっぱまだまだあるし、近代から現代にかけて哲学の広がりとか深まりってものすごいものがあるんで
ちょっとね、それをぜひ今日改めて感知いただきながら、またこの次回以降のカントの話も聞いていただけたら嬉しいなと思ってます
そうはね、今回カントの話だったね、近代哲学史じゃなくて
そうだね、カントを理解するための近代哲学、ちょっと総論や概論みたいな感じの話をしてみました
今回は改めてカントのシリーズということなんで、次回からカントそのものの思想とか、そういうところを見ていきたいと思いますので、次回以降もよろしくお願いします
よろしくお願いします
ご視聴ありがとうございました
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