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はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
江戸時代の朱子学
はい、今回は江戸時代の思想第4回ということでやっていきたいと思います。
はい、これまでですね、いわゆる朱子学校をどう江戸時代に接続したかみたいなところですよね。
それで、林羅山とか藤原誠家とかっていう人がいて、徳川幕府の考え方に朱子学を乗っていったみたいな話もお伝えしたのと、
あと、前回の山崎安西という人をお伝えして、山崎安西という人はですね、朱子学がめちゃめちゃ詳しかったところから、さらに神道ですよね。
日本のもともとある考え方というか、そういったものに乗っけていって、水化神道みたいなものを作っていって、
その朱子学的な考えが日本に広がっていく、そういうものをより後押ししましたよ、みたいな。
そういう話を2回分でしてきたかなと思っております。
はいはい、そうだったね。前々回か、さっきの藤原誠家、あと林羅山か、その後はもう記憶がちょっとおぼろげになってきてるんですよね。
やっぱり日本、これまでと違う思想みたいなものとか考え方を国に取り込んでいく。
特に幕府が変わって時代が変わって、考え方を変えていきますという時に、
やっぱりトップダウン的な感じだよね。藤原誠家特に、林羅山のほかは、やっぱり法律ベースだったりとか、
方法ベース、方法というか、いろんなところで朱子学的な考えをトップダウンから入れましたという話と、
あと前回の山崎庵さんのほうは、やっぱりその、とはいえだよね、そうやって上から知恵されて行動から変わっていくっていうのもそうだけれども、
やっぱりその一般の庶民がどうやってこの実際思想レベルでそれを落としていくかみたいな意味では、
やっぱりそこはこれまでの浸透みたいな感覚と接続しないとやっぱり難しいみたいな、
いきなりこうゼロベースで朱子学やるぞーみたいなのは難しいみたいな、やっぱりそういう感じだったのかな。
そうだね、やっぱりモチベーションもないよねっていう話はちょっと前回したと思うんですけど、
その武士とかね、いわゆる政治家というか、仕事をしなきゃいけない人たちからすると思われるし、
それをやらなきゃ仕事にならない武家諸法都とかっていうのが朱子学的なもので作られた時に、
そもそも朱子学わかんないと武家諸法都がわからんみたいな感じであると、しゃーなしで勉強もしていくわけですよね。
なるほど。
でも普通の人からしたら別にそんな朱子学なんて知らなくてもいいよねっていうところではあるんだけど、
それがある日の山崎安西とかの活躍によって、朱子学そのものは知らなくてもなんとなく朱子学ナイズされたというか、
表面は浸透なんだけど、その奥に朱子学的な発想があるっていうのもいま馴染んでいく中で、
少しずつそういう美みたいなものとか、みんな共通のものを持ってるよねみたいな、
そういう考えがじわじわ浸透していくみたいな感じなんだよね。
なるほど。はいはいはい。
というところで、朱子学っていうものは江戸時代、戦国時代の荒れ果てた世の中から安定の世の中に変わっていくときに広がっていきましたよってことをお伝えしていったんですけれども、
結構ある人それを王道のというか朱子学の発展みたいな浸透か、朱子学の浸透みたいなことでいうと、やっぱりそこから発展していくってのもあるんですよ。
あー、そっかそっか。日本ならではの関係ね。
そうそうそう。もっと言うと、やっぱり朱子学が浸透すればするほど、
なんていうか、それっておかしくない?とか、それって本当にそれでいいんですっけ?みたいなふうに思う人も出てくるわけなんですよね。
という中で、今回以降で取り上げていくのが伊藤仁才さんっていう人と、次回が小牛曽来さんっていう人。
さらにその次が元折信長さんって、この3人をメインに取り上げようと思ってるんですけど。
おお、だいぶいるね。
いるんですよ。やっぱりね、いろんな人がいて。
ちょっと前も聞いたかもだけど、この3人、伊藤仁才、小牛曽来、元折信長って聞いたことあるかな?
いやー、それこそ元折信長を、前ハヤトが多分それってザジオの中で言ってるのを聞いたぐらいの話だよね。もうわかんないだから。
そうだよね。多分歴史の教科書でもね、ちょろっと名前が出てくるぐらいで、何をした人かとか、どんな人かって多分出てこないんじゃないかな、あんまり。
っていう感じなんだけど、この江戸の思想とか、あるいは江戸の趣旨学みたいなところでいくと、結構ね、結構というかもう絶対に名前外せませんみたいなビッグネームがこの伊藤仁才と小牛曽来なんですよね。
っていう感じで、それぞれ1回ずつぐらい取り上げて、どんなことをしたのかっていうのをお伝えしていこうと思っているんですけれども。
伊藤仁斎の背景
まず今回は伊藤仁才さんなんですが、この方は京都生まれの人で、1627年に生まれておりますよと。
なので、この人も徳川幕府ができてからで、前回の山崎安西さんが1619年なので、ほぼ同世代ですね。
同世代なんだ。
10歳くらい違うからちょっと一個下ぐらいではあるんだけれども、同じ時代に同じ京都で生まれてましたみたいな人ですと。
その後でも増えるんだけど、実は大きくなってからこの伊藤仁才さんも塾を作るというか自分で建てるんだけど、道を1本挟んだぐらいのところに山崎安西さんの塾があったらしくて。
だから割とご近所さんみたいな、なんだけど山崎安西は朱子学メイン、王蔵の人みたいな感じで、仁才さんは朱子学、俺が発展させてやるぜみたいなちょっとロックな人みたいな感じで。
結構そういう対立みたいなのもあったみたい。
だいぶそうだね。朝鮮的だね。
そんな感じの、仁才さんはどんな人だったかというとこなんですけど、彼はもともと執事側の庁人、いわゆる商業の生まれなんですよ。
もともとやっぱり徳川幕府って武家社会なんだけれども、ここよりも、いわゆる私能高尚で言うと一番下では商人なので。
っていうところの家に生まれてるんですよ。
ただ、そんなに商人だからといって身分が低いとかいやしいとかってことではなく、結構その家としては周りでちゃんと商売もしていて、
裕福ではないけれども、いろんなそのコネクションがちゃんと京都の街中にあるみたいな。
いい家柄を重なったらしいです。
なるほど。
結構若いうちからいろいろ勉強して、
特に最初は朱子学をちゃんと勉強するんですよね、仁才さんも。
もうそういう時代なのかね。
この特異党と。
ちゃんと勉強しようと思ったら、自学が王道というか、朱子学を学んでこそみたいな感じの時代だったみたいだね。
ただ、この人も真面目すぎたというか、たぶん勉強はできすぎたなと思うんだけど、
王陽明の時に朱子学を学んで、竹の理を追求しようとして心病んじゃうみたいなエピソードがあったじゃないですか。
それと同じ感じで、本気で朱子学を追求しようとしすぎて、
俺には無理だみたいになっちゃって、30歳くらいまで引きこもりとして生きていくみたいな感じだったらしいんですよね。
社会に出れなくなっちゃって。
朱子学を勉強するっていうよりは、朱子学を実践しようとした結果、そうなったみたいな。
そういう人からすると、勉強をするというか、そこを体得しないと朱子学の本質分からんみたいな感覚にはなるのか。
そうだね。本気でやりすぎた結果、心身虚弱みたいな感じで、どんどん弱っちゃって。
周囲の人とかも、いいよつぶやけばいいから、いわゆる商売の勉強をして、朱子学なんてやらなくていいよみたいな話もあったらしいんだけど、
人材さんは、俺は朱子学だって言って、没頭しすぎちゃうみたいな。
怖っ。
結果的に心を病んで30歳まで引きこもりみたいな。結構そんな感じの人だったらしいんですよね。
面白いね。前回かな、これは。朱子学とか儀表においては、成人になるみたいな目標だったりとかがあるよねっていうところを、
それを持ってきても日本人には成人の概念がわかんないよね、それ自体のモチベーションになりづらいよねみたいな話があったと思うんだけど、
多分伊藤人材さんは違かったってことなんだね。
そうだね。むしろそこに共鳴しちゃったんだろうね。
ピンときちゃったんだ、成人になるみたいなところが。
そうそうそうそう。本気で目指した結果やっぱ挫折するというか。何度もお伝えしてて、朱子学ってそもそもそれができない。
成人になろうとして結局、どこに行ってもなれないというか、取り付けないって構造が根っこにあるから、それで結構心が病んじゃうんですよね。
難しいよね。それを朱子学を作ったら、朱子もわかってたはずだけれども、たぶんそこは朱子学の残った教典じゃないか、教科書みたいなものには書いてなかったのかな。
でも理想を追求しようと思うと、どこまで行っても、逆に朱子は努力、工夫する中に尊さがあるっていうところで一旦置いてるから、成人を目指し続けて自分を磨き続けていく?
はいはいはい。そっかそっか。どちらにせよか。到達できないとわかってても、到達する努力こそが尊いのだって言われて本気で思っちゃうと、同じムーブになるのか、結局。
そうなんだよね。でもやっぱり人間って弱いので、努力しても努力しても取り付いてる気がしないとか、結局基準がわかんないから自分がどこまで進んでるかわかんないっていうのはやっぱり苦しいよね、そりゃ。
いやー、そうだね。難しいね。
そういうふうな挫折っていうのを人材さんも経験してたらしいんですよね。
しかも30歳までね。
30歳まで、そう。結構長いよね。
ただね、彼はその日こぼっている間もめちゃめちゃ勉強して、ずっと授業を没頭してるんですよ。
朱子学への批判
で、彼が何を考えるかっていうと、ここが面白いんだけど、主治学って元々の相立ちが儒教ではあるんだけれども、
当時やっぱり仏教とか禅が盛り上がっていた中で、なんか儒学ってちょっと物足りないよねとか、すごく身近なんだけど全然深みがないから面白くないとかっていうところがあったって話をしたと思うんですよ。
なので、守紀の時代、1200年とか、そういう時代でいくと儒学をもっと体系化して、聖地にして、
ちょっとありがたみではね、深みを作ることで、やっぱ儒学ってすげーみたいなことをやってたんだけれども、そこが400年経って、ある意図人材さん思うわけですよ。
守紀が作った深淵な主治学の体系があるわけなんだけど、いろいろ自分で孔子とか孟子とか当時の本、当時って本当にいわゆる論語とかではね、
っていう大元の本を読んでた時にふと思うわけよ。
なんか、守紀が言ってるような深淵な、すごい深みのあることと、論語に書いてるようなことって、なんかずれてねって気づいちゃうんだよね。
あー、そうな、ずれてる、ほうほうほう。
つまり、守紀の話って、要はその、論語とかを解釈をするっていうことなんだけど、
要はもうこういうふうに読むのが正解だよ。
それは、こういう理とか気とか、そういうふうな背景を持ってやらないと理解できないよっていうふうな、そういうふうな解釈を、ある種正当化してるわけなんだよね。
もっと言うと、それが正解なので、それを外れた読みをするのは間違いですっていうふうな時代が、この朱子学の浸透してる時代ですと。
へー、そうな、はいはいはい。
うん、うん。で、ただ、その神斎さんはめちゃめちゃ頑張って、自分でも論語とかをガンガン読んでくんだよね。
うん。
もっと言うと、林平さんの時かな、いわゆる聞き下し文とか、そのつんてんをつけて、日本人でも読めるようにしましたとかって言ったじゃない。
うん。で、それが画期的なんだけれども、神斎さんは気づいちゃうのよ。
あれ、でもそれって本当に法師の考えたこととか、論語に書いてることを読んでることになるんだっけっていうふうに思っちゃうわけなんだよね。
わー、はいはいはい。
うん。で、もっと言うと、さっきも言った通り、その朱子がやったことって、論語とかを全部解釈して、これが正解だって読みを伝えることなんだけど、
それって本当に正解なんだっけっていうことにも神斎さん気づいちゃうんですよ。
朱子学への疑問
わー、なるほど。相当優秀ってことはね。
そうね。だからある種、言葉は悪いけど、やっぱり狂ってたんだと思う。やっぱりなんでわかんないんだろうとか、
なんで朱子学こんなにやってるのにうまくいかないんだろうっていうのを多分繰り返して繰り返して、
あれ、論語で書いてることって違うじゃんみたいなことに突き抜けてしまったんだよね。
わー、だからそれは学問的なモチベーションはもちろんあるはずなんだけども、
原点に当たるのが当たり前とかっていう感覚じゃなくて、なんで朱子学こんなに真面目なのにうまくいかないんだっていうのを突き詰めた結果、
差し込んだ光としての論語の、っていうか、ちゃんと原点読むみたいな。
そうなんです。しかもそれって実は当時全然当たり前じゃなくて、むしろ今でこそ原点を読むとか、
一番大元にたどり着くみたいなことって、ある種普通というか、当たり前の発想だと思うんだけど、
当時ってそういう発想もそもそもないんだよね。原点とかっていう発想はなくって、
とにかく朱季が作った朱子学っていうものを学ぶことが正しいと。
その解釈を理解する、その解釈通りに理解することが自学であるっていうふうな世界だから、
そういう論語を法師の気持ちに沿って読むみたいなことって、そもそも思いつかないことなんだよ、当時でいうと。
たしかに、そんなことする必要もなさそうだもんね、むしろ。
そうなんだよね。
必要もないっていうか、必要しちゃダメなの。
そんなことすると何になるって話なんだよね、本当に。
我々も朱季という偉大な先人が作ったものに乗っかってれば良いっていうのが当時の常識だから、
それを超えてそれ自体が近畿というか、何て言うんだろう。
幕府が朱子学やってますって言ってるのに、それ違うんじゃねえかとか、それより、
論語ではこう書いてるんですけどみたいなのって、むしろ危険人物というか、そういう危うさがあるんだね。
そうなんです。
伊藤仁斎の学問
それをある設定的にやってるのが伊藤仁才さんなんだよね。
はいはいはい。
いわゆる師匠御教っていう、いろんなその教典があって朱季は全部それを注釈つけてるんだけど、
やっぱりそれって実は、いわゆるその後の時代、要は孔子とか孟子の後の時代にいろんな人が編集したりとか、注釈したりしていると。
朱季は論語とか孟子とかを含めたものって、全部当時の先人が作ったものだから、
それを疑う必要はないっていう風にも言ってるんだけど、
でも実は、仁才さんがいろいろ調べていくと、これ孔子とか孟子の時代じゃないことも入ってるじゃんってことに気づいちゃうんだよね。
なるほど。
そう、後の編集が入ってるじゃんと。
ってことは、朱季が言ってることって間違ってる可能性があるっていうことにそこから気づいていって、
つまり、やっぱり朱季の言うことを間違ってるかもしれないから、論語と孟子をそのまま突き抜くことが必要だっていう風に、
自分の学問の方法を作り出しちゃうんだよね。
わー、すごいね。そっか、学問の仕方からこの人は作り上げてるね。
そうなんです。
授学っていうものをもう一回やり直してるんだよね、この人は。
わー、やば。
やばいでしょ。で、面白いのがやっぱりどうしても授学なので、授学をどう正しく理解するかに行き着いちゃうから、
自分で哲学をするとか、新しい考え方を練り上げるっていうことはしないんだけど、
授学の理解の仕方を練り上げるっていうような形で独立を出していくんだよね。
これはかっこいいんだけど、読解法みたいなのがあって、四字熟語で意味結脈っていう言葉があるらしくて、
意味は本当に意味するの意味ね。
結脈は血の脈打つとかで、いわゆる血脈ってなんだろうな、血筋とかそういうのが続いてるとかって話あると思うんですけど、
どういう話かっていうと、要は、当時の時代背景でいうと、
やっぱり三文を直接読むっていうことはやっぱり普通じゃなくて、読み下し文とか、
手筋の解説を理解するとかっていうのも当たり前だったんですよ。
はいはいはい。
そうじゃなくて人生って何をしたかっていうと、
いわゆる訓点とかついてない、ただの漢字の羅列だよね。
当時これ日本人別に読めないんだけど、
それをただただ何度も読み込むというか眺めて、この文字のつながりに浸っていって、
その中から浮き上がってきた意味みたいなものを見取るっていう、
文字に溺れるみたいなことをやっていくんだよね。
大丈夫?中学よく勉強した方がいいんじゃない?先に。
でも、そういう問題じゃないんだけど、たぶん、
例えば当時の生きてる中国人というか、方が、論語を読んでも解釈が千差万別というか、
なっちゃうみたいなものがあるのかな?
そうなんだよ。そもそもまさに朱子学の解釈とか、
欧陽明の解釈とかでやっぱり言っちゃうから、
中国語を学ぶとか、中国人から論語のことを学んだとしても、
もう解釈が入り込んじゃうんだよね。
だからそこはもうこの伊東人材は織り込み済みなんだね、それは。
織り込み済み。なのでそれじゃダメだと。
自分が直接その孔子とか孟子の言葉そのものに浸らないと、
本当の意味はわかんないって言って、
何も手がかりがないまま、その完全なテキストに溺れ込むっていうことを、
正しい手法だとするんだよね。
でもそれしかないよね、確かに。
ない。だってそれ以外でやっちゃうと、結局は、
孔子とか孟子じゃない人の考えをまた軸にして読み込むことになっちゃうから、
それだと間違えちゃうんだよね。
しかもその原点のある論語自体にも、
すでに孔子が言ってなさそうな後の時代のことも書いてるぞみたいなところまで含めると、
もう信じられるのは自分しかいないというか、
タイムマシンに乗って孔子と直接話す以外、
多分ないっていう話だもんね、実際ね。
そうなんだよね。
だから自分しかないというか、
信じられないのは孔子と孟子が書いたとされるこの論語の文字、漢字の文字しかないと。
それを自分が掴むんだっていう、
直接、孔子と孟子っていうのは成人に繋がろうとするっていうふうな感じなんだよね。
結構ドラスティックじゃない?
それに自分でたどり着く感じが、
なんか本当に、何だろうな、
朱子学を実践しようとしたんだなっていうかね。
例えばハヤトだってさ、今哲学書とかを読んでるわけでしょ?
人との関わりの重要性
先生に教わって読んでるわけじゃん。
読んでる。
しかもでもまだあれか、ハヤトはでも日本語で読んでるのか。
そう、翻訳だから、やっぱり原文ではないんだよね。
どうなのか、そういうことをやってる身からすると、
日本語じゃなくて元々の原点に、
しかもその言語を理解するっていうレベルを超えて、
その原点を書いた人というか、
それを考えた人の魂に触れるのだみたいな読み方って、
どんぐらいすごいのかみたいなのって、
想像つくの?
これも先生が言ってたんだけれども、
まず言葉の壁がありますと。
そうだよね。
例えば英語なら英語、フランス語ならフランス語というものと、
日本語というものの違いがあるし、
あとは国籍の壁が当然ありますと。
文化的な?
例えばホワイトヘッドはイギリス人なんだけど、
イギリス人がイギリス人として生きた歴史とか、文化とか社会の中で考えた哲学と、
日本人がイギリスというものを知識だけで知って、
あるいは別に数年住んだだけでわかんないわけよ。
という中でホワイトヘッドを彼に英語で書いたもので読んだとして、
そういう文化的な知識とかも全部理解できるから、
当然理解できないわけなんだよね。
まあ確かに宗教も違うだろうしね、確かに。
まあそう、当然当然そう。
キリスト教ならキリスト教というものは立ち位置も違うし、
とかっていうことがあるので、
じゃあ仮に日本人なら西田貴太郎さんが書いたものを全部理解できますかというと、
それもまあ違うよねっていうのはあるんだけれども、
余計に言葉の違い、国の違い、文化の違いというものを超えて理解しようというのは、
やっぱりめちゃめちゃ難しいというか、
基本できない…できない…
あー…西田くんにやっぱ留まっちゃうねそれは。
だって答え合わせできないもんね。
そうね。
無理だよね。
もちろんね、そうそう。
同時代人であればそれを会話するとか、
よくあるのはホワイトヘッドの弟子の人がいてその人とはまだギリギリ話せるから、
ホワイトヘッドで先生がこう言ってたのかどうかってことをすり合わせることはもちろんできなくはないんだけど、
やっぱそれがでも限界だよね。
あーそうか、確かにそう考えるとわかりやすいね確かに。
その西田貴太郎、日本人が書いた哲学書を、
日本人が例えば英訳したものを読んで英語圏の人がちゃんと理解できるかもだし、
西田貴太郎を専門で勉強していますっていう日本人と対話を重ねることで、
西田貴太郎の本質をつかむことができるかっていうのは、
できるかもしれないしできないかもしれないし、
わかんないよね、確かに。
本気でやろうとしてる人からしたら、余計なフィルターでしかないかもしれないよね確かに。
あーそうそうそう。
なんか違うぞって思っちゃうタイミングがあるだろうね、この人が言ってるとか、
これに書いてる言葉がなんか違うんじゃなかろうかみたいなね。
いやそうなんだよね。
だからそういう意味で伊藤仁斎さんもやっぱりなんか違うと。
この趣旨学を通したとか文献をつけて日本語っぽく読んだこの論語というものが、
なんか違うんじゃないかっていう風にやっぱり感じるんだよね。
なんか違うって何かっていうと、
彼からするとその趣旨学で言ってる理とか気とかそういうものって、
なんか本当に必要なんですかと。
伊藤はもっと身近にいわゆる人を大事にするとか、
親子の情があってそれを大事にしていくとかって、
別にそんなね、いわゆる理みたいなものとか言わなくてもいいじゃんみたいな。
そもそも別に論語にそういうこと書いてないじゃんみたいな、
そういうことを言っていくんだよね。
だからすごく面白くって、
冒頭おっしゃってた通り、伊藤仁斎さんって商人の生まれなので、
そういう平成のいわゆる政治家として幕府を担うとか、
なんかそういう仕組みを背負っていて、
その中で生きていくとかっていうことって別に必要ないんですよ。
そうね、むしろその中でいかに泳いで生きていくかみたいな話だよね。
誰が上になってもというかね。
そうなんだよね。
だから別に中小的な幕府の構造とか、
主役的な理とか機とかっていうことを別に理解する必要はなくて、
普通に日々生きていく、それこそお付き合いのあるお客さんでもいいし、
商売仲のいいかもしれないけれども、
そういう人といかに向き合っていくのか、
いかにそういう人といい関係を作って、いい社会と成り立たせていくか、
そういうある種凄い素朴さとか平凡さみたいなところに、
やっぱり彼の自学の直感というか、
そういうことをむしろ孔子とか孟子は大事にしていたんだという屈振があったからこそ、
物資学なんていらないんじゃないと。
主義家といったことってむしろ論語、
というか孔子とか孟子がせっかく作ったすごくいいものを歪めてるんじゃないみたいな、
そういうふうに感じていくんだよね。
わー、はいはい。面白いね、なるほど。
朱子学と自己理解
面白くって、何だろうな、
物資学ってやっぱりすごい内に向かっていきますっていう話をしたじゃないですか。
要は自分の心みたいなものがあって、
それを深掘りしていくと、
あるいは万物の利に繋がりますみたいな。
趣旨学がね。
そうね。ちょっと陽明学ともそこは重なってるんだけど、
趣旨学の方は結構自分に、内側に内側に入っていくみたいな。
あるいは外のものだとしても、そのものそのものじゃなくって、
その奥にある利を追求しましょうみたいな。
はいはいはい。
結構そういう風な発想が趣旨学なんだよね。
でも人材さんからすると、その利とか別に考えなくていいですと。
普通に表に出ているそういういい気持ちとか、
優しさとか全然オッケーっていう風に言ってくるんだけど、
これは面白いのが、そうなると、
人と一つの繋がりってどうやって生まれていくんでしたっていう、
そういう他者みたいなものが出てくるんだよね。
おー、そうなんだ。他者。
他者が哲学的で、
要は、哲学だと全部が利で一応奥底で繋がっているから、
僕も兄貴も共通の利を持っていると。
それぞれがそれぞれに利を追求していけば、
ここまで繋がるから、僕も兄貴も、
いわゆる同じ仕組みで動いているとか、
同じように物事を考えるはずだよねっていう、
根っこの繋がりっていうのをある程度想定できるんだよね。
そうね。
逆に言うと、朱子学の発想にある限り、
他人とかってその気にしなくていいんですよ。
みんな同じだからね、基本的に。
みんな同じ、みんな利で繋がっていて、
朱子学的に生きていればみんな同じだから。
その違いは気の方にあるみたいな感じだったよね、確かね。
そうそうそう、そうですそうです。
なので逆に言うと、これってすごくやっぱり、
改めて言うんだけど、知性側に都合がいいんだよね。
要はみんな朱子学で生きればみんな一緒でしょと。
気の違いでそういう身分の違いとかあるかもしれないけど、
今日はみんな一緒だからそんなに、
うじうじしなくていいんだよとか、
そんなに考えなくていいんだよみたいなことに、
繋がったわけなんだよね、発想として。
なるほど。
でも仁才さんは利を捨てちゃったじゃないですか、今。
そうすると、他人と自分の違いって、
どうやって処理するんだっけとか、どういうふうに考えるんだっけとか、
そもそも人と人ってどういうふうに結びついてるんだっけっていう、
そういう問題が出てくるんだよね。
なるほどね、はいはい。
なんか一個戻るんだね、朱子学が付け足した注釈みたいなものがいけなくなって、
論語というか、授業の方にいったん戻るんだね。
そうなんです。戻った結果そういうことが問題として出てきちゃいますと。
はいはい。
でもそこも、仁才さんかなりやっぱり素朴な感じで解消をしていて、
ある種、これは論語かな?申しかな?に書いてる、
時々書いてある思端説っていうのがあって、
親子の情愛とか、友人の関係とかと、
親の忠義みたいなものがあったときに、
主役でいうとそれが、いわゆる個々人の利につながる要素というか、
そういったものが表に出てくる根底に利がありますよっていうふうに言うんだけど、
仁才さんはその根底とか別にいいからと。
ただその表に出てくる親子の気持ちとか、親愛の情とか、
分身の忠義みたいなものっていう、それだけでいいじゃないかと。
表に出てるものをちゃんとつなげ合わせていけば、
親子の愛みたいなものが友達の友情になったりとか、
見知らぬ人へのいわゆる、
慈しみ的なやつ。
慈しみだね。
知らない人とかでも困ってる人が助けようと思うとか、
そういうふうに広がっていくよねっていう、
これはすごく素朴な、いわゆる家族から社会、社会から国会みたいな広がりなんだけど、
そういうふうに考えていくんだよね。
なるほどね。はいはいはい。
なので、仁才さんの思想は別にめっちゃ深いとか、
すごい深遠なことを逆に言うんじゃなくて、
むしろ当たり前のこととか、素朴なことを言うことで、
むしろ趣旨学っていうものをある種破壊してしまうというか、
そんなものいらなくて、われわれには論語と文字があればOKだよねっていう、
仁斎の思想
そういうシンプルな強さがあったんだよね。
なるほど。
なので、これもやっぱり、
武士とか、いわゆる政治が作った、
政治方が使ってる趣旨学っていうものと、
いわゆる商人、町で生きていく人たちが、
ある種、自分たちの実家に沿うように、
趣旨学を理解するっていうことの対立というか、
そういうものがここに現れてますっていう感じなんだよね。
なるほど。面白いね。
だから、伊藤仁才の学問への向き合い方とか、
取り込み方みたいなものはめちゃくちゃすごいけれども、
商人出身っていうところのポジショントーク感というか、
その感覚みたいなものは、
押さえておかないと、
伊藤仁才マジすげーっす、みたいな感じもまた、
少し冷静に見るべき部分はあるって感じなんだね。
そうだね。立場的な話かなとは思ってて、
いわゆる趣旨学でガチガチに固まって、
趣旨学ってそういうさらぎがある道で、
以前大嫁の時にもお伝えした通り、
その趣旨学、本当は授学っていうものをより発展させて、
生き生きさせるはずだった趣旨学が、
またね、御用学問になってどんどん形外化してるとかって話をしたと思うんですけど、
やっぱりそれは、注釈こそが正しい。
それ以外の解釈が間違いであるっていう、
やっぱりそのポンポン的な原因があるんだよね、趣旨学側に。
面白いね。そっかそっか。
他を排斥しちゃうというか、他が間違いっていう方が大きくなっちゃうと、
趣旨学本来の役割が果たしづらくなっちゃうんだね。
あ、そうですそうです。
へー、面白い。
だった時に、やっぱり伊藤仁才さんみたいに、
やっぱり自分の実感として、趣旗の解釈に同調できないとか、
そこまでする必要あるんですか?みたいなところに思った人が、
本当に突き詰めて勉強して頑張って、
申しとか論語っていうものを読み込んだ結果、
こういう発想が生まれてきたよと。
この発想自体は思想的にめちゃめちゃ深いとか、
俗信的なものであるってわけではないと、今僕は理解してて、
もし違ったらぜひ教えてほしいとは思うんですけど、
ただ逆に、だからこそ、晩年ね、伊藤仁才さんっていうのは、
一流の受学者として、その名声が広がってくるんですよ。
結構聞いた人は、もっともだ、もっともだ、みたいな感じで、
すごい共感が得られたんだね。
そうなんだよね。
さっき言った山崎安西さんの塾と近かったって言ってたじゃないですか。
仁才さんと安西さんが何かやったってのは残ってないらしいんだけど、
この山崎安西さんの弟子が仁才の塾に来て、
それをちゃんと学んだのか、偵察的なのかわかんないんだけど、
そういうふうに弟子が来るみたいな、
そういうことで思想が混ざっていくようなことがあったらしいんだよね。
なるほど、なるほど。
やっぱり、言っても徳川幕府ができてまだ40年、50年という中でも、
やっぱり若干の閉塞感というか、学問的な、
やっぱり本当にこれでいいんだっけとか、
本当に朱子学だけでいいのかとか、我々は朱子学で生きていけるのかみたいな、
そういうものは多分生まれつつあったなと思うんだよね。
そこに対して、いや違うんだぞ、朱子学なんてもう捨て去ってよくって、
もっと論語とか申しの根本に帰っていくのがいいんだみたいな、
そういうふうな仁才の主張だったりとか考え方、
やっぱり一定の力を持ってたっていうふうな感じみたいなんだよね。
面白いね。若干日本版の陽明みたいな感じもするよね。
でもそうだね、朱子学を乗り越えようとしたという意味ではそうだね。
そうだね、乗り越えるとか。自分もちゃんと朱子学やろうとしたんだけど、
真面目に真面目にやろうとした結果、
朱子学じゃダメだみたいなこともある意味今悟る的な話で、
そこから自分どうしようっていう時に、そこから変にというか、
儒教っていう枠組みから逸脱せずに、ある程度その中で実践的な、
じゃあどう生きていこうとか、成人になれないとして、
もしくは成人とは何かを再定義するじゃないけれども、
その中でどう生きていこうみたいなところを、
自分なりにというか、儒教の中で自分なりに定義をしている、乗り越えるみたいな。
そういった姿勢みたいなものは近いよねっていう感じだよね。
そうだね、確かに。それもすごいあるし、
兄貴もすごく言ってくれたんだけど、自分自身は成人になるか、
孟子孔子っていうものにやっぱり近づいていくっていうことの、
やっぱり徹底したところがあったんだろうなと思ってて、
これもちょっと本に返したんだけれども、
やっぱりあるし、よくもあるくも仁才さんって、
孔子とか孟子より、後の人はもうみんな病僧だって発想なんだよね。
普通の主規がすごい、主規が授業がさせたみたいな感じなんだけど、
主規も別に成人ではないとすると、我々と一緒だと。
もっと言うと、例えばこの仁才って先生なんだけど、
塾の先生と学びきっている生徒たちも同じだと。
成人ではないってことについてはね。
すると別に優劣をつける必要もないから、
あるし、それぞれの解釈もあっていいし、
あるし、議論をして理解を深めていこうねみたいな、
そういう風な空気だったらしいんだよね。
本来、普通の修士学だと、あなたの理解は間違っているとか、
私の方が正しく理解しているっていうふうに、
上下とか優劣がついてしまう。
それも堅苦しいよね、みたいな。
結構そういう風な大長さというか、
良くも悪くも柔軟な感覚が、
やっぱり仁才さんにあったみたいなんだよね。
はー、はいはいはい。
なるほど。その柔軟さというか素直さというか、
見る人から見ると、素直じゃなさというか、
まあそうだね。
ちゃんと話聞けよ、言うこと聞けよ、みたいな感じで。
なるほどね。ゼロベース感が強いんだろうね。
そうだね。だから、ある種、
独学で何かお寺に入って学んだのかということじゃない中で、
修士学をやったからこそ、やっぱり自分なりでいいじゃないかと。
そういう風な、やっぱりこう、
よく言えば先進性というか自由さもあるし、
悪く言うと王道ではない感じ。
だからこそこうやってある種、歴史に名前が残るぐらい、
哲学って当時の流れを一歩踏み出したというか、
そういうところで物事を考えて生きてた人がいるんだよ、
という風にやっぱり残ってるわけなんだよね。
そこはやっぱ商人とかビジネス層の面白いところはね、
学問的には主流にはなり得ないけれども、
実務的なところで、なぜかそういう学問も、
本っていうね、データベースになぜかアクセスできちゃう環境みたいなね。
そうね。
学問のポジショントーク
権力とかと違うところでね。
うん。
それは面白いポジションなんだね。
そうそうそう。
だからちょっとこれも違うかもしれないけれども、
やっぱりキリスト教とかでもさ、やっぱり教会が全部牛耳ってて、
教会を通してしか神に近づけないっていうところから、
やっぱり聖書が印刷されていてさ、
自分で聖書を読み込むんだみたいな。
神の言葉と接するんだとかっていうところに、
もしかしたら近い感覚もあるんじゃないかな。
中世のルターの宗教改革のあたりのカトリック教の話だよね。
そうですそうです。
っていう感じで、やっぱり本ってすごいねっていう感じですけれども、
今回ね、いわゆる伊藤仁才さんの思想みたいなところは深くは触れなかったんだけれども、
こんな風に思辞学っていうものが広まったよと、
前回前々回でお伝えした江戸時代の中でも、
やっぱりその能力を言おうとするとか、
そんな窮屈なのは嫌だっていう人がいたわけなんですよね。
というところで今回仁才さんお伝えしたんですけれども、
次の小牛曽来さんという人は、
もう仁才さんをすら乗り越えるんですよ。
おー、さらに。
うん、さらに。
というとね、仁才さんを尊敬したりしてたけど最初。
最初っていうか、
仁才さんに学びたいなって手紙とか送るんだけど、
無視されちゃったらしくって。
で、ちくしょうみたいな。見てろよって。
自分で頑張って勉強して、
伊藤仁才さんめちゃめちゃ批判した本を書いて、
一躍有名になるみたいな。
へー、そうなんだ。
そんな小牛曽来さんという人はいるので、
次回小牛曽来さんも伝えることで、
当時のある種、趣旨学を乗り越えるとか、
ある種、授学っていう枠ではあるんだけど、
自分なりに考えるとか発想する、
やろうとするとどうなるのかっていう風な、
そういう部分をですね、ちょっと次回もお伝えして、
皆さんと味わっていきたいなと思ってますという風な感じですね。
はいはい、いやーわかりました。
この時代の趣旨学がどう日本で発展なのかね、
深まるというか浸透というかね。
そうだね。
していくのかっていうところが、まだ続くんだね。
続きます。
わかりました。
では次回ですね、小牛曽来さんですね。
楽しんでいきたいと思います。
では引き続きよろしくお願いします。
お願いします。
今回もありがとうございました。