1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
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2025-02-16 48:29

#292 粋な人ってどんな人?九鬼周造が徹底的に捉えようとした「いき」の本質

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

このエピソードでは、日本の哲学者九鬼周造の思想とその著作『いきの構造』が掘り下げられています。特に、いきの概念の定義や構造分析の重要性が強調され、九鬼が文化的なニュアンスを捉えようとした方法が語られています。「いき」の本質についての探求が行われ、この言葉が日本の文化と密接に関連していること、独特の哲学的視点が存在することが強調されています。また、言語と文化の関係性が「いき」の理解にも影響を与えることが議論されています。 このエピソードは、「いき」という概念についての深い考察を展開し、特に九鬼周造の哲学の影響を受けた議論が繰り広げられます。「いき」の本質や人間の意識との関連についての理解が深まります。また、判断や意識の構造についての考察も展開され、次回予告として「いき」という概念をさらに深く掘り下げていくことが伝えられています。

九鬼周造の哲学に迫る
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回も日本の哲学者、九鬼周造さんということで、第2回やっていきたいと思います。
はい、前回ですね、第1回というところで、九鬼さんの老いたちというところで、幼少期が結構大変だったんだよとか、
あとは海外留学を通じて、フッサルとかハイデカとか、当時の一流の哲学者と直接交流してましたよとかって話をしたかなと思うんですよね。
8年くらいフランスにいたってね。
フランスとかドイツとかかな。
ドイツ、ああそこそこ。その辺いろいろ行ってたのか。
当時言うと本当に他にないぐらい長かったって話なんですけど、
今回はその九鬼さんの哲学がどういうものかっていうふうに入っていくんですけど、
ちょっと段階から続けて、「いきの構造」、「いき」ですね。
っていう本を取り上げていきたいなというふうに思っておりますよと。
これはその通り、「いき」っていうもの。
いきだねえとか、いきなみせえとか、いきなさからいとかってあると思うんですけど、
そのいきに関して、哲学的に掘り下げていくみたいな、そういう本なんですよね。
だから前回もあったけど、やっぱりね、物事の根本は何かとはやっぱり違う感じなんだね、そもそもね。
逆に言うと、「なんでそんなことしようと思ったの?」とか、
それがわかったとして、「どうすればいきって掘り下げれるの?」みたいな話っていろいろ出てくるんで、
そういうことをですね、当然この本に書いてあるんで、
これはですね、踏まえながら九鬼さんの思想を追っていきたいなと思っておりますよと。
でもあれでもね、いろんな根本は何かは一つものに向かっていく感じがするけどさ、
いろんな概念がある中で、いきっていうのをね、なんで選んだかっていうのがね、そこをちゃんと語ってくれてるんだね。
いきの定義と構造分析
語ってくれてる、そうそうそう。
じゃないとね、いきなりいきって大事なんですよって言われてもさ、「なんで?」みたいな。
あんたにとっては大事かもしれませんけれども、みたいなね。
そうそう、だったらね、幸せとはないかとかさ。
楽しく生きるとはないかとか、そういう方をやってほしいわって思っちゃいそうだもんね。
確かにね。なので、「なんでいきなの?」っていう話はもちろん触れていきますって感じなんですけど、
そもそも手続の話をする前にさ、
言葉なんで、いきっていうのは言葉じゃない?という概念なので、これって定義がありますよねと。
辞書引きゃいいじゃんとかって話もあるじゃない?
確かに。
実際、検索とかで引いてみると、いきっていうものに対して、こんな風に書いてて、
気質、態度、見なりなどがさっぱりと垢抜けしていて、しかも色気があることとか、
あと、人情の機微、特に男女関係についてよく理解していること、こういう風に書いてるんだよね。
なるほど、なるほど。
反対語としては野暮。野暮、態度が野暮だねっていうのは、いきの反対だよっていう風な感じらしいんだよね。
そうなんだ。テスト出たら答えるんだ。いきの態度を答えるって野暮なんだね。
野暮、これ出しとけばよかった、別にいいけど。
そうそうそう、定義の言葉らしいんですよと。
これだけでも、いきっていうのはどんな意味でとか、どういう風な言葉だったのかわかるんだけど、
本でいうといきの構造だよね。
構造か、はいはいはい。
構造とか、もっと言うと、いきとは何であるかみたいな話。
そのままでいこうとすると、定義だけでわかんないってことが起こり得ますよねと。
まあね、あるある。哲学はあるあるではあるし、意味あるあるみたいな。
そう、意味あるあるあるんで、この違い、いきの定義じゃなくて構造を解き明かすんだみたいな。
クキさんの独自性というか、哲学的なチャレンジがあるんだよね。
なるほど。面白いね。
だからね、物事の根本とは何かを見てさ、一言論であるとか言いながら、
いきはね、ある意味野望ではないことがいきだとかいろいろさ、
言えちゃう言えちゃう。
野望二言論の話だけど、一言は何かみたいな話をさせてくれない。
なんか面白いね。
どういう風になるかっていうとこ含めて。
まだ分かんないと思うんですよ。
なんとなくいきというものを扱おうとしてるんだなっていうとこは分かっても、
どうやったのとか全然分かんないと思うんで、
それを一緒に楽しんでいきましょうっていう話なんですけど、
結論から言うと分かりやすいんで、
クキさんはね、この本でいろいろ書いてくるんだけど、
いきとは何かを完全に解き明かしたぞみたいな風には言ってないんですよね。
そうなんだ。
実際、結論っていう章があるんだけど、
ここで言ってるのは、どこまで言っても、
いきそのものみたいなものにたどり着けなかったな、
みたいなことを書いてるのよ。
やっぱりいきそのものとか言い出しちゃうんだね。
いきとは何であるか、そもそもどういうことであるかってなるんだけど。
実際、例えばこんな風に書いてるんだけど、
例えば日本の文化を全く知らない外国人がいたとしますと、
さっきの定義で、
自称的にみなりとかがさっぱりしていて、
垢抜けているんだとか、
男女の日々についてよく理解していることだとかって、
仮にそういう日本のことを全く知らない外国人に言ったとしても、
まさしさるんでしたっけ?みたいなことを考えだすんだよね。
いきさんが言うのは、
この本でやってきた構造分析、
これを概念的分析とかって言ったりするんだけど、
それによって外国人を一定の位置に置くことはできるでしょう。
要は一定の理解をさせることは多分できるでしょう。
かつそれをきっかけとして、
彼自身、外国人自身のある種、
内的な捉える力、内観とかって言ったりするんだけど、
それによって意気の存在っていうのを、
自分で味わって得得しなきゃいけないんだよっていう風に言ってるんだよね。
そりゃそうなんだけどって話で。
悟りとかに置き換えてもいいような話になってきた。
ほんとそうそうそうそう。
悟りも言葉では言えるかもしれないけど、
自分で言わなきゃいけないってことと一緒で、
意気に関しても概念だけじゃどうしてもわからんと。
体験して実際に味わってみないと、
どこまで言ってもわからないんだけど、
じゃあ言葉の説明が無駄ですかとか意味がないですかっていうと、
そうじゃないんだよっていうことを語るんだよね。
もう全問答じゃねえか。
それは哲学だから。
むしろ学問っていうのはそういう不可能だ。
言葉では言い表せないんだけど、
ギリギリまで論理的にとか概念的に追い詰めていくことに意義があるんだよっていう風に語ってて、
これは結論から今はしゃべっちゃってるんだけど、
もちろん福木さんはそれを何とかして解き明かしてやろうとか、
概念で構造をほぐしてやろうってことをやるんだけど、
やりきった結果、やっぱりやりきれませんでした。
ギリギリっていうのがあるんだよっていうか、
どこに今行き着いたよっていう話なんだよね。
この辺が福木さんの哲学に対するスタンスというか誠実さ?みたいな感じかなとは思うんですけど、
さっきの正義みたいな話でいくと、
なんとなく日本の人が日本の辞書を読んで、
意気っていう言葉を理解することはできるかもしれないけど、
さっき言ったような全然日本のことじゃない外国人に意気を説明しようと思ったときに、
辞書的な定義だけだと無理というか全然足りないんだよね。
っていうときに福木さんの解き明かした構造を伝えると、
少しはそこに共通理解が生まれるよねとか、
逆になんで理解できないかぐらいは分かるんじゃないかみたいな、
そういうところをやろうとしてますっていう感じなんだよね。
さっきのやっぱり自分で体験するみたいなのが必要だみたいな意味で、
文化の違いといきの意味
足りないピースも見えてくるよね。
ここまでは理解できたけど、ここから先は無理だよねっていうところのラインも分かるよねっていう感じ?
その意味で言うとね、僕らが意気の構造っていうのを読んだとして、
意気が何であるかっていうことは余すところなく、
体験できますとか、味わえますとかってことではないんだけれども、
少なくとも意気っていう概念において、
共通言語というか土台ではできるよねっていうことは言えるんだよね。
100%これを読んで、うちらが意気な人間になれるかどうかはまだ分からないけれども、
ある意味、個知識としてはある程度個知的なとこまでは分かるかなみたいな。
体験としては頭では分かるかな、フレーマーでは連れてってくるような感じだと思う。
そうそうそう。とか適切に重ねることができる。
もし意気な人間になりたいとしたときに、これが足りないから自分はまだ意気な人間ではないんだとか、
言語ができるっていう感じかな。
それはめちゃくちゃすごいね。
やっぱりさ、今僕の兄貴が話してるし、聞いてる方もいらっしゃるっていう中で、
たぶんなんとなく意気っていうのについてイメージがある人もいれば、
全く分かんないよって人もいるだろうし、
逆にめちゃめちゃ解像高いぜみたいな、
普段から意気な人生送ってるぜって人もいると思うんだよね。
ずっとそれについて考えてる人もいるかもしれないもんね。
そうそうそう、いるかもしれない。
っていうときに、その人が、バラバラな人が集まったときに、
やっぱり意気についてちゃんと扱えるよねみたいな。
そういうふうなことを提供してくれるのが、この意気の構造っていうのが本だなって思うんだよね。
なるほど。
そうか、共通の土台というか言語化してくれてるんだね。
そうそうそうそう。
だからやっぱり哲学って同じテーブルを作りますよっていう話を何とかしてると思うんだけど、
まさにこの本は意気っていうものについて、共通のテーブルを作るっていうふうな感じの本なんだよね。
いやー、ますますなんでこの意気ってところにお手前さんが。
結構時間かけてたでしょ、人生かけてというか。
留学中に考えだして、帰国してから書いたっていう感じらしいんだけど。
うん。
結構そこには哲学的な話と、ある種プライベートというか、
ときさんの人柄の話と多分両方があって、
人柄の方ちょっとさらっといくんだけど、
やっぱり海外にいたときに、ちょっとごめん何のためだとか忘れたんだけど、
これが意気ということかもしれないっていうふうに関しては出来事があったんだって。
でもやっぱりそれは、日本で感じる意気とヨーロッパで感じる意気がちょっと違ったみたいな、
そういう感覚が自分の中にあって。
そういうところからも、この意気っていうものが、
ときさんってやっぱりテーマになったんだろうっていうのは、
プライベートの留学っていうような経験からあるよねっていうふうなことも言われていますよと。
そっかそっか、そうだよね。
当時その意気という概念がどのくらい生きてたのかは知らないけれども、
確かに日本の外に出ることで分かることって、
結構あるもんね。
そう、まさにまさにね。
それこそ、江戸時代とかにまさに意気な、
それこそ、酔い腰の金は持たねえみたいな、
そういうのも含めて結構意気な振る舞いとかっていうのがあったらしいんだけど、
やっぱりそれが日本の中で感じるものと、
やっぱりそうじゃない文化。
まさに、ときさんってちゃんと話すんだけど、
言葉と文化っていうものを結構密接に振られた人らしいんだよね。
だから、例えばそれこそ翻訳の問題とかもあるけど、
それにしては意気っていうものを外国語に翻訳したときに、
果たしてその意味を、それこそ余すことなく翻訳できますかっていうと、
結構無理があるよねっていうふうに思って、
他の言葉でもあると思うんだよね。
日本酒を例えばジャパニーズワインと言ったらどうなるかみたいなね。
そういうこと、そういうこと。
ちょっとね、ワインってよく含まれる文化的な意味合いとか、
そういうシリーズ的なものもあるし、
日本のワインの受け入れ方とフランスのワインの受け入れ方が違うとかってやっぱりあったりするじゃない。
そこがね、ちょっと意味合いの問題だったりするんだよね。
ワインの受け入れ方とフランスのワインの受け入れ方が違うとかってやっぱりあったりするじゃない。
酒としか言えないみたいなね。
そうそうそうそう。
九鬼周造の意気の探究
っていうことがやっぱりこの意気っていう言葉にはあるだろうというふうな話なんだよね。
で、これ先走っちゃったんだけれども、
まずちょっと内容に、そのあたりも触れているんで、
内容を追いながらですね、そのあたりもまたちゃんとお伝えしていこうと思っているんですけど、
まずこの本、青空ルートとかでも読めるようだから、
もしよかったらぜひ検索してみたらいいんじゃないかなと思っているんですけど。
なるほど、無料で見れるっていうことね。
そう、無料で見れちゃうんです、オンラインで。
最初にこのいわゆる序みたいなところから始まってるんだけど、
その中に書いてるのがですね、
さっきのお伝えと結論につながる話なんだけれども、
この本で久喜さんが実現しようとしているのは、
その意気っていう現実にある現象、
意気な人とかさ、意気ない店とか現実にあるわけじゃない?
その現実にある物事について、それをありのままに把握をすると。
かつ、ちゃんと味わって解読する、
そういった体験を論議的に言い表すことが、
この書の追う課題であるというふうに書いてるんだよね。
そう書いてあるんだね。
最初に書いてある。
さっき伝えた通り、それをやりきることはできなかったっていうのは結論なんだけど、
この課題に向かって私は取り組んでるんですよとか、
ある種追い続けてるんですよ、追いかけてるんですよっていうことが、
冒頭にある時点で宣言されてるんだよね。
かつ、実際にとっては哲学が何かってことも書いてあって、
それは現実を理解し得るものだっていうふうに言ってるんだよね。
例えば西谷さんみたいに、真なる存在とか世界はどうあるかっていうのはもちろん現実ではあるんだけれども、
生の現実、ちょっと同じ現実って言葉になっちゃうんだけど、
まさに僕らが生きているこの世界で起きていることとか、
そういうことについてちゃんと理解できる、
そういうものが生きた哲学だよっていうふうに考えてるんだよね。
なるほど、だから神秘の方に負けちゃいけないんだね。
そうそう、そっちに簡単に行くんじゃなくて、
まるで生きみたいな現実に起きている物事とか現象っていうものを扱うっていうのも、
こういう立ち感があるからなんだよねっていう話なんだよね。
文化と言語の関係性
あー、そっかそっか。
たぶん福木さんの概念というか話で言うと、
世の中の根本とかっていうものは生きた哲学ではないんだね。
それを生きた哲学として扱うことはできるかもしれないけど、
世の中の根本っていうものが本当に存在するっていうふうに解き明かして、
生の現実として扱うことの方だとは多分言わないんだよね。
なるほど。むしろめちゃくちゃ大変そうだねっていう話。
めちゃくちゃ大変だと思う。
そういう感じでやっちゃうとっていうね。
そうそうそうそう。
なるほどなるほど。じゃあスタンスの話なんだね。
そうそうそう。どういうふうに自分は哲学をやってるかっていうのはスタンスの話なんだけれども、
とはいえさ、なんで生きなのって話はまだわかんないよね。
現実にあるものをやりますよってのはわかるけど、
そんなものいっぱいあるじゃないですかと。
まさにさっきのとおり、その方法論で物事の根本を扱ってもよかったのに、なんで生きなのっていう。
そうそう。っていうところなんだけど、その理由に関しては、
言語と民族とか文化みたいなところの関係性っていうのを結構前提に置いてるんですよね。
どういうことかっていうと、僕らは言葉っていうものを当然扱っていくわけなんだけれども、
例えば上とか右左みたいな感じで、おそらく民族とか文化が違ってもおおよそ意味は変わんない?
そういう普遍的なものってありますよねと。
一方で、例えば空みたいなさ、基本的には空って地球において一つしかないはずじゃない?
つながってるはずだからね。
つながってるはずだから、そうそう。でも、やっぱり日本語の空と、例えば英語のskyと、フランス語のcielっていうのかな?
あ、そうです。cielはフランス語で空ですね。
へー、知らなかった。
そうそうそう。っていうふうな感じで見たときに、もちろん全部空って訳せる、日本語に訳そうと思えば訳せるんだけど、
意味が全く同じであって、やっぱりそうではなかったりしますよね、というところがあって。
さっきも言った通り、これは翻訳の問題にもなるんだけれども、
こういういろんな右とか左みたいな概念的なものから、空みたいな具体的なものから、いろいろ考えたときに、
生きっていう日本語が、やっぱり日本の民族的な特性が強い言葉のひとつだよね、っていうふうに悪木さんは捉えるんだよね。
そうなの?
もちろん他にもあるかもしれないけれども、じゃあこの生きっていうものが、
他の文化に完全に翻訳できますかっていうと、結構難しいよねっていうことを最初いろいろと考えていくんですよ。
例えばね、生きっていう言葉をフランス語とかに訳そうとすると、
シックだとかって言うじゃん、かっこいいなとか、上品だみたいな。
このシックってフランス語らしいんだけど、これが生きの翻訳語として使うことが多いので。
あー、そうなんだ。
だから、シックって言葉で扱えるんだけど、いろいろと調べていくと、当然、流洋課もしたからね、語学も堪能なのでやっていくと、
このシックっていう言葉だと、あまりにも意味が広すぎるんだと。
上品だとかだったときも、生きイコール上品ではないよね、みたいなことがあって。
そういう意味で言うと、完全に翻訳できるとか同じ意味のものっていうわけじゃなくて、似たような言葉はいろいろあるんだけど、
同じ価値、イコールで結べるような言葉ってのはないよねと。
なるほど。
そういうことを考えたときに、この生きっていうものがあるし、日本的な特徴のある言葉とか概念の代表例として取り上げていいんじゃなかろうかと。
ところから、生きっていうものを取り扱うことによって、そういう言葉と民族的なものの関係とか、
文化的な関係とかってことを考察できるように、ところから考えていきますって感じなんだよね。
意気に対する哲学的アプローチ
ほうほうほう。それで、生きっていうものを題材にしようと思ったっていう。
そうですそうです。
でも、全く分かる気がするというか、分かろうとするとするとっていう話だけど、
やっぱ外国人って、そういう話って日常的に哲学談義に限らず、道中で出会った人との雑談とかって、
なんか思想だよね。関わった思想だよね。
あると思うね。
日本で言えば、生きみたいな感覚が、そういう生活にさ、それぞれ根付いてそうだもんね。
あると思う。
例えば、この服を選ぶとき、店を。食べ物、さっきの店を選ぶわけじゃん。
うん。
一個一個に食べ物が絡んでくるんだろうね、なんか。
あると思う。
なんかね、僕も学習学校のときはシンガポールに行ったことがあって、
そのときに、よくさ、読みについて漢字が書かれたティーズとかいっぱい売ってるじゃない。
はいはいはい。
その中に、夢って書いたものがあって。
おー。
夢。で、その現地の人に、これどういう意味って言われて、夢ってさ、もちろんドリームなんだけど、
見る夢もあればさ、夢を叶えるとかっていう目標みたいな意味もあるじゃん。
うんうんうん。
っていうときに、なんか説明しきれなかったなって思って。
おー。なるほど。
そうそうそうそう。
推計してたんだね。
そう。なんか今兄貴に言われて、ふと思い出したんだ。
本当に今、17年ぶりに思い出したんだけど、
そういうことっていろいろあるよなって思うよね。
うん。
確かにね。
海外に行くとかね。
英語のドリームと日本語の夢っていうものの、なんか縁が2つあったときに、
重なる部分ももちろんあるけど、重ならない部分もあって、
その重ならない部分が別の言葉に表現されてたりとかして、お互いね。
それがピシッと丸が合うみたいなのって、さっきの右とか左とか、
そういうのぐらいしかないんじゃね?みたいな話で。
うんうんうん。そういうことです。
なかなか個人的な感覚としても、海外に行って息を感じたみたいなところもあっただろうし、
かつこういった哲学的に考えたときにも、息っていうものを扱うことで、
他のことにも応用できるような、ある種思考の深まりができるんじゃないかっていうところから、
息の構造っていうものをある種考えようとしましたよっていうところなんだよね。
前回言ってたよね、ハイデッカーと話してたときに息の概念が全く伝わらず、
しかもハイデッカーは興味も出ずみたいな。
そうそうそうそう。
で、やっぱり共通の牙がなかったし、
ただそもそもなんで息を大事にしなきゃいけないかっていうことすら伝わらなかったんだろうねって思うよね。
どうなんだろうね。そのときに、じゃああなたたちのシックはどうなんですかっていうときに、
めっちゃすごくいい感じで説明されたのかな、もしかするとシックについて。
どうなんだろうな。
ちょっとそこまではわからないけれども、
やっぱりそういったある種のコミュニケーションだよね。
お互い理解しようと思っても理解できないことってある。
そういった文化的な背景とか、
生きとは何かとかっていったときに、
日本とか全く何も知りませんみたいな人に説明すると、
めちゃめちゃそれは難しいだろうなと思うんだよね。
そういうことに対して、この構造とか論理的なことで伝えていこうぜっていうことが、
哲学的な思考になっていきますっていう感じなんだよね。
ここ面白いんだけど、ここまでじゃあなんて生きなのっていう話をなんとなくしたんだけれども、
生きてもどう取り扱っていけますかっていうときに、
それはやっぱりいろんな手法があるんだよね。
そこに関しても福木さんいろいろ考えてるんだけど、
例えばね、さっき文化みたいな話をしたんで、
それこそいろんな文化とか言葉を横断的に見て、
生きの共通項、さっきの意見は円が重なるとかって言ってたと思うんだけど、
いろんな生きっぽい言葉を集めてきて、
円が重なるところを探すとかってもうできるわけじゃないですか。
そうだよね。
いわゆる比較文化学みたいな感じなんだけど、
ただそれを実は福木さんは明確に拒否するんですよ。
そうなんだ、最初から。
最初から。これやりませんと。
なんでかって言うと、それは生きのある種微層の姿というか、
まさにイデアだよね。
この生きのイデアをある種追い求めることになっちゃうんだと。
そうするとさっき言った通り、
福木さんは生きた哲学として現実にある生き、
現実にある概念っていうものを追いかけないわけなんだよね。
それから遠ざかってしまうよね。
ここの感覚ってわかるかな?
わかる気がするけど、
なんで福木さんがそんな感覚を持ってるのかめちゃくちゃいまくりに思ってしまう。
これはわかるよね。
前回の市田さんだったりとかと、
プラトンのイデアの違いみたいなところから、
イデアを想定することで見えなくなっちゃうものとか、
語弊は悪いかもしれないけど、
やっぱりちょっと神秘的な、
まさに理想だよね。
現実化されて、こうですって勝手にこっちがラベル付けを確認しちゃうみたいなことがあるもんね。
そういう面もあるというか。
ある種、まさに概念を作るとか、
ラベルを張るとか、
市田さんのときの話をちょっと思うんだけど、
そうじゃなくて、
すでにこれは意気だよねとかっていう、
そもそもその手前ではね、
それを意気だと思ってやるっていう風な構造がそこに含まれてるから、
そういうようなことも含めて、
その場に起きていることを取り扱いたいっていうことが、
奥木さんがやろうとしていることなんだよね。
で、
取り扱いは、
前回から前々回からちょっと名前出したんだけど、
ベルクソンとかっていう性の哲学みたいな、
さらに、
そういう哲学っていうものと生きるっていうことを、
分けないで考えたいっていう風な流れってのも当時あって、
奥木さん自身がそこに共感、
共鳴したっていう風な流れもあるみたいなんだよね。
うちはちゃんとプラットフォームもある程度、
いきの哲学的探求
ちゃんと勉強してるし、
当時のフィッサルハイレッカーとベルクソンと合わす中で、
しっかり生きるものが、
学問的にしっかり生きるものみたいなものがあったわけなんだね。
そうそうそうそう。
なんとなくやってるんじゃなくて、
カウントとかいろいろ勉強した上で、
自分はこっちだなとか、
こういう風に哲学をしたいっていう風なところで、
こういう方法を考えてくるんだよね。
なので、まさにこういうふうに言うと、
理想を追うとかっていうと、
どんどん中小化しちゃって、
ラベリング付けになっちゃうから、
そうじゃなくて、
ある種ちゃんと生きたものを、
そのまま扱い哲学っていうのをやろうとする。
それをちょっと難しい言葉で、
奥木さん自身も言ってるんだけど、
奥木さん自身は、
本質直感を求めてはならず、
具体的な存在得でなければならない、
みたいな話とか。
あとは、生きの本質、
これエッセンチやってるんだけど、
本質を問う前に、
生きの存在、
これエグエッセンチやってるんだけど、
っていうのを問うべきだとかって言ってて、
要は、
何であるかっていう、
そっちに行っちゃうと、
どんどん現実から離れちゃう。
目の前のものを見るんじゃなくて、
リンゴとは何かとか考えちゃうと、
目の前のリンゴから離れちゃうよね、思考が。
じゃなくって、
目の前のリンゴそのものに向き合うとか、
リンゴの存在を本当の意味で、
自分に引きつけて考えるみたいな、
そういうこともやっぱりやろうとするんだよね。
なるほど、なるほど。
あれだね、一応、
今の議会を伝えると、
あれだね、
リンゴとは何かっていうのを、
リンゴのエリアだよね、
エリアを、
色んなリンゴを集めて、
共通点を見てるってなると、
理想のリンゴはこうだ、
みたいなラベル自体になっちゃうんだけれども、
目の前の一個のリンゴを持って、
リンゴってことはみんながわかっているから、
なんでこれはリンゴなんだろう、
なぜだ、なぜだ、このリンゴは、
っていうのをめちゃくちゃ考えて、
調べていくみたいな、
間違いの感じがする。
本当そういう感じ。
なんで私は目の前のものをリンゴだと思っているんだろうとか、
なんでこれを私だけじゃなくて、
他の人も思っているんだろうとか、
っていうのがやっぱり福木さんがやろうとしていることで、
実はこれが冒頭も今日お名前出したんだけど、
フッサルとかハイデッカーにめちゃめちゃ影響を受けてるんだよね。
そうなんだ。
これもざっくり言うと、
ちょっと語弊があるんだけど、
フッサルはさっき言った本質直感っていう、
目の前のものから、
まさに本質とかを推測するというか、
作り上げていくみたいな感じの方向性で、
ハイデッカーは存在得って、
まさにその存在そのものもあるっていうことに驚くみたいな、
そういうふうな話なんだよね。
はいはいはい。
どっちも原初学なんだけど、
そこがちょっと違ってるみたいな話があって、
もしこの辺興味ある方とかで、
もう一回学びたいぞっていう方がいたら、
過去も原初学会とかハイデッカー学会やってるので、
よかったらそこもリリースいただけだとは思うんですけど、
存在の理解
そういうことをさっきのベルグソンとかフッサルとかハイデッカーとか、
いろいろ全部踏まえた上で、
自分はこの域というものに向き合うんだと。
それがフッサルのやり方っていう感じなんだよね。
なるほどね。はいはいはい。
だからやっぱり、さっきその域の定義とか辞書的な意味はお伝えしたけど、
やっぱりちょっと全然違う。
もちろん別に辞書を作ることもすごいだと思うんだけど、
やっぱりどこまで捉えようとするかっていう姿勢が違うっていうのは、
なんとなく今わかっていただけたんじゃないかと思うんだよね。
そうだね、わかったし、
あと、なんでいろんなテーマがある中で域なんだろうって思ったんだけども、
今その疑問は一回解決したというか、これで。
本当?
というのが、疑問っていうとあれだけども、
ある意味なんでもいいんだなって思ってしまった。
なるほどね。
悲しい感覚で。
たぶんこの域っていうものをしっかりと説明しきった先には、
たぶん何でもいいんだよね。
そしたらその次は執行でもいいんだけど、
たぶんそれでも同じ方法論でたぶんたどり着くことができそうだっていう、
一つの指標に近づいておくのが、
資金石化になり得るんだなって思った。
うんうんうんうん。
その方法論でたぶん。
本当にそうだと思う。
そう、だからさっき言ったようにリンゴであったら次は梨でもいいしとか、
パイナップルでもいいしっていう風にどんどん変えていくことができる。
それが果物ってレイヤーだけじゃなくて馬とか鳥とかそっちにいっても、
もしできるとしたらそれってすごい武器だよね。
そうだね。
そこが今すごい伝わってくれるのが嬉しいなって思ってるんだけども、
なのでそういうようなことをある種整理をする中で、
どういう風にさらにここから一気に踏み込んでいきますかっていうことを明確に説明していくんだよね。
うんうんうんうん。
それに関して言うと、
これもやっぱりやり方はいろいろあるんですよ。
さっき文化横断的に見てたかって国際的な比較の話をしたけれども、
国内日本だけの話に限っても当然やり方っていろいろあります。
例えばそれこそちょっと似てるんだけど、
これって生きるよねっていうのはものをある種たくさん集めて、
それを並べてみるっていうことももちろんできるわけじゃない?
まあなんかそれをやっちゃいそうだよね。
このリンゴはどうだったってわかった。
じゃああっちのリンゴはどうだろうっていうのを何個かやって、
ちょっと統計学みたいになっちゃう。
統計学って言うとね。
そうだね。
絶対そうだって言うのがずらい気がするけど。
でもね、95%の確率でこれはリンゴであるとか、
これは息であるとかちょっとなんかいけそうじゃない?
いけそうだよね。
そうそうそう。
これはさあね、これもまた久喜さんは批判するんだけど、
これは客観的表現としての息みたいに言うんだよね。
要は客観的にこれって息だよねとか、その仕草って息だよね、
その振る舞いとかお店って息だよねとかっていうものは、
客観的にすでに表現されている息だよねと、
いう風にあえてちょっとラベルをつけるんだよね。
それはもちろんさっきの抽象化しちゃってもそうなんだけれども、
これって息だねってやっぱ現象にはちょっと繰り返しになっちゃうんだけど、
その例えば仕草とかね、物を生み出した人の意図とか、
人の存在とか、あるいは生み出されたものを見て、
息だなって感じる自分の意識とか心とか、
そういうものは絡んでくるんですよね。
できるだけ息っていうものを捉えたいのに、
その息を生み出した人と生み出された振る舞いと受け取る自分っていう、
要は3つのことを考えなきゃいけません。
それってすごく複雑だし、
そもそも要素として多すぎますよね。
なのでこの生み出された仕草とかの息っていう風なことを
だるんじゃなくて、それは後の話で、
その前にそもそも息とはやっぱどのように
意識されたり経験されるのかっていう、
ここを解明しようとするんだよね。
さっきの話と言うとどの部分なの?
生み出した人の方、理解した人なのかな?
理解した人の方なの、どっちかっていうと。
あ、そうなんだ。
現状に頼るとこれは息だねって思った方の人ってことね。評価するような。
そうそう。評価するような人。
逆にやることも、これは息だって分かってないと当然表現できないわけだから。
あとはたまたま息になっちゃった人もいるかもしれないけど。
まあね、まあね。
確かにそれはあるかも。
いずれにせよ、たまたまそう理解する人ってことだね。
理解する人だね、そう。
さっきのリンゴの話で言うと、
これはリンゴであると認識している自分のその認識とか意識。
これを解明しようとするんだよね。
これをさっきの客観的表現とある種対比する形で
意識現象の息みたいに言ってて。
うわーもう、哲学始まってるね。
哲学始まってます。
始まったね。
もう一回言うね。
お願いします。
息っていうのはあくまでも一つの現象なんだけど、
それをあえて便宜的にクッキーさんは二つに分けようって言うんだよね。
それがその客観的表現としての息と、
その意識現象としての息っていうふうなもので。
客観的表現っていうのがまさに息なお店だとか息な振る舞いだとかっていう、
そういうふうに現実に起きている物事なんだけど、
その客観的表現の根底には、
そもそもこれは息であると感じたとか、
客観性と主観性の対立
息だと思ってるとか、
そういうふうな意識があるわけじゃない。
なのでそういうより根底にある意識現象としての息、
こっちから始めるんだよっていうようなことを言うんだよね。
どうだろう?イメージ湧くかしら?
イメージはそうだね。じわりと湧いてきてるけど、やっぱり難しいね。
だから誰かがすでに、誰かというか、
みんながすでにこれは息だねって言い終わった物じゃなくて、
それが何で息になったのかっていう、ちょっとプロセス部分の話に近いよね。
誰かが影響力ある人はこれが息だねって言ったらそうなるかもしれないし、
周りの人みんながこれ息だねって思ったら息になったっていう、
多分いろんな息になり方みたいなのとか、
息とラベルされ方みたいなのがあると思うんだけど、
それが結果論の話じゃなくて、そこのプロセス、
何で息になったのかプロセス部分だけを抽出というか、
なぜそれが、例えばリンゴで言うとさ、
目の前のリンゴはもうみんながリンゴだと認めてるリンゴだから、
それがリンゴだっていう風に言うのは、ある意味意味ないよねみたいな話で、
じゃあ何で俺はこれをリンゴとして見ていくのかっていう時の方法論として、
これがリンゴだっていうのは一旦ちょっとだけ置いて、
何でこれがみんなリンゴって言い始めたんだろう、
何で認識したんだろう部分だけを考えてみようみたいな話をね、
みんながあれがリンゴだって言った瞬間の、
何でっていうその何で部分みたいな、
そういう難しさがある、難しさとイメージ押しづらさというか、
確かに、今兄貴が言ってくれたことは多分すごい本質的で、
原子力の時にエポケみたいなさ、
カッコに入れるみたいな話をしたのって覚えてる?
いや覚えてないよね、説明お願いします。
エポケって話があって、要はまさに目の前のものがリンゴであるっていう、
その判断を一回保留するっていう風な態度があるんだよね。
なんかあった気がする、保留ね。
そうそう保留すると。
それをまさに言ってくれた、
みんながリンゴだリンゴだって自分もリンゴのしか思えないものがあった時に、
何ででもリンゴって思ってるんだっけ?
ある種、一回とかリンゴって思っている自分を一旦そこで受け止めるみたいなことがあるんだよね。
それをして初めて、このリンゴだと思ったプロセスの中に何が入ってくるんだろうとか、
それを、一個誤解しちゃいけないのは、
みんなって言ってるっていう、みんなって一旦取り払って考えてるんだよね。
ああ、そうだね。
もしかしたら歴史とかはあるかもって話は。
要は歴史的に、自分がそういうまさにこれをリンゴと呼ぶとか、
これを食べ物として捉えるっていう風な文化の中で生きてきたっていう、
自分の中のプロセスはあるんだけど、
一応他のみんながどういうとかっていうところはちょっとまだ好きになっちゃいます。
はいはいはい。
なので、このリンゴに対して、
意識の構造と判断
これはリンゴだって思う手前に一体どんな構造とか要素とか、
自分の中の思考とか意識があるのかっていうことをまさに目を向けていくって話なんだけど、
それがまさにこの意識現象みたいな話なんだよね。
なるほど。ちょっとわかった気がする。
確かにこれ結構現象学だな、やっぱり改めて考えると。
ちょっと聞き直そうかな、ふっさる現象学の回。
でもね、そこはぜひ補足というか、
多分覚えてる人の方が少ないだろうし、初めて聞いた方もいるだろうから、
ぜひ補足をお願いします。
そうですね。
でもちょっとフキさんの話に戻ると、
さっき言った通り、
みんながこれは域だねっていうものに増えるっていうことは、
やっぱりちょっともう一歩二歩進んじゃってるんだよね。
さっきの通り、そもそもそれが域であると判断する人がいるわけだったときに、
なんでその判断って行われるの?
なんでそもそもこれを域だと私は思ったの?っていうところに、
やっぱりその出発点があるよね。
やっぱそっちの方を解明していくことが、
より本質的なその構造であります。
域の構造っていうものを把握できるよねと。
逆に言うと、これって域ではねっていうみんなの方から始めちゃうと、
結局はつかみ損ねちゃうとか、
なんとかわかった気になるけど、
それって本当って言われると、
やーってみんな言ってるから私が言えねえみたいな。
そうそうってなっちゃうから、
そうはしちゃいなくないですよっていうぐらいのことを考えるんだよね。
だからクギさんすごすぎるわ。
ちゃんとそういうところも考えて書いてるんですよ。
そうなるんだね。物音を突き詰めようとするときね。
しかもここまでがまだ序章の何ページだ?
これ多分20ページくらいの内容かな。
そこ大事だもんね。
ここで夜中のキーススタディ集めますとかって言い始めたらさ、
だいぶやっぱ薄くなっちゃうんだろうね。
もちろんそれも大事なんだけどやっぱ哲学ではなくなっちゃうねみたいな。
今回その20ページくらいの内容を40分以上加工してますっていう感じなんだけど、
でもほとんど大事だと僕も思って、
これが理解できると、クギさんってそんなことをやろうとした人なんだとか、
大和田に言ってくれたさ、
意気じゃなくても別によかったんだけど、
意気っていうものをやることで、
まさにクギさんがやろうとした哲学っていうことの本質だったりとか、
武器っていうものが見えてくるようにっていうことが伝わるんじゃないかなって思ったから、
そこが兄貴にまず伝わって聞いてくれてる人にも、
そういうことかなってなんとなく話していただけたら嬉しいなと思うんですけど。
今回に関してはですね、
なんで意気なのとか、
次回の展望
それをどうやって掘り下げていくのとかっていうことを見てきたんですけど、
次回以降ですね、いよいよ意気っていうものをちゃんと掘り下げていく回に入っていきますよと。
そのあたり結構難しいのが、
なんでって言えちゃうことがいろいろあるんですよね。
例えばちょっとネタバレになっちゃうから、
要素ABCみたいなのを言ったときに、
なんでそのAなの?みたいな話で、
言うことなく言えちゃうんですよ。
でもこういうの聞くと、
確かになとか、
批判しにくいなっていうことがあるんで、
そこも含めて一緒に楽しんでいただくというか、
内容はもちろんなんだけど、
こういうふうに意気っていう概念を構造化していくんだなとか、
分解していくんだなみたいな、
そういうことを一緒に楽しんでいただけると、
嬉しいなって思いますっていう感じですね。
では次回ですね、
より意気をこの方法で、
どんな感じで解説したらいいか楽しんでいきたいと思います。
次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。
今回もありがとうございました。
48:29

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