1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #343 実は当たり前じゃない?..
2025-08-13 41:47

#343 実は当たり前じゃない?原典にあたる重要性を体現した荻生徂徠

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

荻生徂徠の学問は、江戸時代における古典の重要性を強調し、漢字に直接触れ、その意味を理解することの大切さを伝えています。彼は伊藤仁才から影響を受けながらも独自の学問を形成し、中国語の真髄を追求しています。荻生徂徠の思想は、古典を正確に理解するために原典にあたることの重要性を強調しています。また、彼の方法論は従来の解釈に対する批判を含み、古代の文脈から意味を抽出する方法により新たな解釈を提供しようとしています。荻生徂徠は、江戸時代の政治や学問において原典にあたる重要性を強調しています。彼の柔軟な解釈と時代に応じた制度の更新は、社会に対する深い洞察を提供し、後の学問に大きな影響をもたらしました。このエピソードでは、本森の稲葉が朱子学から国学への移行を通じて、日本固有の精神を探る重要性について語っています。

江戸時代の思想と学問
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、今回も江戸時代の思想ということで、小龍空井さんを見ていくというところでした。
はい。前回ですね、伊藤仁才さんという人をやりまして、彼が朱子学を学んだけれども、ある日そこで脱節をしてしまって。
で、突き詰めて、突き詰めていった結果、やっぱり俺は孔子と孟子だってなって。
で、それを直接取りに行くと、直接孔子と孟子が入った文字、漢字に入り込んでいって、
それを自分で意味を掴むんだみたいな、そういうものをね、して、ある市町の人たちに受け入れられました、というふうな話をしたかなと思うんですよね。
はいはい、なんていう技だっけ?
意味潔脈。
意味潔脈。なんかあの、呪術廻戦のさ、あの、領域展開みたいだね、なんか。
いや、そうだよね。
かっこいいね、今。
かっこいいんだけれども。
ほんとにかっこいいね。
そう、なんかね、言葉が強くて、
だからこれ、今回と出るんですけど、伊藤仁才さんが論語でめっちゃ読み込んだとか取り上げたって言ったじゃないですか。
うん。
なんかその論語のことをどういうふうに言ってるかっていうと、
最上四国宇宙第一の諸って言ってるんだって。
かっこいいな。
それじゃあ、ウルトラスーパーハイパースペシャルブックみたいな。
そういうことか。えっと、最上四国宇宙第一の諸か。
なるほど、なるほど。
相当褒めてるね。
すごいでしょ。
なんかめっちゃすごい意味があるのかと思ったら、ただあれだね、超超超っていうね、超ウルトラスーパーハイとか言ってる。
それ、重ねてるだけなんだ。
重ねてるだけ。
そういうぐらい論語を大事にしててというか、もう論語しかない、そこにつけてたんだよね。
逆に馬鹿にしてねえか、それ。
確かにね。マジやべえぜみたいな感じなんだけど。
もちろんそういう人はね。
心が強いんですよね。
っていうぐらい論語って、本当に取り憑かれた人だよね、伊藤仁才さんは。
やってたんですけど、前回も言ったとおり、そういった論語に書いたときに、そんな別に抽象的なことじゃなくって、
身近なこととか、本当に人と人の親愛の気持ちとか、そういうところから始まったきゃいいんだよ、みたいな。
そういうふうなスタンスあったんだけれども、そこに対して、ちょっとだいぶ共感しながらも、
いやいやお前違うぜって言った人が、今回取り上げる小牛空井さんなんですよね。
荻生徂徠の成長と挑戦
今日はお話ししながら、主旨悪の発展というか、日本の受け入れ方をお伝えしていこうという話なんですけれども。
小牛空井さんは江戸生まれの人です。京都じゃないんだよね。
おーついに江戸の人が。
そうなんです。江戸の人が出てきまして、生まれたのは1666年から。
1666年に江戸で生まれるんですけれども、伊藤仁さんよりも30歳下ぐらいかな。
なのでちょっと1世代、2世代下みたいな人ですよ。
この人は面白くって、生まれ時系がめっちゃ有力なんですよ。
もともと武将のつながりが多分あって、お父さんも後に将軍になる徳川つなよしさんっていう人がいるんですけど、
徳川家のお医者さんで、結構小さい頃は裕福というか、すごい力があったらしいんですよね。
でも小さい頃は、小牛空井さんが14歳にお父さんがつなよしさんの怒りをかかっちゃって、何したかちょっとわからなかったんですけど、
すごい不機嫌させちゃって、お前もう江戸から追放だみたいな。
江戸の地を踏ませんぞって言って、田舎にさせんというか、追いやられちゃうんだよね。
将棋とかで手抜かないで勝っちゃったとか、そういう感じか。
いや、どうだろうね。調べたら出てくるのかな。
もうちょっとやらかしたかな。
やらかしたと思う。追放されるぐらいだからね。
今で言うと千葉の真ん中よりちょっと東側?千葉くんで言うところの耳、垂れてる耳の下ぐらいのところにあるんだけど。
まあどっちでもいいわ。
千葉の形、千葉くんだから同じこと。
確かにね。
というところで、追放されていくんですけど、今で言ったら千葉なんて都会だけれども、当時はめちゃめちゃ田舎だったらしくって、
江戸は本当に城下町、幕府があって、塾もあれば学問もいろいろ盛んなんだけど、
千葉のほうに行っちゃうと、いわゆる農民とか、学問をするとかじゃなくて、
本当にとにかく日々の暮らしに困ってます、なんとかやってますみたいな、そういうふうな場所だったらしいんだよね。
千葉さん自身も後に育って学問で有名になるぐらいなので、やっぱりちっちゃい頃からめちゃめちゃ勉強をしてて、
幼い頃からお父さんが持っていた授学の本とか、そういうのを読んで勉強したらしいんですけれども、
やっぱり田舎のほうに行ってしまうと、家には本はあるけどその他のところではないわけだよね。
なので勉強しようと思ったらなかなかできないし、結局周りにそういう学問に通じてる人もいないから、
手持ちぶさたになってしまいます。
でもそんな中でも、お寺にある本を読んだりとか、ちょっと詳しい人とかを読んで勉強したりはするらしいんだけれども、
やっぱり14歳で千葉のほうに行って、許されて江戸に戻るのが27歳の13年後ぐらいらしいんですけど、
その間、都会で生まれ育った人と田舎暮らしのトライさんの差が結構ついちゃうわけですよ。
彼はすごい学問を頑張りたかった人なんだけれども、環境が許さなかったみたいな感じで、
漢文の読み方と哲学の探求
ちょっと田舎から出てきた芋臭いやつみたいな。
そんな感じで27歳のオギロトライさんの状況としてはなっちゃうんだよね。
恐ろしいね。C言語とかのプログラミング言語めっちゃ勉強してたのに、都会に戻ったらもう人工知能とか言い始めてるよ、どうしようみたいな。
そうそうそう。
こんなに違ったんだ、みたいな。
まだそんなことやってんの?みたいな。
そうそうそう。っていう感じで、やっぱり彼らとしても悩むわけなんですよね。
悩むんだけど、やっぱり学問で見渡せたいって言って塾を開くんですよ。
そうなんだ。
江戸に戻ってね。
C言語の塾をね。
C言語はさすがに人来ないから、どうしようどうしようって。
彼が思い立ったのが、そうだと。
前回、伊藤仁祭さんのときにも言った通り、当時の学問、授学って、いわゆる読み下し文とか、読み下しで学んでいくっていうのは主流だったわけなんだよね。
その中で、小牛曽来さんは中国語を学んでたというか、中国語でそのまま漢文を読めるっていう風なスキルを身に付けてたんですよね。
なので、塾を開くときに、その漢文をそのまま読めるようにします。
読み下し文じゃなくて、中国語として読めるように教えるよっていう風な塾を開くんだよね。
おー、すごいね、それは。面白い。
そう、っていう感じで。
そんな感じで、江戸に帰ってきて、なんとか中国語ができるとか、漢文をそのまま読める力を使って生きていこうという風な感じでやっていくんですよね。
前回も言った通り、これって実は伊藤仁祭の方法に結構近いんですよ。
伊藤仁祭さんも読み下し文とかじゃなくて、いわゆる漢字の羅列。
それをそのままダイブして、意味をつかもうっていうことをしてるじゃないですか。
意味決略。
そう、そういう技みたいなやつね。
それは別に中国語として読んでるわけじゃないから、読み方は違うんだけれども、そういう、いわゆる林浦さんが作ったとか、文字学でいわゆる固められている読み方じゃない読みをしようっていう意味では、結構近いことをしてるんだよね。
ある日、若きそらいさんが、伊藤仁祭さんすげえって言って、自分と同じことを考えてる人がいるみたいな感じで共感をして手紙を書くんだよね。
これちょっと前回の最後にも言ったんですけれども、入門したいです。江戸から京都は距離も遠いんだけど、京都行ったら入門させてくれますかねみたいなことを手紙で書いたんだよね。
30歳ぐらい上の大先輩。
大先輩に書くんだけど、現地はなかったんですよ、残念ながら。
当時第一、京都一流の自学者の仁歳さんと、江戸の無名の若者ですよ。
何にも力もないとか、何も実績もない若者が、さっさりちょっと上から目線で書いてるんじゃないかと思うんだけど、これは完全に想像ね。
自分と同じことをやってるじゃないですかみたいな。一緒にやりましょうよって手紙を書くんだけど、書いてこなかったわけなんですよね。
そういった中で、小牛曽良さんとしてはなるほどわかった。
これはもう自分でもっともっと余って勉強して見返してやるぞみたいな。
そういう感じでどんどんどんどん学問の道に深入りしていくんだよね。
これ当時だと佐野田に届かなかったっていう説はないのかな。
どうなんだろうね。さすがに手紙は届くんじゃないかな。わかんない。土地で燃やされちゃったからとかではないけど。
そこは何回か送ったりとかしたのかもしれないしね。
今以来江戸から京都ってめちゃめちゃ遠いんで、気軽に行けないとすると、まずは手紙でやり取りをしながら行くっていうのが基本線であっただろうから。
それが立たれた段階で、自分は江戸で生きていくんだと。自分の学問をやるんだってなっていくんだよね。
面白いのが、そうやって自分で漢文を読んでいくんですけど、そうすると大木夫沙耶さんはいろんなことに気づくんですよ。
大きく2個あって、1つはさっきも言った通り、いわゆる訓読法っていうような訓点をつける読み方。
前回も外国の哲学書をそのまま読めるのか、そのままというか、本当に理解できるのかって話をちょっとしたと思うんですけど、
まさに沙耶さんもそういうことを感じて。
ような孔子とか孟子の書いたことって、古代中国の当時ですら2000年前の話なわけなんですけど、
そんなふうに読み下し文とかで読み取った意味っていうものが、本当に当時孔子とか孟子が考えたことなんだけど。
もっと言うと、古代中国の思想っていうものを僕らは本当に学んでるんでしたってことに気づくんだよね、大木夫沙耶さんも。
荻生徂徠の思想の核心
逆に言うと、すごい攻撃的なことで、要は当時当たり前の訓読で読むってことをやってる人たちに対して、お前らおかしいぜっていうふうに疑問を突きつけるわけなんだよね。
正しくないぜと。
もう一個これは当時の哲学じゃなくて、宗旗に対しても同じようなことを考えていて、
要は宗旗の解釈、1200年に宗旗があったものっていうのも、当然孔子とか孟子の時代から1000年以上経ってます。
いう時に、その宗旗の解釈ってあくまでもその時代の解釈ですよね。
やっぱりそのディンサイズって似てるんだけれども、その孔子とか孟子の時代の言葉の使い方とか、まさに文化的な背景っていうものと、
宗旗の時代の言葉の使い方とか背景って全然違いますよね。
なので、宗旗のことを学んでも結局論語そのものは辿り着かないよねっていうふうに、やっぱり小木曽さんも考えるんですよ。
おー、なるほど。
そういう意味では結構ディンサイズと近いよね、発想として。
そうね、問題点の立て方というかね、ポイントは似てるよね。
そうそうそう。なので、やっぱりその古代の文、孔子とか孟子が書いたものを、その当時の古代の言葉として読みましょうっていうふうに小木曽さんも考えるんだよね。
そういう意味ね。
これが実は仁斎さんとの方法の違いで、考えてることは近いんだけどやり方が違うんですよ。
仁斎さんはとにかく論語だ、あるいは孟子だって言って、そこにダイブしていきますと。
従来の方法論への批判
だって中国語できないんでしょ。
できないから、一生懸命何回も何回も繰り返し読んで、みんまり浮かび上がってくる意味をつかむんだよね。
おかしいお願いですか。
ハリーポッターを原文で読もうとして、英語のハリーポッター買ってくるじゃん。
あれを意味欠脈で読むとさ、すげえ大変そうじゃん。
すごい大変。
自分勝手にさ、ジェアワザ何とかってさ、あそこに何とかがあったみたいなのもわかんないわけじゃん。
わかんない、わかんない。
これはきっとこの漢字からすると、あそこにパイナップルが置いていたなーみたいなさ。
ちょっとね、その意味では伊藤さん、仁斎さんはちょっと謎すぎるけどね。
意味欠脈のどれくらいすごかったのかっていうのは疑問案のこりでね、正直。
やっぱりそれは漢字だからできたというか、漢字自体に意味が言ってあるというかさ、受け取れるじゃない。
なので、それがある程度幸か不幸かできちゃったので、その漢字一文字一文字とかの意味にもっとできたんだよね。
まあ私言うてね、それこそは、朱子学とか、そういうのをガチでたぶんめっちゃ勉強してきたっていうところもあるから、
できた技なんだろうっていうことはある。
中国はできない、できる、できないというよりは、ちゃんと学問としてそういうものには寝てきてるわけだからってことはね。
そこだと意味を読み取るってことはできた。逆に言うと、英語とかの文はやっぱりできなかったことだと思う。
全然やっぱり文字からイメージできないから。
まあそうだね。ここではちょっとやってることのレベルが違うってことだね。
ちゃんと漢字とか、向こうの学問とか、授業とかが増えてきたよっていう話だよね。
当時の日本は基本そこには学問としては増えてるわけだからね。
そうそうそう。
っていう意味で、やっぱりやり方としては無茶をやってるのは本当そうなんだよね。
無茶ではあるんだね。
うん。無茶ではある。
で、お湯沢さんはもうちょっとスマートというか、ロジックな部分があって、
この古材の文を読んでいきましょうと。漢字、一文字、もうどういうふうな意味で使われてるかわからないけど読みましょうっていうときに、
でも当時の古材の文っていうのは、まさに師匠御教を含めていろいろあるわけなんだよね。
多少の時代の前後とかはあるにせよ、一定これぐらいは当時、孔子とか孟子たちが書かれたもので詳しかろうっていうものがあるわけで、
それをまず全部並べますと。
その中で例えば仮に道みたいな文字があったとしてね。
道は大事だとか仮にあったときに、道って何?っていうのはその文字だけでは当然わかんないわけよ。
でもそのいろんなテキストの中に道っていう文字が書かれていて、
その文脈の中で道というものはこういうふうに書かれているとか、
こっちではこのように言われているとかっていうふうに比較検討できるわけなんだよね。
はいはいはいはい。
そうしていくと要は、例えば道っていうものが100個使われている文章があったときに、
その100個の文章を比較検討して初めて、
当時道ってこういうふうに使われていたんだみたいな、そういうものを掴んでいきましょうと。
ほうほうほうほう。
そういうふうにしていろんな言葉っていうものを、古代当時どう使われていたっていうことを浮かび上がらせていくっていうふうな、
そういうふうな方法って女のオギブスライさんが開発するんだよね。
わー、こっちのほうが納得性高いわー。
意味決まってダメ?
意味決まって笑ってね。
俺はこう感じたんだって言われたら、そうっすかってなっちゃうもんね。
まあそうね。
オギブスライさんはだいぶ優秀なんですよ、この人。
うまいねー。
なので、やっぱり主旨の文脈とか古代の解説じゃなくて、古代の文脈そのものをこれで掴み取りましょうと。
訓読もいらないし、主旨もいらない。
あくまでも古代のテキストそのものから意味を引き出していきましょうっていうふうにしていくんだよね。
新しい解釈の提案
これは結構強力だよね。
これはすごいと思う。
まず、やっぱりそういう風な方法論の違いってもあるし、
オギブスライさんは神才さんを超えたいので徹底的に批判をするんですけれども、
何を批判するかって言うと、やっぱりそぼくさなんだよね。
どういうことかって言うと、前回長人としての神才さんが結構ほんとにそぼくな、親と子の愛情とかも含めて、
そこから世の中に大事なものが生まれてくるんだよっていうくらいの話をしたと思うんですけど、
それは一理あるというか納得はできるんだけれども、
やっぱりソラリさんから言わせると、あまりにもそぼくすぎるというか、ちょっと個人主観すぎるんだよね。
あと意味決め役だもんだって。しょうがないんですけど。
意味決め役が悪いことを見てますよね。悪くないんですよ。
バカにし始めてる。
し始めてる。でも立場の違いもあって、前回も言った通り神才さんはどっちかって言うと、
街で本当に長人の中でやってくる人なんだけれども、
ソラリさんは江戸に帰ってきて、その後いろいろやっぱり弁政とかを高めて、
ちゃんと政治の舞台に戻ってるんですよ、ちゃんとっていうか。
自分の立場をどんどん上げていって、
幕府の中でも、ちゃんと有力だというか、なんかあったら一気に置きかれるみたいになってくるんですよ。
じゃあ一目置かれたんだ、ちゃんと。
そうそう。やっぱりちゃんとそこには辻道があるというか、やっぱりすごいねっていう風になっていって。
さっきのすごさというか、このオリュー・ソラリさんの。
だって、ここは趣旨学的なスタンスなのかなってちょっと思ったんだけど、
合意形成というか、納得度だよね、お互いの。
そこの高さみたいなものはやっぱり、さっきの意味欠約と比べると、ちょっと段違いだよね。
だって、例えばそういう幕府の人が来て、オリューさんとソラリさんと、
ここに道ってどういうことなんですか?みたいな質問をしたときに、
すごいスラスラ答えた上で、サインや原点によるとここにはこう書いてあること、書いてあるみたいなものが100個ぐらいバーッと出てきて、
それを統合するとき、人はやっぱりこう言ってるはずですよっていうのは、めちゃくちゃ説得力あるよね。
そうなんだよね。
なんとなく俺はこう思うとかさ。
伝統的にこう言われてるよりも。
そうなんだよね。やっぱりちゃんとファクトチェックじゃないけれども、
テキストにこう書いてありますとか、読み取れますみたいな。
ところがやっぱりちゃんとしてるんだよね。
さっきバックに取り立てられてって言ったんだけれども、
お父さんを追放した津波吉さんの北京の人に抜擢されて、津波吉さんの時代でも活躍をしているし、
その後の津波吉宗さんか八代将軍の信任を得て、結構そこに仇退走するというか。
そういうところまでやっぱり取り立てられてるみたい。
これは時代に言うと林羅山はもういないのか?いる中で同時にいったのかな?どうなんだろうね。
林羅山が亡くなったのは1657年なので、
津波吉さんが生まれたのはその後ですね。
はいはい、もう亡くなった後に生まれてるから、
そういう江戸幕府の朱子学的な体制づくりは八代将軍である程度ベースが作られた上で、
あとはその後を継ぐようなというか、いろんな人たちが持ち入れてたみたいな感じなんだね。
まさにブレーンとしてそう。
こっちはあんまり触れなかったんだけれども、やっぱり林羅山の一家も当然そこをやってくるんだけど、林一門みたいな。
でも結構同時に没落しちゃって、割と養殖から外されてたらしいんだよね。
難しそうだね。楽もちゃんとね。
なのでやっぱりそういうある種新しい人として、そらえさんとかは取り扱われていきますみたいな話なんだけど。
だけど立場の違いっていうのはまさにここで、
伊藤仁才さんって京都のある町人で、町人同士の中でやっぱり広まっていくようなところもあって、
同じ階級とか言って同じ文脈を共有できる人たちってところが、やっぱり平等っていいよねとか、
確かに難しいことなんて考えずに、我々の中にあるような友情とか信頼っていうものから、
世の中ってある種考えていけるよねみたいな、そういう発想なんだけど、
荻生徂徠の思想
やっぱりそらえさん、また政治の道に戻ったそらえさんからすると、やっぱりそれでは足りないわけなんだよね。
伊藤さんは資能交渉で階級も違うし、後で改装して田舎に居てもよかったって言ってたらしいんだけど、
やっぱり江戸っていう都会と地方で文化差とか学問の振動度合いも違うっていうときに、
それも両方をちゃんとまとめ上げて、やっぱりこっこを作っていかなきゃいけない。
っていうときに、やっぱりその個人的な心情とか気持ちとかってところからだと、やっぱりどう考えても国はまとまらないって思うわけなんだよね。
ただ一方で、鈴木が言ったような、なんか利とか貴みたいなめちゃめちゃ抽象的な、
そういうふうなところから行くのも、やっぱり授学としてはおかしい。申し訳そのことは言ってないっていうときに、
あるとその間にある社会みたいなものに、空江さんは目を向けるんですよ。
つまり社会制度とか、法律とかもそうなんだけれども、それを時々最適なものにしていこうと。
つまり武家諸法都とかも含めて、空江さんがずっと70年80年前にできたものもあるんだけど、
それも例えば今の江戸時代には合わないですとなったときに、それを変えていいんだっていう発想を持っていくんだよね。
そこは面白いね。授教をやりながら柔軟性を持ってるのはすごいね。
それは解釈の話で、そもそも道っていう言葉で空江さんを大事にしたらしいんだけれども、
道っていうのが、要は世の中どうあるべきかとか、いわゆる偉大なものとかも含めて道っていう言葉で表現してると捉えたらしいんだけれども、
その偉大さとか世の中をどうまとめるかって、やっぱり時代時代によって全然違う。
それは孔子の時代にまとめてることもあっただろうし、江戸時代にはこういうやり方があるっていう。
まあ、howの部分は違うんだけれども、何らかの形で国とか政治とかまとまっていなきゃいけないっていう、それ自体は変わらないっていう風な。
そういういいとこ取りをするんだよね。やっぱり孔子と孟子の時代のものをそうやって持ってくるのはさすがに時代錯誤すぎると。
でもやっぱり国を治めたいとか安定させたいとか、そのためにそういった制度とか仕組みが必要だってこと自体は正しい。
そういう発想を現代に持ってきて、じゃあ今の江戸、この日本では何が正しいんだっけってことを考えましょうみたいな、そういうことを解いていくんだよね。
政治への提言
すごいね。さっきhowみたいな話したけれども、なんとなく儒教とかって、howという文的な印象がない。内容をよく知らずに言うけど。
いわゆる結構、例とはこういうものだとか、こういう時はこうすべしみたいなものが多いだろうね。
だから恩子知信っていうよりは、なんか太古主義みたいなさ、そういう捉えられ方をしがちな気がするんだけど、
そこを柔軟性で、時代によって違うのだ、みたいな本質をちゃんと分かっていく上で、時代に沿ってアップデートさせるのだ、みたいなのって、あんま儒教のイメージがなかったから。
このお龍さんの対策だったりとか、どんな感じだったんだろうっていうのが興味があるのね。
そうね。だから、なんていうのかな。さっき言った通り、田舎も経験して都会も経験してっていう時に、やっぱり両方が自分の中にあるから、
それをちゃんとまとめて、どっちも少しは救わなきゃいけないというか、どっちも守っていかなきゃいけないと思うんだよね。
そらるさんはすごい楽しいんだけれども、これもちょっと本に書いてたんだけれども、そらるさんが政治に入った時って江戸時代、江戸幕府時代は結構苦しい時代で、お金がないですとか、農民が困窮してて貧しいですみたいな、
そういう時代だったんだよね。なので、やっぱり経済を手直さなきゃいけないとか、もう一回守らなきゃいけないっていう時に、そらるさんがある種政府の中心にいるんだけれども、結構ね、やってることっていうか提案したことが極端なことをいろいろ言ってたらしくて。
へー、そうなんだ。
うん。あいつも非現実的な、武士たちがいろんな階級とかがあって、身分があって暮らしてるわけなんだけれども、それはやっぱり制度移動にお金がかかるわけだよね。
そうなんだ。
当時の小牛そらるさんでいくと、まさに政治のここに入っていって、政府が財政難とかあったときに、これは歴史でやったことあるかな、教法の改革っていうのがあるんですけど、農法元年みたいな。
これは吉宗がいろんな政策をやったときに、それの助言とか提言、こういうことをやったらいいんじゃないかっていうのを小牛そらるさんがいろいろ提案したらしいんだよね。
そうなんだ。ほうほうほう。
そういう本家の政談って、政治の正に談話の談っていうふうな本にもまとまってるらしいんだけれども、
ある程度、小牛そらるさんのほうは自学者、主治力を学んでそれを超えた人ではあるんだけれども、やっぱり晩年はどんどん政治家になってくるんだよね。
だから、自分が大事な申しとか、こうしてものは理解して、そういった重力をつかんでいくんだけれども、
それをより政治的に応用していくというか、政治外国に使っていくっていうふうな人なんです。
だけ言うと、人材さんみたいな、繰り返しになっちゃうけれども、晩年に適応するものじゃなくて、個人個人の思いとか気持ちとか発せるものは受け入れられない。
それを批判して、自分は人材さんよりもすごいことを考えたんですよ、みたいな。
ということを世に広めていったというふうな感じなんですよね。
そこは結構名前を出して批判したの?
めちゃめちゃ名前出してる。
そうなんだ。
そう、もう書記も間違ってるし、伊藤仁才さんも間違ってるよ、みたいな。
そんなふうに書いてるみたいだね。
そうなんだ。伊藤さんも変えそうだね。
しょうがないよね。一流の人を批判する人が出てくるだろうからね。
無視しちゃったしね。
学問への影響
まっすぐな手紙をね。
そうすると、おりゅうそらいが名前を持ち上げて批判するまでもなく、
前回、山崎安西と伊藤仁才が京都で事故を構えたみたいな話があったけれども、
そっちだったんだねっていう。
そっちっていうのは?
山崎安西も、いわゆるスイカ浸透とか、いっぱいの人にわかるようにみたいな感じでやってて、
伊藤仁才も話していた感じだと、結構趣旨学の根本に踏み込む、事況の根本に踏み込むみたいな感じではあったんだけれども、
伊藤はやっぱり早いと言ってくれてたように、一般民衆向け?
はいはい。
という意味で、山崎安西と伊藤仁才も一般向けの趣旨学として働いてされて、
そことさらにこのオリュー・ソライが来たんだけれども、
オリュー・ソライが名指しで批判するほど同じ土俵には立ってなさそうだなっていう感じはしたね。
これは結果を見ての感じだね。
思想的な結果はやっぱり違う。それは社会的な立場とか参点が違うからなんだけれども、やっぱりその方法はすごい違かったじゃない。
やっぱり訓点とかじゃないし、主義の解釈にもよらずに、当時の言葉をそのまま読み取っていこうみたいな。
趣旨学とかに対する違和感とか、やっぱりこれをこのままやってもしょうがないみたいな。
っていうのはやっぱり共通したのと思うんだよね。
それをある種最初にやり切って、むしろそういう道があるんだって示した仁才さんと、
その天神の跡をある種追いながら、それでも足りないとか、現実を変えていくんだったらここまでやり切らなきゃいけないみたいな。
そういうところまで行き着いた、ソライさんとみたいな。
ところがやっぱり繋がりっていうのはあるんじゃないかなと思うんだよね。
そうだよね。問題って一緒なのに。
そうそうそう。ここから、どこに気づいたかみたいな話だと思うんだけれども、
すごい僕がこの2人を見てて面白いなと思ったのが、仁才さんは今日ちょっとネタっぽくなっちゃったけれども、
意味欠脈で文字にダイブしていくわけじゃないですか。
そういう意味で言うと、よくもらうと主観っていうものでそれを捉えに行こうとする。
それが自分の掴んだ方針も方針自学だから、それもそれで正解なんだと思うんだけど、
やっぱりソライさんは自分っていうものじゃなくて、ちゃんと一旦距離を置いて、
また言葉だよね、当時の言葉に向き合うと。
今もそうなんだけれども、やっぱり昔の人が書いたものを読むときに、
同じが日本語だとしても、やっぱり使われてる意味が違うとか、当時の時代背景が違うから、
そのまま読み取っちゃダメだよみたいな話ってあるじゃないですか。
当時の江戸の感覚で言うと、そもそもそういう発想がないわけだよね。
時代を越えて言葉の意味が変わっているから、そこに気をつけて当時の意味を救い出しましょう、
なんていう方法論がそもそもないわけよ。
でもこれが実は、その後の学問的なことにめちゃめちゃ影響を与えていくんだよね。
実際そうなんだ。スタンスというかね。
これがソライ学とかって言われてるらしいんだけれども。
すごいね。
そうなんです。
オキオソライさんがやったその方法論っていうものがやっぱりすごい。
要は、やっぱり誰かの解釈を通じて、その昔の文化に触れるんじゃなくて、
今の自分が直接そこに通り着く道があるんだっていうことを示したわけなんだよね。
周囲にも理解されるというか、ちゃんと納得されるような形で。
そうだね。そこがすごいと思う。
なので、やっぱりソライさんの方法論を使って、日本人が学問をしていく。
実際、例えばそういう、自分が古いものを読む時のスタンス。
今の自分に引き付けるんじゃなくて、むしろ自分を昔のというか、
できる限り当時の時代に持っていくみたいな発想って、やっぱり結構本気的で。
実はこれ自体が次回お伝えする本森の稲葉さん。
そこにも一定影響を与えてるんですよね。
次回ちゃんと言うんですけど、小牛ソライさんと本森の稲葉さんって思想的には全然反対というか、
本森の稲葉と学問の流れ
本森の稲葉さんは主役から完全に欠滅するんですよね。
受学自体を批判していくので、やっぱりそこで全然違うんだけども、
やっぱりある種過去のもの、いわゆる古の人たちに学ぶとか、
それを読み解いていくとかっていう、スタンス自体は結構近いというか、
多分受け継いでるところがある。
というところが、やっぱり江戸の思想の流れというか、文脈としてあるみたいなんだよね。
なるほど、なるほど。
これまでは朱子学という、朱器からつながるものをどんどんやってきたんですけれども、
次回は国学ですね。
本森の稲葉さんが作った、作ったというか継承、発展させたか。
という、また違う、朱子学とは違う学問を、
日本でどういうふうにやったかということを伝えていこうと思うんで。
はいはいはい。
一旦朱子学の話はここで終わるんだけど、
とはいえ、本森の稲葉さんは朱子学を勉強してるんで、やっぱり根底には流れている。
そういったものの上に、国学って日本の学問、
日本固有の精神を読み解こうとした学問が生まれましたかみたいな。
これを次回お伝えしたいなと思ってます。
おー、なるほど。面白そうだね。分かりました。
では次回も本森の稲葉先生というところで、楽しんでいきたいと思います。
では、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
41:47

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