1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #50 神との関係を哲学するとど..
2022-10-16 51:34

#50 神との関係を哲学するとどうなる?4世紀頃のキリスト教哲学

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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00:00
(音楽)
はい、それ鉄ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
前回は、一旦中世に戻って、暗黒時代、中世というものの世界観とか価値観ってどんなものなんだろうね、というものを見ていこうというところで、
まずは、暗黒時代という言葉の誤解というところを解いていこうというところをやってもらいました。
今回から、実際に教室業哲学みたいなのを見ていきたいと思うんですけど、
当然、どうしても宗教の話なので、理性が及ばないところがあるみたいなのは、実際そういった哲学者というか信学者の人たちも言ってはいるんですよ。
例えば、今日も話の中で、神の国とか、恩長みたいな話出てくるんですけど、それをちゃんと理性で捉えきれるかとか、それを解き尽くすかというと、そんなことはないので、
そこに関しては、キリスト教的な、僕もキリスト教のことをちゃんと理解しているわけではないけれども、
神というのがいて、永遠の世界があって、神の国があって、そういうふわっとした理解の中で、そういうのもあるな、
ただ、ここまでは理性で、哲学的に考えたんだな、みたいなところを味わってもらうみたいな感じで聞いていただけたらなと思っています。
キリスト教哲学って、言葉が正しいかというのもあるんですけど、その中にもいろんな問題というかテーマが含まれていて、
例えば、神の本質とは何かとか、神が存在するってなった場合に、人間と神の関係ってどんな感じなのとか、そもそも人間の在り方とは、みたいな、
という、すごいいろんなテーマが出てきます。
例えば、4世紀、中世の初めくらいに活躍した人で、ニッサのグレゴリウスって、ニッサって地名、今のトルコで、昔で言うとペルシャにいたグレゴリウス、グレゴリオスか、
この人は、ウィキペディア知識なんだけど、神父の中の神父って言われている人らしくて、神父、神の父ね。
だから、そのぐらい、ある種代表的な人みたいな感じなんですけど、
例えば、彼が言うところには、万物、あらゆるものは変化して同じものはないよね、と。だから、あるものは、より良い状態に向かうか、より悪い状態に向かうかのどっちかだよね、って言いますと。
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そうすると、人間も同様なんだけど、人間の場合は、例えば水が流れるとかと違って、自分で選択をしますと。
ここまでは、わりとロジックって理性っぽいんだけど、だから人間っていうのは、より良い性に至る可能性もあるし、より悪しき世界に陥ることもあるんだけど、
これを神との関係っていうので言うと、神がこの世の中を創造した、とかしていくってなった時に、それに協力して、神が作ったものからより良いものを生産する、作っていくか、
あるいは自分自身も神の被造物じゃん、人間。だから、神の作った自分っていうものをより良いものにしていくか、それとも悪いものにして、神に背くかみたいな。
そういう分岐点となる存在だよ、あるいは存在論的な力だよ、みたいなことを言ったりします。
この話だけでも色々面白いんだけど、最初に伝えたかったのは、中世とかギリスト教が支配していた時代、みたいなことを思った時に、
教えを申しんするというか、神っていうのはすごくて、人間っていうのは非力だ、みたいなイメージがあるかなって思うんですけど、
別に、ただね、いわゆる聖書というか、神のフィレクシスだけじゃなくて、人間の決断力とか、人間が選択するみたいな、そういった考えっていうのが結構元々、こういった一つにはありましたよ。
なるほどね。たしかに今の話だけ聞くと、冷静に捉えている部分、神は作ったものを大事にしよう、もしくはそれを適当に扱うのも自分次第みたいな話で、
だったらみんなでよくしていこうよ、ちょっと倫理的な話も入っているみたいなところで言うと、これ無理やりかもしれないけど、大乗仏教の徳を積むみたいな、そっちもやっぱり倫理観じゃん。
いわゆる倫理的な部分を含んでいる。みんな同じだと思うけど、そういう倫理観的な部分を感じた、神というものをどう捉えて、
それを倫理的に行うことで、教えに触れた人がある程度レクトルを、ヒースト教側から見るとそっちに向ける教えを信仰する人たち。
それが悪い方に行ってもどっちでもいいよとは言わないみたいなところ。どっちにも行くかもしれないから、みんなでいい方に行った方がいいじゃんみたいなのをちょっと感じたかな。
その辺は宗教の在り方とか、国家というか国をまとめる力としての宗教みたいなところと関わってくるだろうし、
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やっぱりそういう中で、とはいえもちろん、もしかしたら一般の普通の人たちはただ言われたことを信じていたかもしれないんだけど、
そうなんだね、そんな感じはちょっとした。
やっぱりこういう教える人っていうのはこういうことを考えています。
ベレゴリオスっていう人が言うところの、人間が神、元々ヒリストによって救われるっていうのはどういうことか。
やっぱり宗教って救いっていうね、さっき兄貴も言ってくれたけど、倫理とかで人間がまとまるってのもあるし、そもそもそれに従ってると、
現世とか来世で救われるみたいな考えっていうのがあるので、それがどういうことかっていうと、彼がいわく神の友になって神と重なることなんだ、そんなことを言うのね。
それはどういうことかっていうと、人間の側が人間っていう子の存在を失ってないっていうことを意味するって言われていて、
例えばその比較として、ギリシャ哲学みたいなことが比較されてたんだけど、特にプラトンとかだと、哲学の最高の状態っていうものがあるんだけど、
それはある種、真理を見ること、感想することだ、みたいな話があって、
でも真理っていうのは遠く、イディア、禅のイディアっていう存在がポンってあって、
それは我々は見るしかできないというか、関わることなんてできないみたいな。
ああ、影響を与え合うことはできないみたいな話か。
そうそう、関与することはできない。
絶対的には決まってるものだから。
そうそう、みたいな思想があったんだけれども、
グレゴリオスにおいては、個人と神、いわゆる最高の真理だからっていうのが、いわゆる関係を持つことができるとか、
そういう関係を持っているのが理想状態だ、みたいなことを言っています。
そっかそっか、影響を与え合う、そっかそっか、
影響を与え合うではなくて、イディアとかと、そもそも影響以前に向こうからのアプローチを受けることがないってことか。
そうだね、映し身だみたいな感じのか、禅のイディアを分有するわけって、
自分も一部それを持っているから、禅のイディアを見れるとか、
それを真理として感じることができるっていうのはあるんだけど、
そこに何かお互いに関係性を持つとか、力を称えかけるとかっていうのは、想定されないんだよね。
はいはい、対話みたいなものとか、こうせよみたいなものがないってことかね。
そうそうそうそう。
4世紀のグレゴリオスっていうのは、個人みたいなものも一定大事にしているというか、
それがあって神の関係があるよみたいなことを言ったりはします。
09:01
ただ個人っていうのも、今の僕らの近代的なというか、資本主義的なところからずっと間違えちゃうっていうのがあって、
この時に個人とか人間っていうのは、結局神の国にいた時の人間というか、
アサムとイブの話でさ、リンゴを食べてさ、追放されちゃうみたいなのがあるじゃん。
そのアサムの罪を犯す以前の状態に戻ること。
その状態が理想神と人の理想状態で、神と人間が友として一緒にあったことだみたいなことを言います。
ここまでいくと、哲学っていうよりは宗教とか物語の話になっちゃうんだよね。
だからあくまでも個人が自立して神とみたいな話じゃないんだけど、
むしろそれが行われたのが、19世紀とかのヨーロッパだったり、
中世などに取り扱おうとしているキルケゴールとか、そういう人たちが実はやったこと。
そうか。同じ個人という言葉とか、こうとか、
人って使った時の人の概念がちょっと違うんだね。4世紀と。
そういうところはあるかなと思ってます。
ブレゴリオスはすごいさらっとやったんだけど、
ただ信じているだけとか、神は最高だからお前らも信じろみたいなことを別に言ってたわけじゃなくて、
ちゃんとこういう人とは何かとか、神とは何かとか、
神と人が関係を持つとしたらどういう可能性があり得るかっていうところを結構しっかりやっぱり追ってたっていうのは、
ちょっと感じていただけたんじゃないかなと思ってます。
そっかそっかそっか。最初そうだよね、
「仁義的な」みたいな話をして、一般の人が徳を積むと同じじゃんっていう話をしたんだけれども、
そういうことだよね。いわゆるキースト教の神父さんとかが、教える側だよね。
いわゆる盲信してた。おまじない的に、神の意思を受け継いでこれをただ伝えるんだ、みたいな。
そうじゃなかったよっていう意味だね。
そういうことです。
そういう意味では盲信じゃなくて、ちゃんと冷静に神と対話した上で、
その人々に救いを渡すっていう意味で、きちんと導こうとしていたよっていう冷静さがあったってことだね。
そうだね、そうだね。その意味では思想とか哲学っていう風に、ちゃんと筋道立てて考えていたっていうのは、
キースト教の世界観においても、ちゃんとあったんだよっていうことだね。
そっかそっか、確かにそうだよね。暗黒時代って前回やったけど、いきなり暗黒、人々がバカになったとかじゃなくて、
グレゴニュースで言っても、万物は変化するみたいな、タレスだっけな。
12:02
万物は、ルテンスルはね、フロタゴラスじゃなくて、ヘラクレイトスかな。
ヘラクレイトス、ごめん、適当な名前出したから混乱させちゃった。
でもそういうのを引き継いだ上で、神っていう存在、人間、もしくは周りの自然っていうものを全部、
説明しようとしているという感じがすごいでしたね。
そうそう、だからまさに兄貴がやってくれた、いきなり無知だとか、ゼウルに覆われて、
子供みたいなことしか考えられなかったんだ、みたいなことでも、実はないんだよって。
ある日、空からベールが降ってきて、人々が登ったみたいな。
それこそ、お話だよね。
それこそね、物語、神話になっちゃうから、わざー、みたいな感じで、見えなくなりました、みたいなね。
ドクターストーンみたいな。
ちょっと、ドクターストーンは分からなかったんだけど、あるんですよ、そういう話が。
ここまでは導入みたいな感じで、今回メインで取り扱いたい話っていうのは、ここからお話するアルブスティーヌスっていう人ですと。
この人も同じく4世紀の後半から5世紀くらいかけて活躍した人なんですけど、結構面白い特徴がいくつかあるんだけど、
1個目がね、この人はアフリカ生まれの人なんですよ。だからヨーロッパの人じゃないんですよね。
当時のアフリカっていうのは、やっぱりキリスト教とかの中心というか、ちょっとハズレでもあったのかな?
ドハズレだね。
イタリアローマがやっぱり中心で、ローマのやっぱり中変国っていうところが中心だから、
アフリカは多分全然遠いというか、敵地みたいな感じなんだけど、
やっぱりキリスト教の中心地ってあくまでもローマ、イタリアローマなんだけれども、そこからね全然遠いアフリカまでキリスト教も伝わっていたし、
そこで生まれた人がある種、これだけね、歴史に残るぐらい活躍してたっていう意味では、
やっぱりキリスト教が当時から世界宗教であったというか、それだけ広がって、ある種力を持っていたっていうことが言えるよねっていうのが1個ありましたと。
あと、このアグシンスさんなんだけど、お母さんはキリスト教徒だったらしいんですけど、お父さんは違かったらしいんですよ。
あ、そうなんだ。
なんか書いてるところによると、最初はマニ教っていう、これも2世紀ぐらいに起こったマニさんという人が作った宗教があるんだけど、
そのマニ教徒で、結構宗教家らしくないかもしれないんだけれども、結構本人自身が欲求、いわゆる愛とか性欲に悩まされたんだよっていうことを、
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有名な『告白』っていう本があるんだけれども、そこで書いているようですと。
はいはいはい。
なんかね、ほら、要はキリスト教のすごい偉大な人ってなったら、なんかそういうのなさそうじゃん。
そうだね、だし最初は違うマニ教?違う宗教だったんだみたいなものも含めて。
そうそうそう。だからなんかね、面白いなって思って僕は見てたんだけれども、
なんかその、どういうことをね、書いてたかっていうと、なんかこの人18歳の時に、1人子供がね、生まれたんだって。
はいはいはい。
お父さんになったんだけど、なんかそこで書いているのが、情欲、だから欲望とかで結ばれた場合、
子は親の意に反して生まれるのではあるけれども、生まれた以上は愛さずにはいられないって書いてるよね。
でいうので、ほんとこうセキュララにというかね、素直に書いてるような本が残ってるんですよ、そういうことが分かったりするんだけど。
そっか、わざわざ本にするほど悔やんでたというかね、なんかあったのかな。
まあ当時のね、その常識がわかんないけどね。
うんうんうん。
結婚する前に子供産んじゃダメとか、マニ教的にそれはアウトだったとかあったら結構ね、大変なことだったんだろうなとは思うけど。
そうだね、やっぱりキリスト教とかもだけど、金欲みたいなものはやっぱりあるし、
なんかそういったものを苦悩しながら生きてたからこそ、そこまで深い思考をした人なのかなって思ったりはするんだけど。
で、実は32歳の時にキリスト教に会心するんですけど、その前にその会議論、いわゆる全てを疑うとかあらゆるものを疑う会議って言葉があると思うんですけど、
あれも通ってるよみたいなことが言われてるんですよね。
うーん、そんなのあったんだ。
そうそうそう。で、それはイギリスの哲学的な思想の流れなんだけれども、
会議論って何かっていうと結局はあらゆるものを疑うから、どんな真理も人間は捉えられないっていうことなんですよね。
あれもこれも疑えるし、正しいと思ったものも疑えるよねっていう。
で、例えばこの人がキリスト教に、例えばこう、信仰して人に教えていこうとなった時に、
神ってその真理じゃないですか、絶対的な真理だから、その会議論の人って要は真理は捉えられないって言ってるわけだから、
これを乗り越えないとか論破しないと、布教ができないわけだよね。
なるほど、そういう人たちを取り込んでいこうとする時にね。
神がいいんだよ、好きなんだよって言ってるけど、神も疑えるじゃんとか、何でも疑えるからそんなの信じないよっていう上屋からがいるわけですよ。
で、どうするって話なんだよね。
自分もそこを通ってるんだもんね。
18:00
そうそうそう。実はここでアーグスティンスが言うのが面白くて、実際ここから本に書いてることらしいんですけど、
君が欺かれているんじゃないかっていう会議派の人々の反論も、私は恐れないですと。
私が欺かれているならば、私は存在するからである。
存在しないものは欺かれない。だから私が欺かれるならば、私は存在するのである。っていう風に言うのね。
これディガルトっぽくないですか?
なんかそんな感じがすごいするね。「帰り」っていう言葉もディガルトっぽいし。
逆に言うとディガルトの方が後の時代の人だから、ディガルトが生きた時代からディガルトが言ってることって逆にアーグスティンスに近いよねみたいな指摘はされてたらしいですと。
全部疑うって言ってるけど、疑っている私とか欺かれている私っていうのは、真理に欺かれている私っての存在するわけじゃないんだって言うんだけど。
じゃあここの段階では、アーグスティンスも私は存在するって地点に来たわけだよね。
でもここから神を見出さなきゃいけないのよ。
今、いないって話になっちゃってるから。
そう、そう、そう。「見出できるじゃん」ってなってるから。
じゃあそれをどうやるのかって話なんだけど、まず神っていうのは、身体的な感覚じゃなくて、その感覚について判断するものだから、つまり理性だよねっていうことを言うのね。
やっぱりその理性が信仰するというか、理性が上だみたいなのってこの時代も普通にあるんだけど。
例えば、コップに入ったストローって曲がって見えるじゃない。
でも僕らは、騙し絵とかでない限り、ストローはまっすぐだし、普通に使えるってことがわかります。
そのわかるっていうのは、理性の働き。だから感覚っていうのは欺かれるんだけど、理性っていうのはちゃんと物事を知ることができる。
だから、あらゆるもの、例えばストローならストローっていうものがあるし、まっすぐなストローであるみたいなことも知るっていうのは理性の力だし、
それをきちんと働かせて、最高度に一つのもの、要は絶対的にそのものであるものとか、永遠に不変なものとかっていう、そこまで抽象度を上げた時に見え出されるものっていうのが、
真理であり神なんだっていうことを言うよね。
だから、この言葉すごい面白いなって思ったんだけど、
アーグシンスが他のところで言ってるのが、神をある種見出すみたいな時に、外に出て行かずに君自身の家に帰れと。
21:07
真理は人間の内部に宿っている。そしてもしも君の本性が変わりゆくものであることを見出すなら、君自身を超えて行きなさい。
で、ちょっと間があって、君が真理それ自体ではないことを告白しなさい。
真理は自己自身を探し求めることはないけれども、君は探し求めることで真理に達するからであるって言ってんのね。
真理は自己自身を探し求めることはないけれども、
「うーん、そっか、向こうから真理はやってこないけれども」みたいな。
教えてはくれないけど、こっちが探し求めるんだったら、たどり着く可能性はあるよね、みたいな話なのかな。
人間=真理ではないっていうのがまず前提あるんだよね。
人間の内に宿ってるんだよ、真理はと。でも、それはやっぱり人間を超えてたものなんだよね。要は神の世界のものだから。
だからそれが「君は真理それ自体ではないんだけれども」とか、
真理っていうのは要はそれだけでも完全だから、真理が真理を求めるっていうことはないんだよね。
でも欠けて、何かを求めるっていうのは自分にないものを求めに行くっていうのは、スクラテスの時とかそんな話した気がするけど。
だから真理っていうのは別に真理自身を探すことはないんだけれども、
人間っていうものは探し求める。自分の内側にいろいろ理性の働くとか、いろんなものを働かせることで、
真理を見出すことができるっていうふうに言いますと。
そっかそっか、ごめん。やっとわかったわ。
伝言能力が低すぎてごめんごめん。
違うのよ。これは一回読んでわかることじゃないんだよね。
別にもうわかりきってるかっていうのもあるし、たぶん聞いてる皆さんもわからんって思ってると思うんですけど。
そっかそっか、これ今理解したように伝えていいかな。
お願い。たぶん兄貴が言ってくれた方がいいと思う。
最初に真理は人間の内部に宿ってるって言ってしまってるから、
自分探しの旅というか、自分自身の内部にどんどん潜っていけば、真理が見つかる。
イコール、自分自身を知れば真理に達するって勘違いしないでね、みたいな話。
そう、まさに。
なんだけれども、その真理ってものがあるだろうってちゃんと想定して、でも自分じゃないよねっていう中で、
ただその自分の中深く理性に潜っていくことで、自分とはまた別の真理というものに達する可能性があるよね、という意味か。
そうそうそうそう。
間違っちゃうんだ、そこ。間違っちゃうんだね。
24:02
間違っちゃうんだよね。
言葉通り受け取ると自分探しを始めちゃう。
そうそうそう。
そりゃ違うよ、と。
私、やっぱり自分こそが真理だって思っちゃうんだけど、その、なんだろう、こう、内部に宿ってるって言われちゃうと。
ちゃんとあくまでも、君自身を超えていくとか、探し求めることで真理に達するっていうことが、
あなた自身は真理ではないんだけど、ちゃんと真理としての神っていうのが、見出すことができるよっていうようなメッセージなんだよね。
さっきのコップに入ったストロー、曲がったストローを、見る、モニターみたいなものではあるけれども、
あなた自身はそれは、ただ真理みたいなものを見ることができる端末だから、あなたは違うから。
その端末を通じて、その真理、曲がったストローが本当は真っ直ぐなんだよっていう真理にたどり着きなさいよ、みたいな話だよね。
そうそうそうそう。まさにその通りです。
むずっ。
むずいよね。
そう。だから、たぶん聞いてる方もちょっとわからなかったかと思うので、もちろんまた兄貴が言ったこととかを聞きながら、
もう一回さっきの「外に出てゆくはず」みたいなことを聞いていただけると、わかりやすいかなと思うんですけど、
さらにまだもっとここから行くので、アルファレンさんはすごい人なので、
ただ、今の会議論者が言うような「全部を欺かれる」みたいなところからも、自分っていうのは「います」ってところから、
理性を頑張って働かせたら、神っていうのを見出せるんじゃないかっていうところまで来ましたと。
ここで問題が生じるのが、神っていうのは真理なんだけど、その真理である神っていうのは無限であり永遠なんだよね。
要は限りがないし、永遠に生き続けた存在を続けている。だけど、人間っていうのは有限だし死ぬ存在じゃないですか。
だから、神と人間っていうのが断絶しちゃってるんだよね。
要は、神は永遠で、人間も神が作った永遠性を持っているはずのように死んじゃうみたいなところで断絶が起きていて、
この断絶って伝わるかな?
多分伝わってないと思う。
伝わってない?
うん、なんか違うね、ぐらいしか捉えてない。
なるほどね。
断絶ってなんだ?
これは僕の言葉だから正しく表現できてるかあれなんだけど、
神っていうのは欠けたことのないものとか、完全なものじゃないですか。
そういう概念だとした時に、そこに人間がある種関わろうとか近づこうと思うと、
神っていう完全なものが人間っていう不完全なものと関わるっていう、
完全性を損なうみたいなことが発生します。
27:03
うーん、そうなんだ。
そうなの?え、ある意味不完全というか、有限な?
無限なものが有限なものと触れ合うことで、無限の方の無限性が損なわれるみたいな話だよね。
損なわれるって言ったんですけど、もっと言うと、接点ってどこにあるの?っていう感じなんですよね。
はぁ、ちょっとわかってきた気がする。
次元の違いみたいな感じかな。
そうだね、3次元と4次元みたいな違いがイメージしたせいかもしれない。
無限なものっていう方の、仮にそっちに共感というか、そっちの視点から見てみた時に、
有限なものがこっちに来た時に、無限なものでどこから来ても同じというか、
なのに有限なものって、無人だよね。
無人してるよね。
理解できないよね。
お互い。
お互いに。
こっちがじゃあ8時に行きますとかって言って、明日の8時に行きますって無限の方、無限だよね。
神様の方に行ったとして、時間とかないし、いつ来るのや。
で、来るじゃん。
8時来ましたって言って、だから8時って何よ。
時間とかないからみたいな。
そういう感じか。
そういう感じ。
そういう断絶ね。お互い全く意思疎通できないし、時間の約束しても時間って何やらしい。
こっちは約束してるのに現れねえし、みたいな。
神様からすると全然来ないし、変な時に来やがるし、みたいな。
そういう断絶ね。ちょっとわかった気がするよ。
兄貴が本当に来ててよかったわ。ありがたい。
大丈夫?
大丈夫、大丈夫。大丈夫だし、まさに時間っていうことがすごく大事なキーになってきて。
アルグスティンスがよく取り上げられるのが時間論なんですよね。
有名な言葉があって、一体時間とは何なんだろうかと。
誰も私に尋ねるときは私は知っている。
尋ねられて説明しようとすると知らないのであるって言葉があります。
哲学的な。
これ本当そうで。
兄貴さ、時間まさにね、今さっき8時とか言ってくれたけど、時間って何?って聞いたらどう答える?
さっきの例え出した後からちょっとわかる気がするよね。
時間って人間が作ったものの概念なので、共通認識。
そうそう。
まさにさっき兄貴が言ってくれた通りで、人間にとっては過去があって現在があって未来がありますよね。
30:10
もっと言うと現在という地点から過ぎ去ったものを過去と言って、まだ来ないものを未来と呼ぶっていうのが一般的な捉え方なんだけど、
神にとってはまさに無限で、すべてが現在。
要は終わりも始まりもないからすべてが今しかないんだよね。
別に過ぎ去っていくのもないはずだから。
で、なると神の時間の中ではすべてのものが生きていて死ぬことはないはずです。
だったら、神の世界というか、神の御朝において生きている自分、人間において、
人間とか自分の生涯って何なの?っていう問題が出てくるよね。
確かにね。
無限の中では自分は死ぬこともないし、生まれることもないんだけど、神、被造物としては使えることはあるかもしれないけど、
でも現実の世界では僕らは生きて死んでいく。
この断絶をどう乗り越えるか、どう捉えるかっていうのがめっちゃ大きな問題になります。
確かに困るね、それは。
そうそう。
で、アーグステイスが言うのは、まさに兄貴が言った通りで、過去、現在、未来みたいなのって結局人間が作った概念ですよね。
こういう3つの時間が存在するんじゃなくて、あくまでも時間っていうのは心の内に存在していて、
過去っていうのは記憶、現在から見た記憶であり、現在っていうのは直覚、今見ているものとか聞いているものとか感じているものであり、
未来っていうのは予期、今から未来を予想しているっていう、そんなことでしかないよっていうふうにね。
はいはいはい。
時間っていうのはなくて、あくまでも僕らも現在に生きていて、過去とか現在とか未来っていうのをある種想像しながら生きているよっていうことを言いますと。
これ自体はイメージできるじゃない、多分。
これもある意味あるのかないのかみたいな話で、あくまでも犠牲がそう捉えているんだから時間もないよねっていうふうに言えるよねっていう意味だと納得はできる感じかな。
そうそう。
実はね、それ自体はアリストテレスも言っていることだったりするし、
あとなんか実は物理学的にも最新のね、物理学の中にも時間論みたいなのがあるんだけど、
その中でも実際時間っていうのは決まってない、流れてないっていうか、偏在しているとか過去とか未来はないみたいな話もあったりするんですよ。
そうなんだ。
ただ僕らが思っているとは考えているだけじゃなくて、実際時間ってのはないかみたいな話もあるはあるんだけど、
33:01
でもアグセンスは別に物理学者ではないので、重要な考え方としては、
時間を3つに分けちゃうと結局自分、私の人生とか生っていうのがじりじりになって分散しちゃうっていうことを問題として言いますと。
要は私っていう存在はキリスト教的には神に支えられていて、
神っていうのはまさに無限だし永遠だから過ぎ去っていくっていうこともないのに、
私っていうのは過去の自分とか未来の自分とかにちりじりになっちゃって、
自分っていうものがバラバラになってしまっている。
これはおかしいよねっていうことを言うのね。
そこの断絶がおかしい人。
そうそうそう。
人間が断絶しているし、人間がバラバラに生きて統合されていないって言うのもあるんだけど、
要は存在として不完全だというか。
不完全なのは多分そうなんだけど、結局神との関係を考えるときにあまりにも脆い存在だみたいな。
しかもそれを多分勝手にやってるよねみたいな。
本当はそうじゃないのに勝手にそんな感じで人間側が時間的な覚悟を持っちゃってるよねみたいな。
そうそうそう。
感じかな?
そう。
前の話があったときに、これを哲学的に解決するというよりは、やっぱり宗教的に解決をするんですけど、
つまり神と人間が相対するっていうのは、現世、地上ってやっぱり難しくって、やっぱりこれは神の国とか天上の国に行かなきゃいけない。
人間がそこに至るためには、神の恩徴とか救いみたいなものをもらって、いわゆる天国、神の国に行かなきゃいけないんだよ。
そのために天国とか神の国みたいなものが必要あるっていうふうに言われるし、だから人間っていうのはあくまでも有限な存在なんだけど、
無限、神っていうものを自分の中に受け取ることができる器、そういう存在だっていうふうに言うよね。
はい、なるほど。
だからあくまでも人間とは不完全だし、あたまかえるかもしれないし、神とは違って有限なんだけど、でも神を見出して神と関わることができるっていうのをここまでで言うのね。
なるほど、天国ってすごいんだな。
なるほど、必然性を感じた天国の。
なぜ天国っていうのがあると言えるのかみたいな。
36:03
だし想定されなければならなかったのかって、諦めなんだね、これちょっと無理だわみたいな。
このさっきので言うとね、神と人間の断絶、これちょっと説明できないわっていうので、そこはもう天国と地上みたいな、作るしかなかったんだ。
だから本当にキリスト教の人に言ったら絶対に怒られると思うし、別にキリスト教を否定したいわけではないんだけど、やっぱりそういうある種の装置というか、やっぱりそういう舞台があった時に僕らは神っていうものが必要とするし、天国っていうものが必要とするみたいなことはすごくわかるというか。
(山本)なるほどね、ここまで聞くとそうか、やっぱり現世から死んだ後、死後の世界みたいなもの、天国への扉っていうのをある程度、すごく重要視してたと思うんだけども、
(山本)「天国行けないよ」とか、「天国行ったらお父さんとお母さん、ちゃんと現金やってっかな」みたいな、「天国行けないかな」みたいな、いわゆる信じてる、これを作った側もこうやって、もちろん装置っていうと、
(山本)あれを作った上で、信じてる側が本当にやっぱり天国に行きたいとか、行けなかったらやばいとか、っていうその感覚に、もうマジでなるんだろうなっていうのを、ちょっとここまで聞いた、天国の出来た理由とか、すごい世界観みたいなものは、ちょっと見えてきた気がするね。
(山本)いや、そうだよね。だから、やっぱりこう、マジで本当に全員っていうか、多くの人がキリスト教を信じている世界で、こういうことを言われたら、やっぱり確かにキリスト教好きっすって思うだろうなと思うし、
(山本)「わかりました」みたいな。ちょっと気をつけなきゃいけないのは、天国って聞くときに、僕らはちょっと仏教的なところで、先祖がいるみたいなイメージを持つけど、やっぱりキリスト教的にはどっちかっていうと、あくまでも神の国とか、最後の審判みたいな感じで、
(山本)そのラッパーが吹かれたときに、それまでの全人類が神の審判を受けて、神の国に行けるかどうか判定されるみたいな、そういう思想があるんで。
(山本)だから、いわゆる死んで天国に行ったらハッピーみたいな感じでもないんだよね。全員が最後の審判を待っているっていう考えがあるので。
(岡田)ああ、そうか。一旦、待合室に行くみたいな話か。
(山本)そうそう。一旦、ちょっと待ってくださいみたいな。裁判、あといつか起こるんでみたいな。
(山本)うんうんうん。そうか。死んだから、いいことしたからというか、ちゃんと真面目に信じて、いわゆる現世というか、地上を全うしたからといって、即天国ではなくて、一旦待合室に行って、今、地上にいる人たちが来て、最後の審判が来るのをただ待っているみたいな。
39:14
(岡田)おそらく。多分その辺は色んな話がありそうだけど。
(山本)まあ、色んな。まあ、宗派もあるだろうしね。分かんないけど。
(山本)なんでそういうことを考えなきゃいけなかったかとか、話さなきゃいけなかったかっていう、ちょっと今日のまとめ的な話なんですけど、
(山本)実はアルグスティンスが生きていた410年という年に、ローマ、さっき言ったイタリアローマというキリスト教の中心地が、異教徒である高等族という人たちに侵略されるんですよ。
(岡田)へー、そうなの?
(山本)そうそう。これは大事件で、要は神に守られている、神の国が地上に降りてきたぐらいのローマというところが、彼らからしたら蛮族だよね。異教徒のよくわからない奴らの手に渡っちゃったみたいな。
(岡田)はいはいはい。
(山本)で、なんで神の、そんだけの庇護を得ているところが守らなかったんだみたいなので、すごいわちゃわちゃ化しますと。
(岡田)なるほど、なるほど。「お前ら信じてたのに」っていう感覚もあるだろうしね。
(山本)そう、そう。「神はいなかったんだ」みたいな感じになっている人もいたと思うんだけど。
(山本)でも、彼、アグラスティンスは、それもあくまでも地上の出来事だと。地上で全て神の世界が実現されるんだったら、まさにさっき言った最後の審判もいらないし、天国というか神の国というのもいらないよねと。
(山本)あえてそれを別に聖書で言う必要もなかったと。だから、ゴーゾ族が勝ったみたいなことも、キリスト教徒がつらい環境にいて耐えているということも、現世の、今の地上の目じゃなくて、永遠の目から見なきゃいけないんだよと。
(山本)はいはいはい。 (岡田)うん。だから、仮に責任とか肉体としては、この世の今の現世の国家に属しているとしても、キリスト教徒たるもの、本来はその天上のキリスト教徒の、キリストのより神の国に属している人があるよ、みたいに。
(岡田)そうなり続けることが必要なんだよ、みたいなことを語ったりします。 (山本)うーん、なるほど。
(山本)はいはい。 (岡田)いろんなニーズがありそうだね。やっぱり政治的なとか、人をまとめるとかね、逆境に耐えるみたいなのとか。
(山本)そうそうそう。 (岡田)その中で、今回と後続に、ただただ吸収されるんじゃなくて、自分たちのアイデンティティを保持し続ける。で、それをまとまって、次、奪還のチャンスをまた狙うみたいな、なんかね、そういう必然性も感じるね。
42:03
(山本)そうですね。そういう、ここでくじけちゃダメだとか、これも神の御徴とかおごしめしから外れてない、みたいな論理付けももちろん含まれてるだろうし。
(山本)ただ、たぶんね、本当にそんな冷静な感じではなくて、やっぱ当時、やっぱね、そんな危ない時代ってことは、本気でね、そこをちゃんと信じる信じない以前に、そこを自分たちの価値観の根底に据えて、みんなで頑張って生きていこうね、みたいな。
(山本)これらのまとまりっていうね、そういう強さみたいなものはね、それでもなんか感じるね。そんな頭でね、みんなをまとめてやろうとか、成績に、ちょっとこういうふうに考えて、こういうふうに伝えないとみんなまとまらないとか、そんな感じではなさそうだなーっていうのも一方でまた感じたな。
(山本)そうね、やっぱり宗教だと、どこまでいっても論理で解き尽くすよりは、やっぱり信じるとか、そこに落ちるみたいな、なんつーのかな、やっぱりそもそも人間を超えたものみたいな発想があるから、それは哲学とか論理だけではもちろん切り取れないものだなーって思っているんだけど。
(岡田)どうなの?確かに確かに。さっきの会議論じゃないけど、やっぱりね、もう心で理解、心でも信じてくれる人もいれば、頭でまで納得しないと信じてくれない人もいて、ちゃんと双方でちゃんと固めてる気がするね。
(山本)そうだねそうだね。で、それができないと、多分広まっていかないし、社会的な宗教にはならない。だからこそ仏教も、特に大正仏教もあんだけいろんな宗派がありながら、緻密な論を戦わせて、こっちが正しいとか、この反論にはこうやって反論して、すごい体系が作られていくみたいな。
(岡田)なるほどなるほど。 (山本)キリスト教もそうだよね。やっぱりこっちを正当にして、こっちは排除して、よりキリスト教としてのロジックというかね、論理を積み上げていこうみたいな歴史があったわけだし。
(岡田)はいはい。まあ、ちらっと私はそれこそキリストが言ったことだったりとか、それをまとめた聖書を原点としながら、一応それを土台としながら、その上に解釈だったりとか、論理構造みたいなのを組み立てていったみたいな感じなんだね。あくまで。
(山本)はい。みたいな感じで、だいぶ長く喋ってしまったんですけれども、今日ね、ちょっとそういう、ニッサンのグレゴリオースという人と、アンドシンスという、まだ4世紀の人なので、今から1600年前くらい。
だいぶ古い時代の人だと思うんだけれども、そういう人たちも、こんだけあるし、キリスト教とか、世の中に向き合って、やっぱりいろんなことを考えていた。
45:00
(岡田)はいはいはい。 (山本)うん。ということは、なんとなくお伝えできたんじゃないかな、っていうのを思っていたところでしたが、どうでしょう?
(岡田)そうね。そこをすれば、前回からの感覚でいうと、暗黒時代、暗黒社と言われていた、中世、暗黒社と言われていた誤解だよね。実際どうだったのかというところでいうと、
(山本)そうね。もうすごく、途中で言ったけれども、古代の西洋哲学というものを、ある程度は踏襲というか、世界の認識の仕方とか、捉え方とか、考え方みたいなものを、
(山本)きちんと踏襲した上で、ピースト教の教えというものをきちんと説明したり、認識したり、あるないみたいな話をしたり、歌があったり、みたいな。
(岡田)そうね。 (山本)そうしながら、やっぱりそこは、さっき入っておいたけれども、神様を妄信するじゃない、ちゃんとスタンスでやっているんだな、というのを、すごい感じたね。
(山本)うんうんうん。 (岡田)もちろん一方で、妄信させるとか、人々をそっちに向けるべくと、そういう力強さは、やっぱりめちゃくちゃ強そうだな、というのを感じたから、
(岡田)そういう意味で、妄信する人もいたんだろうな、だったりとかね。 (山本)うんうんうん。
(山本)そういうところが、聞き口によって、どこから聞いとるかによって暗黒でもあり、すごく頭使っていたというか、理性的な時代でもあり、みたいなね。
(山本)それもまた面白いなと思った感じがする。 (岡田)そうだね。だから、まさに最後に言ったような、仮にこの世では国家に属しても、
(山本)本来は天上の国の同士だとかっていうと、やっぱりちょっと危うい方向に行きそうというか。 (岡田)うんうんうん。そこをちゃんと信じすぎちゃうと、というか。
(山本)そうそう。よくもあれここで団結できてしまうし、でももしかしたらそれ自体は、今、世の中的にいろんな国がいて、いろんな国同士が争っている中で、やっぱり国を超える力としての宗教とか、
(山本)そういった、ある種、国が違うとか人種が違っても、同じ価値観を大事にできる力みたいなものはやっぱりあったりするから。
(岡田)うん、そうだよね。なんか、そうそう、それに言うと、なんか、ゆーくんが言うじゃない、その共通の敵を作ることで、こっちが団結して力を発揮していくみたいなパターンがあると思うけど、
(山本)そういう意味ならやっぱりこっちは優しい世界だよね。共通の仲間。俺たち、その同じ天国の国の味方じゃん、みたいなさ。
(山本)現世では国は違うけれども、なんか、ちょっとこう、喧嘩してるけれども、実は同じ国じゃん、みたいな。実は同じっていう意味で繋がっていく。ちょっとやっぱり優しい世界な感じするように。
48:08
(岡田)優しい面って感じがない?信教の。だって他の神はいないし、強盗族が多分殺さなきゃいけないから。
(山本)異教徒は殺せみたいなね。そういう意味ならどっちもあるから、異教徒は敵っていう風なところで団結するのか。それは確かに表裏一体な感じがするかも。
(岡田)そういう意味で、どうしても神はキリストのみって言った瞬間に、他の神を信じてる人は、異端だとか、反族だみたいな、やっぱりなっちゃうところもあるだろうから。
(岡田)自分たち、同じ神を信じてる人は、もちろん一定の仲間というか、共通感を持てるし、そうじゃない人は、ある種排除したり、むしろ取り込まなきゃいけないみたいなことって、本当は表裏一体だよね。
(山本)ああ、面白い。取り込まなきゃいけない。そうだよね。排除するだけじゃなくて、取り込まなきゃいけないって考えると、確かに不協する時の力強さみたいな、本当に信じようよ、仲間になろうよ、みたいなのが本気度合いというか、熱量っていうのは確かにあるかもね。
(岡田)そこもあるし、やっぱりそれは磨き続けたからね。それこそ日本みたいな敵地に来ても、やっぱりキリスト教というのが不協でいって広まったわけで。宣教してやっぱりすごいよね。
(山本)だし、その熱量、わざわざこっちまで来るみたいなね。祈りはあったんだろうけど、宗教的な意味でのカロリーみたいなものも、ちょっとなんか、そっかそっか、それを踏まえるとわかった気がしたね。排除する側じゃなくて取り込むっていう方での熱量も、そうやって強くなっているのも。
(岡田)あ、そうそうそうそう。やっぱり異教徒をどう回収させるかとか、キリスト教じゃないところにどう給与するかを根付かせるかっていうところも大事な仕事というか役割だったと思うから。
(山本)まさにそれは、実は次取り上げようとしている、今度は13世紀まで一気に飛んじゃうんだけど、1000年くらい。トマス・アクイナスっていう、それもまたすごい有名な人がいて、まさにその人が、
そういうアリストテレス的な哲学とか、いろんなものを統合した上で、キリスト教神学みたいなものを体系化したというか、作った、いわゆる人だったりするので。
(岡田)はいはいはい、なるほど。 (山本)そういうのをまた次、2回分くらいお話しして、ぜひもっと中世キリスト教の世界へようこそみたいな、知られざるみたいな感じで話していこうかなと思っています。
(岡田)いやー面白いね。暗黒で切って捨てちゃいけないし、何考えてたかっていうところを見ていくと、またね、古代と近代の間っていうところをね、ちゃんと橋渡ししてそうだなぁというところが見えてきたんで、
51:16
またちょっと次も楽しみにしてますので、じゃあ引き続きよろしくお願いします。 (山本)はい、お願いします。ありがとうございます。
(音楽)
51:34

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