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2022-10-26 36:31

#53 【西洋中世 雑談】キリスト教の神とブッダの違い/哲学者に憑依するのは消耗する

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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(音楽)
はい、それ哲学寺を今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
はい、この前まで暗黒時代、中世時代のキリスト教哲学というものを見てきたんですけれども、今回はその雑談・感想ということでのんびりと話していきたいなと思います。
はい、よろしくお願いします。
どうでした、今回は。
そうですね、兄貴がまさに暗黒時代と言ってくれたけれども、そうじゃないんですよというところから始まって、何人か中世のキリスト教哲学者というか信学者を取り上げながら話してきたんですけど、疲れましたね。
調べるのが大変だったの?
いや、別に話しながらなんだけど、僕が結構トマス・アクイナスの話をしている時にも、神の世界では、神と人は断絶していてとか言っていたじゃないですか。
僕自身がキリスト教的な人間でもないし、本当の意味で神の世界と人間の世界が断絶しているという感覚を持って生きているわけではないから、ポーズとは言わないまでも説明する人間として結構強く言っていたところがあったのね。
はいはい、なるほど。
断絶しているとか、神の世界ではみたいな。普段そういうこと言う人はないから別に。
その意味でちょっとそういう、そっちの思想よりで喋ろうと思っていた時に、やっぱ疲れんなって思った。
ああ、なるほどね。それはちょっと、もちろん自分たちはキリスト教とその価値観で育っていないから、こわいでそっちの価値観を伝えるっていう時は、やっぱりちょっと頭の使う回路が違うよねっていう。
そうだね。
そこでちょっと当分を商品しちゃったのかな。
そうそうそう。できるだけそういう考えの人として喋ろうとするから。兄貴がそういう言う時にもそれは違うとかって言うのも普段の自分だったら別にそうだねって言ってると思うけど、なんか中世キリスト教哲学者っぽく考えた時に違うみたいな。
考えたかどうかわからないけど。
そっか、そんな感じで喋ってる時ってちょっと、例えば今回のグレゴリオスとかトマス・アティナスとか、ちょっとそっちのキリスト教哲学者にちょっと憑依してる感覚でやってるの?
そうね、なんとなくそれっぽく、やっぱりそれは人間の世界での考え方だからとかって言うように意識しているというか。
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仏教の時とかもそうだよね。「いや、それって悟りの世界ではないんだよね」みたいな。「誰だよ」みたいなところから喋ってる時は、一応そういう意識をして喋ってるつもりではあるんですけど。
そっか、それからたまにね、「誰目線だよ」みたいなさ、「すごいじゃん」とか「それ全然違うじゃん」みたいなのは、ちょっとそういうモードに入ってるからならではの話とか、強めに言うっていうのは。
そうそう、そんな感じです。だから、哲学ってこれまでも何回か繰り返してきたと思うんですけど、やっぱりその一個の世界の見方とか本当考え方だから、使う言葉一つ取ってもやっぱり今の見方ではその言葉はちょっと適切じゃないんだとか、
それこそ同じ、そういう意味で使ってるんじゃないんだみたいなことがやっぱりあったりするから、実際哲学書とかを読んでいても。
そうだもんね。生じょう同じことを扱ってるけどとかだとわかんないもんね、本当にね。ずれたまま話が進んでちゃうと危ないもんね。
そうなんだよね。例えば「真理」みたいな言葉一つ取っても、「人間の世界に真理はなくて、神の世界の真理のことを本当の真理と言うんだ」みたいなこと言われても、やっぱりわかんないじゃん。わかんないじゃんっていうか、僕は別にわかってしゃべってるわけじゃないけれども。
そうだね、だし、もう全部右から左みたいな感じがあるよね。ちょっと馴染んできたからあれだけどさ、いきなりそんなこと言われたら、そもそもその話題いらないよみたいな。
いいから昨日の見たYouTubeの話しようよとかってなっちゃう。
確かに、そうそう。もうちょっと話すことあるでしょみたいなね。
なんかハードルあるよね。
っていう感じでしたけど、どうでした?兄貴もね、僕自身が何回か「中世は暗黒じゃなかったよ」みたいな話をしながら、今回やっとそういう話もさせてもらったと思うんですけど、どうでした?
もちろんね、暗黒時代が悪かったみたいな捉え方はしてるつもりはなかったんだけれども、神ってものを妄信してたみたいなね。これ、ハヤトが言ってた言葉だけど、妄信ね。
そういう感覚もあったのかなっていうのは、確かにあったんだけれども、それで言うとやっぱり、ベールの下でめちゃくちゃ物事は考えてたんだな、そういう制約の中で。
あったといえ、めちゃくちゃ考えて、めちゃくちゃ哲学というものをツールとして使いこなした上でアウトプットしてたんだなっていう感覚はあって。
で、後世の人が見た時に、そのアウトプットの結果を見た時に、「いや、それ違うじゃん。その答え違うじゃん」みたいな。そこを見て、暗黒時代みたいな評価を下してる部分もあったのかなとかね。
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そういう意味でちゃんと人間の理性というものは、脈々と引き継がれてきたんだなっていうのは感じたかな。
なんかね、今の話で思い出したことがあって、僕らは例えば中世の人たちにそういう答えがやっぱりベールがあったから、間違っちゃったよねみたいに言ったりすると思うんだけど、
実はアインシュタインも似たようなことをしていたはずで、アインシュタインって最高の物理学者じゃないですか、相対性理論とか考えた。
でもアインシュタイン自体が、一瞬調べてもいい?今ちょっと出てきたんだけど、アインシュタインが宇宙にいろんな方程式を考えていた時に、宇宙定数っていう宇宙が膨張するみたいな数式が導かれたのね。
ただ、1917年当時って今調べてるの書いてるんだけど、その時には、宇宙は性的なもの、別に変化のないものって考えていたから、こういう宇宙が膨張するとか変化するっていうのは起こり得ないって言って、
で、なんか自分はちょっと間違っちゃったかもみたいな感じで、宇宙が性的なような膨張も縮小もしないような形に数式を書き換えたみたいな話が残ってるのね。
へー、はいはい、そうな。
だから、やっぱりどうしてもアインシュタインのような天才ですらそういうことが起き得るし、ただ僕らが今信じてることとかやってることでも、全然そういうことは起こり得る。
はいはい、まあね、確かに100年前でそんなことがあったんだね。
そうそうそうそう。
同じだね。
同じ同じ。僕らがさ、やっぱり宇宙は今拡大してるって知ってるのも、やっぱりここ100年くらいの成果だと思うし。
うんうんうん。
そっちが常識だとされているってことね。
そうそうそうそう。
なんかやっぱりね、人の振り見てじゃないけど、歴史を見る中で自分たちを変えりめるってのが大事だなって思うよね。
そうだね、だしやっぱり結局そこにこの前のヘイゲルじゃないけどさ、その時代をまさに生きている人たちが、今自分たちが暗黒時代を生きている。
まあ暗黒時代って言うとあれだけど、そのキースト教的な世界観の中で生きている。自覚的に慣れないしね。
そうねそうね。
で、なっちゃった人はトマス・アキナスとか、ゴマン・グレネフォーに押すみたいに、多分ちょっと時代を先取りしすぎちゃったみたいな。
うんうんうん。
トマス・アキナスなんかはね、ちょっと最先端すぎるみたいなね、話で。
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家族に軟禁されたみたいなさ、話もあったくらいだから、それ危ないよみたいなね。
そうそうね。まあ、今後やっていくけれども、例えばニーチェとかも、まさにキースト教というか、言うとはいえキースト教自体は少しずつ、権威を失ったとしても、神というものが存在していた世界で、神はいなくなった、死んだっていうことを言った、みたいなことはやっぱりすごいことだし、
これはまた後でちゃんと説明する、後でというか今後ちゃんと取り上げて説明するんだけれども、ただその、なんとなく言葉としてね、神は死んだっていうちょっと中日っぽい言葉を言った哲学者がいるとかって思ったらすごい、何にも面白くないんだけど、
これだけ哲学の2500年とか3000年の歴史があって、神っていう絶対行、その真理っていうのは神があるとか、存在のあるある存在の根本は神だっていう思想が積み上げられてきた中で、神は死んだっていうそれを取り除いたっていうことが、どれだけすごいことだったかみたいな。
でもね、本当本当、その世界で生きている中で、あれだね、ちょっとあんまヘイゲルがすごすぎてさ、ヘイゲル的に考えちゃうんだけど、やっぱ神との対立するものっていうものが1000年以上も多分設定されなかったんだよね。
神の対立概念としての理性だったりとかさ、人間みたいなものがガチっとそうやって対立、もしくはあるいは矛盾まで持っていけるぐらいの存在として確立されたって話だよね、たぶんその近代哲学のあたりでさ。
そうだね、そうだね、西洋哲学においてそういうもの、どんどん理性ってのがやっぱり強くなってきた。 で、そのまあ終着点じゃないけれども、もう神は死んだぐらいまで、ある意味の対等なのか、もしくは神を超えた瞬間なのかわからないけど、そこまでこう、対立構造を作り上げたっていう意味で、
そういう神の凄さもあるし、乗り越えようとした人たちの凄さだったりも感じるし、あと今回その啓蒙主義とかその時代の中で、前時代は暗黒時代って定義したっていうところも、そこを適当見出して、
そして次の時代にやっぱり乗り越えていこうっていうベクトルを作っていく。それは人に人に社会的にね、っていう意味でやっぱりそれはなんか良くも悪くも、なんか二項対立というかね、二言論的なところの力強さみたいなのもちょっと感じたし。
いやでもまさにそうだね、ちょっと前にロゴスとレンマンみたいな話をしたと思うんだけど、有識のあたりで、まさに西洋哲学というか、特にギリシャ哲学から始まってくる思想って、やっぱりどこまで言っても二言論的なんだよね。
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ロゴス側ね、西洋哲学。 ロゴス側、そう。そういう意図があって、その染みとしての現実世界がある、もそうだし、理想があって現実があるとかもそうなんだけど、神があって人間がいるとかっていう。
やっぱり結構それは面白くて、別に前から言ってる通り、東洋と西洋みたいなのをあまり安直に比較するのも良くないんだけれども、もとはやっぱり西洋というか仏教とかと見ると、そもそも絶対者みたいなのがいないとか、真理みたいなものがないっていう世界だから、そういったある種弁証法とか生まれようがないんだよね。
だって対立するものがないから。 確かにそもそも対立が生まれないからと、どっちも内容で終わっちゃう。
だからそれがある種、二元論を超える一元論的な考え方にもなるし、逆に本来だったらあらゆるものを衝突させて磨き上げていくみたいな、やっぱりそういう力強さを生んだ、化学技術とかも含めてだけど、やっぱりものが西洋に生まれたっていうのもやっぱりそういった背景があるよねとも言えたりするし。
結構面白いのが、今日ちょっと紹介しようと思って持ってきたんだけど、まさにトマス・サック・イヌスのところでも説明したと思うんだけど、神様、いわゆるキリスト教的な神っていうのがどういう存在だったかっていうと、
要はありてあるものみたいな、要はあらゆる存在の根源っていうのが神だみたいなのがキリスト教の神だったじゃない。逆にやっぱり面白くて、仏教とかに行くと、
仏陀は神ではないんだけど、存在とか生きるについてどういうことを言ってるかっていうのを今日ちょっと紹介しようと思って持ってきたんだけど、
混合般若教っていう、後の時代、仏陀が生まれた時よりだいぶ後の時代に書かれているお教なんだけど、そこで書かれている釈迦の言葉として、生きているものっていうのは実は生きているものではないと、
如来、釈迦は言っている。だからこそ生きているものと言われるのだ、みたいな。西洋哲学的に言ったら矛盾も矛盾というか、取り上げるにも及ばないみたいな言葉なんだけど、
要因的に破綻しているというか、何も言っていないと同じじゃんってなっちゃうね、言葉通りにとると。 そう、そう、そう。仏教とか東洋では、生きているものは生きていない、生きているものではないから生きている、みたいな言葉とか、
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それこそインド哲学的なウパニシャット的な言葉でも、やっぱりそれではなくそれでもない、みたいな否定を重ねて、それでも残るものが神というか、根本的な存在だ、みたいな話もあったりして、
キリスト教的には、やっぱり我は我としてありであるものだっていうその存在を強く主張するんだけど、インド哲学的にはあれでもなくあれでもない、そこに残ったものが絶対的な存在者である、みたいな。やっぱりこの辿り着き方とか捉え方が全然違うんだよね。
なるほどね。どっちもある意味捉えようがないっていう意味では似てるけれども、じゃあそれって何なのって本当に突き詰めようとした時の手段みたいなのが変わってきそうだね。
絶対あるっていうイデア的なものと、いやそれはないんだ、聖徳宝石に残ったものしか残らないんだ、それもしかもないんだ、みたいなことを言われた時に、
「しまいって何よ」って真面目に考えようとした時の論理構造だったりとかスタンスっていうのはすごく違いが出てきそうだね。
そうそう。やっぱりネタ面白いのは、結局スタンスとか手法の違いであって、結構やっぱり倒れついたものとかは近しいものを感じるんだよね。あるとないっていう手法というか次元は違うんだけど、最終的に倒れついた、例えばソクラテスとかプラタンが倒れついた真理と、
キリストが倒れついた真理と、ブッダが倒れついた真理とっていうのがあった時に、それぞれ言っていることというか、表現しようとしていることはすごく似ている。
表現が全然違うから、二元論的なったり一元論的なったりするんだけど、みたいな感覚はあるかな。
今回は中世キリスト教みたいな感じで、結構ガチガチのというか、結構固い感じのお話をしたけれども、一方で仏教的な、あるのでもなくないのでもないのだとか、
あらゆるものは空であって、空というのがあらゆるものであるみたいな感覚を持っていると、バランスよくなるよねみたいな。
はいはいはい。なるほどね、バランス。確かにキリスト教、仏教はブッダの話だったけど、キリスト教という意味では今回、ラジオでは初だもんね。
そうだね、ちゃんと宗教的な言葉として取り上げられるのは初めてだね。
そこだと思うんだけど、そうだよね。でもあれなんだよね、どっちも本人が書き残したのではなくて、弟子が書いていると思うんだけど、似てるのかな、そういう意味では。
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なんとなくキリスト教の方が、聖書って形がガチっと決まっているような気がするんだけど、仏教の方がなんとなく文派も分かれて、ブッダが言ったこととしていいみたいな、後の人が勝手に改変というかさ。
聖書もしているのかもしれないけど、自由という言葉を使っていいのか、柔軟性という言葉を使えばいいのか、そういうのもそれぞれの宗教の質感として違ったりするのかな。
需要度みたいなのは多分違っていて、仏教はどんな理由があってもいいというか、分かれるものではあるけど、キリスト教はこれが正当だ、これは異端だというのをキリスト教の中でもやっているし、
または旧約聖書、新約聖書、それぞれキリスト、イエスキリスト、イゼンとイゴみたいなところもちゃんと明確に分けていたりすると思うから、その意味ではね、ちょっと調べているときに出てきたんだけど、
その原罪みたいなのがあるじゃないですか、アダムとイブが知恵の実を食べちゃダメって言ったけど、食べて、要はエデンのその追放されましたみたいな。
罪、原罪の話があったときに、それ自体を否定する、要は原罪なんてなかったっていうことを唱えた人たちもいたんだって、だいぶ昔だけど、
それはもう一旦として取り扱わないというか、正当から排除されましたみたいな話とかも残っているようで、やっぱりそういう教えというか、何が正しいものかっていうのは、かなりキリスト教的な考え方の方が強く残っているんじゃないかな。
まあ、これは徹夜コラージョからあれだけど、あんまり詳しくはないけど、やっぱりヨーロッパとか東アジアの地理的な、国の治め方みたいなところでのニーズとかもあったのかもしれないよね。
これがもしヨーロッパで、仏教みたいに自由な宗派を認めますとかになったらさ、それこそ帝国なんかできるわけもないし、バラバラといろんな国ができてしまうみたいだよね。東ローマと西ローマ、じゃ、住まないよね、多分。
もっともっと分断するというか、やっぱり国家みたいなまとまりが弱くなるんじゃないかな、そういう意味でいうと。
なんかね、哲学とか宗教の本文ではないとは思うんだけども、やっぱり宗教の教理とか哲学体系みたいなものを構成する変数の一つとして、やっぱりそういう政治とか地理的な要素っていうのはあるのかもなと今のところ話聞くとちょっと思ったね。
21:13
やっぱりあるだろうね、どういう世界に生まれているかみたいな、それこそ地理とか風土みたいな関係もあるだろうし。
それと哲学もそうだもんね、さっきのロゴストレーマーだって、そうかもしれないもんね。
だからね、僕らは日本っていう国に生まれて、ここで聞いている人も日本語を聞けるってことは日本の方が多いだろうから、日本って国に生まれて、日本的な考え方のもとでやっぱり西洋哲学とか東洋哲学とかを学んでいくから、そのうちもうちょっと後でいわゆる日本の哲学とかもやっていきたいなと思ってるんだけど、何人か。
それこそね、やっぱり開国された後に西洋の哲学とかがバーっと入ってきた時に、どういう風なことを考えたのかとか、日本独自の哲学っていうのをどう生み出そうとしたのかみたいな。西田貴太郎みたいなね。
そんな感じで、今後色々広げていきたいなとは思ってるんですけど。
ただね、今回の中世をやったことで、今後取り上げてくる、それこそ次やろうと思っている桐毛豪とか、まさにさっき名前を言った新一恵とか、そういう人のすごさみたいなとか、何に取り組んだのかみたいなことが見えてくるんじゃないかなっていうのを改めて思っていて。
僕自身も改めて見えてきたっていうのがあるんだけど、さっき兄貴が「ヘーゲルすごい」って言ってくれたじゃない。伝承法すごいみたいな。
やっぱり、前もちょっと言ったかもだけど、桐毛豪は伝承法的な考え方を使って、神と人間の関係性をどう、より強くしていくかみたいなことを考えた人でもあるし、
絶対的な神というものと人間の関係との最低限したっていう人でもあるし、新一恵は逆に神というものを取り除いて人間としてどういけるかっていう。そこは伝承法とは関係なく、個人、独自の考え方が展開されるんだけど。
っていうところもあるので、より深く哲学というか思想を楽しんでいただけるんじゃないかなっていうのを感じてますね。
そっか、なるほど。ヘイゲル以降のより具体的な神を乗り越えていくみたいなものの中で、それが神というものの中心というか、話題には上がってくるというか。
神というものをきちんとここでそれなりに理解しておくっていう意味で、今回やっぱり面白かったですね。
そうだね、そうだね。やっぱりどっかで絶対者みたいなものとか、それこそさっき心理みたいな言葉もあったけど、心理をたどり着こうと思うと、やっぱりどっかで人間を超えた存在みたいなのとか、理性を超えたものみたいなものをどっかで向き合わなきゃいけなくて。
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西洋的にはっていうものが少ないか、東洋的にはそんなのないっていうので、別に向き合う必要がないから。
確かにここまで行くと、もう一回仏教とか優衛式とかも面白かったけど、仏教がもっと時代が、例えば近代とかなってきた時に、より具体的な仏教哲学的なのってあるのかなとかもちょっと面白そうだよね。仏を超えようとした仏教があったのかみたいな。
仏を超えるっていう発想はないんじゃないかな、あんまり。ただやっぱり日本で言うと道元とかの、やっぱり正法断層とか、すごい本だ。僕もまだちゃんと読んでないけど、やっぱりどう仏になるかとか至るかっていうところに対するすごい体系的な本だって言われたりもするし。
まずは前もちょっと言ったけど、禅の話とか面白いのでちょいちょい取り上げていきたいんですけど。
まだやってなくて、あれはもう本当に「Don't think, feel」みたいな感じで、もう考えちゃダメみたいな。本当そんな世界だから。
そういう意味で面白いってさ、なんか空とかいう意識やった時に、言うて中西洋よりも物事の真偽とかを捉えるっていう意味で、二元論的なものよりは一歩進んでるかもねみたいな話ってあったかもしれないけど、
でもやっぱりこういう禁書教のさ、今回の話だったりとか、近代のそこまで物事を積み上げてきた話を聞くと、やっぱり東洋って成長がないのかなとか、
もうずっと同じことを言い続けて、2500年間、言うてないって言っときゃいいんじゃないって甘えてんじゃないみたいなところも思ってきたから、ぜひぜひ、また仏教というか東洋に戻って、戻らないと簡単に洗脳されちゃうから。
確かにね。どっちが良い悪いっていうよりは、両方に良い面もあるし、やっぱり乗り越えなきゃいけないものもある。やっぱりね、全ては空だとか無だって言って終わっちゃったら、それこそ思考停止だし、
でもね、二元論的に、あれとこれと区別しながら、どっちかを断罪していくみたいな考え方も、ちょっと暴力的だから、もっと言うと20世紀までに結構それはやり尽くされている感じもあって、
その辺とかもね、学んで知れていくと、僕らが今生きている時代とか、この考え方っていうのが、どういう思考を経てとか、歴史を経て残っているものかっていうことが分かってくるし、
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それが分かってくると、やっぱり今こういう風に考えているとか、物事を見ているってことにも理由があるんだってことが分かるから、なんかそれは、普通の人っていうか、ちょっと気持ち悪いかもしれないけど、
僕はやっぱりそれはすごい楽しいっていうか、自分がなんでこういう風に考えているのかを知るみたいなことはね、楽しいなって思ってもらえたら嬉しいなっていう感じですかね。
まあ、そうではね、今日最初の方でも言ったけども、中世、キースト教の世界観で生きている人が、その瞬間に自分たちはここで生きているんだ、価値観の中で生きているんだって定義することは基本不可能なんだけど、
それをやる一つの方法が今、ハヤトが言った、きちんとこれまでの経負、考え方だったりとか、歴史とか、そのを踏まえて、じゃあ今って何なんだろうって考えることが、そのきっかけには少しはなるのかなと思ったの。
まあ、あんたは、やっぱり現在地を知る意味では意味があるかなと思っていて、それをメタ的に捉えて、今こういうレベルだとか次元だとかっていうのは、全然違う話だと思うんだけど、
そこだと想像が入ってきちゃうのね。
そうそう、クリエイティブな感じの想像が発生してくるから。
確かに、現在地を知るというのが、確かにね。
そういうのは、ぜひこのラジオも通じて、僕自身も改めて、今まさにやっているところだし、皆さんにお伝えしていきたいところだなと思っている感じですかね。
そうだね、確かにさっきほら、西洋側に寄っちゃうみたいな話をさせてもらってた。これだけ話を聞くと西洋最強だみたいな感覚になっちゃうけどね。
自分的にも、またウッドの話とか聞いて落ち着こうと思った。
聞き直そう。
一方に寄っちゃうとね、カルトって言うとあれだけど、あるものをこれが最高だって言って、他のものがダメだっていうのは知的態度としては良くないから。
哲学っていうのは、あらゆる議論をオープンにできるというか、ちゃんと一緒に辿っていけばそこまで辿り着けるよねっていう。
ある種、共通のテーブルに乗るっていうのが哲学的な営みだよねっていう考え方もあるぐらいなので、そういうオープンさみたいなのは大事にしていきたいなって感じですね。
ただ喋ってるときは、やっぱり堅入れしちゃうから、神の世界は神秘だみたいなことを言う感の早とか出てくるっていう。そういう感じですね。
30:01
面白いね。でもね、それは確かに疲れるな。
だからね、聞いてる方もなんか、こいつ何考えて、あっちではこんなこと言ってるけど、こっちではこんなこと言ってやがるみたいなことがあると思うんですけど、それはもうあえて甘んじて受け入れるかの。そういうラジオだと思って聞いていただけたら嬉しいなっていう感じですね。
なんかこいつ偉そうだぞみたいな。そういうわけじゃないんですよみたいな。
分かったようなことを言いやがってみたいになると思うんですけど、その時はそういう思考の人を演じているみたいな感じで捉えていただけるとうれしいなっていう感じですね。
その世界観を伝えなきゃいけないからね。そこでどっちでもいいなんてね。そこでキースト教の話をしている時に結局メダンディするなんて話されても困るしね。
それはもう哲学のラジオじゃなくて、仏教の人が何かいろんなことを、仏教視点の人に何かいろいろ語っているラジオになっちゃうもんですよね。
それは楽しいとは思うんだけど、仏教的な観点を知るっていう意味ではね。
やっぱりその哲学者、今回はトマス・サクイーナスのことを知るとか、デカルトのことを知るってなったら、やっぱりデカルトすげえとか、デカルト最高っていう気持ちで喋るから。
でも次、平義論を話したら、デカルト全然ダメですよみたいな話を言ったりするみたいなね。
もうね、それは知らなかったな。そんな苦悩があったかは。
こっちはね、いつも、ただダメな話をされて、分かってないとか言われて。
楽なもんだよね、聞く方はね。
聞く方も大変だと思う。それに全部ついていかなきゃいけないわけだから。カンのハヤトっていう人間と喋ってるっていう事実は変わんないけど、その中で起きてるとか、そいつが今誰の視点で喋ってるかが変わり始めるから。ちょっとややこしいよね。
っていうところがありながら。
ただね、そんな話をしながらなんですけど、すごくね、実は共感するとか分かったよっていうメッセージをすごくいただいていて。
今回も雑談の中で取り上げようと思ったんですけど、すごく4通も実はいただいてしまっておりまして、せっかくだったら皆さんのことをお伝えしたいなと思うので。
今回新しい取り組みとして、会を分けて雑談会やったんですけど、次にお便り紹介会みたいなことをやらせていただいて、そこで皆さんいただいたお便りに答えるっていうのを1回分としてやっていきたいなと思っている感じでした。
本当にありがたいことに、ここから紹介し始めてしまうと、多分1回で1時間半とかになっちゃうから、申し訳ないですよね。
33:07
次回はお便り紹介ということで、次、今回のヒスト教の中世を踏まえて次どこに行くかをまた紹介してもらえれば。
これまでも何回かご紹介していたキルケゴールという人やろうと思っていて、時代的にはヘーギルのちょっと後かな、1800年代後半くらいの人だったと思います。
今回話したようなキリスト教的な世界観とヘーギル的な理性とか伝承法的なところをある種揃った時代において、キリスト社としてというかキリスト教的な人間としてどう物事を考えたかみたいなことがすごく分かる人なので。
というようなキルケゴールと、あとさっきも言ったニーチェ、神は死んだっていう神っていう絶対的な参照すべき存在絶対者っていうものがないっていうふうなことを考えた時に、
西洋哲学ってどうなるのとか、そもそもそういう発想にどう至ったのみたいな話がめちゃくちゃ面白くて。
ニーチェ大好きなんですけど、世の中的な一般的に流通しているニーチェの言葉をすごい引っ張ってきましたとか、
ふわっと滞在して取り使ってますみたいなものでは伝わりきれないニーチェの面白さっていうのがあるって思ってる人なので。
もしくはニーチェ界だけちょっと長くなっちゃうかもしれないんだけど。
っていうくらいちょっとね、釣り上げてまたお伝えしていきたいなって思ってる感じですね。
そうなんだね。2人を理解するためにもやっぱり、今回はそのための長い導入会くらいの感じで回ったみたいな感じかな。
そっからもね、ある意味正反対のことを言う2人ってことなもんね。
面白そう。
結構ね、論文とか見せても、やっぱりニーチェとキリゲゴーロンみたいに並べて取り扱えることもあったし、
時代的でも結構近い2人だったりするので、そういう意味では並べて聞いていただけると面白いんじゃないかなと。
ちょっとさらにその先を言うと、その2人よりも多分すごい疲れると思うように聞いてる方も、
神がいないとか、人間はどうするみたいな感じになっちゃうから、
その次はちょっと禅の方に行って、
なんかもっとふわっとした世界、無の世界を感じていただこうかなっていうぐらいで今は思っております。
了解。じゃああれだね、東洋の方楽しみにしていただいてる方はもうちょっと我慢していただいて。
そうですね。ちょっと2人分も少し聞いていただいて、東洋タイムということでやっていこうと思っておりますので。
36:06
わかりました。じゃあまたお便り紹介の後は、また「キュウキュウゴール2」というところに進んでいきたいというところですね。
そんな感じで次回もやっていきたいと思いますので、引き続きよろしくお願いします。
おねがいします。今回もありがとうございます。
(♪ BGM)
36:31

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