1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #59 『死に至る病』の信仰論。..
2022-11-16 54:15

#59 『死に至る病』の信仰論。キルケゴールが示した絶望の乗り越え方

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


▼おたよりフォーム

ラジオのご感想やコメントなど、お待ちしております!
https://forms.gle/ThJocrLap77ELG7B7

00:00
(BGM)
はい、それてつらじよ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回は前回に引き続き、Q.K.ゴールの死に至る病の内容について見ていきたいと思います。
はい、では早速ですね。前回は死に至る病の人間観とか人間論みたいなところで、
Q.K.ゴールが人間というものをどう捉えていたかというのをお伝えしたんですけど、
その中で死に至る病というのは絶望であって、その絶望というのは、いわゆるこの厳世的な、
失敗したつらいとか、生きる希望がなくなったとかじゃなくても永遠の命だっていう前提の中での絶望だよみたいなこととか、
まず絶望っていうのが、自分じゃなくて自分より大きな他者みたいなものを想定したときに、
その他者の意思をないが所にして、自己自身、自分自身であることに耐えられないが、
Q.K.ゴールが生き続ける状態みたいな、ちょっとややこしい概念なんですけど。
前回の現在に引き続き、前回の絶望とか、結構言葉の定義がすごく大事だね。
そうですね、言葉の定義ってやっぱりどういう世界観とか価値観で生きているかっていうのはすごい大事で、
どうしても神とか宗教とかを語ろうと思うと、普段生きている世界よりもちょっと広いというか、
そういう世界をなんとなく想定しないといけないから、分かりづらさちょっとあるかなって思うんですけど、
なのでぜひ皆さんも神視点で今日は聞いてほしいんですけど。
そっちなんだね。
今回はですね、その信仰論みたいな形で、いわゆるさっき言った自分より大きな他者っていうのが、
それが神だっていうふうにした場合に、これまでテーマにしている絶望っていうのが、
罪っていうものと置き換わるんだって、前回の最後にもお伝えしたと思うんですけど、
そんな話をしていきたいなって思ってます。
はいはい、なるほど。一般論からついに基礎教的な話に踏み込んでいくって感じだね。
そうですね。
ちょっとこれ台本作りながらも聞く人にめっちゃ申し訳ないなって思いながら作ったんですけど、
それ多分前々回かな、ケルゲゴールの神ってどんな神かみたいな話で、
ルタ派だと神っていうのが世界を作って、エデンの外にいたアダムが知恵の実を食べて打砕してみたいな話をしたと思うんですけど、
そういう神の創造とか、イエスキリストの復活とか、最後の審判として人間が生きた結果、
03:12
ある種、天国に行くか地獄に行くかが分かれるみたいな、そういう大きな構造とか流れがあるよっていうのをされたと思うんですけど、
なので、まずこの構造のもとにケルゲゴールは喋ってるんですよね。
前々回はなんとなく分かった手で話しちゃったけどってこと?
そうそうそう、とか、前々回の話を引っ張り出しておかないといけないから、聞く人からしたら脳の負荷がすごいだろうなと思って、
あの時に言ったこの話と前回の人間観の話と今回の神皇観の話を全部理解しない、
っていうかちゃんと頭に入れておかないと、このケルゲゴールの話を理解できないんですよ。
そうなんだね、そっかそっか。
なのでちょっと拘束しつつ言っていこうと思うんですけど、
なので前回は自分より大きな他者が神なんだみたいな話を先取りしてしまったんですけど、
前回の人間の世界で話す間は、自分より大きな他者っていうのは、よく掴みどころのないというか、漠然とした存在なんですよね。
まあそうね、なんかよくわかんないね。
そうそう、大いなる意思みたいな、わかんないけどみたいな感じだと思うんですけど、
それをちゃんと神だ、もっと言うとキリスト教の神だっていうふうに設定することで、
具体的な存在としてある種認識できるじゃないですか。
そうね、そうね。
中世でも神は存在するのかっていうので、神そのものが存在だみたいな、そういう話もしてきたと思うんですけど、
だから存在する限りは人間が認識できるので、
かつ、これも前回の人間論の話ですけど、人間というのは罪に落ちた、
要はアダムの罪も引き継いでいるとか、原罪を持っているが故に、
自己としては有限の存在なんだけど、
でも神から生まれたっていう無限性を持っているとか。
神っていうのは、そうした人間にちゃんと愛を向けていて、
その人間を救うためとか、あるいは裁くためっていうので、
一人一人の人間に対して、自己との在り方、自分自身との在り方っていうのを、
神が方向づけてくれるんだっていう認識に置き換わりますよっていうような話をするのね。
はいはい、なるほどね。
人間より大きな何者かっていうものだと、そのベクトルっていうものがまだ存在しない状態で、
概念としては理解できるけれども、じゃあどうやって使うの?みたいな状態だったのを、
06:01
今回でいうとティースト教の神みたいなものを具体的に否定することで、
様々なストーリーだったりとかベクトルっていうものが初めて否定されると。
で、それを我々人間というか、一人一人の人間が認識できるようになるよねっていう話かな、まずここまで。
そうそうそう、そういうことです。
だからこそ、神の救いっていうのがあるから、その救いに向けて自分を成長させるとか整えるみたいなことがある意味づけられるよねみたいな。
はいはいはい。
そういう感じなんだけど。
なので、この他者っていうのは神だっていう認識を持つことによって、
人間っていうのか、あるいは人間の自己っていうものは、全く違う世界観で生きることになるよねっていうふうに言うのね。
無色だったものに色をもさせるって感じだよね。
そうそうそう。
その色っていうのは、ある神話、神の世界の色をつけていきましょうと。
そうすると、人間の自己っていうのが、あっちに行ったりこっちに行ったりする、フラフラする、
例えば有限性と無限性の間をフラフラするものとかっていう感じなくって、
本能と神との間にあった完全な関係性、それってデースというか目標になって、そこに立ち返るっていうのが大事なんだよとか、
そこに立ち返るために神が差し伸べてくれる手というか御徴とか導きみたいなものを探して求めて、
それに忠実に生きることっていうのが、ある種自分自身として生きることだとか、
自分自身との関係というのを正しく保つことだっていうふうにキルキゴールは言っているし、
自然とそういうふうに思うようになるよねっていうようなことを言うのね。
なるほど。
前回は一般的な話だったけれども、有限とか無限とかそういったものをきちんと前提条件、世界観として理解することで、
自分はその中のどこにポジショニング、どこに自分を置くかみたいなことが自分で選べるようになる、
自分をコントロールできるようになるみたいな話をしたと思うんだけれども、
このコントロールするっていう部分においても、今の神っていうものを規定することで、
ある意味自分をそういった有限無限みたいな世界観の中で置く場所っていうと、
それこそ無限に置く場所があると思うんだけれども、
それがさっきの神ある意味正解っていうものを規定すると、
ある程度自分を置く場所だったりとか、どこに向かって置いていくかみたいなものすらも規定されるよっていうことではね。
そうそうそう。ある種参照点としての神様というか、
ある種神様の完全性とか無限性っていうのを元にして、
09:03
じゃあ自分って今この辺かな、といったやっと見るようになるとか。
うん、ああ、はっはっ。確かに、そっかそっか。何回もあれだけど、自分より大きな他者みたいなやつだと、
自分がまだ相対化できないんだね。何と相対化しているか分からないのか。
ぼんやりしてるし、認識もできないから、なんとなくそれ自分だけで完結したんよねって思いはありながらも、
でもそれって何よっていうのに答えられないんだけど、
そこに神っていう存在を持ってくると、それがバチッと答えられるようになるよね、みたいな。
うんうんうん、なるほどね。はいはい、ちょっと見えてきたかも、その世界観。
そうそう。なので、前回言ってたような、死に至る病=絶望みたいな話でいくと、
経験語でいうと、絶望っていうのは、自分自身との関係の不調和みたいな、自分が自分とうまく関係できてないみたいなことだよっていう風に言うんだけど、
そういう自分だけに閉じた概念じゃなくて、神との繋がりとか、そこに罪っていう概念を入れることで、
神っていう自分より大きな他者と、罪っていうものを通じて繋がっているよねっていう、
まさに現在の時に言ったようなことが問題になってくるとか、それを問題の場面として設定できるようになるよねっていう風なことを言うのね。
うんうんうん。
絶望を乗り越えるって言われてもよくわかんないけど、神との関係における自分の罪っていうのを自覚して、
それを乗り越えるっていう風になると、少し具体化されますよね。
その罪っていうのは実は神が自分に向けてくれている、方向性をつけようとしてくれている恩情とか愛とか導きっていうのに気づかずに、それをないがしろにして生きてしまっていること。
うんうんうん。
それ自体が罪であって、かつその罪を犯しているから自分との正しい関係を作れないっていうのが絶望なんだっていう風な構造を明らかにするのね、キリウケゴールは。
だからその前回言った通り、自分は絶望していないっていう人も絶望に気づいていないっていう意味で絶望しているってことは、みたいなことを言うんだけど。
うん。
つまりそれはどういうことかっていうと、その絶望っていうのがキリスト教的な罪、神の導きに答えない、答えないというかそれを気づいていないっていうことが原因だっていうことに気づかない限り、
人間というのは自分の絶望にも気づかないし、それを乗り越える一瞬にも立てないよねっていうところまでその読者を導いていくんだよね。
へーすごいね、なるほど。
12:00
なのでそのキリウケゴールからすると、前回も言った通り、正しいキリスト教、要はそういう神の御徴ってのを正しく理解して、自分の罪っていうのをちゃんと理解して、その関係性を把握できるキリスト教と以外は自分自身として生きる可能性自体がないんだよ、みたいなことを言いますと。
なるほど、ちょっとキリスト教思常主義みたいな話になってきてるね。
そうね、やっぱり信仰者として深みを広めようという人だから。
そうだね、キリスト教ちゃんとしようねっていう立場からするとそうだろうね。
だからちょっとね、極論というかポジショントークっぽい感じはもちろんあるんだけれども、やっぱりそのいわゆる正しいキリスト教徒だけが自分自身が絶望していることに傷つけるとか、それを神との関係性によって解消して、本当の自分自身、要は自分自身の完全性とか無限性に至れる可能性があるよと。
だからそういう可能性もあるし、みんながそういう地点に立つことができるっていうことをちゃんと示すとか、読者に対してそれをちゃんと自覚してもらうというのが、この死に至る病っていう本の目的なんだよっていう感じですね。
まあそうだよね、その無意識に絶望してるみたいな話だもんね。
そうだね、だからその神の世界で生きてないから意識できないっていう感じだよね。
確かにこれを計らずしもというかね、前回の最後の方でも言ったけれども、やっぱり絶望、罪ってものを分かった、ちゃんとそこを認識したからこそ絶望できる部分もあれば、そこを知らないからこそライトな感じでふわふわと生きている部分、ただそれをキューティングウォールはどちらも絶望状態として捉えているし、
そのライトなそうにはまずはそこ、罪というものをまずは認識しようよと、そうすることで初めてその目標というか神の道も見えてくるから、そこを初めて真面目に行こうとした時にまたその絶望というものは感じられるかもしれないけれどもね、みたいな話をしているってことだもんね。
あ、そうそうそう。
ここまではその絶望について知るっていう話かな、その乗り越えるっていうよりは。
ここまではそうだね、その絶望っていうものを正しく知るとか、絶望を生み出す構造をちゃんと把握しようみたいな感じかな。
はいはいはい。
やっぱりそこがいわゆる宗教書というより哲学書に近いところで、あんたが絶望しているっていうことを自覚しなさいとか信じなさいっていうことじゃなくて、
どういう構造からその絶望が生まれているのかとか、どうして人間というのはその絶望というものに出会う必要があるのかっていうのを、やっぱり絶望はこういう3つかな、の形態があるとか、
15:14
それっていうのはこういう構造によって生まれているとかっていうのがちゃんと一定ロジックだったというか、書いているっていうのがやっぱりこの死に至る病がある種、主張というかメインの本だと言われるゆえんかなって思うかな。
はいはい、まあそっか、確かにそうだよね。
時代的にやっぱりケイケゴルマーにも腐敗していたりとか、近くに行くとフランスではもう人権宣言だけか、フランス革命も起こっちゃってるみたいな、やっぱり人間というものに焦点が当たり始めている時代で、
もたやたにもう宗教はこういうものでから信じなさい、で、信じる時代はある意味終わっていると。
そうね、終わりかけて、終わり、思想的にはそういう流れが出てきているっていうのが近いかな。
うんうんうんうん、そっかそっか、これ言い過ぎたね。
ちょっと終わって言い切るのはちょっと僕はもう手で決めちゃう。
兄ちゃんはね、次トラゲ兄ちゃんはその時に言い切った人だから、兄ちゃんの時には多分そう言うようになってる。
今のところね。
そうそうそう、そういう前提条件とか背景を踏まえると、やっぱりここまで宗教、今回言うとキリスト教って大事だよねっていう話を、ここまで論議的に話さないと、
もう納得もしてくれないし、実際キリスト教の信者だったりとか、もしくはもうそれを引っ張っていく立場の教会側の人たちですらも腐敗していたりよくわからない状態になっている時には、やっぱりここまでちゃんと認識させてあげないと、
本気ね、信仰というものを取り戻すことはできなかったのかなっていうのは感じたよね。
そうね、本当にそうで、やっぱりここまで徹底的に言わないと、ダメだっていう結局の思いだったりとか、
ちょっとあの書会にもお伝えした通り、これはね、いきなり最初の本としてバーンと出すんじゃなくて、ちょっと恋愛の本を書いたりとか、作家として直るっていうことをやった上で、やっぱりこれを出したっていうような戦略性というか、
やっぱりね、いきなりこういうことを出しても受け入れられないだろうという感覚もあっただろうし。
そこがすごいよね、やっぱりちゃんと、これは毎回ね、いろんな哲学者の時に思うことだけれども、やっぱり現状認識、時代だったりとか自分たちの現状認識能力が半端ないよね。
そうね、哲学者なんてやっぱこう、見ていただいてわかる通り、みんな独特な考えを出すわけだけど、やっぱりその当時の時代で受け入れられるかって言うと、やっぱり受け入れられない人も多いわけだよね。
18:08
ソクラテスなんてね、嫌われて死刑に出てくるし、そういう意味で言うと、やっぱり自分の思想を守るとか、自分の世界観を守るっていうのはやっぱり結構ハードなことだし、挫折もするだろうから。
それをどう乗り越えるかって、やっぱりちょっとそういう人間ドラマ的なものも感じたりはするんだけど。
なのでキルケゴーレは、ここまでの話で、どういう構造から人間が絶望していて、かつそれが神との関係から成り立っているんだっていうことを言うんですけど、
この病気だから診察した後は治療するっていうステップに入ると思うんだけど、どうその病、絶望を乗り越えるかみたいな話でいくと、
そんなにめちゃくちゃ綺麗に説明するわけでは実はないんですよね。
そうなんだ。
そう。
なぜかって、ここからはもう信仰の話になっちゃうから。
ああ、そうか。もう既に信仰もキーストキョーモードに入ってるか。
そうそうそう。やっぱり論理では言いつつないことがあるみたいなことも、やっぱりキルケゴーレ自身も認識しているというか、自覚しているんだよね。
逆に言うと、ここまで絶望とか罪、現在の話し前についてこれて、そうだよねそうだよねと思ってくれる人であれば、この先の話はもちろんついてきてくれるよねっていう期待もありそうだね。
まあそうだね。神を求めるよね、ここまで来たらみたいな。
目の前に答えがあって、手が伸ばせば届くんだったらみんな手伸ばすでしょみたいな、結構そういうスタンスもあると思うんだけど。
ちょっとその先の話をすると、今言った通り、その絶望とか死にたり病をどう乗り越えるかっていうと、結局はキルストキョーの信仰を通じて神の意思に忠実になろうと。
神が導きとか神の愛でもって人間を助けようとしてくれてるんだから、そこにちゃんとすがるみたいなことが大事だよねみたいなことを言うんですよね。
なんかこれはね、浄土真宗かな、三田の本川みたいに阿弥陀如来っていう人がいて、その人がみんな主上を救おうってしてるんだから、阿弥陀様に仏になってもらった方が早いよねみたいな考え方とちょっと近いなって感覚もあるんだけど。
うーん、そうなんだね。その辺はちょっと…。 知ってる? いや、知らない。前なんか雑談会かなんかでね、ちらっと阿弥陀様の話は聞いた気がするけど、ぜひその辺は雑談会とかでなんか詳しく聞きたいかな。
そうですね。 なんか長くなりそうだもん。
21:03
いきなりね、別の神様というか宗教の話をぶっ込むっていう、ちょっと待て、雑談会でお話ししていこうと思うんですけど。
まあ、神の意思っていうのはあるんだから、それに忠実になりましょうと。
そもそも絶望とか罪っていうのは、自分との関係性がうまくいかないとか、不協和が起きているみたいな感じだったんですけど、ちゃんとそれに気づいて、
自分はどれだけ神の意思から離れて、神の意思を満たしていないってことは、もう罪深いって気付くときにはことなんだけど、
これ、罪深い生き方をしているかっていうのを知ることが重要で、そこでまず自分に絶望して、自分は全然ダメだって思って、
自分が悲惨な状態にある、例えば現世ではもしかしたらお金とかをちゃんと持っていて、裕福かもしれないけど、
神というか無限の生命っていう観点が取られたら、すごい悲惨な状態だっていうことを自覚して初めて、ちゃんと神を求めるよねと。
そうすると、人っていうのは単独者になるって話をここで言うんだけど、単独者って何かっていうと、
自分だけの罪とか、これは現在の時に話したような、自分だけの罰罪の経験、罪の自覚っていうのをして、
その絶望を抱えた存在として神の前に立つよねっていうふうに言うよね。
なるほど、ここが繋がるのか。
ここで現在の話と繋がるんだけど、
アダムの罪をただただ背負ってるというか、歴史的にあるんだかないんだかみたいなことは違う。
自分がその罪の当事者として持ってるんだっていう感覚っていうのは、この単独者っていうところで出てくるんだ。
そうそう、自分だけの罪とか、自分だけの人生というかね、
っていうものを初めて自覚した時に、なんとなく人間一般とか、抽象化された良きものとかじゃなくて、
自分と神っていうその存在が初めてここで一対一で向き合うとか出会う可能性があるよねってこと言うよね。
なので、その罪について考える。要はキリスト教の罪とかアダムが犯した罪じゃなくて、
自分自身の罪について考えることだけが意味を持つんだって。そういう境地がキリスト教の始まりなんだっていうふうに言うよね。
はいはいはい。
ここまで来るとすごく個人主義というか、なんとなくみんながキリスト教を信仰していますって世界じゃなくて、
やっぱり自分っていうものを起点にするっていう、まさにこのデパルトさんとヘイゲル的な思想を経た個人とか、
24:03
自分っていうものをすごく大事にするっていうところからのキリスト教への接続っていうような形になっていくと思うんだけど。
そうだね。キリスト教ってこんなすごいんだぞって話してないもんね。理想の神みたいな話。
あくまでも自分がっていう話になっていて、だからこそキリスト教はやっぱり、
ある種、さっき言ったような自分っていうこの自分だけの罪を持った自分っていう存在が神の前に存在するっていう意識。
これが無限性とか完全性って話なんだけど、これを手にするには絶望を通っていくより他にしようがないっていう風に言ってるよね。
だから、死に至る病は絶望で、その絶望してる状態ってすごく惨めだし苦しいし辛いことなんだけど、
絶望できる可能性があるから人間は神になる可能性もあるみたいなことを言って、それを通ってキリスト教に至ってねって話をするんだよね。
はいはい。病気だけれども必ずみんな通るはずの場所だよみたいな感じもあるってことだね。
そうだね。それにかかることが本当の真のキリスト教者への道だみたいな。
はいはいはい。病とはいえと。
そうね。かかっているから自覚することが。
ああ、そっかそっか。もうみんな無意識的に絶望してる人はもう無意識的にその病にかかってるからねって話が。
そうそうそうそう。
そうなんだよね。ここにきて、そういう罪とか絶望とか人間とか神とかっていうものをある種こう、自分っていう観点からちゃんと語れるような世界が広がってくる。
神話とか歴史とかとかじゃなくて、自分が神と向き合うっていうことのある種根拠を作った。
作ったというかここまでちゃんと形にしたっていう意味ではやっぱりすごい人。
なるほど。
ちょっとここから余談的なものもあるんだけど、実はキルゲゴール自体は、もちろん過去の哲学者とかも勉強した上でこうやって本を書いてるんだけど、
ソクラテスっていうのはすごい尊敬というか崇拝してるんですよ。
へえ、そうなんだ。
ソクラテスがすげえ、やべえって言って、よく引き合いになるんですけど、その上でソクラテス的なものを乗り越えるのがキリスト教的なものだっていうふうに言ってるんだよね。
へえ。
これちょっと面白いからね、ぜひ紹介したいんですけど、要は歴史上で一番優れた哲学者はソクラテスだぐらいに言うんだけど、それを乗り越えるのがキリスト教的なものだっていうふうに言っていて、
27:00
それは何かっていうと、無知、要はソクラテスって無知のうちの人じゃないですか。
無知っていうことと、キリスト教は反抗というか否定っていう、その二つの違いだっていうふうに言うよね。
何かっていうと、例えばソクラテス的には、ある種正しいことが行われないとか、人が不正を働くっていうのは、その人が無知であって、それが正しくないっていうことを理解するだけの能力がないっていうふうに言ったりしますと。
要は正しいことを知ったら、当然その理性の力で正しいことをするよね、みたいな考え方があるのね、もともと。
そういう人は無知の無知っていう状態になっていることはね。
そうそうそうそう、本当の無知みたいな感じなんだけど、キリスト教はそこに不徹底さっていうか、人間への理解不足っていうか、人間そんなスパッとわかれるもんじゃねえだろうっていう話をするよね。
正しいことを知ったから正しいことをするとかじゃなくて、ある種キリスト教的には、人間が正しいことを望まないとか、正しいことを知っていても、ある種それに対して反抗したり否定したりするような特性を人間は持っているんだっていうふうにキリスト教的には言いますと。
持っていると要は神が食べちゃダメって言った知恵の実を食べるみたいなのって、明らかに無知じゃなくて食べちゃダメって言われてるのに食べてるんだから、無知じゃないじゃないですか。
はいはい、なるほどね、分かっておいて確かにやってるわ。
そうそうそう、だからそれはある種神聖なものを怪我したいとは言わないまでも、みたいな気持ちあったりとか、正しいって言われてるものに反抗したいっていう、そういうものが人間には常にあって。
はあ、はいはいはい。
こういう否定性みたいなものが人間の罪であって、罪っていうのは正しいものを知る知らないとかっていう理解とか認識じゃなくて、正しいことをするしないという意思の問題だっていうのね。
うーん、はいはいはい。
こういう否定性の意思のもとに生きてるってことは原罪であって、それを無知だって捉えるソクラテスっていうのが、ある種理性な働きで全部を説明しようとしている、実悪者のちょっと何だろう、至らなさであって、それを乗り越えるのが信仰だみたいな話をするのね。
ああ、なるほどね。そこまでは、そっか。なんかキュウケゴールのことにもすごい賛成だけれども、最後信仰、信仰の結晶ってそこに結びつけちゃうんだね。
そう、そう、そう。
30:00
ただ人間の意思っていうのはやっぱりこう、自分勝手のものじゃなくて、やっぱりもっと大いなる人と他者との関係性において存在するものだっていう人間感を持っているから。
はいはいはい。
大いなる他者っていうぼんやりしたものじゃなくて、それは神であって、神との関係っていうのが信仰であるっていうような構造だよね。
はいはい。
結構ね、僕も確かにこれまで理性って話を、この『ソウエテッドラジオ』でも結構してきて、理性であらゆるものが認識できるとか、いやいやあらゆるものではなくて、もの自体っていうのは認識できないけれどもあるんだとか、あるとはないんだとか、そういうことをいろいろ話してきたと思うんですけど、
それはもう限界だと。優しい人間の正しい姿を捉えてなくて、やっぱりこう意思とかやりたいやりたくないみたいな問題とか、ただ真理があるとしてもその真理を何か否定したいとか拒みたいっていう、やっぱりそういう皮肉っぽさというか、
はいはいはい。
そう、あの『ケルケゴレダ』、まさに皮肉とかアイロニーっていう言葉も結構重要概念なんですけど、そういうスタンスがやっぱり人間にはあって、でも逆にそれに目を向けることで正しい人間理解とか、キリスト教的なものは理解ができるよね、みたいなことも結構言うんだよね。
なるほど、まあ面白いね。確かに信仰で言ってもそうだしね、もしかしてちょっと全然わからない上で言葉使うけれども、正善説とか正悪説みたいな話、それにもちょっと近いのかなってね。
どんなところで?
近いって、今、即話的な話、ちゃんと物事を無知の地を理解して、自分がちゃんと知っていれば正しい方向に向かって、理想の方向に向かって人も動くだろうみたいなさ、それってちょっと正善説的な感じじゃん。
確かに確かにね。
逆にキルケゴルの言ってるのは、とはいえ人間って神がダメって言ったものすら食うぐらいの反抗心か、だったりとか、もうバカな存在なんだと、元々罪深いやつなんだと、いう意味では正悪説的な人間理解というかね。
確かにね。
だからこれが、今のは単純にこの即話テストキルケゴルを宗教で比較するのか、あとはこの正善説、正悪説、これが何の話か分からない、どんな学問的な話なのか知らないんだけど。
うんうん。
なんかそういうね、ある理性的なとか、宗教じゃない観点からも、そうやって比較できるなみたいなちょっと思った。
はいはいはい。
面白いね、やっぱ面白いし、やっぱり人間感かなってすごく思っていて、例えばギリシア的な人間感だと、理性っていうものをある種曇りなくちゃんと全力で使えば、それこそイデアだったりとかそういう真理とかも直接見ることができる。
33:15
それがある種理性の最終形態だみたいなやっぱり人間感があって、もっと言うと人間はそれを直接的に見ることができるっていうような理解をしてるんだよね。
はいはいはい、そこに至れるといつか到達できるっていうね、希望を持ってるってことだね。
至るって、まあ見れるなんだけど実際は。人間がそこに行くっていうよりは、それをある種ちゃんと認識したり理解することができるっていうようなものがあって。
はいはいはい。
やっぱり哲学とか歴史の流れの中で、そういういわゆる善のイデア的なものが神みたいなものに変わったときに、神と人間の関係はってなったときに、もともとは神の恩情とかを受けて人間が主従みたいな感じだったんだけど、
平家ゴールは逆にそこを逆転させて、人間っていうものが、罪っていうものを通じて、本当に神に至ることができるとか、神との関係を作ることができるっていう。
でもそれは理性の問題なんじゃなくて、意識とか信仰の問題だっていう。神の力を使っていくから、人間の完全性、人間の場に完全性があるんじゃなくて、神の場にある完全性の力を使ってそっちに行くんだみたいな。
まあ人間はある種不完全であるっていう認識もやっぱり持ってるわけだよね。
はいはい。その前提がないと成り立たないもんね、その世界観は。
そうそうそうそう。結構、どうすると人間が不完全な存在だとか、やっぱり罪深い存在だみたいな、ちょっとそういう、ペシミスティックって、
何て言うんだろう、そういう、大背的なというか、悲観的なやっぱり人間感も含んでいるし、それを何度も言ってる通り、ニーチェが散々悲観して、弱者の道徳だみたいなふうに言うんだけど。
はいはい。まあ、そうだよね。どうしても宗教とかさ、あと政治だったり国とかコミュニティって、たぶん切り離さない、特にヨーロッパでは、切り離さない分って大きいと思うんだけども、やっぱりなんかね、全然想像でしかないけど、
古代リー社の人間の規模感、法律が例えば数万人とか、大きくて数万人とか何千人とかって規模だったとして、それはローマ帝国になってくると何十万人、何百万人みたいな、そういう人間をどう導いていくか、まとめるかみたいに見てのね、世界観の作り方っていうのは全然違うだろうしね。
36:01
なんか、そういうソクラテス的な、古代的な話は結構、少数精鋭な感じじゃん。全員頑張ってそっちに向かいましょう。フラッドの国家だっけか、鉄人政治じゃないけどさ、みんな鉄が治めるべしみたいなさ、それってやっぱり理想論ね。
100万人いて全員100万人が立派な鉄人になれるかみたいな話でさ、そういうのも感じるよね。
そうだね。本当はその辺も面白くて、結構そういうコンセプトなんだよね。国づくりのコンセプトとして全員が鉄学者であれっていう話と、アテネの近くには、古代イギリスのアテネの近くにはスパルタっていう国があって、スパルタの全員もう戦士だみたいな。
武力では最強みたいな国があって、その中で国をどうまとめるかとか、どういうコンセプトで人を集めながら国を大きくするかっていうことも考えていただろうから、逆にスパルタみたいなのがあったから、きっとアテネ的な共和制の国ができたんじゃないかとか、そんな話を聞いたことがあって、嘘だったら申し訳ないですけど。
やっぱりみたいなことも考えると、いろんなものが繋がって、やっぱり出来事ってできてるよなーみたいなことを感じるんですよね。
なんか宗教の話聞くとね、そういうところが面白そうだなと思うしね。
うんうんうん。国づくりとかそういうことだよね。
まあ、ハエトもそこ専門じゃないんだろうからね。
そう、わかんないから、それはね、詳しい人に教えてほしいというか。
知っててほしいよね。そういうセポトキャスターやってる人がいるのかとかね、そういう方があるのかみたいにね。
確かに。でも本当にそこはすごく密接に関わってるだろうし。
ごめん、ちょっとすごいずらしちゃったけど、まだ終わってないので。
最後はもう本当にまとめっていう感じなんですけど、前回、キリゲゴールをいろいろ話す中で、やっぱり現在とか、人間感としての絶望とか、罪とか、神とかっていろんな話をしたんですけど。
実はキリゲゴールが言ってることはすごいシンプルだったんですよね。
さっきも途中で言ったんですけど、いろいろ言ったんだけど、結局は人と他者と絶望っていう関係があって、
そうやってるのは結局、人と神と罪っていう関係と同じなんだっていう、その構造を言ってるのがすごい肝なわけですよ。
だから、いろんなものを取り入れて、例えば、それこそ平気で平気な弁償法的に、あれとこれを比較して乗り越えていくみたいな、そんなことをする必要は全然なくて、
39:02
単独の存在者、単独者として自分自身っていうものを罪っていう中で見出しちゃって、それをある種、自分自身を見失い続けているっていうような状態、
それを自覚して、それをそこから抜け出して、自分を規定するというか、遠いところから自分の方向づけをしてくれる神に基礎を置いて生きていく。
要は、自分中心じゃなくて、神中心の生き方をしていく。それによって自分の人生っていうものをちゃんと調和させて、正しく生きていくっていうことが、
キルケゴールの信仰だし、死に至る病を治す方法なんだよ、みたいな感じでまとめています。というようなところですね。
なるほどね。そっかそっか。ヘイゲルあたりからずっとキルケゴールも面白いよ、また違う世界観で話した人だよ、みたいな。
そうだね。 そうだけど、全然やっぱり違うね。確かに人間がどう生きるべきかとか、人間をどう捉えるかっていうのを、また弁償的にいろいろなものを乗り越えて、どんどん、
そこそこどこかに向かって成長していこうとか、どこかに到達しようみたいな感じじゃなくて、すごく当時の、まさかにデンマークか、当時のコペンハーゲンに生まれたキルケゴールが、
当時の地に足のついた、金属橋の話はしてるんだけれども、だからいわゆる永遠性とか、いわゆる原性的な命だったり、苦痛みたいなのは、そんなに重要視しなくてもいいんじゃないっていうスタンスはあれどうなんだけれども、
結果として、無限性みたいなものとかに気づかせることで、この世、原性をちゃんと精神的にも、もしくは身体的にも、すごくいい人生を送る方に仕向けようっていう、優しさみたいな、すごくリアルな人生、自分の人生、
精神的にも、今の原性的にもか、ある意味救われるというかね、すごく前向きに自分を捉えることができるような、すごいポジティブな考え方っていうのを人々に伝えたかったのかなっていうふうに、ちょっとこう感じるね。
ああ、なるほどね。 だから、ある意味ヘゲルってさ、すごいじゃん。すごいし、この休憩ゴールで言うと、最初の一般的な話、自分の他に大いなる存在がいるんだ、ある意味止まっている状態とも言えるじゃん。
その大いなる存在を頑張って見出していこうね、ある意味止まっているとも言える。知らんけど、ヘゲルは思っていたのかもしれないけど、一方で休憩ゴールはそこにある一定の具体性を持たせて、ちゃんと信仰というものを軸として生きていきましょうと。
42:14
そういう意味でやっぱり、ハヤトが言うと、近代哲学で自分の生き方とか、それに繋がるんだなっていう部分も、ちょっと初めて、このソレ哲学上で感じた部分かな、今回。
ついに兄貴がそこを感じてくれた。 福田 うん、ないない、その部分。その生き方的な話。 そうですね、哲学が人の生き方を語るとか、雑談とかでも話したいんですけど、そういうのって、どうすると、そうやって言っている人がいるだけじゃん、とか、自分には関係ないじゃんって思う部分あると思うんですよ。
福田 そうだね、やっぱり言葉遊びな部分だったりとかね、結局昔の話でしょっていうイメージはやっぱりあったし。
あるよね、そう。なんだけど、こうやって丁寧に追っていったりとか、時代背景とかも含めて、確かにそういう時代の価値観で生きている人だったら、今のキルキゴールみたいに、罪と神というものが大事で、そこに生きていくことが人生なんだって言われても、まあまあわかるというか。
福田 確かにそういう価値観があってもいいよね、とか、自分に何か生かせることがあるかもっていうふうに思えるっていうのは、すごく難しいっていうか、道のりは遠いんだけど、やっぱり大事なことだなって思ったりしてて。
そうだよね。
福田 今散々60回くらい話してきて、やっと初めて今兄貴が感じるぐらいだから。そう、なんかね、それやっぱり嬉しいなと思うし、やっぱりそうなると哲学を学ぶとかね、哲学者のことを知るモチベーションにもなるんじゃないかなと思ったりするし。
まあそうはね、確かに、加藤いってそうだもんね、いきなりジャーキルーテンゴールの話とか、近代哲学から入れって言われても、無理だし実際サルトル読めなかったからね。
福田 そうだよね。
多分サルトルもこういう深い話があるんだろうけど、そこに至れないからね。たどり着けない。
福田 哲学に至れない兄。
そうそうそう、哲学のついて無知の無知すぎてね。だから哲学も同じだよ、だからね、哲学が自分、哲学の無知にどう気づくかみたいなのってすげえ難しいと思うんだよ。これはね、哲学に限らずだけどね。ちょっとこれは雑な、ちょっと僕になっちゃうけど。そこを感じたよ。
福田 確かに確かに。でもそれもあるよね、やっぱり自分が考えていることが、自分だけの考えではないみたいな話とか、自分が考えていることが何らかにやって方向づけられているっていうのは僕は絶対あると思っていて。
45:11
福田 やっぱりね、それが過去の思考の積み重ねだったりとか、哲学者も含めてそういう人が考えてきたことが一般化して僕らが考えていることになっているっていう感覚?
福田 それがあったから僕は嬉しいんですよ。やっぱりどんどん過去に遡って、いろんな哲学者の人の本を読んだりとか、自分がこういうふうに考えているものってなんだろうみたいな感じで、そこに好奇心が向いたっていうのは確かにあるから。
福田 すごいね。そこを無知のうちに自分で気づけたみたいな話なんだもんな、それは。もしくは何かきっかけがあったのかもしれないけどね、何らかの外遊的な。
福田 中央病をこじらせただけだったかもしれないけど。
福田 そうだね。前もから聞いていると、中央病をこじらせたりとか、生きるのがちょっと辛いなと思ったことがあるとかね。そういう意味ではちょっとライトかもしれないけど、休憩ゴールがね、33歳死ぬんだっていう恐怖と近い感覚かもしれないですね。
福田 そうね、そこまではもちろん言ってはいなかったけど、確かにそういうつまずきというかね、自分自身がうまくいってないっていう感覚を乗り越えようとしたみたいな感じはあったのかもしれないですね。
福田 そんなふうに勝手ながら休憩ゴールを控えにして自分を高めるみたいな。
中央 そうだね、同じレセックス。
福田 そういう感じでいかがでしたでしょうか。結構休憩ゴール、いろいろな話をさせていただきましたが、感想回でも詳しく聞きたいと思うけど、どうでした?いろいろ兄貴の中で今の感想として。
福田 そうだね、さっきの繰り返しになるけれども、やっぱりちょっと質感が違うよね。やっぱり理想を追い求める、なんかの構造、一般的な構造を追い求めるっていうよりは、もうちょっと人間、自分の生き方とか。
福田 そのようにフォーカスしていて、それについても、とはいえ、ポッドでじゃなくて、カヤトも言ってくれてたように、これまでのデカルト、カント、ヘゲル、そういった、後は時代もあると思うんだけど、人間とは何か。
福田 あとは信仰がちょっと弱まってる、信仰心が弱まってるみたいな。そういう時代にうまくはまったというかね。そういう時代、前からね、こういうまとめばかりであれだけど、なんか感想が。
福田 でも本当同じだよね。やっぱりその時に生まれた天才が、その時の状況をすごく丁寧にしっかりと把握して、それに対する回答までバチッと出したみたいな。やっぱ気持ちいいよね。
48:03
確かにね、確かに確かに。 福田 だからこそ残ってるとも言えるし、だからそこから人によってはそのキリスト教的な、具体的なキリスト教として、キリスト教ってこうやって信仰するんだ、だったりとか、もしくは自分が、これを仏教に持っていってもいいしね、宗教に対する信仰ってこういうものなんだ、というふうに学ぶのもいいし、
さっきのこのもう一個レイヤー上げていたその大いなる何かみたいな、だったりとか、一旦は絶望を通らなきゃいけないとか、そういう罪っていうものを認識しなきゃいけない、そういう部分を自分と比較して、ここで確かにそうだなとか、やっぱりひと技説を経験しなきゃいけないなとか、そういう引きつけて考えられる部分っていうのが前よりも多い気がするよね、確かに。
だからちょっと具体的な話はね、ごめん、雑談会って多分こういう話はしていくと思うんだけれども、やっぱなんかそういう意味で今回がその近代哲学、ある意味そういう生き方とか自分自身にこう、掘っていくような、多分初めてだと思うんだけど、それ哲学上では。
そうだね。
だから今後そういう話が増えてくるっていうのは楽しみでもあるし、やっぱりそういう近代哲学と自分の生き方とかを重なわせすぎると、それはそれでこじらせんなっていうのもね、ちょっと思ってね、気をつけようと思った。
いやもう本当にそれ大事、ぜひこじらせないままでいてほしいんですけど、やっぱ聞くと強力だからそういうことだよね、弁償法聞いてやっぱ弁償法すげえってなるのと同じで、
例えば次回にニーチェ話すんですけど、たぶんニーチェすげえってなるし、フッサルの幻術学話したら幻術学すげえってたぶんなるんですよね、ハイデガー話したらハイデガーすげえってなるんだけど、
だからやっぱちょっと距離をとってというか、バランスよくやっぱり僕も伝えていこうと思うし、受け取っていただいたほうがいいと思うやっぱり。
そういう力強さを、また別の力強さだよね、ああいうソクラテスから連なるそのイデア的なものは何かだったりね、世の中とは何か、のとはまた違う、やっぱ自分の話になっちゃうから、そこが強烈に入ってくると結構危ないかなーってね。
危ないっていうのは、ちゃんと哲学を踏まえて、ちゃんと理性的に理解できればいいんだけれども、哲学を身体的に理解したりとか、感情的に理解し始めると、すごいパワーを持ってそうだなっていうね。
そういうのを今回はキルケゴールからすごく感じたもん。だってこれを小中学校とか学校の時に、近くの教会にキルケゴールが住んでて、こんな話されたらね、洗礼受けちゃうかもしれないよ、本当に。
51:03
確かに確かに。
まあなんかそういうね、でもそんだけ面白かったよね。
うん。
あーよかったよかった。やっぱりちょっとね、キリスト教っていうのは少し馴染みにくいというか、もちろん僕らも、僕自身も当然、何度も言って、とりあえずキリスト教徒ではないし、そういった思ってるわけではない人間の話ではあるんだけれども、
だからでもそれをある種通じて、そんなキリスト教的なことを考えた人はいるんだなとか、そういう世界観で考えるっていうのもなんか面白いというか、ここまで考えられるんだっていうのがね、特に中世からの話も含めて伝わっていたらすごく嬉しいなと思っているところですね。
いやー本当面白かったし、あれだね、ここまで来たら仏教バージョンのさ、仏教でいう休憩ゴールっていないの?
いやー、仏教はほら基本的に自分が悟るっていう世界観だから、
もう最初から自分っていうものと世界ってもうだいぶこうなってるのか、別に。
でも面白いのは、またちょっとね、今度は禅にも行きますけど、そもそも仏教に目指すべき悟りもないとか、自分もないっていう世界観だから、
休憩ゴールは生まれないのよ、だって、貫通者がないんだって、もうないもの、仏教には。
そう、まさに禅だけど、私は悟りたいんですって言われて、私とはなんだ、悟りとはなんだ、みたいな、それ世界だから。
確かにね、それ執着じゃんって言われちゃうのか。
そうそう、その執着である、自分に執着をして我を持っているのである、無我だとか言われるから、全然違うのやっぱり、それで面白いんだけど。
うーん、そうだね、そうか、まあ、ということは、まず次回はニーチェやってか。
次回はニーチェやります。その次は禅をやります。なので、近代西洋的な我とか自分とかっていうのを散々やった上で、自分などないのだ、みたいな。
また戻ってくる。
そういう世界に行こうと、また皆さんをお連れしてバランスを取っていこうかなっていう。
了解です。じゃあ、まずは次回はニーチェということで、これを踏まえてね、何回か名前出てきた人もね、これをさらに神はいないっていうふうに否定しちゃう方の人ってことなのね。
そうだね、そうです。やっぱりそれはね、すごく面白いし、あとはニーチェの色んな解釈をしている人たちもいて、その中で面白い考え方とか、僕自身がそれを知った時に、すごい世界が広がったと思った考え方があるので。
そういう話でもね、ちょっとお伝えしながら、ニーチェの世界というか、そういうものをちょっと伝えていこうかなって思ってます。
了解です。わかりました。じゃあ、次回は一応感想回とかを挟みつつ、またニーチェに進んでいくということで、引き続きよろしくお願いします。
54:04
よろしくお願いします。ありがとうございます。
(♪ BGM)
54:15

コメント

スクロール