1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #134 「言葉を超えた世界」を..
2023-08-06 54:04

#134 「言葉を超えた世界」を荘子はどんな風に語るのか

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。



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サマリー

掃除編の最後では、掃除は言葉を超えた世界についての考え方を示しています。掃除は言葉に表せない世界や言葉を通してしか考えられないことについて言及し、言葉の機能や意図の伝え方についても述べています。荘子は言葉を超えた世界について語り、混沌という概念にも触れています。荘子は言葉の外の世界には区別がなく、道の働き自体は同じであることを示唆しています。また、荘子は言葉に対する意味での疑念や言葉の力を持つ考え方についても語ります。草寺の考え方からは道の世界を超える在り方や物の変化に対してのポジティブな姿勢を学ぶことができます。荘子は言葉の世界や道について語り、言葉による比喩や道を極めることの意義についても考察されます。ブログ、SNS、ソクラテス、西洋、ストア派。

言葉を超えた世界
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回で荘子編ラストということで、前回は荘子の道を見ていって、これ結局手張りじゃーんって喜んでたところ、そんな感じなもんじゃないよ、と。
そうですね。
もうちょっとフラットな感覚だよ、というところがラストだったと思うんですけれども、今回はその続きというところでした。
はい、これまで道という概念と、あとは荘子の特徴的な概念としての物価と制度という、ちょっとなかなか聞き慣れない言葉だと思うんですけど、それを見てきて、
今回はこの荘子編ラストとして言葉に対する、いわゆる言語だよね、言葉に対する捉え方というのを見ていきたいなという風に思ってますと。
どういう関係があるのかね。
荘子の有名無名のときに話したように、言葉を扱うというときに、いわゆる言語学とか、そういう中だと言葉って何かみたいなことを見ていくんだけど、
荘子とかそういう思想家だと、言葉には表せない世界とか、これは言葉で表せるけど表せないものがあるときに、それってどう扱うのみたいな、言葉を超えた世界みたいなことも結構含まれるんだよね。
ほうほう、そうなんだ。
それって、もちろん言葉にできないことってめちゃめちゃ扱うのが難しいっていうのは、これまでの西洋哲学の結構あったと思うんですけど、
でもやっぱり現代の西洋哲学の流れであっても、言葉とは何かとか、言葉ってどうしてそんなにちゃんと意味を表現できるのとかって、
やっぱり切っても切り離さない問題というか、結構中心点はあったりするんですよね。
まだ言葉の謎は実は解明しきられていないというか。
そうだね。よく僕らも話すそれは、自分に対して、私に対して私が考えるみたいなことの問題っていうのはそもそもあるわけではね。
なんだ、哲学を発信だったの?
要は、私っていうものに対して、例えば私とは何かっていうのを考えたときに、それを考えているのも私じゃん。
はいはいはい。
ってなると、自分が自分を考えていたときに、もうすでにそこにズレがあるみたいな話っていうのがあるわけよ。
はいはいはいはい。
言葉も結構近くて、言葉について考えるって言った瞬間に、言葉を通してしか考えられないんだよね。
なるほどなるほど。同じことが起こるのか。はいはい。
そうそうそう。言葉を言葉以外で分析するみたいな手法が確立しない限りは、多分言葉とは何かって本当には多分わかんないんだよね。
なるほどなるほど。
みたいなやっぱり難しさがあるんですけど、掃除っていうのは2400年前か、だからそのぐらい前からそこのことについてちゃんと考えていたというか、
多分自覚してたんじゃないかみたいな話があるんですよね。
なるほど、その違和感についてちゃんと言語化していたということは、もしくは言語化できていないところもあるっていうのを分かっているってことですね。
そうそうそうそう。
なので今日は言語論というか言葉って何なのみたいなのを掃除はどう扱ったかみたいなことを通じて掃除の世界というのを伝えていきたいというのでございます。
言葉の機能
僕自身も今年の第一回でも言ったんですけど、言葉とか言語っていうものに今年は収録したいですよみたいなことを抱負として言ってたんで、
その観点も含めてこれを最後に持ってきたかったという感じですね。
そうだね、西洋哲学的なとか現代的な言葉とは何かを把握するとかじゃなくて、もうちょっと言葉とはそもそもみたいなレベルの話を見せたっていうところなんですね。
そうなんです。
やっぱりそれは面白いんで、まずは最初そういう順の話がありますってところから伝えていきたいんですけど、
掃除の中に収められているお話で、皇帝だからいわゆる王様とか君子だよね。読書本を読んでたんだって。
そしたら70歳くらいの年を取ったプレマ大工だから、いわゆる馬車とかそういうのを作る人だよね。
そういう人が何を読んでるんですかって皇帝に話しかけますと。皇帝が成人、昔の偉大な王様たちのことを読んで、王様というかそういう人たちのことを読んでるんだって言ったら、
プレマ大工はいきなり、それは死んだ人を絞りかすに過ぎませんねって言ったんだって。
ほうほうほうほう。
だいぶ喧嘩を売ってるんじゃないかみたいな感じなんだけど。
しかもそもそも話しかけられるのかっていうね。そこは置いといて。
そしたら当然皇帝も怒って、プレマ大工ごときは何言ってんだてめえみたいな。
申し開きができたらいいんだけど、できなかったらお前命はないぞみたいなことを言いますと。
それはそうだよね、不礼だみたいな感じなんだけど。
そしたらプレマ大工は言うんだよね。
私は車作りの自分の仕事で考えてるんですと。
車輪、車をいわゆるちゃんと作っていくっていうコツっていうのは、
手で覚えて心で感じるものであって、口で言うことはできませんと。
自分の子供にも教えることはできないんで、
だから70歳とかっていう年齢やっても自分で車輪を削ってるんですよと。
それと同じように、すでに亡くなっている成人とか偉人の言葉とかっていうのは、
その人が本当に伝えようとしていることは、それはできないまま死んでしまったのであって、
書かれた言葉っていうのも結局、成人のようは伝えようとしたこととか、
その意図の絞りかせに過ぎないんですっていうふうに言ったんだって。
ほうほうほう、なるほど。
それに対して、校庭が納得したかどうかみたいなことを書いてたんですけど。
あ、そっか。ストーリーここで終わっちゃったの?
一応。もしかしたら原本読んだら書いてるかもしれないんですけど。
っていうようなやり取りがありました。
どう、兄貴的にはこの車大工の申し開きというかさ、理屈は通ってそうかな?
いや、そうだね。これは通ってもいるし通ってもいないというか、これはね、どっちでもあるんだよね、これは。
個人的な解釈というか感想で言うと、
多分車大工70歳なんで、ある意味この車大工っていう道の多分達人ではあるんだよね、おそらくね。
そうだね。
だからそういう人がこういうことを、いわゆる死んだ人の言葉っていうのは意味がない、絞り返すんだと。
言うてのはちょっとそこに矛盾は感じちゃうんだけれども。
はいはい。
まず一つは、でもほんと相当に言うよね、言葉で言われたさ、
例えば大義書みたいなのがあったときに、読んで全部わかるかって言われたらわかるわけないじゃん。
ちゃんと手を犯して心を犯して、プレイアンドエラーをして、その道っていうものに近づいていくと。
養生するだけか、前回で言った。
っていうのはほんと相当にだと思うんだけれども、一方で、
じゃあこの達人である車大工、達人であるっていう前提条件が必要なんだけれどもが、
じゃあ偉大な車大工の残した書、本があるとき、
多分それを読んだとしたら、めちゃくちゃ感動すると思うんだよね。
なるほどね、なるほど。
この言葉はそういうことを言ってるに違いない。
そこには解釈があるから、必ずしも言葉自体に力があるのではなくて、
それを解釈できる、読み取れる車大工の方がすごいことになっちゃうんだけれども、
そういうことは言葉とか偉大な人の本とか、
偉大じゃなくても言葉には、そういう力はあると思うんだよね、個人的に。
だからその工程が仕事だよね。
車大工は車を作りながら仕事、工程は工程の仕事があるってときに、
偉大な成人の書を読むっていうのがとてもマッチしてるよね、仕事として。
おー、なるほど。
だからもしこの工程が、ちゃんとした工程であればそこから読み取れるっていう意味ではないんだけど、
車大工がそこを見越して、この工程ダメだなと。
これじゃ全然ダメじゃんと思っていて、
そんな本読む暇があったら、街散歩して政治しろよと。
まずはボールと体を抜かせということを言ってるとしたら、それは正しいと。
そういう両面性がある。
今、兄貴の読みが深すぎて感動というか、
この後の話よりも全然いい話してんじゃんって思ってしまったんだけど。
どうです?
確かにそうだよね。聞き手の問題というか、読む人がそれをちゃんと理解できるかとか、
正しく理解できてるかは置いといたとしても、それをちゃんと活用できるかどうかって確かめっちゃ大事だよね。
これも一理は多言に通ずっていう話なんだけどね。
だからこの車大工が達人であったとしたら、
車作りとは関係ない成人の言葉を読んだとしても何か得ることはあるだろうし、
逆に工程がすごい偉大な人だったら、車の作り方とかを読んだところで自分の政治に生かせるかもしれない。
逆もしっかりだけどね。だから知識だけで説明するのもダメって。
確かにね。それはすごい説得力がある話だなと思って。
一応その掃除の意図というか、あくまで解釈なんだけど、解釈の意図からすると、
言葉の意図
言葉はちゃんと意図を伝えられますかみたいな話をテーマにするのではなかろうかって言われてるんだよね。
ここで掃除は何を伝えようかっていうところで言うとね。
だからその成人が言ったことが伝わるかというよりも、そもそも言葉の機能として、
それを伝えるってことはできましょうかみたいな話だとしますと。
といったときに、やっぱりこれは聞いていただいてわかる通り、
言葉っていうのは、要は話す意図とか意思とか、
そこに伝えようとしているものを取り込ませてしまうんだっていう考え方がここには含まれてるんだよね。
それはそうだと思う。
これさえはそんなに不思議な話でもなくて、
やっぱり言いたいことが言えない、もどかしいね、みたいなのって、
僕らも普通に生きててあったりするし。
あと、デリーダーのときにちょっと言ってたんですけど、
書き言葉がエクリチュールで、話し言葉がパロールだみたいな話をしたと思うんですけど、
そのときにソクラテスとかネプラトンとかっていう西洋哲学においても、
やっぱり書かれた言葉っていうのは、話された言葉?
実際にその場で起きている対話とかってよりも、
書き言葉っていうのは位が低くて、
あんまり役立たないんだみたいな話をしたと思うんですよね。
情報量というか、そしてちょっと劣るんじゃないかと、書き言葉の方ね。
そうそう、会話よりも。
っていうのがあったので、
言葉っていうのは、やっぱり人とか現に生きている人から切り離されても、
本当に機能するんでしたっけみたいな感覚っていうのが、
やっぱりこの掃除団体とかソクラテス・プラトンにはあるんだよね。
たぶん兄貴が言ってくれたのは、
いやいや、一つの言葉が仮に引き剥がされたとしても、
それをまるで目の前にその人がいるようにとか、
自分自身が体験しているかのように、
生き生きと味わうことができる人もいる?
そうだね、そこは人もいるんだよね、外に。
そうだよね、誰もができるわけじゃないと思うんだけど、
っていうのは確かにそうだなと思って、
だからね、さっき確かに言った通り、
この工程は結局読んでもわかんないんだろう、みたいなことを思ってくれないかと言ってるとしたら、
それはすごい、逆に皮肉というか、批判だなって思ったんだけど。
ソウジも多分そういうつもりでこのエピソードを書いているはずだと感じはするよね。
おそらくそういう解釈が主流だという感じかな。
たぶんね、やっぱり政治家が書いた、残した言葉とか書は、
ありがたいというかね、やっぱり拝んじゃう感じもすごくわかるからね、
それに対するちょっとアンジテーゼみたいな、
もうちょっとフラットにしようよっていう感じがするのかな、もしかしたらね。
そうなんだよね。
結構これ難しいのが、
その言葉に込められた意味みたいなものがあったときに、
その意味とか意図ってどこまで存在してますかっていう、
混沌の世界と区別のある現実世界
逆にそっちの問題が出てくるんだよね。
はいはい、そもそもね。
そう、そもそも。
取りこぼしたとか言葉には載せきれないって言ってるんだけど、
そんだけ純粋な意味とか意図って、
どこにあるんですかみたいな話が出てきますと。
はいはいはい。
で、それっていうのは、
そのソウジの言葉で言うと、
意識とかまさに意味の意っていう言葉で表現してるんだけど、
その意っていうのはやっぱりあるんだと。
で、かつやっぱそれっていうのは、
言葉にしようとする瞬間にやっぱり取りこぼされてしまうんだって前提からも
ソウジは言ってるんだよね。
はいはい、その意っていうものから言葉っていうものに変換するときに、
絶対ロスがあると。
そうそうそうそう、ロスがある。
うんうんうん。
で、それを実はすごくスッキリ言ってる言葉があって、
ソウジの中に道は未だ始めより不あらず、
言、言葉ね、は未だ始めより常あらずっていう風な言葉があるんだけど、
これ道と言だから言葉っていうのが対比されていて、
道っていうのは不あらずっていうのは区切りがないって話なんだよね。
はいはいはい。
うん、要は道っていうのは、
これまでお伝えしてきた通り、
あらゆるところに浸透してますと。
うんうんうん。
こっち区別もないし、
なんかこう、こっちにはいいけどこっちにいかないとかっていう区切りとか区別がないよって話なんだよね。
うんうんうん。
言、言葉は未だ始めより常あらずっていうのは、
言葉っていうのも実は最初から意味があるとか、
最初からもう言葉そのものとしてあるんじゃなくて、
はいはいはい。
その道と言葉が合わさるというか、
言葉が持っているその分けていく機能、
これが分析機能みたいに、
ちょっと後も名前出すんですけど、
伊豆戸志彦さんっていう人が言っていて、
その言葉の分析機能が道に対して働くと、
この現実の世界ができてくるんだみたいなことを言ってるんだよね。
だからそもそも、
世界と言葉っていうのは切っても切り離さないというか、
現実の僕らが生きる世界っていうのは、
言葉の働きによってそもそもできてるんだぐらいの感じなんだよね。
なるほどなるほど。
そうなんだ。
言の方じゃなくて言葉の方がそこしか認識できないみたいな感じなのかな。
そこを通じて道を認識するみたいな順番なのかな。
言はどっちかっていうと道の世界にあるというか、
ろうしているとこの無名の世界の方にしかないというか、
捉えられないという感じかな。
この有名の現実の世界になって初めて、
言葉でそれが分析化されていって区分けられていった結果、
意も一部表現できてるみたいな。
はいはいはい。
それに言っていいじゃないか。
言葉になると言葉自体が意を代理するものみたいな、
それ自体が意味を持つように感じちゃうんだけれども、
実はそうじゃないと。
言葉も実は有名無名で言ったら無名に近いもので、
かなり透明なもの、フラットなもので、
それを通じて道に何か触れる、鍵みたいな話だよね。
そうそうそう。
道を通じる鍵というかね。
そこをパカッと開くとその道からそれっぽい情報が来る。
それを認識できるみたいな。
なるほど。
いわゆる西洋の言語論とかで言うと、
言葉の指示作用と意味作用とかって言ったりするんだけど、
例えば目の前にあるものを指して鉛筆って言った時は、
鉛筆一般じゃなくてこの目の前の鉛筆を指してる、指示してる。
でも鉛筆で書くとか、この鉛筆で書くとかって言うと、
鉛筆で書くものとしての意味を、
手段としての道具としての意味を持ってくるみたいな。
やっぱりそこって結構分けられるんだよね。
なるほど。
そういうのはちゃんと学問的にも分類されてるんだね。
そうそうそう。
分析されてるんだけど、
やっぱり今ここで言ってるソウジの、
この世界を分けるとか作りやすさよっていうのは、
学問的に分析できるものを超えているというか、
そうやって証明しにいくんだよね。
言葉を超えた世界の語り
そうだよね。
その前段階の話をしてるような感じがするよね。
そうそうそうそう。
でもやっぱりそのぐらいの言葉とか意味とか道とか世界に対して、
ある種この広がりを持った。
要は今の現世界じゃなくって、
道とかそういった広い世界を踏まえた上で、
この言葉についても語ってますよと。
はいはいはい。
すごいね。
2400年前にこういう話をしてるんですね。
そうそうそうそう。
すごいよね。
やっぱりここから何を話すかっていうと、
ソウジは言葉を超えた世界についてもいろんなことを言ってるんだよね。
ほうほうほうほう。
そこについてちょっと、
やっぱりもう何度も言ってる通り、
言葉を超えた世界だから言葉では要は語れないので、
やっぱり難しいんですよ。
伝えるのも多分受け取っていただくのも。
はいはい。これはもう哲学に共通する話なんだね。
哲学の中でもその、何だろうな、
ゲージ浄学かな、どっちかというと。
いわゆる現世界で、
正義とは何かとかは言って言葉で議論できるというか、
お互いに共通理解を得られると思うんだけど、
じゃあ言葉を超えた世界とは何かっていう問いに対して、
お互いに言葉で共通理解が持てるかって、
多分それってめちゃめちゃ難しいというか、
そもそも多分限界があるんだよね。
なるほどなるほど。
それこそ言葉の意味っていうか、
有名無名で言うと有名の世界の話はできるけれども、
無名の世界の話はやっぱりできない。
それもしづらいよねと。
それもしづらい、うん。
冒頭にあった言葉を言葉で分析するみたいなね、
語るみたいなのが出てくる。
分野についてもあった話だね。
逆に言うと西洋哲学からちょっと抜け落ちがちというか、
それは結局神の世界の話っていう風に
しりどけられちゃったりとか、
あれはもうそれは人間の認識の外だから、
それこそ藩というもの自体みたいなね。
認識の外にある話だから一旦それを置いときましょうとかって
やっぱりやられがちだったんだけど。
なるほど。
摩擦はゼロとする的な方に持ってかれるみたいな。
そうそうそうそう。
はいはいはい。
ところがこういう掃除の道みたいな話とか、
仏教的な通みたいな話で、
そういう世界をどう扱うかとかって結構
積み上げられたりするんだよね。
それはちょっとさっきも名前を出したの、
伊津々俊彦さんっていう超有名なというか、
哲学者とか言語学者みたいな人がいて、
その人はね、この意味の深み絵っていう本があるんだけど、
そこにたまたまこの掃除のこういう境地、
要は言葉を超えた境地っていうのを説明しようとした箇所があって。
そうなんだ、掃除について触れてるんだ。
そうそうそう。僕も前に本読んでたんだけど、
あんまり記憶っていうか、あんまり気づいてなくって。
この前たまたま久々にパラグラム読んでたら、
これは掃除というところの何にありであるとかって書いてて、
掃除について書いてんじゃんみたいな。
へー、そうなんだ、たまたま見つけたんだ。
そう、たまたま見つけた。
で、ちょっと慌てて引っ張ってきたんですけど。
そこを説明しながら、
掃除のある言葉を超えた世界っていうのを、
ここからまたさらに話していこうと思うんですけど。
その世界について、
伊豆さんっていう人が、
もう一つ新たな重要な概念があるっていうことを言っていて、
それが混沌、いわゆるカオスっていうのが、
掃除の重要概念なんだみたいに言ってますと。
で、じゃあ混沌ってなんだよみたいな、
日常的にもこれは状況が混沌としてきたとかさ、
マジでカオスだねみたいな話でぐちゃぐちゃ出す状況とか言うとは思うんだけど、
それの掃除版は何かっていうと、
まさにこの混沌っていうのが、
言葉以前の世界のあり方であって、
無そのものを指すんだよみたいなことを言ってるんだよね。
はいはいはい。
でも無っていうのは、
いわゆるあるに対してないっていう不在を示すんじゃなくって、
あるとかないとかそういう区別がない。
だから一つのものを一つのものとして指し示すことができない。
そういう状態のことを、
混沌だし無だよっていうふうに言ってますと。
はいはい、ろうしていいところの無名だったりとか、
混沌というところのもの自体とか、
まだ色が付く前、意味が付く前の世界。
そっちに寄せちゃうとちょっと違うのかな。
混沌のもの自体とはまたちょっと違うかな。
はいはいはい。
まあでもそういう、確かにね、
名前が付けられないとか、
人間の認識を、認識を越えたいってのは変だな。
認識以前の世界って言うとまたちょっと言葉が分からなくなってくるんで、
一旦そのろうしの無名ぐらいに止めておく。
ぐらいで、はいはいはい。
っていうような感じですよと。
道の働きと共通の一元性
そういう時に、僕らが今生きてる現実世界っていうのは、
これもね、結構壮絶ラジオ時には何度も言って、
何度も言って言っても変だな。
結構お伝えしてきるので、
そろそろ馴染んできてくださってる方も、
もしかしたらいらっしゃるかなと思うんですけど、
やっぱり現実世界っていうのは、
色んな区別があって秩序があって、
そのモノたちっていうのが、
その自分自身の量分とか、
自分自身がそのモノであるっていうのを、
回ってる状態なんだよね。
そういう秩序が働いてますよと。
でもこの秩序っていうものは取り払って、
実は観のハヤトも観の教師たちとか、
男も陰陽師みたいな、
そういうものが全て混ざってる状態っていうのが、
いわゆる混沌ですよと。
これって前回お伝えした物価とか制度の話を、
ちょっと混乱しやすいかなと思うんですけど、
前回って蝶々と草地は、
区別があるよみたいな話をしたじゃないですか。
一元のともちょっと違うよみたいなね。
一元とも違うよっていう。
区別はあるんだけど、
草地が蝶々になったりとか、
蝶々が草地になるっていうことが起きるよ、
みたいな話をしましたと。
その道っていうものは一つというかあって、
それに対する相対的な違いとしての、
草地だって蝶っていうものが、
その道の関わりとしてちょっと出てくるから、
そういう意味で一つじゃなくて、
そこは明確に違うんだよっていう話を。
それが制度?
そうだね、制度。
等しく同じだよってことだね。
なので、
まず今、兄貴が言ってくれたストーリーで、
混沌の世界とか、
区別が生まれる前の世界では、
やっぱり区別はない。
それは言葉通りね。
区別はないんだけれども、
現実世界において、
蝶々とか草地とかっていうものは存在するし、
それよりは区別があると。
でも道の働き自体は一緒だから、
同じ働きにおいて、
言葉の力
草地が蝶になるとか蝶が草地になるっていう、
そういう変化っていうのが起こり得るんだっていう、
そういう大きな世界観の中での変化の話をしてるんだよね。
はいはいはい。
普通なんで現実世界で考えたら、
蝶は蝶だし草地は草地だろうっていう区別って壊れないんだけど、
一歩上にそういう区別が何もない混沌の世界を持ってくると、
そういう視点での話ができるっていうような捉え方なんですよね。
草地の世界観的にね。
そうそうそう。
やっぱり存在だなというか、
普段はそこまで考えないよねっていう感じがするんですけど、
ただやっぱりそれが、
今ので僕らとか現代世界に意味を持たないかって、
そのこともないと思って、
やっぱり言葉に対する意味での疑いというか、
言葉を持つ意味みたいなものが、
さっき言った通り、
本当は言葉って無色透明というか、意味がついてないんだけど、
それが現実世界に持ち込まれたりとか、
それが道に対して働くことによって、
意味を持ち始めるとか、
言葉っていうものが力を持ち始めるって考え方って結構大事なんだよね。
ただ物事を正しく考えるとあって、
言葉にある種支配されないというか、
言葉を正しく手段として扱うためにっていう感じではあるんですけど、
やっぱり日本でこういうふうな話を聞くと、
宗教的というか、
無みたいな世界って、
要は人間が認識できなかったら、
もうそれって科学的じゃないから、
ちょっとうさんくさいよねみたいな感じもあるかもしれないんですけど、
そうだね、それもそう。
でも一体そういう道っていう働きとか、
有名と無名という区別とか、
そこに言葉っていう働きがあるんだとかっていうようなことの対応関係として聞くと、
ある程度論理的というか、
考える中で扱えるような話なんじゃないかっていうふうに、
思ってもらうのではなかろうかと。
そうだね。
いうような感じですね。
いろいろ言葉に支配されるみたいなさ、
言葉に振り回されるみたいな話って、
人間の自由
これたぶん構造主義デリナの時とかあったと思うんだよね。
やっぱり言葉ってさ、
秩序の中でも既にそれぞれの文化だったり国だったり色んな地域、
家庭、あと友達付き合いとかそういう結構狭い中でも、
ある程度そこに規定された言葉、
そこで共通言語みたいなもので使われてると思うんだけど、
同じ言葉でも違う意味で使われたりとか、
そこに支配されるというかね、
自分が思ってないけどその言葉に順次て、
価値観だったりとか行動が規定されてしまう部分って大きい。
そこはたぶん大きい。
そこでこういう話だったりとか、
デリナの構造主義的な話を聞くことで、
そこがちょっとフラットになるよね。
今回その言葉は無色透明だっていう話があったんだけれども、
そこに対する冷静さとかフラットな感覚っていうのは、
やっぱりあってもいいのかなっていうのは。
そうだね、そうじゃないと外にある世界を自分が受け入れるっていう、
すごく自動的な態度になっちゃうから、
いわゆる世の中に定められた区切りの中で、
しかもある種生きられないみたいな。
それはそれで別にいいというか、
むしろそっちの方が普通の言い方ではあるんだけど。
普通だし、ある意味はそれも言葉の強力な使い方というか、
一部だと思うしね、
言葉がそういったある一定の共同体だったりとか、
コミュニティの秩序を作るっていうのは、
言葉のすごい有益なというか、
一面か、強力な一面な気もするしね。
そこから抜け出すことは必ずしも前ではないということで。
前ではないね。
やっぱり抜け出せるかどうかっていう話はあって、
これは時々引用するんですけど、
いわゆる旧約聖書かな、
神様が世界を作った時に、
ロゴスとか言葉ありきで光あれと言って、
世の中に光があったっていう話から始まるんだけど、
やっぱり神様が世界を作ったっていうのは、
言葉によって作るとか、
ロゴスっていわゆる認識とか識別作用だから、
それによって現実世界ができたっていうのは、
なんか共通するんじゃないかみたいな話があるんだよね。
東洋であれ西洋であれとか、
それは人によっては言い過ぎだとか、
勝手に引き寄せてるっていう話もあるんだけど。
言葉ってのは面白いテーマなんだね、それだけね。
人間とは切っても切り離せない。
やっぱりこの辺りの話っていうのは、
今後もスライドストーリーも出てくるかなとは思うんですけど。
面白いよね、世界観だった。
ちょっと唐突なんだけど、
どうしても僕が一個紹介したい話とか、
前回さっそく兄貴が、
物価と制度に関して足張りみたいな感じで、
要は一回型を学んで、それを離れて乗り越えていくみたいな、
そういうポジティブさがあるよねって話をしたと思うんですけど、
そこに対して物価ってそんなに、
通常だったものとか、前に進んでいく方向性っていうよりは、
それこそ混沌だし、無知通常だよみたいな話っていうのを、
改めてお伝えしたくて。
その前に物価忘れちゃったからさ、
物価って何だっけ、長になるみたいな話だっけ?
長になるなんですけど、物価っていうのは要は、
いわゆるさっき言ったような識別作用とか区切りがあるわけよね、
この現実世界には。
でもその道の世界に行くとそれがないから、
あらゆるものっていうのは、別のものにある種変化するとか、
なり変わる可能性があると。
なるほど、形っていうか意味というか、
言葉があった状態から、ただのものというか、
無に戻るみたいなイメージというか、
そっち側に道の方に行く?
道の方に戻るっていうよりは、
同じ現実世界の中でも、
突然それが変わることがあるという感じなんだよね。
要は、蝶の夢って蝶と草寺だと思うんですけど、
草寺として人間として生きている、
世界と関わっているっていう在り方が、
突然蝶々として生きて、蝶々として世界として関わって、
世界と関わっているっていう在り方に、
変わる可能性があるんだよっていうのは、
草寺のすごく特徴的な考え方なんだよね。
そうなんだ。
草寺が一回夢みたいなものを経由して、
そこからルーレットで決めましょう、蝶みたいな感じじゃなくて、
草寺から直で蝶になる可能性がある。
そう、直。
へー、はいはい。
それは何でかっていうと、
草寺は道に従うとか道の通りに生きるっていうのを、
良しとしてなかったっていう前提があったと思ってて、
物の変化と因果
はいはいはい。
ある種の道とか、
そういう言葉の分割作用とかに対して、
やっぱりただただ従って生きるんじゃなくって、
もっと人間の自由とか、
そういう世の中の根本の仕組みを超えたような在り方っていうのを、
草寺は考えてるんだよね。
要は道とか言葉の働きに従って生きてていいんだったら、
ある種与えられた良分をそのまま持って、
自分が草寺であるということに、
ある種安住して生きてりゃいいわけじゃない。
そもそもさっきの言葉に支配されるみたいな感覚で生きていいじゃんって話ね。
同じだよね。
やっぱりそれが本当の自由かとか、
それが道の世界に対して働きかけることかっていうとは、
そうじゃないっていうふうに多分考えていて、
ということは道が言葉によって区切られて、
この現実のそれぞれの区分がある世界ができるってなったときに、
その区分をどう超えるかとか、
それを超える可能性ってあるのかっていうところのアンサーが、
この物価って考えたんだよね。
前回分かってなかったな。
でも難しいというか、
全部繋がってる感覚だから。
今回でいうと言葉に支配されてるところから抜け出した状態みたいな感じだよな。
なんだかの自分でなのか、
外適用意なのかしらだけど、
ポンとそこから抜け出した状態を物価みたいな話。
そうそうそうそう。
それが無実情だし、方向付けられてないよっていう話を、
受話等の企画とかでしてきたんですけど、
それがすごく分かる話があるんで、
それをまた最後のエピソードとしてお伝えしたくてですね。
どんな話かっていうと、
AさんBさんが登場人物として、
Aさんが病気になりますと。
Bさんがお見舞いに行くんですよね。
っていうようなシチュエーションの話なんだけど、
Aさんっていうのはすごい酷い状態で、
こんな風に言ってるんだよね。
ああ、神様と。
中国なんでいわゆる天なんだけど、
ちょっとわかりやすく神様って言うんですけど、
神様と。
私は背中が曲がってしまって、
内臓が上に上がって、
顎がへその下に隠れて、
肩が頭のてっぺんよりも立ってますと。
要はちょっと危険というか、
体がもうグニャグニャになっちゃって、
もう見起きとれない状態だよね。
神が私をこんな風に負けてしまったんだ、
っていう風に今Aさんは嘆いてるわけだよね。
Bさんがそれを見ていくんですと、
君はそれが憎いのかと。
そしたらAさんは答えるんだよね。
いや、どうして憎いことがあろうかと。
だんだんと私の左腕を変化させて、
鶏にするなら、
私は時を告げることにしようと。
右腕を変化させて、
弾にするなら、
いわゆる鉄砲なんだけど、
袋をでも撃ち落として、
炙り物にしようと。
尻を変化させて車輪にして、
心を変化させて馬にするなら、
それに乗っていこうと。
そもそも得たのも時だったし、
失うのも順。
要は順番だから秩序であると。
たまたま得たし、
こうやって変化していくのもたまたまというか。
そうそうそうそう。
それはある種の因果であると。
だから結局、
物、要は人間という一つの物が、
天とか神様に勝てないというのは当然のことであって、
いろんな変化が起きたとしても、
私はこれを憎むはずはない。
そんな風に言ってる話があるんだよね。
はいはいはい。
これはどんな風に感じるかって話で、
前回言った物価っていうのが、
人間が自分が長年あるとかっていう、
困るけど別にそんな大変なことではないんだけど、
その風に、
ある一つの人間存在としてありながら、
左腕が鶏になって、
右腕が鉄砲になって、
お尻が車輪で心が馬みたいな。
これって結構ホラーじゃん。
そうだね。怖いね。
でもそれを憎まないっていう人がいるんだよね。
どんな風に感じますかねっていう。
これは難しいね、確かに。
具体的なシチュエーションを想像すると、
病気で体がとてもきついという状況で、
こう考えると宗教チックというか、
とても精神論的な感じがするなとは思う。
普通の精神というか、感覚ではないよね。
このきつさからどう逃れるかみたいなことは、
アニかもしれないけれども、
今回話した掃除の世界観、道とかとは、
うまく匂いしていないかな、この話だけだと。
掃除の特徴と比喩の効果
これっていうのは、話としての大げささというか、
物語チックな感じはあるんだけど、
これは掃除の特徴というか、
冒頭でも言った通り掃除がホラ吹きじゃないかとか、
レトリックがすごいっていうのを、
あんまり今回の話の中では伝えられていなかったんですけど、
結構このぐらいの話がいろいろポンポン出てくるんだよね。
結構特短なんだ、例え話が。
大陸を包む鳥がいて、みたいな話とかで、
そんな鳥いねえじゃんとかってツッコミ的になるんだけど、
そういう比喩とかってバンバン出てくるんだよね。
ここも一応ロジカルにというか、
論理的に考えてみようとすると、
人間とか掃除っていう一人の人間がいるっていうのも、
これと一つの区切られた話なんだよね。
それに対して腕とか尻とかっていうのも、
言葉の世界が働いているから、
本来なら細胞一つ一つがあっても、
その細胞でさらに区切られてる話なわけだよね。
だからそのぐらい、
人間の普通の考えでいうところの存在と、
道っていうものがあらゆるものに浸透しているというところに開きがある。
はいはいはいはい。
し、やっぱり左腕がたとえば鶏になるってなった時に、
これもただただ、
自分がちゃんと認識を持った存在としてあって、
そこが鶏に変わってしまったってことじゃなくて、
鶏として世界で生きる。
だから時を告げるっていう、
別にこの鶏は朝になって、
1時だから鳴いてるわけじゃなくて、
自分の生活のリズムの中で自然に従って鳴いてるわけじゃない?
うんうん、鶏の道があるってことだもんね。
そうそう、鶏の道に従って鳴いてるんだけど、
左腕がそういう風になったとしても、
自分は憎まないってことを言ってるのね。
だからそのぐらい変化が激しいというか、
全然違う世界に至る可能性の中で生きるっていうのは、
こういうことだよっていう話なんだよね。
身体の細胞と道の存在
はいはい、その心持ちね。
しかもそれが今の自分の状況も運だよみたいな。
そうそう、運だからたまたま得ただけだよっていう。
だからさっき言葉の秩序作用っていう話をしたんですけど、
言葉に限らずやっぱり今あるものっていうのが、
どれだけ奇跡的な仕組みでやっぱり成り立ってるかって話だなと思ってて、
ちょっとごめん脱線っぽくなっちゃうんだけど、
最近働く細胞っていうアニメを見てるんですよ。
ああ、そうなの。
聞いたことある?
体の中の白血球とか赤血球とかそういうのを擬人化して、
ウイルスとかワクチンと戦ってますよみたいなのをやってるアニメで。
うんうん、見たことある。
子供が最近体の中のことを知りたいとか、
薬って何なの?みたいなことに興味を持ってたんで、
ちょうどいいかもと思って一緒に見てたんですけど。
いいチョイスだね。
すごく勉強になったんだけど、
腹が40兆とかあったかな?
膨大な数の細胞があって、
それがお互いにいい影響というか、
ちゃんとある種、人間から見たら協力し合って成り立ったように見える。
やっぱりそういうのは体の秩序があるわけだよね。
それっていうのも考えてみれば不思議な話で、
なんでこの細胞一個一個の小さいやつが集まって、
人間みたいな複雑な機能ができるのかっていうのは、
すごく偏否的と言いようがないものがある。
でも逆に言うと、
その秩序化の働きを壊すようなことを考えると、
こうやって腕がそれになりとか、
尻がそれになりみたいな、
本当にそういう無秩序というか、
本当にカオスのようなことが出てくる。
なるほどね。
その例えは面白いね。
働く生もね。
確かに自分は今人間として自分を認識してるけれども、
やっぱりそういうと、
自分が発揮器だってでもおかしくないというか、
次の瞬間って話だよね。
そこで一生懸命その道で、
体に入ってきた細菌をみたいな、
働きをしても別におかしくないというかね。
そうそう、倒してる。
それはその発揮器の道があるからみたいなね。
しかもそれも自分で成ろうと思って成れるわけでもないし、
成りたくないからといって成らないわけでもないみたいな。
そういう運というかね。
運とランダム性の役割
ランダム性もあるよみたいな。
自分でどうすることもできない部分もある。
そうだね。
だから本当にたまたま染まってるだけなんだけど、
でもそのたまたまを越えようとすると、
こういう世界に問い込まなきゃいけないっていうのが、
たぶん相似の感覚なんだよね。
面白いね。そう考えると面白いかも。
前回ちょっとポジティブな話をしたんだけれども、
道を極める方がいいっていうのって価値観じゃん、一つのね。
これも支配されてる価値観じゃん。
そこに本気で自分がそう思ったなら、
それはそれでいいかもしれないけれども、
確かにな。
そこは本当にランダムだという感覚でいて、
どっちに転んでも自分は受け入れるよっていうのも、
それはそれでポジティブにというか、
そっちを極めようというのとある意味同じスタンスというか。
そうだね。
そこは正道な気になるよね、確かに。
そうそう。
そっちに対して。
だからやっぱりランダムさというか、
やっぱりたまたまこうなっているみたいな感覚とか、
そこにやっぱり天、道とか神みたいなものと、
やっぱり人間の法的なスタンスみたいなものを見ることもできるし、
だからといって別にそれにただ屈して、
あれが間を受け入れろよというだけでもない、
この相次のダイナミックさというか。
そうだね。
だからといって相当無主義でもないしね、逆に触れてね。
そうそうそう。
というところでやっぱりバランス感というか、
やっぱり白黒あるし、黒黒あるからもはっきりつけない感じ?
はいはい。
これさ、初心百科としてさ、やっぱ無理だよね。
そんなことをさ。
編集というか法廷というかね。
よほど優秀なさ、掃除いなくてもいけるぐらいのトップじゃないとさ、
掃除をうまく生かしきれない気がするよね。
確かに確かに。
掃除いなくても十分、天下徒歩き好きよ、たぶん。
この人を生かせる人。
そうね、間違いない。
自分でたぶんできちゃうし、
これはやっぱり現実世界に当てはめて、
民をどう従いさせるかとか、国をどう治めるかみたいなところに応用させようっていうのは、
たぶん大変すぎる。
ちょっと遠いすぎるよね。
そうだね。
それは自家の方がいいわみたいなね。
君主をしたい心でみんながまとまりますとかって言われた方がさ、やっぱりわかりやすいじゃん。
そうだね、黙ってね、先祖の書いた本をありがたやって読んで学んで、
その通りにやってた方がいいよね、絶対に。
だからね、やっぱりね、ある種飯が買えられなかったとか、
ちょっと貧乏だったみたいな話っていうのもやむなしみたいな、
そういう感じはあるんですけど。
まあね、レクイーンだからこそこんだけ壮大なっていうかね、
プラットなところが。
すごいね、ベクトルがここまでないっていうのもなんか面白いね。
さっきほら、こういう道とかって言っちゃうと宗教チックみたいな話もあったし、
さっきの病気の話みたいになっちゃうとちょっと信じろみたいな部分出てきちゃうかもしれないんですけども、
そうじてそんなに宗教感もないというか、
あまりベクトルがなさすぎて、これを信じろとかこうしろってあんまり言ってない気がして、
こういうものですよみたいなさ、
すごくある意味自然科学というかさ。
そうそうそう、だからね、まさに今自然科学みたいに言ってくれたけれども、
そういうこのゆかわ先生っていう日本の偉大な科学者、物理学者でノーベル賞を取った方が、
こういう相次の話にインスピレーションを持ってたとか、
こういう相次の話を好き好んで読んでいたみたいな話とか伝わってたりするし、
そういう、なんかこう、
マルシュ、なんか本当のこと言ってんじゃないかとか、
そこに真実があるんじゃないかみたいな雰囲気?
まあ、言葉の置き方がそうなってるんだろうね。
そこは解釈する人次第っていうね。
そこの上手さというかね、あるんだろうね。
そう、なんかまあ本当に仲良い人がいてくれとおりで、
受け手のやっぱり側にすごく左右されると思うんだよね。
だから僕はやっぱりそういう雰囲気でしか感じ取れない。
やっぱり理解力しかないからなんだけど、
物理の推移を極めた人とか、
マルシュまさに一芸を持ってる人っていうのは、
この相次のことを見たときに、いや、これのことを言ってたんだとか、
自分が思ってたまさにこれだったみたいになることもあるんだと思うんだよね。
やっぱりそれっていうのはマルシュ、
よくも悪くも西洋的なロゴスで切り分けていって、
これが正しいんだったかってことじゃなくて、
やっぱりこんな広がりがあるとか、こんな世界もあるよとか、
やっぱりこれはあることでもありないことでもあるみたいな、
そういうちょっと矛盾っぽい感じを含めて、
やっぱり説明しようとする世界観そのものも、
やっぱり豊かさにあるんじゃないかなっていうふうに思うんだよね。
そうだね。やっぱりそういう極端だけれども、
そういう例え話が多いっていうのもすごくいい気がするしね。
言葉で説明して世界を何とか例え話で残しておこうみたいな。
そうそうそう。
っていう感じで掃除編をやってきたと思うんですけれども、
やっぱり今僕も話して改めて感じたんだけど、
ゆうかだからこそ正しく理解しようというよりは、
それぞれが自分なりに理解して、
自分の人生が豊かになれば、
キクロはやっぱりOKかなと思って。
別に僕ら掃除学者でもないし、
それを正しく理解するというよりは、
いろんな豊かな世界観の中で、
道っていうものを無視というか気にせず生きていてもいいし、
気にして生きていてもいいんだけど、
僕にとってそれを理解することとか、
そういう世界もあるよねって思う中で、
物事を考えたいみたいな欲求があるから、
自分たちがそれをモットーに、
より豊かな世界で生きれるんじゃないかなっていう感じもしたし。
そうだね。解釈の自由さみたいなね。
こんだけ懐がちょっと広すぎるもんね。
ベクトル無いから。
だからこそ読み手受け手が、
そこに対して方向づけてあげるっていうのも大事なのかなって思った感じですね。
同じ人が読んでも違うんだろうね。
今日はソウジの漢字で思ったし、
今日はチョウの漢字で思ったって同じ人だよね。
そうですね。
ある種曖昧さも楽しんでいただきながらっていう感じだったんですけれども。
東洋だね、これはね。
一旦ここでソウジ編はおしまいでして、
次どうしようかなって思ったんですけど、
古代繋がりというか、
せっかく今やってるから、
西洋の中でもストア派?
ストア派?
ストア派。
ソクラテス、スクラトン、アイソテレスとかさらに時代は変わるんだけど、
それこそ1世紀、2世紀くらいなのかな?
1世紀、2世紀くらいなのかな?
想像力による話の展開
さらにちょっと前の人たちってこと?
いや、ソクラテスは後。
ソクラテスは2500年前だとしたら、
2千年前くらいの人たち?
人たちの思想を取り上げてみたいなって思ってます。
人たちの思想を取り上げてみたいなって思ってます。
以前お便りでも要望もいただいてたし、
いきなり西洋の近現代にしちゃうと、
ギャップがちょっと激しすぎるかなっていうのもあって、
そういう一個挟んだ上で、
また現代に近づいてくるみたいな。
面白そうだね。ある意味今回と同時代くらいの、
西洋はどんなことを考えたんだろうね、
みたいな話にもちょっとなるかも。
いいね。
次回への予告
ではちょっと流れで行ってみようと思うので、
次回はストア派ということで、
この人を取り上げますというよりは、
ストア派というよりはまた広く捉えてみたいなというふうには
今のところは思っているんですけど、
引き続き楽しんでいただけたら嬉しいなという感じでございます。
いいです。
今回浪子掃除ということで、
またふわふわとした結露のない世界に、
それはそれで疲れるんで。
次回はもうちょっと世界があるだろう、西洋と期待して、
楽しんでいきたいと思いますので、
次回も引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
54:04

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