1. 哲学の楽しみ方を探求する〜それ哲ラジオ
  2. #133 胡蝶の夢に見る、荘子独..
2023-08-02 41:49

#133 胡蝶の夢に見る、荘子独自の着眼点。「物化」と「斉同」を知る!

「それって哲学なの?」といった身近なテーマをきっかけに、哲学の楽しみ方を探求するラジオ番組です。


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サマリー

今回は荘子の独自の考えを通じて、物化と斉同の概念についてお話しいたします。荘子の道は物価と正道の二つの概念から成り立っており、それぞれのものが物に化けることと等しく同じであることを示しています。物価の考え方によれば、生きている世界と死んでいる世界は明確に区別されますが、どちらも道の働きによって構築されています。生命の世界と死の世界を相互に変える体験が存在する可能性があります。道と自己の関わり方、自己認識の重要性についてお話ししています。また、道を極めることと物化することは別の概念であるともお話ししています。相次の思想について議論し、次回は言葉をテーマに深めていきます。

荘子の道と物価
はい、それ哲ラジオ、今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
今回も荘子の続きということで、道ということをね、荘子の道が老子の道とどう違うのかみたいな話を前回していたんですけれども、今回はその道に縛られないと、どういうふうに付き合っていくのかみたいな話をしていくというところでした。
そうですね。今池さんが言っている通り、荘子の道というのはありとあられるところ、それこそ人間だったら目が背けたくなるような、いわゆる下ネタ的な部分というか、そういうところに浸透しているぜみたいな話があったんですけど、
その働きってもう絶対なことか、そこから人間というのは逃れられないのかみたいな話が出てきますよと。
人間は下ネタから逃れられないのかみたいな話。
飲み会の席の話になっちゃうから。道の働きですね。
そうした発想において、ちょっと言い切ってしまっていいかわからないんですけど、いずれにせよ、荘子の独特な考えとして、物価と正道というのがありました。
これはちょっと言葉が悪いのだけど、物価というのは物に化ける物、物に化けがく化けで、あと正道というのは一性とかの性に同は同じなんだけど、
一性というのは等しいっていう意味もあるから、等しく同じであるっていうことなんだよね。
なので物価というのは物に化けるとか変わることで、正道というのは等しくて同じことっていう話なんだけど、
これは何を示してるんですかっていうことを今日お伝えしていきたいんですよね。
相変わらずめちゃくちゃイメージしにくいですよ。普段は考えないし、そもそも普段はそういうふうに考えないから。
はいはいはい。
なので老子の時にやったように対立する概念から話をしていこうかなと思います。
はいはいはい。
ここでまた儒家を持ってくるんですけど、儒家に大事にされていた概念として、強化という考え方があるんですね。
強化というのは強くするんじゃなくて、教える。教える動物の強に化ける。
強化って言葉があるんですけど、これって要は道徳的なものなんだよね。
要は倫理とか、これは良い、善とか悪とか、そういうことを教えていって、
普通の人間を良い人間とか、社会に馴染む善良な人間とか、いわゆる聖人という道。
こっちの道は道徳の方ですね。世の中の倫理とかに通じた素晴らしい人間を作っていこうみたいな。
そういうのを啓蒙的な考えに近いかな。そういうのを強化っていうふうに言うらしいんですけど。
なるほどなるほど。
これっていうのは、社会的に良いこととか善みたいな方向性があって、
そこを目指してある種階段上へというか、一つの方向として進んで、
より良い人間になっていけますよみたいな、そういうプロセスなんですよね。
教育プログラムみたいな話だよね。理想があってね、目指す。
そう。なので、そういうのが強化っていう仕組みなんですけど、
そういう掃除の物価っていうのは、そういう方向性を持たない変化だっていうふうな話があるんですよね。
方向性、はいはいはい。
強化っていうのは、これが良いとか、これが人としてのあるべき姿っていう目的とか方向性があって、
そこに向かって、要は変化していくってことなんだよね。
荘子の道と正道
はいはい。
そう、でもブックにはそれがなくて、無秩序に変化、自由にあらゆる方向性に変化できますよっていうのが考え方なんだよね。
あー、はい、変化ね、はいはいはい。
そう、変化、化けるって話なんだけど、要は善がないから悪もないみたいな感じで、
普通変化って言うと、基本的にはより良くなりたいとか、こんな変化が起きたらいいなっていうふうに僕らって思うじゃないですか。
うん、まあそうだね、はいはいはい。
そういう仏基準を超えて、ただただ変わるみたいな感じ?
うーん、そうなんだ、はいはいはい。
そう、これが物価なんだよね。
うーん。
だから、そういったのは、いわゆる良い悪いとか価値とか倫理、これが善で悪いとかっていう、そういう基準とは全然違う、言ったら非道徳的なレイヤーで起きることなんですよ。
はいはいはいはい、そこ関係ない場所で。
道徳的っていうのが多分いいことで、反道徳的な悪いことだとした時に、もうそれを超えているみたいな感じのレイヤーですと。
はいはいはい。
この代表的な例が実は、そうじの第1回でもお伝えしたと思うんですけど、古長の夢ってやつね。
あー、なんかあったね、はいはい。
そうそう。これね、そうじが夢を見た時に、蝶々になってひらひら飛んで楽しんでますよと。
うんうん。
目が覚まされた時に、自分がそうじは蝶になったのか、蝶がそうじだったのかもしれないみたいな。
でもとにかく変化は起きてるよみたいな話で言ってたんだよね。
うん。
で、こっからが面白いんだけど、そうじは蝶とそうじの間には必ず区別があるんだって話を言ってるんだよね。
うんうんうん。
つまりその夢っていう、よくわかんないふわふわした世界でとか、
それでザジオでもよく言うと思うんですけど、いわゆる分別がないとかさ、一元論の世界みたいなのってよく言ったりするじゃないですか。
うんうんうんうん。
そういう中で、全ては一つだから、蝶々とそうじっていう存在は分かれないんだとか、一つになるんだっていうことじゃないんだよね。
うんうんうんうん。
今、文のクリーンが分かんなかった。
要は、分別がないとか一元論的な世界だって言ったらさ、別にそうじも蝶も一緒とかって言えちゃうじゃないですか。
うんうん。
で、結構こっちのM・Aとかを解釈する人も結構そういう観点で言う人が多いらしいよね。
あーそうなんだ。はぁはぁはぁ。
要は、蝶もそうじももともと一緒だと。だから時々によって蝶になったりそうじになったりするっていう風に解釈されることはあるんだけど、
うんうんうんうん。
要はそこに区別がないからね。でも実はこのそうじは、この古蝶の夢の最後で、蝶とそうじの間には必ず区別があるんだってことを言ってるんだね。
あーはいはいはい。そうじは、なるほど。そこには区別があるよと。はいはい。一元論的な世界ではないですよっていう風にそうじは言ってると。
そう。おっしゃる通りおっしゃる通り。
はいはいはい。
だから、そのあくまでも、この蝶とそうじっていうのは別の存在で、別の世界に生きてるんだけど、この物っていう働きがあることによって自前に変化ができるんだみたいなことを言ったりしているようですと。
なるほど。それはそれで謎だけどね。違うことは分かったけど謎だけど。
そう。ちょっとそこはイメージしづらいんで、ここからもうちょっと説明していくんですけど、これもイメージしやすい方からいくと、さっき言った通り、このラジオを聞いていただいている方だと、
無分別の世界みたいなのがあって、要は二元論じゃなくて一元論の世界があって、そこでは全て一緒だよみたいな感覚っていうのはちょっとずつ馴染んでいただいているんじゃないかなっていうのはちょっと思ったりします。どうだろう?
まあそうはね。前回、老死の時の道とか無とかも結構似たような感覚なのかなとは思うけど、あえてそこら辺は割ともうそれ手綱上的には自明のものとして扱っている感はある。
もちろん最近この回から聞きました方もいらっしゃると思うから。まずお話すると、普段というか専用哲学的な観点で言うと、やっぱり二元論みたいな世界できていて、
例えば主観と客観で、目の前の例えばマイクとファンの配置と人間はもちろん違うよねとか、目の前のマイクとパソコンとはもちろん違って、どう切り分けていくかっていうのがむしろ人間の理性とか認識の鋭さだよみたいな、結構そういう考え方があります。
一方で、要は自分とマイクっていう存在が本当に違うのかっていうと、世界の大体としてはまさに老舗の道みたいなところまでいくと、すべてはもう道なんだから、道が1になって2になって分かれたものだっていう意味で言うと、人間もマイクも一緒だよみたいな、そういう考え方もできますよねと。
それはどっちかっていうと一元論的なね。
人間都合でしょと、すべて認識でしょっていう話だよね。
もう物とか存在っていうものには変わらないんだからっていうのが一元論的な。
そうそう、どっちも存在だからねみたいな。
蝶々の夢と物化
要は分けるっていうのは名前がついた後の有名な世界の話だから、文明の世界、名前がつく、その特別がつく前の世界では全部一緒だみたいな話。
そういうのがありますよね。
仮にこの無分別とか一元論的な世界からね、この古長の有名な話をとられるとどうなるかっていうと、
蝶々と草地の上っていうかその外側に両者が、この2つの存在が一緒になって見える立ち位置みたいなものがあって、その観点からすると蝶々も草地も一緒だみたいな、そういう捉え方になると思うんですよね。
蝶々的なね、道でも無でもいいんですけど、神でもいいんですけど、そういうものがあってそこから見たら一緒だみたいな感じになりますと。
ただこれっていうのは実はすごく、それもまた概念的な立ち位置で、果たしてそういう立ち位置が本当にあるのかとか、
それを想像するっていうこと自体も一つのすごい大きなジャンプなんだよね。
確かに具体的に想像、イメージしろって絵に描けておいたら無理だもんね、それは。
そうそうそうそう。
その状態、蝶と草地が一つになったものを具体的に絵にせよって言われたら、その2つ描くしかないからね。
そうそうそうそう。
キメラみたいな感じでさ、なんか草地から金が入ってるみたいなさ。
でもそれは多分、草地の話とは違うもんね。ただキメラが一体この世に生まれたわけになっちゃうからね。
そう、そういうことじゃねえんだみたいなね。
うんうんうん。その難しさがあるってことだよね、こういった無分別とか一元論の話を。
そうそうそう。難しさがあるし、草地が言ってるんだというか、この解釈が大事なのは、蝶々と草地の外にある立ち位置っていうのは想定しちゃあかんのだっていうことなんだよね。
うんうんうん。
あくまでも草地として生きてる時が、草地として生きてるからもちろん蝶ではないし、もっと言うと草地では蝶であるという実感はもちろんないし、
仮に蝶であるとしたら蝶々である時は蝶々であって、もちろん草地であるという実感はないんだよね、当然。
うんうんうん。
だから起きた時に、私は蝶であろうかって思うことはできるんだけど、それはあくまでも蝶ではない草地を思ってるんであって、
そう思ってるからといって、別に草地であることと蝶であることがぐちゃっと一緒になったみたいなことでは全くないんだよね。
はいはいはい、さっきのキメラではないって話だよね。
キメラではない、あくまでも草地、もちろん自分が蝶だったらとか、蝶であったんじゃなかろうかと思っているっていう、あくまでも草地の世界の出来事ですと。
はいはいはいはい。
こうやってすごい当たり前の話なんだけど、でもこの理解がめちゃめちゃこの物価っていう意味を理解するのがすごい大事なんだよね。
そうなんだ、その草地の感覚ね、一元論ではないっていう感覚が今のような感覚だってことだよね。蝶の時には多分自意識はなかろうと。
自意識があってもいいんだよね、蝶々に。
あってもいいんだ。
蝶々に自意識があったとしても、自分が草地であるという感覚は多分なかろうと。
自己と道の関係性
なるほどなるほど。蝶だったってのは、草地である自分が蝶だったよねって思っているっていう話か、今の草地である自分だと。
なんかあれだね、ドラマとかでありそうだよね、二重人格でそれぞれの記憶がないみたいな。
はいはいはい。
そんな感じかな。
でもね、記憶ってのもめちゃめちゃ大事になってくるんで。
そうなんだ。
これもちょっと後で話しておきたいんですけど、もうちょっと物価について説明していくと、
要は物価ってのはさっき物に化けるとか変化するって話をしたと思うんですけど、ただただ他の存在になる可能性があるっていうことじゃなくて、
自分が生きている世界とか、世界との関わり、世界と自分の関わりっていうのが丸ごとそのまま別の世界になり変わる可能性があるよってことなんだよね。
ふんふんふん。
つまり、自分が蝶になるっていうのは、この体とか意識とかが蝶っぽくなるってことじゃなくて、蝶として世界で変わるんだみたいなことなんだよね。
ほうほうほう。
前回、道って世界の成り立ちとか、世界の隅々まで浸透している働きだったじゃん。
うん。
だった時に、自分が人間、あるいは草地として世界と関わる時の道の働きと、自分が蝶として世界と関わる時の道の働きって一緒なんだっけってことが考えられますね。
ふーん。難しくなってきた。はいはいはい。
だいぶ実学っぽくなってきたと思うんだけど、
例えば前回の話を引っ張ってくると、前回道は死蝶なりの話で、道はうんちにもしっこにもあるんだぞみたいな話をしたじゃないですか。
うんうんうん。
これってそのさ、糞尿が要は血糖だとか存在として劣ってるっていうのはすごく人間的な受け取り方なんだよね。
うんうんうん。
で、例えば虫とか動物によっては全然そうじゃない。要はそれは自分を生かすためのご飯だとかさ、
はいはいはい。
生かすための袋柄みたいな話もあって、
うんうんうん。
世界はどう成り立ってるかっていうのは、結局自分がどんな存在で、どんなふうに世界と関わり合ってますかっていうとめちゃめちゃ関連してるんだよね。
あーなるほど。はいはいはい。それがあれか、自分が今の例えでいうと、
蝶児である、人間である時の自分と蝶である時の自分の道が変わるっていうのはそういうことか。
うん。
はいはいはいはいはい。道が変わるっていうのは、道自体が変わってるっていうよりは自分の認識が変わってるみたいな感じだよね。
そうそうそうそうそう。認識の関わり方が変わるっていう感じかな。だからあくまでも自分という存在はすごく世の中に開かれていて、道があらゆるものに浸透するってこと自体は変わんないんだけど、
はいはいはい。
その働きがどう自分に働きかけてくるかとか、自分の中で立ち現れてくるかっていうのは、実は変わる。
なるほどなるほど。はいはい。そっか、最初聞いた時に道自体が変わるのかと思ったけど、違うんだね。道は一定で、
そうそうそう。
こっちの関わり方だったりとか、認識だったりとか、道が持ってる意味みたいなものが変わってくるよっていう話ね。
そうそうそう。まさにそういうこと。
今の自分にとってと。はいはいはい。
だから、自分と道っていうのが全く違う存在として何かべっこりあるんじゃなくて、だいたい道の中で自分というものが存在している。道と共に存在しているっていう考え方とかあるんだよね。
なるほどなるほど。はいはい。そこ抜きに自分だけみたいなのって確かに成り立たないかもね。
そうそうそうそう。
相対的に自分、道ってものは不変だとすると、それと相対化するものとしての自分みたいなものは常にある。相対化される方は全然違うみたいな感じか。
はいはいはい。
そうそうそうそう。だから、この辺まで来ると結構僕自身の解釈というか、割とこの思いが乗っかってきてる部分はあるんだけど。
はいはいはい。
そうそう。だから、ただこちょうの夢で、そうじがちょうで、ちょうはそうじでみたいなのは、なんとなく前後不覚になってそんな夢で出ちゃいましたとかではないですか。
うんうんうん。
そうじという人間として生きるこの世界と、こちょとしてある種ひらひら漂って生きるその世界っていうのは全然違うんだけど、でもやっぱり両方あるよねっていう。
はいはいはいはい。
そこが、なんかのきっかけで自分がちょうちょうの世界でちょうとして生きるっていうことも否定できないよね、その可能性自体はっていうことをずっかとして言ってるんだよね。
うーん、そうなんだ。へー、それはわからないけど。
そこが現実的にとか科学的に考えたら多分ないんだけど。
うんうんうんうん。
実はね、たとえばリーネ天章の中でとかさ、たとえばね。
うんうんうんうんうん。
そういうふうに開いていくと、たとえばわかるよねとか。
はいはいはい。
実はさ、これご存じの方もいるかもですけど、サスカっていう作家の中に変身っていう本があるの知ってるかな。
うんうんうん。読んでることないけど名前は知ってる。
そうそうそう、朝起きたら虫になっちゃってるみたいなやつなんですけど、あれも主人公は虫になりつつ人間社会の中で生きていくんだけど。
うんうんうん。
虫に変身、要は育ったっていうことと、育ったら世界との関わり方も虫として伝わらなきゃいけないっていう、そういう世界が立ち会われてくるんだよね。
はいはいはい。
で、余談なんですけど、やっぱりカフカは老子とかソウジの本を読んでたんじゃないかみたいな話があるらしくて、実際そういうアイディアがどこまで盛り込まれてるかわかんないけど、
やっぱりこのソウジの物価とか、そういう世界と自分の関わりたいところっていうのはすごく共通しているものがあるんじゃないかなっていうふうに思ったりしますと。
はいはい、なるほどなるほど。オマージュかもしれないと。
そうそうそうそう。
で、ここではさ、今超人間だから全然あり得ないよねとかって感じだと思うんですけど、
でもやっぱり、仮に自分っていう観のハヤトっていう存在を変わらないとしても、この存在と世界との関わり方を変えることで、まさに違う世界で生きるみたいなそういうことがあるんじゃなかろうかと思ったりするよね。
うんうんうんうん。
で、これもね、ちょっと1個エピソードとして持ってきたんですけど、ソウジの中にある話だよね。
うん。
たまたまね、ソウジが、いわゆる生きている世界と死んでいる世界っていうのを主役したみたいなエピソードがあって、
へー、はいはい。
ソウジがたまたま見つけたこう、ドクロ、ガイコツを真っ暗にして眠ったときに、ガイコツが夢に出てきて栄養をしたんだみたいな話があるんだよね。
そうなんだ、まあその前提はおかしい気がするけど今からすると。
なんかね、それぞれあったことらしいんだけど、ガイコツを供養というか弔ったときに真っ暗にするというか、一緒に寝るみたいなね。
はいはいはいはい。
そう。という中で、ガイコツからお前死んでいる世界のことについて知りたくないかみたいなことを言われて、
うんうん。
知りたい知りたいっていう対話をした場面っていうのがあるんですよ。
うんうんうん。
ちょっとね、それを紹介してみたいんですけど、
うん。
そうじゃないですか、死んだ世界のこと聞きたいよっていうと、ガイコツさんは、死んだ世界においては、上に君主とか王様がいなければ、下に民衆っていうのもないよ。
要は上下の身分っていうのもないし、
生きている世界と死んでいる世界
うん。
うん。
まくせく仕事をする必要もないし、穏やかな時間を過ごせるんだよと。
うんうんうん。
これには生きている王様、要は人を導くとか支配するとか、あるいは贅沢をするとか、
うんうんうん。
そういう王様を楽しむのかなわないんだよっていうふうにガイコツさんが言うのね。
はいはいはいはい。そっちの世界にお前いいですよと。
そうそうそう。いいもんですよと。
うん。
でもそうじゃやっぱ信じずに、じゃあ私が神に願ってあなたを再び生き返らせてあげようと。
うんうん。
で、じゃあ家族とか友人の手に返してあげようって言ったら、あなたはどうしますかって言ったところ、
うん。
ガイコツさんは眉をひそめて、いやいやと、王様にも勝ってる楽しみを伏せて、
再びね、人間世界のこの生きている大変さっていうのを繰り返すなんてあったらごめんだぜって言ったんだっていう話があるのね。
うんうんうんうん。
で、これだけ聞くと掃除でそれを取り上げてるっていうぐらいだから、掃除はね、死んでる方が生きてるよりいいんじゃないかとか、
だからね、生命の辛さよりも、死の楽しさっていうものを従事してるんじゃないかとか、
そんなふうに言ってるように感じるし、
うんうんうん。
実際ね、そう解釈されることも多いらしいんですけど、
あ、そうなんだね。はいはい。
これはさっきの蝶々と掃除の話とか、物価の話に引き寄せて見てみると、
結局は生きている世界も死んでいる世界も存在し得るんだと。
生きている僕らは生きている世界のことしかわかんないから、死の世界のことはわからないし、
死んでしまったガイコツさんからしても、仮に過去生きていたかもしれないけど、
例えば死の世界に、死の世界で生きてしまっているから、生きているか存在してしまっているから、
やっぱりその生の世界のことはわかんないんだと。
はいはいはい。
ただそれが相互に変わりうる。
例えば人間は死ぬことは間違いなく死ぬんだけど、
その時に死の世界に行くっていうことは多分あるだろうし、
もしかしたら死んだ人がまた生まれ変わって生きるっていうこともあるかもしれない。
っていうふうに、いわゆる自分が生きている世界が丸ごと変わるような体験っていうのは、
おそらく世の中にある。
はいはいはい。
これが物価っていう考え方から出てくる世界観なんだよね。
うんうん、なるほどなるほど。
どっちがいいとかじゃないよって感じだよね。
そうそうそうそう。
これもね。
うんうんうんうん。
なので、実は生きている世界もあるし、死んでいる世界もあるし、
道の働きによる世界の構築
でも生きている自分は生きている世界としかわからん。
死んでいる自分は死んでいる自分しかわからんみたいなことが、
さっき、今日伝えたかった2つのキーワードである正道なんだよね。
あ、そうなんだ。
ここで出てくるんだけど。
あ、そうなんだ。
等しく同じっていうのは、別に蝶と草地とか生きていることと死んでいることが同じなんだっていう話じゃなくて、
あくまでも生と死は明確に区別されるし、全然違う立ち方で成り立つんだけれども、
やっぱりそれが一つの世界を構成している。
要はそれは道なんだけど、道の働きによって世界として構築されているってこと自体が同じだよと。
うんうんうんうん。
で、やっぱり道自体は生きている世界でも死んでいる世界でも蝶々の世界でも草地の世界でも働いてるんだけれども、
道と自己の関わり
まさに兄貴が言った通りその働き方とかそれがもたらす意味っていうのは違うんだと。
はいはいはいはい。
だから草地の道に乗っ取って過ごすっていうのは、生きている時には生きている世界に安住して、死んでいる時には死んでいる世界に安住する。
別に生と死のどっちがいいとか、死んでいる方が楽で生きている方が苦しいとかじゃなくて、
それぞれの世界のある種道に乗っ取って蝶々して生きるしかないんだと。
はいはいはいはい。
っていうようなことが草地の道からこういう仏化とか正道っていう考え方を取っていくと、言えるんじゃなかろうかみたいな感じなんだよね。
なるほどなるほど。
さっきの蝶と人間か、自分の草地の話を聞くと生きている死んでいると全く同じだもんね、確かにね。
そうそうそう。
一つの世界を見た時に生きている世界に生きている人はやっぱり今の方がいい。
例えばウンチ、おしっこ、虫とかは好きかもしれない、食べるかもしれない。
たぶんにんにく臭いから虫はゴミみたいな話があって、それと同じだもんね。
そうそうそうそう。
やっぱり生きているにんにく化したら死んでいる状態ってゴミというか嫌な状態なんだけれども、
裏返して死んだ状態の人がそこの世界で生きたとすると、その状態の方がやっぱり心地よいというか、
やっぱりそういう世界観っていうのは、虫でいうウンチ、おしっこ、ご飯だみたいな。
そうそうそうそう。
その道との相対化された状態というか、立ち位置だよね。
そこに対する自分の意味付けというか、感じる感覚みたいな。
そこが同じ道を見たとしても、生きていると死んでいるで、そういう風に違ってくるんだよと。
っていうのをさっきのエピソードで、死んだ人はもう生き返すって言われたとしても、嫌だっていうのは、
人間がウンチ食えって言われて、うまいよって言われて、食べる食べるとは言えないっていうのと同じような感覚だってことだよね。
死んでいる外骨からすると。
そうだねそうだね。
やっぱり同じものを見ることができたとしても、見方とかそれを見た時の受け取る意味っていうのが全然違うというか、
どうしても生きている人が生きている側からしか見れないし、
仮に死んでいる人がウンチとしたら死んでいる人の側からしか見れないし。
はいはいはいはい。
そこっていうのは区別があるんだけどって言われたんだよね。
ただ実際は世界観として、一致としては同じだよっていうのが正道って表現してるってことなのかな、そこ。
そうだね。
成り立ち方とか、世界が人と人と成り立っているっていうこと自体は一緒だよっていうのが正道って感じかな。
はいはいはいはい。
それぞれの世界観の成り立ちが同じだっていう。
そうそうそうそう。
世界が同じとかじゃなくてね。
はいはいはいはい。
そうですそうですそう。
これはちょっと僕自身の考えというか、
そうですけど、やっぱりこうやって生きているとか死んでいるとか、人間と超っていう、
その全く違うものとかじゃなくて、やっぱり人間同士でもあるし、
自分の中でもあると思うんだよね。
よくあるじゃん、よくあるじゃんってなってるんだけど。
要は重い病気をして、例えば自分がいざ死ぬかもしれないとなると、
やっぱり世界が輝いている。
輝いてというか、やっぱり自分が世界というの変わり方が変わったとかさ、
いいねいいね。
そういう形が変わったみたいな話があったときに、
それも一つの世界の変化とか物化だと思うんだよね。
はいはいはいはい。
自分が生きている世界とは全然違う世界が本当はあって、
その世界に行くとやっぱり自分という存在自体が生まれ変わったように感じるみたいな話。
というのはやっぱり全然あり得ると思うんだよね。
はいはいはい。
環境とかをガラッと変えるみたいなのも物化の一つかもしれないって話だね。
そうそうそうそう。
ちょっとキャラ変えてみるとかね。
変えてみるというか、変わる変わられないって感じだと思うんだよね。
ああ、そっか感覚としてはそっか。
どっちが先かみたいな話はあるかもしれないけれども、
これね応用編になっちゃうからね、そのどっちが先かが難しいけども。
うん。
そっかそっか。
やっぱりその世界の中で生きているというか、
特にその世界に順応する自分になろうと思うと、
やっぱり結局キャラを変えづらいとか、
他の人から見たらあいつキャラ変してみたいってなるかもしれないけど、
そこに行かずやっぱりそこには切実な理由がある。
うんうん、なるほど。
自己認識の重要性
そういうこともあるって感じね。
はいはいはい。
まあ確かにさっきのね、大病をするとかの方がわかりやすいかもしれないね、例としては。
そうそう。
確かに確かに。
なので、やっぱりその前回から道とかこういう物価制度って話をしてきたんですけど、
この操縦の道っていうのは、やっぱりそのある種の道を極めるというのは必要なんだよね。
道に通じて、その世界と自分の関わり方っていうのが深く深くやっぱり理解、
ちょっとこの経験しなきゃいけないと。
ああ、はあはあはあ。
ただそこからやっぱり逃れるとか、
調和した後に、その調和をあえてずらそうとした時に、また違う世界が開ける可能性があって。
おお。
うん。
そこがまさに前回問い通して出した、要は道から逃れられるのかとか、
はいはいはいはい。
道っていう働きを超えることができるのかって話なんですよね。
それにいくと、道の働き自体はやっぱりどの世界にもあるから、
それそのものからやっぱり離れることは多分難しい。
うんうんうんうんうん。
でもあくまでも、今生きている自分とか、
このカンパイアトという自分に対して働いている道をちゃんと捉えてとか、
そこと調和して、さらにそれを乗り越えるとか、
違う世界に生きていくってことは多分できる。
なるほど。はいはいはい。
それはどんなあり方なんですか?
実際どういう感覚なんですか?って言われたら、さすがに僕も分かんないんですけど。
うんうんうんうんうん。
なるほど。でも、そうか、それで言うとあれだね。
今回は武道の話みたいなのも出てきたけどさ、まさにシューハーリーじゃないの?まさに。
まあね、そうね。多分そうとも言えると思う。
自分があらゆるものに、あらゆる道に対してシューハーリーってものが潜んでいると考えると、
すごく今回の話が納得性が高い気がするし、
その掃除の、多分俯瞰で見る感じとか、
やみくもに何かの理想に行くわけではないっていう、
この掃除のちょっと冷静さみたいなものがすごく、
実際そうなのかは知らないけどね、勝手に感じてるだけなんだけれども、
その種だよね、まずはその道と自分の距離みたいなものをきちんと自己理解だよね、自己認識。
よく自己認識と他者評価のギャップみたいなのがあると思うんだけど、
そこのギャップをすごく少なくしていくみたいな話がすごく種に近いかなと思ってる。
自分はその中で今どういう場所にいるのかっていうものを冷静に見る視点っていうのがこの掃除には備わっていて、
それは種。で、ハーっていうので、
じゃあ達人の域に達したとして、もしくはかなり道を極めたような感じになったとしたときに、
そこをどう壊していくのか、自分は。そことどう付き合っていくのか。
で、最後リーダーよね。そこからどういうふうに自分はまた次の道に進んでいくのかみたいな。
なんかね、それがその理想じゃなくて、やっぱり道。
道っていう概念からすると、やっぱりその宗派という概念がすごくすんなりはまる気がして。
それがもうあらゆる自分の人生にもそうだし。
例えばさ、早藤さっきの大病をしてさ、例えば動けなくなった、足が満足動けなくなったみたいなことがあったときに、
そうするとやっぱりすごくきついじゃん。今まで歩けてたし、運動もできてたけど歩けない。その状態だよね。
それってもう、ある意味物価というかさ、蝶になったみたいな話じゃん。
その世界から見える世界っていうか、その道との関わりが一気にガラッと変わったときに、
道を極めると物化することの違い
今ってこの道何なんだろうっていうところをすっ飛ばして、
やっぱり無理にさ、いきなり歯だよね、宗派でいう歯だったり、そこから離れる。
やっぱり自分の立ち位置を知らずに蝶が水に潜れるかという話で、
やっぱりその自己認識がずれたまま蝶がさ、水に入ったら死ぬじゃん。
だからそこの順番、道とは何か、自分はとは何かってやった上で、どう付き合うか、離れるか、その上で。
だから蝶ももしかしたら泳げるかもしれないんだけれども、自分には翼があって本来は飛ぶと、
呼吸もすると、そういうところを認識した上で、どう水に潜っていくかという順番がないと死ぬから、一瞬。
破綻するから、世界が。
そういうのをすごくやみくもにいかない、冷静に自分と道との距離、世界との距離、環境との距離みたいなものを教えてくれるというか、
その感覚大事だよって言ってくれてるような気が、これは個人的な感想だと思う。
すごい知ったかな。
今大英生って言ってくれたので、自分の中の違和感も強いんだけど、
兄貴がしゅはりって言ってくれた時に、直感的に何かちょっと違うって思ったのね。
それは何でかって今聞いてて思ったのは、
確かに僕も今道っていうのはそういう良い方に変化していくとか、望ましい方向に行くみたいな話をしたんだけど、
話があった通り、物価っていうのは無秩序とか、方向性がないって話をしたじゃない。
あったね。
望ましい方に行くっていうのはもちろん道を極めていくことではあるんだけど、
それで全然いいというか、多分それを目指す方がいいんだけれども、
この相次の根本にある物価自体は無秩序だしカオスなんだよね。
そうなんだ。じゃあ極めるっていうのはまた違う感覚なんだ。
それがいいとかは、それは極めた方がいいとは言ってるの?相次は。
養生するって言葉は全然別のものなんだけど、
極めるって言うと要は優れていくみたいなことだから、
道判断が出てくるじゃない。一瞬になっちゃうじゃない。
養生するって言うのは道とただただ調和するとか、ただただ道に馴染んでいくってことだから、
それがいいかどうかっていうのとはちょっと違うんだよね。
なので相次の根本にあるのは別に馴染むのは大事なんだけど、
それが世の中にとってとか自分にとっていいかどうかっていうのは別だよねっていう考え方ですと。
馴染むこと自体がね、まずは。
ちょっとこれ、また次回これも言おうと思ってるんだけど、
物価が究極の姿になった時にどんなことが起きるかって言うと、
さっき言ったようなキメラみたいになっちゃうんだよね。
そうなんだ。はいはいはい。
でもそれでもOKってするっていう世界観があって、
そこまで聞いていただくと、ただただ道を極めましょうとか、
相次の思想とその特異性
熟殺していっていい人間になりましょうっていうのとはまた違う、
もっともっと広い世界観としての相次っていうのが伝わるんじゃないかなって思いました。
おー、はいはい。そうだね、確かに今ね、
物価自体が変化の方向っていうのは規定しないよと、
何か良いというか善とされる方向か、
そういうわけではないっていうのは、確かにそこをちょっと抜けてたから。
その辺りが分かると、逆に他の思想家とか哲学者とは全然違う
発想と概念で見てた人なんだろうかみたいな。
でも話しながらやっぱり相次すごかったんじゃないかって思ってるんですけど。
おー、はいはい。そのフラットな感じみたいなものがまだまだあるってことはね、相次には。
そうそうそうそう。
ちょっとこの引っかかり感というか、
あんまり単純にだから相次はいいんだとか、相次はこういうことを推奨していたのとかってことじゃない感覚を大事にしながら、
ちょっと次回ですね、また色々お話ししていきたいんですけど、
次回相次編の最後になるんですけど、テーマとしては言葉っていうのを大事にしたいと思って、
今日も言葉とか有名無名みたいな言葉を超えてとかって話が出たと思うんですけど、
相次自身の言葉とか何かとか、言葉で表現する意というか、自分の思いとか想念みたいなものって何かとか、
それって表現し尽くせるのかとか、そういう議論をしてるんですよ。
へー、そうなんだね。
こっちはやっぱり世界と言葉って切っても切り離せないというか、言葉によって世界を形作るみたいなところもあるから、
その辺の話を今日の最後の物価とかの話とも引き付けながらお話すると、
よりなるほど相次ってそういうマークなのねみたいなことが伝わるんじゃないかと思うんで、
次回は言葉というのをテーマにして、相次の地方をもっと広げて深めていきましょうという感じでございます。
次回のテーマは言葉
おー、了解しました。なるほど。
じゃあ次回は相次の言葉の道だね、とは何かって話だね。
言葉。
違うの?言葉の道じゃないの?
言葉の道じゃないと思う。道はちょっと今、その分析だといろんな意味がありすぎてちょっと難しいから言葉にしようと。
はい、わかりました。
じゃあ次回、今回は個人的な感想としてはちょっとプラスな感じに思っちゃったんだけれども、
もうちょっとフラットな感覚でさらに相次の器の広さみたいなものを感じていけたらいいかなと思ったんで、
じゃあ次回も引き続き楽しんでいきたいと思います。
では次回もよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。
41:49

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