地域のコミュニティのために働くとか、町内会でもいいし、集まりでもいいんだけど、それもいわゆる労働になるの?ここでいう。
そうだね。実はそこ、今日のテーマにも関わるんだけれども、それ自体が人と交流するのが楽しくてとか、本当に地域に貢献したくてみたいな、
そういうところに行くと、それは労働じゃない、むしろ活動に近いとか言えるかもなんだけれども、
例えばマンションの管理会とかでも、地域会でもいいんだけれども、組長になって、
なんか俺は組長だとか、私は管理してこんな仕事をやってるぞみたいな。役割を持っているぞみたいな。
そういうふうになっちゃうと、やっぱり仕事っていうふうに囲まれているというか、困られているというか。
例えば町内会とかで、町内会長がいたとしてさ、次町内会長やってくれる人見つかんないから、もう5年ぐらいやってるんだけどみたいなのは、もう労働になっちゃうみたいな。
そうだね。その人がもう、しんどくて渡したいけど渡さないとかだと、労働とか、自分の自由はないよね、そこにはね。
そこはね。
やっぱり同じ活動でも、心がけによって違うっていうのは結構大事なポイントではあるんだけれども。
それが労働ね。
あともう一個が疲労社会かな?っていう話だったと思うんですよね。
いわゆる、仕事っていうものに対して、もともとはね、やらされているとか、やらされ仕事って言葉自体は今もあると思うんだけれども、
一部仕事を区切ったときに、やらされてるからじゃなくて、自分のもっと可能性を実現するためにとか、
もっと頑張ったらできるから、そこに向かって頑張るっていうことが尊いとか、そういうふうな文脈もありますよね。
はいはいはいはい。
もちろんこれも、前回話したとちょっと反省したんだけれども、別にそれが良い悪いとか、逆にやらされ仕事が良い悪いとかっていうことでもないよねっていうのは思っていて。
あくまで現状をどう見たかの話だもんね。
そうそうそう。そう考えたときに、昔それこそ50年前とか100年前を考えると、基本的にはそういう、もっとできるとか、パフォーマンスを発揮することが良いみたいな話ってそんなになかったはずだよねと。
なかったはずなんだけど、最近そういった価値観とか、そういった言葉っていうものが広まったときに、
そこに自分で自分を張り立っているというか、結局止まることができない、そういった疲弊する、疲労する人間みたいな、そういうものを見てるんだよっていうふうな話をしたと思うんですよね。
はいはい、いわゆるバンアウトしてしまうよみたいなね、ことがあるよみたいなね。
そうそうそう。そうなんですそうなんです。
っていうところがあるので、そこも含まれて、今のこの働くってことを見たときに、ちょっと社会が暗い感じに聞いとれるよねみたいな話をしたと思います。
さっき兄貴が言ってくれていた、「とはいえさあと、同じ町内会長をやるにしても別に仕事であれなんだよ、そうなんだけど、それって仕事なの?それとももうちょっと自由度がある活動なの?」って、当然その中身を見てくると全然違うはずなんですよね。
もっと言うと、その中身をちゃんと見ていくとか、ここに切り込んでいくことが大事なんだけれども、その見方っていうことにもいろいろな観点があります。
今回はその第1回でも取り上げた、ハンナアレントの労働、仕事、活動のうちの活動っていうもの。
もっと言うと、仕事と労働っていうものと活動って何が違うのっていうことを踏まえてお話しようと思っていますが、ひとつと。
たまたま、これちょっとあえて伏せるんだけど、その後でちゃんと話すんだけど、いろんな候補を読んだりとか、人と話をしているときに、「あれ?この人、かなり働くと哲学にフィットするんじゃない?」っていう日本人がいたのね。
ちょっと後半、その人の話にも触れることで、今回は働くことと哲学みたいなところのテーマの最後にしたいと。
これ、たぶん皆さんも名前は知ってる人だと思うんですけど、ちょっと意外かなと思うんで、あえてちょっとプライズとして後半にとっておこうと思ってます。
お楽しみにね。
お楽しみにという感じです。
早速ちょっと反応ある程度のところから入っていくんですけれども。
まず、労働・仕事・活動に分けたよっていう話は何回かお伝えをしていて、改めて言うと、労働っていうのは本当に生きるために必然的にやるもの。
それこそ食べるとか寝るとかも含めたんだけど、食べるっていうのも高安とかっていうこと以上に、本当に狩猟採集的なイメージだよね。
何か仮に農業とかやってるとしても、育てることが楽しいとかってことじゃなくて、ただただ生きるため、食うためにやりますみたいな。
そういったものを労働っていうふうにまず言いました。
ここで言うと、人間のある種の自由、それが大事だっていう前提が反応ある程度にあるんだけれども、
自由ってものがなくても生きることに縛られているというか、そういった状態ですっていう話なんだよね。
仕事っていうのは自然にないものだよね。
いわゆる、木の実、リンゴを摂って食べますっていうのは労働なんだけれども、
例えばリンゴっていうものをいろいろ品種改良をして、より甘くしますとかさ。
例えば自分の作品としてもリンゴとかみかんを作りますって言葉が現代にあるわけじゃない?
っていうときに、それは仕事になりますと。
つまり人工的な何かを作り出す。
生きるためよりもちょっと違うレイヤーで、ものにふたり触っていく。
そういうことを仕事っていうふうに言ったんだよね。
今だと、よくある無形商材とか有形商材って感じです。
いわゆるサービスだよね。
ものじゃないんだけれども、仕事によって関わることってあるじゃないですか。
これに関しても、これがあるから仕事と活動っていうのが若干入り込みやすいんだけれども、
ある種、一定の自由度がありながらも、そうはいえ本当にやりたいことではないとか、
ものを回避してるわけじゃないんだけれども、
マニュアル人間とかさ、これってもうちょっと10年前くらいの話なのかな。
マニュアルにしたかったことしかできないとかっていう話もあったと思うんだけど、
そういうのは、ある種、仕事だけをしているとか、
もしかしたらちょっと労働に近いかもね、働くために、お金をもらうためにだけに生きてやっているみたいなことに、
仕事と労働の差がありますというような感じなんだよね。
今日のメインテーマはこの活動なんですけれども、
これがいわゆる反乱と言わせると、唯一の自由の領域にある行為だっていうふうに言うんだよね。
ここで結構大事なのがですね、この活動っていうのの前提には、
第2回からお伝えをした、古代技術者の発想がめちゃめちゃ入ってるんですよ。
これもちょっと思い出していただくと、
ここで仕事ってある種、安いものというか、市民じゃなくて奴隷がいるものって話だったじゃないですか。
その時に、反乱へとの発想の中に、古代の技術者に帰るとは言わないまでも、
そこを理想にするみたいな発想が結構あるらしいんですよね。
なので、基本的に仕事っていうものは、自分の行為の中でできるだけ切り離すというか、
やってもいいんだけど、なるべくそこに時間を割かないとか、できることはやらないほうがいいぐらいの感じなのね。
へー、そうなの?
いかに活動に身を置くかなんだけれども、この活動が何かっていうと、
いわゆるものとかを介さずに、人と人同士が繋がり合うとか、お互いを表現し合うとか、
そういうふうなことを活動だって言ってるんですよね。
これってつまり、古代技術者でいうところの政治というか、まさに哲学的な議論とかだよね。
ポリスで市民が対等にお互いの意見を交わし合うとか。
議論し合って、その物事をより良くしていくっていう目的はそうなんだけど、
それこそが自分の義務であり、やりたいことであるみたいな。
そういったことがトータルに実現できる状態っていうことを、ある種の活動の理想だっていうふうに置くんだよね。
へー、そうなんだ。だから、古代技術者のそっち側、政治だったりとか広場で喋るみたいな、
対話するみたいな話って、第1回でもう一個なかったっけ?
実生活と関係ない…
感想的生活ね。
感想だっけか。そっち側には行かないんだ。
ハンナ・アレントさん的にはね。
これは良いポイントで、要は感想的って言われる、
よりイデアがプラトンが立てた理想の世界、そっちにつながっていくっていうところなんだよね。
今の話で、市民が広場で議論をしてるとかっていうところは、イデアに近づくよりは、
もうちょっとアテネの運営とか政治っていう方を主軸にしてるのよ。
ああ、なるほど。別にアテネで広場に集まってる全員が徹夜に対話してるってわけじゃなくて、
普通に今このアテネをどうするかとか、あの人が年老いた、そういう話をしてるっていう想定ね。
そうですそうですそうです。そういう状況。
なので、もう少し真理とはとか、哲学的にイデアとはみたいなところで、
自分の前、アリスト的に言う前だよね。
それを追求したいから追求するとか。
そういうことに身を通してるのが、より感想的生活っていう感じなんだけれども、
もうちょっと現実的なレベルでいくと、
自分の地位を高めたいとか、自分の意見で国をより良い方向にしたいとかってあると思うんだけど、
別にそれも悪いわけじゃない。
それをある種、やらされて、誰かに言われて不自由にやってる人と、
自分のアテネ市民としての自由に基づいてやってるってところには差がありますよね。
そういうところで違いを分けてるんだよね。
これが現代になるとどうなるかっていう話なんだけれども、
当然ね、今はさ、今というか、
ナルトが生きた時代って20世紀、1900年に生きた人ですけれど、
1900年代に生きた人ですけれども、
当然その色んな国際社会っていうものがある中で、
1個の閉じられた世界じゃなくて、
いわゆるグローバル化していく世界っていうものをどうするかって、
そういうふうな議論があった時代なんだよね。
特にやっぱりアレントさんってユダヤ人でドイツに生まれた人だから、
戦争時には捕虜にもあって、かなり大変な経験をしてる人ですと。
なるほどね。
いわゆる芸術とかだと、表現者と受け手がいた時に、結構受け手側の自由だよね。
受け手側が勝手に価値をつけたりとかしちゃうっていうことは起き得るんだけれども、
言葉だとそれは起きづらいみたいな感じなんだね。そのまま届きやすいみたいな、表現者の思いとか考えが。
ただね、届きやすいっていうのもあるし、消費されにくいっていう感じだよね。
そういうことかっていうと、すごい現実的な感覚で言うと、
例えばコンビニとかファーストフードでもいいんだけど、そういうお店に行って、
やっぱり目の前の人とかレジの人とものすごい個人的な関係になろうかって普通は思わないじゃん。
もちろんめちゃめちゃ好みとか何度回ってたかってのはなるかもしれないけど。
それが何かって言うと、やっぱりその人の言葉ではないしとか、
その人が何かを表現してるわけじゃないからなんだよね。
今日の話の流れでいく。
でも、いわゆる自分を表現して、自分はこれこれこういう人間であってとかってことをぶつけたときに、
受け手の方も何かを受け取れるっていう、そういう場があるっていうふうに考えるんだよ。
そうするとやっぱり、人と人が大抵の対等な関係で結ばれ合うとか、交流し合うとか、
そういうふうなことがちゃんとできるよねっていうふうな前提があるんだよね。
ここってイメージ湧くかな、その違いというか。
まだちょっと湧き切っていないかな。
それで言うと、やっぱり人によっては音楽だったりさ、絵画だったりとかで表現したい人もいるんじゃないかなーみたいな思うけど、
それだとやっぱり違うの。さっきの勝ちづけされたりとか、ちゃんと伝わらないみたいな。
やっぱり行為の一部だったりか、そこに含まれるものっていうのは大事かなと思います。
行為の?
行為に含まれる意図とか、そこに含まれる表現が大事かなとは思っています。
例えば、ハンダ・アーレント自身は言葉っていうものがめちゃめちゃ大事だっていうふうに言ってるんだよね。
なるほどね。あくまでハンダ・アーレントの話ね。
ただ、兄貴が言っている通り、それを音楽に置き換えられないのかとか、絵画とか写真とかに置き換えられないのかっていうと、置き換えられる可能性はあるとは思います。
これは僕自身がね。
それを本当の意味で受け取れますか?
その写真1枚、音楽1つっていうものから、それに基づいて人と関わり続けることができますかっていうと、結構難しいよねとは思うのよね。
なるほどね。どうしても今のようなお金中心のところだと、さっきハイトが言ってたように価値に結びついちゃうことが多そうだね、確かにね。
そうだね、そうだね。もちろん言葉もしっかりで、こういう主張をするとか、こういうふうに言うと、例えばいくら稼げるみたいなものが。
もしかしたらコピーライターって仕事はちょっと違うよ、もちろん違うけれども、言葉を仕事にするっていう意味ではそういう仕事ももちろんあるし。
芸術の側に行っちゃうけどね、言葉をそういうふうに操ってる方だから。
それはもちろん古代のギリシャでも、いわゆるソフィストっていう人たちは別に自分の表現というよりは、いわゆる詭弁化と言われてさ、言葉を使って人を倒すことで良い影響を得るみたいなこともいたわけだから、
現代だけじゃなくて当然古代からいるわけではね、言葉を牢するというかさ。別にコピーライターはそう言ってるわけじゃないんだけど。
ハンダ・アーレンと言わせると、やっぱり自分の言葉というもので、私がこう思うということを自由に伝えていくとか、
それによってこれまで世の中にない新しいものを自分から始めていく。新しさって別に、他の人らやっててもいいんだけど、
ある種この自分の独自性、自由って独自性とか個人性ってことをかなり結びついているから、
そういった自分自身を表現するっていうこと自体に新しさがあるっていうふうな繋がりがあるんだよね。
そういう新しさっていうものを表現していきましょう。それで表現するだけではダメで、
それは他者に受け取ってもらって初めて、それが世の中に出ていくから。
そういうふうに他者と関わっていきましょうっていう、そういうことをハンダ・アーレンとは活動っていうふうな言葉で伝えていく。
それが労働とか仕事とは全然違うんだよ。むしろ活動こそが大事なんだよって言っていくんだよね。
なるほど。ちょっとずつ見えてきた気がするんだけど、じゃあそれって言葉だけなの?
例えば喋った上で絵を描いて人に渡すとかさ、そういうのはやっぱり違うの?
どうなのかな。ちょっとごめんね。そこまでちゃんと読めてない。
これは人間の条件に書いてあるっていうところで調べてはいるんだけれども、読み込めてなくてまだ。
なるほど。そこが気になるね。本当に言葉だけなのか、言葉だけの活動って結構限定されるよね。
うん。
言葉で喋った上で集まってなんかするとか、なんかするのほうはどうなの?みたいなさ。
はいはい。
みんなで集まってご飯作るの、ご飯作るのどうなの?みたいなさ。
そうね。実は結構それから後半、冒頭ちょっとぼやかした人の話も繋がってくるんだけど、
もうちょっとだけ言うと、アーレンと自体はやっぱり一緒に何かをするということよりも、やっぱり議論をするとか言葉を使うということにこだわっていた節があります。
それはやっぱり古代ギリシャを理想化しているとか、やっぱり人間の理性のほうに重きを置く西洋の伝統だと思うんだけれども、
やっぱり何かを、やっぱり物を介して本当の意味で通じ合えますかっていうふうに言うと、そこをちょっと言葉よりも下に見てる感じがあるんだよね。
まあそうだね。確かにヨーロッパでいろんな国があって、背景情報、文脈を共有してない人があまりに多い。
言葉でちゃんと文脈とか土俵を揃えていくっていう意味では言葉ってめっちゃ大事だと思うから、
そういう観点から見ると確かにいいと思うね。
確かにそういうとこで絵描いたりとか音楽やってもさ、違う文化圏とか違う文脈の中に生きてる人にとっては、
良い悪いがかなり分かれちゃいそうだもんね、受け取り方が。
っていう感覚から見ると、なんか理解できてきた気がする。
そうだね。確かに文脈ってすごく大事で、音楽1曲、写真1枚、絵1枚見たときに、それをちゃんと受け取り切るってすごく難易度が高いよね。
特に異なる文化とか言葉とか、歴史を持ってる人はそうだと思うときに、
自由っていう言葉、今日もずっと使ってはいるんだけれども、自由っていうのはそういった文脈にも依存しないとか、
新しい文脈に自分を投げれるっていうことでもあるじゃないですか。
ちゃんと対等に相手と向き合うとか、他の人と向き合うっていうときに、
ちゃんと自分はこういう文脈で生きてるよとか、こういう中で伝ってるよ。
例えば、さっき僕が戦争反対とかって言葉を言ったときに、
この3字で言うと本当に4文字だけど、そこにものすごい文脈が含まれるじゃないですか。
そもそも戦争とか反対とか何を言うのかとか、
いうときに、そこもちゃんと表現しようと思うと、やっぱり言葉っていうものが必要だよねとか、
やっぱり言葉っていうものを通じて使われ合うっていうことが、
一番、より自由っていうものを実現しやすいようにっていうふうなことはイメージできるかなとは思うんだよね。
やっとそうだね。イメージできてきた。
それこそ、ハンラーアレントと背景を共有してなかったなって思った。
確かに見てる視点に違うんだよね。
そうだねそうだね。
でも今、兄貴とこうやってやり取りする中で見えてくるけど、
それこそ見打ちとか、ちょっと自分の近い範囲であれば全然いけると思うんだよね。わざわざ言葉じゃなくてもみたいな。
さっきね、絵とか音楽はどうとかさ。
そういうのにこだわったのも、多分あれだね、それが共通の市場とか、市場だよね、どっちかというとマーケット側があるから、
ある程度共通の評価がされ得るみたいな、自分の無意識の背景が、文脈があったんだと思ったね。
それを目的にすると、やっぱり芸術とか、そういうものだよね、言葉以外のものっていうのは、
とても危ういものになり得るんだなっていう感覚から世界を見ると、このハンラーアレントの言葉が大事の切実さというか、それしかないじゃんみたいな。
ちゃんと対話しよう、話そうみたいな。
自分を表現しないと伝わらないとか、相手の話を聞かないとわからない、みたいなところの切実さみたいなものは見えてきた気がするね。
ちょっと今、自分の中でセクリにしてるのを今、ハヤトに例えばぶつけただけっていう感じだったんだけど。
全然、情報として増えたことが今見えてきたのはあると思うし、
これもすごく実はいいポイントで、やっぱりどうしても分解して整理していきますよね。
さっき言ってくれたみたいに、そもそも労働とかっていう文脈の、
今の感想的生活っていう、いわゆる真理を追求するとかさ、
より中長的な形状的な方に行くっていうものもある中で、
そういった区分けとか分類をしていきますと。
そこに対して違和感とか、本当にそうなの?みたいな話ってあるじゃないですか、僕らの中で。
それこそ東洋やってるとそういうの感じるよね。線引きの無意味さというかね、難しさというか。
っていう時に見つけちゃったんですよ。まさにそれをもう統合して、
仕事も人生も、なんなら宗教も芸術も、全部統合して生きるのがいいんじゃないかっていう人がいるんですよ、日本人で。
日本人で?
日本人で。
どんな人なの?哲学者?
名前はね、絶対知ってる。
知らないかっていうと、これがね、後半のメインキャラクターなんですけど、
我らが岩手県が生んだ宮沢賢治さんですね。
そうなの?そんな話してんの、宮沢賢治って。
ね、って思うでしょ。
宮沢賢治の話は僕は別に何も詳しくないというか、
ちょっと2年前ぐらいに本の特集とかを見たら、こんな特集されるような人なんだって驚いたぐらいなんだけども。
世の中的にあれだよね、いわゆる銀河鉄道の夜とかさ、
よだかの星とかかな、絵本とかになってるものも多いから、
結構童話作家みたいなイメージが強いのか、
そもそもそんなにイメージ持ってないよ、名前ぐらいは聞いたことあるけどねっていう人も多いと思うんですよ。
そうね、名前と会うためにも負けずぐらいのイメージだよね。
そうだね、おそらくね。
自分もだけれども。
たぶん僕ら岩手出身だし、毎年花巻とかにも住んでたからさ、
花巻にいたら宮沢賢治ってイメージあったりするの?
いやーどうなんだろう、でも森岡よりはたぶん親しみを持ってる人が多いというか、
多分かもねとは思うけどね、なんとなくね。
うん、なるほどね。
そういう意味では、たぶん僕らは日本の中では宮沢賢治に近い生き方をしてる人なんだよ、絶対に。
岩手に生まれ育ったという意味で。
大丈夫?それ。
絶対大丈夫。
そんなまとめちゃって大丈夫?
ごめんなさい、ちょっとこれかなり脱団ぽくなってるんですけど、
年末年始に岩手帰ったんですけど、
家のおばあちゃんと近くに、宮沢賢治の言葉で伊波東部っていう言葉があるじゃないですか。
いわゆる彼の理想郷としての岩手県とか東北っていうのを伊波東部っていう言葉で表現したんだけれども、
それから通られた伊波東部の風っていう曲があって、
あーあるね、はいはい。
それが毎日昼と夕方に流れるじゃない。
そうね、近くの公民館で昼12時に流れてるよね。
そう、鐘が鳴るぐらいの流れでずっと鳴ってて、
僕らもそれを10年20年近く聴いて座ってるわけじゃないですか。
はいはいはいはい。
もうその時点で別に宮沢賢治のことを意識してなくても、
そういうものは刷り込まれてるはずなんだよね、日本の中においては。
まあ確かに今でも歌えるもんね、伊波東部のって歌えるもんね、確かに。
次の日とはって歌ったもんね、確かにね。
歌ったでしょ?絶対知らないからね。
リスナーさんのうちたぶん1割も知らないから、伊波東部の風っていう曲。
めちゃめちゃいい曲なんですけど。
ちょっと僕らも客観的に語れない部分はあるんだけれども、
ちょっとごめんね、この辺を聞いてなくなったんですけど、
宮沢賢治っていう人は当然童話を作りました、小説を作りましたって人ではあるんだけれども、
そこに自分の宗教的な考えをめちゃめちゃ入れ込んでいるとか、
理想の世界って実現しようとしたっていう流れがあるんですよ。
これ有名というか、それは強烈やってるやつがあって、
農民芸術概論要項っていうのがあるんですけど、
青空文庫でも出てくるんでよかったら検索してみてほしいんですけれども、
いわゆるマニュフェストというか、こういうことを大事にしていくぞみたいな感じで書いていたものなんだけれども、
最終何を書いてるかっていうと、これから何を論ずるかっていうことが始まるんだけど、
俺たちはみんな農民である。ずいぶん忙しく仕事もつらい。
もともと宮沢賢治っていうのは農業学校をやってて、そこを辞めて農業をやったみたいなことがあるんですけど、
仕事つらいよねと。
もっと明るく生き生きと生活する道を見つけついてるんだよね。
これを近代科学の実装と、武道者、求道者、道を求める者たちの実践と、
我らの直感の一致において論じたい。
世界が全体幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない。正しく強く生きるとは、銀河系は自らの中に意識してこれに応じていくことである。
我らは世界のまことの幸福を尋ねよう。武道すでに道である。
っていうようなことから始まるんですよね。
学術書みたいな名前してるけど、これ思想書なんだね、おそらく。
思想書。宮沢賢治の思想を表現するものなんだよね。
農民芸術とは何かっていうのはこの後続いていくんだけれども、
農民の仕事、まさにこれって労働か仕事かみたいな感じだと思うんですよね。
食べるために働くもそうだし、当然作物を作っていくっていう意味では物を通じてます。
ファンマーレンとの区分解をすると、やっぱり活動にはなり得ないんだよね。
仕事のほうになってそうだよね。食べるものと、売るなりなんだりみたいな。
宮沢賢治はその仕事、忙しくつらい仕事の中に、
明るく生き生きと生活する道を見つけようじゃないかっていうふうに言うんだよね。
しかもそれは単純に、もっと稼いだとかっていうことじゃなくて、
さっき言ったような、世界全体の幸福とか、銀河系を自ら中に意識するとか、
すごいスケールなことを言い出すわけですよ。
これどういうことかっていうと、ただ単純に生きるために生きるんじゃなくて、
まさに自由に生きるんだけれども、実はこの宮沢賢治の思想の中には、
仏教の思想がめちゃめちゃ入ってるんですよ。
なので、そもそも人間観として、人間っていうのは個別分かれたもので、
それぞれの自由を最大に発揮するっていうことじゃなくて、
人間っていうのはどこかで根底つながっていても、仏の世界っていうものがあって、
銀河系、宇宙全体とつながっているその中の一人なんだっていうふうな、そういう思想があるんだよね。
つまり、同じ自由っていう言葉を彼に使ったとしても、
このハンナ・アーレントで言ってる自由と、宮沢賢治が言う自由というか幸せって全然違うっていうわけなんですよ。
これがまさに西洋と東洋の違いっていうところでイメージ湧くと思うんですけど、
この東洋的なというか、すべてがつながっている世界観からしたときに、
どういうふうな生き方ができますかっていうことを宮沢賢治が語ってくるんだよね。
そんな本があったんだ。そんなこと言ってたんだね。
そうなんだよね。やっぱり知らなかったでしょ。
小説とかもね、教科書とか、自分とかで読書観測のときに読んだみたいな、そういうのしかイメージないからさ。
積極的に取りに行ってないからわかんないよね、ほんとに。
僕もここ2、3年ぐらいで全然にわかなんですけど、
ちょうど今年がたぶん宮沢賢治生誕130年なのかな?
そうそうそう。130周年でリバイバルじゃないけれども、たぶん盛り上がってるところで盛り上がってるんですよ。
っていうところもあって、僕のアンテナにふわっとなったんだなと思ってるんですけど。
ちょっとここから面白いのが、
例えばさっき農業とか酒仕事って、労働とか仕事っぽいよねって言ったんだけれども、
宮沢賢治が言わせると、実はそれこそが活動というか、人生の一番尊い行動なんだよっていう話なんだよね。
一応確認だけども、宮沢賢治はハンナ・アレントを別に参照してない。
自分の考えを、というか、ハンナ・アレントは参照してないよね。
悩んでるけどそれでも仕事に向き合う心を見なさいと。そういうところに美しさがあるじゃないかみたいな。そういうことをすごく言っているんだよね。
確かに滅び論は言い過ぎかもしれないけれども、面白いね。考え方が。
これがある意味で、仕事とか労働と活動を切り離して、活動こそ、言葉こそに価値があるっていうふうな、やっぱりハンナアレントさんっていう人と、
いやいや、クワを振る一瞬とか、疲れて空虚を見て、ちょっとぼんやりしてる、その顔つきにこそ美があるじゃないかっていう、宮沢賢治と。
ところが、いい意味ですごい対象、比較できるんじゃないかなって思ったんだよね。
わー、面白いね。あれ、レンガ積みの話あるじゃん。
はいはい。
レンガを積んでるだけなのか、塀を作ってるだけなのか、教会を作ってるんだ、みたいなの。
あー、そうね。
あれとの比較で言うと、ハヤトはどう感じる?
あれはですね、目的の問題なんだよね。つまり、人が積んでますって話したのか、教会を建ててここに人が集まって豊かに生きていくって話したのかなんだけど、
目的に囚われてるっていう意味では一緒なんだよね、と思ってますと。
一緒っていうのは?
一緒っていうのは、そのイヤイヤレンガを積んでいる人も、お金のためにイヤイヤレンガを積んでいる人、あるいは積まされている人も、
この痛恨な理想とか目的に基づいてレンガを積んでいる人も、同じ文脈だと思っていますと。
はいはいはい。
やっぱりレンガを積むことが楽しくて楽しくてしょうがないっていう人はいないんだよね、ここには。
そうだよね。うんうんうんうん。
で、かつ面白いのは宮沢賢治は別に、やっぱり老僧はしんどい、農作業はしんどいって言ってます。
だから別に、クワ振るの楽しくて楽しくて、クワ振るのが好きですけどたまらないぜっていう人を別に描いてるわけじゃないんだよね。
そのしんどさとか、日常の中に美を見出すっていうことができるんじゃないかっていうことを言っているから、
ちょっとそのレンガ積みの話とも、やっぱり一段二段違うかなってやっぱ思っている。
はいはい。だからあれだよね、そのレンガ積みの話で言うと、やりがいみたいなものが、たぶんその、ちょっと美化されている部分が、
なんだろうな、トリオによってはあるよねっていう話だよね。
それはたぶん前回の疲労社会に僕は近い話だと思っている。
そうだよね。やりがいの捉え方次第ではね。
そうそうそう。
だからこの宮沢賢治は、そこの性択合わすの無じゃないけれども、現実を見て、父を耕すっていう重労働はつらいよねと。
例えばこれでみんなが豊かになる、自分が豊かになる、おいしいご飯食べれるとか収入も得るっていうやりがいから、
その芸術的にリズムに乗ってやるとか、それ一個一個楽しくやってるとも違うよっていう、その感覚があるよねっていうイメージで。
本当にそう。
そこに対比が面白いなって思った。
こうすると仏教っぽくて、例えばリズムがいいよねって言うときに、もっとリズム感にやろうとか、もっと美を表現しようってなると、結局個人の作為になっちゃうわけよ。
そうじゃなくて、やっぱり仏教って誰かに突き動かされているとか、自分は全体一部に過ぎないってやっぱり発想があるから、
そのある種、やらされしごとかもしれないし、つらいことかもしれないけれども、
それをやっている自分が、そのまさに仏を表現しているとか美を表現しているとか、そういうふうに至ることがあるよねとか、
そういうふうに周りで働いている人は見てごらんなさいよと、ほらこんなに美しいでしょっていうふうな、そういうふうな発想なんだよね。
これちょっと、もうちょっとここがすごい面白いからさ、具体的に深掘りさせてほしいんだけどさ。
いいやって、こうやって面白いよね。
例えば雪国つながりでさ、雪かきをしていますと。
はいはいはい。
雪かきってめっちゃつらいじゃん。
そうだよね、大変。
重い雪だったら、純粋にさ、重いし、それを広いところをさ、ずっとやってるみたいな、ある意味自由労働みたいな感じなんだけれども、
なんだろうな、無心でやってたりとかすると、それ自体がちょっとこう、さっきのリズムじゃないけれども、
なんかちょっと楽しくなる瞬間、つらいんだけど。
それとこの宮沢賢治のいう、めっちゃつらいんだけど深々見たときに、いわゆる宇宙編的な話でいうと、
その辛さも含めて、その哀愁漂う背中、辛さの背中も含めて、
これは美と言ってもいいよね、美というか、宇宙そのものと言っていいよねぐらいの感じだと思うんだけど。
うんうん。
それと、実際作業してるこの個人が、ちょっと楽しくなってきたかも、つらいけどみたいな。
ちょっと乗ってきたかも、つらいけどみたいな。
というのはやっぱりちょっと違う話なんだね。個人がどう思うっていうのは別の話。
そうだね。ちょっと別の話。それ多分アドレナリン出てきたとかね。ちょっと慣れてきちゃって。
確かに。確かに。アドレナリン。そうだね。なんか出てるじゃん。
そうそう。肉体労働直しみたいな感じだと思うんだけど。
もうちょっと、たぶん矢沢賢治館で言うと、当然、寒い寒い、外出たくないのに夕焼けしないと車も漏れるし道も出ないし、
大変だとかっていう中でやっていきますと。でも当然、雪の一欠片にも仏の慈悲がありとかさ、
仏の影響を欠くという、その行為にも自分と世界との関わりがありとかさ、
そうやってできた雪の一欠片の後にもやっぱり美しさがありみたいな、
そういったところをちゃんと感じられますかっていう、やっぱりそっちに近いと思うんだよね。
あー、なるほど。あ、面白いね。そっかそっか。東洋仏教的だから、
ホテ教がどうかは知らないけど、いわゆるこの世界に現れてるものだよね。
雪が降ってるとか、雪が切ないとか、あの人めっちゃ大変そうとかっていう現れじゃなくて、
現れじゃないか、どう捉えるかじゃなくて、そのもの自体というか、
食うじゃない?教さん。なんていうの。ごめん、もう表現できないわ。
仏性かな、言葉でいうと。要はその奥にある仏の性質とか、
その状況も全てはやっぱりその仏の御示しであるとか、
そういうところにやっぱり意識を向けましょう。
そっちだけは見ると、結局目の前の人とかはいない場所にしちゃうから、
とはいえ、それに基づいて生きているとか、今動いている我々っていうものも大事にしましょうっていう、
そこも含めて、美であり、大事にすべき表現であるっていうふうな、
そういう感じかな。
なるほど、なるほど。まあそうだもんね。それかそれか、
この土に躊躇いしてる人が血へどを吐きながらさ、死にそうってときは違うだろうしねっていう、
そっちのバランスが持ってるって話だよね。
そうそうそう。それがいいとは言わない。
アメニオン負けずでもさ、記者に喧嘩や訴訟があればいいって、つまらないことはやめろといいとかっていうときに、
別に何でもそのままでいいし、何でも仏のことだから、すべてオールオッケーとは言わないんだよね。
まあ、当然。見せらせるあるがままがいいではないけれども、
そこにも何がしか自分を超えただらけがあるよねとか、
繋がりがあるよねっていうことは根底にあるっていうふうな話なんだよね。
これめちゃめちゃ面白いっていうか、さっきお伝えした農民芸術概論講座の最後の結論っていうのはあるんだけれども、
ここに何が書いてるかっていうと、
いろいろ話した中で、詩人、たぶん芸術家の一つの言葉を使った芸術家だと思うんだけど、
詩人っていうのは苦痛を脅落すると。
苦痛?
苦しいことを、要は受け入れて楽しむんだと。
永久の未完成、これ完成である。
理解を終われば、我らは書かる論言もする。
必強ここには宮沢賢治1926年のその考えがあるのみである。で終わってるんだよね。
なんかよくわかんないけどかっこいいね。
かっこいいでしょ。ビトゲンシタイっぽくない?
それもわからないけど。
あれもあんない?
ビトゲンシタイっぽいの?
ぽい。柳田さんも、「捨てていいよ。はしごは捨てていいよ。」って話をここでも実は宮沢賢治が言ってるんだよね。
あーそういうこと言ってるんだ。もう2回できなかった。
要は、永久の未完成、これ完成であるって言葉は結構有名で取り上げられるんだけど、
例えば自分が農民芸術はこれだって言ってみんなこういうことをしようとは言ってないんだよね。
あくまでも今自分はこう思っているけれども、当然それは変わっていくし、
それが理解されて表現されればまた次のステージに行くから、
その時この芸術街路、農民芸術街路も捨てられるべきだってちゃんと言ってるんだよね。自分で。
あーそうなんだ。それはイトリンシュタインっぽいね。なるほどなるほど。
でしょ?そうそうそう。
っていうのがあるので、やっぱり常に、これも東洋的だと思うんだけども、
やっぱりどこかで完成するとかってことじゃなくて、常に動いている。
常に変わっていく。空だからさ。
それはやっぱり永遠の未完成、これ完成である、やっぱり空こそが大事だっていうことも入れ込んでるんだと思うんだよね。
空即是色色即是空だってか。と同じ話だよね。
完成は未完成であり未完成は完成であるみたいな話だよね。
話を言ってるんだよね。かっこいいでしょ。そうやって言われると。
凡人からすると、その言葉に流されてはいそうはね。そうだそうだ。
確かにね。
大事に本をせずに、大事にしまっときそう。
使ってください。表現というか、やっぱりそういう活動を使ってくるのが大事なんでね。
捨てろって言われてもさ、梯子外して自由に寝るって言われても、大事に読みながら同じことやってるし。
確かにね、確かに。みたいな感じなんですよ。
ちょっと今回ね、初めて宮沢賢治を出したから、まだ全然わからないよとかイメージわからないよとかもあると思うんですけれども、
これまでやってきた古代ギリシャからキリスト教を経て、マクセラオとかやりますよね。
ちょっと西洋的な流れがあった中で、やっぱり活動こそが一番いいとかさ、言葉を使って交流するっていうことがある意味で僕らにとって大事なことだっていうふうな判断的な話と、
いやいや、全然違うってこと、宮沢賢治っていう話は、結構大局のものとして面白かったんじゃないかなって。
僕はすごい面白いと思ったんですよね。
というところで、ちょっと最後結論というかね、これまでのまとめでいくと、
やっぱりどうやりますかね。やっぱり働くってめちゃめちゃ短いじゃないですか。
働くにどう向けようかってすごく難しいテーマだなって僕自身は思っているんだけれども、
いくつかの方法論もありそうだなと。今日の話でいくと。
まずは生きていくことが大事だから、生きていくために働くって大前提あると思うんだよね。
それを否定することは絶対ダメだし、
もちろんね、それがいわゆるどういう形の労働なのかわかんないけれども、
働くと生きるが、やっぱりこんだけ繋がっている世界においては、それをやっぱり許していくことは難しいでしょう、多くの人にはね。
なるほど。確かにそのやりがいが大事とかとは一つ協議を取れる考え方かもしれないもんね。
そうそうそう。もちろんその大事だし、目標があることでやっぱり頑張るってのも絶対あるから、
人生のどこかではやっぱりね、えがくなりたいでもさ、
持ちたいでも稼ぎたいでもいいんだけど、そういうので頑張るという時期も必要だとは思うんだけども、
それで40、50でもやれるかって言うとちょっと難しかったりするじゃない?
そうね、っていう場合はある。
そうそうそうっていう人もいるだろうとのときに、いろんな選択肢とかオプションが実はあるんですよ。
それをもうちょっとオープンに考えてみたりとか話してみたりすると、
見えてくるものがあるかもねっていうふうに思ったりしますっていうふうな感じ。
で、今回はそのある種反応あるのっていうものをちょっと尖らせて、言葉とか活動っていうものを唱えた人っていうふうに言ったし、
宮沢賢治っていう人を農民芸術っていうもので働くと、中にこそ美があるみたいな。
そこに気づこうぜみたいな人として取り上げたしっていうふうな、
そういうところをやらせていただいたっていう感じなんだよね。
はいはいはい。なるほどね。
はい。
詳細な感想とかはまた次回雑談で聞ければなと思うけど、
どうだった?あるいは第5回今日聞いてみて。
ここは本当にね、もうちょっと深くというか、改めて理解しといていろいろ深めたい点は、
やっぱり身近だからね、働く人間のところね。
いやーそうだよね。
またぜひ聞きたいなと思ったのと、
あとさっきのデンマーク云々の話があったときに、
ちょっと面白そうだなって思ったのが、
もし仮に、例えばデンマーク8時4時がネスみたいなのがあったときに、
めっちゃ働いてる人って、ちょっと白い目で見られちゃってるのかなみたいな。
あーはいはいはい。
いるでしょ、たぶん。めっちゃ働きたい人とかさ。
デンマークのスタートアップでも、
24時間、時間を惜しんで働きたい奴らみたいのがいたときに、
何あの人たち?って。
設定としたらそれはそれで、ただのカウンターでしかないから。
あー面白いね。
適用用注意だなと。
はいはい。
は思ったかな。
まあね、それもあると思う。
もしそうすると、やっぱり労働社会っていう枠の、
まさに別のパターンでしかない?
そうそうそうそう。
うんうん。
そういうところがあるかもね。
ちょっとそこでもし詳しい方とかいたら、ぜひ教えてほしいなと思いますけどね。
うんうんうん。
なので、やっぱ常にこれは、
いつも自分自身もそうだと思うし、
みんなで作っていきたい方だけども、
やっぱりね、今僕らが持てる視線って本当に狭いもの。
この2026年の今の日本っていうところで見てる視線でしかないから、
やっぱり過去に視点を広げるとか、
西洋東洋も含めて視野を広げていくとか、
っていうのができる哲学っていうところに、
やっぱりね、起き立っていきたい、
引き立り続けたいっていうのはそこだなって改めて思いましたね。
今回働くとか哲学とかやってみてると。
まあそうだね。
実際なかなか考えることないもんね。
どう働くかとかさ、どうやりがいをとかさ、
そういうことは考えるけどね。
そもそも働くと生きるってなんだってみたいなね。
そうそうそう。
そこにどんなキーワードとかテーマがあるんだとかってやっぱ分かんないからね。
難しい。そこにね、非対立に言うと今回のファンナーアレントで言うならって、
感想だっけか。
そっちをそもそも追求しすぎると、
それはそれで危ないけれどもみたいなところだけど、
バランスとしてはね、ゼロだとしたらちょっとやってもいいんじゃないかっていう意味でね。
そうだね。
というような感じで、今回働くことを哲学というのは以上なんですけれども、
今後も多分テーマとして常に出てくるかなとは思いますね。
働くとか社会とかってやっぱり切っても切り離せないし、生活と。
こっちからはまた一テーマに戻りまして、
小ペンハーワーを狙いたいなと思ってます。
前回は量子力学とかを今回働くっていうようになって、
ちょっとまたテーマ減少なんですけれども、ちょっと人に戻りますよって。
前回は掃除だったので、また投与やろうかなと思ったんだけれども、
やっぱりその前にやっていたカントからヘーゲルという流れとかも含めて、
やっぱり18世紀、19世紀、20世紀ぐらいの哲学、
特にやっぱり西洋って、今の僕らの価値観とか考え方にめちゃめちゃ影響を与えてるなって思ったのよ。
はいはいはいはい。
今回のマック・セイバーとかもそうだし、彼は分析者って話だけども、
僕らの判断アレとかも含めて、やっぱりこの人たちの分析みたいなものの前提に、
やっぱり僕らの価値観って直結してあるし、そこを理解することが、
やっぱり今21世紀の僕らは、結構今は世の中も大変じゃないですか。
物価高があるとか、情勢があるとかある中で、
やっぱり物事をどう考えればいいのかって結構大事なテーマだと思ってるんだよね、僕自身が。
そうね。
そのときにちょっと前、100年前くらいの哲学、
ショーペンハンはニーチェに影響を与えた人って言われてるんだけど、
そこは結構ヘイゲルとかニーチェとかを繋ぐ重要な人物だったりするんですよ。
へー、はいはい。
その人を取り上げることで、前回までやっていたカントからヘイゲルの流れと、
そこから哲学とか人がどうなっていくのか、
見通しを立てていこうという形で、ショーペンハンを取り上げていきたいというふうに思ってますっていう感じですね。
おー、いいねー。名前は知ってるけど中身知らないっていう、まさにそういう人はね。
そうそうそう。
そういうところもあるので、次回以降も、今回までとも少し経路がまた変わっていくと思うんですけれども、
テーマとしては視野を広げていくとか、自分をもっと理解していく。
ということは変わらずできると思いますので、引き続きぜひよろしくお願いいたします。
はい、わかりました。
では次回ですね、雑談挟みつつショーペンハンに入っていくというところで楽しんでいきたいと思います。
では、引き続きよろしくお願いします。
お願いします。今回もありがとうございました。