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はい、それ鉄味を今日も始めていきたいと思います。よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
前回は、ウィパニー・シャットの中でも、ブラフマンとアートマンというところ、それがボンガイ地におだようみたいな話を聞いていったんですけれども、
今回はその先ということで、もうちょっと最近のインド鉄学に触れていこうか、みたいな話を最後もらっていたんですが、どういった感じになっていくんでしょうか?
そうですね、最近のっていうよりは、インド鉄学自体っていうよりは、インドの人の考え方とか、やっぱり物の捉え方って全然違って、なんとなくこれまでの3回も通じて感じられたかとは思うんですけど、
その中で、僕がたまたま読んだ本で、インド思想との出会いっていう本がありまして、
これが19世紀、1900年代のビリ・ヤラン・カールさんというインド人の言語鉄学者の人が書いた本なんですよね。
はいはい、じゃあそういう意味では、最近のインド人鉄学者といっても、
まあそうだね、ただこの人がどれだけ有名なのかとか、インド鉄学界のどのくらいの位置を占める方なのかとか、全然わからないから、
それが主流とかではないとは思うんですけど、ただ僕がインドのことを学びたいと思った時に、
インド思想との出会いっていうわかりやすいタイトルがあったので、読んだ時にはめっちゃ面白いじゃんとか、
そういうふうなことを考えるんだ、話すんだっていうのが面白かったので、
その本の中からですね、2つのコンセプトをちょっと紹介したいなと思っております。
1つ目が人生の目的っていうのについて書いてる部分があるんだけど、これが4つありますみたいな話があって、それが1つ目と、
あと2つ目は神の定義っていうのを言語鉄学者の人が書いてるんですよ。
それはもちろんその人オリジナルのものもあれば、それまでの鉄学の流れとかっていうのもあるとは思うんですけど、
そこに結構インド鉄学のエッセンスというか面白さが詰まってるなっていうふうに感じたので、
それはちょっと皆さんとぜひ味わっていきたいなというふうに思っております。
おー、なるほど。前回までの古代インド鉄学的な一元論的な雰囲気から、これを見るともうなるほどねみたいな、
そういう感じなのかな。それを見るとよりわかりやすいよねみたいな。
そうだね。前回のブラッフマンとアートマンがあって、アートマンっていう個物とか個人の本体っていうのが、
宇宙の根源と一緒なんだみたいな、そういう一元論的なもの。
僕らが普段慣れている二元論であれとこれを分けるとか、主観と客観を分けるとかじゃなくて、
やっぱりインド鉄学ってすごく自分とか自分の内面っていうものを大事にして、
その内面が正しく理解できれば世界を正しく理解できるという考え方があるから、
結構そういう神とかを飾る時にも、やっぱり人間とか人っていうのを大事にしたりするんですよね。
あーなるほどね。そっかそっか。最初本をやった時でもね、神様を捉え方もね、
結構人間との境界も曖昧だったりとか、人間と動物の境界も曖昧みたいな話もあったもんね。
そうそうそう。超越者で全然違うものよりはそうじゃない定義っていうのが書かれたりするので、
ちょっと面白いなと思って。なるほど。はい、なるほどと思うんですけど、まず一つ目はですね、
ちょっとその先に人生の目的みたいな話。これも僕すごい目からうろかったんだけど、
兄貴は例えば自分の人生の目的とか考えるかもしれないけど、人の人生の目的って何ですかとかって考えたことってどうだろう、ある?
人っていうのは他人とかでもなく人間そのものみたいな。でもどうだろうね、自分っていうのを考える時に、
そこはどうしてもこう、考え刺さる部分ではあるのかなと思うけどね。ただそこがどのくらいの深みを持ってるのかは謎っていう感じか。
確かにそうだよね。例えば幸せになりたいとかっていう時に幸せになるためにやっぱりお金が大事だとか人次元が大事だとかってなると思うんですけど、
例えば西洋の伝統で言うと、いわゆるよく生きるみたいな、善とか、自分自身をもっとより良い状態にするみたいな、
哲学的にというか、そういった思想的にっていう流れもあったりして、やっぱり目的って一つ。みんながこの一個のある種心理としての目的があって、
それを目指すべきみたいな、そういう感覚ってなんとなくあったと思うし、僕はあったんですけど、
インドには4つの目的があるっていうふうに最初から言ってるんですよ。1つじゃないよって言ってて、
これは現代というよりは普通にウッパリシャットの時代から言われてきたらしいんですよね。
それぞれ言葉があって、ダルマとアルタとカーマと牧者、4つがあります。
それぞれ説明していくんですけど、面白いのは4つ全部大事なんですよね、それぞれ。
それぞれが強いかは人によって違うみたいな発想があって、これもかつ、僕がちょっと好きでやってるインド先生術って星占いのあるんですけど、
それもある目的、例えば、牧者なら下達って言ってたんですけど、
そういう下達的なものが他の3つよりも強い人とかがいて、その人がこの生き方ではお金とか欲望とかよりは下達を目指しますとか、
それは目的なんですよみたいなことを言ったりするんですよね。
それはインド先生術的な方にもそういう考え方があるって感じなのかな?
そうだね。
結構そういうのをやってる人にとっては結構なじみがある考え方なのかな?概念というか。
インド先生術をやってる人が果たして日本に何いるか知らないけども。
でもやっぱりそういう人生の目的が一つじゃないし、人それぞれだみたいな。だから別にそれが違ってていいんだよみたいな考え方っていうのはすごく多様性に満ちたというか、
お互いを尊重できる考え方なんじゃないかなって思ってたりします。
少なくとも一つよりは4つの方が多い感じはするっていう感じかな。
これがまだ数の問題なのかなっていうところはあるけども。
そうだよね。結構中身もしっかりしてて、それぞれ何を意味しますかっていうのをちょっと話していくんですけど、
ダルマっていうのは、いわゆる法則とか本性、物の本質みたいなもので、
例えば自分自身が従っている法則か義務、普通で言うと天命みたいな何をすべきかみたいな考え方ってあるじゃないですか。
それを明らかにして実現することをダルマっていう風に言うんですよね。
だから自分の人生の使命はこれだとか、これが天職だから自分はこれに一生捧げるんだみたいな人はこのタイプ。
なるほど。そうだよね。生まれた昔とか、あと階層によってだったりとか、今でも生まれた家庭だったりとか、もしくは好きなものとか、
そういうものによって変わっちゃうよね。変わるというか、どれに自分のアンテナが立つかみたいな話がある。
そうだね。
あとは得意かどうかみたいなね。
そうだね。得意かもあるね。もちろんこれはみんながそうすべきっていう考えは根本にあるんだよね。
やっぱりみんな自分自身を、こう、こうやってというか、その法則に逆らっていくよりはそこに従って生きた方がいいよねみたいな。
ああ、そういうのもあるんだ。ただ単に構造とか仕組みの話だけじゃなくて、割と理想的な話も入ってるんだ。こういう風にした方がいいんじゃないみたいな。
むしろそういう方が自然だよねぐらいのいい感じかな。
自然ではねえかな。それこそね、4つの階層があるみたいなのあったじゃないですか。
バラモンとかクシャトリア、バイサシュード、ラッタとして、あれが身分ってよりはそもそも自分の成すべきこととか、やっぱりバラモンとしては、ちゃんとこう、なんだら宗教的なことにちゃんと従事すべきみたいなこととか、
なるほど。次元で言うとこのぐらいの話をしてるってことか。
M-Lの話をしてると。
M-Lの話をしてる。だからどっちが良いとかじゃないんだけど、目的が人間の世界を豊かにするためにやってるのか、神の世界に至るためにやってるのかっていうのが全然違いますよ。
うんうんうん。
うーん。
そっかそっか、その感動伝わってきた気がするね。
なるほど。
そうそうそう。
はいはいはい。
そっか。確かに言葉で言うより数字した方が端的にその感動が伝わる気がするね、確かにね。
そうなんだ。これがM-L=Gなんですって言われると、はぁーみたいな、すげーってなったんですけど。
なので結構この本にもそういうこと書いてあるんですけど、いわゆる過去の賢者っていう人たちとか、悟ったっていう人たちはこの状態に至った人たちだっていうふうに言うのね。
はぁはぁはぁ。
だからみんな言ってることは違うんだよ、ちょっと。
例えば、そのリグベーダの聖人とかが「私は自由自在を達成した」みたいなことを言ってたりとか、
うーん。
あとはブッダは「ネハに到達した」って言ってたりとか、
あとキリストは「私と私の父は一つだ」みたいなことを言ってるんだけど、
うんうんうん。
これは全部結局、言葉の働きっていうのを超えて、自分と世界は一つだっていうことを体験したんだっていうことに補うことなりませんよね。
うーん、なるほどね。ここでキリストも出てくるんだね。
そうそう。
それはちょっと面白い。
うん。やっぱり近代の人だから、キリストとか他の宗教も含めて全部、そういう実体験を言葉にしたときに、
言葉は違うんだけど、起きてる事象は一緒だって言ってるんだよね。
はいはいはい。
だから、人は言語を超越した。
だから、これはその人の主張なんだけど、この体験を共通することができるには、
人から言語を払って、一元論的な世界に行くっていう体験をみんながちゃんとしたら、
それが本当の意味での普遍的な宗教とか世界平和に実現なんだっていう、
その実現に繋がるっていう手段なんだっていう風に考えてるのが、近代のインド哲学ですと。
うーん、なるほどね。はいはいはい。
そっか、言葉の限界性みたいなものをそうやって表現してくれてるんだね。
そうそうそうそう。
はいはい。だからコミュニケーションっていうものを、Lじゃなくて、Mの次元で、
そのコミュニケーションさえできれば、そういった争いだよね。
あー、そうね。
そういう表面的なL、言語レベルだったりとか、
うん。
その対立っていうものは、本来解消できるはずみたいな概念だったりとか、
本当の意味での対立軸っていうのは、Lレベルじゃなくて、
どこに対立してるかっていうのは見えてくるよねっていう話に近いのかなと思ったね。
いや、そうです。
すごい、本当にそうで、やっぱりその世界平和とか、やっぱり戦争の際、経験とか苦い記憶があるから、
それはなぜ起こってしまったかっていうときに、もちろん科学的にとか国際重役とかでやるっていうのもあるんだけど、
そもそもみんなアートマンでありブラックマンなんだから、本来一緒だと。
はいはいはい。
そこに言語とかっていうLみたいなものがついてしまって、それぞれの宗教とかを立ち上げているっていうことが、
やっぱり対立の原因だとするんだったら、それはやっぱり頭ではもう解決できない。
はいはいはい。
絶対にその共通理解っていうのは頭ではできないから、その体験とその一元的な世界を体験するとか、
言語を超越した世界を体験するっていうその共通レベルの体験から理解し合うっていう方が、
その道筋としていいよねっていう、そういう提案なんだよね。
うんうんうんうん。
だいたい逆にね、理解しられないよねっていう話にもやっぱ、なりそうだもんね。
そうそうそうそう。どこまでやっても。
だから、やっぱり善の男でも言ったように、悟った人の言葉っていうのは悟った人にしかわからないっていうのはそういうことなんだよね。
うんうんうん。はいはい。
オーダーメイドだし、その人の言葉だしみたいな話だよね。
そうそうそうそう。
言葉をやっぱり超えているから、それを仕方なく言葉でやっぱりやり取りしているっていうことがちゃんとわかっているとか、
人に対してだったら言葉でしょうがなく届けているみたいな世界だから。
うんうんうんうん。
これが、いわゆる言語を超越した非言語的で一元論的なインド哲学の主張になるっていうことで。
なるほどね。そっか。うん。なんか最初の感動は伝わった気がするし、
確かに言葉がハサミとは違ってしまえないみたいなのを最初聞いたときはいまいち意味がわからなくてピンとこなかったんだけれども、
確かに今善の話が出たけれども、前あったじゃん。悟りとは何ですかみたいなときにさ、
目をパチパチしてもいいし、目をパチパチしなくてもいいみたいな話があったと思うんだけど、
言葉もそっち側なんだなっていう意味で、言葉は道具だと思ってたんだけど、
言葉もかなりその、そういうね、瞼とか呼吸とか近い感覚で、
自分はコントロール、これはどっちかというと瞼とかとは逆で、自分はちゃんとコントロールしてると思い込んでるんだけれども、
実はその無意識的な部分、パチパチしちゃってる部分ってかなりあるんだろうなっていうところを、
なんかね、想像してなかったなと思った。
そう。
うん、面白いね。
ほんとそうで、そこにやっぱ気づくと、こうね、仏教への道が開けるというか、
やっぱりちゃんと瞑想をして、自分じゃない言葉が勝手に自分の中で飛び回ってるものを沈めようとか、
ちゃんと自分の思考を自分で扱うようにしようっていう、そもそも自分の思考を自分が扱えてないって思わないから、課題感として。
はい、そうだね。
そこに気づくと、そこに対処できるっていう意味で、すごく実は生きるのが楽になるんですよね。
あー、めっちゃ面白い。そっか、そうだよね、さっきの目パチパチ的な感覚がないと、
M-Lみたいな、MとLが分かれてる状態だよね。
そこが分かれていない状態だと、言語っていうものを、その、もう使える前提で、もっと上手くなろうみたいな。
そうだね。
上達してやろうっていう方にしか目が向かないよね。
うん。
そもそも使えてるんだろうか、みたいな、思ってないから。
うん。
そのアプローチがやっぱりなんか、言語的なムチのちというかね、話なんだね。
はい、そういう感じで、今日ね、かなりちょっと深いところまで話したので、なんかこう、深いっていうのは、そういう言葉とか、
意外と実は気づいてないけど、みんな言葉に操られてるんだぜ、的な話をしたんですけど、
でもやっぱこれは僕すごい、ソロ哲学とかインド哲学やっててよかったって思った発見で、
うじうじ考えることがなくなるんだよ、本当に。これやってると。
うん、はいはいはい。
でもまあ、うじうじ考えたっていう自動的に思考が出た時には、これは自分の思考じゃないというか、これは自分の言葉じゃないから考える必要がないっていう風に、
訳に置いとけるんですよ。
はいはいはい、なるほど。ちゃんとそこを分けられるってことはね、自分の本質的な、本性的な部分と、
出てきた言葉だったり、感覚だったり、その思考も全部言葉だから、自分にもうすでに湧いてきた、
自分が認識した、その迷いだったりとか、これちげえみたいな、うじうじした感じっていうのすらもう、
一旦客観的に見るっていう、スタート地点に立てるんだね。
そう、面白い。自分の中に湧いてるもんだけど、これは自分のものではないっていう発想になれると、
それなんか、明日どうしようとか、なんかこれいいんだっけみたいなのも、ただこれ自分の気持ちが弱ってるだけだから、一旦置いとこうみたいな感じできるので、
すごい楽に、例えば生きたりできます。
それともマインドフルエンスチップなんだけどね。
なので、もし今日の話聞いて、ちょっと興味あるみたいな人は、たぶんね、身近なマインドフルエンス講座とか、
瞑想本とかっていっぱい今出てるので、ぜひそういうの試してみていただいてもいいのかなって思ったりします。
おー、そうなんだ。今日はそういうのをむしろ進めちゃう回なんだね。
そうだね。普通に瞑想とかやる分にはたぶん大丈夫で、
なんか、たぶんそれちゃんとした本を選べば書いてると思うんで、あんまりやりすぎちゃダメだよとか。
あー、はいはいはい。なるほどね。そういうなんかね、ほら、やっぱ素人からするとさ、これ申し訳ないけど、ちょっと怪しさを感じちゃう。
そういうセミナーとかやってるとさ、例えば「印度先生術講座」とかって言った時に、これすごい申し訳ないんだけど、
あの、行かないよ。行かないね。そりゃそうだ。行かない。
で、「マインドフルエンス講座」店員30名で無料ですとか、1人1500円ですとかってさ、
で、「なんとかなんとか」あの、「教会はなんとかさん」とか「株式会社はなんとかさん」みたいな人がやってたとしていけねーなーみたいな。
確かにね。
なんか、そうね、もしなんか、ハヤト的におすすめな本とかあったらむしろ紹介してほしいな。
もう、特化解になさすぎて。あとはまあ、ごめん、申し訳ないけどね、全然そんなことないっていうのが、この話を聞くとわかるんだけど。
でも、おっしゃる通り、セミナーとかに行くのはちょっとハードル高いし危ない可能性もあるんで、当たり外れもね、多分あるから。
ちょっとなんか、次の雑談で、こんなのは本としておすすめですよとか、ちょっとご紹介したいなと思うので。
もしかね、あれば、そちらも聞いてみていただければなと思います。
はいはい、了解です。
今回はやっぱり、ハヤトがお得意の、というかね、仏教、インド哲学、東洋思想っていうところだからね、だいぶこう、そういう熱度をこもったというかね、また、
ハヤトの実体験だったりとか、ハヤトの感覚に即した話みたいなものでね、聞いて面白かったなーってのもあるし、
次はこう、テーマとして、この前ほら禅やって、今回インド哲学やって、次はまた西洋に戻るのかな?
そうですね、そうだな。次に行くともう一回西洋に戻って、サルトルをね、ちょっとやりたいなと思ってまして、
はいはい、サルトル。
はい、まあ兄貴がね、読んで土設したっていう実存主義の優みたいな人ですけど、禅をやる前にさ、キルゲゴールとニーチェやったじゃないですか。
で、なんとなく実存主義の走りみたいな話までやったと思うんですけど、そもそも実存主義って何でみたいな話をしていなかったなと思って。
うんうんうん、まあそうだね、全然わかんない。やっぱりわかんない。
サルトルを話すとその次にレビストロースって行動主義の人の話もしやすいし、そこから行動主義的なとかポスト行動主義的なことまでちょっとガーっていけるかなと思うので。
なるほどなるほど、それちょっと縦の流れってことだね、西洋哲学ね。ニーチェから先の縦の流れみたいな。