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2025-01-28 43:43

92 日本特有の人との関わり方について

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サマリー

日本特有の人との関わり方について議論が展開され、日本の社会における生きにくさや人間関係のしがらみが考察されています。日本人のコミュニケーション方法は直接訴えることが少ない印象が残り、その本質が浮き彫りになります。また、間接的なコミュニケーションや気づかせるようなやり取りが紹介されます。SNSを通じての告発や議論のあり方についても考察され、日本では解決に向かう仕組みが機能しづらい現状が指摘されています。このエピソードでは、日本特有の人との関わり方やコミュニケーションスタイルが探求されており、映画「12人のイカれる男」や「12人の優しい日本人」を通じて、日本とアメリカの対話の違いが分析されています。また、構造的な問題に対する理解の重要性が強調されています。人との関わりについて問題を議論しながら、個々の行動や責任を考えることが重要であると語られています。

日本特有の人との関わり方
こんにちは、上水優輝です。
永里優輝です。
さて、今日は、日本特有の人との、何でしたっけ?
人との付き合い方?
付き合い方。
関わり方。
関わり方。日本特有の人との関わり方についてお話ししていきたいと思います。
はい。
一応ね、月末ですけども、今年最初の配信ということで、
年末年始ね、日本に来られてたっていうことなんですか?
そうなんですよ。ずっと風邪ひいてたんですけど。
本当は対面収録年末する予定で、
本当、本当ごめんなさい。
たまたま東京で日程もあったからね、やりましょう。
だって最初は福岡か、福岡でやりましょうって言ってたんですけど、
そうですよね。
僕がその日東京にいるってなって、東京どうですかってなって、
行けますね、この時間ってなったんだけど、ちょっと体調直前で崩されちゃったから、
ちょっとやめておきましょうかってなったんですよね。
すいません、熱が出てしまいまして。
かんぽを飲んで直そうとしたんですけど、全然ダメでした。
長引いてましたよね。
だいぶ長引きましたね。
もうずっと体調不良みたいな感じ。初めてですね、こんな長く。
そうですか。
体調が不調だったのが。
あららら。今はもう感知してる?
今はもうだいぶいいというか、アメリカに帰ってきたから、
ちょっと時差分けあったものの、もうだいぶすっきりして、
好調な感じに戻ってきております、気分も、体も。
よかったですよかったです。
テーマが日本特有の人との関わり方っていうことで、
日本に帰って何か思ったことでもあるのかなって思ったんですけど、
そういうことではないんですか?
そういうことでもないんですけど、
最近スレッツを見てて、いろんな人が同じようなことを投稿していて、
その内容が、日本は旅行で行くにはいいけど住むところじゃない、みたいな投稿だったりだとか、
日本は便利だけど、住みやすいのは日本だけど、
行きやすいのは海外っていう投稿をよく見かけるんですよ。
で、この本質をちょっと探っていきたいなと思いまして。
なるほど、これはね、長里さんだろみんなところもありますけど、やっていきましょうか。
嘘嘘。
日本しか住んでないんで、知ったような口しか叩けない、イメージでしか語れないから、
そのイメージに対して、こうだった体験として、
それはただのイメージで実態は違うなとか、そういうのも含めて指摘していただけたらと思うんですけど。
そういう人たちが投稿を読んでると、生きにくさみたいなのが多分日本にあるでしょうね。
いろんな人間関係のしがらみだったりだとか、圧だったりだとか。
やっぱそうですよね、しがらみ、人のことを気にしてる感は、やっぱ強いイメージありますけどね、日本人って。他人、周りの人たちの目を。
感じますか、日本で生きててそれ。
感じますよ。やっぱりね、変であるということ、周りから逸脱しているということが、
なんかこう、すごいネガティブに捉えられやすいイメージありますね。
ネガティブか。物理学者の人となんか会ったんですよ、日本にいたときに、たまたまLAかなんかに住んでる。
その人も言ってたんですけど、日本人はよくも悪くも、
社会の中で、人のことをものすごく見るから、常に誰かに見られてるっていう感覚になるし、誰かが見てるっていう感覚になるから、
よくも悪くも、犯罪が起きにくい社会になっていると。常にその人が見てるから、公共の場で。
で、やっぱりマスク警察とかもあったじゃないですか。そういうふうな感じで、人が見てるから、そういう社会になってるけど、言い換えればすごく生きにくい社会だよね。
その方もやっぱり日本は住むとこじゃないっていうふうに言ってて。特に有名になればなるほど。
そうでしょうね。
っていうのを言ってて、じゃあどういうふうにその日本人ってそういった中で、人との関わり方だったり人間関係っていうのを気づいてるんだろうっていうのを、やっぱりふと気になっちゃいまして。
そういう投稿を見てたり、そういう話を聞く機会がやっぱり多かったので。
便利さと住みやすさのトレードオフ
やっぱり周りの人から変な目で見られないようにっていう、そのなんか、そういう基準で行動してるように見える。
基準がじゃあ自分の中にないってこと?
自分の理想に向かってというよりは、周りからなんかひどい目に合わないようにっていう、消去法っていうのかな。なんかその、周りがあって自分があるみたいな、順番としてはそうなってる気がする。思考ね。
それってみんな心地よいんですかね?
心地よくなくて、多分抑圧されてるから、たまに自由にしてる人がいたらすごい叩くんじゃないですか。
でも逆にそうやって抑圧されてることに、気づかないじゃないけど、それが当たり前になっちゃってて。
それ以外の価値観っていうんですか、概念っていうのがないがゆえに、それに慣れちゃってて、それが普通になってるから、こういうもんだっていうふうに思ってしまっている人の方が大半なのか。
だから圧倒的に、おかしなことをしないようにっていう意味では、ある範囲にみんながとどまっちゃうから、逸脱すると2種類に分かれる。
うまくいく人といかない人がいるじゃないですか、その逸脱したうえで。いかない人は頭がおかしいってことになるんですよ。
頭がおかしいから、そんなことなってるんだっていうふうに見なされるし、うまくいってる人はずるいになるんですよ。
ずるいって発音。
ずるいと頭がおかしいと、まともな人みたいな、そういう分布になってまともな人が多分8割みたいなイメージ。これ全部イメージで語ってますからね。
僕の今まで日本に住んでる感覚で言うと。
私もイメージの中でしか、私もやっぱり語れないんですけど、日本のことっていうのが、なんかこう、便利っちゃいったら便利じゃないですか、日本で住むって。
すごいそれを思うんですよ。何でも便利だなっていうのを思ってて。
結局なんかその便利さと、行きづらさがトレードオフみたいになっちゃってるのかなっていう気がしていて。
そうね。いやー、それめちゃくちゃそうかもしれない。
だから、なんか行きやすさっていうのも、日本では求められないものでもあったりするのかなと。
その中でも、なんか行きたいように生きてる人いると思うんですよ、日本の中でも。その範囲の中で。
日本人のコミュニケーション
それで言うとね、日本の中でもやっぱりすごい国内でも差があるなと思ってて。東京とかの方がやっぱり自由度が高い感じがします。
そうですか?
するする。福岡よりはしますよ。
へー。
やっぱり福岡まだ見られてる感覚ってのはすごいある。
田舎に行けば行くほどそうなる?
そういう感じですね、今までの経験上は。
でも、ちょっとこれ全然話、関係してるかどうかわからないんですけど、人身事故に巻き込まれたんです、日本に行った時に。
乗ってた電車が、その電車じゃなかったんですけど、多分1本か2本前の電車が人身事故にあって、で、それなんか前線ストップしちゃって。
で、1時間ぐらい復旧しないみたいな風になっちゃって、1時間も復旧しなかったら約束の時間に間に合わないっていう事態に巻き込まれて。
それ朝だったんですね。朝の通勤ラッシュの時間帯で。
で、とりあえずその降ろされた駅から目的地に行く方法を探すじゃないですか。
で、タクシーとかバスとかっていう手段しかないじゃないですか、日本って。
で、それで行ったらもう通勤ラッシュの時間帯なんで、どこもかしこも人だらけで、バスなんか乗れないし、タクシーなんか拾えないし、みたいな状況で。
私、だいぶ距離あったんですけど、4、5キロ離れた違う線の駅まで走るっていう選択をしたんですね。
それは、永里さんいいですね。そういう選択肢が一つあるっていうのね。
走るっていう選択肢は持てるんですよ、私の場合は。
ただ、アグのブーツに重たいリュックシャックを添えながら、かつ冬だったらヒートテックを着てたんですよ。
ヒートテックを着て、コートを着て、マフラーまでしてる状況で走るっていう選択をしたので、汗だくになるのも目に見えてるじゃないですか。
まあまあ、4、5キロも走ったらね。
で、30分以内には着けたんですよ、その駅までに。
はい、すごい。
で、待ち合わせの時間には5分くらい遅刻しちゃったんですけど、間に合ったんですね。
で、その乗り換え、違う線に乗った電車がものすごく満員電車だったんですね。もうやばいくらいの満員電車。
で、その、私、前にリュックを抱えながら携帯をこう持って、すごい一時困りながら携帯をいじってたんですよ。
そしたら、隣に立ってた、ちょっとこういう表現しちゃいますけど、ちょっとだいぶ小太りな人が。
はい、だいぶ小太り。
だいぶ小太り。で、もう息も税配しちゃってるような、だいぶ小太りな人がいてですね、隣に。
で、もうその人とくっつくような状態だったんですよ。で、私はもう頑張って縮こもってこうやって携帯、なるべく見ないようにしてたんですけど、
でもこうするしかなかったんで、こうしてたんですね。
あ、ちょっと今、こうしてるこうしてるって言ってますけど。
顔の前にみたいなところに、こう。
そう、顔の前に置いてですね、はい。っていう感じで、誰にも迷惑をかけないような状態を作ってやってたんですけれども、
そしたらその小太りの人が、下打ちをしてきてですね、急に。
で、直接何か言ってくるわけじゃないんですよ。
で、なんか下打ち、で、小言を言ってるんです。なんか多分私に対する文句なんだと思うんですけど。
その目線をチラッと私に送りながら下打ちして、なんか小言で文句を言う。
もうごちゃごちゃ言ってたんで、なんか聞こえなかったんですけども。
それがなんか、その人が降りるまでずっと続いて。
それ、直接言ってくるわけじゃないんですよ。
それで、その人去ってったんですけど、結局。
で、その体験をして、日本人のコミュニケーション取り方って、こういうコミュニケーションが本質なんだと思った。
いやでもね、そうかも。
そういう密室とか、緊急事態じゃないけど、そういう状況に追い込まれるからこそ、やっぱ本質って出るじゃないですか。
出ますね。
もうその、この人がなんか特別なんじゃなくて、なんか日本人基本こういうコミュニケーション取り方をするんじゃないかって、そこでなんかふと思ったんですよ。
本質はそこなんだと。
うん。
いやでもそれはね、あるかもしれない。直接別に訴えることもなく、ましてはそれが何ていうのかな、何がどうでっていう建設的に伝えるわけでもなく。
なんか個人的にね、チッとか言ってやってるみたいな。
やってるみたいな。こういうふうに日本人の人は人と関わるのかな、関わってなんか人との関係をこう作ろうとしてるのかなっていうふうに、今ちょっとふと思ったんですよ。
それで言うとどうなんですか、今まで住んだ国がいくつかあると思うんですけど。
はい。
そんなことないんですか、小言を一人で言ってるとかないんですか、そんな。
住んだら。ないですね、基本なんか。
ないんだ。
小言っていうか、なんだろう、その陰口的なのは多分あると思うんですよ。
はいはいはい。
やっぱその、女性の社会の中でやっぱ長いこと生きてきてるので。
うんうん。
やっぱりそういうね、ガールズトーク的な感じでね、やっぱスモールグループがこうできて。
うんうん。
そういうトークをしてる感じのあると思うんですけれども。
基本、なんかこう、そういうのはあんまりこう見せないように。
私があんまりその、なんて気づくタイプじゃないからかもしれないんですけれども。
特有のコミュニケーション
基本だいたい、ストレートに物を言うわけでもなく、なんか普通に間接的に何かを言うわけでもなく、ちゃんと人としてのコミュニケーションが成り立つみたいなのが普通ですよね。
うんうん。
嫌だなと思う対象がいるときどうするんですか、そのマイネージャーの中で何かに不満を感じていた。
そういう対応の仕方を見てると、ちゃんと言ってるな。
その対象に問題を解決しようとしてる。
対してちゃんと注意をするのか、そういうことをしてるとこういうふうに他人の人に迷惑をかかるよ、みたいな感じで、なんか伝えるみたいなことをしてる人が多いかなって思います。
なるほどね。
うん。
そっか。特有なのかもしれないですよ、もしかすると。
うん、特有なのかなってちょっと思ったんですよね、その経験を踏まえても。話長くなっちゃったんですけど。
いやいやいや、マイネージャーだけじゃなくて、なんか会社とかでもよく見る光景かもしれない。
おー。
なんか。
その、気づかせようとするコミュニケーションですか、これ。
気づいてもらおうとするコミュニケーションってやつですね。
あ、そっか。気づいてもらおうとする、うん。
だから直接言って、あ、私はあなたにこう言ってます、ではなくて、一人でなんかボソッと言ったことを察してもらって、変えてもらおうとするっていう多席的なコミュニケーションな気がしますよね。
だから前に進まないんですよね、なかなか。
そうですね、なんか社会のたてつけが少なくともね、たてつけが主体性というか、個人のそのね、個人ですよって一人の市民としてっていうのが前提としてある社会になっちゃってるから、
そういう意味では主体性を発揮して、自分がどうだっていうことをやっていかないといけない社会のたてつけだと思うんですよ。
それとマッチしてないっていうのはありますね。
たてつけか。
だから個人が自分でどうのこの考えてどうするっていう、その責任を持ってアクションするじゃなくて、どうにかしてっていう思考になっちゃってるのがめちゃくちゃミスマッチだなーっていうのは見てて思いますね。
確かに、なんか誰かどうにかしてって思っちゃう。思っちゃいますよ、でも日本に住んでると。なんか絶望感しかないんですもん、なんか。
変えられる気がしないみたいなのありますよね。
しないんですよ、そうそうそう。変わらないだろうみたいな感じがあるので。
かといって自分が何か変えようとやったところって変わらない。やってみなきゃわかんないだろうっていう風に言うかもしれないんですけど、やってみなくてもわかるぞみたいな感じのイメージとかもやっぱり浮かんじゃうなーってのがあるから。
ってなってくると、やっぱり私も日本は生きにくいのかなーとか思ったり。
なんかその最近だと、おかしいなってことがあったときに、誰かがそのSNSとかで、なんかのメディアで告発というかなんかをして、それで大炎上して社会の中で取り扱われるみたいなことあるんですけど、
その時の対応って、僕見てて盛り上がって、それがなんていうの、良くないことだよねってそういうことがあるってことがちゃんと認知されて、その問題を議論するきっかけになること自体はいいと思うんですけど、議論ができてないなって思うんですけど、
それ海外とかだとどうなんですか?そういう問題が告発があったときに、ちゃんと議論なされたり、もしくは専門の委員会みたいなのが立ち上がったら、機能するんですか?ちゃんと。
機能して解決に向かうっていうのが前提で、解決されることの方が多い気がしますね。
そうですよね。それがやっぱり日本だとなんか起こらないイメージっていうか、なんとか委員会までは行くけど、その委員会が機能しなくてなんかうやむやになっていくとか。
今もなんか盛り上がってますよね。
盛り上がってます。いくつかの、いくつかのことで盛り上がっていて、めちゃくちゃ声として上がってきているけども、
それに対するやっぱりなんていうのかな、みんなの批判みたいなのも、すごいバラバラじゃないですか。
意見がバラバラだったのはいいんですけど、事実情報と憶測と過程みたいなのが全部ぐちゃぐちゃになってて、
ぐちゃぐちゃですね。
それは事実じゃないよねってまた指摘すると、擁護するのか、事実かどうかで言うと事実ではまだない、憶測で今話してますよねみたいなことがもうできない時点で議論が多分できないんだと思うんですね。
できないですよね。というか全てネットに上がっている情報は全部事実じゃないじゃないですか、今のところ。憶測でしかないじゃないですか。
誰も事実関係を確認できないわけだから、その中でこの人たちはよく話ができるなと思うんですよ。
そうなんですよ。本人たちが出している公式発表とかは公式発表として、本人が言っているは事実、そこは事実情報だけど、真実はわかんないですよね、何が起こっていたかは。
そうですね、真実は。
隠されている部分、うやむやになっている部分については本当に何があったかわからないっていうのが基本だと思うんですけど、断定してみんな議論を、この立場を取って議論をするみたいになってるから、
それを何かと仮定して言ってますだったら全然いいと思うけど、仮定でもなくそれを事実としてやってるみたいなのが、いろいろ混在してやってるから、
あなたたち別の話してますよみたいな、何の話してるんですかみたいな状態で盛り上がってたりするから、もうちょっとね、せっかく告発があって、それがあってよくないよねみたいなことが議論されるきっかけになったのに、
議論の文化の違い
何にもならないんだなとか議論しても意味がないんだなっていう無力感につながっていきそうで、よくないなと思ってますね。
要はその認識と解釈に差がありすぎるんじゃないかなと思いますね、今の話を聞いてると。
その人それぞれ勝手な解釈と勝手な認識をして、勝手にその話を進めようとするというか批判するだったりだとか擁護するだったりだとか、
そこには情が入ったりだとか、いろいろがごっちゃ混ぜになって、結局何を議論してるんだっていう、そこに陥りやすいのが日本ですね。
それ海外では起こりづらいってのを聞いて、びっくりした。人間ってそうなんじゃないかなと思ったけど、日本人は特にみたいな感じはあるんですかね。
なんかその、やっぱり議論するのが文化としてあるのが大きな違いかなと思うんですよね。
教育の部分から、学校教育のところからそれがやっぱりあるので。
で、その答えを導き出そうとする議論っていうよりも、お互いのその意見をぶつけ合って、
着地点を見つけるじゃないけど、建設的なその意見交換をして、お互いの理解を深めるっていうのが前提にコミュニケーションがあるから、
誰かに否定されるだったり、ジャッジされるみたいな前提のもと、議論というか話し合いを進めなければならない日本とはちょっと違うかなって。
なるほどね。
だから行きやすいっていうのがありますよね、海外の方が。
いやーだからやっぱりあれですよ、民主主義だとか、人権だとかって、個人が尊重されるこの社会において、やっぱり自分がどうしたいか、何を考えたか、何を思っているかっていうことをお互いが表明し合って、
着地点というか、ちゃんとバランスを取っていくっていうのが、おそらくは西洋型の社会というか、たてつけだと思うんですけど、日本はそれを制度としてはインストールしてるけど、国民としては別に江戸時代から変わってないというか、原則としてはですね。
だからあんまりその個人とか人権みたいなものが、ちゃんとそれを理解できてる人もいますよ、もちろん。もちろんいるけど、割合として少数な気がして、よく人権が軽視されがちとか、意味がわかってないみたいな人が多い気がする。
よくも悪くも、なんか調和を求めようとするじゃないですか。調和というか、なんかこう。
みんなと一緒というかね、秩序というかね。
可もなく不可もなく争いごとなく平和にみたいな。いい点でもあると思うんですけどね。
まあ問題がね、そんな深刻じゃないやつだったら、まあまあそんなにめっくじはさせずに言ってもできるけど、結構やばい奴をまあまあまあみたいな感じで、なんか犠牲者の数で見てるみたいなところはちょっとありますよね。
それはあるかもしれないですね。
まあ一人なんだし、いや一人とかじゃなくてさ、この一人は何てことだよさ、みたいな。
そうね、だから。日本人って面白いなっていつも思うんです。
いやーでもなんかね、自分自身はね、海外で住んだことはないし、しょっちゅう海外に仕事で行くとか旅行に行くとかタイプでもないから、そこまでこうイメージでしか語れないけど、やっぱり2020年ぐらいかな、2020年だ、ニューヨークに2週間ぐらい旅行に行ったときがあって、
旅行って言っても、行ってこいっつってなんかチケットだけ取って行ったやつだから、本当に観光地を巡るとかじゃなくて、2週間いるみたいなやつですよ。つまりニューヨークで無職をしてる人みたいになったんですよ、2週間。
だから公園で1日過ごすとかそういうレベル感の、で美術館行ってみたいな、なんかほんと暇、お金はですね、多少は用意して行ったけど、観光地を巡るとかじゃなく、時間だけが2週間あるニューヨークでみたいな状況を過ごしたんですよ。
よくわかんない状況ですね。
よくわかんない状況ですよね。で過ごしたんですけど、あのね、その感じはわかる?人がそこまで干渉してこない感じっていうか、自分は自分でいい感じっていうか、なんかね歌いながら歩いてる人とかいるんですよ、なんか音楽を聴きながら。
それが自分がただそれを楽しんでてっていうのはそれぞれが確立されてる感じ。で真冬だったのにTシャツの人もいればコートの人もいるみたいな、もう着たいもの着てますみたいな感じだし、みたいな、なんか個人みたいなもの感じましたよね。
今それを聞いて思ったのが、今回旦那さんも一緒に帰ったんですね、日本に。で彼が気づいたのは、日本人の女性の方のファッションがほぼみんな同じだみたいな。
またこういう格好してる人がいる、またこういう格好してる人がいるみたいな。全部なんかこのマネキンのワンセット、なんかファッションの提携文じゃないですけど、なんかトレンドが多分あるんですよね、日本で今。
そのトレンドの人が目につくらしくて、毎回毎回。それを指摘してたのを聞いて、そういうところもなんか通するところがあるなって今思いました。
それ何県ですか? 県とかじゃないです。行くとこ行くとこで。行くとこ行くとこでですか。なんかそれは日本に住んでても、また地域差あるなと思ってて。東京はまだマシで、やっぱり多様だなと感じる、僕。
県美京で見てるみたいな世界だから、日本の中で行ってみるときに東京とか、特に街の中とかはすごい多様だなって感じるけど、福岡やばいんですよ。天神マジでやばくて。僕の目から見ても同じ服着てるみんな。
マジで?この人もこの人もこの人もこの人も同じ髪型して同じ服着てみたいな。本当にそんな感じはね、日本にいても感じるぐらい地域差があるから、海外から見たらもっとあると思う。
もっとだと思いますね。渋谷とかでも行ってたんですよね。また同じ格好。東京でもそれは感じたみたいです。
なるほどねー。僕はだから福岡から東京とかにたまに行ったときに、その、あ、やっぱ多少ね、多様でいいなーとか思ったりするんですよ。だから。
多少多様でいい?
でも多少ですよ、やっぱり。多少言うて。
でも確かにそれを指摘されたから、私も結構なんか服装を見るようになって、確かにみんな同じような服着てるっていう風に。
なんかそれってね、なんか同じでいるということと合わせて、似たような状態であるということと合わせて、助け合うんならまだいいけど、なんか最近の日本ってその助け合いもしないっていうか。
いがみ合うんですか?
日本のコミュニケーションスタイル
いがみ合うというか無関心。だからみんな違って、まあ無関心っていうのはまだわかるじゃないですか。違うもんねっていう。で、なんか接点が生まれるからコミュニケーションするってのはわかるんですけど、
同じにしてる割にはコミュニケーション取らんだみたいな。
同調しようと思って同じことをしてるわけでもないっていう。
だから悪目立ちしたくないのになんか一心な気がして、あなたと同じですよってしたくてやってる感じがしないんですよ。同じですよってしたいんだったらやっぱりそこでコミュニケーション生まれるじゃないですか。
うん、確かにそうですよね。
電車の地が本質なんじゃないかはあらがじめ間違ってない気がする。問題解決の仕方が自分がとか、問題解決向けての主体者として振る舞うんじゃなくて、
なんかボソボソって言って周りに気づいてもらってどうにかしてもらおうっていうのがなんか根付きすぎてる気がする。
それが本質です。
割とそんな気がしますよ。
って思っちゃいましたね。あれはもう忘れないと思います、二度と。変わる気配もないですしね。
ちょっとね、日本のいいところも言いたかったんですけどね。
言いたかったですね、ほんと。いいとこいっぱいあるんだよ、日本って。
そうですよね。
そうなんですよ。ちょっとね、悪い感じになっちゃったけど。でもいいようにも捉えられますよ、これ。
これをいいように捉えるの?
なんかその察知力というか、その辺の力も上がるんじゃないですかね。そういうコミュニケーションの取り方をしてると。
気づかなきゃいけないっていうのが当たり前になるから。
最近見た映画で、全然新しい映画じゃないですけどね、古い映画で、2つ見たんですよ。
1つは、12人のイカれる男、1950何年の白黒の映画で、それをモチーフにした、それを参考にした、12人の優しい日本人っていう、この2本の映画を見たんですよ。
前者は裁判でね、18歳ぐらいの男の子が、スラム街の男の子が、父親を殺したんじゃないかっていう疑いで裁判に会ってると。
その売信、12人が最後、部屋に入れられて、この件について裁判見ましたよねと。
この件について、12人で魔女一致で、無罪か有罪か結論出してくださいって言って、部屋の中に入れられて、その部屋の中でひたすら議論するっていう1時間半ぐらいの映画なんですよ。
無罪か有罪かを議論するっていう。で、12人それぞれ、映画だからキャラがあって、都会のインテリっぽくてロジカルな人もいれば、地方のみたいな人もいればとか。
50年代だから、全員男性で白人でとか、そういう偏りはすごいあるんだけど。
とはいえ、性格的には結構バラバラ、広告代理店に勤めてて、洋キャラですみたいな人がいたりとか、本当にいろんなキャラがいる。
その中で、11対1で有罪が11、無罪が1から始まって、ややおかしなところがあるんですとか言って、1人ずつ突き寄せていって、最後無罪になるっていうような映画なんですけど。
その中では基本的に、与えられている使命、売信員としてとか、裁判が持ってる意味だとか、確かじゃないものを裁いてはいけないとかっていう、本当にルールに対して理性的に考えて対話をして、
みんなに、それは確かにおかしいかも、今気づきましたとか、だんだんひっくり返っていくっていう感じの理性で考えるとか、そういうのを良しとしすぎていて、教養がないとか偏見があるとか、感情的って人が逆にあまりにもダメですよねっていうふうな、分かりやすく操作されてる感じなんですよ。
法治国家において、それが機能するとはこういうことだよみたいなのをやっている、理性で人はやっていかないといけないよみたいな、かなり極端じゃ極端なんですよ。理想を描いてるみたいな感じの絵。
で、優しい日本人の方はほぼ同じ設定で、死刑になるとかではないけど、21歳のシングルマザーの方が元夫を殺したのか殺してないのかみたいな裁判で、これも一緒で12人で万女一致で有罪か無罪か議論してくださいってやるんだけど、日本人の特徴は誇張しながらも、おるなーって感じ出していくんですよ。
無罪です。そう思ったからとか、21歳のあんな綺麗な人がそんなことするわけないとか、そんなことずっと続いてくるんですよ。とか、早く帰りたいからいいじゃんとか言う人もいるしとか、すごいそういう中、ここはおかしいよねっていう人が出てきて、また議論していくみたいな。
構造的な問題の理解
そっちはアレンジ加えられてるんで、そんなストレートにはいかないんですけど、日本人が議論するとこうなるよねーみたいなのをやってるんですね。それがもう本当に、今日話したような感じだなーと思って見てました。
まあ、映画だからね、多少まともな人がいて、上手いこといく部分もあるんですけど、全体としては、これだよなーみたいな。94年くらいの映画だから、やっぱりその。
そんな古くないっすね。
でもね、もう30年前ですよ。
あ、そっか。
そっか、もう30年前か。
そうなんですよ、びっくりして。だから、あの、売信員の会議室の中でタバコスパスパ吸ってるし、みんな。
で、隣で咳してる人がいるんだけど、むせてる人がいるけど、なんか、あ、もう咳変わりましょうかみたいな、そんなレベルなんですよ。タバコ止めないでみんなスパスパ吸ってる。だから、日本ってでもこんなんだよなーみたいな。もともと。
そんなんだったんだ。
歩きタバコとかもみんな吸ったし。
その辺の記憶ない。
ないですか。だって飛行機で吸ってた時代とかあるでしょ、確かタバコって。電車とか。
そうですね、だから禁止になってますもんね、今。
ねえねえねえ。なんかその辺のルールが変わったんだとかいうのに対する切り替わりみたいなのが、ちょっと意識としてやっぱね、構造みたいなところを見る人があんま少ない感じがしますね。
それは、なんか、うん、その、仕事をしてても感じますね、サッカーって。構造的にそのフィールドを見れない人が多いとかピッチで起きてる現象を構造的に見れない人が多い。
本当ですか。
っていうのは感じますね。なんでこういう構造なのにその視点で見れないのっていつもなっちゃいます。
いやそれが会社でもそうなんですよ。会社もやっぱ構造だから組織じゃないですか、もう。だからその組織通り動けば効率的だよねって、だから役割があるんだよねとか責任とか権限が置かれてるんだよねっていう前提があるはずなのに、なんか個人のなんか人間的影響力とかなっちゃうんですね。
そうですね。
何々さんが言うから、いや何々さんが言うからじゃなくてあの人に権限ないよねみたいな。何を言ってるんですかね、権限があるのは部長ですよねみたいな。なぜあなたがあの人になんか起源を取ってそんなことになってんのってのは普通にあるんですよ。
普通なんですよね、やっぱそれが育ってくると。昔からの普通なんですよね。そこになんか構造的なそういう概念を持ち込もうとするからなんかこうぐちゃぐちゃになってカオスになるのかなっていうのはありますよね。
そう、だから今はこの構造が前提ですってのが社会になってるから、それをなんか違和感なく理解できる人からすると、「はあ?」って思うことがめちゃくちゃいっぱいあるんだけど、でも逆にその構造で物を見ない人からすると、「はあ?」って多分思ってるんですよ。うるせえなって思うんですよ。
いやいやでもこれ構造的にやばいでしょっていうことを言ってんだけど、うるせえなって、ごちゃごちゃうるせえなになるんですよ。私の個人の意見というよりはこれもうルールで決まってることとか、理念としてそれやばいからさみたいな、それ無理に的に大丈夫ですかみたいなことを、僕の価値観というよりはこういう社会ですけど大丈夫ですかって言ったら、いやもうそんなんじゃないからさ、そんなんじゃないってあなたがそんなんじゃないわけですよねみたいなことが起こるんですよねよく。
なんかそれをなんか男性が言うか女性が言うかでもなんか違ってきません?
ほう、どういうことですか?
なんかあんまり女性がそういうことを言ってるイメージがないんですよ、構造がどうなのみたいな。
あーはいはいはい。
なんかそういう話をする人ってあんまりいないんじゃないかなって思ってて、で逆にそういう話をなんかする人のことをけぎらう人の方が多いかなって気がするんですけど、女性がそういう話をすると。
あ、女性がそういう話をすると。
勝手な想像ですけど。
えっとね。
ちょっと偏見入ってるかもしれないですけど。
それはね偏見じゃなくてダブルなんですよ。まず男が言っても構造的な話をすると、構造的な理解が苦手な人からすると、なんかごちゃごちゃ答えみたいに言ってきてうるせえなってなるんですけど答えじゃなくて実際に書かれてることです。人権なんてもう書かれてるんだからさ憲法に。
憲法とか法律とか書かれてることを言ってるだけだから僕の意見じゃないんですそれは。もう書かれてるからさっていう。そういうたてつけでやってますよねっていう話なのに僕の意見とか僕がうるさいみたいになったりとか、僕じゃないにしても言ってる人がうるさい、ごちゃごちゃうるさい人とうるさくない人って感じで、まあその時点で男性でも嫌われますと。多くのそうじゃない人にとってはね。
で、かける男女差別みたいなのがまだまだ根強いじゃないですか日本って。うん。だからそれプラス女性差別が入ってるからさらに。余計にっていう。構造的にごちゃごちゃうるさい×女性べしみたいなかけ算してよりひどいみたいになっちゃうんじゃないかな。そんな気がしてるんですよね。
よくないよね本当に。その物事を構造化する時も。ねえ。うん。
基本的に今色々起こってるその何ていうのかな差別的な出来事とか倫理的にどうなのって疑問として上がってくるやつって構造的に解決するしかないと思うんですよ。個別の事象はもう裁判でいいなんかもう話はいいとかでやるしかないから。
でもそれが起こる土壌というか環境がありますよね構造がありますよねっていうのが今回というかね最近やってるような政治だったりいろんなメディアの問題だったりありますけどそこの話できないんだよねみんな。
そもそもしてる構造がなかったりそのルールが曖昧だったり規定が曖昧だったりするからそういう問題が起こるわけじゃないですか。うんうん。なんかその問題が起きないような構造をいや仕組みっていうのを作ればいいっていう話なのにそこに話がいかないじゃないですか。
分からない。個別の誰々さんがみたいな話ばっかりずっとしてるからそれはそれで明らかにした方がいいけどそもそもこのここにそういう構造があるよねないよねっていうことは明らかにしないといけないよねっていう話が全くそういう話にいかないっていう。
それはすごく思うんですよね。その事象だけ見てそこを解決しようとしたら何も解決されないじゃないですか結局。だからそのなんか環境的にそれが起きない仕組みっていうのを結局作らないとその問題はやっぱり繰り返し起きるよねっていう話で。
そこでねちょっと驚きなのがあのジャーナリスト頑張れって思うんですよもうちょっと。
日本のジャーナリストはジャーナリズムをしてない人のほうが大半だと思うんですよね。
お気持ち表明をしたりとか持論を展開してる中でいやいやちゃんとそこは取材してさ、ちゃんとそこは当事者たちから引き出してくるとかそういうことしないと。
あなたの意見を言うなら別にジャーナリストっていうかあなたそれただのね意見を言ってる人だから。
なんか見かけましたねそれちょっと私も。
ねありますよねそういうのね。
意見なんてみんな今SNSで言えるんだからさ意見はSNSでいいからさそのちゃんとその整理してよ取材してよって。
そうですね事実関係からだったりね当事者からの言葉だったりね。
そうそう議論でそういうことできるその情報をちゃんと取ってきてよって思うけどもうなんかねちょっとついね最近見た記者会見とかでもね。
社会問題と個々の行動
まあそのやっちゃってる側ですよそのやらかしちゃってる側はもうわけがわかってないからそうやってたりもしくは核侵犯で隠蔽したりとかいろいろあるかもしれない事情がなんかいろいろあるかもしれないけど。
それに対してどう切り込むかがやっぱこうジャーナリストの仕事じゃないですか。
もうなんかね同レベルかそれ以下みたいな感じのやりとりになってるからもうなんなんだこれはみたいな。
だからもう割と前半に戻ってくるけどせっかくこの問題をちゃんと問題ですよねって議論するきっかけができたのにああこうなるんだってなったらまたもうみんな諦めの気持ちになっちゃうんじゃないかっていう。
なりますねそれは。
根深いですね問題がちょっと。
相当根深い。
ちょっと無力感ありますもん僕社会に対して。
ありますね社会に対してはありますね。
もう自分のもう目と手の届く範囲で一生懸命よくしていくっていうことぐらいしかエネルギーが出せない。
ぐらいしかできないですよね。
社会全体をとかもう到底言えない。
無理ですよ。
嘘になるそんなことを言ったら。
思えない。
期待が持てないから。
自分が本当に責任を持ってやれる範囲のことで一生懸命やる。
結局なんかそれを国民一人が全員がそれをすれば変わっていくじゃないですか。
そうなんですよそうなんですよ。
そういうことですよね。
本当そうなんですよ。
トップダウンでバーンって大きく変えたいんだったらせめてみんなが議論できるレベルにないと変わらないと思うんですよ。
結局グチャグチャグチャって言って何にもならなかったら何も変わらないから。
だったらどっちかというと議論ができるようになるかできないんだったらもう自分のところでできることをみんながそれぞれやって。
国民一人一人が育っていけばいいだけなんですよ。
国民一揆ですね目指すは。
それぞれ小さなリーダーがたくさん誕生してそれぞれが思う課題に向き合って課題解決していってるみたいなのが健全な気がしますね。
それが国を変えていくと信じてます。
我々は腐らずやっていきましょうね。
はいそうしましょう。
じゃあ今日こんなところですかね。
番組のご意見ご感想こんなテーマで話してほしいなどハッシュタグしそふれをつけてぜひXにポストしていただけると嬉しいです。
それではまた来週さよなら来週じゃないねまた来月さよなら。
そうですねさよなら。
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