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始まりました、志賀十五の壺。 皆さんいかがお過ごしいでしょうか。志賀です。
中島みゆきさんの歌っていいですよね。 もう名曲揃いで何回も聴いちゃうっていう感じなんですけど、
僕自身もですね、カラオケ行ったらファイットは必ず歌いますね。 キーは3つぐらい下げるんですけど。
あとは、地上の星とかね、すごい盛り上がるし、
別れ歌とかもいいですよね。 っていう感じで、数ある名曲の中でもですね、時代っていうのもまたいいですよね。
回る回るよ、時代は回るっていう歌詞がございますが、今回のトークはですね、
言葉も回ってるんだっていうのをね、ちょっとお話ししたいと思います。 言葉が回るって一体どういうことなんだってね、ちょっとピンとこないと思うんですけど、
このトークを聞き終わる頃には、なんとなくわかっていただけると思います。
でですね、今日話すのは、よく日本語の話をしてるんで、今回も日本語の話です。
その中でも、過去形の「た」っていうね、
食べたとか、行ったとか、 まあ、読むとかいう動詞の場合は、読んだって多少音変化はあったりしますけど、
この「た」っていうね、 これについてお話ししようと思います。
なんか偉いピンポイントだなぁっていう感じがすると思うんですけど、 まあこれもね、
位置形式に過ぎないといえばそうなんですけど、 詳しく見ていくと、まあこれがね、面白いんですよ。
この「た」っていうのは、 歴史をさがのぼればですね、いわゆる高校で習うような古典の時代だと、
「たり」に相当します。助動詞「たり」。 官僚の助動詞というもので、
まあ「たり」と「り」っていうのがあって、 その中でも「たり」っていうのは、 連用形接続とかいうものです。
なので、 まあ、読みたりだったら、
読んでしまったとかね、 書きたりだったら、書いてしまったとか、
そういうことになってるんですけど、その「たり」が今、 現代日本語だと、読んだとか書いたっていう形に落ち着いていると、こういうことです。
この「たり」っていうのがどうやって「た」になったかっていうと、 一応こういうふうな説明が考えられてるんですよね。
というのが、この日本語の歴史のある時点でですね、 まあ徐々にだと思うんですけど、
連体形と終止形が同じ形になるっていう現象が起こりました。
で、このことについては、ネットスラング草っていうのを言語学するっていうね、 そういうトークを過去にしているので、
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ぜひね、これを聞き終わった後でいいんで、 そちらも聞いてほしいんですけど、
ちょっとね、その経緯とか、その理由とかね、 っていうのもかなり面白いので、
まあ詳しい話はそちらに譲ってですね、 まあ今はとりあえず、
連体形と終止形が同じ形になったっていうね、 その事実だけお話ししますね。
で、もっと言うと、連体形の守備範囲が 終止形まで含んじゃったということなんですよ。
で、このたりっていうものの連体形はたるなんですよね。 なので連体形っていうのはその体言に続く形なので、
書きたる、ふみ、とか言うと、 書いた手紙とか言うことになるんですよね。
で、この書きたるっていうこの連体形は、 終止形でも使われるようになって、
まあ、なんだろうな、男ふみ、書きたる、 とかそういうことになったんでしょうね。
で、男がふみっていうかその手紙を書いたっていうことで、 まあバンバン連体形が終止形でも使われるようになってきたと。
で、さらにですね、このたるのるが落ちるっていうね、 削除されるっていうその音変化もある段階で起こったようです。
それでたっていう形に落ち着いて、 まあさらにね、書きたから書いたっていう、
これは音便と言われるまた別の音変化があるんですよね。 で、よみたがよんだになるっていう。
まあそういう音便もまあ面白いんですけど、 ちょっと今は置いといてですね。
とりあえずるが落ちてたっていう形に 落ち着いているということですね。
で、このるが落ちるっていうのは、 この助動詞たり、たるだけではなくてですね、
例えば現代語で形容動詞と言われる きれいだとかっていうのも、
あれも何か名詞を修飾するときは きれいな人ってなっていうのが出てきますけど、
あれはもともときれいになる人の るが落ちた形であると考えられています。
なので日本語の歴史のある段階で、 るが一斉に落ちるっていうことがあったようです。
まあこれはおそらく地域的に 偏りはあったと思うんですけど、
ひとまずですね、そういうふうにして、 助動詞たりがたるに変わって、
今の過去形のたに変わっている ということなんですよ。
はあそうかい、っていうことなんですが、 さらに面白いのはこのたりっていうのは、
さらに遡ればですね、 てありから来てるんですよね。
なので、見てありから見たりになって、 見たるになって、るが落ちて、
現代語で見たになってるんですよ。
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つまり、今現代語で見たって言ってるのは、 もともと見てありから来てるっていうことは、
この見てありっていうのは、 つまり動詞プラスてに存在動詞がくっついてるってことですよね。
ありって存在を表す動詞なので。
これは見てありって今で言う見ていると ほぼ同じだったと考えられます。
つまりですね、大昔見てありでこれで完了を表してて、 それが縮まって見たりになって、
で、だんだんだんだん見たになる段階でですね、 過去を表すようになっちゃって、
そうすると今度完了を表すためにまた、 見ているっていうのが現代語で現れ始めたっていうことなんですよ。
しかもまんま同じ方法で、 定プラス存在動詞っていう全く同じ方法で完了を表してるんですよ。
見ているって確かにね、いろんな意味があるんですよね。 で、一番思いつくのは進行とかが思いつくと思うんですけど、
ただ、その映画はもう見ているとか言った場合は これ完了ですから、
見ているってやっぱその完了も表すんですよ。
さらにね、今ね、見ているっていうのは 口に出すときは見てるになりますよね。
で、これは見てありが見たりになったのと 全く同じような変化を今たどってるわけですよね。
なので冒頭に言った時代は回る、中島美恵さんのと同じように、
このね、完了を表す形式も日本語の中で グルグルグルグル回ってるということなんですね。
つまり、て、プラス、存在動詞あるとかいるみたいなものが 完了を表してたんですよ、大昔から。
で、それがだんだん形が縮こまって、見たになっちゃって、 で、表す意味もだんだんだんだん過去になっちゃうと、
完了を表すために全く同じ方法で て、プラス、存在動詞で見ているっていうのが今表れて、
さらにまた縮こまって見ているになってると。 で、もしかしたら今後この見てるがまたね、どんどんどんどん進んで音変化が何かが起こったりして、
過去を表すようになったら、 同じ方法でまたね、
て、プラス、存在動詞っていうのが現れてくるかもしれませんね。 これはわかりませんけど。
だからまあこれって面白いですよね。 誰に習ったわけでもないのに、
同じ方法で 同じ意味を表そうとしてるっていうことなんですよね。
もしかしたら他にもね、 似たような例はあるかもしれないんですけど、
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パッとね、今きれいにご説明できるのは、 このて、プラス、存在動詞っていうね、
これが一番わかりやすいんじゃないかと思います。 さあいかがだったでしょうか。
まあちょっとね、高校の時の古典の知識が抜け落ちてたりすると、 なんかピンとこねーなーとか、何のこっちゃっていうことだったかもしれませんけど、
こういうふうにね、現代日本語と照らし合わせて考えたりすると、 古典もね、ずっと親しみやすくなると思います。
というわけで今回はここまでということで、 もし何か話してほしいテーマとかご質問等あれば、
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ではまた次回お会いしましょう。 よろしかったら番組クリップお願いします。
ではまたごきげんよう。