ポッドキャストの持続性
この番組はもう5年続けていて、今6年目なんですね。2020年の2月から始めて、それだけ長い間番組を続けてこられたということは情けないようで、たくましくもあります。
音声配信に限らずかもしれませんけどね、こういうポッドキャスト的な音声配信でそんなに長く続いている番組ばかりでもないと思うんですよね。
当然上には上がいるというか、もっと長いことをやっていらっしゃる番組も多いと思いますけど、数の上で言えば辞めていった人の方が多いですよね、きっとね。
ありがたいことにね、この番組聴いてくださっている方がいらっしゃるので、聴いてくれている方がいるからこそ続けてこられたっていうのはもちろんあります。
が、それが全てというわけでもないというか、単的に言えば褒められるためにやっているわけではないんですよね。誰かに認めてほしいとかね、褒めてほしい、それはそういうことがあれば嬉しいですけど、
そういう自分以外のものに基準を置いてやってたら、特にこの番組は終わってたと思います。聴いてほしい、褒めてほしいっていうのをモチベーションにしていると、いろんな意味で危ういんじゃないかなと思いますね。
過去のエピソードでも何とかお話したことありますけど、そもそも僕はモチベーションとかやる気っていうのを信用していないので、この番組はそういうのからできるだけ離れてやっていこうと思ってますので、ないわけではないと思うんですよね。
モチベーションとかやる気っていうのがないわけではないですけど、それには頼らないように、そういうのがなくてもなんとかなるようにやっております。しかし自分の根本には言語学の番組ですからね、この番組。言語学への情熱というかね、興味とかね、そういったものは確実にあると思います。BGMです。
始まりました。4月15日のツボ。皆さんいかがお過ごしでしょうか。ビオレママです。
これも過去のエピソードでお話したことがあるんですけど、僕が言語学に興味を持ったタイミングっていうのは明確に覚えていて、その何月何日何曜日とかそういう意味ではなくて、衝撃としてね、明確に覚えていて。
それは国語の授業でした。中学の国語の授業で、文法っていうのをやりますよね。主語と述語とか文節とかね、女子女動詞とかああいうやつですけど、その国語の授業で日本語の動詞はウダンで終わりますっていうのを習ったんですよね。
走る、歩く、食べる、飲む、見る、聞く、日本語に山のようにある動詞は全てウダンで終わるというのを学校の国語の授業で習って、それが衝撃だったんですよね。
順番で言うと、本当は逆で、ウダンで終わるある単語のグループのことを動詞と呼んでいるので、順番としては逆なんですけど、それで3つの衝撃があったんですよね。
1つは、そういう日本語の動詞はウダンで終わるという事実そのものをですね、動詞っていうのはいろんな意味を表しますけど、必ずウダンで終わるという美しい規則が日本語にあるというその事実に衝撃を受けました。
これが第1の衝撃で、第2の衝撃は自分がそのことを知らなかったということですね。日本語っていうのは毎日使っていて、10年以上当時だったら母語として毎日使っている日本語について動詞がウダンで終わるということを知らなかったんですよね。
気づいてもおかしくないような気がするんですけど、自分自身がね、そのことを知らなかった、気づきもしなかった、なのに日本語は話すことができる、ルールは知らなくても話せるっていう、そのことに衝撃を受けました。
それが第2の衝撃で、第3の衝撃は周りの友達というか周りの生徒は対して衝撃を受けていないということでした。日本語にそういうルールがあって、そのことを知らずに話しているということも衝撃なのに、周りの友達は全然衝撃を受けていない、退屈そうにしているということに衝撃を受けたんですよね。
これをきっかけに、自分は言語に興味が湧いたっていうのもそうですし、他の人が面白いと思っていないことを面白いと思えるっていうね、そういう自分のセンスというか感性みたいなものが発見できたんですよね。
これは話としてよくできているというかね、過去にも話したことがあるからそれなりに流暢に話せるんですけど、そういう自分の興味のあることというか面白いと思えるものを発見できたというのは幸運なことかもしれません。
ただ、うよ曲折あったというか、そのまま言語学の勉強を始めたわけではなくて、中学卒業して高校に入るわけですけど、高校の英語とか古文とか、そういう言葉を扱う授業は好きでしたけど、言語学という学問を自分で勉強し始めたわけではありませんでした。
言語学の本とか多少読んだりしましたけど、本格的に学問として言語学の勉強を始めるのは大学に入ってからですね。
それまで自分の興味を失わずに情熱を絶やすことなくっていうか、大学まで行けたというのも幸運なことだったかもしれません。
それ以来言語学にはハマっているという感じで、こういう番組を持つに至り、さらにそれも5年以上続きというそんな感じですね。
感性を守る重要性
今回のエピソードで僕が言いたいのは、言語学って面白いねとか、みんなも言語学学ぼうよとか、それはそれでいいんですけど、そういうことではなくて、自分の感性とか自分のセンスっていうのは自分で守るしかないということですね。
これも多分過去のエピソードで話したことある気がするんですけど、僕の場合はそれが言語学でしたけど、皆さんそれぞれワクワクするものというかね、面白いと思えるものがね、かつてはあったはずなんですよね、今はないとしても。
特に子供の時に面白いと思えたものを大人になってもね、それを持ち続けられるっていうのは努力というかね、自分で守るしかないんですよね、やっぱりね。
どうしても子供というか、学校っていうのは友達付き合いとかもあるので、自分はつまんないと思ってても仲間外れにされたくないからとかね、そういった理由でつまんないことでも面白いと思えないものでも手出してみたりとかね、そういうこともあると思うんですよね。
そういう社会的に生きていくための技術というか術っていうのは、それはそれで必要だと思います。
みんなが面白いと思っているのを付き合いで面白いというのも楽に生きるためには必要なことだと思うんですよね。
ただ、それによって自分の感性が枯れていってしまうとしたらそれはちょっとまずいことだと思うので。
僕の場合も言語学について語り合える友達がいたわけではありません。
そういう友達がいたらそれはそれで楽しかったでしょうけど、そういう友達がいなくても自分の中で自分が面白いと思えるものを持っていればそれでいいんですよね。
それを大人になるまで守り続けることができれば、こういうふうに番組やるに至ったりするわけなので。
だから子どもたちはね、本当に自分の面白いと思えるものを大事にしてほしいですよね。
それって誰かに教わるものでもないし、もしかしたら他の人とは違うような感性かもしれませんけど、それこそが個性ですからね。
流行っているからとか、周りが面白いと言っているからといって、そういったものばかりに自分の時間を使っちゃうと、極端なことを言うと自分がなくなっちゃうわけなので。
子どもだけではなく大人もかもしれませんけど、僕は運良くね、子どもの頃からそういうのをきちんと守ることができたっていうかね、育てることができたのでラッキーだったと思いますね。
僕の場合はその言語学っていう学問的なものでしたけどね。
それが音楽でも芸術でもなんでもね、自分の感性に響くものを大事にしていったほうがよろしいんじゃないかという、そういったお話でございました。
それではまた次回のエピソードでお会いいたしましょう。
番組フォローも忘れずよろしくお願いいたします。
お相手はシガ15でした。