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始まりました、志賀十五の壺。皆さんいかがお過ごしでしょうか。餃子の満州です。
お便りいただいております。マクタブさんからいただきました。ありがとうございます。
最近、ポッドキャストのことをラジオと呼ぶ人が増えた気がします。
元のラジオはいつか電波ラジオとでも呼ばれるようになるんでしょうかね。
こういう現象って時々ありそうですが、言語学でも扱えますか。また、古いものへの命名に傾向とか法則ってあるんですかね。ということで、マクタブさんどうもありがとうございます。
ポッドキャストとラジオは明確に異なるものなんですけど、
割とラジオっていうのが名前に入っている番組も結構あるんではないかと思います。
どうですかね。ポッドキャストを完全にラジオと呼ぶようにはならないんじゃないかなと思うんですけどね。
そもそもポッドキャスト界隈っていうのがかなり狭い世界なので、その中でラジオと呼ぶようになっているだけであって、
今後ポッドキャストが広がれば、そっちが本当にラジオになっちゃって、
マクタブさんのお便りにあるように、本来のラジオが電波ラジオみたいにね、言われるようになるかもしれません。
音声配信の時代が来るっていうのはね、ずっと僕も聞いてるんですけど、なかなかその時代も来ないんでね、
お前が頑張れよっていう感じですけど、まだそうなるまでは時間がかかるんではないかなと思います。
あるいはオンラインラジオとかいう言い方も聞いたりとか、あるいはインターネットラジオとかね、
いわゆるラジオという機械を使わずラジオ番組を聞くっていう手段とか機械は増えてますので、
その辺りの境界はなくなっているのは確かだと思いますね。
ポッドキャストだろうがラジオだろうが同じスマホという機械で聞けるので、
両方ラジオと呼ぶ気持ち、呼びたくなる気持ちはわかんなくもないですね。
こういう例は結構あると思います。
例えば家電とか家で使う電話というか、いわゆる固定電話のことですよね。
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携帯電話が普及しちゃって、むしろ電話と言ったら携帯電話の方をさせようになっちゃって、
家の電話のことをわざわざ家電というようになったとか、
服もそうだと思うんですけどね。服って本来多分和服を指してたはずですけど、
現在では服と言ったら洋服のことで、和服のことはわざわざ和っていうのをつけて和服っていう言い方をしてますよね。
もしかしたら今後電子書籍の方が優先になっちゃったら、そっちの方を書籍と呼んで、
普通の本のことを紙書籍とわざわざ言うような時代が来るかもしれません。
書籍と言ったら電子媒体の方で、紙の方は紙書籍っていう風にね。
取って変わられるっていうようなことがいろんなところで起こる可能性はあります。
要は信仰勢力に乗っ取られちゃったっていうことで、
デフォルトあるいは言語学的には無表、アンマークトな方が変わっちゃって、
本来デフォルトだった方がちょっと特別な言い方になっちゃってるっていうようなことが、
いろんなところで起こってると思います。
こういうのは社会情勢っていうかね、世の中の流行りすたりみたいなものと連動してて、
その社会や共同体で、そっちの方がデフォルトになっちゃえば、
記号の方もデフォルトの方を使っちゃうっていうかね、
まあそういう説明ができるんではないかと思います。
そういう新しいものの方がデフォルトになっちゃって、
古いものの方がちょっと特別な言い方をするっていうことに、
何か法則性とか傾向があるかと言われるとちょっと何とも言えないですが、
もしかしたらあるかもしれません。
こういうのは一種の意味変化ということができると思います。
記号論、記号学的に言うと、
ラジオという聴覚映像というかシニフィアンですね。
ラジオというシニフィアンと結びついているシニフィエが、
ポッドキャストの方に変わってるっていうかね、
そこで変化してるっていうことをですね、
シニフィアンとシニフィエ、表すものと表されるものが変わってるっていうことですが、
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こういったことは広く意味論で扱われるものです。
意味論もこういった場合は2つに分けて考えることがあります。
一つは語義論、もう一つは名義論と言われるものです。
これも定訳として一般に普及しているかどうかちょっとわかんないですが、
英語だと語義論の方はセメイセオロジー、名義論の方はオノメイセオロジーと言います。
この語義論と名義論は意味を扱うというか、
シニフィアンとシニフィエの関係を見ると言えばそうなんですけど、
語義論の方はシニフィアンの方をある意味固定してシニフィエを見るっていう感じで、
名義論の方はシニフィエの方を固定してシニフィアンの方を見るっていうような感じなんですね。
こういうのは具体的例があった方がわかりやすいですが、
明日っていう単語は現代日本語ではトゥモローですよね。
今日の次の日っていうことですけど、
午後ではこれはモーニングの意味でした。朝だったんですよね。
ですので、明日というこの記号が表しているのが、
モーニングからトゥモローに変わったっていうこの意味変化は、
語義論的な分析ということができます。
一方、名義論的に意味変化といった場合は、
これも日本語の例で考えると、
古語でヘッドのことは頭と言ってたんですよね。
で、同じヘッドを現代日本語では頭と言います。
平たく言えば、こういうふうに同じ言語が現実のものをどうやって表すかっていうのが、
名義論と言われる方法です。
繰り返しですけど、これもまた平たく言うとですけど、
言葉っていうのは音と意味の組み合わせだとしたら、
音の方を固定させて、それが表す意味の方がどう変わってるかっていうのが語義論で、
意味の方を固定して、それを表す音というか形式の方の変化を見るのが名義論です。
単に意味変化といった場合、果たしてそれは語義論的な意味で言ってんのか、
名義論的な意味で言ってんのかっていうのは、もしかしたらちょっと気にする必要はね、あるかもしれません。
それではまた次回のエピソードでお会いいたしましょう。
番組フォローも忘れずよろしくお願いします。
お相手はしがじゅうごでした。
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またねー!