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始まりました、志賀十五の壺。皆さん、いかがお過ごしでしょうか。チャーリーブラウンです。
今回のエピソードテーマは、ズバリ分裂能格ということでね、お話ししていこうと思います。
分裂能格、これは非常に専門的な用語で、まず言語学を離れて、一般的に用いられることはないと思いますね。
これがどういったものかっていうのをね、今から説明していくわけですが、
この分裂能格と言われる現象は、
典型的にはというかね、よく言われるのは、オーストラリアの先住民言語、いわゆるアボリジニーの言語で見られると言われております。
今回ね、例に挙げようと思っている言語は、ワルガマイ語という言語なんですが、
これはね、ウィキペディア見てみたら、死語になっているっていう風になってますね。
話されていたのは、オーストラリアの北東クインズランドということで、
1981年の時点で和謝は3人だったという風に、ウィキペディアには書いております。
ワルガマイ語、この言語で分裂能格と言われる現象が観察されるということでございます。
これはね、なかなか深い話なんですよね。
どういったことかというとですね、簡単に言うと、主語や目的語っていうのをどうやって表すかっていうことなんですよね。
日本語だったら、主語にはがっていうのがついて、目的語にはをというのがつきます。
大体そんな感じです。
はというのがあって、これを主語という人も中にはいるかもしれないんですけど、はというのは主題です。
それよりは主語っていうのはが、目的語っていうのはを、とりあえずこういう風にシンプルに考えていこうと思います。
さて、ワルガマイ語の主語や目的語っていうのはどうやって表されるかというと、主語っていうのには何もつきません。
というかつかないように見えます。
我々二人が言ったっていう文は、なりががいというそうです。
で、このなりっていうのが、これは一人称の総数形だそうです。
総数形っていうのは、複数ではなくて二人専用の形です。
で、我々二人っていうのがなり。
で、動詞がががいということで、これが行くという動詞で、SV語順ですよね。
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で、このなりっていうもの自体には、まあがみたいなものはついてないし、なんというかね、そのままの形で主語として機能しております。
まあよくよく考えたら、日本語みたいに主語に何かつくっていうことの方がおかしいのかもしれません。
我々が行くっていう風に日本語だとがというのが出てくるわけですけど、
というのが主語っていうのがある意味一番よく出てくる名詞なんですよね。
で、そういったものは普通ゼロで現れるということが多いです。
まあそういうのを無表と言ったりもします。
ですので日本語みたいに主語を明示的に表す表示がつくような言語のことを有表主格の言語とかね、まあそういったりすることもあります。
なので主語を表す形っていうのはさっき言ったようにゼロであることが多いんですよね。
で、悪構い語という言語も一旦ここでは主語というものには何もついていないように見えます。
さて次に行くみたいな自動詞ではなくって見るみたいな他動詞を考えてみようと思います。
我々二人がカエルを見た、カエルを見ているっていう文は、
なり、がなる、ぐんだいと言うそうです。
最後のぐんだいっていうのが見るという動詞なんですね。
さっきと同じなりっていうのが出てきていて、
まあこれ我々二人ということで主語なんですよね。
でやっぱり主語には何もついてません。
でカエルの方はがなうと言って、
まあこっちにも何もついてないんですね。
つまり日本語風に考えると、我々二人カエル見たということで、
名詞にがやをみたいなものはくっつかずに、
ある意味裸の名詞を並べるだけで、
主語や目的語を表しているということになります。
ということは悪構いという言語では、
主語や目的語を表す特別な標識はないのかっていう風にね、
まあそうなりそうなんですけど、これねそうではないんですね。
今のは我々二人がカエルを見たという文だったわけなんですけど、
これが逆で、カエルが我々二人を見た、
こうなるとちょっと話が変わります。
その場合、動詞は同じ、
文題っていうのを使うんですけど、
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文全体としては、
がなるんる、なりにゃ、文題という風になります。
さっきまで何もついてなかったカエルっていうのには、
がなるんるという風にんるという、
節字ですね、がついて、
で、我々二人っていうのにも、
なりに、にゃというのがついて、
なりにゃという風になります。
つまり、我々二人っていう、
まあこれ代名詞ですけど、代名詞の場合は、
他動詞の目的語になる時には、
にゃっていうのがつくということですね。
自動詞の主語や他動詞の主語の時には、
なりっていう何もつかない形でした。
一方、カエルっていうがなうっていうのは、
目的語の時には何もつかないんですね。
で、今回例あげてませんけど、
おそらく自動詞の主語の時にも何もつきません。
が、他動詞の主語の時だけ、
がなるんるという風に、
んるという特別の標識がつきます。
これが今回のテーマの分裂能格と言われるものです。
つまり名詞の種類によって、
主語や目的語の表し方が違うということです。
ここでは代名詞の場合は、
自動詞の主語、他動詞の主語には何もつかないゼロ。
目的語の時だけにゃというのがつく。
一方、カエルみたいな名詞の場合は、
自動詞の主語と他動詞の目的語の時には、
がなうっていう何もつかない形ゼロ。
一方、カエルが我々二人を見たみたいに、
他動詞の主語の時だけ特別の形を使うということで、
言語学では能格という言い方をするんですね。
さて、なんでこんなややこしいことになっているんだろうという気もしないでもないです。
日本語だったら、我々がカエルを見た。
カエルが我々を見た。
カエルだろうが我々だろうが、
主語だったらがっていうのを使って、
目的語だったらをというのを使います。
ただ、わるがまい語のシステムも、
ちゃんと理屈に通ってるんですね。
どういうことかというと、
代名詞みたいな、
我々とかね、あなたとか彼彼女みたいなものは、
基本的に人を指すものです。
で、こういう人間を表すというか、
人間名詞っていうものは、
主語になりやすいんですよね。
自動詞の主語はもちろんですけど、
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他動詞の主語にもなりやすいです。
他動詞っていうのは、自分からこう意思を持って働きかけて、
何か状態変化を起こすようなものですけど、
そういったことをするのは基本的に人間です。
ので、我々2人みたいな代名詞は、
ある意味主語っていうのが無表です。
まあノーマルな機能ということができると思います。
一方、変えるっていうのは、
人間に比べるとややそういう、
自分から何かアクションを起こすっていう可能性が低い名詞です。
まあこういうの優勢性が低いみたいに言ったりするんですが、
そうなると、こういう変えるみたいな名詞は、
ある意味目的語の方が無表なんですね。
何かこう動作の影響を受ける、
捕まえられるとかね、食べられるとか、
そういったことの方が無表なので、
目的語の時がゼロで現れるということなんですね。
で、そういう無表の機能と違う時に、
特別な形を使うということで、
人間を表す代名詞が目的語になるっていう方が、
ある意味異常なので、
そういう時ににゃっていうのがついて、
変えるみたいな名詞の場合は、
他同士の主語になるっていうのが、
ある意味異常なので、
まあそういった場合に、
んぶーというのを書くがつくということです。
まあ今異常という言い方をしましたけど、
言語学では、無表に対して有表という言い方をします。
今回のね、分裂能覚については、
関連エピソードがございますので、
似たような話してるんじゃないかなと思いますが、
ぜひ合わせて聞いていただけたらと思います。
それではまた次回のエピソードでお会いいたしましょう。
お相手はシガ15でした。
またねー。