00:07
始まりました。志賀十五の壺。みなさんいかがお過ごしでしょうか。ニコロビンです。
中学の国語で、文法っていうのをみんな習ったと思います。
人によってはね、難しかったとかつまんなかったっていう思い出の方もいらっしゃると思うんですけど、
逆に僕はそれがきっかけで、日本語を引いては、言語のね、面白さみたいなのに気づけたわけなんですけど、
いわゆるその学校で教えられる文法、学校文法っていうのは、
橋本新吉先生という先生の理論が元になっているんですね。
たまたまというか、経緯はあると思うんですけど、橋本先生の理論が学校で教えられているわけなんですけど、
もちろんそれ以外にも、日本語、国語のその分析の仕方に関する理論っていうのはあって、
今回はそういったものをお話ししようと思います。
特に時枝本木先生の、時枝文法と言ってもいいような言語理論ですね。
同じ日本語っていうのを対象にしているので、学校文法というか橋本文法と時枝文法っていうのは、
かぶるっていうかね、一致しているようなところもあるんですけど、
まあ根本的なところで違っていたりとか、
まあ細かいところを見れば、それは当然違うところがあったりするんですよね。
なので、もしかしたら、橋本文法っていうものに慣れきってしまっている、
まあ我々にとってはね、時枝文法っていうのは少しわかりづらいところがあるかもしれません。
で、その橋本先生の文法理論で、一つ重要なのは文節という考え方ですね。
これはね、よくねっていうのを入れて考えるんですよね。
ねっていうのが間に入るのが、一つの文節を成しているっていうふうに考えられて、
母語話者だとそういうことがわかります。
昨日ね、学校にね、弟とね、行ったよ、みたいにこう区切って言うことができると。
03:01
ただ一つ一つの文節は、複数の単語というか、
名詞と助詞とか、動詞と助動詞とか、
そういう複数の要素で成り立っているということも珍しくありません。
さて、時枝文法の話ですけど、この時枝本木先生の言語理論の根幹を成している考え方が、
言語仮定説と言われるものです。
これはね、結構説明が難しいと言えば難しいんですけど、
言語をその単語というか要素の組み合わせの結合、コンビネーションとして考えるんではなくて、
人間が自分の考えとか思いっていうのを表現する、
そういう精神的な活動が言語であるっていうのが言語仮定説と言われるものです。
そういう思想の表現っていうのは、言語を使わなくてもできて、
例えば絵を描くとかね、音楽とかダンスを踊るとか、こういったものも思想の表現ですが、
言語もそういう表現活動の一つであるというのが、時枝文法の根幹を成しているものです。
まぁちょっと抽象的なので、もう少し具体的な話をすると、
日本語の言葉の要素っていうのは、
詞と言われるものと字と言われるもの、詞と字に分かれるっていうのが一つ主張としてあります。
で、この詞っていうのは何かというと、概念化する仮定を経て表現された語。
で、字っていうのは概念化する仮定を経ないで表現された語っていうことなんですけど、
別の言い方をすると、思想内容を客体として、
つまり主観を通さないで表現したのが詞と言われるもので、
話し手の主観そのものを表現したのが字と言われるものです。
分かりやすいのは、行くだろうとか言った場合、行くっていうのは詞にあたって、だろうっていうのは字にあたります。
行くっていうのは、行くという一つの概念として発せられる言葉であるのに対して、
だろうっていうのは、話し手の推量っていうね、主観が表されているということで字になっています。
で、この詞と字っていうのは、いわゆる橋本文法っていうかね、学校文法の自律語と付属語にまあまあ対応する場合もあります。
具体的な名詞とか動詞とか、こういったものは概念を表しているっていうことで詞。
06:06
一方、さっき言っただろうとかね、そういう助動詞や助詞っていうのは、話し手の主観が入っているっていうことで字。
ということで、自律語イコール詞、付属語イコール字と言えそうなとこもあるんですけど、注意が必要なのは、例えば
感動詞とかね、感嘆詞とか言われるようなもので、親とか、まあとかね、こういったものは
発話としては自律してるんですけど、時得た文法の中では字として扱われるんですね。というのが、話し手の主観をそのまま表しているっていうことなので、
こういったところは少し注意が必要です。
この詞と字っていうのは、よくセットになって表れます。
日本語では必ず詞の下にというか、後に字っていうのがくっついて、発話されるということになっています。
私がーとか本をーとか言った、このがーとかをーっていう、いわゆる格助詞ですね、こういったものも字に含まれるんですね。
あんまり、話者の主観を表しているっていう感じはないかもしれませんが、一応そういうことになっています。
時得た文法で重要な考え方の一つとして、入れ子型構造というのがあります。
これがね、今回のサムネになっている図がそうなんですけど、 例えば、梅の花が咲いたといった場合、
学校文法では、梅のね、花がね、咲いたよっていうふうに、3つの文節がこうポンポンポンと並んでるっていうふうに分析されるんですが、
時得た文法では、まず、梅っていう詞が、のっていう字とくっつくと、
で、この梅のっていうのが花にかかって、
梅の花っていう全体にがっていう字がついていると考えるんですね。
花だけにががついているんじゃなくて、梅の花全体にががついています。
で、これ全体が咲いたの最にかかって、最後の咲いたのたっていうのは、梅の花が最、全体にくっついている字として分析されるんですね。
こういった構造を入れ子型構造と言って、まあ階層的になっていると言ってもいいかもしれません。
で、これは学校文法ではあまり考慮されてないことかもしれません。
で、今の文は梅の花が咲いたっていう、たっていうのが全体にくっついている字だったわけなんですけど、もしこれが梅の花が咲くっていう、いわゆる現在形だった場合、
09:13
ゼロっていう字が梅の花が咲くにくっついているっていうふうに考えるんですね。
まあこういうふうにね、時計打文法ではゼロっていう字がね、よく出てくるんですね。
まあそこも一つ特徴ではないかなと思います。 興味のある方はね、ぜひ時計打文法を勉強してみてはいかがでしょうか。
まあ結構ね、なじみがない分難しいかもしれません。
詳細はね、参考文献を概要欄載せていますので、そちら読んでいただけたらと思います。
というわけで今回は、学校文法とは異なる日本語の見方というのをご紹介しました。
それではまたお会いしましょう。 お相手はシガ15でした。