複数の概念と過剰な表現
始まりました。志賀十五の壺。 いやー、映画って本当に良いもんですね。
水の波涼です。 子供っていう単語は、
漢字で書けばよくわかりますけど、 こうプラスどもですよね。
で、このどもっていうのは、 私どもとか、そういった時にも出てくるもので、
要は複数の 標識ということができます。
ということは、子供っていうのは、ある意味 複数形ということですね。
しかし、 子供が複数形だっていう意識は、
ほとんどないと思いますね。 というのが、
一人の子供とか言えるので、 もし子供っていうのが複数だったら、一人のとか付けないはずなんですけど、
まあ平気で言えるというのがあるのと、 子供達という言い方も平気でできますよね。
もし、どもが複数を表しているんだったら、 達っていうのは付く必要はありませんが、
子供達ということができます。 僕はね、
子供達らっていうのも見たことがあります。 子っていうのにどもっていう複数が付き、さらに達っていう複数が付き、
らっていう複数が付くというね、 非常に過剰な複数ということができますが、
なかなか面白いですよね。 で、同じことは友達という単語でも言えます。
たった一人の友達っていうのが、 まあ平気で言えるわけですけど、
本来は友っていうのがある意味単数なわけですよね。 ただ、子にしろ友にしろ単体ではかなり使いづらくなってますね。
で、複数の付いた子供とか友達っていうのがある意味、 単数形として確立してしまって、
で、さらに友達だったら、 友達達とかね、多分言えるんですよね。
子供たちと比べて、このたちっていうのが連続することになるので、 ちょっとね、違和感を覚える方もいらっしゃるとは思うんですけど、
友達たち、おそらく言えると思います。 なんでこういったことが起こってしまっているのか、
本来の複数が単数で使われるようになっているかというと、 まあ子供にしろ友達にしろ、
複数いるのが当たり前だからっていうのが、 一つ考えられます。
どうですかね、本当にそうでしょうかね。 子供っていうのは普通複数だし、友達っていうのも普通複数にいるものなので、
そればっかり使っているうちに、子供、友達っていう本来複数を表していたものが デフォルトになってしまったという説が考えられるのと、
まあ僕がね今ちょっと思ったのは、 一種の遠曲表現みたいなことかなぁとも思います。
例えば、男とか女っていうのは 結構ね使いづらくなってるんですよね。
男性とか女性とか男の人、女の方みたいに、 やや遠回しの言い方しないと、
男女単体だと、 容疑者とか犯人の時にしかね、たぶん使えないんじゃないかなと思います。
で、子とか友っていうのも、 遠曲表現から
子供友達っていう方が好まれてきた結果、 こういった状況になっているのかもしれません。
世界の言語を見回してみても、 子供っていうのは過剰な複数、あるいは二重複数になりやすいみたいです。
言語の複数形の興味深い共通点
モンゴル語がそうらしいですね。 で、実は英語もそうで、
英語は子供というかね、単数の子っていうのはチャイルドで、 複数形はチルドレンっていう、
不規則な複数なわけですけど、この複数形チルドレンっていうのは、 子供たちと同じように
二重複数になっているんですね。 チルドレンの最後のenのところが複数の標識です。
で、この設備字、nによる複数形っていうのは、 現代英語ではあんまりないんですけど、昔の英語は
結構あったみたいです。 心のheartっていうのは、現代英語ではheart2っていう風にsがつく形ですけど、
昔はこのenを複数設備字としてとってたということで、 今はね、複数のsっていうのがかなり支配的になっているんですけど、
昔の英語は結構 多様な複数形の作り方というのがあったようです。
で、チルドレンのnっていうのもそうだし、 このnの前のrっていう音も
複数設備字なんですね。 なので、チャイルドにrがついてさらにenがつくという、
まさに子供たちと同じ構造になっております。 このrっていうのがつく複数形も
昔はそれなりにあったみたいで、 例えば卵とかね、エッグっていうのは昔はrがつく複数形だったようです。
そう考えると英語の複数形っていうのは相当 均質化、均一化が進んでいるというかね、
ほとんどsがつく形になってますよね。 でチルドレンっていうのはsが支配的になる前の
複数形の名残を2つも残しているということですね。 enっていうのとrっていうのと。
このように日本語の子供たち、英語のチルドレンっていうのが語源としてはかなり近い、
二重に複数を表示してるっていうのはなかなか面白いですよね。 もしかしたら子供たちらみたいな感じで
チルドレンズっていうふうに もう一つ余計に複数がつくようになるかもしれません。
この複数っていうのは 言語によりますけど
優先性の高い名詞でよく観察されると言われます。 日本語がまさにそうで優先性が高いっていうのは要は人間とか
生き物に 複数形がつくということです。
日本語のたちみたいなのは 先生たちとかね
子供たちでもいいですけど人間名詞には平気でつけますけど 優先性の低い無生物名詞には非常につきづらいです。
机たちとかいった場合は 擬人化みたいにおそらく解釈されると思います。
英語はそういった制限はなくて何でもかんでも複数形が あるっていうような感じですよね。
日本語の複数形の面白いところは 近似複数というのを表すことです。
これについてはね過去にお話ししたことがあるんですけど 子供たちって言った場合は
まあそのメンバー全員子供っていう風に解釈されると思うんですが お父さんたちといった場合
これはお父さんと その他の家族のメンバーみたいに
メンバー全員お父さんとはあんまり解釈されないと思います。 他にも人名の場合とか
太郎たちといった場合 太郎とその近隣のメンバーみたいな感じでメンバー全員が太郎じゃなきゃいけないわけではないんですね。
ハンガリー語には普通のメンバーが全員同じ 複数
まあこういうの同室複数と言いますけど 同室複数と日本語のお父さんたちみたいなたち
近似複数とで違う複数形の形になるそうです 面白いですよね
日本語のたちっていうのは同室複数と近似複数を区別しないので 太郎たちといった場合は同室複数で全員太郎の場合もあるし
近似複数で太郎プラス二郎プラス花子みたいな場合もあると まあそういったことですね
というわけで今回はここまでということでまた次回のエピソードでお会いしましょう 番組フォローも忘れずよろしくお願いします
お相手はシガ15でした またねー