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2024-06-09 29:37

欲望恐ろしい~欲しがってる自分が嬉しい~大体の循環

ナズグルさんの物欲の流れで、漫画家の弐瓶勉さんの作品にまつわる話

漫画も新装版が欲しくなって、でも絶版になっていて価格が上がっていたり

欲望って恐ろしいっていう…


収録日:4月15日


#しゅらシュシュシュ

#樋口塾


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サマリー

ファンダムのポッドキャストを聴いた結果、欲しいものが増えることに気づきます。欲しいものを手に入れることに喜びを感じますが、自分の死という問題にも向き合っています。物欲は消費を煽るだけでなく、人生に活力を与える面もあります。最終的には循環することを考える時間を楽しい時間に当てたい欲の方が強いかもしれません。死ぬ側が決めないことも問題を招く可能性があります。遺族がどうするべきかにストレスを感じるかもしれません。注目ポイントの一つは、社会を広く世界に向ける姿勢を持つことですが、多くの人はそれを実践していないと感じています。種類の多さや執着的な欲望について話し合った後、笑いが重要だという感覚や笑いを通じて失敗を乗り越えることについて話しました。

ファンダムのポッドキャストに触れる
前回からの続き。
……読んであるんですけど、全部は持ってないんですよね。
はいはい。
何の表紙かわかんないですけど、
Twitterかなんかでファンダムっていうか、クラスターにちょっと触れまして。
その方たちも、その界隈のポッドキャストみたいなのをやってるんですよね。
おれまるっていう羊さんという方がやってるポッドキャスターなんですけど、
それ聞いたら、読んで終わりにすると全部買ってなかったんですよね。
はいはいはい。
全部買いたいなってなって。
結構長いんですか。
しかも、そんなに長くないんですけど、
そこが物欲の怖いところで、
どうせ買うなら通常版じゃなくて、でかい真相版が欲しいなって。
ああー、それは老眼にも優しい。
そう、そう、そう。そうなのか。
いやいや、本当に字がちっちゃいと読めなくなるから、でかいほうがいいですよ。
やっぱり絵がすごい魅力的な作品なんですよ。
欲しいなと思ったんですけど、
実はね、真相版が7,8年ぐらい前にその先生の作品が順番に出てて、
持ってるやつは持ってたらいいし、
真相版じゃなくて通常版を持ってて、それを見よかったし、
あとはそんなに長くないやつは、別にボタンでもいいかぐらいの気持ちだったんですけど、
今になって欲しいなってなりまして。
比べたらやっぱり真相版ではそんなにブスブスするもんじゃないって、
絶版になってて、
当時の1.5倍から2倍ぐらい出さないとそれなさそうなんですよね。
苦しいなってなってます。
なるほどー。
物欲と死の自己デザイン
愚か愚かですよ、それに気持ち悪い。
塩もみで。
でも見ちゃったら欲しくなりますよね。
欲望って恐ろしいなって思いますね。
僕もまだまだあります。
でもひるがえって、
自分が死んだ後に、自分がこうしてほしいって明確に願いがあったりするのに、
遺族の遺行ではそうならないことがわかってるみたいな状況って相当耐え難いだろうなって。
なるほどなー。
たとえばネタ切りで、俺を先祖代々に墓に入れてほしいって伝えてあるのに、
今はじいちゃんが死ぬたびに墓締めするからって言われちゃう。
そうですよねー。
伝えないほうが幸せなのかな、やっぱ。
かといって伝えずにそれやっちゃうと今度は難しいんだ。
語られるじゃないですけど。
なんか恨まれるんじゃないかとかね。
そこが今度は残された側が納得できない部分になっちゃうんですよね。
それで、自分自身が別に大丈夫って思ってればいいけど、
たとえば兄弟、OBT妹がいるんですけど、
弟からはあり得ないとか言われたら、
そういう対立を生んだりしたらね、
殺されちゃいけないんでね。
物欲に戻りますか。
あー、ごめんなさい。
違う話に今転がりそうだったんでしたっけ。
物欲がどうですか。
僕もね、見たら欲しくなるっていうので今でもわかるんですけど、
なんか自分の状況によって欲しいものが変わる部分があるなと思って、
子供と一緒に暮らしてた時期に欲しかったものと今とでなんか違うなと思って、
これなんか上手くフワーっとしてるんですけど、
なんかね、その物欲を叶えた時に完全に一人だと寂しいっていう感覚が僕はあるんですよね。
それを伝える相手が必ずいるっていう気がしてて、
前は僕同居してた頃は家族、神さんなり子供にそれを伝えて、
それを若干なりとも共感してもらって喜んでた。
家族じゃない場合もあるんですよね。友達がわかってくれる場合は友達、リアルに会える友達。
そういう、でも僕の場合、この数年で環境が結構割と大きく変わってるから、
それによって物欲が変化するなっていう、なんか具体例あんま出せずにあれですけど、
それも感じるから、やっぱり僕の中では途中のそのお墓問題の時にも言ったみたい、
お墓というか自分の死んだ後問題みたいな時に言ったみたいに、
やっぱ人間周りとのコミュニケーションみたいなのが最終的には一番意識される。
今はそんな時期ですね。
物欲にすらそこが絡んでる気がして。
だからある程度、そんなに苦しい、ちょっとは欲しいなと思うけど、
なづくるさんほどは苦しんでない自分がいるなとか思いました。
ちょっと話が逸れちゃうんですけど、
それこそ物欲については最近ポッドキャストにめっちゃおもろい話聞いて、
おっききかいかいっていう有名なポッドキャストで、まさに物欲の話をしてて、
その中でタイタンと玉置集計さんという二人がやってるポッドキャストなんですけど、
タイタンさんがストリート系のファッションの見本市に行ったと。
どの商品もめちゃくちゃよかったと。
高いけど買おうと思えば買えるぐらいの金額で。
でも欲しいと思ったんだけど買わなかったって話をしてて。
俺って何なんだろうね。この欲求って何なんだろうね。
この物欲って何なんだろうねって話をしてて。
いろいろ話をしたんですけど、
玉置さんが言ってたことがめちゃくちゃ腑に落ちて。
玉置さんは物欲っていうのは、それを手に入れたいっていう所有欲とは違って、
それを欲しがってる自分が嬉しいんだみたいな。
そういう自分が欲しいものがあって、それにときめいてる自分の気持ちが嬉しいんだって。
それを手に入れるかどうかって結構値によって次なんだよねって話をしてて。
なるほどなって思ったんですよね。
欲しいものが手に入れなくて苦しいみたいな気持ちあるんですけど、
でも一方でそれが自分がいいものだって信じてて、
それを手にしたいっていうときの気持ちって、すごい前向きな気持ちがするんですよね。
それを考えたときに、物欲って今の社会だとあんまり褒められたものとしては違いますけど。
でもそう考えると、決して物欲っていうのは破滅的な?消費を煽るようなものだけでもなくて、
人生に活力を与えてくれるような欲求なんだろうなーっていうのも思ったんですよね。
その欲求は人類が昔から持ってたんですけど、
今の資本主義社会においては物欲って形で表出してるんじゃないかなと思う。
これ欲求とはまた違うかもしれないですけど、
さっきの死をデザインするって話もそうなんですけど、
自分の死んだ後のことを決められるみたいなことって、
たぶん人類は今まで経験してないことなんですよね。
それこそ、暖化制度がちゃんとできる頃だったら、
死んだ後はこうしてこうして全部決まってて、死んだ後とか説明されてて。
これはキリスト教の中で同じようなことが起こってて。
そもそもそれだけの余裕がないときは、
たとえば狩猟再就寝とかだったら、
これもさっきの愛と死の人類学のどっかのシリーズで聞いたんですけど、
狩猟再就寝っていうのは、死んだとこで軽い儀式を行ったらもうそこに埋めて、
そのまま墓標も立てずに行ってしまう。
だから死んだ人が渡り継がれることも特にないんだっていう。
いうことで、そもそも死自体がアンコントローラルなものだったし、
その後のことなんで絶対にコントロールできないっていう前提のもと、ずっとキリスト教が来たんですけど、
さっきしゅらさん言ってたように、勝手な死に方が許されなくなった一方で、
定められたルールの中なら、いろいろやれることが増えたぞっていうのがある。
そういうコントロールできる領域が増えたことで、
やっぱり自分の死をデザインしたいんだっていうことなんじゃないかなって話しながら今起こってる。
自分が死んだ後のことを考えると結構素敵な話だなって思うんですよ。
ん?素敵?
素敵な話。
素敵。
素敵だなーの素敵ですね。
そうそう。
さっきしゅらさんが、自分ご自身が考えられてるような循環の仕方ってことに思いをはさって、
その中で一番納得いく方法として大悲壮。
その納得いく方法として大悲壮っていうのが今提出された。
それがいいなって。
自分が死んだ後も循環していくことを想像できるわけじゃないですか、生きてるときに。
そういうのすごい良いですよね。
これは別に批判するわけじゃなくて、そういう物語の中に自分を置けるっていうのは。
そうですね。確かにその物語があるし。
やれるようになったらやりたくなる、みたいな感覚。
何に対してもありますね、この話に限らず。
そうですね。
やりたくなるし、やれちゃう。
みたいな流れの中にいるなーっていうのを、ここ数年僕もすごく感じてきてるから。
だからこそそれに身を任せちゃってる、みたいなのも混ざってるんですよね、途中で。
好きなようにしてもらっていいって言ってる、みたいなのが。
そもそももう宇宙の法則の中でしか生きられてないし、
その中でできるできないって最初からわりと決まっちゃってるから、
そこをどうこうってあんま思ってないんですよね。
だからデカすぎる話になっちゃうんですけど、
セラミックになったところで最終的には循環するって思っちゃってるんでしょうね。
循環の考えと楽しい時間
まあそうですね、最終的には循環しますからね。
最終的には、どこが最終なのかわかんないですけどね。
そうそうそう、もともとそういう……
太陽に飲まれますからね、最終的に。
そうそうそう。
ごめんなさい、何に飲まれる?
太陽に。
太陽に飲まれますからね。
そうそうそう、そんなぐらいで捉えちゃってますね。
だからそれを考える時間を、楽しい時間に当てたい欲のほうが強いかな。
ただごめんなさい、一方でちょっと意地悪な話になっちゃうんですけど、
死ぬ側が決めないってことも結構問題を招きたいなと思っちゃってて。
要は遺族がどうすりゃいいのっていうことにかかるのも、結構ストレスをくるだろうなとは思うんですけど。
さっき言った選択肢が増えてるからこそ。
おじいちゃん、死ぬ前は海に散歩としてほしいって言ってたけど、本当だと散歩としてほしいと聞いてる?
ありえますね。
だから逆にどっちかに決めないっていう感じかな、自分の場合。
揉めるんだったらどうでもいい。揉めないんだったら自分の好きなことを伝えるぐらいぐらいですよ。
本当はその後ろさんと同じように対比層とか樹木層とか、そこにどれがどれがみたいなのをちゃんと調べるほどの意欲もあんまりないから、
大体大体循環ぐらいな感じですけど、それぐらいかな。
それもそれすら、僕は今今日はこう言ったけど、またちょっと時間経ったら違うこと言ってるかもしれないし、みたいなぐらいですね。
そうですね、確かにコミュニケーションをとっておかないと、
まあ死んでからどう思われるかどう思われても関係ないんだけど、
でもやっぱりその、いきなり亡くなって、
じゃあ葬儀は紹介しますからって言われて、紹介されて、じゃあ開明はいくらだとか、
そこから始まってバタバタバタバタとしてしまうのが今の現実なんで、
でなんか、具体的に宗派の名前出したらあれかもしれないですけど、
死亡後の選択肢と遺族のストレス
大丈夫ですか。
なんで臨済宗のあれは高くて浄土神宗なら安いんだ、みたいな。
そういうこともあったりして、
今の特にPはいいですか、大丈夫ですか。
P、まあ事実ですからね。
ああ、じゃあ。
そうそう事実ですからね。
それに対して納得する答えを答えられてないのも事実ですからね、その人たちが。
そうですね。
そうそうそうそう。
しかも、テンプルモーニングラジオとかで毎日お経も聞いてれば、
そのお経の意味とかも調べるんですけど、
明らかに別に死者に対して言っているお経はないんですよね。
やっぱり残された人たちに対して言ってたりとか。
そうですよね。
そもそもなんか、このお経、なんで葬式に読むんだ、みたいなのもあったりするんですよ。
まあ別に葬式は3列が多いわけじゃないんですけど。
ああ。
いや、なんかやっぱり、お葬式に行くのが珍しい、あんまり年代的にお葬式にいっぱい行く年代ではないんだよ、俺が。
はいはいはい。
葬式あった時に、このお坊さんは何のお経を読むのかなーとか思いながら、3列してると、なんでこのチョイスなんだろうとか思ったりするんですよ。
へー。
でも結局その、たぶん値段とかによってそのセットが決まると思うんですけど、お経。
何人お坊さんを揃えるかとかでも値段変わるし、このお経を読むには何人いないといけないとか、たぶんあると思うんですよね。
へー。
お経の意味と葬式の役割
でもそれって、そのお経を読むことによってどうなの、みたいな、その、なんていうんだろう、わかんないじゃないですか。
本来ならその死後ね、その、成仏する。
浄土宗だったらその、裁縫浄土に行って、そこで修行を積んで、っていうストーリーというか世界観があると思うんですけど、
なんか、そういうの分かってない人からすれば、
はい。
なんで、なんでこんな高いの、みたいな、になっちゃったりするじゃないですか。
でもそうは言いつつも、もう、期限が決められて、
やっぱ、遺体をずっとね、ドライアイスにやっておくのも、もうね、お金がかかる、お金がかかるというか、
まあ、やっぱり腐敗していっちゃうんで、早めにひどいを選んで組織を上げなきゃいけないってなると、
まあこれでいいや、みたいな感じで、これでいいやっていうか、もう選ばれざるを得ないじゃないですか、残された人は。
うーん。
そういうふうに、やっぱり大変、大変なところを見てきてるから、
うん。
それだったら、なんかちょっと事前に、こうこうこうして欲しいって決めといてもらえれば、
決めといてあげれば、
ああ、うちはもう決まってるんで、つって、
費用もこれぐらいで、つって、
そうですね。
みんな納得して、
もう終われるのかな、みたいなのはあったりしますよね。
まあそうですね。
うん。
僕もなんだかんだで今急にY字とかがなくなったりしたら、うひゃーってなりますもんね。
うんうん。
僕的には組織を上げないとの時点で迷うぐらいな感覚なんですけど、
まあそういうわけにもいかんだろうなってなりそうですけどね。
うーん、まあそうですよね。
でもコロナの影響もあって、
うん。
かなり変わりましたよね。変わったらしいですよね。
うーん。
お葬式。
お葬式をしないというか、
ああ、なるほどそういうことね。
まあ仮想はするんだけど、
うーん。
うーん。
前はなんだかんだそのやっぱり、親戚も呼んだりしなきゃいけないから、
うーん。
ちゃんとやんなきゃなーっていうのはあったかもしれないけど、
コロナで呼べないんだったら、もうこじんまりといいんじゃない?みたいな。
うーん。
そういうのもあったりするんで、
ある意味ちょっと意味づけをし直す?
意味づけというか、ちょっと捉え直す時期に来てるのかなと思ったりもしますよね。
確かに。
結局あれなんですよ。今コロナの話もそうですけど、
結局ここもコントロールできるものじゃないよね。
自粛の形態みたいなものも。
まさかコロナでお葬式を人が集められませんみたいなことは、たぶん誰も想定してなかったと思う。
うーん。
分かんないです。別にそれだけじゃなくて、
志村けんさんのお葬式ってどうだったのかめちゃくちゃ気になっちゃうとこなんですよね。
志村けんさんの葬儀、そもそも開けたのかなとか。
一番コロナの感染力とかもわからなかった時期なんで、
志村さんが袋の中に入ったまま冠桶に入ってたんじゃないかなとか。
ということもあるわけですよね。
あの志村さんがですよ。
ってことを考えると、
ストロークと志村さんの手放すって話に繋がると思うんですけど、
かなり現代社会って強く意識づけられると思うんですけど、
でもその不可能性に打ちのめされるとつらいわけじゃないですか。
でも打ちのめされる。
欲求を捨てるのか、打ちのめされても大丈夫なように備えておくのか。
これが本当に不確定要素の多い現代社会で、
どうとされる作法なんじゃないかなって、志村さんの話を聞いて。
その方法は人によって結構センサー判別で、
志村さんみたいな方法だったりもあると思いますし、
志村さんみたいな事故を余裕耐性だったりとか、耐性してきつい傾向ということで、
外部の人の声を聞いていくこともありますし、
資本主義の中でガンガンブーストして、
お金を稼ぐことで現実の自体の柔軟性を高めるとか、
っていうのもひとつの手だと思うんですよね。
結局大事なのって、どういう手を取るかっていうよりも、
どれが自分が納得できるかってことじゃないかなと思うんですよね。
お金を稼ぐのは全然向いてないし、
それで自分が幸せにならないのに、そっち進んでも良くないと思いますし、
その迷走とかっていうのが全然自分にはしっくりきてないのに、
それが周りでいいからって言ってて、進めて、
実はそういう人はお金を稼いでいい生活をしたほうが、
結局幸福になれたかもしれないみたいなことを。
バリエーションをどれだけ知ってるかっていうよりも、
意識できるかっていうのがすごい。
何ができるか?
意識。
今自分はこう取ってるけど、別の可能性もあるよなってことを
常に頭の片隅に置いておけるかみたいなのは結構、
この社会では必須なんじゃないかなと思うんですよね。
一つのことに全部不利するみたいなのは、
確信がないと危険じゃないかなってぐらいの思っちゃうんですよね。
少なくとも今はこれをやりますぐらいのスタンスじゃないと。
しゅうさんはかなり今の生活に全不利してるように見えるんですけど、
常々おっしゃってるように考え方変わるかもしれないし。
その辺を留保してるみたいなのが結構、
社会の広がりと欲望について
社会っていうのをもっと広く世界に向けようという姿勢として、
すごい大事なんだけど、やっぱりそれが、
基本的にみんなできてないよね。
今やってることが正しいって信じ込まないとやってられないみたいな、
ダブルバインドになっちゃってる気がするんですよね。
話がちょっと8センチ過ぎて。
ちょっと難しかったですね。ごめんなさい。種類が多すぎて。
いや、多すぎると感じたのかな。
多すぎですよね。
その感覚はそこの、ざっくりで手放すみたいな言い方してるから、
しゅうさんがいろんな種類の執着的なお話を今話してくださったなって思うんですけど、
ざっくりでそこに、どこにもこだわらないみたいな、
楽しい分には何かに夢中になったり、物欲が生きてるみたいな感覚になったりって、
全然いいと思うんですけど、
その時によって言うことが違ったりぐらいの緩い感じで、
その時その時で、笑って、
笑いの重要性と失敗の乗り越え方
僕今日結構笑っていられるかっていう表現たくさん使っちゃったと思うんですけど、
ざっくりでそれだけが大事なのかなぐらいな感覚でいるかもしれないですね。
そうですね。
どの瞬間もってなると逆に不自然ですけど、
どうせ笑えるときにしか笑えないし、
意識してやれることって言ったら、
いかに苦しいときでも笑いを思い出すかぐらいなことぐらいかなーみたいな。
全然違う種類の話しちゃってたのごめんなさい。
そうなんですよねー。
笑ってるときに憂いがないかみたいなのがたぶん一つの。
無理矢理笑ってないかみたいなことがたぶん、
難しくなってきてるんじゃないかなと思うんですよ。
さっき言ったような、別の可能性を留歩しておくっていうのは大事だなって僕は思う一方で、
でもそれ考えてるとくったくらく笑えないよなっていうのも、今話し聞きながら思ったところで。
笑ってるけどこれ大丈夫かなって考えちゃうとダメなんだろうな。
ダメではないですけど。
本当の意味での笑いではないんだろうなーって。
僕はそれを超えて初めて笑えるみたいな気がしてますね。
それは確かに一つの真理かもしれないですね。
そういう失敗とかが全部吹き飛ぶのが笑いってことかもしれないですもんね。
そうそうそうそう。
一個にこだわってそれがうまくいったからの笑いって、
ちょっと浅いって言うとそういうふうに笑ってる人ケナスみたいになっちゃったりするんですけど、
全部を包含した上で出てくる笑いみたいなのが、僕は心地いいんですよね。
みたいに。ちょっと意味合いが違ったらあれですけど。
そんなふうに思いましたね。
憂いは常に抱えてる気がします僕は。
でもそれでもいいんだみたいな感覚かな。
すっげー感覚的なことしか言えねーなーっていうのが、
二人と話してると本当にいつもへこみつつ、
でもしゃーないって思って笑ってます僕は。
いやー結局今日はもう全然旅話には全く触れず。
そうでしたね。
途中でね、一旦思い出しつつもこっちのほうがなんか心地いい気がして、
僕が誘導しちゃったとこもあるんで。
時間的にはだいぶいい感じのとこまで行きましたけど、
これは話しときたいみたいなところは残ってないですかね。
大丈夫ですかね。
どこは。
大丈夫かな。
いろんな話をいろんな角度から。
結構広がりましたね。
そうですね。
最後になずぐさんがね、一つのことに集中とか。
最初にそんな話をしゅうさんとしてたじゃないですか。
そうだ、なずぐさんいないときにそれを話してたんだ。
大谷翔平さんの話をしながらしてたんですよ。
戻ってきたと思いながら。
すごいですね、戻ってきたんですね。
循環しましたね。
循環しましたね。
すいません、ちょっと無理矢理だったかもしれないですけど。
じゃあ今日はこんな感じで終わっていきましょうか。
はい。
今回も本当にありがとうございました。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
失礼します。
バイバイ。
バイバイ。
29:37

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