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2025-07-31 28:03

④ラトビアの旅に想う、日本人の歴史認識

・今回のテーマ:ラトビアの旅に想う、日本人の歴史認識


5月末のラトビア旅行での経験を元に、私たち日本人が知っておくべき歴史と、それから学ぶべきことについて語っています。このエピソードでは、大きく以下の点に分けてお話しています。


ラトビアの紹介とロシアとの関係


リガKGB博物館から学ぶ歴史日本の過去の「占領された、占領した」と「植民地支配」の歴史


海外に住む日本人としての体験談。


概要欄で読むと難しい内容に感じますが、決してそうではありません。


世界の人々と付き合う上で、日本人として知っておかなければならない歴史ついて、考えるエピソードです。


・『世界から見る日本』は、世界から見た日本はどう映るのか、他国はどうなのかといったことを比較しながら、より良い日本へのヒントを探り、世界から見える日本といった視点をリスナーの方々と共有する番組です。


・ナビゲーター: ゆき 海外在住歴30年以上、現在オランダ在住の日本人コンサルタント


『世界から見る日本』という視点が気になる方、是非こちらを聞いて戴けたら嬉しいです。

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サマリー

このエピソードでは、ラトビアのリガを訪れた経験を通じて、日本人が知っておくべき歴史的背景や意味を考察しています。特にKGB博物館を訪れることで、過去の抑圧の歴史と現代のウクライナ戦争の影響を織り交ぜ、日本の植民地支配についても触れています。ラトビアへの旅を通じて、日本人として知るべき植民地支配の歴史に焦点を当てています。特にオランダと日本の関係やインドネシアの歴史について言及し、過去の痛みを理解する重要性を強調しています。

ラトビアの旅の始まり
世界から見る日本へ、ようこそ!
グローバル社会と言われている今、世界各国との距離が近くなったように感じる一方で、
皆さんは日本が世界にどう見られていると思いますか?
この番組では、世界から見た日本はどう映るのか、他国はどうなのかといったことを比較しながら、
より良い日本へのヒントを探り、世界から見える日本といった視点をリスナーの方々と共有していきます。
番組のお相手は、海外在住歴30年以上、現在オランダに住み、日本とオランダを結ぶコンサルタント業を営んでいる私、ゆきです。
今日はですね、ラトビアの旅に思う、日本人として知っておきたいこと、というタイトルでお届けしたいと思います。
5月末の木曜日から日曜日までの3泊4日を、ラトビアの首都リガで過ごしてきました。
皆さん、ラトビアには行かれたことありますか?
調べてみると、日本からの直行便はなく、早くてもフィンランドのヘルシンキ経由で15時間ほどのフライト時間です。
私がいるオランダ・アムステルダムからは、エアーバルティックで2時間ほどで行けました。
ラトビアはエストニア・リトアニアと共に、バルト3国と言われ、この3国ともウクライナと同様、ロシアと国境を接している国々です。
一番北にあるエストニアの首都がタリン、その南にあるのがラトビアで首都はリガ、
そしてまたその南にあるのがリトアニアとなり、首都はピリニュスです。
このリトアニアと国境を接しているのが、ベラルーシーとロシアの領であるカリーニングラード、ロシアの飛び地です。
バルト3国の一番北にあるエストニアの首都タリンは、フィンランドから80キロ離れており、ヘルシンキからフェリーが運行していてですね、だいたい2時間ほどでタリンに着くことができます。
日本からは遠いイメージのバルト3国ですが、少しこれで位置関係が見えてきたらと思います。
さて、このラトビアの首都リガはバルト海に面した南の町で、その美しい旧市街はバルト海の真珠とも呼ばれ、1997年にはユネスコ世界遺産にも登録されました。
KGB博物館の訪問
ヨーロッパは各国素敵な町がありますよね。
ヨーロッパといえば、皆さんもよくご存知であるパリ、ローマといったわかりやすい華やかさはありませんが、リガはあまり混んでおらず、非常に落ち着いていてゆったりとしており、美しいアールヌーボー建築などにあふれる首都です。
ヨーロッパ人もまだ週末旅行で行くという人も少なく、今は結構穴場的な場所です。
そしてこのリガ旅行ですが、町を歩き始めるとすぐ気づくのが、リガの町全体に本当に多くのウクライナの国旗が掲げられているということです。
今はウクライナ戦争だけではなく、世界各国で様々な紛争が続いているのですが、やはりロシアと国境を接しているバルト三国、そしてラトビア人にとってロシアのウクライナ攻撃は他人事とは思えない。
明日は我が身といった空気が町を歩いていても感じられるし、市内の散策ガイドの方も話しておられました。
ラトビアという国は、皆さんもご存知のように1991年ソビエト連邦の崩壊によって独立した国の一つです。
ここで占領と植民地化という言葉を使っていますが、じゃあ占領と植民地化とは何が違うのと思っているリスナーの方もいらっしゃると思います。
基本的にはですね、占領というのは主に戦争などの緊急時における軍事的な支配を指していて、本来は一時的な性格を持つことが多いです。
時と場合にもよるのですが、占領地の主権は宣言されますが、必ずしも完全に奪われるわけではないといった感じです。
日本も占領された過去がありますよね。
それは第二次世界大戦後、日本はアメリカを中心とする連合国軍の占領下に置かれました。
1945年9月2日に幸福文書調印後、連合国により占領が始まり、この占領は1952年4月28日まで7年間もの間続きました。
そして沖縄に至っては、アメリカによる占領統治は1972年までの27年間までにも及びました。
一方、植民地というのは、より長期的な政治的・経済的な支配関係を意味し、創始国、いわゆる支配する側の国が、植民地の資源や労働力を利用することを目的とします。
植民地はより計画的で、創始国の利益追求を目的とすることが多いです。
支配機関とその目的によって占領と植民地という違いになると思います。
そして話は戻ると、今回のリガ旅行で最も印象に残ったのが、リガ市内にあるKGB博物館への訪問でした。
KGBって何?と思われている方への補足説明ですが、これはソビエト連邦の国家保安委員会の略称で、冷戦時代に活動していた情報機関、秘密警察です。
いわゆるアメリカにCIAがあるように、イギリスにもMI6という情報機関があり、冷戦下のソ連では反体制派を取り締まるKGB秘密警察があったということです。
このKGB博物館が当時ラトビア市民の監獄として使われていた施設でした。
KGBはラトビア市民を盗聴し、例えばソビエト連邦からのラトビア独立を唱える反体制派の人を危険人物と判断すると、この監獄に収容。
収容だけにとどまらず、拷問し、言われなき罪でシベリアに送ったり、その場で処刑したり。
このKGB博物館は一般公開されていて、この中がすごいのです。
薄暗い廊下の先に様々な部屋があり、常時800人ほど収容していたというのですから、その規模が少し伝わるかと思います。
ラトビアにいるソビエト体制に反発した有力指導者が集められ、ここで拷問され、他の施設に移される場合もあれば、ここで処刑される運命もある。
一人で入る独房なんて、細いベッドがある3畳ほどのスペースもあれば、ベッドもないような部屋もありますし、それこそ6畳ぐらいに30人ほど収容される部屋もありました。
この30人ほどが収容される6畳の部屋には、ベッドが2台しかありません。
そして、ガイドの人はこの部屋に入ると、我々に部屋の隅にあったアルミ製のバケツを一つ持ち上げて見せました。
これは何に使ったと思う?リスナーの方々には想像できた人もいるかもしれません。
このバケツは、この部屋に収容されていた30人が使う排泄のバケツです。
このバケツは1日に1度しか空にされないため、当然ながら排泄物はバケツから漏れているような状況下にて、この30人はその遺臭とプライベシーなど全くないところで収容されていたのです。
他に、収容された人々が1日30分の運動ができるための空間が設けられているのですが、運動といっても30分、一定方向に歩き続けるだけ。
止まることは許されず、コンクリートの壁と金網に囲まれた猫の額のような空間。
そしてそれが上部から監視されるというものです。
一応天井は開けてあり、空が眺められるようになっているのですが、金網があり隣接するアパートなどからこの運動場が見られないよう、木の板が斜めがかって覆いかぶさっているような工夫もされていました。
その他、拷問や処刑があった部屋には、壁に拷問や処刑された方の血の染みが色濃く残っていたり、本当にこの施設に入っただけで底ビゲするような、温度が一気に3度は下がったような、そんな空間でした。
このKGB博物館が公開されたのが2014年からで、ソ連占領家のラトビアノ・フノイさんを伝承しようという目的を果たしています。
ソビエト連邦の崩壊は1991年でしたが、その時私はまだ学生で、ぼんやりと冷戦の終結。
西側諸国とソ連を中心とする東側諸国の軍事的緩和、ソ連型社会主義の崩壊、西側諸国の資本主義というイデオロギーの勝利ということを覚えています。
アメリカとソ連の直接的軍事衝突の脅威が減少したことにより、西側諸国の膨大な軍事費削減などにもつながり、ソ連支配下の下に抑圧されていた東諸国の独立があり、当時のソ連崩壊というニュースは、西側諸国にとって良かった良かったという感じだったと思います。
しかしソ連は、このソビエト連邦時代に、今はラトビアのKGB博物館となっているような監獄で、ラトビア独立を願う市民を収容、拷問、処刑したことに対する国際的な公式な罰というのは彼らには与えられておりません。
日本の植民地支配の考察
このような抑圧運動は、ソ連がラトビアだけで行ったことではなく、エストニアの首都タリンにも、リトアニアの首都ピリニスにも、このようなKGB博物館があることが調べてわかりました。
何と言ったらいいのでしょう。
両国によって行われた国際軍事裁判であるニュルンベルク裁判が行われました。両国とも、この裁判が行われたから全て良しというわけではないのですが、ソ連に至っては何もない。
どちらかというと、西側諸国はソ連崩壊は、冷戦瞬結によってロシアなどの東側への市場のアクセスも可能となり、トヨタ自動車さんなどはロシアのサンクトペテルブルグに工場を設立し、現地生産などをソ連崩壊後の2007年に開始しましたし、
もちろん、今はウクライナの戦争で撤退していますけれども、西側諸国によるロシアや中央アジアへの豊富な資源のアクセスが可能となり、西側諸国の経済活動に貢献したというやったやった感がある中で、
それまでにラトビアのKGB博物館のように自国の独立を唱え、抑圧され亡くなってきた人、彼らの払った犠牲というのは何の認識もされていない。これはどうなのかなと思いました。
そんな中で、再びロシアによる隣国への侵攻、ウクライナ戦争が起こることは、それは自分たちの過去の歴史からも、当然明日は我が身になるなと思いました。そしてこのKGB博物館で当然ながら思ったことは、それでは日本はどうなんだということです。
日本も占領、植民地支配をしてきた歴史があります。日本の植民地支配の始まりは1895年、日清戦争の勝利からです。
日清戦争に勝利した日本は、新国と下関条約を結び、台湾を領有し、台湾に総督府を置いて植民地支配を進めました。
もちろんインフラ整備などの近代化を進めた一面もありますけれども、日本文化の強制、反対運動の抑圧とかもありました。
次には日露戦争の勝利後、1910年には韓国併合により完全に朝鮮を植民地化し、それは1945年8月15日の日本降伏までの35年間続きました。
ここで少し個人的な思い出をお話ししたいと思います。
私は父の仕事の関係で、小学校3年生の時に家族と共にカナダに暮らしていたことがあります。
私は2歳年下の弟と5歳年下の弟がいる長女です。
まだ我々がカナダに引っ越してきて間もない頃、ある時、両親が何かの用事があって子供たちが留守番をしなければいけない時がありました。
当時私は9歳だったので、下の弟と2人の面倒を見ながら、英語も話せない状態で、カナダで子供たちだけでお留守番は無理で、両親はベビーシッターを雇いました。
この方が日本語が話せる韓国人の年配の女性でした。
年配といっても、9歳の私から見た印象だったので、もしかしたら50代くらいの女性だったかもしれません。
子供ながらにして、この人は日本人じゃないというのがなんとなくわかるのですが、どうして日本語が話せるのだろうと思ったことが記憶に残っています。
その後、大人になってからその方が韓国人であり、日本により韓国併合にて日本語教育を受けていたことから、日本語が話せるということがわかりました。
今考えると、時代は変われども、過去に植民地支配にあった日本人に、日本語が話せるということで、日本人の子供たちのベビーシッターとして雇われた彼女の心の内はどうだったのだろうと。
逆に、両親はどのような心持ちで彼女にお願いしたのだろうと思いました。
これについては両親と話したことがないので、次回は聞いてみたいと思います。
植民地支配の歴史
というわけで、日本も植民地支配をしていた過去があります。
だから、今は韓国旅行、台湾旅行などでおいしいものを食べたいとか、ショッピングを楽しもう、などいろいろあると思うのですが、歴史的に我々はこの国の人たちを抑圧していた過去があるという認識を持たなければいけないと思うんです。
それは、たとえ旅行であっても、そのような意識を持つことは大切だなと思いました。
そして、このように直接的な植民地支配、日本が朝鮮を植民地支配したということなら直接的なので、語弊はあるんですけれども、比較的わかりやすい状況だと思います。
問題なのは、直接的植民地支配ではないけど関係がある人たちですね。
これはどういうことかというと、私のいるオランダがその例にあたると思います。
オランダはすごく新日ですし、皆さんも歴史の授業で教わったことがあると思いますが、江戸時代に乱学と言われ、徳川幕府による200年もの鎖国時代に唯一、西側諸国として日本と貿易ができたオランダは、日本にとって西洋の学問、文化の窓口でした。
杉田原発の解体新書など、皆さんも聞いたことがあると思います。
医学、天文学、化学と幅広い範囲で日本に影響を与えました。
しかし、オランダと日本の利害対立があった歴史もあるんですね。
それは、オランダ領であったインドネシアが関係してきます。
オランダはインドネシアの一部を植民地支配し始めたのが18世紀。
オランダがインドネシア全土を植民地支配したのが20世紀初めです。
ちょっと歴史をはしょるのですが、長年オランダという国はインドネシアを植民地支配しており、
インドネシア全土を実質植民地支配してきた期間は140年にもあたり、一部占領していた時期を含めると350年にもなります。
オランダに住んでいると、オランダ人とインドネシア人の婚結人がたくさんいることがわかります。
オランダ人なのに、なんとなくアジア系の顔をしているなという人たちがたくさんいらっしゃいます。
これはオランダによる長年のインドネシア支配の中で、多くのオオア婚結人、欧州のオオという漢字にアジアのアという漢字ですね。
長年のインドネシア支配の中で、オオア婚結人が生まれた背景があります。
しかしそのオランダ植民地支配も、日本が1942年インドネシアを占領したことから終わりました。
日本は太平洋戦争にてインドネシアの石油などの天然資源確保とオランダ軍の排除を目的にインドネシアに侵攻し、45年までインドネシアを占領しました。
当時、日本軍統治下にてインドネシアにいたオランダ人の多くは、日本軍に抑留、捕虜として囚われ、その数は民間人9万人、軍人4万人にもなります。
大変な数です。
食料不足、病気の蔓延、劣悪な遠征環境など、過酷な状況下での強制労働及び生活が強いられました。
このように、オランダと日本という国がどちらかの国を直接的に占領しなくても、インドネシアという国を介することで利害対立が起こり、オランダ人は日本人に対して捕虜として抑留所に入れられた記憶があるということがあります。
私がオランダに来た間もない頃、それこそ20年以上前の話ですが、ある方のお誕生日パーティーに行った時、そこにいた年配の方に、「お前は日本人か?」と言われ、「そうです。」と答えたところ、「俺はヤップキャンプにいたんだ。」と言われたことがあります。
当時彼の言うヤップキャンプというのが、日本軍統治下にあったインドネシアにあるオランダ人抑留所を指しているということを理解していなかった私は、その方の雰囲気で、何か日本人としてまずいことをしたことを指摘されているという感覚はあったものの、具体的にそれが何を指しているかピンとこなかったという過去があります。
どちらかというと、「日本人です。」と言えば、それまでは、「ああ、僕は小さい頃柔道を習っていたんだよ。」とか、そういった好意的なリアクションが多く、こんな敵対的リアクションは初めてだったのです。
でもよく考えてみれば、日本人としてこれは非常に恥ずかしいことですよね。
もちろんオランダ人もインドネシアを植民地支配していた時代は、今振り返れば多くの過ちを犯しています。
でも、「オランダ人だってひどいじゃないか。」ではなく、やはり日本人として過去に我々が他国に与えた痛み、悲しみというのは理解しておく必要があり、認識していく必要があるのです。
日本人としての意識
今回のラトビア旅行でのKGB博物館での訪問は、そんなことを思い出したことから、皆様にお話ししたいと思いました。
さて、今回のエピソード、ラトビアへの旅におもう日本人として知っておくことはいかがだったでしょうか。
今は日本はインバウンドの観光客が多いことからヘキヘキしている方も多いし、世界に日本は好意的に見られていると考えている日本人が多いと思います。
しかし、そのような認識だけではなく、過去に日本が他国にどのようなことを行ったのか、日本人として理解・認識することは、他国の人々と付き合う上での最低限の礼儀でもあると思います。
私は昭和平成に教育を受けた世代なのですが、日本の歴史の授業の印象は、どうしても戦国時代とか明治維新などが鮮明なんですね。
禁言大使、特に日本が侵攻し占領していった国々について、どれくらいの日本人が理解し共通認識を持っているのかというと、自分自身を忌める意味でも疑問に思うところがあります。
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お相手は、オランダに住み、日本とオランダを結ぶコンサルタント業を営んでいるユキでした。
それでは、次回木曜日にまたお待ちしております。
28:03

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