っていうのを見ていくと、だんだんその運営部隊を中心として、
運営部隊から参加者というか協力者にあげる血まきで、
一般の人に渡す血まき、
さらにはそこで余分を買った人が他の人にさらにお世話とか、
そういうものみたいな感じで、
いつもお世話になってますというような形で渡す血まきっていうのを見ると、
だんだんその山とほこうの運営部隊を中心として、
血まきが流れている様子がわかると思うんですよね。
なるほど、確かに。
そこをもとに人の人の生活に浸透していってるみたいな。
はい、もう本当にその通りで。
そうすると、ものを研究するっていう意義がちょっとわかってくるかなと思うんですけど、
そのものが辿る経路を明らかにすると、
そういった社会関係がどう繋がっているのかとか、
どういう組織の中でどういう風に血まきが流れてっていうのと、
運営部隊と渡す血まきを実際に最終的に受け取る人の関係性まで見えてくるわけですね。
なるほど、面白いな。
例えば僕がそこで血まきを二つ買って、
一つは僕用に、一つはレンさんにという風にすると、
結果だけ見るとレンさんも同じ血まきを持っているはずではあるんですけど、
ただレンさんは別にイオン祭りの組織とは関係がなくて、
たどりたどってみるとどこから来たかっていうのをたどってみると、
僕という関係者と言っていいのかな、
イオン祭りの真ん中ら辺の人に近い人から渡ったっていう歴がわかるわけですよね。
確かに確かに。
それでまたもらった僕が、
例えば2個もらったとしたらその1個また違う人にあげるとかそういう話ですか?
そうですね、その経路をたどってみると、
だんだん血まきがどういう動きをしているのかがわかってくるんですよね。
えー、それたどれるんですね、その動き。
それはですね、最終的に持っている人から聞けば結構わかったりするんですよね。
へー、これは誰にもらってみたいなのを聞いていくみたいな、そういう感じですか?
そうですね、いろんな人がいろんな形で受け取るっていうのを観察した結果、
わかったっていうのが一つの僕の受けづきではあるんですけど、
そういう動きを見るっていうのが、
一つ文化人類学の人間としてできることかなと思ってますね。
そっか、物じゃないとそういうのは見れないですもんね、確かに。
そうですね、具体的にやっぱりポータブルなものじゃないと、
下にやって取ってっていうのはできないので。
そうかそうか、それが血まきっていう、
まあ言ったらイメージお守りみたいなものを誰かからもらって、
でまたそれをまた違う人にあげてみたいな。
そうですね。
そういう感じってことですね。
それから何か見えてきたことって、例えばどんなことなんですか?
理論的なことを言うと、
理論的なこと喋って大丈夫なんですかね?
全然大丈夫だと思いますけど。
まず、今履歴があるっていう話をしたんですけど、
履歴、はい。
我々何かの募集に応募したりとか、
何か自分のことを紹介するときに履歴書って書くじゃないですか。
書けますね、履歴書。
履歴書っていうのが、
人間にもあるような履歴が実はものにもあるんじゃないかって言ってる人類学者がいて、
その履歴をたどってみるとそのものの性質がわかってきたりとかするっていうのは、
血まきの今の話と繋がってくるかなと思うんですけど、
それを踏まえた上で、
じゃあ理論として何が言えたかっていうと、
そのものがないとたどれない履歴もあるっていう話は、
今したところではあるんですけど、
それが実際にものとして動くことによって、
特定の社会関係が紡がれているっていう様子が明らかになったかなという感じですね。
それが何というか、
例えば言葉とかだと追えないみたいなイメージはありますね。
何か誰かから誰かにかけた言葉とか情報とかの移領みたいのは、
情報だとこのニュースの話題は誰から聞いて、
それがまた違う人に伝わってみたいなのは、
たどろうと思ったらたどるかもしれないけど、たどりにくいですよね、形がないと。
そうですね。
それをものでやってるっていうことか。
そうですね。
だから、そうか、ものの履歴、だからこの時計はおじいちゃんからもらったんだみたいなやつを。
そうですね。
で、そういう関係性からその人と人の繋がりみたいなのが見える。
そうですね。
みたいな話ですかね。
なるほどな。
ここまで言っておいてなんなんですけど、
結構想定できる批判っていうのは結構僕の中であって。
はい、批判。
僕の考えに対する批判として想定できるものは結構あって、
例えば今僕が何々は何々であるっていうふうに、
例えば擬音祭りが京都で一番大きい祭りであるとか、
山とか穂子という出しが34がありますとかいうふうには言ったんですけど、
そういうことを書くという行為は結構人類学の中では問題になってきて。
書く、どういうことですか。
そうですね、理論的な問題は僕の実力不足なのでさておいて、
その事実を書くっていうことに対しては結構いろんなところから、
ここ40年ぐらいの間に大きな転換があって、
みんな気をつけるようにはしてるんですけど、
というのもライティングカルチャーショックっていう文化人類学に激進を与えたとされる出来事があって。
ライティングカルチャーショック聞いたことないですね。
そうですね、80年代に出された文化を書くっていう本があるんですけど、
もうそれが本のタイトル通り、
文化人類学者が特定の文化について記述をするっていうことが問題視された時期があって、
例えば僕がさっき言ったように何やりは何やりであるっていうふうにやってしまったというか、
もう書いて出版して誰もが見れる状態にすると、
はいはい、探偵みたいな。
そうですね、ある種の固定観念みたいなものを押し付けることになってしまったりとか。
ああ、なるほど。
逆にそのステレオタイプを強化するようなことに勝たないしかねないというようなことが1980年代にあって、
僕は生まれてなかったので、事故的に知ったんですけど。
はいはい、それが問題になるってことですか?
そうですね。
それが正しいとは限らないんじゃないかとか、そういう話ですか?
事実関係は問屋書くとして僕は思ってるんですけど、
それは問題の本質は文化人類学者がそれをちゃんとフィールドワークをして、
現地の事情を踏まえてものを書いてというような構図自体がそもそも人類学者を特権化しているっていう問題意識ですね。
そこにもうすでにフィールドの人々と文化人類学者の間で権力関係ができてしまっているっていう、
最終的にものを書くのは人類学者なので、
もう結構、我々人類学者側がどう書くかに依存しているところが大きくて。
そっか、だから本当は何か違う思いを持って、例えばどっからお祭りとかをやってるけど、
それが若干違う解釈のされ方をしちゃうと、それがもう事実になっちゃうとかそういう感じですかね?
そうですね、そういう面も確かにありますね。
だんだん事実として固定されてきちゃうというような部分もあると思いますし、
やっぱり一番気にされてたのは権力関係かなというふうに思いますね。
権力関係?
やっぱそのフィールドの、フィールドというか調査される人々の方は書けない、
自分のことを表明できないというか、本にしてまとめることがあまりないので、
もう一存、文化人類学者の一存によって書くということになってしまうので、
いやいや、じゃあそれはどうなのかという議論が、いろんな工夫がなされたんですけど。
なるほど、そこの実際の文化人類学みたいな話って、
例えば地域とかに行って、観察しながらちょっと暮らしてみてとかってことになるじゃないですか、そこの。
だから、そこのときの関係性がよくわかってなくて、
その暮らしてる人々はもう全然関係ないようにいつも通り振る舞うのか、
それとも人類学者的には結構主体的になるのかっていうのはどっちなんですかね。
えっと、フィールドの人との関係ってことですよね。
そうですね、そこの、言ったら外部の人が行くわけじゃないですか、そういうコミュニティの中に。
そうですね。
その場合にどういう扱いになってるのかなと思って。
結構それも考えられてきてて、特に開発人類学っていうジャンルがあるんですけど、
開発って文字通り、例えば水が乏しいところに井戸を作るぞみたいな活動って結構世界的にやられてたりとかするんですけど。
投資開発とかそうですね。
そういうことは結構目に見えてわかる介入ではあると思うんですけど、
そこに人類学者が行って、現地の人々に影響を与えて帰ってきていいのかっていうことも結構話があって、
まあ別に開発の文脈だけではないんですけど、
じゃあ立つとおり跡を濁さず的なのがいいのかとかそういう議論もありますね。
ああそうなんだ。
確か開発しちゃうのはあれですけど、行った時にそのコミュニティに入れてもらうのかどうかみたいので、
解釈の仕方も変わってきそうだなあって聞いてて思ったんですよね。
そうですね、場所によって受け入れられやすさとか入りにくさとかはあるとは思うんですけど、
ありますよね絶対。
例えば日本人、僕らみたいな日本人が行きにくい場所って結構あったりとかするんですけど、
別に日本人に限った話じゃないか。
それも海外ってことですか。
海外で調査させてくださいって言ってすんなり受け入れられるパターンと受け入れられないパターンとかいろいろあると思うんですけど、
ありそうですね。
例えば結構文化人文学が伝統的に扱ってきたいわゆる先住民族っていう人たちのコミュニティに入りたいっていう話になったら、
ちゃんと政府を通してその許可をもらわないといけないかったりとか、
そもそもその後でコミュニティの人と関われた上でもちゃんとインタビューに応じてくれたりとかするかどうかとかいうソフトラインもあったりとか。
僕が聞いた話だと、ニュージーランドの先住民族の周りの方々の調査をしている人から聞いたんですけど、
毎回インタビューをするたびに許可書を書かなきゃいけないっていう話があったりとか、結構大変なところは。
大変ですねそれ。全然フランクじゃないですね。
そうですね。まあでも大事なことだと思うんですよね僕は。そこは倫理が絡んでくる問題なので。
確かにそのインタビューによってある種決まっちゃうというか。
そうですね。だからちゃんと何を聞いて何を何という情報を得たかっていうのは報告する義務があったりとか。
適当書けないそうね。
やっぱりちゃんと政府とか叱るべきところの許可を取ってないと書いちゃダメだっていう規則になってたらしくて、というような難しさがありますね。
そっか。それはじゃあ何だろう。今の京都のさっきの話で言うとどういう感じになるんですか?やり方としては。
それがですね結構難しい立場にあるんじゃないかなと僕は思っていて。
さっき話したように、例えば特定の国の特定の村とかに文化人理学者が行って外国人として扱われるからそういうことが起きたりとか。
という関係があったりとかすると思うんですけど、じゃあネイティブがネイティブのままというか、
例えば僕が日本人だから京都の研究をすればそれで倫理的な問題がクリアされるのかというと別にそうでもないっていう議論もあって、
何が正しいというのは一概には言えないとは思うんですけど、いろんな事情を配慮した上でちゃんと書いていくっていうのが当然調査されるというか僕らに協力してくれる人々の許可とか
京都に実際に来てみると本当に至る所で血まきとかいろんなマヨ毛があるんですよ。
で、何でこんなにこんなに、何でみんなこれを使うんだろうとか飾ってるんだろうとか。
そうですね。しかも何か、多分ちゃんと理解してやってる人ってそんなにいないというか、伝統だからみたいな感じってことですかね。
そうですね。割と僕京都の人と、京都の人っていうか京都生まれの京都育ちみたいな人とお話しすることが多いんですけど、
結構最近まで血まき自体食べれるものだと思ってたとかいう人もいますね。
だけどちっちゃい時からなんか馴染みはあったみたいな。
そうですね。目にはしてたけど、何なのかよく知らなかったみたいなことはよくありますし、
結構京都も真ん中に行けばビル街が広がってたりとか、
もうパワーマンションみたいなところがあったりするんですけど、
そういうとこに行っても結構血まきとか、その他のおまわりとか置いてあったりとかして、
えー。
結構それが不思議だったのが、最初の原動力だったかもしれないですね。
もう完全に京都だけですか、それは。
えっとですね、僕が調べた限りだと大津の祭りでもやってますね。
大津でもやってるんですか。
滋賀県大津市ですね。
でもあの辺関西県なんですね、やっぱ。
その辺で。
そうですね。
ある。
でもあるのかどうかはちょっと知らないですけど、
ただそのさっき、というか最初の方にお話ししたんですけど、
八坂神社と呼ばれる神社って結構全国的にあって、
はいはい。
それぞれで祇園祭りとかやってるんですけど、
例えば有名なのだと福岡県に博多花傘とか、博多花傘だったかな、
その祇園祭りの一つがあったりとか、
大分県にも八坂神社って呼ばれるところで祇園祭りをやったりするんですけど、
はい。
そこに行っても島木ではないんですよ、
祇園祭りに関わる舞い受けというかお守りが玄関に吊り下げられてたりしますね。
へー、あるんですね。
なんか不思議ですね、でも。
なんかそういう、日本って結構お祭りとか多いじゃないですか、いろいろ。
そうですね。
はい、なんかそういうのどう伝わってるかとか結構気になるな。
その前はスペインってことですよね?
スペインのそういう、また全然別な対象ですか?
そうですね、スペインをやろうと思ったのは白紙に入ってからではあるんですけど、
なんかやっぱり宗教的な関わりのあることをやりたいかなというふうに思っていて。
なんかちょっとあれですね、スペインでどんな感じのことをやってたのかもちょっと聞いてみたいですね。
そうですね、スペイン、最初に行ったのは全然最初は無知だったので、
スペインにどんな舞い受けがあるのかっていうのを実際見に行ったりとかしたんですけど。
サイエンマニア、お聞きいただきありがとうございました。
この番組では幅広い専門知識を一つの番組に集め、
聞くだけで誰でも楽しく学べる番組を目指しています。