服と旅に出たくなる、サッカーを見たくなる、サカたび。この番組はサッカーを愛せる3人がサッカーと旅についてダラダラと語り合うポッドキャストです。
パーソナリティの赤林です。
パーソナリティの岡田です。
村中です。
はい、よろしくお願いします。
お願いします。
はい、ちょっといつもはダラダラとオープニングトークを始めるんですけど、ちょっと今回はですね、初めてゲスト回を迎えております。
なんで2人リアクションしないですか。
いやいや緊張してるから。
ちょっとみんな緊張してるんですね。
じゃあちょっと早速ねもうゲストを来ていただいてるんでご紹介して本題に入っていきたいと思います。
今回はですねゲストとして元プロサッカー選手で現在TJFAのサッカーコーチをされている下野篤さんに来ていただきました。下野さんよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
お願いします。
お願いします。
お願いします。
今回下野さんと一緒にやっていきたいなと思っているんですけれども、お願いします。
これなんで下野さんにお声掛けさせていただいたかっていうと、村中さんからねお声掛けさせていただいたっていうところがあると思います。
はい。
村中さんと下野さんはミャンマー時代に。
ミャンマーですね。
ですよね。
はい。
なんかお互いの家に遊びによく行ってたって聞いたんですけど。
いやいや全然。僕村中くんの家には遊びに行かさせてもらってて、で村中くん僕の家にあの水道、お湯が出なかったんだかな。
あれをね、ちょっと直しに来てもらいに。
でもその辺の生活慣れてたんで村中くんに。
懐かしいねあれね。水が出ないってね。
水が出ない。もうすごかったよ。
懐かしいね。
いいっすね。
村上くん助けてもらいました。
それまでね、下野とはさ、だってシンガポールとかもちろん僕は下野の後ろを押してたけど、話すのあったのはミャンマーだもんね。
村中くん僕、アレビでかぶってる?
いや、かぶってないっていうかたぶん村中さんが一瞬、インターン式みたいな形で来たときに1ヶ月くらいにかぶってるけど、たぶんそこであんまり接点はなかったと思う。
そうだね。僕はプレイヤーで、村上くんはオフィスとかそっちのほうだったもんね。
そう、だからミャンマーに行くたぶん。
そう、オカピとはね、もう同い年で一緒にやってるしね。
そうそうそう、一緒にやってるね。
オカさんとはいつかぶられたんですか?
自分はでもシンガポールに行ったときにも下野がプレイヤーとして、アルビレックシンガポールの選手としていたから、自分より先に下野がシンガポールに行ってて。
そうだね、たぶん最後の俺がアルビシンガポールに行った1年、2012年じゃないか。
そう、2012シーズンが最後のシーズンで、自分は最初のシーズンでっていう。
そのときオカピがフロントで、俺が選手でって言ったし、ただ同い年だったっていうことでね。
そうそうそう、同い年で、しかもジャパンサーカー会議出身でっていうので、結構話すようにそっからなったみたいな。
なるほど。
感じ。
そういうことですね。わかりました。ありがとうございます。
じゃあちょっといろいろ下野さんのことを深掘っていきたいなと思っているんですけれども、
今回ちょっと11個、サッカーにちなんで11個質問を用意させてもらったので、
まずちょっとそれを1個ずつ回答してもらって、その後1個ずつがぼりしていきたいと思っております。
よろしくお願いします。
お願いします。
じゃあ早速いきたいと思います。
まず第1問です。
簡単な自己紹介とサッカーの経歴を教えていただけると。
私は下野篤史です。1988年4月27日生まれ、37歳です。
去年まで台湾でプレーしてました。
学生時代はもう神奈川大和市出身で、18、高校生まで地元のクラブで、クラブとか高校中学でやってました。
その後にジャパンサッカーカレッジに行ってから、2009年シンガポール、アルベックス2がシンガポールに行って、
そこから、
細かい話は後でいいのかな。
大丈夫です。
シンガポール行って、ミャンマー行って、フィリピン行って、モルティブ行って、フィリピンファンですかね、たぶん。
すげえ言ってますね。
一応プレーした国はそれぐらいかな。
了解です。ありがとうございます。
じゃあちょっとその辺りも後で深掘っていきたいと思います。
じゃあ次に、海外でプレーしようと思ったきっかけとか、何で思ったのかっていうのはありますか。
きっかけは、僕が村中くんとカピーと同じく、ジャパンサッカーカレッジに選手としてサッカー専攻課というのがあって、そこに行かさせてもらって。
で、留学制度でアルベックス2がシンガポールに行くというのが、学生で留学という形をとって、契約選手と交じって一緒にやるっていうのがあったんで、
そこであれはコーチから言われたのか、自分で言ったのかちょっと覚えてないんですけど、一的なみたいな感じでたぶんがきっかけだと思います。
なるほど。ありがとうございます。
じゃあ次に、一番これまでプロでやってきた中で一番面白かったなと思う国ってことですか。
面白かった国、面白かったのはどこだろうな。
どこ行っても面白いは面白かったかな。
ちょっと答えにはなってないかもしれないですけど。
それぞれの国でそれぞれの面白さっていうのがあったんで。
了解です。この辺りも後で。
じゃあ逆に大変だった国とかあります?
大変だったのは冒頭でも言いましたけど、ミャンマーではね。
水が出ない、電気が止まるとか、この令和の、当時村彦君と会った後に僕も一回ミャンマーでプレイしてるんですけど、
日本では令和になってて、令和の時代に水も電気も止まる。
いやいやいやと。それも2回目だったんで面白かったですけど、それぞれで。
なるほど。
ミャンマー大変でしたし、シンガポール以外の国ですからね。
なるほど、そういうことですね。
はい。
わかりました。
じゃあ次に、一緒にプレイしたもしくは対戦した選手で印象に残ってる選手とかいますか。
印象に残ってる、いろんな選手、いろんなキャリアの人、アフリカ人、南米、ヨーロッパの人とかとも同じチームメイトであり、対戦相手でもあるっていうのもありましたけど、
一番といえば、やっぱりオカピもトジさんもシンガポールにいてわかると思うんだけど、
対戦相手にいた戸田和幸さんが一番印象に残ってて、自分のサッカーで当時、
なるほど。
それも後であれですけど、11個上でいらっしゃって、大変お世話にもなってたんで、っていう意味では戸田和幸さんかな。
なるほど、わかりました。
ちなみに下野さんのwikipediaの写真、戸田さんとマッチアップしてる写真ですよ。
あれしかないと思うけど。
わかりました。じゃあ次は、遺跡で大変だったこととか印象に残ってることとかはありますか。
大変だったのは、毎回遺跡するときすんなり行くのってあんまりなくて、
結局その遺跡に対して書類が何か必要だったりとかっていうのを、
全チームにお願いするものもあれば、全所得の国のサッカー協会にお願いしてやってもらうとかっていうので、
ゴタゴタゴタゴタして結局遺跡機関が切れるかどうかみたいになってるときとかはもうやっぱりヒヤヒヤだし、
もうそれが1分1秒でも遅れたら登録できないとかっていう状況もあったんで。
なるほど。わかりました。
じゃあ次に第7問目です。遺跡する上で、これはチームを決める上で大切にしていたようなこととかってありますか。
遺跡する上で大切にしてきたものは、基本的に別にプレーするのがファーストチョイスというか、契約を貸し取るっていうところが一番なんで。
自分の気持ちがサッカーやりたいのかどうか、トライ本当にできるのかどうかっていう気持ちの部分は大切にしてました。
なるほど。わかりました。はい、次ですね。第8問目。
現地でどのように生活していたか。答え方難しくないですか。
全然。これあれですよ。女イージス。
イージスか。
イージス。現地でどのように生活したか。現地民と同じような生活をしましたよ。
なるほどね。
結局。
いいっすね。
だから、その国その国で日本人の方とかもいたりとか駐在の方とかいたりとか、サッカー選手もいたりいなかったりとかもあるんですけど、
僕は限りなくローカルのチームに沿った生活だったんで、普通の日本人の働いてる方が経験できないような生活は多かったんじゃないかなと思う。
なるほど。ありがとうございます。これも面白そうですね。かぼっていくな。
はい、じゃあ次。第9問。これもですね、答えられるのがあれですけど、契約内容で嬉しかったこととかってあります?
いや別に契約内容で嬉しかったことは、まず契約できるってことがものすごい嬉しいことなんで、やっぱりサッカー選手として続けられるって喜びがある。
と同時に、結局契約内容に関して満足するようなことはない。
なるほど。
上見たらきりないんで。
確かに確かに。すごいことですね。わかりました。じゃあ第10問が、今どういう活動されてるかというところなんですけど、簡単に教えてください。
今、引退してTJFという千葉のジュニアユース、中学生年代のチームのコーチをやっています。
これは教えてるのは1チーム専属みたいな形で教えてるんですか?何チームが教えられてるんですか?
今1チーム、そのTJFのチームで、コーチが何人かいて、僕とあんたがアンダージュースさんが1年生ですね、入ってきたばっかり。
アンダージュース。
僕と一緒に今歩いていってます、彼らを。
了解です。じゃあ最後11問目の質問ですが、今後の目標や夢とかってあったりはしますか?
目標、夢、幸せな家庭を築きたいです。そろそろ。
わかりました。ありがとうございます。
ありがとうございます。
じゃあ一通り答えていただきました。
1つずつ深掘っていきたいと思いますが、一通り改めて聞いてみて村中さんどうでした?
これごめんね、しもごめん。僕これ作った人、文章が変なやつで、ごめんね。現地でどのように生活してたかって、これ元気が読んでくれた瞬間、これ何書いてるんだろうと思っちゃった。申し訳ない。
でもなんかすごいね、やっぱ上手くこなして答えてくれたね、上手に。ありがとうございます、本当に。
これ割と早すぎ問題だったけど。
早すぎでしょ。
見せてあげたいよ、俺とか村中君が山までどのような生活をしてたら。
本当に。
絶やすいよね。
絶やすいよ。
じゃあちょっと1個目に戻って、深掘りさせていただきたいと思います。
じゃあまず自己紹介経歴のところでおっしゃってました。山戸市、神奈川県の山戸市出身で。
サッカー始めたきっかけって何だったんですか。
サッカー始めたのどうだったんですかね。幼稚園ぐらいでもうやってて。
両親が言うには兄が3つにいるんですけど、兄の影響であんたは始めたんだよって言われたんですけど、
僕自身は覚えてなくて気づいたらもうボール切ってました。
なるほど。お兄さんもずっとその後もサッカーやってたんですか。
高校までやってました。大学はもうサークル行って、一応サッカー多分やってたのかどうかはわからないですけど。
なるほど。その後、ジャパンサッカーカレッジに進学するっていうことですよね。
これは高校卒業した後っておっしゃってましたよね。
そうですね。ちょっと戻すと、小学校から二校屋の先輩、昔から仲良くて小学校一緒で、
上手い先輩が二校屋と一つの台にそれぞれ行って、彼らと仲良くて。
で、その二校屋の先輩がクラブチーム中学行くからお前も来いって言って、クラブチームに最初行って。
で、高校もその人がクラブチーム行くので、来いっていう話だったんですけども、
高校サッカーやっぱり憧れるから地元でちょっと強いなっていうところに行こうかなっていう話をしたら、
あれいいんじゃないっていうのを言ってくれて。
で、地元の高校の部活に入ってやって、別に言うと神奈川でベスト16ぐらいなのかな、たぶん。
別にそんな全国とかそういうのは無縁だったんですけど、そこから大学どこ行くかになって、
それぞれ一つ、二つキャプテンたちが同じところ、北海道行ったりとか国史館行くか国史館か行って、
主物をどうするみたいになって、でもお前は国史館じゃないなって言われて。
じゃないながどういう意味だったのかわかんないですけど、たぶんよっぽど生意気だったりとか、
当時めちゃくちゃ厳しかったの、国史館って。今だったら。
なるほど、上下関係的なのかってことですかね。
だからたぶん俺は反発しちゃったりとか、良くない方向行くんじゃないかっていうのがあったと思うんですけど、
じゃあどうしようかなってなったときに、小学校から先輩とかと喋って、
卓色大学っていうところが強いと。でもその人は卓色大学行ったんですけど、今強いんだよって言ったけど、当時まだ無名で。
結果的には二高院の人も一粒の人たちもプロ行った人も多くいたんで、行っとけばよかったなっていうのを反面、
ちょっとこの人に今までの道をずっと導かれてるから、ちょっと反発しようかなって。
反発したくなってるじゃないですかね。
なるかなっちゃったんですよね、結局ね。
で、結局、提供大学って卓色大の練習試合とかも来ないよって俺たちが見に行ったりしてて、
たまたま大学では提供大学で、いい作家してて、いいじゃんと思って、提供大学行こうかなとなんとなく。
で、おっと、提供行くわって言って、行ったんですけど、全然下調べもしてないし、コネクションもいつもなかったんで、
行ったわけもなくて、あれどうしようかなってなって。
今さら作家部入るの、なんか違うのかなって、モチベーションもなかったし。
はいはい。
大学衛生、こんなこと言ったらいいですけど、言うたら頭いい大学ではないんで。
そこで4年間やって、俺はどうなんだとかいうふうに思ってて。
で、学校も行かなくなった時に、もうじゃあ辞めるかって辞めて、まだ19なんで、エネルギーはもうめちゃくちゃあって。
はいはい。
毎日も、もっと作家やりたいな、俺できるなとか思いながら過ごしてたんですけど、
やる環境がないと、やる場所がないと。
なった時に、最初からずっと先輩が、ジャパンサッカーカリッジ、作家専門学校あるからそこ行けばって言われて、
じゃあもうこの年だし、今さら大学行くこともないし、社会人でやるとかもないから、
じゃあそこでしかないなってところで、ジャパンサッカーカリッジに行ったって感じですかね。
それは大学辞めて、だから1年経った後に入学ってことですよね。
そうですそうです。
ああなるほど。じゃあ19歳の時に入学したイメージってことですね。
そうですね。
へえ。そこからプレイしてて、シンガポールにコーチのお勧めもあって行ったって言う方ですね。
だったと思います。
あれって、僕らの大の時ってセレクションもありつつ、とりあえず行きたい人とかにいろいろ募集してた感じなんですけど、
行こうって自分から自発的に思ったのか、さっき言ったようにコーチに促されたとか。
いや、両方あった。両方あった気がします。
なんか当時はSNS、今ほどネット環境も良くないというか、パソコンはありましたけど。
情報そんなのないですね。
情報そんなのない中で、プロサッカー選手ってやれるっていう謳い文句のこと、
何のシンガポールの情報もない中であれを見ると、映像とか見るとやっぱりいいなと思う気持ちもあったんで。
はいはいはい。
そこで行ってみて、周りの上手い選手たちとやったりとか、プロリーグでやれるっていうことで。
ワクワクの方が強かった。
ワクワクの方が強かったと思います。今思い返せば。
そうなんですね。周りの人も、周りの人というか他の選手とかってどんな感じなんですか。
学生ですか。
学生とかですか。一緒に行こうっていうタイミングで行った人っていうのは。
結構でもそんな感じだったと思います当時は。ギラギラっていうか何かをつかみに行きたいっていう選手が多かったのかなと思います。
なるほど。
当時はJ3もまだない時代だったから。
そうだよね。
J1とかJ2でアウトになった選手がシンガポールで同じタイムで挑戦しに来てたと思うけど、そういった選手と初年度から一緒にやってたってこと?
でも一年目は、今でもシンガポールの社長のコレナーさんいるじゃん。マンガ病院クリエイターさん。社長は確か2008年から変わってんじゃん。2007か8かぐらいから変わってやってるじゃん。
だから前までの全体制のアルビレックス2月シンガポールの感じが残ってたから。
じゃあ日本のアルビレックスからの、その前全体制だと結構日本のアルビレックスの資本が入ってたから。
そうそうそう。でも選手はだいぶ、最初はもうめっちゃアルビから来たりとかJの若手から来たりとかしてたじゃん。
はいはいはい。
でもお金の問題とかもあり、数は減ってて、僕行った時は本当Jから来たのは1人とか2人だったかなぐらいだった。
同期っていうとかでは誰がいた?
松剣さんだよ。今でも世話に乗ってる剣さんが、僕の1校でジェフから3年ジェフにいて。前年なんてJ1で開幕戦とかも出てたし、数試合出てるのにも関わるやつだからね、当時やっぱり。
松剣は松本剣っていう。今あれだよね、ビーチサッカーも。
そうビーチサッカーだよ。
じゃあ何だろう、ちょうど過渡期だったから何だろう、まだ新しい選手というかこれからシンガポールに行って選手が多かった。
だけどそれで言ったらちょうどタイって見たら多分東アジアタイとか多いっていうイメージだけど、2009年に関して言えば1人か2人だね、タイで日本人選手だったの。
東アジアでやるっていう選手もほぼいないから、だから当時はみんなそこからヨーロッパに行きたいとか、日本でJを目指したいとかっていう選手が多かったかな、やっぱり。
確かに確かに、そうっすよね、なんかあのさっき名前が出てきた卓色大学の方針だとサルタ選手って、タイでプレーされた選手も、確かさ卓色大出身ですよね。
そうそう、まさにサルさんが、サルさんぐらいだったね、2009年にやられたの、サルさんと丸山ほんで1人かな、たぶん2人だけ。
あーはいはい、元アルビのですよね、丸山さん。
多分そうだと思う、俺面識ないんだけど、サルさんはまあ会ってると、会ったことはね。
なるほど、まあちょっと今簡単な経歴っていう形ですけど、まあ次でそのままいっちゃおうかなと思うんですけど、海外プレーしようとしたきっかけは今のアルビシンガポールに行ったっていうところだと思うんですけども、結局そのまま3年でしたっけ?
4年かな。
4年間プレーをし続けるんですけれども、これじゃあどこかで、なんていうんですか、ちゃんとした契約に切り替わるってことですよね、当然。
そうですね、それ切り替わったのと、僕が1年目、ジャパンマーケットカレッジ1年目終わってから留学に行って、レースが先行かって3年じゃないですか。
はいはい。
で、2年目シンガポールで、3年目も留学だったか。
あーなるほどね。
はい、2090と留学っていう形で、11、12が契約選手ですね、たぶん。
でもこれ、ウィキペディアの情報ですけど、1年目から25試合に出てるんですよね。
そうですね、学生では一番出てたと思います。
いやそうですよね、なかなか限られた中で。で、2年目は30試合出て、もうバリバリ主力でやられてる感じですもんね。
そうですね、1年目が監督がナロウさんで、今どっかの大学でやられてる方で、元RBの方で。
で、ナロウさんが契約選手、学生関係なく、やる気があるとか、やれる選手、調子がいい選手を使うっていう方針パターンだったから。
なるほど。
なんかそういった意味で結構使ってもらえてたかな。でもその分めちゃくちゃ言われてましたけど。
売れるぐらいに。
売れるぐらいに言われました。
なんか要求されるってことですか。
いやなんか、私生活というか態度とかもそうですし、契約選手も5人ぐらいなんか言われる選手が結構いて。
なぜか俺学生だったのにそこに入れられて。俺は常々思ってましたよ。
そんな言うって。
プロ選手としてみたいなことを言われるってことですね。
うん、だし結構史上もあったと思います。
でもなんかその後ナロウさんまたシンガポールの監督やられてて。
はいはい。
それが数年後、4、5年後だったかな。で僕もシンガポール離れてて、ただ遊びに行ってたときかな、ちょっと挨拶したときに。
はい。
なんか、おいしもうっつって。俺のおかげだよ。はいっつって。
半分同意半分。
でも、そこらへんのなんか反骨心みたいなやってやるぞっていうの引き出されたのかもしれないし。
なるほど。
最後僕台湾でプレイしたんですけど、それは1年目シンガポールでプレイしたときにチームメイトの先輩の方から、
ほかのチーム行って、喋ってたときに、でもしもあれだぞって言って、ナロウさんをお前ごと評価してたよって言ってて。
へえ、後から話してるやつって。
はい。で、だからなんか厳しくもしたし期待かなりしてたけど、言われてないねって言われて、言われてることないですって。
へえ。
それはその先輩に聞かなければわからなかったことだし。
ちょっと感動しますね、それ。
あ、やっぱそうだったっていうか、じゃなきゃあわん、辻褄合わないっていう。
それぐらい言われてたってことっすね。
言われてたっすよ。
でも試合数はね、それは証明してるもんね、じゃないですか。
そうですよね。
そう、でも当時俺21とかだよ。なんかもう学生らしさ、立場も低い中でさ、出る、なんかこんなに言われるかなっていうか。
自分で体感するレベル的にはそのシンガポールサッカーどうだったんですか。
いやでも1年目はもうなんか右も左もわかんない。ただガムシャレ。
ああ。
で、2年目で杉山さん、杉山コーチさんで、京都のアシスタントコーチ、やられてる方かな、コーチか。
が就任されて、で、杉山の元でも完全にさっき言った体制もだいぶ選手の生け替えもあって、残ってる選手もほんと数人だったんで。
であると、だいぶ中心でやらさせてもらいましたね。
まあそこはもう完全に通用するというか、やれるような。
そうですね。あの1年。
感覚が。
1年間、最初の1年ガムシャレにやって、2年目でも多分いけるなっていう感覚はありました。手応え的に。
なるほどなるほど。じゃあそこでもう2年プレイした後に契約選手に切り替わるってことですね。
そうですね。
へえ。ちなみに下野さんはポジション的にはボランチがメインですよね。
はい、ボランチですね。
ここの時に出てた時もずっとボランチだったんですか。
そうですね。1年目のなるさんの時はいろいろ中盤いろいろ全部やらされたりとか。
まあボランチはいろいろやってましたけど、杉さんの時は固定でボランチ。
なるほど。
4、3、3の前に、なんていうんですか、4、1、4、1の中盤の前のイネシスタシャビのとこですね。
はいはいはい。なるほど。
これそれやってみて今まで日本でサッカーしてたわけじゃないですか。
はい。
シンガポールサッカーってレベルの話じゃなくて、スタイル的にやっぱり全然違うなって思ったりするんですか。
そうっすね、もう大雑把だし。
笑
まあ大雑把ですね。シンガポールは特にそうかな。
へえ。