1. シュウの放すラジオ
  2. ゲストに呼ばれて話して初めて..
2021-03-02 23:53

ゲストに呼ばれて話して初めて自分の説明が足りてなかったことに気付いた話

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人生で初めて、ゲストとして呼ばれて話をさせていただきましたですよ。

しかも大好きな #PodCast#重箱の隅 で。

パーソナリティのよう子ちゃんに引き出してもらって、自分の半生を振り返る形になりました。

これ、ホントは自分の #ポッドキャスト で話しといた方がいい内容だよね(笑)

ってことで、時間かかるかもだけど、ユルユル話し始めましたですよ。


#シュウの放すラジオ #放すラジオ #手放す

#なるべくお金を使わない生活 #省マネ(省マネーの略)

#Podcast仲間 #ポッドキャスト仲間

#コテンラジオ #コテンコミュニティ

#樋口塾


#050 【ゲスト回】シュウさんに来ていただきました(前編) by 重箱の隅 • A podcast on Anchor : https://anchor.fm/11040/episodes/050-er8h97

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00:01
今日は、わりと暖かい日ですね。
もう春が近づいてきてるし、
タンポポとかの写真をアップしてる人がいたり、
僕の近くのあぜみちとかでも、つくしがもうどんどん生えてますもんね。
春は、どんどんどんどん近寄ってきてるから、
今日もね、暖かくなってきてるけど、
僕的にはね、超寒がりの僕的には、
一応まだまだ陽中域感ですね。
三寒四温っていって、急に寒い日が来たりっていうのもあるんだけど、
あとはそれじゃなくても、前の日に比べてあったかいとか、
朝に比べてあんまり温度が上がらないとか、
なんか体感温度だっけな、ありますよね。
でも体感温度っていうだけじゃ僕足んなくて、
相対体感温度って言うんですかね。
ほんとにね、あったかいはずなのに、
もう一ヶ月前、例えば2月とかが一番寒いことが多いって僕思ったんですけど、
3月4月も、あれあの頃2月が一番寒かった時期があって、
今日とかはまだまだその頃に比べたら、
あったかいはずなんだけど、すごい今日寒いって感じるなーとか、
そういう時に、いやでもそんなはずないと思って、
その時期なりの格好をしてたりすると、風邪ひいたりしますね。
なんかもうほんとに、2月と同じくらいの格好をしてても、
自分が寒いと思ってたらもうその格好でいいみたいな感じで、
その辺はすごく警戒して過ごしてるシュウです。
はい、えーとですねー、あ、しまった。
これ今前置きが終わったから、こっから本編になりますね。
ということでいきましょう!
シュウの話すラジオ!
クレイジー4シュウっていうのもらってて、
それもまだちょっと微妙に継続中だけど、
他にもいろいろもらってて、人形のシュウとかいろいろ混ざって、
でもまだ上手いこと表現できないっすー。
はい、えーとですね、その辺ちょっとね、
一回どっかで回を作ってまとめるとか、
なんかね、そういうやるかもしんないし、
案をくれた人たちと直接話して決めたりすることもするかもしんないし、
まぁちょっとわかんないですけど、
まだキャラが安定してないシュウです。
でね、えーと、今そのキャラの案をくれた、
さっき言った人形のシュウっていうね、案をくれたのが、
えーと、銃箱のすみーっていうポッドキャストをやってる
ひとしおよこちゃんなんですけど、
ゲストに呼んでくれたんですよ、僕を。銃箱のすみのゲストに。
03:02
もう聞いてくれた人もいるかもしれないですけど、
昨日アップされてましたね。
なんていうタイトルにしててくれたんだっけな。
えーと、
シャープ50からシャープ52まで、前編中編後編に分けて、
ゲスト回、シュウさんに来ていただきました。
っていうタイトルであげてくれてますね。
いやー、もうほんとありがたい限りですね。
アンカーっていうアプリで僕らポッドキャスト配信してますけど、
アンカー自体にですね、
ゲストというか、アンカーでつないで呼ぶ、
一緒に録音する場に呼ぶみたいなことができるんですよね。
僕はそれでゲストに呼んでもらって、その場で一緒に喋って、
それで録音したのが10箱の隅の前回の3回にわたる配信。
それがそのアンカーで録音されたやつなんですよ。
いや、アンカーだけであんなことできるんですね。
僕全然知らなくて。
オンラインでゲスト呼んで喋ったりしてるのって、
全部僕ズームだと思ってました。
アンカーだけでできるっていうのは衝撃でしたね。
遅延とか発生しちゃうのはどうしてもしょうがないんだけど、
その辺をきっちり編集されるのは、
樋口清則さんとかですよね。
僕もね、ちょっと近々までいかないかな、
3月の終わりの方かな、
樋口清則さんがゲストで出てくれる予定になってるんで、
僕だけじゃないですけど、樋口塾の塾生に、
ゲストいつでも行きますよって樋口さん言ってくれたんですよ。
だからそれすごい楽しみでもあり、
楽しみというか、僕が手を挙げたから来てくれることになったんだけど、
でもね、本当はね、僕何回も言ってるみたいに、
ビビりだから怖いですね。怖い。
めちゃめちゃビビってます。
でもね、せっかくの来た機会なんでね、
これ絶対手挙げない手はないと思って呼びました。
だからね、なんとかして、
この間話したゼロPCとかをまだ、
3月の1週目とかにしたから、
全然発送の連絡まだ来てないんですよ。
なんとかね、それが来た状態で、
うまい、うまいじゃねえか。
いい感じの録音ができる環境が整って、
その収録ができたらいいなーって今から楽しみしてるとこですね。
で、さっき言った、銃箱の住民に呼んでもらって、
陽子ちゃんの質問に答えてっていう形で、
僕を掘り下げてくれたんですね。
で、その中で、答えていく中でですね、
なんていうかな、聞かれて初めてスムーズに答えられたっていうんで、
自分でも再発見があったんですね。
自分の考えは普段から考えてることであって、
06:03
でもそこに至るまでの、
僕の歴史って言うと大げさだけど、経緯があるわけですよ。
だからそれをね、
僕あんまりちゃんとこのポッドキャストで、
その経緯話してこなかったから、
いや、そのうち話そうかなっていうのを最初の方はね、
思ってたんですけど、
なんだかんだでね、
身の回りに起きたこととか、
ポッドキャスト仲間の、
ポッドキャストに対しての、
リアクションとかそういうのやってるうちにね、
伸び伸びになってて、僕は忘れてましたね。
だからこれはちょっと、
それをやっとかないといけないなと今回思って、
まぁあの10箱の隅にね、
聞いてくれた人はいるかもしれないし、
それで答えたのがそのまんまなんだけど、
まぁせっかく自分のポッドキャストは、
自分一人で好きなだけ喋れるから、
まぁ何回になってもいいから、
ちょっとそこ丁寧に喋っとこうかなと思います。
今回だけはね、
どこまでいけるか、
まぁ喋りきれなかったら、
次回に回してって感じで、
まぁのんきに喋っていこうかなーっていう風に、
今は思ってます。
でですね、
まぁ洋子ちゃんに聞かれて、
話していく中で、
やっぱ僕、
この話すラジオも、
手話すっていう意味の話だから、
うーん、今も、
うーん、手話すっていうのが、
人生の大きなテーマになって、
人間なんですね。
で、そうなってきた経緯っていうのをやっぱ、
説明しとく方がいいなと思ってて、
で、それをまぁ、
洋子ちゃんが聞いてくれたから、
答えていったんだけど、
僕の中でやっぱ話してて、
遡っていって、
やっぱちょっと、
ちょっとだけ幼少期から、
喋る感じになったんですね。
幼少期っつっても小学校ぐらいかな、
小学校時代、
から僕、
結構優等生で、
親とか先生の言うこと素直に、
素直に聞いて、
宿題もやって、
だから勉強も素直に成績がよく伸びて、
っていう、
毎年のように学級委員長やって、
で、小学校の6年生では、
児童会長にまでなってて、
そんな感じのもう、
素直すぎる優等生だったんですね。
で、
それがですね、
中学も、
1、2年生までは、
その流れで来てたのかな、
でも3年生ぐらいになって、
なんていうんですかね、
自我の芽生えっていう風に、
当時、
教わってピンときた感じだったのかな、
ほんとに2年か3年ぐらいかな、
なんか自我がね、
芽生えてきたって感じだったんですよ。
で、ちょうどまたね、
中学3年生の時に、
新人で、
ビジネスコーナーで、
美術の先生が来たんですね。
で、その人が、
ものすごい型破りで、
魅力的な先生だったんですよ。
で、何だろう、
09:00
美術って言うとね、
普通絵を上手に描く、
見た通りに写真みたいにして描く、
みたいなイメージ、
僕も持ってたんですけど、
全然そんなんじゃないと。
なんか、こうね、
チョークとかで厚く黒板に書いて、
説明してくれるんですけど、
途中でチョークとかが折れちゃったら、
目がギザギザになるけど、
ギザギザはギザギザでいいじゃないかと、
いい味出したりするかもしれない、
みたいな。
複雑な線が引けたりすることだってあるよ、
みたいな。
すごい厚いけど、
もう、何だろう、
僕みたいに素直に、
素直に、こう、
優等生で生きてきた人間からしたら、
衝撃でしかなくて、
でも、ものすごい、
人生を考え直すというか、
人生って何だろう、
って考えたんですね、
その時に。
毎日美術の先生のところに、
昼休みは話しに行って、
実際話すと楽しいし、
っていうのもあったけど、
まあ、気になってたんでしょうね。
もう、ほんと毎日行ってましたよ。
もう、その先生に笑われるぐらい。
で、違う部屋にいたりしても、
僕見つけちゃって、
爆笑されて笑われたりしてましたね。
で、僕は先生の弟子だ、
みたいに言ってて、
先生みたいになりたかったですね、
だからどうやったら
先生みたいになれるかなと思って、
で、僕自身の中から
やりたいことが出てこなかったから、
真似するしかなかったんですよね、
先生のこと。
で、まあ、高校とかも
本当はその影響を受けて、
ちゃんとこう、
自分にとって意味のある進学を
本当は僕はしたかったんですけど、
だから、
まあ、成績が良かった、
下手に良かったせいで、
もう、成績が良いやつは
自分にとっての
意味のある進学があったんですよね。
だから、そこを最初は言われてて、
勧められてて、
でも、高校の説明会みたいなのを
ある程度近くにある高校から
先生が説明に来るんですよね、
中学に。
その時に、僕は本当は
他の高校の先生の方が
何だろうな、
意味のあることを言ってるな、
みたいな高校はあったんですけど、
やっぱね、
そこを選び切る
という風に言ってくれたんですよ、
その美術の先生も。
みんな成績が良い子が
行く方の高校だったけど、
まあ、
めちゃくちゃ良くないと
いけないわけでもなくて、
そこの高校に選ぶ
同級生が多かったんですね。
そんな中で、
また高校3年間かけて
道を選ぶっていう余裕が
できるよね、
っていう風にも言ってくれたんですよ、
その美術の先生も。
だから、それにも
ちょっと甘えちゃったとこがあって、
そこに行ったんですね。
でも、3年間かけても
僕、答えが出なかったんですよ。
12:00
だからもう、
その高校の中でももう、
その美術の先生への憧れが
消えてないから、
美術部に入って、
美大に進むっていう風になったんですね。
まあ、それなりに自分でも
やっぱり頑張って絵を描いて、
美大に通るっていう風なのを
やっていきましたね。
そしたら、
美術館の美大に通るんですよ。
美大に通って、
入学しましたと。
入学して、
その高校がね、
成績がいい子たちの多い、
その成績がいい生徒たちの成績を
さらに伸ばして、
高校に入学させるっていうような
課題学習って言い方したかな、
そういう課題がめちゃくちゃ多くて、
苦しい、
つらいっていうので、
有名な高校だったから、
大学に入った瞬間に
気が抜けたのもあるし、
まあ、
親元離れて、
当時は僕も親元離れたくて
仕方なかったし、
関東への憧れもあって、
関東の大学だったんですけどね。
一人暮らしを始めるっていうんで、
まあ、
羽伸ばしましたよね。
でも、大学に真面目に通うなんてことも
あんまりせずに、
最低限の単位さえ取れてりゃいいや
みたいな感じで、
過ごしてましたね。
目標、目的に向かって進むみたいなのは、
もう、
しばらくおろそかになって、
まあ、洋子ちゃんのポッドキャストでは
目標を見失ったみたいな、
いい感じの言い方してたけど、
どっちかっていうと、
本当に遊びまくったっていうか、
でも、そこでも言いましたけど、
あれですね、
東村昭子さんの
カクカクシカジカっていう漫画で、
美大生がどんなに
バカかみたいな感じで書いてるけど、
本当にああいう感じの世界でしたよね。
って僕は思います。
いや、ちゃんとやってるやつもいましたよ。
真面目なやつもちゃんといたけど、
僕みたいなのとか、
僕よりもっとひどいのもいたし、
本当にね、
遊んでましたね。
本当に正直遊んでました。
ただ、まあ、面白い価値観っていうか、
そういう勉強ができるとか、
そんなことはそんな大事じゃないよねとか、
お金とか、
お金をね、
稼いでお金持ちになるとか、
そんなのも本当は全然魅力ないよねとか、
そういう会話が普通にできる
相手がいっぱいいたから、
その点では、
僕の今の価値観に通じるものっていうのは、
その頃にも育まれたっていうかね、
根付いた部分はあるかもしれないですよね。
で、
でもね、
やっぱり真面目に大学に行けないから、
行ってないし、
単位がちゃんと取れないんですよ。
で、卒論なんてものも、
もう、書ける気もしなくて、
まあ、だいたいその手前の単位が足りてないから、
本当にね、
4年生3回やりましたね。
15:00
留年2回ってことですね。
まあ、当時は僕自身ももう、
なんかこう、
罪悪感でね、
罪悪感があるから、
余計また動けないみたいな、
暗黒自体みたいな感じでしたよね。
自己肯定感みたいなのを全く持てない、
すごい灰色な感じを自分でもしてましたね。
何やってんだ俺みたいな感じでしたね。
でもまあ、なんとかかんとか、
6年間しかいることができないっていう、
なんかルールがあったんですね、確か。
だからもう今年は最後だって。
だったらまあ、なんとかかんとかやっぱ、
人間やるもんですね。
卒業だけはしました。
で、ただ卒業したところでね、
そんな感じで卒業してるから、
まともにこう、就職活動とかして、
就職が決まるなんてことはないんですよ。
だからね、偶然、
当時の家に来た、
えーと、
東京電話っていうね、
頭に0088だっけな、
なんかそんな番号を付けるだけで
電話代が安くなるみたいな、
の、
営業の人が来て、
無料だからそれに入って、
モデムを付けてもらう、
っていうことをやってたら、
同い年ぐらいの子だったんですよ、その子が。
んで、このバイト割りがいいよ、
みたいなことを言ってきたから、
もうそのバイトを始めたっていうのが、
僕が大学卒業、
卒業後に初めてしたことですよね。
で、まあそっからもね、
要はアルバイトを渡り歩いて、
派遣社員とかがあるんだっていうのも知って、
ちょっと派遣社員になったりしたけど、
まあそんな感じですよね。
そっから、
どのぐらい、
何年間になるのかな、
67年、
派遣課、
バイト、
ですよね。
で、正社員になったのが、
31歳でしたね。
31歳で初めて正社員、
そこで、
僕、あの、
もうね、美術の道は違うなっていうのは、
学生時代からもう感じてたし、
美術の真似だったっていうのがあったから、
うん。
本当に自分がやりたいことっていうのは、
全然見つかりもしなかったんだけど、
なんかアルバイトとかしながら、
もがいてたんですね。
僕の中でも自分でもがいてて、
もがきながらなんとなく、
こう、出てきたのが、
本当はこう、
頭の作りは理系な部分もあるなと思ってたんですよ。
数学とか得意だったりしたんですよね。
で、そこと直接つながるわけでもないんだけど、
パソコン、当時持ってなかったけど、
まあ、
得意になれるかもしれないっていう、
漠然とした思いがあったんですね。
で、パソコンも、
ちょっともらえる機会があって、
パソコン使うようになって、
で、
これでなんか仕事にできないかなと思ってたんですよね。
で、プログラマーなんて言葉も知ってたから、
18:00
まあ、
究極はああいうのに慣れたらいいんだろうな、
っていう感じがしてたんですよ。
でも、なかなかね、
そんな急に慣れるもんでもなかったんですけど、
僕が31歳で初めて正社員になった会社っていうのは、
未経験から募集してたんですよ。
未経験でもプログラマーとしての採用をすると。
これすごいなと思ってもうそこに入ったんですよね。
で、まあ本当に、なんだろう、
プログラミングの経験を確認するためじゃない、
なんか適正テストみたいなのだけあったんですよね。
こう、ひっかけ問題みたいな感じだったかな、
ちょっと忘れましたけど、
でもそれで僕結構点数良かったらしくて、
まあ、適正としてはプログラマー向いてると、
判断してくれて採用されたんですね。
で、採用されたのはいいんですけど、
そこがね、すごい、
まあ、いわゆるブラック企業にね、
最初違ったんですよ。
リーマンショックが、
僕が入社した時からどんどん、
1,2年経ってからリーマンショックみたいな、
そういうタイミングになっちゃったんですよね。
そっからもう、
ブラック企業への道を一直線ですよね。
でもある意味ね、
あの頃のIT業界は、
ほとんど全部、
ブラック企業化してたんじゃないかな、
っていう気がしますね。
だから、うちの会社だけ、
僕が所属してた会社だけを責めることはできないような気もします。
まあ、10年ぐらい前にね、
自宅開発で、
外中の外中みたいな感じで、
最下流にいたってこともあるんですけど、
ほんとにリーマンショック後は、
影響を受けましたね。
うん。
だから、もうほんとに、
サービス残業ですよね。
完全サービス残業、休日、出勤、
だったし、
毎日終電ですよ。
終電で、
1時間以上かけて家に帰ってきて、
神さんが作ってラップしてくれてるご飯をレンジでチンして、
もう、寝るのは2時ぐらい。
で、朝もものすごい眠いから、
電車で寝ながら行きたいんだけど、
電車、座れないんですよね。
だから、うちの近くにバス停があって、
バスで行くこともできたんですよ。
で、バスで行くと、
ちょっと時間はかかるし、
早い便しかなかったんだけど、
それでも、もう、
乗って座って眠りながら行けるっていう大きなメリットがあったから、
その早い便に乗るためには、
もう5時台のバスに乗るっていうんで、
毎日睡眠時間3時間ぐらい。
で、もう、
そうですよね。
ほとんど休みがなくてっていうので、
やってたから、
もう、俺何やってんだろうな、みたいな。
ちょっと先、言い忘れましたけど、
あの、そこの、
31歳で初めて、
21:00
採用されたプログラマーの会社に入ると同時ぐらいで、
結婚してたんで、
まあ、子供も生まれてて、
抜け出せないですよね。
もう、そこでひたすら擦り切れるまで頑張るしかないみたいな状態で、
でもね、そこをもう持たなくなって、
やっぱりね、潰れちゃうんですよ。
まあ、
厳密に言うと潰れる前ですけども、
もう潰れるっていうのを上司から言われるんですよね。
もうすぐ潰れるから覚悟しといてな、みたいに言われるから、
もう次の準備するしかないみたいな感じで、
最後の数ヶ月は、
ポンポンってこう、2社ぐらい移りました。
でも移ってもね、やっぱり業界全体の問題だったんですね。
うーん、で、しょうがないからもう、
最後の最後は実家に帰るっていう決断しましたね。
実家にとりあえず身を寄せさせてもらって、
そこでまた、自分でプログラムして作ったウェブアプリとかで、
それを収益化して何とか食べていけないかなっていう、
そういう立て直しを実家に戻って、一旦する感じにしようと思いましたね。
それを決断したのが、2011年の1月でした。
3月末までは、その時に席を置いてたところでの仕事をして、
4月からも帰ると。
それは決定してたんですね。
その時点で、
っていうかまあ、
2011年の3月って言ったら皆さんわかると思いますけど、
震災ですよね。
だからもう、
2011年に帰ってきたっていうと、
あ、震災で帰ってきたんですねっていう人が多いんですけど、
いや、そうではなかったんですよね。
1月に決断してたんですよ。
何かがそうさせたのかもしれないし、
わからないけど。
でもだから、震災の時には僕はまだ関東にいたんですね。
で、
本当に、
なんだろう、
関東にいる理由が、
根こそぎ崩壊したようなもんですね。
もともと帰ってたから一緒なんですけど、
宮崎に帰って、人生立て直すしかないんだっていうのは、
その時により深まった気はしますね。
はい。
ちょっとやっぱり長くなりますね、話が。
今日はこんなところで切ろうかなと思っておきます。
次回がまた、
宮崎に帰ってからどんな風に今の生活に流れてくるかっていう話をしたいと思います。
というとこで、今回は以上でーす。
いつも聞いてくれてありがとうございます。
ではまたー。
23:53

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