北本の歴史と交通革命
というわけで、北本で学ぶシリーズの続きです。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。前回は、北本塾で学ぶ、北本で学ぶ明治の地方自治という形で、北本の編成をお伝えしたんですけど。
一応、もう一回おさらいですね。
もともと甲乙塾というものがあったところが、元甲乙塾になりました。
いつしか元塾村と呼ばれるようになりました。
元塾村が2つあったから、北元塾村になりました。
明治の大合併があって、中丸村、大和田北本塾になりました。
ここからどうやって現在の北本市になるのかというのを追い求めていくと、なんと今度は昭和の地方自治についてもざっくり学べてしまうんじゃないかと。
わぁ、なんてお得。
お得ですね。ちょっとこれで受験生は近代史対策ができるんじゃないかな。現代史なのかな?近代史か。
近代史ですかね。
近現代。はい。学べると思いますので。
鉄道と信号所の設置
はい。
学べるかどうか、これでそのまま受験に挑んでもらっても困るんですけども。
そうですね。
はい。ちょっとやっていこうと思います。
はい。よろしくお願いします。
お願いします。
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はい。ということでですね。
はい。
まずちょっとお聞きしたいんですけど。
はい。
昭和の話をする前に、明治の話を少しだけさせてください。
はい。
明治時代最大の交通革命って何だと思います?
交通革命?
はい。
ちょっと自信がないです。というかわからないですね。
なるほど。別にこれだってことは特に明確なものがあるわけじゃないんですけど。
はい。
私としては鉄道なんじゃないかなと思っているところがあります。
なるほどなるほど。
鉄道の歴史、日本だと明治5年に新橋と横浜の間が開業したっていうのが日本最初の鉄道ですけども。
ええ。
まあそれから10年後くらい、明治16年になると上野から熊谷まで日本鉄道っていうのが開業するんですね。
ほう。
これがいわゆる現在の高崎線の前身になる鉄道なんですけど。
はいはい。
その一番最初にその日本鉄道が開業したときに、駅としてあった駅って何か、この駅は最初からあったんじゃないかみたいなのって想像つきますか?
東京から熊谷でしたっけ?
上野から熊谷ですね。
上野か。
えー、まあ勘でいけば赤羽、大宮、そして北本かな?
なるほど。まあ流れ的にそう思いますよね。
はい。
全然全然違くって。
やっぱり鉄道じゃダメか。
上野から熊谷の間には、大寺、浦和、萩生甲の巣がありました。
一個も貸してない。
そうですね。
残念。
いやいや、これはめっちゃ難しくて。
特に大宮とか絶対入ってるじゃんって思うのにないんですよね。
そうですね、意外ですね。
そうそう。で、その辺りって実は2年後に新しく新設されるんですけど。
ほう。
それこそ、赤羽、大宮、沖川、吹上、この4つが明治18年に新設されることになりますと。
なるほど。
はい。で、この時ですね、沖川から河野津の駅の区間っていうのが、
はい。
この日本鉄道の区間の中で一番長くて10キロぐらい間が空いてたっていう状態になりますと。
なるほど。
で、これが不便だっていうことで、この沖川と河野津の間の村々が、
まあめっちゃ新しい駅作れよっていうふうに言ってくるんですね。
なるほど。
ちなみになんでこの当時の人々って鉄道をそんなに欲しがってるんだと思います?
なんだろう、物資の輸送とかかな。
ああ、その通りです。
特にどんな物資かみたいなのって想像できます?
物資。えーと、パッと出てくるのは野菜ですけど、
荒川が近いので木材とか水運とかそういうものですか?
ああ、なるほど。
当時この辺の人たちは都会からあるものを欲しがっていましたと。
ああ、なるほど。
肥料かな?
お、素晴らしい。その通りです。
肥料の利用がめちゃくちゃあったんですよ。
なるほど。
この当時で言うと、主に大豆のカスとか、
あとは花梨酸っていう化学物質とかわらばいとか、
そういったものが肥料の中心の想定だったりとかするんですけど、
そういうものを集めて畑に巻いて、
それで生産したものを今度は都会に送っていくっていったところで、
貨物用の需要がめちゃくちゃあったっていったところですね。
はいはいはい。
なので駅のないところとかは、駅まで物資を取りに行くのもそうですし、
運ぶのもそうですし、結構めんどくさいっていうのが、
やっぱり実際のところだったかなというところで。
なるほど。
はい。
っていう中で、そのさっき言った桶側からコーノスの区間の間に、
一つ信号所っていうのを設けることに成功しました。
なるほど。
信号所って駅の前身みたいになることはあるんですけど、
簡単に言うと別に何かそこで貨物の輸送とかをするわけではないんですけど、
信号所が一回できると、その近くに今後駅を作るっていう可能性が広がるっていったところで、
結構やったっていう感じなんですけど、
その信号所が作られた場所が、いわゆる北本塾村があった場所。
なるほど。
中丸村の大技北本塾に設置されましたと。
なるほど。
はい。
その時、信号所の名前は本塾信号所っていう名前だったんですけど。
はい。
はい。
で、信号所を一回できましたと。
はい。
できた後に、とはいえ駅になってくれないと困るわけで。
そうですね。
この辺に駅を設置してくれっていう探勘書が周りの村から出されたんですけど、
その時にちょっと問題がありまして、
新しい駅を信号所があるところに作ると、
その地域の北側の地域の人たちがちょっと得をすると。
で、信号所があった場所じゃない少し南側に設置するっていう案もあって、
そうすると南側寄りの人たちが得をすると。
なるほど。
といったところで、この北と南でちょっと取り合いみたいなことが起きてしまったんですね。
なるほど。
はい。
で、それを結構ややこしくしてるのが鉄道省の提言で、
新しい駅作ってもいいけど3万円寄付してくれみたいな。
そんな感じでお金を代わりに払えみたいな感じで要望してたんですよ。
はいはい。
で、当時南側の地域の人たちって支払いの能力があんまりなかったっていったところで、
じゃあしょうがないや北部に譲るかみたいな感じだったんですけど、
なるほど。
途中で鉄道省がやっぱ1万円でいいよって言ってきたんですね。
そしたら南部でも全然できそうなんだけどって言って、またさらに南部と北部でもう一回いざこざというかバトルみたいなのが起きてみたいな。
ほうほうほう。
こんなことをやんやんやんやったせいもあって、結構新しい駅を作るに時間がかかってしまって、
結局北側に作るってことになりましたと。
なるほど。
はい。
で、もともと信号所があったところの近くに新しい駅ができるってことになったんですけど、
はい。
その時に駅ができたのが中丸村大和北本塾だったので、新しくできた駅の名前も北本塾駅というふうになりました。
合併と新しい村の誕生
なるほど。
はい。
この駅ができると、もちろんそこで輸送が図るってことはあるんですけど、
ええ。
この駅ができたのは昭和3年なんですね。
ほう。
で、そっから10年経たないうちに、いわゆる日中戦争だったりが発生して、
はい。
太平洋戦争が発生してみたいな、いわゆる戦中期に入っていくわけなんですよ。
ええ。
はい。
そうすると、その戦中、昭和17年ですね。
はい。
に、合併しろっていうお達しが県の方から来るんですね。
ほう。そんな戦争の最中に。
はい。で、これ戦争の最中に合併をしてほしい実は需要がありまして、
ほう。
はい。
要するに、今の村の数っていうのが、いくら明治の大合併をやったからといって、
はい。
まだまだ多すぎる状態だったんですね。
ええ。
はい。なので、もっと合理的に自治をやってもらうためには、
合併をして一つの行政単位っていうのを小さく、小さくというかサイズ的には大きくなるんですけど、
それに割く人員とかをできるだけ少なくして、
ああ。
その浮いた経費を、まあ、戦争の方に向けた大合併とかに持っていこうと。
なるほど。
いうことを考えたんですよ。
なるほどなるほど。
はい。で、お達しがまあ、特に埼玉県とかにはまあ、埼玉県によりバーって出されまして、
はいはい。
それを受ける形で中丸村は隣にあった石戸村と合併するということになりました。
なるほど。
はい。で、じゃあ合併するときに新しい村の名前どうしようっていうことになるんですけど、
はい。
まあ以前の話だとまあ、なんか合併するときは同じなんだろう、一文字ずつ取ってつけろとかなんかいろいろあったと思うんですけど、
はい。
今回新しい村の名前は北本塾村になりました。
北本塾村。
はい。中丸村と石戸村が合併して北本塾村になったんですよ。
駅の名前がそのまんまついたんですかね。
そういうことなんです。駅っていう主要なものがちょうど中丸村と石戸村の真ん中ぐらいに北本塾村があったんですよ。
なるほど。
で、ちょうどまあその合併したときの中心に北本塾駅もあるので、これは北本塾村にしようということになったっていうわけなんですね。
なるほどなるほど。
はい。これ結構同じような感じで駅の名前から取ってるのって今でいう白岡町、白岡駅。
白岡市もあれ白岡駅っていうのがあって、そこから白岡町っていうのができたんですね。
そうだったんだ。
あそこもともと篠津村とか日活村だったかな。全然違う村だったんですけど、駅の名前が白岡だったからそこから町の名前が合併したときに白岡町になったみたいなところもありますので、
結構その駅の名前から取るっていうパターンは一つのパターンではあったんですよね、当時はね。
なるほど。
はい。ということで北本塾村が復活する形になるんですけど。
はい。
地方自治法と町の誕生
そんな中ですね、太平洋戦争が終わりまして、太平洋戦争が終わったらいろいろ近代改革をしていかないといけないというところで、またこの地方自治にもメスが入ってくるわけですね。
なるほど。
昭和27年に地方自治法、地方自治法っていう地方自治に関する戦後の法律で結構大きいものが何回も改正されてあるんですけど、
その中の4回目ぐらいの改正のときに、市町村の合併を知事からの勧告でできるっていう仕組みができました。
これまでってやってくださいっていうこっちからお願いはできたんですけど、
実際に合併するかどうかっていうのはその当事者の村とか町とかが判断してやってもらうっていう感じだったんですけど、
そうじゃなくて、上からの命令で合併させることができるっていうのがこのときの一つの改革ですね。
調整的にくっつけということができると。
そういうことです。
なるほど。
っていうのも、やっぱり町村合併の促進法っていうのがその翌年に発表されるんですけど、
まだまだ合併しないとダメなんじゃないっていう。もっと行政すりむかしようよと。
なるほど。
というところがあって、特にですね、村もそうですけど、町に、もし人口がそれなりにあるんだったらもう町にしちゃいなさいよというような話もあって、
結構この辺りからどんどん町とか、あるいは市とかもですけど、どんどん増えていく感じになっていきますと。
なるほど。
埼玉県の条例だと、このとき町になる条件、人口5000人以上みたいな1個条件があったんですけど、
当時北本塾村はだいたい人口15000人ぐらいだったので、
結構多い。
もう全然余裕で町になるというところだったんで、それを受けて昭和34年ちょっと後ですけど、
北本塾村が調整施行して、町になるということになりました。
なるほど。
このときですね、新しい町にせっかくなるんだから、町の名前新しくしようよというような話があって、このとき公募をするんですよ。
なるほど。
とはいえ、このときってスピーディーに合併とかをしていくっていう一つの目的もあったので、公募の期間って10日間しかなかったんですけど。
短いですね。
めっちゃ短い。その期間で300件ぐらい案が出たのかな。
そして多いですね。
そうなんですよ。
っていうのも、村民って別に村から町になることって全然興味なくって、むしろ新しい名前どうするかの方が興味あったっていう当時の言葉があるらしいんですけど。
なので本当に新しい名前を自分で付けられるというか、自分の希望が乗っかるっていう一つの思いが公募の件数に結構乗ってきたのかなという気はするんですけどね。
なるほど。
集まったもの全部が全部受け入れるってわけじゃないので、町名の審査会みたいなのがあって、その中で実行委員会みたいな人たちが投票を行って、結果1位になった案っていうのが、三原町っていう。
後方もない。
美しいって書いて治めるって書いて三原町っていう、なんか素晴らしい町の名前だなと思うんですけど。
綺麗な名前ですね。
当時12歳の女の子の案だったらしいんですけど。
センスありますね、その子。
いやそうですね。
いやこれは素晴らしいってことで、1位になりましたと。
でそのまま町名になるかと思いきや、3日後の議会では北本町になってたんですよ。
なんでやねん。
なんででしょうね。
なんでですか?
謎なんですよ。
謎なんですけど、噂ではその分かりやすさとか親しみやすさとかを考慮した結果なんじゃないの?みたいな話があります。
もともと北本塾っていう名前だったのが、一気に三原町ってちょっと変わりすぎだろって言ったところだったりとか。
ちょっと行行しすぎないかみたいなところもあったんじゃないかみたいな。
なるほど。
話はあるんですが謎です。
謎ですか。
謎なんですけど、ここで問題が発生していることにお気づきですか?
なんでしょう?
新しい町の名前は北本町になったんですけど。
これ、もともと昔の宿間町だったから本塾って呼ばれてたところが北本塾になったんですよね。
そうですね。
今のその北本っていうところにその痕跡何も残ってやしません。
そうですね。
北本っていう言葉の意味って、北は本当に後から付けられたもので、本は本塾の残りとか残りの部分だったりとかするんで。
はいはいはい。
北本っていう名前からだと、なんで北本になったのかが全くそれだけじゃわからないという。
北で元の何かがあったっていうことですね。
そうですね。
っていう状況になんと陥ってしまったと。
なるほど。
とはいえ、多分その時の住人の方とかも別にそれに納得して、結局昭和46年には北本氏になるというところで今に至るんですけど。
はいはいはい。
そんな感じでですね、一旦ここまでの流れをまとめると。
もともと河野洲塾がありました。
それが移転したので、元河野洲塾と呼ばれるようになりました。
で、いつしか本塾村と呼ばれるようになりました。
で、本塾村が2つあったので、北にあったので北本塾村と呼ばれるようになりました。
で、合併をして中丸村の大和北本塾になりました。
で、駅ができたことで、また新しく合併したときに北本塾村になりました。
で、そこから町になるときに公募で選ばれたものを受けて、結果北本町になりました。
で、今北本市になってます。
っていうことです。
一番大事な宿が消えちゃったっていうことですね。
そういうことなんです。
なので、なかなかここまで明治以降に名称の変遷をたどっているというのが珍しいなと思って、
ちょっと今回取り上げさせていただいたといったところになります。
なるほど。
北本の歴史とアイデンティティ
この辺のこととかってあんまりご存知じゃなかったんですよね。
全然知らなかったですね。最初から最後まで初めて聞きました。
本当ですか。
やっぱり北本っていうと、今だとトマトのイメージがやっぱりどうしても強かったりとかして、
逆にトマト以外の何も知らないみたいなところはあったりもするんですけど。
実はこういう経緯があって、今の北本っていう名前になってるんだよってことを、
ぜひ覚えて帰っていただきたいなというところですね。
なるほど。大変勉強になりました。
ちなみにですね、北本市は北本デジタルアーカイブズっていう、いわゆる詩詞をウェブ上で公開しているので、
この辺の話とかも一通り詩詞をウェブ上で眺めながら今回まとめたんですけど、
興味あるところとかあったらぜひその辺も眺めてみると。
もっと昔の古代の話から載ってますんで。
ぜひ興味あったらそういったところも眺めてみていただければと思います。
そうですね、読み応えがありそうです。
ということで、本日は北本市の話を前編後編にわたってさせていただきました。
はい、ありがとうございます。
はい、ありがとうございます。