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その日のこと 〔少年〕
牧野信一 ただぼんやりと自分は安倍さんの顔を眺めた
必ずや自分の顔も 安倍さんと同じように
想然と変わっていたに違いない
大正10年 3月5日
午後2時10分 ちょっと自分はテーブルを離れて
どこだったか歩いていた
そうしてテーブルのところへ帰ろうとして ストーブの前へ来た時
向こう方から慌ただしく駆けてきた安倍さんが
あ 君君
大井くんが死んだとさ まさかそんなことはあるまい
と自分は思った 青山へ電話をかけてすぐに行こう
では山口さんに とつぶやきながら自分は山口さんを探しに行った
なんだか嘘のような気がしてならない
そうしてこの驚きを山口さんに知らして
そうしてまた山口さんの驚きの顔を見ることが 耐えられないような気がした
ようやくコーヒー店に山口さんを見つけ出した自分は 山口さん
山口さん あの
大井さんが と
自分はようやく伝えることができた それを言ってしまって自分はこれは大変なことになった
という気持ちが初めてぴったりと感じられてきた それから先のことは自分は書くことも耐えられないのである
図紙には安倍さんが行くことになった 自分たちは恐ろしい夜の中で
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まだ望みを持ちながら霧に舞った 笑い顔の大井さんより他想像できぬ自分は
笑い顔の大井さんを思いながら やあ
心配かけてすまなかった と言って帰った時
自分は何と言おうかしら 自分はそんなことだけを考えていた
今自分は名状し得ぬ寂しい気持ちで このペンを握っている
そうして何にも書けないのである 自分の隣に並んでいるテーブルと椅子
埃が溜まっている 陰気壺
すずり箱 ペン
お前たちは孤児になったな 自分は今じっと
その方を眺めている 3月18日
午後