2025-05-10 04:40

朗読 島崎藤村 春 一

00:00
島崎藤村 春 一 岸本君、7月22日に東海道の吉原まで来たまえ。
その日を期して東西から富士のもとに帰することとしよう。 君の都合もあろうと思うから、かわせて旅費を贈る。
こういう意味の手紙が東京にいる友達からいったので、いよいよ岸本も西の方の旅から帰ってくるという知らせがあった。
東京の友達はそこで新橋を立つ。一行3人。 青木、市川、菅。
狼兄弟は都合があってくわばらなかった。 連中が東海道を下った頃は明治26年の夏である。
だいぶその日の汽車が混んだ。一行は疲れて吉原の宿に着いた。 会合の場所は海道筋によくある普通の旗小屋である。
2階建ての離れがあって富士はよく見えた。 3人が占領したのはその2階の一室で、離れの方には他に泊まり客もない様子。
時々顔を出す四十学校の上さんより他に欲しいままな雑談を妨げるものがなかった。
結局、気楽な宿である。 汚れた畳の上に寝転びながら3人は岸本の来るのを待っていた。
もう見えそうなものだなぁ、と言って青木は身を起こした。 青木は痩せぎすな方で、新しいコンガスリのひとえを着て、へこうびを無造作に巻きつけている。
くつろげた懐からは白い夏シャツが現れていて、そのボタンの外れたところに少し胸の肌が見える。
この男のものを見る目つき、迫った眉、青ざめた頬、それからおおしい傲慢な額などの表情は、
傷つけ、やぶらざればやまず、とでも言ったような非常に過敏な神経質を示していた。
懺悔するような口元には何となく人の心を引きつけるところがあった。
それを見ると世の中の悪敵や汚れをなめした人の唇を思い出させる。
そこから力のこもった声が出る。 岸本君も困るでしょうね、と青木は市川の方を見て、これから先どうするつもりなんでしょう。
さあ、市川も身を起こした。
そういつまでも狼君の世話になってはいられないだろうし。 実は僕もそれを心配しているんです、と言って市川は青木の顔を眺めた。
市川は高等学校の制服を着けている。 薄ネズミ色の夏の上着に包まれた華奢な体格、短く黒い髪、
青白く広い額、 鷹のくちばしを見るような高い立派な鼻、
03:07
すべて彼の様子に現れたところは、東京の下町で肩着なうちに育った人である、 ということを思わせる。
彼の細い柔らかな目は大人のような資料を表していて、 若輩ながらに世上の人を睨む、といったような風があった。
三人の中でこの男が一番年下である。 青木は粗末なタバコ入れを取り出して、
ナタマメギセルでスパスパやって、 しかし面白い変化さねえ、岸本くんが家を飛び出す謎は、
こう言い出した。 どうしてあの男が旅に出る時の勢いは凄まじいものでしたよ、
と市川は友達が出本の当時を思い浮かべるような目つきをした。 パンは天にあり、てなことを言って、
ははは、青木はあざけるような声を出して笑った。 こういう話の間、菅は横になったまま身動きもせずにいる。
菅くんは羨ましいねえ、と青木は考え深い目つきをしながら、 実に菅くんは平和だ。
さっきから寝続けじゃないか、と市川も笑う。 僕は、僕は眠っていやしないよ、と菅も笑い出した。
こうして君らの話を聞いているんさ。
04:40

コメント

スクロール