00:04
はい、こんばんは。
こんばんは。
第13回目になりました。
今回のテーマは、共感するのは良いこと。
はい。逆じゃない?っていうお話ですね。
逆かな?っていうお話ですね。
共感性っていうものが、結構最近強まってる?
最近だけじゃないけど、すごく大事だよねっていうふうには言われてますし、
なんか様々な社会政策なんかも、やっぱり共感性を歌ってますよね。
共感することで、例えばさ、障害者に優しくしましょうとかね。
なんか、DEIを高めていきましょうとかね。
そういうメッセージは強くなってるかなっていうふうに思ってて、
ある種、共感の時代みたいなふうに言えるんじゃないかなとは思います。
私結構、共感性っていうのは、ちょっとこう、距離を取りたいっていうか。
そうだろうね。
そう、あんまりエモーショナルなことっていうのに、巻き込まれたくないわけではないんですが、
そんな得意ではないかなっていうところが。
そうですよね。エモーショナルなんだよね、共感っていうのはね。
で、まさにそのエモーショナルな時代、浄土っていうふうに書いたりもするんだけど、
人の感情を動かして、特定の投票行動に結びつけていこうというのはね、
先日のある知事選でありましたけれども、そういう時代なんですよね。
人の感情をうまく使って動かしていく、特定の方法に。
なんか最近フェイスブックで、某関西のディズニーランドみたいな場所の、
怒られるよ。
宣伝、なぜそこが一度かなり落ち目だったのが盛り返したかみたいなことで、
その感情、ストーリーに訴えかけるCMを、
そこの復興に関わった人がやったんだみたいなストーリーなんだけど、
それはポイントは人々の共感に訴えるCMを作っている。
共感が商品化されている時代でもあるよね。
また後でちょっとSNSの問題とかに触れたいなと思うけれども、
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一方で共感っていうのは他者の立場を想像して、
その人の状況を理解するみたいな、そういう側面があるから、
重要な部分っていうのもあるんだと思うんですよ。
やはりその相手の立場を理解する。
で、その人の気持ちっていうのを自分も共有することで、
善悪を判断したりとか、
べきじゃないっていうのを判断したりするわけでしょ。
結構その道徳的判断の基準にもなってるんだっていう風に言う哲学者もいる。
そうなんですね。
一方でそんな感情のようなあやふやなものを道徳的基準にするなっていう人もいるっていうね、哲学者の中には。
私どっちかっていうとそっちっていうか、
感情っていうものに振り回されると、
実際にそこで何が起こってるのかっていう事実確認がしにくくなるよねっていう風に感じていて、
私結構仕事上保護者の方の相談なんかを昔から受けることが自分の仕事の一部なので、
保護者の方のお話を聞くんだけれども、
ちょっと学校でなかなか上手くいかないっていう経験をされていると、
やっぱり学校がいかに話を聞いてくれないかとか、
何もしてくれないかとか、
そういうことがすごく膨らんでしまって。
恨みがね。
そうなんです。
で、実際に何が起きていたのかがよくわからないんですよね。
その話をどんどん膨らませて聞いてしまうと。
なので私は結構そういう時には受け止めはするんだけど、
そういうことがあったんですねって。
だけどそこで、その後共感はしないというか、
受け止めました。で、とどめて。
で、例えばマインドマップとかで話を聞きながら、
相手が言ったことも書き止めて、それを見せながら相談に乗るんですけど、
あなたが言ってくれたことを受け止めましたって書く。
だけれどもそれについてあまりエコーをしない。
深掘りしないっていうね。
そう。
分かります分かりますみたいなことはあんまりしない。
そうですね、とかはあんまり言わないってことね。
あんまり言っちゃうとその話がどんどんまた広がってしまって、
本来話したかった何が起こっていて、
何を今取り組まなければいけないかっていうところにたどり着かないで、
時間が終わっちゃうんですよね。
で、どんどんそれが増幅してしまうと、
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あんまり建設的じゃないなっていうふうに感じてしまって、
ちょっとそれは一旦受け止めて、そこに記述して、
で、次に進んでいきたいっていう。
フラットにやりたいっていうのがあるので、
なるほどね。
記述するっていうのが、
マインドマップに相手が言ったことを記述するっていうことで、
受け止めたっていうことになってるってことだよね。
その場合ね。
その話はさっき言ってこのことですねって言って、
もしまた戻ってきたら、
戻ってきたらそこにまたとどめきましたよって。
そうなんだ。
この話ですねっていう。
ところでこれはみたいな形で、
事実ベースの話に戻していくっていう。
問題解決につなげていくためにはすら必要かもしれないですよね。
だけどちょっと問題解決志向っていうか、
やっぱそれだとエモーショナルなものは解消されないっていうところもあるのかもしれないですね。
そこは別でやってくださいっていうことなんでしょうね。
平林さんの場合はね。
そうなんですよ。
そうか。
私は結構ね、両方のタイプの相談を受けるから、
今日はもうちょっとその共感ベースで聞こうかなっていう時と、
今日は問題解決ベースで聞かなきゃなっていうふうに意識する時と、
両方あるような気もするかな。
なんか具体的な問題が生じてたら、
じゃあこういうふうにしますかとか、
これとこれとこういうやり方ありそうだけどどうしますかとか、
こういうやり方取ったらあなたはどう思いますかとか、
そういう感じで聞いていくけど、
なんか共感ベースで聞くことも意外と多いかな。
私結構共感性高い人間だって言われるから、他者からも。
つい反応しちゃうっていうかさ、
ひどいですね、それは。
それはつらかったですね、みたいな感じで。
反応しすぎちゃって、
ちょっと今日反応しすぎちゃったかなみたいなふうに思う時もある。
それが両方混じってる時もあるし、
つまりある程度その共感するからこそ、
本当に具体的で解決しなきゃいけない問題が出てくるみたいなこともあるわけですよ。
相手からね。
だからなんか平林さんほど絵も排除してないかもしれないなと思う。
だから共感するのは良いことっていう、
その質問が問いがあんまり実はいい問いじゃなくて、
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なんかもうちょっと違う問いの立て方をする必要があるんだなっていうふうには思うんだけど、
例えば、現代社会の人たちって何のために共感求めてるのかとかですよね。
やっぱ安心感を得たいみたいなことで、
共感してくれる人には、
なんか人は自分を受け入れてくれたのかなっていうふうに思って、
安心して喋れるみたいなこともあるかもしれないじゃないですか。
あと承認と似てますよね。
なんかそれを共感されなかったら、
言ってることはないことにされるみたいな不安を持ってるのかなっていうふうに。
自分がそれはそう思っていたらそこに確かにあるから、
自信と同じで自分がそう思えばそれでいいはずなんだけど、
それを共感が得られないとちょっとこう脅かされるのかな。
なるほどね。
そういう側面あるかもしれないですね。
私の言い方で言うと、
支持を集めるために共感を求めているんじゃないかっていうふうになるんですよ。
自分への支持だよね。サポート。
自分がより正しいっていうこと?
自分とか自分がより不幸な位置にいるみたいなね。
助けてほしいっていう人は、
そういう自分がとても不幸で絶望的な状況にあるんだみたいなことを話して、
共感を得ようとするじゃないですか。
それはやっぱり自分の味方になってほしいっていうのがあるのかなとか思いながら聞いてる時がある。
つまり敵っていうことを、敵だって認定をする必要があるってことですか?
自分が敵認定していることについて、
支持を集めて、自分の方が正しいとか、
あの対応は酷いことだとか。
それがやっぱり自信に似てるよね。
人がたくさん支持しなくても、自分がそれはおかしいと思ったことはおかしいっていう。
そうなんだけどね。
なんかこうちょっと、その部分が、
なんかその人からの反応をより多く得ることでしか、
確信を持てないみたいな部分はあるのかもしれないなと思う。
例えばさ、SNSとかで、私も朝も起きられなくて、
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もう昼ぐらいに起きたけど、まだ体がだるくて、
もう全然ダメな人間だと思うとかね。
いうふうにつぶやいて、
いやそんなことないですよ〜〜さんはとっても頑張ってると思いますよ。
みたいな反応を得ることで、
自分は大丈夫なんだっていうふうに安心感を得たりとかしてるわけじゃないですか。
きっとそういう目的というか、があってやってることだと思うんですよね。
だからそれはもう確かに、ひろばさん言うように、
証人みたいなものとかと似てるのかもしれないし。
映えみたいなのと似てるよね。
そういうふうに振る舞わなければいけないっていう、
そうしないとこう、大変です。
振舞うことで他者からの反応を得るっていうことだと思うんですよ。
これがだからSNSにおいては非常にこう、
まさにSNSに埋め込まれている機能が、
それをさせているっていうところがあるんだっていうのが最近指摘されていて、
例えばさ、SNSで一番いい音が付くものってどういうメッセージなのかっていうと、
簡潔でわかりやすくて感情に訴えるメッセージなんだって。
だからエモーショナルなメッセージっていうのはいい音が付きやすい。
だからだいたい体調不良で寂しい思いしてますか、辛い思いしていますとかね、
こういう目にあってとても今怒ってますとかね。
怒ってますっていうのは両方の反応が出てくるけれども、
そういう感情に訴えるメッセージの方がいいねとかリツイートが増えるっていうのがあって、
アルゴリズム的にいいねとかリツイートが多いものが他の人のタイムラインにも現れるようになっているから、
より多くの人がそういう感情的なメッセージを目にする機会が多くなっている時代なんですよね。
だからこそこの共感の時代みたいなものが出てきているっていうか、
強くなってきているっていうのはあるんだろうなっていうふうに。
だからその中で結構すごく小さな被害体験みたいなもの、マイクロアグレッションってそういうものなんでね、
その被害の影響っていうのはもちろん大小ないんだけれども、
例えば相手は意図してなかったと思うけれども、こういうことを言われて傷ついたみたいな、
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そういう被害を訴える投稿っていうのもすごく増えているっていうふうに指摘されてて、
それはなぜかっていうと、もちろんマイクロアグレッションっていう概念が出てきて、
それも同様に、他の差別と同様に深刻なものなんだっていう理解が深まったからっていう言い方もできるんだけど、
そういう投稿をすると、第三者からの同情とか支持を得やすいっていうアルゴリズム的にも。
そういうのもあって、今のこの共感の時代っていうのは、
ある種の、みんなが自分はこんな被害を受けた、こんな被害を受けたっていうふうに、
被害者性を競争している時代にもなってきているんだって言われてるんですよ。
これを競争的な被害者性っていう概念で呼んでる人もいるんですけど、
つまり非常に特権的な立場にいる人も、探そうと思えば自分の被害って探せるでしょ。
で、それを発言するようになってきている。
これは結構最近も見られるんだけど、加害者と名指された人も、
いや自分こそが被害者だっていうふうに被害経験を強調して、
で、共感や同情を得て自分への支持を集めるみたいな、そういうサイクルができてきてるんですよね。
そこはすごくこの共感の難しいというか厄介な問題だなと思って見てる、最近。
なるほど。
何のために共感を集めてるのかって言った時に、自分への支持を集めてるんだとしたら、
それって何のため?それでいいの?それって問題解決になるんだろうか?っていうような疑問は持っててね。
なるほど。例えば大学教授だったり、インフルエンサーみたいな人が、実は自分も発達障害ですみたいな話?
それだけでは被害経験とも言えないけどね。
だけど実際のその人の特権的な立場からしたら、それだけではマイノリティというか、
マイノリティではあるのかもしれないけど、それよりも大きな特権を持っているんだけど、免罪婦的なものなんですかね。
どうなんですかね。
居心地が悪いのかな、自分の特権っていうのが。
まあ居心地が悪かったとしてもあるものだから、それをどう使うかですよね。
それを解消しようとしちゃうのかもね、居心地が悪さ。
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できないからね。あるものだからね。だとしたらちょっと浅はかですけどね、考えがね。それでプラマイゼロになるよみたいなね、ことであれば。
でも人間っていうのは多面的な側面を持っているから、当然ね、大学教員、てか大学教員には発達障害の人多いと思いますけどね。
だから一般社会の中でちょっとうまくできなかったっていうことだと思うので。
でもね、だから面白い研究もみたいなね。
でもそれと特権の話っていうのはやっぱりちょっと違うから、発達障害持ってるから特権がないとか、そういう簡単な話ではないですからね。
はい、そんな感じでその共感するのはいいことみたいなこのテーマに関しては、やっぱり常にその共感だけで何かをこうやっていこうとすると、結構厄介な問題も出てくるから、
共感だけで終わらずに、本来の問題の解決に向けてどうやっていけばいいのかみたいなことを考えていく必要があるなと思ってて。
今だと共感したから、その人のことをかわいそうだと思ってなんかしてあげなきゃいけないみたいな回路しかないじゃないですか、共感だとね。
で、まさにそうやって障害者が置かれてきた位置で、かわいそうな存在だから助けてあげるのって、それすごい随分見下した見方だよねっていうのは指摘されてきたと思うんだけど。
でもやっぱりその疑似体験っていうところでやられることっていうのは、例えば読み障害とかっていうのがこんなに大変なんだっていうことを体験して、確かにすごく大変だね、こんなに大変だったんだね、今まで知らなかったごめんね、今度からは対応するよみたいな、そういうストーリーですよね。
ってことはそこで本当に大変だねって思わなかったとしたら、じゃあ対応しないのかっていうことに。
本当ですよね。で実際そういうこと起きてますよね。
20歳障害のいくつかの事例を見てると、やっぱり共感されないから配慮が得られないみたいな状況ってあるなって思いながら見ているんですよね。精神障害もそうかもしれないけど。
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なんかどっかでこう自己主張が強くて厄介な人みたいに思われて、いじわるっていうわけじゃないんだろうけど、その配慮がなかなか得られないとかね。
だからその偏り、すごく大きな不均衡や偏りがあるから、それを直していかなきゃいけないっていう話なのに、その偏りっていうものがなんか大変な体験、すごくそれは大変だねって思ったっていうことにすり替えられてるっていうことですよね。
だから配慮を提供する側が理解できなければ配慮が提供されないっていうことになりかねないっていう問題がありますよね。そうじゃなくて、やっぱりその問題の本質は今の社会のあり方が誰を念頭に入れずに作られてきたのかっていうところを考えて、
より多様な人たちを前提にした環境にしていこう、システムにしていこうと。それが今すぐにはできないんだったら、これまで考慮に入れられていなかった人に対しては個別にでもできる範囲でやっていきましょうっていうのが、調整していきましょうっていうのが合理的配慮じゃないですか。
問題の構造的な問題の特定と解決に向けたサイクルを、思考のサイクルを回していかなきゃいけなくて、その時に多分感情っていうものが邪魔することもあるんだと思うんです。その共感っていう意味での感情がね。
だからすごいかわいそうだって思ったから対応したのに、それが裏切られて、なんかみたいな、かわいそうじゃなかったみたいな。
つまりだから、自分が支配者の側にいたいっていうことでもありますよね。有意義な側に。
提供した配慮をちゃんと受け取らなかったりしたら、それをなんか。
ああ、施しだから受け取られなかったら、ちょっとあれ?おかしいなって怒ったりするってことか。
で、それを怒ったりして、なんでちゃんと配慮されてるのに真面目に来ないのかとか。
関係がないよね、そこは。
そうなんですけど結構ありますよね。真面目に配慮、だからサボれないっていう配慮されてる人は。
一般的に聞くけど、でもそれは配慮されてる側が、そういうプレッシャーというか遠慮というかね、感じるのはまだ分かる。
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例えばね、手話通訳者が入ってると。毎週の授業で。
で、自分がサボっちゃったら、その人たち誰に向けて手話通訳するのってことになるから、なんかちょっと悪いから頑張っていくようにしてるぐらいだったら分かるけど、
それはその提供してる側が求めちゃダメじゃないですか。
提供する側の役割を超えてる。
役割を求めちゃうことあるじゃないですか。
そうなんだ。
例えば寝てたりしたら、なんで寝てるんだみたいな。
えー、疲れてるじゃないですか。
そういうことある。
えー、それって何なんだろうね。
だからやっぱり可哀想だと思ったからやったのに、ちゃんとそれを受け取らないとは何事だみたいな。
つまりその弱者っていうもののイメージを固定化して。
うん、より弱者らしくしているっていう。
弱者らしく振る舞えってことなのね。
いや、それはちょっとね。
っていう風に感じちゃう時があるんですよね。
うん、分かります分かります。
弱者を非常に無力で、自分がやってあげないと何もできないような、そういう存在に留め置くことで支配してるんですよね。
そこに気づかないとダメですよね。
その共感性があるんだったら、そこに気づかないといけないですよね。
共感性があると、よりだからそういうように振る舞わなければならないっていう風になっちゃう。
より弱い存在に振る舞わなければ。
そう、本人がね。今度は障害者の側が、とか被害者の側が。実際そうなってますよね。
だからやっぱりこの共感性の問題っていうのは、
共感したからその人を助けてあげようみたいな問題解決フレームっていうのは、保護主義を助長するっていう風にも言えるし、
あとやっぱり被害者であったりとか、支援が必要な人たちの多様性を無視してる。
さっきの、毎週真面目に来るべきだとか、授業中も寝ずにちゃんと真面目に受けるべきだとかっていうのもそうですよね。
多様性を無視して固定化してるっていうのもありますよね。
主体性を奪ってるから、やっぱりこのフレームワークが良くないねと思う。
前回もこの道徳的フレームワークみたいな、道徳的フレームって言葉使ったと思うけど、日本って道徳大好きなんですよ。
司法とかが全然機能しない。道徳ばっかりだから。
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法律ができても実は。
モラルで何かしようというか。
道徳的フレームってすごい色んな厄介事を引き起こしてるから、100%ダメとも思わないけど、
違う回路を開いていかないと問題解決につながらないですよね。
一つの回路っていうのが、構造的な問題とか構造的な背景に目を向けていくということで、
その構造の中で傷ついている人は確かにいます。
その構造の中で特権的な地位にいて、傷つけている側に立つ人もいます。
ひどいことする人たちもいるんだけど、その個々人にだけ目を向けて、どっちかに共感しても問題解決につながらないことも多いから、
その背景を見ていく回路が必要なんですよね。
多分その時に平原さんが最初に言ったように、エモが邪魔になっちゃうので、
もうちょっと事実ベースの、今何が起きているのかっていうところに問いを返していかないと、
引き戻していかないといけないんだっていうことなんだと思うんです。
ということで、今日の話に共感してくれた人が少ないかもしれませんけれど。
どうでしょう。
でも共感、大事な面もあるんだけど、結構危険な面もあるから、
その危険性っていうのに意識を向けてやっていかないと、なんか巻き込まれてね。
特によく聞くのは、共感しすぎて疲れちゃうみたいなね。
で、援助してる人たちも潰れちゃうことあるじゃないですか。
そうですね。
なんか、あれ何て言うんだったっけ、過剰…
過剰適応?
過剰適応じゃなくてね、何て言うんだったっけかな。
なんかね、用語があって、そういう用語あるんだって思ったんですけど、
なんか過剰に共感しすぎてしまって、感情的にエンパシー疲労みたいなのがあるんですって。
自分自身が消耗しちゃうって。
でも私、昔、相談っていうのがすごく疲れてた時があるんですよ。
というか、一生懸命やるとすごく疲れてしまっていて、
なんか、それってやっぱりそういう、一生懸命そういうそっち側に、
共感側にやろうとしてたのかもしれないですけど、
どこかでそれちょっとこう自分が難しいなって思って、
やっぱりその事実ベースで事実を聞き取っていくっていう、
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何が起きていたのか、で、どんなバリアがそこにあったり、
どんな構造があるのかってところを抑えていくっていうことの方が、
自分にはちょっとフィットするなというか。
なるほど、見つけていったってことですよね。
結構なんか、援助者がしんどい思いしちゃうとか、
潰れちゃうとか、燃え尽きちゃうっていうのは、
やっぱりその援助において、なんか共感っていうものがすごく過剰に求められているからなんじゃないかなっていう。
っていうふうには思いますね。
というわけで、第13回目ですね。
共感するのは良いこと。どうなんだろう。
ちょっと別の問いが必要かもという話もありましたけど。
このテーマ、結構深いテーマなので、また出てきそうですね。
そうですね。結構その研究も最近進んでるテーマだから、
ちょっと難しい話になるかもしれないけど、また戻ってきてもいいですね。
文化論みたいな話なので。
それでは遅い時間の配信でしたけれども、
今日のライブ配信は以上になります。
聞いてくれた皆さんありがとうございました。