一人1000円以内の予算で、
プレゼントを見つくろって。
すごいですよね。子供みたいだよね。
子供みたいな子。
いい大人が。
いい大人が。
でもいいよね。
でも楽しいです。
何をあげようかなって考えるのも楽しいしね。
なんかね、クリスマスのプレゼントをやりとって、
うち、僕とパートナーしてなくて。
結局なんか、日用品を送りあっても、
だったら普通に買えばいいじゃんって。
そうなっちゃうし。
一緒に暮らしてるときに、
そのプレゼント交換って比較的意味がないよね。
意味がないんで。
恋人、まだ付き合ってる段階とかだったらね。
一緒に暮らしてないとね、
なんかそういうのもあるかもしれないけど、
一緒に暮らしてるとほぼあんまり関係ないもんね。
なのでそうやってプレゼント交換みたいな機会がないと、
プレゼントを買うってこと自体があまり機会がないっていう。
子供がいたりすると、
子供が使うものと大人が使うものは違うから、
子供のためのプレゼントを選ぶとかってことは十分にあり得るんだけど、
なにせさ、同棲のパートナーと二人で暮らしていたところでだよ。
うちにこれは確かに一つ欲しかったよね。
以上。
じゃあ次の来月の金額出たら買うかとかって話で終わっちゃうもんね。
そうなんです。
意外とレアな。
意外とね、なかなかない。
あとは、老いとか女威とかが進学する機会とかね。
そうですね。
それに進学祝いとかで買ってあげるぐらいのものであって。
1000円っていうね、ちっちゃな予算がまだね、
あんまり負担が大きくなくていいですよね。
そうですね。
そんなことやりまして。
っていうことを毎年やっているということでございまして、
その中で、とはいえ1年の締めくくりということで、
1年を振り返ってどうでしたかみたいな感じで、
おしゃべりしましたね。
そのときはおしゃべりをしていましたと。
いう中で話題になったことっていうのもいくつかあって、
1年の振り返りっていうことで、
自分からはですね、私からは二次芝ラジオの開始をしたよっていうのと、
こんな感じだよ、実績としてはこんな感じですよみたいなことを話したっていうのがありました。
あとはですね、同性婚拘束品訴訟の判決が出まして、
これは福岡交際での拘束品判決が出たということで、その話題でしたね。
この間もラジオでたぶん触れてるけど、たぶん勝つ前提でしゃべってて、
案の定、やっぱりもう旗色は完全に、
そういう裁判所関係はこの辺にしましょうよっていう感じを出してきてますよね。
意見が一致してると思われますね、あれはね。
そのとのほうにちょっと書きましたけれども、
福岡交際もですね、初めて憲法13条意見判決を出したということで。
すごいですよね。
びっくりしましたね。
いろんなところが、意見だよ、意見だよって言われて、13条初めてでしたね。
そうですね。
話聞くところによると、福岡構訴審では、13条に結構的を絞って、
原告側が。
原告側がですね、それでその論理構成立てて、やってったみたいですね。
なのでその結果、意見判決が出てきたと。
結構その東京交際も札幌交際も、
なかなかやっぱ13条意見っていうのは、なかなか出ないんじゃないかっていうところがあって。
まだね、それこそ意見だよって言われるか言われないかっていうところだったから、
だからまあ確かに福岡の戦い方の一つとして、
それは一つ、うまくやったなあみたいな。
なので札幌交際も東京交際も14条意見、要するに平等権の意見判決を求めていたと。
その差別的取り扱い、同性カップルが婚姻関係を結べないということは、
婚姻の平等を保障する日本国憲法に違反していると、
意見だよっていうことを裁判所に言わせたっていうのが、札幌交際と東京交際で、
プラスして24条の意見判決もついてるんですけど、
今回の福岡交際は13条なので、幸福追求権、あと自由権ですね。
もともと婚姻の自由をすべての人に訴訟って呼ばれているので、
自由権が本丸ではあるんです。
ただ13条意見っていうのは結構ハードルが高いんじゃないかっていうふうに、
弁護士の人たちも考えていて。
だから本丸は13条なんだけど、14条から攻めようみたいな話だったところを、
今回13条で言って本丸の部分をガッツリ取れたっていうのは、
成果としてはでかいということですね。
日本の裁判所って、そんなに大きく斬新な判決を出すことがないから、
本当に踏み固めていった結果っていう感じにはなりますよね。
それを実際、誰が話題に出したんだっけ?
僕のパートナーが話題に出した。
やっぱりこの1年の振り返りという意味では、
ここまできたねっていう感じは、後巻き返しがなければ、
何らかの政府としても手を打たなければいけないんじゃないかなっていうところまでは来ましたよっていうところですかね。
あとは、残るのは名古屋交際判決と大阪交際判決というところで。
大阪は地裁判決がそもそも合憲判決を出しているということで、
逆にひっくり返されることがなければそのまま行くってことね。
そのまま行く感じなんですが、
ここはぜひ、他の交際も意見判決を出しているところなので、
大阪交際も逆転意見判決を出してほしいところだなと思うんですね。
合憲判決出してるんだよね。
そうそう。大阪はね。
だから注目の裁判は今年も続きますということですね。
っていうのがありました。
続きまして、小倉さんの文振り。
そうそう。文振り出展したんですよね。
ここしば文芸部というのを私たちやっていて、
要は同人誌を作って、あるいは本を自分で作って売りませんかっていう。
みんな読むことに関心のある人が多いここしばのお客さんだったんだけど、
書いたり作ったりするのもいいよねっていう発信のほうにね、
ちょっとシフトした形のものを継続してやっていきたいなってことで、
ここしば文芸部というのが存在してるんですけど。
で、12月1日に文学フリーマ東京が開かれまして、
それに私が珍しく真面目に作って出したという。
で、しかもその時はコピーうまくいかなくて3部しか売れなかったんだけど、
その後わざわざ印刷までかけて100冊作ってね、
もうほとんど残りないんですよ。
あと20冊切りましたね。
それでも不安なあなたのためのクルドなお話というですね、
岩波ブックレットの手入れ作りましたけど、48ページで700円というね。
たぶんおそらく完全版に近い最新の内容を入れましたというとこですけど。
これはたぶんね、前回、前々回、だから第30回の放送回で、
小倉さんのおすすめコンテンツ回のところで少し触れたようなやつですね。
でも少ししか触れてなかったっけ、そっか。
自分としてはダラダラ喋ってるつもりで、
しかも結構私はあんまり自分の本とか自分の書いてるものとかおすすめしないタイプなんだけど、
俺は私ほどちゃんと書いてる人いないでしょうっていう。
年末にね、産経新聞とか石井貴明とかが本出してましたけど、
私はブックレット作ったよってことだけはくさびのようにして打っておきたいなとは思いますけど、
内容的にもおそらく一番リアルな地元の声ということで。
読んだ?読んだ?
まだね、ちゃんと読んでないです。
ちゃんと読みます。
ちゃんと読んでください。
結構人口のデータとか、ドイツのデータとか、歴史の話とか、ビザの種類とか、
それで実際何が問題なのよっていうところからも含めて、
今私の頭の中が全部反映されてますって感じですかね。
まだこれは通販で買えたりするんですか。
買います買います。
ブナの森のホームページから買ってください。
でもその頃にこれが放送される際に品切れしてたらどうしようと思うのと、
だからそろそろ増殺しようかなと思っていて。
いいですね。
いいでしょ。
中販出体で。
そうそうそうそう。
ちょっともうあと20冊切ると、
まあ100冊が文房だから20冊なんてすぐ切るんだけど、
まあちょっと増殺しようかなと。
もうリスナーの皆さんが買っていただければ、
そうですね。
一増殺がかかります。
もう間違いなくかかります。
なんかサンプル的なものって置いてあるんですか。
ここ芝で売ってるし。
ここ芝でもウェブで見れたりみたいな。
ウェブに出してないんだよね、なぜか。
いやでもブナの森のページに出そうかなというふうにはなってるので、
もう皆さん多分書き終わった頃には絶対買えます。
表紙ね、サンプルね、中身ね、
本当はね、ちょっと読むとかね、目次とか欲しいとこだよね。
一番こう読んで欲しいページとか。
そうですね。
一番読んで欲しいページは、
ここすごいタイトルもかなりギリギリな感じでつけているんだけど、
終わりにの前のところに、
うっすらゼノフォビアの勧めというのを、
私は結構、なんだろうな、
従来とは違う語り口で語ってるんだけど、
じゃあゼノフォビアってそんなに悪いんかねっていうところにもう。
誤解を呼びそうな感じの。
そうそうそうそうそうそう。
人間が見慣れないもの。
私やっぱりLGBTQの話と、
やっぱりこれを常にパラレルで考えているところは、
やっぱりどうしても同じ一つの頭だから、エゴミソだから。
引用するところがあるんだけど、
みんなが、え、何それっていうふうに最初思ったりすることについて、
ある程度、そんなこと考えるなんて差別ですっていうふうに言ってしまって、
対話を絶ってしまうことを圧倒的にデメリットだと考えてるんですよね。
だから、みんなが最初、なんかすごく、
例えば体の大きい人が来たときに一瞬びっくりするとか、
あるいは例えば、他の人と身体的な事情なり、
要望、見た目で、まずは見た目で、
やっぱり彼らを追いやってしまうと私は思っていて、
常にその会話は今までもさ、
それこそ70年代80年代と多分やり続けてきたし、
これからも会話し続けなくちゃいけなくて、
あの人ホンホビアがあるから付き合うのやめようとか、
あの人たちは差別者だって言って切り捨てちゃったら、
問題は解決しない、
そのうちに自然と世の中の風潮の中で、
そういう風に考える人の方がちょっと偏畜人だなと思って、
いや自分は本当は内心怖いけどって言って、
多分黙ったりしながらでも、
ちょっと世の中が移り変わっていくっていうのを見てきてるから、
ちょっと怖いっていうのはさ、
なんか会った時に口に出せないのってすごく、
それこそ不穏な社会なんじゃないかなって思ったりしちゃうね。
特にトランスフォービアの問題とかに関して言うと、
結局その建前上ね、そういうダイバーシティ的な考えがあるから、
トランスフォービア、実は内心的にはフォービアを持っていたとしても、
トランスの人がいる前では口に出せないけど、
その結果抑圧されたものがSNSとかで流れていく。
やっぱりさ、今まで割とトランスに関してはみんな結構寛容だったじゃん、
日本社会って。
でもなんとなく例えばトイレで出くわした時にギョッとしたとかって思いっていうのは、
多分してるんだよ。
実際にあの人女装者だねって。
あるいはトランスかもしれない。
それは分かんない。
いろいろ種類はあるんだろうけどよく分からん。
でもギョッとしたって思いを口にしただけで、
なんか叩かれたっていうふうな記憶を持っていて、
それが、いやもうあんな人たちが出入りすること自体が、
例えば女性の性被害につながってるんですっていう人たちの声に、
逆に寄っちゃうことのリスクを抱えてる。
社会全体としてそういう人たちを、
そのちょっとのギョッととかドキッととかハラハラを、
許容しないことがこの現状に至った経緯の一つの要因だと思ってるのね、私はね。
だから不安になる人間の気持ちに寄り添うまでは、寄り添うまではできないけど、
まあそこに寛容にあっても良くない?って若干思ってるんだよ。
その加害者性の理解をするっていう部分から、
ついマイノリティの場合だと、
マイノリティが被害者で、マジョリティが加害者的な部分で、
マイノリティに寄り添うってことになると、
その被害者性に寄り添うっていう部分が主流なんだけれども、
そのある意味、犯罪学的な部分というか、
その加害者性、なんで加害者はそういうことをするのかっていう、
そういう加害者理解、加害性の理解っていう部分も、
加害被害の問題を考える上では、
一つ重要な要素になってくるっていうことで言えば、
なんで加害寛容というかね。
この場合の加害は差別だよね。
フランス差別とかっていうときの加害をしてしまうのかってときに、
あの人たちは差別者だからって切り捨てない方向性みたいなのも、
しかもさ、今この時代になるとその差別、被害者、加害者の、
あれが複層的になってるじゃないですか。
例えばトランスの問題で言えば女性差別の問題と非常にリンクされて、
で誤解される形としては、男は女性の差別に対して鈍感であるっていう語り口の中で、
トランス差別を逆に肯定していくようなストーリー、
あるいはあたかもその差別してるのが男性性であるかのようなストーリーが、
複雑に絡み合っちゃってるから、
あなたはもう1回でもそっち側に寄ったからアウトっていうふうなこととか、
あなたは存在としてこういうものだからアウトってことを、
なるべくこうニュートラルにしていくための方法、
なんていうの、方法論みたいなのが、
やっぱり結構そういう言説に今寄ってきてる人多いんじゃないかなというふうには思いますよね。
なるほどね。
まあ細かいブレの部分で済むのであればそこに収めていくのが良くて、
まあ重要を目指すじゃないですけども、
それが大きくブレちゃってヘイトになっちゃったりとか、
もうトランスジェンダーで見たやんみたいな感じになっちゃう。
散々見た。
しかも一番弱い人たちが、それこそね弱い人たちが、
さらに弱い人、弱くは見えないかもしれないけど弱い人を叩くみたいな構造ができちゃってるじゃんっていうのを、
やっぱかなりネットで痛い思いしましたよね。
みんなそのフォロワーでね、
ああこの人かっこいいなと思ってたフェミニストの人たちがね、
どんどんトランスをぶん殴る方向に進み始めた時に、
やめてみたいな気分であったから、
同じことはやっぱ他でも言えるかなと思ってますね。
まあ特にXがね荒廃していく中で、
やっぱりその自分がどんどんどんどん極論の中に巻き込まれていくみたいな、
そういう怖さっていうかね、
そういうのをより多くの人が感じるようになっているのかなっていうのはありますね。
変な話でXでも人は死ぬけど、
Xである意味良かったっていう言い方もできて、
シミュレーションが1回できた、つまりこうなるっていうことが、
ある程度ネットの中でできている。
で、実際社会ってさ、本当に通りすがりのおばあちゃんとか、
あの少年とかね、
やっぱりさ、そこがもう少し遅れた形で出てきている。
ああこういう時には声を出して文句言っていいんだとか、
あるいはこのぐらい言っても大丈夫とかっていうのってさ、
やっぱりその、
明らかにSNSより若干遅れてるわけですよ。
遅れてるっていうか時間的に。
で、いやずいぶん社会がこうなってきたなみたいな、
強量になってきたなみたいな感じっていうのはさ、
街中でもちょっとずつ見かけるほど、
SNSほどではないみたいなところでね、
ちょっとずつ見かけるけど、そうSNSほどではないし、
逆に声を上げやすくなった。
と言えば声を上げやすくなったっていうのも、
SNSほどではないけどっていうことがあるわけじゃない。
だからまあそういうのを、
あの実際さ、来るのの話は私にとっては地元の話だから、
だからまあその、そこに来る時に、
やっぱでもさ、夜にさ、
ああやって男の人が何人も集まっているのって怖いよねっていうふうに、
言われた時に、その怖いを否定はしてはいけないんじゃないかなっていう頭からね。
でも怖くないことが多いわけじゃない。
大概怖くないんですよ。
何事も起こらんし、何事もしてこない。
でも、じゃあその人たちに怖いなんて言うなんてそれはもう差別だよって言ったら、
問題解決するのかなって言ったら、
しないだろうなと思うってことだよね。
その外国人が数名その夜中に集まって、
男同士で集まって、
自分が理解しない言語で何か相談をしている。
そうそう、喋ってるっていう。
相談っていうか喋ってるだけだよね、どうせね。
結局何が分かんないかっていうと、
分かんない言葉で喋ってるので、話の内容が分かんなくて、
だから怖さを感じちゃうっていう部分もあるし、
自分と文化習慣が違う人たちが集まっているってこと自体の怖さっていうのがあるのかもしれない。
あと男だっていうこととかさ、
まあなんかそういう目つきが違うとかさ、
まあいくらでも妄想は乗っけられる。
でもその人たちが何かしようとしてきたとかしてくるに違いないと言わない限りは、
ちょっと怖いよねぐらいの時に、
頭ごなしにそれを全部否定していくわけにはいかないっていうのはすごく思うんだよね。
なるほど。
あ、なんか熱く語ってしまいましたが、
これだけで話が終わるぐらいの勢いで喋りましたが。
てかやっぱ類似性が強いテーマだと私はやっぱりいつも思うんだけど。
そうですね。
まあだからまあ、視聴者の方に制御していただきたいのは、
別に小倉さんはゼノフォービアとかを推奨しているわけじゃない。
推奨してないよ。
うっすらだったら、まあなんかそれを、でもね、勧めてるけどね、本の中では勧めって言っちゃう。
いや、新たに持つ必要はないけど、自分の中にあるそういう思いをゼロにすることに、
あるいは相手の中のその心にあるだろうと予測される、
それをゼロにすることに邁進してる場合ではないっていうことが言いたいだけであってね。
まあその。
視聴者を気使ってるぞ、僕の人。
いや、それはね、だって小倉さんが誤解されないようにっていうことが入るんです、これは。
だからその、何も差別を扇動しているわけじゃなくて。
ああ、そうです。もちろん当たり前ですけどね。
当たり前ですけど。
でもね、このタイトルでちょっと何人かに言われて、やっぱり、ガリッと来ると思います。
私も来るだろうなと思ってつけてはいるけど、ガリッと来ると思います。
そんな人がおかしいって言えばそうじゃない。
それでも不安なあなたはちょっと、なんていうの、良くないっていうね。
そういう人権的な価値観から言えば、良くないっていう言い方はできると思うんだけど、あえてこのタイトルにしました。
まあ、だから正論で殴ったとしても、得られるものは少ない。
そうです。もらいが少ないんだったら、私はたくさんもらいたいってことですね。
まあ、正論ね、大好きな人もいますけどね。
自分も割と好きな方ではありますが。
私も好きな方だったと思うよ、本質的には。
とはいえね、そのLGBTQの問題、さっきも言った、出てきたホモフォビアの問題もトランスフォビアの問題もあるけれども、
その現場レベルでね、やってると差別意識を持った人に直面することはまあまああるので。
ありますよね。
そうした人に正論で殴りかかっていっても、あんま得意することはあんまなくて。
一つもないですよね。
だし、逆にロストの方が多い。
だからまあその人が納得するレベルで、そういうことだっていうことでわかってもらうっていう、その人とその人との対話の中で解決していくしかない。
それでも彼らが、例えばすごいホモフォビアな人がいて、それでもまだ関係性をつなぎたいと思って喋ってきて、
相変わらずさ、お前みたいなホモやっぱでもそういう時にこうなるの?とかって、ずっと語りかけてくるとするならば、繋ぎ続けてくるとするならば、何か得たい何かがあるはずなんですよね。
なんかそこの回路を切らないことの方に手間暇かけたいなって思ってるし、その人たちが燃えあっているもの、なんか人間ってさ、やっぱ年取ってくるとさ、常にチューブラリンであることが前提になっている人生はね、そうと思うじゃない。
でもやっぱ答えが出したいんだろうなーって、そのことがプラスに働く時もマイナスに働く時もあるので、
チューブラリンな自分に耐えられるぐらいの弾力が欲しいかな。
それまでなんとなくわかりますね。やっぱり人生後半戦になってくると、前半につかんだ輝かしい何かって何か意味あったのかなみたいな感じになってくるっていうかね。
それに一生懸命しがみついている人っていることはいるんですけど、でもそれこそ仕事をリタイアしていく。
仕事をリタイアして、陰境人生を送るっていうようなことを考えていくと、今仕事で得られた達成度とか達成感的なものも将来的には役に立たなくなっていくしっていう中で、
本当に人生の中で何が一番大事なんだろうみたいなことをね、またこう探求していくっていうことになっていた段階で、
改めて振り返ると、やっぱり大事なものはそういうアイデンティティの問題だったりするのかなっていうこともあったりするのかなっていう。
なんかね、そんな一番大事なものなんて見つからないんだなってことに耐えることですよ、どっちかっていうとね。