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2025-01-11 32:50

12. 傷つかない/傷つけない方がいい?

#となりのニューロダイバーシティ
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00:03
はい、こんにちは。こんにちは。
第12回ですね。今回のテーマは、傷つかない/傷つけない方がいい/、です。
はい。
このテーマは、結構壮大なテーマというか、いろいろなことに話が繋がりそうなテーマなので、
たびたび話すかもしれないんですが、ちょっと話してみようということで、やってみます。
で、このテーマ、いろいろ似ている。これまで話してきたことにも似ているところがあって、
例えば失敗しない方がいいっていう回があったと思うんですけど、それにもちょっと似ていて、
転ばぬ先の杖的な思考。
例えば子供が何かするときに、保護者の方っていうのは、親っていうのは、やっぱり失敗しないように条件を整えたり、環境を調整したりして、
邪魔なものを取り去ってしまったりして、なかなか子供が自分でやってみる経験とか、
その中で失敗しながら、何か取り組んでいく、そういう機会が少なくなってきている。
最近の、最近じゃないのかもしれません。昔からそういうことはあるんですけど、
なんかそういう思考が強まってるんじゃないかなっていう気がしていて、
それが傷つきに関してもあるんじゃないかと。
傷つかないようにっていうことね。傷つく前に何かしておかなきゃみたいな。
傷つくことを避けなければいけないこととして、だから傷つかないようにいろいろ避けて取っていく。
傷つけないようにってことだね。なるほどね。
それに関連して、もうちょっと大きな枠組みになるんだけど、
リスク社会っていう概念があるから、それはちょっと紹介しておきたいなと思ってて、
リスク社会っていう言葉は、1988年にウルリヒベックっていう、86年かな?が書いた、
リスク社会っていう本の中で提唱された概念だから、結構古い概念。
もう何十年?
30数年前ぐらいの概念になるんですけども、どういう概念なのかっていうと、
80年代後半の社会っていうのは、一つにはグローバリゼーションが進展していくっていうね。
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今、私たちにとっては当たり前の新自由主義みたいな政治経済体制が台頭してくる。
今までの福祉国家社会とは違う枠組みっていうのが出てくる。
で、科学技術とかそういったものも進展していくっていう、世界がすごく大きく変容している時代だったんですよ。
そうした時代においては、これまで人々が想定していなかったような新たなリスクが生じてきたと。
例えば環境問題はその一つ。
科学技術の進展とかグローバリゼーションと関わってますよね。
気候変動っていうのもその一つ。
当時だとヨーロッパでサンセウの。
サンセウ、確かにちょうど私が小学生の頃ですね。
サンセウが降るから雨が降った時は濡れるとダメだと。濡れると剥げる。
だから濡れないようにしなきゃいけないとか。
天気雨とかもダメだとか。
そういう時代。
で、近年だと私たちは新型コロナウイルスのパンデミックを経験しましたけれども、
それも新たに生じているリスクの一つっていうふうに捉えられると思うんですけど。
つまり、自分の国だけでなんとか環境を整えたり、空気をきれいにしたりしても、
そのコントロールはできないよっていうことが地球全体で起きることだからっていうことですね。
それに、じゃあ地球全体で取り組もうとしても、
予期しないことが常に起こるから、
例えば科学者でも専門家でも完全に予想する、予期するってことはできない。
誰もわからないリスクっていうのが生じているっていうのがこのリスク社会。
で、こうした社会においてどういう考え方が強調されていくかっていうと、
起きるかどうかはわからないけれども、
例えば環境破壊とかそういったものって起きてしまったら、
ちょっと取り返しがつかないことになってしまう可能性もあるから、
予防措置をとっておこうっていう原則が採用されることになるわけですよ。
1980年代の後半にはそういう世界があって、
このリスクを避けるっていう、
本当はリスクっていうのはもうちょっと、
科学的なデータとか根拠に基づいて一定程度、
算出可能というか、可能性自体は算出可能なものっていう風になってるんだけど、
このリスクを避けようみたいな考え方が、
すごく日常生活のいろんなところ、
人間関係の間で起きるコンフリクトもリスクっていう風に捉えたりとか、
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その将来ちょっとうまくいかなくなることもリスクっていう風に捉えたりして、
リスク概念がものすごくこう、日常生活の中に浸透して、
あらゆる事柄をリスクと捉え、
リスクという観点から捉えて避けようとするみたいな、
そういう何か30数年の間に、
ちょっと未来を生き始めるっていう。
そうそうそう、まさにリスクってのは将来起こり得るかもしれないっていうことだから、
それが何かすごい30数年の中で広まっていって、
特定の地球環境の問題とか、
そういうことじゃなくて、日常生活にもその概念っていう考え方が浸透している中で、
このリスク、転ばぬ先の杖っていう思考が強まってるんじゃないかっていう、
なんか平林さんの感覚につながってるんじゃないかなって思ったんですよね。
なるほど。
なんか、やっぱり障害がある子供さんを持った時に、
やっぱり自分が年を取って、
その子に目が届かなくなったら、
っていうふうに考えてしまうんだと思うんですよね。
それで先のことを心配して、
だからそのリスクを取り除いておきたい、みたいな思考になるんだけど、
それが障害がなくてもそうなってきてる。
今の子育ての相談の中から感じるのは、
それどんどん広がってなのかなと思って。
だから昔から転ばぬ先の杖みたいな考え方あるんだけれども、
それが強化されてきたっていうことと、
このウルリヒベックが言ったリスク社会っていうものとは、
なんかつながってるような気がしていて、
すごくこう、例えば人間関係の中でも、
相手が傷つくことをリスク、傷ついて人間関係が壊れちゃうとかね、
そういうことをリスクというふうに捉えて、
傷つけないように自分の言動を抑制するとか、
それはなんか悪いことじゃないんだけど、
相手が傷つくかどうかっていうのは、あらかじめわからないことじゃないです。
どう受け取るかは人によるので、
確かに傷つく人もいるかもしれないけど、
傷つかない人もいるかもしれない。
だけどこのリスク社会みたいな考え方だと、
傷つくかもしれないからやめておこうとか、
あるいは傷つく人もいるかもしれないから、
こういう新しい取り組みとか挑戦はやらないでおこうみたいな形で、
09:05
やらないっていう選択をする傾向は強まってしまうのかなと思います。
なんか、傷つきっていう話を考えたときに、
傷つきっていうのは具体的な損害とか損傷ではない、
もうちょっと手前の感情的な、
手前なのかどうかわからないけど、
物理的な害ではないかもしれない、
それももちろん大事な、無視したらいいっていうことじゃないんですけど、
だからその、手前手前にどんどん来ていますよね。
来ていますよね。
心のね、傷つきみたいなものがすごく重視されている時代ではありますよね。
なんかそれがすごく広がってるっていうふうに感じるのかなって。
なんかそれも、なんていうのかな、
結局、こういうものも傷つきだから避けなきゃいけないよね、みたいな考え方が広まれば広まるほど、
人って不安になるじゃないですか。
だって自分がそれ意図していなくても、
全く逆のことを思っていたとしても、相手を傷つけてるかもしれなくて、
それは避けたほうがいいことだっていう考え方なわけだから、
すごくやっぱ不安も高まって、
余計に傷つきやすくなるというか、脆弱になっちゃうみたいなところはあるんじゃないか。
なんかこのポッドキャストで以前、別の回、休んだほうがいい?っていう回で、
飯野さんが足が痛い時に、
私なんかは心配して、出かけないほうがいいですよ、とか、
休んだほうがいいじゃないですか、みたいな発想にすぐ行くんだけれども、
それに対して、やっぱりちょっと歩いてみないと、
どんな、その日の引っかかりと言いますか、
歩きにくさとかが出るかわからないからやってみて、
無理なら戻ってくればいいんだっていう話をしてるんですけど、
やってみて具体的にそこに、
うまく進めない何か障壁みたいなものが出た時に考えるっていうところから、
手前で不安。不安だから行かないっていうところで、
とどまってしまうっていう、そういう傾向があるなって。
だから、完全に大丈夫じゃないと、外に出かけられなくなっちゃう。
なるほどね。
飯野さんが言ってました。
調子のいい時だけ出かけていたら、一生出かけられないんだと。
一生働きに行けないんだ。やりたいことがやれないんだ。
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なるほど、確かにそうだよねって。
そういう状態になっちゃう、しちゃう自分を、
ストッパーをかけてしちゃうっていう傾向が、最近は強まってるように。
心的な傷つきに関しても、そういうことが起きてるんじゃないかっていうことですよね。
そうです。
確かにその、100%安全な状態じゃないとダメみたいな考え方は、
強まってるかなっていうふうに思ってて、
で、これもともとアメリカの大学で始まった取り組みなんですけれども、
トリガーボーニングっていう取り組みが、取り組みっていうのかな、があるんですよ。
これ何なのかなって、知ってる人もいるかもしれないんですけど、
要は、例えばその大学の授業なんかで、
そうだな、その内容が特定の学生に対して、
すごく精神的なトラウマを引き起こす可能性があるものだったりしたときに、
特に性暴力に関する映像素材だったりとか、
そういうものが念頭に挙げられてるんですけど、
ヘイトスピーチとかもそうかもしれないですよね、場合によっては。
でも、そういった授業で、そういった素材を扱うときに、
授業の前とかにね、冒頭で、
今日はこういう内容のものを流しますよ、と。
だから、途中でしんどくなった人は出て行っていいですよ、と。
別に限定しませんよ、とか、あるいは見たくない人は、
映像を流す前に退席する機会を設けるから、退席していいですよ、みたいな形で、
あらかじめトリガーになるような、トラウマのトリガーになるようなものに警告をするっていう、
そういう実践なんですよ。
で、今日本でも結構それ、運動団体なんかでやっているところがあって、
でも、ちょっと問題だなって思うのは、
何ら文脈を踏まえないまま、すごくそれが良いこととして、
それがなんか安全につながることとして、実践されている。
つまり本来であれば、ヘイトスピーチの動画とかってね、もちろん、
そのヘイトを向けられている人たちの中で見たくないっていう人いるかもしれないけど、
ヘイトを潜在的にする側、
例えば日本の文脈だと、日本人は見るべきだと思う。
知るべき。
それで自分たちに対抗するために何をすべきか考えなきゃいけないのに、
そういうの見たらすごい自分も傷ついちゃうから、見たくないです。
15:03
見なかったら学べないじゃないですか。
で、それがまさにアメリカの大学でも問題されていて、
大学で学ぶべきこととか、大学の勉強を通して、
気づいて欲しいこと、考えて欲しいことにつながっていかないんじゃないか。
このトリガーモニーはっていうふうに言われてるんですよね。
だからそこも100%安全にすることがいいわけではない。
つまり誰も傷つかない状態っていうのが、
必ずしもいいわけじゃないんだっていう一つの事例かなと。
そうですね。
なんか結構、合理的配慮の文脈とも結構つながっているように感じて、
やっぱりその、経験していないことを延々話し合うみたいな。
起こってもいないことを話し合って、
こうなったらどうするんだ、ああなったらどうするんだってね。
一回も経験してみないと、そこでどんなコンフリクトや問題が起こるかわからない。
だからやってみて、実際に経験して考えないといけない。
つまり何かを選択するためには、それについてよく知らないと選択できないはずなのに、
なんかあらかじめ、すごく正確に伝えられるならいいのかもしれないんですけど、
無理ですよね。
そこから何が経験されるのかを、
判断するのは自分本人なのに、
それを勝手に、たぶんあなたがこれから経験するのはこういうものだから、
どうしますかみたいに、手前で選ばせるみたいな。
なんかそういうのとすごく似てるなっていう。
まあ管理のね、位置形態ですよね。
それをたぶんリスクを、自分たちの責任っていうものを免除してもらうため。
もしそういう傷つき体験をその場で起こしてしまう、
相手に経験させてしまったら、自分たちがなんか悪いことをするみたいな。
あーなるほど。
それを避けたいから、
事前に言って、言いましたよねって言っておきたいのかなって。
でもそれってなんかそれは、選択肢をすごく狭める方向に働いてしまって、
しかも実際に自分で知ることができない。
知ってから考えないといけないこと、自分のことだったらなのになって。
なるほどね。だから傷つけた人は悪になっちゃうんだ。
それを善と悪の道徳的フレームっていう言葉で表現したり最近していて、
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確かにその傾向、昔からある道徳フレームなんだけど、道徳的なフレームなんだけど、
非常に強硬になってるなっていう。
特にそのSNSってやっぱりそれが顕著に現れるじゃないですか、
SNSだけ見て判断してもいけないんだけれども、
自分の正当性を主張するために相手を悪者にするっていう論法が、
様々な形で使われてますよね。
なんか傷つきっていうのは起きるものじゃない?
コンフリクトも起きるものなんですよ。人は対応だから。
だからそこを避けようとしても不可能なのに、不可能なことをやってるっていう感じがする。
私の視点から言うと。
それは無理だよねって。
もちろん悪意を持って相手を傷つけようとか、そういうのは良くないけど、
傷つきってやっぱり起きるんだと思うんですよ。
自分が傷つくっていうことも当然起きる。
人と接してたら。
それを避けようとしたら、やっぱり人と接触しないとか。
もうじゃあ、相手を傷つけたくないからもう喋らないとか。
そういう選択を取ることになってしまうんですね。
そうですよね。
この障害分野で言うと、
例えば、互いって言って、周りにいる人、特定の人じゃなくて、
ちょっとストレスがかかった時に誰かに手が出てしまうみたいな。
そういうことが起きる子がいた時に、
じゃあそれって何らかのコミュニケーションの表出なんだって思うんですけど、
やっぱりそれが暴力的なことだとすると、
やっぱり止めないといけないっていうのが先に立って、
そのコミュニケーションとして何をそれはその人が伝えているのかのところを
考えるっていうところに行かずに、
それを止めて起こさないようにしなきゃいけないからどうする。
じゃあちょっと接触の機会を減らさなきゃいけないとか。
ストレスなんだろうって言って、ストレスを減らさなきゃいけないとか。
それ結構乱暴っていうか、ストレスだっていうのも。
全部がストレス。
だからそこにどうやって参加するかを考える上で、
ストレスかもしれないって考えるのはいいんだけど、
何がどんな風にストレスになっているのかも考えないと、
その場からやっぱり出てくるしか、分けるしかなくなっちゃって。
その子を排除するってことだね。
そうです。
その子が一緒にいるためにどうやってコミュニケーションしたり、
コンフリクトを一緒に考えるのかっていうところの回路が完全に閉じられてしまって、
で、分けてしまうっていう。
確かにね、よく聞きますよね。
で、ともに学ぶ、ともに育つって言ったって、
21:01
手を出す子はどうするんだ?みたいな質問は必ず来ますよね。
来ますね、イベントとかにね。
いやだから、じゃあどうするんだっていうのをちょっと考えましょうよ。
そのための回路をちゃんと開いておきましょうよって言ってるだけなのに、
でも、なんか起きたらどうするんだ?みたいなね。
一緒に考えてはあんまくれないんですよね。
私のこう、一緒に考えましょうっていう誘いには絶対乗ってくれなくて、
そういうリスクがあるのに、
なんか何かこう、私たちの側が楽観的な態度で、
物事を楽観視してるみたいなね。
そういうふうに捉えられるところは確かにありますね。
障がいあってもなくても、追い詰められたら手が出るのは、
人間はそういう存在じゃないですか。
猫もそうですからね。
防衛だよね。
なのに100%そういうことが起こらないっていうふうにならないと、
一緒にできないみたいな話になって。
いや、そもそもおかしいよねっていう。
そうだよね。でもそれがおかしいっていうのがあんま伝わらないですよね。
一緒にいることを推進するのはそれを放置するのかみたいなね。
そういうことを言ってるのではないんだって、
でも全然話が噛み合わないみたいなね。
確かにありますね。
だからリスク社会の中での噛み合わなさですよね。
だからもともとリスク社会っていう議論は、
リスクっていうのは基本的には、
傷つきのような主観的、ピュアに主観的なものっていうよりは、
どっちかっていうと、
客観的っていうほどでもないかもしれないけど、
何らかの形で測定可能なものっていうふうに、
位置付けられてると思うんですよ。
確率とかで定量化できるようなそのものとか。
なんだけど、そのリスク概念っていうのが、
日常生活に浸透していくことで、
結構いろんなものがそこに持ち込まれてしまっているのかな。
リスクを避けなければいけない、避けられないものまで含めて、
あるいは避けたら目的が達成できないよね、
トリガーボーニングのように。
それ避けちゃったら、全て避けちゃったら、
大学で学ぶっていう目的、
大学の学びを通して人として成長していくっていう目的が、
達成できないよねっていうところまで、
来てしまってるっていうか、広がってしまったっていう、
そんな感覚もありますよね。
そうですね。
でも、それも我々を取り巻いている社会的な状況、
24:03
例えば何か起きたときに、
やっぱり個人の責任に気するみたいな傾向っていうのは、
どんどん強まってるし、
だったらやっぱり何もしないっていうのが、
安全策になっちゃうっていうのは、
よくあるのかなと思いますよね。
だから、その合理的配慮の文脈でも、
結構今大学で、
これ、ここまで要望を細かく出さなきゃいけないの?みたいな、
ちょっと何が起きてるの?みたいなことあるじゃないですか。
例えばね、授業の途中でトイレのために退席するのを認めてください。
それ合理的配慮じゃなくて、
誰でも認められてることだからって。
来たいときに来なさい、みたいなさ。
トイレに行きたいときは、自分で許可求めず行っていいんだよって思うけど、
途中で水分補給をさせてくださいとか。
それもだから、
トイレで退席して叱られたらいけないとか、
水分補給したときに何で水飲んでんだって、
叱られたら嫌だとか、
そういうものがあるのかもしれないですよね。
それをあらかじめ避けようと思って、
合理的配慮の要望のリストの中に入れてしまう。
リストよくないよね。
リストにそこまで細かいことを書いてあったら、
ってことはこれも言わなきゃいけないのかなっていうふうにまた、
思考が働いちゃうじゃないですか。
これ申請しなきゃいけないとしたら、
ここのリストにはないけど、
これも?もしかして。
じゃあこれも?っていうふうになっていて、
ヘンテコリストが広がってるのかもしれないですね。
で、その合理的配慮をあんまり理解してない教員側も、
着手定義にとらえて、
リストにないんだからそれはしなくていいんだろうとかね、
気にしなくていいんだろうみたいに思ってしまうかもしれない。
そうですよね。
あのね、前に学校に要望したいっていう子が、
困った時に相談に乗ってほしいんだ。
それを合理的配慮の要望に書かなきゃいけないのか、今の時代は?って思って、
普通にいつでも言っていいんだよって。
困ったら相談していいんだよ。
それって何の許可もいらないって言ってんの?なんだけど、
そういうのがすごく学校の中にあるんだなって驚きました。
それが今日話したリスク社会と関連しているのかどうか、
あるいはリスク社会と関連していたとしても、
その他の文化的な傾向みたいなものとも、
同時に関連している可能性もあるなっていうふうに思って見てるから、
その後に掘り下げていくと、結構いろいろな日常生活の中で見てて、
なんでこういうこと起きてるんだ?みたいなものの謎解き、紐解きが進むかもしれないですね。
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結構私は、こうすべきだ、みたいな。
こういう時は、こうしないと誰かが困るっていうか、
前にツイッターでつぶやいて、ちょっとバズったの?
バズってもいないんだけど、
ちょっとだけこう議論になっちゃったなっていうのは、
UDデジタル教科書体、UDフォントのことで、
私はUDフォントの今のこの広まり方が、
あんまりちょっとどうなんだろうって思ってるっていうことを伝えたくって、
UDフォントってあんま好きじゃないんですよね、みたいな。
それはなんか使ってないと、なんで使ってないんだ?っていうことを言われたり、
全部均一のUDフォント使われると、
見出しなのか本文なのかが分かんなくて、余計見にくいわ、みたいになっているのを見て、
なんかこう尺子定義にUDフォントだけ使えばいいんでしょう?みたいに使われてしまう。
表層的にね。
それってすごく問題じゃないの?って思っていて、
そういうのを強いられそうになった時には、無視するっていう。
それは私はもちろん、自分が渡した文章が読みにくいってことがあれば、
いつでも相談してほしい。
別にわざわざ見にくいものを作るわけじゃないんだけど、
あといって全部一つの方法じゃなきゃいけないっていう世界は変じゃないかなと思うから、
なんかそういうのとはちょっと戦いたいわけなんですけど。
反逆人みたいな。
でも今の話がトリガーボーニングと密接に重なってるなって思いました。
トリガーボーニング大事な時もあると思うんですよ。
だけどやっぱりそれが表面的に実践されて、
それをやってればいいんだろうみたいなね。
それもだからまさに予防策。
すごい表面的な文脈を無視した予防策になってしまってるっていう。
それが意識高い人の象徴になったりとか。
そこにやっぱり違和感も覚えるし、
これで本当にいいんだろうかっていうのをしっかり考えないと、自分の頭で。
なんかその教科書のような、すごく多くの人が使う出版物の共通企画を作る時にどうするのかっていう話と、
日常でそれぞれの人たちがいろいろな文脈でやっていくものと一緒くたにして、
30:01
なんかこれが正しいみたいになってくるのが、
でもそれってなんか変だよねって。
それが全体悪の道徳的フレーム。
なるほど。
全てに名前をつけていくっていうね、よくないんだけど。
でもまあそのように、ユーディフォントもそうだし、
フィギュアウォーニングもそうだし、
あらかじめ全ての不都合をなくしていくっていうことは不可能なので、
その不可能なことに一生懸命になるよりは、
違うことを考えないといけないなっていうのも当然あると同時に、
やっぱりどうなるかわからないからこその面白さもあるんじゃないかっていうふうに思う時もあってね。
全てをそのコントロールしようとする発想自体が、
新しい考え方とか、新しい実践とかアイディアとか、
企業が好きな言葉だとイノベーションを阻害しているにもかかわらず、
まあそういうね、様々なルールで人々の日常実践をしぶろうとするっていうね、
すごく矛盾したことをしてます。
企画にはまらない子供の面白さっていうのをたびたび目にするので、
やっぱりあんまり企画にはまって、はまっていこうとすると本当につまらなくなるし、
なんか別のやり方、じゃあその印刷物をより見やすくってどういうことなんだろうって。
だってフォントだけ変えればいいっていう話じゃないかもしれないですよね。
本当になんかフォントだけ変えればいい云々の話は私は結構どうでもよくって、
本当にその人に伝えたいなら、いろんな方法あって、
形式的、表装的な実践に留まるんじゃなくて、
話し合えば、会えればね、アイディアが出てきて、
そのアイディアをまたシェアしていけばいいけど、
それはなんかただ一つの正しさを競い合ってるわけではないよねって思っちゃうんですよね。
はい、ではちょっと厚めになって話してしまいましたが、
第12回、傷つかない、傷つけない方がいい?っていうのは逆じゃない?っていうお話をしてきました。
以上になります。
32:50

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