アタッチメントの探求
Reverse Diverse、アタッチメントを探求する。
こんにちは、平林です。
こんにちは、イーノです。
今回はですね、アタッチメント、愛着の話に直接的に繋がっていくかな、どうかな、というところではあるんですが、
ちょっと我々が最近考えていることだったり、それに伴ってというか、この元々の我々たちのチャンネルというのは、隣のニューロダイバーシティというチャンネルでして、
私とイーノさんがどのように違っているのかという、二人の違いというものにフォーカスを当てておしゃべりしている番組なんですね。
なので、基本的なコンセプトというのは、二人の違いというものも話し合うということで、それを通して社会の中でこれって逆じゃないかというものもまた話し合っていくというコンセプトになっているんですね。
先日、私とイーノさんがこういうところ違うよね、みたいに話題になったことがありまして、
それはSNSに投稿、みんないろんな人がSNSを使っておられると思いますけど、SNSに投稿されたいろんな投稿に対する自分の感じ方というものが私とイーノさんとずいぶん違いますね、みたいな話をしてたんですよね。
私はどっちかっていうと、知人とか友人がSNSですごいショックなことがあって落ち込んでるとか、もう一人でしんどくてしんどくてとかね、体調悪くて生活もうまくいってないみたいな、最後は過剰だったかもしれないけど、
そういう投稿あったりすると結構一番最初に喚起される感情っていうのは心配っていう、心配だなっていうふうに思って、声かけたほうがいいかなってやっぱ思っちゃうんだよね。
何が背景にあるのかなって思うと、やっぱり小学校中学校からずっと日本の学校で教育されてきて、困ってる人を見たら助けなさいとか手を差し伸べなさいっていうの言われるよね。
私は家庭の教育でも特に父親からね、それをすごく言われてきたから、それをしないことは自分勝手なことなんだみたいな形で育てられてきたから、そこでスルーして無視するみたいなのは、すごくこう、罪悪感があったりして、
やっぱり何か一言声をかけようかとかね、だからダイレクトメッセージで大丈夫ですかって、もしよかったら話聞くよとか、そういうのを、そういう反応しがちな人間。
してきたってことね。
そうしてきたと思う、過去にね。このポッドキャストでも私が鬱になった経験したと思うけど、その前ぐらいの自分、前後かな、2010年11年ぐらいまでのその自分、もうちょっと後までかもしれないけど、その自分だと本当に言ってたその人たちまで。
SNSの影響
自分が助けてあげなきゃみたいなね、そういうヒーロー症候群みたいな、そういう部分もあって、言ってたりしたこともあるわけよ。長い人生の中でずっとあって、私の中で。
それは別に悪いことではないですよね。
悪いことではないんだけど、やっぱりそれって人に利用されやすい部分があったなって。
それでさ、別になんてことなくって、ちゃんちゃんで終わることもあるんだけど、結構それがすごくこう、結局はその相手はさ、私のことを、きつい言い方すると、自分のニーズを満たすための道具としてしか見てないわけだよね。
こう言ったら慰めてくれるだろう、こういうふうに言ったらお金貸してくれるだろう、こういうふうにしたら自分の代わりに言ってくれるだろうっていう、道具なんだよ私は。
道具扱いずっとされるって結構きついよね、人間っていうのは。私の人間性とか、私の事情とか、私の気持ちっていうのは全くないわけだからそこに。
そういう意味で自分自身をしんどくさせている側面もあったし、それをどういうふうに防御すればいいのか、自分を守るっていうのも、わからなかったんだよね。長いことね。
やっぱりそこで見捨てると、それは自分勝手なことなんじゃないか。相手はものすごく助けを必要としているのに、みたいなね。そういうのがあったかなっていうふうに思って。
そこから、いろんなプロセスの中で少しずつ脱却して自分を守るっていうこともすごく大事なんだ。自分の生存を維持していくっていうために大事なんだっていうことは、なんとなく分かるようになって、そういう選択とか行動も取れるようになったんだけど。
今も本当につい最近のことだから、今日話してるんだけど、今もやっぱり本当にすごいショックなことがあって、本当落ち込んでるみたいな投稿を見ると、大丈夫かな心配っていうのが一番最初の感情として湧き上がってくる。
ところが平昭さんは違うっていうのに、結構衝撃というか、それは私身につけたいことかもしれないと思った。
なんか私はそういう投稿とか、実際に自分に対して大変なんだっていうことを話されたときに、なんか自分の中にそれに反応しない、なんともちょっと表現しにくいんですけど。
助けてほしいというか、ちょっと話ずれるかもしれない。私は基本的に先日実際に井野さんがこういう投稿を見るとこういうふうに感じるんだよねっていうのを見せてもらったときに、これは別に大丈夫なんじゃないですか。
だいたいそんな感じ。っていうふうに読み取っちゃう。つまり、SNSにそれだけ投稿しているとか、あとは内容自体もすごく大変っていう感じでもなかったというふうに感じたんですよ。
というよりは、毎日忙しいですぐらいの、いろいろやることがありますみたいな感じに、知り合いもたくさんいるんですっていう感じに受け取れるっていうか。
面白いよね。全然同じ投稿文を読んでも、受け取るものがこんなに違うのかっていう結構新鮮な驚きがあった。
そこに私が例えば行ったとしてできることは何もないよねっていう感じのふうに考えてしまうんですよ。
だから、何か今すごく大変なんだっていうふうに言われたときに、私はすごく解決したくなるっていう傾向があって、そういう問題があるなら、これはこうしてみたらいいんじゃないかっていう。
このガジェットを使って、こういう方法で、このアプリを使ってみたいな。
そういう課題っていうことは、その課題とかで聞いたこの間、そうだあの人の話を聞いたらきっと役に立つんじゃないかって言ってそれを紹介する。
だけど、実際に求められていることはそれとは違うんだなっていうこともまた、私も経験を積み重ねる中で学習していて。
やっぱりこう、共有したいだけの人もいるんだなと。問題を解決したいわけじゃなくて、まずは共有してほしいっていう。
だから、私が具体的にするアドバイスっていうのは実はそんなに求められてはいなくて。
大変だねとかって言ってほしかったっていうことかな、共感みたいな。
自分を守る重要性
だけど私単なる共感っていうのはあんまり意味がないというか、私自身はあんまり必要としないんですよね。
だから私すごく何か、自分がしんどい状況に置かれている時っていうのは、ただそれに共感してほしいっていうことがなくって。
だから友達に電話かけて相談するとかあまりなくて。
なんでかって言うと、友達にその状況を理解してもらうこと結構難しいなと思って。
説明しなきゃいけないんですよね。
一から自分が今どういう状況に置かれていて、具体的に何をしていて、どんなアドバイス欲しいのかみたいなことっていうのは、
すごく一緒に働いている同僚とかだったら状況がよくわかるから、
自分はこういうふうにしてるんだけどどうしたらいいかっていうのは相談したいんですけど、
今こんなに大変な状況なんだっていうことを知ってほしいっていう気持ちはないんですよね。
言っても何も変わらないから。
その辺がすごく自分でもちょっと人と違うのかなって思う時はあるんですけど。
でも結構そこは私の経験から照らすと大事なことでもあって、そのマインドっていうのかな、スキルっていうのかな、
それを最初から持ててるっていうのはちょっと羨ましいところもあってね。
やっぱり私はさっき言ったように、とりわけ人をサポートするとか助けるみたいな文脈においては、
事故と他者の関係性がなくなっちゃうタイプなんですよ。
不必要にっていうのかな、後で振り返るとね、
なんでそこまでしちゃったんだろうっていうぐらい一生懸命に助けようとしちゃうわけ。
相手が助けて助けてって言えば言うほどね。
でも多分平昭さんが言うように、助けて助けて、共感して、しんどいの共感してって言ってるだけで、
本当に具体的に何をどこまで助けてほしいのかっていうのは分からない時もあるわけだよね。
でもそれをちゃんと確認しないまま、相手の要望にある種全面的に相手の叫びっていうのかな、
100%応じようとすることで、実はいい人になろうとしてたりとか、
そこで自分はスーパーヒーローみたいなさ、必要とされる人になろうとしていた部分っていうのがあるんじゃないかなとも思ってて。
結局そういう関係って相手を依存させてもいるんだよね。
そういう意味で、私が人を助けたいという思いがあるというのは事実としてどっちの評価もできないんだけれども、
でも実はそれって自分を苦しめる方向にも行くし、他者を依存させて自立を阻害するみたいな側面、
2つの問題区切りなところがあるよなって最近思ってるところではあるね。
結構SNSっていうものが問題を難しくするところがありますよね。
不特定多数じゃないですか。登録されている友達に発信している場合ももちろんあるんだけど、
これが電話だったら、実際にもうちょっと事情を聞いたりとか、向こうから来てるわけだから、
何かそこまでの要望というかがあるのかもしれないけど、
SNSの場合っていうのは直接自分に来てるわけじゃなく、不特定多数に来ていて、
かつそれは対外的にそれを見せたいという道具としてそうですよね、SNSは。
いろんな人に見せる。
自己アピールだからね、どういう投稿であれ自分をどう見せたいかみたいな。
自分の状況をどういうふうに見せたいかっていうところは必ず入ってくるよね。
そうすると本当にここが困っているというか、
助けが必要だっていう部分と、対外的に見せている部分の見分けがそこからつきにくい媒体だから、
なんというか、まるっとは受け取れないというか。
辞儀通りというか文字通り、間に受けてはいけないよみたいなところがね。
こないだ言われたんですけど。
間に受けてはいけないというか、これは大丈夫なんじゃないの?
じゃあまあいいかと思って声をかけなかったんですけど。
SNSを通じたコミュニケーション
だからSNSってやっぱりそういう意味で、自分のなんていうのかな、助けを求めやすい媒体でもあるし、
それに承認という形で応答もしやすい媒体もあるじゃん。
いいねとか大切だねとか押すだけでいいわけだから、
実際に手出しをしてその人の生活を支えるみたいなことまでは全然しなくてもいいわけでね。
確かにSNSは日常を発信できるから、一から説明しなくても済むっていうのがあるのかもしれませんね。
私はあまりやらないんですけど、友達に私が電話をかけない理由っていうのが、
一からどこまでどう説明すればまず共有できるかっていうところをとりあえず発信してればわかるわけじゃないですか。
なんとなくね、断片的に。
状況が。だから一から説明しなくてもいいっていうことからやりやすくなるのかもしれない。
コミュニケーションのコスト的に。
なので最近は、さっきのね、第2回の愛着の4つの行動パターン、あんまり真に受けちゃいけないよみたいな話もしたんだけれども、
行動パターンとか思考パターンっていう捉え方っていうのは結構重要っていうか有用なところもあって、
この人は自分が不安な時とか、ちょっと衝撃を受けた時に、私だったら自分で自分をなだめるっていうことをして、
あんまり外には出さないタイプなんだけど、衝撃受けたら外に出す人なんだな、不安だと外に出す人なんだな、
そういう行動パターンなんだな、みたいなふうに、ちょっとフラットにとるようにはしてるんで。
そうですね。そうやって外に出しながら毎日をマネージしていく人っていうのもいますからね。
いると思う。そういうふうに捉えるようにはしてる。
そういう意味では普段はあまり言わないけどポロッと言うみたいな方が心配かもしれない。
そうみたいだね。それ言われた、私逆に。ちょっと前だけど、私あんまり自分の病気のこととかSNSでも書かない。
ちょっと前までは書いてた時もあるんだけど、やっぱりすごく過剰に反応されるところはあって、
まあそりゃそうだよねと思うの。結構大変な状態といえば大変な状態だと思うから、健康な人から見てみると。
でも私はやっぱり小さい時から、そういうままならない身体とどうやって付き合ってうまく勉強を続けていくかとか、仕事を続けていくか、活動を続けていくかっていうのを毎日模索してるわけじゃん。
で、自分のリソースが非常に限られていることはわかるから、それをどう配分するかっていうのでマネージしてるわけだよね。
だけどやっぱりポロッとさ、身体の話とかを出すと、日常的に出さないから逆に反応が大きいのかもしれないけど、もう休んでくださいみたいな反応があったりとか。
休みたくないから、マネージして何とかやりくりしているんだよみたいな話でさ。
健康な人にとっては、井野さんが前に支援のエッセイで、慢性疾患モデルと急性疾患モデルという話を書いておられて、風邪をひいて熱が出て治るっていう。
そういう普段健康な人が病気にかかった時っていうのは比較的そういう、しばらく休んで治るというイメージしか持っていないですよね。
そんなにずっと調子が悪いっていう、その中でどうやりくりするかっていうことは考えたこともないから、具合が悪かったらとりあえず寝ておけば改善していくという思考しかないわけだから、そういう思考の人にちょうど良い心配をしてもらうって難しい。
難しいと思う。
私も井野さんの状況わかってるけど、つい忘れちゃって、あ、そうか、それはしんどいですねみたいな。本当に物をちょっと持つのがしんどいなみたいなことを想像にも及ばないことがあって、言われて初めてそうかって思うんだけど、またしばらくすると自分が忘れたりして。
悪気はないんだけど、自分はそういう思考しかないんだなっていうことがよくわかる。
自分がこういうふうに望んだからってその通りのものが与えられるわけでもない。
うつと信頼関係の回復
自分がこういうふうに望んだからってその通りのものが与えられるわけでもない。言ったからってその通りのものが返ってくるわけでもない。そういうものだよね。
それ以上に本当にわけのわからないことがいっぱい起こるわけじゃないですか。で、その時にやっぱりいちいちいちいち衝撃を受けて寝込んでてもしょうがないわけですよ。なんか人生っていうのは。
そうじゃなくて、コントロールできないものがあるんだなって、中箱を手放して、それを諦めというのか手放していうのかわからないけど、手放していって、でも自分ではコントロール可能な部分に目を向けるっていうことをやっぱりずっと自分の体に対してはやってきたと思うので、
それをやっぱり他者の関係とか世界との関係においても、やったらいいんだなっていうのを最近自分の中でやっぱりその2つが結びついてきたところはある。
そうか。以前うつだったときのことをこのポッドキャストで話したりしてくれてると思うんですけど、ちょっとうつのときの世界との付き合い方みたいな話が今ちょっと出てないか。話もしてもらったりは。
じゃあそれ次にしましょうか。ちょっと長くなってきたので。
ちょっと予告をしておくと、私はうつになって結構長かったんだけど、7、8年くらいかな苦しんでて、そこから回復していくっていう過程を振り返ったときに、
それはやっぱり自分が失ってしまった世界との信頼関係。世界は安全な場所でもあるんだっていう、その感覚っていうのを取り戻していく、そういうプロセスだったと思うんですよね。
で、そこが私は愛着の話とも関連してるんじゃないかなっていうふうに思うので。だからうつもね、いろんな形、いろんな経験があるから、全ての経験に合致するわけじゃないと思うけど、私はそんなふうに考えてますっていう話を。じゃあ次にしましょうか。
はい。じゃあ今日のポッドキャストはこの辺にして。はい。また次回。はい。お願いします。