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はい、こんにちは、平林です。 こんにちは、イーノです。
今日はですね、ちょっといつもとは違う環境で収録しています。
マイクをまず、ワイヤレスのマイクにして、外で撮るということで、
今日はそれをトライアルしている状況です。
音がちょっといつもと違うかもね。
ワイヤレスがちょっと外でも撮れたらいいので、試しています。
じゃあ今日のテーマですけれども、
今日は言えば伝わるって本当?
逆じゃないってこと?そんなわけない。
言えば伝わるって逆じゃない?
そうですね。
もう結論が出てるけど。
確かに。
まあでもいいか。
これまでの我々のテーマの出し方だと何がいいですか?
いいんじゃない?言えば伝わるって本当?
私結構言語中心の人間だから、
説明すれば、丁寧に説明すれば伝わるだろうっていう前提を置きがちなところはある。
言ってもそうじゃないから、なんでって思ったり、
なんでって思った後に、そうだよね言ったからって伝わるわけないよねとかさ、
伝わるわけではないよねっていう風にリフレクションを働かせることは多いよね。
そうですね。
飯野さんと話してると、言えば伝わるってだけじゃなくて、
相手もこのように応答したから、つまり伝わってるはずだ。
たぶん他の回でも言ったと思うけど、
この仕事したいですか?したいですって言ったから、したいんだろうなと思って任せてたら、
一向に仕事が進まずに、どうしてるのって言ったら、
教えてくれないと何もできませんみたいなのが返ってきたりとか、そういうのあるよね。
言語的な応答で何かやりとりしたっていうことで伝わりあったっていう風に、
一般的にはそのように考えますよね。
そうだよね、相手がはいって言ったらそうなんだろうっていうね。
けど、私の分野だとコミュニケーションがそんなに従順に言葉ではしにくいとか、
言葉っていうものは使ってはいるんだけど、
使ってる言葉をじゃあ理解しているのかっていうと、
それとは返りが、ギャップがあるっていうようなことが実際にはよく起こっていて、
そうするとその言葉で言ったとか、相手がこう言った、また応答したっていうことで、
本当にそれで了解しあえているかっていうと疑問だよねっていうのが前提としてあるんですよね。
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すごい面白いし、すごい哲学的だなと思って、
言葉っていうのは一枚の紙のようなものなんだって教わるんですよ。
で、紙の表はシニフィアンって指し示しているもの。
で、裏側はシニフィエって意味内容ですね。
だから通常はその指し示しているものと表記しているものとその内容が一致している裏表なんだけど、
それが前提となっている。
Sさんの領域ではそこの返りが非常に大きかったりするっていうことだと思うんだよね。
で、そちらの方がケースとしても多いから、ちょっと違った前提を持って言葉に対して向き合っている。
言葉っていうものを、言葉という道具を捉えているっていうところがすごく面白いし勉強になる。
で、その同じ言葉を使っていても、その意味されて、理解されていることっていうのが実は違うんだっていう。
内容がね、そうそう。
ことが面白いですよね。
よく授業とかでも話してくれる、えっとなんだっけ、終わり。
ボカ。
ボカのやつ。
ボイスアウトプットコミュニケーションエイドを使うので、
この話は、ある子供さんがトイレっていうサインが、言葉ではそのトイレっていうことはしないから、
サインを使っていて、何かの活動の時にトイレってサインが出るから、トイレなんだなと思って、
私はボランティアで一緒にトイレに行っていて。
何度も何度も言うんだよね。
思っていて、その子がある日、言語というものが入った箱、ボカっていう音が出て、
トイレっていう音が入れられる、そういういろんな言葉が登録できる箱の道具を持ってきて、
よっしゃ、活動が始まりました。
で、トイレっていうかなって思って、期待して見てたら、実は全然違う言葉だった。
それが終わりっていう言葉。
つまんないか終わりにしたいっていうことだよね。
そういうふうに言語的な手段がもたらされることで、
そうだったんだっていうふうに了解されるケースももちろんあるんだけど、
それがなんか、実際に結ばれるまでのプロセスっていうのが、
結構そんなに一直線じゃないよねっていう。
そうだよね。
時間がかかるっていうかね。
やりとりを重ねる中で、
この人の言っているこれはこういう意味なんだなっていうのが、
理解可能になってくるみたいな。
だからその言葉、さっきひのさんが言った、
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この人の言ってる声はこういう意味なのかもしれないっていう、
解釈に開かれる関係性っていうか、にならないと、
言葉だけ取り出してきて、こうだよねって考えても、
あんまり意味がないっていう。
言葉にはあんまり意味がないんだよって、
よく平昌さんに言われるから、
いつもそれは私の前提を覆すものだから、
言葉を信じずして何を信じるんだって、
行動だよって言われて、
あ、そうかみたいな。
そうか観察。
昨日別の雑談というか、
ひのさんがやってるフェミデミーのイベントの後の、
懇親会で、
アンケートの話になってて、
アンケートにどれくらい真面目にというか、
アンケートに対して率直にというか、
答えるかっていうのは結構文化的な違いもあるんじゃないかっていう話が出てました。
日本の人たちは学校生活の中でも、
アンケートに答えるっていうのに慣れてるから、
あのフォームが渡されると、
真面目に答えていくんだけれども、
そうじゃない文化圏とか地域とかの人たちは、
結構自由に自分の書きたいこととか、
言いたいことを書いてしまう。
だけどそれってなんか日本の方が、
そもそもアンケートっていうもので聞き出そうとしていることが、
聞けなくなるっていう、
枠組みになっちゃうこともありますよね。
あらかじめね、
聞けないフォーマットになってるかもしれないですよね。
そうそう。
どっちがいいか悪いかじゃなくて、
面白いなと思ったし、
私が今日たまたま読んでた論文でも、
よく企業組織の中で、
うちの組織についての評価を教えてくださいみたいな感じで、
アンケート調査やるじゃない。
あれほぼほぼ意味がないっていう論文だったんだけど、
なぜかって言うと本音は書かないからって。
なんでそうなんだと思って。
それも日本の文脈じゃなかったんだけど、
文化差っていうのもちょっと気にしながら、
考えないといけないんだなと思って。
それと同じ文脈で、
私がよく学校の授業を見に行った時に感じるのは、
最後に子どもたちにまとめを書かせて、
それが手書きで、
書くそういう、
自分の考えてることを文字言語にするっていうのは、
子どもにとってはそんなに簡単なことじゃないなと思っている中で、
じゃあ書かせるっていう風になった時に、
どれぐらい考えてることがそこに反映されるかっていうと、
結構それはもう疑問で、
かつこういう時にはこう答えればいいんでしょっていう、
そういうのがあるじゃないですか。
さっきのアンケートの話と同じように、
当たり障りなく言っとけばいいっていうものとして、
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こう使われてしまう中での、
そのまとめっていうものが、
あんまりこうなんていうのかな、
せっかくその子が考えたことを、
なんか箱に押し込めた結果、
大事なものが全部流れ去っていちまうような感じがする。
かといってそのリフレクションで、
振り返って自分の経験を一度誰かに話してみるっていうことは、
すごく大事だから、
なんかそれをまとめ自体に無駄だとかいうことを言ってるんじゃないんですけど、
工夫が必要ですよね。
特に授業って45分っていう限られた時間の中で、
最後の例えば5分、
シートに書きなさいっていう取り組みにしたとして、
どのくらいその前の40分で考えたことが反映されるのかっていうと、
まあ疑問だよね。
大人でもそうだと思う。
特にこう私たちが作っている教材っていうのは、
これまで子どもたちが持っていなかった視点から、
社会や学校を見てみようっていう、
揺さぶる教材じゃないですか。
揺さぶられた時の感覚っていうのを言語化するって、
大人でも非常に難しいんだと思うんですよ。
それをやっぱり子どもにさせようとしたら、
やはり明日からは挨拶をしっかりやろうと思います。
元気に頑張ろうと思いますみたいな、
そういうね、当たり障りのないものしか出てこないじゃないか。
で、出てきたもので評価するってことももちろんできるんだけど、
平林さんが大事にするのは出てきてないもので一体何だったんだろうかっていうことだよね。
そっちに目を向けてるからこそもったいないなって思うんですよね。
ただ授業された先生に話を聞く機会があって、
その紙に書く活動っていうものをどう捉えてるかっていうと、
ちょっと落ち着いて自分の考えを振り返って、
それを紡ぎ出そうとする時間っていうふうに考えておられて、
それに対してその手を挙げてはいはいって言って、
当てられてしゃべっていくっていうのは、
その先生の言葉で言うと大喜利になっちゃう。
だからポンポンと批判するような文脈になると、
より何か強い言葉だったり、面白いことだったりを言い合っちゃって、
その子が本当に考えて、振り返って考えたことを言葉にするっていう、
振り返りの要素が多分抜けちゃうから、
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手を挙げさせるんじゃなく、ちょっと書かせたい、
そういう活動にしておきたいっていうふうに言っていたから、
それはそれを聞いてなるほどって思って、
じゃあ書くことに制約がある子供にとって、
じゃあ口頭で言ってると確かに流れていっちゃうってことはあるんですよね。
自分の考えたことが流れていっちゃうから、
それを止めおく仕組みみたいなやり方工夫がいるのかなとか思いながら。
今の話は言えば伝わるって本当の今日のテーマに戻ってきたよね。
やっぱり言うっていう音声言語で相手に伝えるっていうやり方だと、
情報が流れていっちゃう。
なので、うまくキャッチできないっていうケースもありますよね。
それは丸々障害があるからとかそういうことじゃなくて、
多分一般的に起きていることで私たちも、
ふと何かに気を取られて言葉が流れていって、
あれ何て言ったんだろうっていうふうに思うみたいなことってあるもんね。
そうですよね。
ここのなんかこのポッドキャストもそうだけど、
録音して聞くっていうのがだんだんやりやすくなって、
AIも入って文字化もされるようになると、
結構その流れていってしまうものをちょっと止めを受けるみたいな。
本当はだからブログとかにしたらいいんだろうね。
話した内容を今AIで文字起こしできて、
ようやくというかポイントを切り出すみたいなこともできるから、
それでしっかりブログにまとめて集めていくと、
よりねアクセス、そちらの方がアクセスしやすいって人もいると思うし。
確かになんかその喋る言語と書く言語を行ったり来たりしてると、
なんかこういいですよね。気づかないことも。
それ単体だと気づかないことにまた気づいたりするから。
だからその音は残らないから、キャッチしにくかったりとか、
解釈が歪んじゃうっていう意味で言えば伝わるってわけではないよねっていう。
そうですね。
視覚化っていう方法があるけれど、
視覚化するとそれだけで伝わるっていうよりは、
そのことについて話し合う余地ができるっていうか、
この意味何だったっていうのをもう一度、
戻ってね。
ここに戻りたいっていうふうに相手に伝える。
僕平林さんは子供とか保護者と話すときにマインドマップを使って、
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その人が話した内容を視覚化して整理していってますよね。
それはこの時にこういう言葉使ったけどこれって何なのっていう風に戻るためにも有効ってことですね。
そうですそうです。
ここの私はこういうふうにこの言葉を受け取ったけど、
そういう解釈で合っていたのか、それともちょっと違う意味でこの言葉を言ったのか、
一緒にちょっと確認したいみたいなことがちょっと時間が経ってもできるっていうか、
それが言葉だけだと難しい。
確かにね。
そんなこと言ったっけみたいな。
特に私みたいにすぐ忘れるから、忘れる人と忘れない人ってすごい人差が大きくて、
忘れない人にとっては、いやいや、あなたはこの時このように言ったじゃないかっていうね。
それを前提にして話すけど、実際覚えてませんみたいな人もいますからね。
いますね。
視覚化の方法論って多分特別支援の領域とかだと色々と工夫されてきて蓄積が多いなと思うけど、
それがもうちょっと広まるといいのかもしれないですよね。
そうですよね。
多分多くの人にとって有用な方法論がそこにはあるはず。
その違いのある人が一緒の場にいて、
なんかちょっと居心地が悪かったりした時に話し合う時の手がかりっていうか、
そこになんか現れていれば視覚的に。
ここが嫌だとか、今日のスケジュールでもそうですけど。
全部が嫌なわけじゃないけど、ここが引っかかるとか。
そこをやっぱりその文化をなんか阻んでいるものっていうのがあるなとは思ってて、
やっぱり言語中心っていうのはその一つなんだけど、
言ったらわかるでしょみたいな、
物言いっていろんなところになされてるな。
やっぱり立ち止まって視覚化して確認してって時間がかかる作業じゃないですか。
だからそれをその手間と捉えたりとか、効率が悪いっていう風に捉えて、
言語中心のやりとりに戻そうとする力って結構強く働いてると思うし。
そうですね。
で、今度その文字の方になるともっと交渉なことをやらなきゃいけなくて、
なっちゃうんですよね。
そういう世界がなんか分断されてるっていうか。
そうか、そうだね。
ちょっと反省させられたけど、今日の話は。
まさに私自身がさ、言語中心だと思うし、言語優位だから。
で、基本的には音声の、音声言語のやりとりで物事を理解するっていうことをやってきたと思うし、
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と同時にその文字文化っていうものにも慣れ親しんでいて、自分自身でもね物を書くし、
でもそれは必ずしも多くの人にとって分かりやすい文章ではないっていう。
というわけで言えば伝わる?本当に?みたいなことを今日はお話ししてみました。
はい、反省会でした。
ちょっとこのマイクね、どうだったかなと。
後でちょっと聞き直してみて。
はい。また外でも、外からお届けしていきたいなと思っているので、お楽しみに。
はい。
はい、では以上です。