言葉が「呪い」になるメカニズム
はい、今日のテーマは、言葉を生き物に戻す、言葉や意味の身体性ということについてお話ししていきます。
ちょっと今日、ある方のノートを読んで思ったことをお話しできればなっていうふうに思うんですけど、
概要欄の方にもその方のノートと参考にしたノートということで置かせていただければと思います。
その方のノートの題名というか、内容だったりっていうのは、人はいつ呪いから解放されるのかということについてお話をされていて、
ちょっと省いてお話をすると、その人の経験としては、優しくいなさいっていう言葉が呪いになっていたと、
他者に対して優しくいなければいけないという呪いにかかってしまって、
ただその優しくの中に自分というものが入っていなかったということに気づいたっていう大体な大まかなお話としてはこういうお話だったんですけど、
そこの話を読んだ時に、僕が思ったこととしては、
どうしてもそういう優しくなければいけないんだっていうような言葉がどうしても先にあると、
その言葉の、自分自身を言葉に合わせに行ってしまうっていうことが起きてしまうのかなっていうのを思ったんですよね。
自分が合わせたい合わせたくない関係なくというか、多分教えとかルールとか、
そういうなんか、それでうまくいった経験とかっていうので、多分それが先行してしまうというか、
その言葉に自分が引っ張られてしまうっていうことになっているのかなっていうのを感じたんですけど、
でもただその、その先行している言葉、例えば優しくなければいけないっていう言葉にその自分を合わせに行った結果、
その自分の感覚だったり、その自分の魂と呼ばれているものと合わなかった時に、きっとそれを呪いになってしまう。
きっとそれを僕たちは呪いと呼んでいるのかもしれないなと思ったんですよね。
言葉のある側面の呪いの部分になってしまうというか、もちろん言葉というのも、紙一重で祝福になる場合もあるし、
こういうふうに呪いになってしまう部分もあると思うんですけど、
今回はその呪いになってしまったという部分で思ったのが、その呪いになってしまう言葉の多くっていうのが、
その関連的な言葉がすごく多いんじゃないかなっていうのを思ったんですよ。
その優しく、今回も出てた声優しくしなきゃいけないとか、例えば愛をもって接してほうがいいとか、
例えば寛容にならない、寛容にとか、なんか迷惑をかけちゃいけないとか、ちゃんとしなきゃいけないとか、
頑張らないといけないとかっていう、なかなかちょっとつかみにくい言葉っていうのに、呪いになってしまうというか、
周りから教えられたり、その言葉だけが前々にいってしまうというか、それを自分のものとして扱えないのに、
その言葉だけが僕の中に残ってしまっている感覚っていうのは、すごく苦しいなっていうのは感じたんですよね。
言葉と身体感覚の本来の関係性
で、これって思ったのが、その身体性を持った言葉ではないっていうのを思ったんですよね。
なんかその言葉に体的なというか、身体的な部分がないなっていうか、本当にその優しくなければいけないだっていう言葉だけが先行してしまって、
本当にその言葉に自分がうわーって引っ張られてしまっている感じというか、
その言葉って本来、僕の本当に僕自身の意見なんですけど、その体験とか感覚とかの後に言葉になるっていうふうに思うんですよね。
だから言葉が先に来ることっていうのは、もちろんあるかもしれないけど、
その多くの部分で多分擦り合わせが起きないと、そのなんていうのかな、
その人の言葉として立ち上がってこないような気がするんですよね。
なんか、他者に言われて救われた言葉とか、言葉が支えになっているっていう言葉って多分なんとなくだけど、
その人の中で、多分何か共鳴した部分があると思うんですね。
それこそ身体的なというか、言葉にならない部分で、
あ、私はそれがいいんだみたいな、いいというか、もうなんかしっくりくるみたいな感覚があるのかなって思うんですよね。
だから、本当はそれって意味とかっていうよりかは、なんか本当にもう、なんていうのか、もう響きとか、
あの、なんていうのかな、もうニュアンスみたいな感じになっちゃうのかなっていうのは感じてて、
だから、その体験の後にこういうふうに思ったからこの言葉かなっていうか、
例えば例を言うと、例えば幸せだけを、その幸せ幸せっていう言葉に、
その幸せっていうのを自分の中で身体性が伴っていない言葉として使うときって、
その幸せっていう言葉を追いかけてしまうような気がしたんですよね。
例えば、僕で言うと、その幸せっていう言葉をその身体性を伴った言葉に戻すんだったら、
あの、朝のお茶の一杯をゆっくり飲んでいるときっていうような、こういうなんていうか、
身体性を伴った言葉にしていくっていうか、自分の中でそういうふうにしないと多分言葉が先行してしまうのかなっていうのを思ったんですよね。
呪いからの解放と「生きる言葉」
だから、今回この人の記事を読んですごい印象的だった言葉を引用させていただくんですけど、
その、この人が言ったのは、そういった呪いをじゃあどうすれば、あの呪いから解放されるのかっていうことなんですけど、
これは自分を縛っていた言葉に自分の言葉で返事ができたときっていうことを言ってるんですね。
で、これってさっき僕が言ってた、その体験を通した中で自分がどういう言葉でその言葉に対してお返事をするかっていうことだったと思うんですよ。
例えば優しくなければいけないっていう呪いがあったとしたら、自分の中で例えば身体性を伴うんだとしたら、
自分の気持ちとか体がその満たされている状態で、何か自然と体が動くっていうことを優しさというか、
っていうふうに身体性を伴った言葉に直したときに、初めて呪いが解かれるというか、その人の言葉で立ち上がってくるっていうことになっていくのかなっていうのを思ったんですよね。
だからその、これって言葉を例えば生き物に戻した瞬間なのかなっていうのを思ったんですよね。
そのどうしても言葉が先にあると言葉が死んでしまっているような気がしていて、
その、だからこそその身体性がその言葉に入っているのかっていうか、
その自分の体から出てきた意味をその言葉で溶かすことができるのかっていうような感じなのかなって思ったんですよね。
もし先に言葉があるんだとしたら、あの呪いを解くっていう方法は。
だから本来僕たちって、その言葉を頭で入れて頭で理解していると思っているけど、
その言葉とかって、その言葉とか意味っていうのは、
その体、身体で感じた後に脳で言葉にしたりとか意味にしたりしているのかなっていうのを思ったんですよね。
だから言葉とか意味っていうのは頭だけにぶち込んでいるわけじゃないっていうか、
本当に体全体で感じた後に意味とか言葉にしてるっていう、
っていう意味というか、そういう感覚なんじゃないかなっていうのを感じたんですよね。
だからさっきちょっと重なっちゃうかもしれないけど、
その言葉が先行すると、なんか優しさ優しさ優しさっていうそういう関連的な言葉だけが自分の中であると、
その自分の言葉と自分が死んでしまうような気がして、
だから、その生きた言葉で自分の中に入れてないから呪いになっちゃうのかなって思ったんですよ。
その体験とか、そういう自分の中で感じた言葉っていうのは生きたまま入れることができるっていうか、
そうすると呪いにならないと思うんですよね。
その体で先に感じる、
なんていうか、そういう体で感じた言葉とか、
つかんだ言葉っていうのは生きてるし、
その言葉とかその感じたものっていう全てはあなた自身なのかもしれないなっていうか、
あなたっていうのはそう感じたあなたでもあるし、僕かもしれないっていう意味なんですよね。
だから、やっぱりその身体性を伴えるかどうかっていうのはすごく大切な部分なのかなっていうのを感じたんですよ。
資本主義社会と言葉の身体性
ごめんなさい、話ちょっと脱線しちゃうかもしれないけど、
その感じたのが、やっぱり資本主義社会っていう部分も少しそういった、
なんか関連的な思いっていうのを加速させてしまってる部分があるのかなと思って、
その比較とか成長とか生産性とか、
その資本主義が大切にしている部分っていうのはすごい関連的な部分だと思ったんですよ。
その身体性が伴ってないっていうか、
その、だからなんかその自分自身を生きてる感がどうしてもなくなってしまう部分がすごいあるのかなって思ったんですよね。
その資本主義が大切にしているものの中に、まあっていうか、
なんかだからこそこの前僕が挙げた、
その散歩をして存在している感覚っていうのを確認したいんだみたいな話をしたと思うんですけど、
なんか多分それっていうのも、この、
なんか、自分の中で言葉にしたいというか、
自分の中でまた生き物に戻していく感覚とか、
なんかこういう存在確認をしないと、
もしかしたら本当にその、
僕たちは死んだ言葉を浴びせられているのかなっていうのを、
感じたというか、もちろんその大切な部分もあるんですけど、
なんかそういう部分をもしかしたら感じてしまう人たちは、
んー、なんか、
身体性を伴わない分、
なんかそれって生きてる感じがしなくない?みたいな、
んー、感覚に陥っちゃうのかなっていうのはすごい感じたという、
はい、えー、今日この頃でした。
エンディング
えー、ここまで聞いてくださり、ありがとうございます。
えー、それじゃあ、またね。