このポッドキャストは、考える人石田と、感じる人MIZUHOがお届けする番組です。
夜空にランタンを飛ばすように、私たちの考えや思いを解き放つことで、リスナーの皆さんの心が少しでも軽くなったらという願いを込め、日々の暮らしの中で気になったことについてお話ししています。
考える人石田です。感じる人MIZUHOです。こんにちは。
こんにちは。
今日のランタンは何でしょう?
今日のランタンは、何でも言語化することの是非についてです。
はい、何だろう、このテーマはっていう感じですけれども、これは私が話してみたいと思って出したテーマです。
これについて考えてみたいなと思ったきっかけになった思いとか考えがあるので、ちょっとそれを先に言ってみますね。
1つ目が、言語化することの是非についてなのか、ちょっと自分でもよく分かってないんですけど、
まず一番最初に、私この言語化すること自体についてはすごくいいことでもあると思うし、私自身もこの言語化によって助けられている場面があるんですね。
それは何かって言ったら、自分の気持ちがもやもやした時に、たまにですけどジャーナリングしてみたりすると、
頭の中にあったもやもやが整理されて、自分の状況が理解できてすごくすっきりしたりするし、次に取るアクションが明確になりますということもよくあるし、
あとは言語化の大事さみたいなところでいくと、自分の中だけで留めておけるものだったらいいんですけど、
それを相手に伝えようと思った時に、いろんな表現方法があるんだけれども、一番主流になっているコミュニケーションって言葉を使って伝えるっていうことになるんで、
相手に自分の状況を伝えるっていう時に、できるだけ自分の中にあるものを的確な言葉とか表現に落として相手に伝えることで、
その人とより良いコミュニケーションができるようになるっていう意味でも、言語化はやっぱりツールとしてすごく大事だなと思っているベースがある一方で、
ここからが今日のテーマなんですけど、一つ目が、私は例えばジャーナリングとかして、私ってこういう人間である、
こういう過去にこんなことがあったからこういう考え方をする人間であるみたいなことをはっきりそこで言語化してしまうと、その言葉に引っ張られすぎてしまう自分がいるなって私は気づいたんですね。
どういうことかというと、例えば私は家族との関係でこういう関係だったからこういうことをしがちな人間であるって思ってるんですけど、
自分に何かネガティブなこととか思い悩むようなことがあったたびに、こういうことがあったからだよなっていうところに何でもかんでも紐づけてしまうようになってる気がしてるんです、今。
それは一因悪かもしれないし、もしかしたら9割方そうなのかもしれないけど、言語化したことによって、本当はそうじゃないかもしれないじゃんとか、そこまで引っ張られなくてもいいじゃんみたいなことに、
何か力が付与されすぎてしまってる気がして、何かそれで言葉にしすぎること、それを何か自覚しすぎることってどうなんだろうって思ったのが一個と、
あと言葉について最近思ったことがあったんですけど、テキストでもこういうポッドキャストの話し言葉でも、
私なんかこう読書してる中でとか、他の人のポッドキャスト聞いてて、この表現いいなと思ってることを、それを自分がアウトプットの時に使うっていうことがあるんですけど、
それはその言葉に対してすごく納得感があったり、単純にすごくいい表現だなと思うから使うんだけど、
言葉が先走っちゃってるというか、自分の中でその言葉を一回くぐらせて、自分の言葉にしてないままでポッと出しちゃったりするんで、
何かそういう綺麗な言葉に耳障りのいいっていうのかな、何かその言葉に引っ張られて本当の自分が思ってることとリンクさせる言葉を自分から見つけに行くっていうことはあんまり何かしてない気もして、
だからこれは言語化は悪いってわけではないなって今話してて思ったんですけど、
何かそれでちょっと言葉について、何でもかんでもその言葉に耐えることってどうなんだろう、それも人から聞いたどこかで見つけた言葉に耐えるすぎるのってどうなんだろうっていうことをちょっと思いましたっていう感じで、
一回ここで聞いてみます。
この話聞いたことが、何か違う人が同じようなことを言ってるの聞いたことあるなーってとは思ったんですけど、
その方はちなみに面接とかで自分はこういう人間ですとかこういうふうに考えますとかって何個も受けてるうちに、
何かそれが自分を形成、逆にその言っている言葉が自分をどんどん形成していくみたいなこともありますよねみたいな話をしてたんですけど、
その話もそうだし、今の石田さんの話もそうだし、聞いてあんまりそういう自覚を持ったことがなかったから、
なんか興味深いっていうか、そういうこと自分にあったのかなーとか考えながら聞いてました。
そっか、みそうさんはじゃあ、自分をそれこそ掘るっていうことをよくされて、言葉にするっていう作業もよくされてる印象だけど、
そこにネガティブな意味で引っ張られすぎてるなって思うことはないですか?
たぶん、そこに感じたことが経験としてないのかもって思ってるっていうことは、
たぶんなかったか、よっぽどその目の前に出てきた自分の言語化したものに納得感がありすぎて、
疑うっていうことをしないで過ごしてきたかのどっちかなのかなって思いました。
だからすごいですよね、その、石田さんは言語化して出てきた事実に対してもう一度考えるっていうことをしたっていうことですよね。
本当にそうなのかなっていう問いを自分に投げたというか。
そうですね、そこに出てきた、その掘ってきた時に例えば出てきたことへの疑いというよりも、
それはたぶんある程度の事実としてあるんだけれども、なんか全部が別にそれが理由じゃないかもしれないじゃんみたいな感じ。
そうですね、だからみずほさんの言い方をすると、疑い、もうちょっと説明すると、そこに肝付けすぎちゃって、なんか疲れちゃった感じっていうか、
なんて言ったらいいんですか、全部それのせいにしちゃうみたいな感じ。
だから、これこれこういうことがあったからだって、その悲鳴付けしてた部分をただの事実、一事実としてフラットな目線で受け止めるというよりは、
なんかそれのせいにしてるみたいなマイナスの何かがついてるものでもあったんですかね。
そうですね、そうですそうです。近いです、近いです、それ。
で、私はそれを言葉にしすぎる、その言葉にすることを強く念頭に置きすぎるっていうか、
それの、だから言語化、言語化、言語化、言語化ってしすぎることの何か意外なのかなって思ったけど、そうじゃないのかな、問題は。
やばいやばい、今日むずい。楽しいけどむずい。
じゃあちょっとこれ一旦保留にしておいて、2個目はどうですか。
なんかみぞうさん、いろんな、例えば本とか他の人のポッドキャスト聞いてたりして、
素敵だなと思って、例えば自分が発信する文章とか話す言葉の中にその表現使ったりすることってあります?
あります。さっきの話とまた一緒になっちゃいますけど、なんかそんなにしっくりこないなって感じることはなくて、
どっちかっていうと、なんか自分が使いたいとか思うくらいなんで、魅力的に感じたものじゃないですか。
だからそれを使えてる私、好きとか、なんか気分みたいな感じで終わる気がします。
もしかしたらその医者さんと使ってる背景とか事象が違うっていうのがあるのかもしれないですけど、そんな印象がパッと思い浮かびますかね。
もしかするとなんでみぞうさんの方は、例えばその言葉と出会って、さっき私は自分の中にくぐらせるっていう表現をしたんですけど、
自分のものにしてるんでしょうねってことは。自分とすごくリンクしてるし、自分のものにして、自分の言葉として多分出してるっていうプロセスがあるから、あんまりそこへの違和感がないのかな。
逆にその石田さんは自分のものにできてる、自分の言葉にしてないっていうその感覚の違いは、なんかどんなところから生まれるんですか。
えー、なんかわかんないですけど、例えば具体的な言葉を言うと、手触り感のあるっていう言葉ってあるじゃないですか。
ここ数年で私はなんかいろいろ、いろんなところで見聞きするようになった印象があるんですけど、私の読んだりするもの、聞いたりするものの中に割と出てくる表現、
それはなんかこう、例えば大きな国とかそういうものじゃなくて、手触り感のあるって言ったら、それこそ顔が見える関係とか、
生産者の顔がわかるとか、そこまでのプロセスがはっきり見えるとか、まあそういう感じ、自分と割と距離感が近いっていうか、そういうものだと思うんですけど、
なんか私、そういうの、この手触り感のあるってすごくこう、見たり聞んだりした時はイメージがすごく湧くし、ぴったりな言葉だなと思うんだけど、
自分がそれを使うと、じゃあ今まさにその説明する時にちょっと戸惑ったように、じゃあ手触り感があるってどういうことなのっていうのを、
あんまり考えずになんか、手触り感があるとなんかかっこいいな、自分を使おうみたいな、って使っちゃってるっていう感覚がすごいなんかこう違和感っていうか、
後ろめださっていうか、なんか聞こえの良い言葉だけをさらっと取って、出しちゃってるかも、みたいな気持ちになるんです。
石田さんらしいというか。
ないか。
いや、たぶん私はそこまで深く考えないだけなんだと思います。それこそその、感覚的に使わない感じなんですかね。
だからか、わかんないですけど。
そうか、そうか。ちょっとまあ視点を変えて、このテーマはみぞさん的にどうですか?思われること、今日話そうと思ってたこと。
基本的には石田さんとスタンスが似てる、なので言語化いいこともあると思うし、しなくてもいいんじゃないって思うことがあるっていうのが大枠で、
いいと思うというのは、石田さんと一緒で、やっぱりこう対人の時ですよね、コミュニケーションとか、人と良好な関係性を築こうって思った時はとっても大切なんじゃないかなって思うというのと、
あとは自己理解ですよね。石田さんさっきジャーナリングって言ってましたけど、そういう自分で書き出すもそうだし、
誰かに伝える、セラピーとかコーチングとかっていうところで言語化することによって、自分ってこう考えてたんだ、こういう人間なんだっていうのが、
改めて浮き彫りになるというところから自己理解が進むっていう意味で、とてもいいツールなのかなって思いました。
で、一方で何でも言語化言語化だと、何か時として、なんていうか品がないなっていうか、何だろう、美しさに欠けるなって思う時もあるなって思って、
まあそれこそ私は感じる人見ずほど言ってますけど、感覚派だから多分余計そう思うというか、
全部が全部、言葉にできない時もある。感覚的に色で、これってピンクっぽいなとか、青っぽいなって色で感覚的に感じることもあれば、
イメージとして何かが浮かぶとかっていうこともすごく多くて、それをいちいち言語化すると、美しさが損なわれるっていうか、
違うものに変わってしまうとかっていうところもあるので、他人とそれをコミュニケーションすることが大切っていう時は、
先言ったように言語化するっていうことが必要だと思うんですけど、一人の時ですかね、相手がいても全部言語化しなくていいと思うんですけど、
そういう見たまま、感じたままをそのままにするという行為も、社会は今言語化言語化、そっちの方が価値が高いみたいなところがあると思いますけど、
だからといって感覚が劣るということではないのかなって思いますかね。
いやいや、同感です。
それこそ、ビジネス上はうまくプレゼンができるとか、ビジネス上のコミュニケーションは要点をまとめてって、それはもちろんすごく大事なことなんだけど、
なんかそこだけで評価されたりとかっていうのは、ものすごく偏ってるなっていう気もしないでもないなって思ったりします。
いや、ほんとそうですよね。この言語化をテーマにするにあたって、なんかその世の中は言語化言語化って言われてるから、たくさん本が出てたりとか、動画があったりとかするじゃないですか。
だから動画をいくつかちょっと見てみた、かじってみたんですけど、この最近言語化言語化って言われる背景に、その世代間で価値観が共有できない。
年配の方はこう思う、若者はこう思うっていうことが、その共通認識があまりにもずれてるから、言わないでもわかるでしょっていうのが通じない。
普通はこうでしょとか。だからこそ、さっきから私たちが言っている言語化はコミュニケーションのために大切ですよねじゃないですけど、
言うことでわかることがあるから、それを言語にしてお互いわかり合っていきましょう、共通認識を作っていきましょう、みたいなので生まれてきた。
あとは年齢だけじゃないですけどね、リモートになったりとか働き方も多様になったとか、そういう社会の変化の中でより叫ばれるようになったんじゃないかみたいなことを言ってて、ああなるほどってちょっと思いました。
たしかにね、オンライン、いやでもそれで言ったら要点をまとめることは苦手かもしれない。要はだからオンラインのコミュニケーションでは表出しづらい部分の才能が引い出てる人はなんかもったいないですね。
オンラインだとやっぱりテキストのコミュニケーション、ないしはビデオ会議、これよくコロナ禍に言われましたけど雑談が失われてしまったって、
要はビデオ会議とかも30分でとか1時間で区切ってやるし、リアルでその場にいる、会議が終わった後に雑談とかっていうその共有してるスペースがないからパスって終わっちゃうわけですけど、
やっぱりそういう時間の限られた中で生まれるコミュニケーションって端的にこの時間の中で終わらせるすごくスリムな会話になってくるから、そういうことの例えば能力が例えばあんまり高くない、でも他のところではすごくスキルがあるよとか素質があるよっていう人はなかなか表に出づらいですよねと思って。
仕事で価値を置かれるスキルとしては認められない部分みたいなところになっちゃうんですかね。
そうそう、ほんとそうです。
でもそれこそそういう感覚的なところっていうんですか、こう察しがいいとか、この人言わないけどこういうふうにしてほしいんだろうなっていうところが読める、空気が読めるっていうんですか、っていう能力ってものすごく高いものじゃないですか、みんなができるわけではないと思うので。
だからそういうところも認識されるといいなって思いますし、そういうところは高いけど、いわゆるビジネス的に価値が置かれるものはないから、自分は仕事ができないとか自分は能力的に劣ってるって思いがちでもあるかなって思うので、
そういう方がいたらそこは改めて、ただ社会の価値基準に合ってないだけでものすごく高いものを持っているっていうことを認識できるといいなって思いますよね。
すごく優しいコメントですね。でもほんとそう思います。
ありがとうございます。今あの私読んでる本の一つが、本当のことを書く練習っていう本を読んでます。
タイトル通りの内容なんですか?
うん、そうです。まあその表紙に書いてあるキャッチコピー読むと、まず誰にも見せない文をノートにって書いてありますけど、
私の言葉で他者と繋がる文章って、だから誰かからさっき私が言った違和感の部分というか、他人から使ってる言葉とか、他人から借りてきた言葉じゃなくてとか、
他の人の目線を気にして繋ぐ言葉じゃなくて、本当の自分のありのままをそのまま外に出す練習をするためにはどうしたらいいかということですね。
面白い。やっぱり面白いです。だから石田さんの中で自分の言葉と他人の言葉というのがあるんですよね、きっと。
自分の言葉であるということへの実感みたいなのが大事なのかもしれないですね。
そしてそれが自分の本音とか思っていることをいかに表しているかというか、そこに整合性があるかみたいなところですよね。
そうですそうです。まさに今その本の帯のところに養老たけしさんっていらっしゃるんですけど、養老さんって本も出されてるし、ちょっと肩書きもすごく著名な方ですけど、
この方がこの本に寄せている帯のコメントが、とても素直でわかりやすい言語表現論。表現の本質は他人を動かすことではなく、自分への深い理解であると教えてくれるって書いてあるんです。
そうでありたいなってすごく思います。だから他の人とつながるツールでもあるんだけど、やっぱり自分とまずは深くつながるツールであるから、真摯に向き合いたいという気持ちがあるのかも。
なんかその、よく健在意識と潜在意識、その自分で意識できる、認識できるのが健在意識で、できないのが潜在意識で、潜在意識の方が9割くらいとかいう話ありますけど、
認識できない部分を認識する、認識したい、それをこの自分が認識できる部分で一致させたい、みたいな、そういう欲求があるんですかね。
そうかもしれないですね。私はどういう人なのであろうっていう思いの表れなのかもしれないです。
そしてめちゃくちゃ考える人っぽい、それを言語というツールを通してやりたいし、それがとても自分にとって納得のいく方法みたいなところもあるのかもしれないですね。
うん、そうです、そうです。なんとなくすっきりしてきました。今日ちょっと混沌の中で皆さんも巻き込んで沼に引きずり込みましたけど、沼の底に出た気がしました。
沼の底は何だったんですか、沼の底?
そこはごめんなさい、そこじゃない、沼を抜けた、何?沼ズボズボしてたとこから抜けた感じ?
なるほど、上の方、そこじゃない。そこで何が見えたのか、ちょっと気になっちゃいました。
はい、失礼しましたけれども。うん、そういうことだ。
だから、私は感じる人って感覚的な人間ですけど、そういう人間としては、自分を知るっていうときに、言語科ももちろんお助けになりますけど、
なんとなくとか、そのまま感覚を信じてみる、それでいいみたいな、とかそこで終わる、みたいなところが結構あるかなって思いますけど、
石田さんはだから考える人っぽく、そこを言語化することで自分と一致していく、みたいな納得感が私にもありました。
素晴らしいまとめ、本当おっしゃる通りです。
さて、皆さんはどちらでしょうという感じですけれども。
はい、どちらでしょう、ちょっと考えてみてください。