過去と現代における「どう生きるか」の問い
はい、今日のテーマは、どう生きるか≒どう死ぬか、ということについてお話ししていきます。
昔というと、どのくらい昔かというのは、ちょっとここでは断定しないんですけど、
見える世界だったり、情報っていうのも、昔は限られていたと思うんですね。
その中で、若者というか、年をあまりとっていない人たち、
青年期の人だったり、そういった方々っていうのは、人生の主な問いとして、
どう生きていくかという部分というものが、大部分を占めていたんじゃないのかなっていうふうに思うんですよ。
で、これって、その…なんていうか、
中年期とか老年期の人たちも、どう生きていくかっていうのは考えていたと思うんですが、
加えて、どう死ぬかという部分も、同時的に考える時期ということとも、僕は思うんですよね。
で、その中でもちろん死っていうのは存在していたと思うんですよ。
若い人たちの中にも、どういうふうに死っていうものを理解したり、考えたりすればいいんだろうかっていうのは、
もちろんあったとは思うんですけど、今と昔が全然違うなっていうものが、
やっぱ昔の宗教だったり共同体だったり、年齢の離れた人との暮らしの中で、
若い人たちも日常の延長として、そういった死のことについて考えたり、そういった気配について感じながら生きていたと思うんですよね。
だからこそ、死は特別に考える対象というものよりかは、
何か生というものの裏側というか背景に自然と置かれていた?
本当に生と死ってそこに一緒にあるんだ、みたいな感覚としてそこに多分あったと思うんですよね。
現代社会における生と死の認識の変化
なんですけど、現代って情報も他者の人生もすっごく見れるようになったと思うんですよ。
だけど、世界中の生と死っていうものもTwitter、Xっていうもので、ニュースとかでもそうですね、目に入るようになった。
だけど、何か自分自身の死とか生っていうものっていうのを認識しづらくなった。
自分の生活からそういった死が遠づけられてしまった。
だからこそ、じゃあ死ってどういうふうに扱ったらいいんだろうっていうか、死ってどういうふうに考えたり受け止めていたらいいんだろうっていうものを、
その宗教だったり共同体のようにその死を受け止める基盤っていうものがなくなってしまった結果、
私たちはどう生きるかっていうものと一緒に、というかもうもっと同じ熱量でどう死ぬかっていうものを考えて生きていかなければいけない
風になってしまったんじゃないかっていうふうに思うんですよね。
なんかそういう、どう生きるかだけを考えてきていた時代というかは、
時代というか、もう若い人の中でもどう生きるかと同等、それ以上にどう死ぬかっていう問いも自分自身で引き受けなければならないという風になっているんじゃないかなっていうふうに思っていて。
「どう死ぬか」を考えるための課題と必要性
で、まあでもじゃあどう死ぬかっていう問いに対して、その考えるための場所だったり時間ってないんですよね。
そのどう生きるかっていうのは多分キャリアとかそういうふうに繋がっているからこそ、なんか考えなければいけないし、
考えなければいけないというかは、何か考えざるを得ない状況に追い込まれている部分があると思うんですよね。
でも僕たちはそういう部分だけで生きているわけじゃないんですよね。もう片方では死んでいるというか、その死について考えざるを得ないんですよね。
だからこそ苦しいよなっていう部分でもあるし、その、なんていうか考えていかなきゃいけないよなっていうのは思うんですけど、
ただ、ここで言うじゃあどう生きるかっていうことと、そのどう死ぬかっていう考え方の力だったり、何かそう考えるための期間だったり、何かそういう筋肉っていうものは全然違うんじゃないのかなっていうのを思うんですよ。
それっていうのも、そのどう生きるかっていうのは、例えば選択をしたり何かこうしたらいいんじゃないかというか、計画とかっていう部分なんですよね。
僕たちが今、社会ですごく使っている部分だと思うんですね。だから普段僕たちはどう生きるかっていう部分ですらしか生きてないっていうことでも言えると思うし、
じゃあ、そのどう死ぬかっていうのってどういうことなんだろうってことを考えたら、まあ有限性ですよね。その時間があるよねっていうことだったり、何かなくしてしまう喪失だったり、自分のこう、
何か範囲ではない部分を感知したり考えたりすることだったり、何かこう意味と向き合う力っていう部分が必要になってきている。
まあ必要になってきているというか、どう死ぬかっていうのを考えるときには、そういうふうなことを考えていかなきゃいけないんじゃないかっていう部分だと思うんですよね。
生と死の同時的な考察の重要性
まあでもこれ別々に考えるというよりかは、同じ戦場にはあるけど使う筋肉はちょっと違うんじゃないかなというか、っていう部分をちょっと思っていて、
でも、なんていうか、現代社会、今の僕たちが生きている世界っていうのはどう生きるかっていうことをすごく鍛えてるんですよね。それを鍛えに来てるんじゃないの?みたいな感じで僕たちは生きているんですが、
でも、どう死ぬかっていうのも、やっぱ考えなければいけないというよりかは、人間が本当に生きるっていう意味では、どう死ぬかっていうのも同時的に考えていかなければ、生きるっていうのを支えられないんじゃないかなっていうのをちょっと思ってしまって、
だから僕たちはどう死ぬかっていうのを考えなければというか、感じたり、問いとしてそこに置かなければいけないとも思うし、そのためのどう死んだらいいんだろうっていうような筋肉だったりというか、そういう筋肉って言うとあれですけど、考えられる場所とか土台っていうのを培っていかないといけないし、
でも、培っていかないにしても、じゃあどう死んでったらいいんだろうかみたいな部分っていうのはある程度自分の中で感じる部分だったり気づきながらというか、何かこう、そうだよな、それも考えていかなきゃいけないよなっていうような部分として置きつつ、生きていかないと今は苦しいんじゃないかなというか、
むしろなんかそういった部分が抜け落ちてしまっているからこそ、現代の少しそういった生きづらさだったり、何かこう生きている感覚がしないんだよなっていう部分にももしかしたら繋がっているのかもしれないなっていうふうに思った、今日この頃でした。ここまで聞いてくださりありがとうございます。それじゃあまたね。