「自分軸」と「他人軸」の捉え方
はい、今日のテーマは、自分の世界が広い、ということについてお話ししていきます。 なんか最近その他人塾だったり、自分塾ということについて考えることが多かったので、
なんか僕の中ではあまり自分塾と他人塾っていう区別があまりないんですけど、 そのまあ多分僕の中で他人塾っていうのはその勝手に世界が与えてきた答えとか何か
思いとかっていうものをそれを勝手に自分の塾なんだっていうふうに勘違いしてしまって、それを心の中心に置くことなのかなと思っていて、
自分塾っていうのはなんだその自分なりの答えを自分なりに出して、それを自分の塾として置いていくっていうことが自分塾なんじゃないかなっていうことを僕は思ったんですよ。
他者の影響と自己認識の広がり
で、その他者の気持ちを塾にしてしまうだったり、他者の気持ちとか空気を大切にしてしまうことで自分塾がないんじゃないかみたいな考え方というか、
なんかそういう風潮っていうのを僕は感じたんですよ。でもその周りの空気を大切にしてしまう人だったり、
または大切な人がいる、だからこそ大切な人に合わせてしまうという方が中にはいると思うんですよね。
例に漏れず僕もそうなんですけど、だけどこれって自分っていう認識が広いから起きることなんじゃないのかなっていうのを思ったんですよ。
そのっていうのも、自分の周りの空気すらも自分として捉えているということがこれに起因しているんじゃないかなというか、
だったらそれも自分塾として捉えることができるんじゃないだろうかというか、でもこれって空気だけっていうわけには例えばいかなくて、
例えば他者の気持ちっていうものも時に含まれてしまうことも僕はあると思うんですよ。
だけどこれって自分塾がないということにはならないんじゃないだろうかっていうのをちょっと思っていて、
「自分」の定義と境界線の拡張
何かこう人と関わっていたりだったり、何か空気を感じること?
例えば、この空間はいい空間でいたいとか、いい空気でいたいなとか、心地いい空気を感じてたいなっていう、
それすらもう自分という空間なような気がするんですよね。
意識というか、自分のオーラというか、自分の領域というか、
もうそれって自分の身体っていう体だけじゃないですよね、その自分と言われているものが。
で、その自分の身体、体が感知できる範囲を全て自分として捉えるっていうことをしたとき、
それって自分塾って言われているものの自分っていうものすらも広くなるんじゃないかなっていうのを思ったんですよ。
感情の共有と境界線の曖昧さ
例えば空気が悪くなるときとかありますよね、その人が何かこう、
怒ったりだったり、空気が荒れてしまったり、機嫌が悪い人がいるとすごく空気も悪いというか、
それって自分の空気も悪くなるような感じがしてしまうんじゃないだろうかというか、
それすらも自分のことのように感じるんじゃないか。
それってじゃあ境界がうまく晴れてないんじゃないかとかっていうのはちょっとまた後取ってというか、
まあちょっとそれの話はまだちょっと違うんですけど、
それっていうのは個人で完結する何かこう自己認識とは別の、
何か違う分野での自己認識が働いているんじゃないのかなっていうのを思ったんですよ。
「自分軸」の再定義と他者の内包
自分の中だけで完結して自分だけに戻ってこれる人が自分軸というか、
自分が立っている人なんじゃないかみたいな風潮があるとは思うんですけど、
でもそれだけじゃないような気がしていて、もちろんこれも言葉遊びの分が強いと思うし、
言いようものは言いようというか、裏面ってそうなってるじゃんって言われちゃえばそうなんですけど、
だけど自分軸って何かというか自分だけで完結するものだけではないというか、
例えば自分っていう認識をするっていうこともあるんじゃないかなっていうか、
事故の境界が広いっていうことも言えるんじゃないのかなと思うんですよ。
それが良い悪いっていう話ではなくて、
じゃあそれに対して自分軸がないのかとか、それって他人軸なんじゃないのかっていう話ではなく、
事故の認識というかその事故の境界が広ければ広いほど、
それはその自分のこととして捉えることもできると思うし、
その事故の投影としても捉えることができてしまうとも思うし、
だったらそれすらも自分軸として生きていくこともできるんじゃないだろうかというか、
人一人だけの軸として捉えるのはあまりにも狭く見すぎてしまうんじゃないかというか、
自分軸の中にも他者がいてもいいんじゃないかっていう気はしてて、
それすらもう僕は自分軸と呼べるんじゃないのかなっていうのをちょっと今日は感じたという、
今日このままでした。ここまで聞いてくださりありがとうございます。
それじゃあまたね。