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2022-11-01 30:16

#004 デザイン×テクノロジー「分野を横断して道なき道を歩む方法は?」

第4回は、デザイン、テクノロジー、ビジネスの融合を追求し、過去にはMITメディアラボで副所長を務めるなど、教育分野でも活躍するジョン・マエダさんがゲストで登場。 「レイ・イナモトの人生を変えたジョンさんの言葉」、「エンジニアがクリエイティブになるためには?」、「分野を横断して道なき道を歩む方法」を伺いました。


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世界のクリエイティブ思考。
皆さん、こんにちは。クリエイティブディレクターのレイナーモトです。
この番組では、日本人がクリエイティビティを武器に世界で戦うにはどうしたらよいのかをテーマに、21世紀を生き抜くヒントを探ります。
番組を一緒にナビゲートしてくれるのは、滝口イレナさんです。今回もよろしくお願いします。
よろしくお願いします。今回も素晴らしい方にインタビューしていただいたとレイさん、聞いておりますので、楽しみにしてきました。
では、始めましょう。
クリエイティブ・ボイス
今回のゲストを紹介します。
デザイン・テクノロジー・ビジネスの融合を追求し、過去には未来のハーバードと呼ばれるロードアイランドスクール・デザイン、WISDYの学長であった。
そして、MITメディアラボで副所長を務めるなど、教育分野でも活躍されるジョン・マイダさんです。
ジョン・マイダさんはどんな方なんですか?
彼はですね、あえて言えばデザイン業界のスターウォーズに出てくるヨーダのような、ああいう先人的な存在で、すごくおっしゃられることもシンプルなんですけども哲学的というか、すごく考えさせられるようなことをおっしゃる方ですね。
ジョン・マイダさんの作品っていうのはどういうものがあるのかっていうのも、少し伺っていいですか?
そうですね、90年代ぐらいから日本に、80年代後半ですかね、日本に来られていて、まず最初にアメリカ、ジョン・マイダさんという日本人の名前なんですけども、日系アメリカ人の方で、80年代後半に大学院生としてアメリカから日本に来られた方ですね。
それから日本でその大企業のクライアントを相手にオンラインでの作品を発表してきて有名になられて、僕が知ったのはその後なんですが、彼がその後MITに教授として戻って、そこで発表されていた作品っていうのがすごくシンプルなんですけども衝撃的で、
それが僕が彼をもう20代の、多分20歳ぐらいですね、の時に知って、こういう作品を作ってみたいっていうふうに思ったのが彼です。
すごい、じゃあレイさん本当にインスパイアされた方っていうことですか?
そうですね、この業界に入るきっかけの一つでインスパイアになった方です。
なるほど、じゃあ早速そのインタビュー聞いていきましょう。
20年以上前、ジョン・マイラさんと僕が初めてお会いした時のことを覚えているか聞いてみました。
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ジョン・マイラさんは当時僕のことを何か変わった日本人だなと思ったそうです。
90年代後半だったんですが、多くの日本人が世界に出るよりも日本に留まることを選ぶ中で、強い意思を持って世界に挑戦しているということに彼は感心したと言ってくれました。
僕はミシガン大学の学生だったんですが、その当時美術の専攻をしていました。
当時からジョン・マイラさんはデザインとテクノロジーを融合させた作品を数多く発表されていて、とても有名だったので、ぜひお会いしたいと思い、直接MITメディアラボの彼のメールアドレスを見つけて連絡を取り、アポを取って会いに行ったんです。
ほんの20分ぐらいの短いミーティングだったんですが、そこで彼は僕に2つのアドバイスをくれました。
1つはデザインについて、街を歩き回って道路標識を参考にデザイン、そしてタイポグラフィーの勉強をしなさい。それが1つ目。
2つ目はプログラミングについて、プログラミング言語のコードの書き方を勉強してからMITメディアラボの元書を出したらいいんじゃないか、そういうアドバイスをくれました。
そのアドバイスをくれた人数は数百人だったんですが、とても少ない人が私のアドバイスを受け取りました。
あなたが私に与えたアドバイスを受け取ったとき、それは僕のカリアの中心的なテーマになりました。
わあ、とにかく、あなたを遠くから憧れていました。
その時、私はただものじゃないと思いました。
ジョン・マイラさんによると、この同じアドバイス、特に2つ目のプログラミングを学ぶというのは、数百人にこのアドバイスをしたそうなんですが、実際にこの通りに行動した人はほんの数人数えるほどしかいなかったそうです。
でも、その短い会話の中のアドバイスから、僕の人生が大きく変わりました。
デザインだけでなく、コンピューターサイエンスの学位も取ることにして、それが僕の今のキャリアにつながっています。
僕がお礼を言うと、ジョン・マイラさんも日本語を交えながら、昔からレイがただものじゃないって気がついていたんだよと、その後の僕の活動、そして活躍を喜んでくれました。
ジョン・マイラさんから、レイさんと初めて会った時、ただものじゃないと思ったという言葉が出てきましたが、レイさんはこの時、どんなお話をされたんですか?
緊張しすぎて、何を話したか覚えて、
大学生の時だったんですね。
20歳ぐらいですね。
20歳ぐらいの時で、その時からMITメディアラボというのは、たぶんできて20年ぐらい経っていたと思うんですが、伝説的なところで、ちょうどその頃からコンピューターというものを使って表現とかを作ろうと思ったんですが、
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なかなか25年ぐらい前の話なんで、そのコンピューターがすごく原始的で、限界がすぐあったんですね。
その中でも、ジョン・マイラさんというのは、プログラミング言語を使ってコンピューターアートというのをやっていて、それがあまりにも衝撃的で、
この当時はまだコンピューター自体もすごい高いものだったんですかね。
そうですね。僕も個人的には持っていなくて、お金がなくて買えなくて、
その大学のコンピューター室とかで、それこそチケット制でみたいな、そういう時代なんです。
チケット制?
すごい古い時代の話によるんですけど、受付でチケットをもらって待っていくみたいな。
そうなんですね。
レイさんもその時からコンピューターに魅せられていたということですか。
何かできるなっていうのは思ってたんですが、やっぱりこの与えられたソフトウェアだけだとやっぱり限界があるので、
ちゃんと自分でソフトウェアを作れるようになれば、その表現の幅も広がるんじゃないか。
そういうことをやっていらっしゃったのがジョン・マイラさんなんです。
コンピューターサイエンスを学ばれて、今につながっている一番この部分がすごい重要だったかなと思うことで、どういうことですか。
ぶっちゃけ思ったのは、自分コンピューターサイエンス向いてないなと思ったんです。
そうなんですね。
やり始めて2年半ぐらい、3年間結局やったんですけど、アートと並行してコンピューターサイエンスもやって、
コンピューターサイエンスの領域で僕は勝てないなと思ったんですよ。
一応理解してわかるけど、その領域の天才の人たちと勝負しても、俺はこれ負けると思ったんですね。
じゃあアートだけでもいいのかっていうと、でもそれだけじゃ物足りないっていうことで、
コンピューターサイエンスをやったおかげで、それとアートっていう、その当時は全く混ざらない領域のことを混ぜてやっていけばいいんだっていうふうに、
そこで新しい道が今になって、そういうのがそこで切り開かれたのかなっていうのは思いますね。
アメリカに移住をし豆腐屋さんを営む日本人の家庭に生まれ、ずっとアメリカで育ちました。
彼が子供の頃、1970年代はまだ豆腐を食べるアメリカ人はほとんどいなかったので、日系人以外との交流が少なく、アメリカ社会に馴染むのに苦労したそうです。
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豆腐屋さんをしていたご両親はお客さんの中に飛行機のボーイング車のエンジニアをしている人がいらっしゃって、
高級車に乗っているのを見て、あまり深く考えずに息子もエンジニアを目指せば経済的に安定するのではと思ったそうです。
そんなご両親の勧めもあり、ジョン・マイダさんはMITに進学することになります。
この時、時代はコンピューターの黎明期、1984年、アップルから初のマッキントッシュのコンピューターが発売された頃です。
そんな時でしたから、プログラミングコードもかけてデザインも少しできたジョン・マイダさんはMITの中でも珍しい存在だったそうです。
当時のことを、若さゆえに頭でっかちになりすぎて、自分が天才なんじゃないかと思っていたと笑いながら語っていました。
ただ卒論で半導体チップのデザインをした時に、彼自身行き詰まりを感じたそうです。
その後、大学院に進み修士課程を終える頃には、エンジニアを目指すよりももっとデザインがやりたいのだと気づいたと言います。
大学院の博士課程の1年目に、担当教授が学校を辞めてしまっていたので、デザインを勉強するためにMITの一つの学校であるメディアラボに進もうと考えました。
しかし、当時MITメディアラボで教えていたデザインのパイオニアとして知られるアートディレクターのミュリエル・クーパーさんに、美大に行くべきだと強く勧められたとジョンさんは語っていました。
前田さん、コンピューターの黎明期に、1984年マッキン・トッシュが発売された頃からすでにプログラミングコードもかけて、デザインもできるから本当に貴重な人材だったということなんですね。
そうですね、MITメディアラボは1984年にミリエル・クーパーさんというデザイナーの方と、ニコラス・ネグロ・ポンテという建築家の方がいらっしゃるんですが、そこでMITのいくつかの部署をくっつけてメディアラボになるんですね。
なので、この彼女がそもそも本のデザインとかをする人なんですが、デザイナーの方がこのメディアラボを作る創生者の一人として参加されて、技術というよりかはデザインというところから、コンピューターとかインターネットというところをここで研究されていた方です。
このミリエル・クーパーさんからは美大に行くべきだと強く勧められたということなんですが、これどうしてクーパーさんそういった美大を勧めた?
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それまで半導体の勉強されていたので完全に作能というか、すごく工学的なことを追求されていたわけじゃないですか。そこにデザイナーであったクーパーさんが、君はアートをもっと勉強しなきゃいけないよということを勧めて、完全に右脳だったりとか美意識だったりとか、感性を豊かにしないとダメだということを彼に伝えて、ここには来るなって言ったわけですよね。
だからそのアドバイスというのは、ジョンさんもしかしたらそれは聞きたくなかったことかもしれないですけれども、それがあったおかげで今ああいうテクノロジーとアートだったりデザインの業界を行ったり来たり駆け渡し的な存在にはなりたいんじゃないかなと思います。
その後、ジョン・マイラさんは大学院の博士課程を中断して、日本の研究機関で研究員として働くことになりました。
この研究機関ではシャープ副社長を務め、小型電卓開発の人頭式を取った伝説のエンジニア佐々木忠さんが責任者を務めていたのですが、ある日、ジョン・マイラさんにこう聞き出しました。
マイラ君、博士号を取った方がいい。奨学金をあげるから学びなさい。
こうしてジョンさんは日本でデザインを学び、博士号を取ることになったのです。
日本でデザインを学び始めたジョン・マイラさんですが、外見が日本人でもあるにもかかわらず、中身がアメリカ人ということや、それまで学んできたことがデザインというよりもエンジニアリングだったことが原因で、ご自身は仲間外れという言葉を使われていましたが、相愛感を感じることもあったそうです。
どんな国の文化でも人間は相手が自分と似ているか似ていないかで判断をする傾向があり、それが原因で相愛感を感じたのではないかとジョンさんは話していました。
豆腐屋さんの息子として育ったジョン・マイラさんは、昔期質の70年代、80年代の日本人デザイナーにとても気に入ったそうです。
特に昭和を代表するグラフィックデザイナーの田中一光さんは、ご自身が商売人の家庭で育ったことから、ジョン・マイラさんを顔がえり、よく面倒を見てくれたと言います。
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その他にも、幾何学的なデザインで知られるグラフィックデザイナーの葛井光夫さんも、ジョンさんの作品に興味を持った一人でした。
ジョンさんは、田中一光さんのことも葛井光夫さんのことも、作品を見てとても尊敬を知ったので、そのデザインの根源にバウハウスがあることを学び、さらにデザインへの理解を深めてきました。
そしてそれと同時に、大御所のグラフィックデザイナーの方々にも、デジタルのことを教えるという世代を超えた交流をすることができたのです。
デザインを学んで一番良かったことは、何を作りたいか分かったことだとジョンさんは語ります。
それまではプログラマーとしては、何でも作れる能力を持っていても、肝心の何を作ればいいのかが分からなかった。
でもデザインを学んでからは、自分が作りたいものをプログラミングするのが簡単になったと言っていました。
エンジニアからデザイナーへと、誰もが認める存在になっていた前田さんのストーリー。
あと私驚いたのが、佐々木忠さんのお名前が出てきたところで、ビジネス界の方もお馴染みのお名前だと思うんですけど、
孫正義さんであったりとか、スティーブ・ジョブスさんともゆかりが深い方ということで、
この方が前田さんに、PhDを取った方がいいよと勧めたところだった。
お金は心配しなくていいからという、あげるから気にしなくて勉強しなさいと言ってくれたのはすごいですよね。
いろんな出会いが日本であったということ、ちょっと驚いたんですが。
すごい有名な名前がいくつか出てきたんですが、例えば田中一子さんというのは、戦後の日本のグラフィックデザイナーの天皇陛下みたいな感じで、すごいレジェンドな人なんですね。
もう一人、葛井美聡さんのお名前も出てきて、ちょうど同じぐらいの世代の方で、
昭和時代の日本のグラフィックデザインの歴史は彼ら抜きでは語れないというようなすごい偉大な方たちが、前田さんを自分の半分弟子みたいに取ってくれたみたいなことをおっしゃっていたので、
そういうところからの感性的な学びっていうのも、ジョンさんにはすごく影響があったんじゃないかなっていうのを、今お話を聞いてて思いました。
あと一つもう一つ専門的な言葉が出てきて、バウハウスっていう。
そうなんですよ。
バウハウスっていうのは、デザイン業界とかクリエイティブ業界ではすごく重要な存在でして、
ちょっと細かいこと言うと、1919年から1930年とか1935年ぐらいにドイツであったデザインの学校なんですね。
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そこでいろんなアートとかデザイン、建築だったりとか絵画だったりとかグラフィックデザイン、工業デザインを教えるっていうことをやり始めたのがこのバウハウスの始まりで、
その後のデザインの教育とかアートの教育ってのはそこが結構発端になってるんですね。
その当時のことをジョンさんがやっぱり日本に来たときにエンジニアとして来たので、デザイナーとして認められてなくて、それが悔しくて一一倍そのことを勉強して、バウハウスについては僕が一番知ってるよみたいなこともおっしゃってたんですけども、
そういうところから勉強をちゃんとして基礎を作り上げたっていうのはあったんですが、
やっぱりその現代の近代のデザインの伝統的なところからちゃんと勉強されているのもすごい偉いなと思いました。
1990年代に入りインターネットが誕生すると、ジョン・マイダさんの作品はネット上で注目されるようになりました。
Javaというプログラミング言語を使って資生堂やソニーのホームページのための作品をたくさん作ったそうです。
そしてMITメディアラボで教えていたミデル・クーパーさんが1995年に亡くなったのをきっかけに、彼女の後継者となるポジションに願書を出し、ジョン・マイダさんはMITメディアラボで教団に立つことになりました。
当時ジョンさんはプログラミングとアートの融合を追求したいと考えていたそうなんですが、誰一人としてこの考え方に共感を示す人はなかったと言います。
この時代はプログラミングとデザインは全く関連性のない別の世界のもの、人々はそう信じて疑いませんでした。
教育の分野でも長く活躍するジョン・マイダさんに、全然クリエイティブでない人にクリエイティビティを教えるにはどうしたらいいかを聞いてみました。
統計的に言うと、私がMITで学んでいた当時、1000人のエンジニアがいたとして、アートに興味があるのはたったの10人ほど、およそ1%にすぎません。
なぜ、テクノロジーに興味があるアーティストやデザイナーの数より、プログラミングとデザインに興味があるのかというと、
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なぜ、テクノロジーに興味があるアーティストやデザイナーの数より、アートやデザインに興味があるビジネスマンの数が圧倒的に少ないのか。
それは、アーティストやデザイナーの方が、他人の問題も自分のこととして考えられるような共感力の高さを秘めているからかもしれません。
良いデザインの根源に正しい問題解決があることはよく知られています。
ビジネスマンが問題そのものを見つけないことや、エンジニアがその場しのぎの技術的な問題を解決することだけに終始して、人々の感情に根差した根本的な問題を解決できていないのはとても残念なことです。
アーティストやデザイナーが生涯をかけて、感情に根差した問題を解決しようとするのはなぜか。
ここでジョンさんの言葉で言うと、Emotional problemsと言っているのですが、それはなぜか。
それは、変わり者だからです。
人とは違った感性を持っているのです。
ジョン・マイダさんはそう語ります。
ご自身についてもしっかりしなさいと言われても、作品を作る以外のことに関しては、感受性が高すぎてしっかりすることができない。
ジョン・マイダさんはそう語ります。
感情に根差した問題を解決する方法について聞いてみると、
だから、他の人が見えない細かな要素に気づくことができ、それが問題解決につながるとおっしゃっていました。
なぜかというと、この問題を解決するためには、
自分の感情に根差した問題を解決する必要があります。
だから、他の人が見えない細かな要素に気づくことができ、それが問題解決につながるとおっしゃっていました。
なぜデザイナーが怒っているのか、なぜエンジニアが怒っているのか、そしてなぜ投資家が怒っているのか、
その理由がわかれば、感情に根差した問題を統合的に解決するのに役立てることができる。
このブリッジパーソン、違う業界同士をつなぐ橋渡し役には苦労も多く、刺激的な仕事ではないとしながらも、必要不可欠な存在と話していました。
このブリッジパーソンという生き方は、いろんな人たちの怒りがわかってしまうから、
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ここまで彼の生い立ちだったり、教育をすごくファクトを教えてくれて、一気にすごく哲学的なお話になっているかなと思うんですが、
例えば、アーティストとビジネスパーソン、もしくはエンジニアの違いというところで、コンバージョンという言葉が出たり、ダイバージョンという言葉が出てくるんですね。
コンバージョンというのは集中するとかまとめるという意味で、ダイバージョンというのは分散するとかいろんな方向に行く。
さのうとうのうで考えると、さのうだとまとめて整理したくなるんだが、うのうで考えると感情で、この中でもthey suffer moreというふうに苦しむということをおっしゃっていたんですけど、
感情で感じていろんな方向に分散していくという。
僕もこれ何回か聞いて、今でもどういうことをおっしゃっているのかなというのを考えながら聞いているんですけど、その辺の違いをすごく哲学的に捉えていて、そこを彼は見ているからブリッジパーソンというのができているんじゃないかなというふうに思いましたね。
ブリッジパーソンという生き方はドアだったりドアマットみたいな存在だというのがすごく印象的な言葉だったんですけれども。
どこかにつなげるドアでもあり、なおかつ人に踏まれちゃうドアマットでもあるという言い方は、ある意味ちょっと悲しいところでもあるんですが、そこをちゃんと背負ってそういう役をやっていこうと思うというのは、僕も何かちょっと考えさせられるところがありました。
いやそうですよね。本当にこの部分というのは、ジョン前田さんだからこそというところのお話だった感じがしますよね。
僕もちょっといろんな狭間で生きてきたことはあるんですね。
日本人として16歳から海外に行っていて、英語もネイティブではないので、やっぱり日本語を使いながら英語を勉強していて、そういう狭間でやってきたりとか。
あとその大学の、先ほどお話ししたコンピュータサイエンスをやるっていうのも、途中からこうやって、そのアートとプログラミングコード、コードの間で新しいことを見つけていく。
いろんなもの、分野の間の新しいことを見つけていくっていうのは、なんかちょっと無意識にはやってきたのかなと思うので、今だからこそ彼がやってることと僕がやってることって全然違うことではあるんですが、
アングルは違いますし、僕も意識的にかけ渡しになろうとは思ってはなかったんですが、そういうのは今後もどんどんどんどん必要とされますし、
そして日本が世界でちゃんと必要不可欠な存在になるには、日本と世界をつなげていかなきゃいけないなっていうのがあるので。
本当になんかジョンさんの生き方とレイさんの生き方、すごい私の中で被ってくるなっていう風に重なって見える部分が多かったんですけど。
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ここまでお送りしてきました、レイナモトの世界のクリエイティブ思考。今回はジョン前田さんをゲストに迎え、エンジニア、デザイナー、教育と分野を横断してきたご経験。
またその経験から様々な分野の人たちの気持ちが理解できるブリッジパーソンになったというお話をしていただきました。
なんかすごくこういう越境してる人材の方って華やかに見えるんですけれども、その分の苦しみとか大変さっていうのはすごい切実に感じますよね。だけど必ず必要な存在だ。
そうですよね。確かにその越境するっていうことは、薄っぺらいかとしてはかっこいいっていう感じでもあるんですが、でも実はそれってそういう苦しみを分かりながら分かった上で、じゃあどう越境していこうかっていうことをやってるっていうのは、実際にやるとなるとなかなかハードルが高いことだなっていうのは思います。
いやそうですよね。今は分野横断型のキャリアはすごく珍しいというわけではありませんが、ジョン前田さんまさにその先駆け的な存在でいらっしゃるんだなと思いました。
次回はジョン前田さんへのインタビュー後編をお届けします。
この番組ではリスナーの皆さんからのお便りを募集しています。番組で取り上げてほしいテーマ、レイさんに相談したいことなど、番組の詳細欄にあるリンクからお寄せください。
リスナーの皆さんに番組に出演していただき、僕が直接ご質問に答えるコーナーにしていきたいと思っています。
これはクリエイティブ業界の方でなくても、キャリアに関する悩みだったり、どんな質問でもいいんですよね、レイさん。
そうですね。幅は結構広いとは思います。
竹内さんも今、経済キャスターとしてもご活躍されているわけですし、あと大学院も行かれていることで、今後のご自身のキャリアのこともすごく考えていらっしゃると思うので、
僕だけでなく、ユリナさんの目線からでもリスナーの方々のお役に立てればと思っていますので、そういうのでご相談、ご質問いただけると嬉しいです。
そうですね。わきあいあいとご質問、いろいろ答えていければと思いますので、ぜひどしどしレイさんいただきたいですね。
よろしくお願いします。
この番組ではクリエイティビティを武器に、21世紀を生き抜くヒントをお伝えできればなと思いますので、ぜひご質問やお便りをお寄せください。
出演をご希望の方は、連絡のつくメールアドレスなどのご記入もお忘れなく、また番組への感想はツイッターでもお待ちしています。
ハッシュタグ世界のクリエイティブ思考とつけて投稿してください。
僕に紹介したいあなたの注目のクリエイティブ作品があれば、ぜひハッシュタグ注目のクリエイティブとつけてツイッターで教えてください。
デザイン、アート、テクノロジー、建築やビジネス、映画など何でもOKです。
今後番組でも取り上げていこうと思いますので、ぜひよろしくお願いします。
それでは次回もお楽しみに。お相手は滝口由里奈とレイナオトでした。
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デジタルガレージは、危険な海に最初に飛び込むファーストペンギンスピリットを、創業以来大事にし続けています。
これからくるWeb3、オープンソース時代を見据えた、テクノロジーで新たなビジネスを生み出す仲間を募集しています。
番組詳細欄にあるリンクよりぜひご覧ください。
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