今回も引き続き、松山智一さんにお話を伺いました。
後編では、今開催中の松山智一展、ファーストラストの作品がどんな視点で生み出されたのか、こちらについてお届けします。
僕も松山さんももう20年以上アメリカで暮らしているので、アメリカにおけるリアリティとクリエイティビティというテーマはとても興味深かったです。
では早速いきましょう。
前回では松山さんの東京での初めての個展について色々聞かせていただいたんですが、今回はアメリカにおけるリアリティとクリエイティビティというその現実とクリエイティビティの狭間で生きている我々の立場であるんですけども、
そこをテーマとして松山さんの方からご提案いただいたので、その辺について聞きたいと思うんですけども、まずこのアメリカにおけるリアリティとクリエイティビティ、どういうお考えをお持ちですか。
日本人とアメリカの一番の違いは、価値基準の共有があるかないかっていうところが大根底だと思うんですよ。
要は日本人っていうのは、僕らはニュアンスっていう良い言葉があって、ニュアンスを共有できている。なおかつそれがとってもグローバルで見たときに高いところにあるんで、
ギャン割りして型がないものに対しても新しいねとか面白いねっていう言葉で企画できるんですけれど、
アメリカのクリエイティビティはやっぱり宗教観だったり言語だったり文化が全く違う人たちがいるんで、共感を作らないといけないっていうベーシスが非常に強くあって、
つまりはこれデザインで何かを伝える、アートに何かを伝えるって言っても、よりドキュメンタリー要素は強くないといけない、リアリティベースないといけないっていうところは
こっちに来て感じていて、それを表現者が説明しないといけないっていうことに日本ではくすぐったがられてしまうっていうことはよく感じます。
僕もマーケティング業界にいてよく思うのは、日本のマーケティングだったりとかブランドとか広告みたいな世界に言うと、
いい意味でも悪い意味でも曖昧な表現で結構通じちゃうところがあるんですよ、日本の場合は。
でもアメリカの場合はやっぱりさっきおっしゃられた共通の価値観っていうのが、日本の場合はあるからノンバーバルな表現でも受け入れられる文化ではあるんですけども、
グローバル、そして特にアメリカだとノンバーバルだけだと、え、何これわかんないっていうことが圧倒的に多くて、だからその言葉に頼るところはすごく強いなと思います。
なんか日本の例えば広告紙を見てみても、要はキャッチコピー、例えば糸井重里さんが書いてる言葉ってすごくニュアンスが高いから日本語になってないもので、
あ、これだよね、こういう言葉が欲しかったよねっていうものってこっちを覚えてる人絶対ないじゃないですか。
ないですね。
だから造語を作ってみたりとか、何をはっきり言ってるかがわからないけれど、何かをかたどっているっていう、まあまあ本当にニュアンスなんですけれども、
設計されてない美しさみたいなところっていうことは、日本の文化の中でずっと脈々とあったんだろうなっていうところを感じながらも、こっちはもう本当にもう全部解説的じゃないといけないところはあるんで、
それはでもその違いが良い悪いっていうことじゃなくて、2つの中で表現をできるっていうことはやっぱり自分は恵まれてるなと思うことが最近は多いですかね。
全編でも作品の背景にある考え方だったりとか、どこからレファレンスが来てるのかっていうのがすごく具体的にマスターを持ちたと思うんですけど、
それっていうのはやっぱりアメリカで政策活動をしてきたから、やっぱりそういうロジックがないと表現をしたときに、
ただの曖昧的な理解だけで言っちゃうと、なかなか受けられないっていうところがあって、やっぱりしっかりロジックをまず作った上での最終的な表現になっているところはあったりするんですか。
むしろ真逆でした。本当に感覚的で作りたいと思いましたし、今もどこかで思ってると思うんですが、
アメリカっていう国は、僕らみたいな文化史とか歴史の中で何かものづくりのヒストリーの中にない人間は、
なんで作るのあなたがっていうところから答えていかないといけないじゃないですか。
僕らって当たり前ですけど、ちょっと古い考え方をすると、白人男性史上主義の中でアジア人のマイノリティとして表現をしなきゃいけない。
でもなんであなたたちが表現しなきゃいけないの。私たちが作ってきた中にあなたたちを入れる必要があるんだったら、何を提供しているか証明してほしいというところから始まるじゃないですか。
だから彼らが表現できない、見てない景色、でも見せた時にハッとする。これデザインにおいても、そういう感覚なかったよねとか、
そうやって例えば物だったら無地にしてみても、ユニクロにしてみても、すごくきちんと考えられて設計されて、新しいものっていうのが生まれるっていうのがアメリカの原理だと思うんですね。
それから尾ひれがついていく形で、初めて表現の自由さみたいなものが与えられるんで、僕としても最初にこう書いてると、
でもこれってもう別に、我々アメリカでちょっとでもなぞってると、あるよねと、あなたに別にこんな表現なんてしてもらわなくても結構ですっていう、
常にシャッターを閉じ続けられる、特にニューヨーク、東海岸のクリエイティブコミュニティというのがある中で、
本当に自分でしかできないものって何なんだろうって突き詰めて突き詰めて突き詰めてやっと20年ぐらい経って、ここまでやっていいのか。
あともう一個は表現の領域ですよね。僕どちらかというとサンプリングっていうことはイミテーションじゃないのかとか、
まだ言われるんです、これってやっていいの?とか、人のもの使ってるよねっていうことを恐ろ恐ろやっていって、
代々的にやるほどそれがコンセプトとしてすごく自分のサイドを上げてくれて、それで絵の強さのサイドも上げてくれて、
カラーのサイドも上げてくれて、それを堂々とやり切った。それはやっぱり周りの人もみんなやらなかったっていうことをやるっていう覚悟と勇気が必要だったんで、
それはこうなんか皆さんよくロジックを立てて松山さんってすごく設計してますよねって言うんですけど、
どちらかというと諸星術で生き残らなきゃいけなかった、生き残りたいここで、ここでのクリエイティブが大好きだから貢献したいし、
自分も歴史の一部になりたい、なるためにはいなかったっていう意味で倍の努力をして白人史上の中に王植人として組み込んでいくっていう絶対的な負けねえぞっていう気持ちでここまで来ました。
そこはすごく共感できます。僕も違う業界ではありますけども同じような立場ではあるんで、
何がハンデだったかとか何がハードルだったかとかっていう話をし始めるときりがないと思うんですけども、
逆に白人主義であるこの世界、特にアメリカという社会に生きていて、王植人種であったこと、もしくは日本人というマイノリティであったことが強みになったこのリアリティってあります?
今です。まさしく今です。要はアメリカの歴史の中で、結局今特に対岸でアメリカの文化を作っている人たちは、
多様性というものに対してアメリカっていうのはもうちょっとで50年ですよね。歴史がある中で多様性を受け入れて、マイノリティを受け入れて、移民を受け入れてということで大きくなっていって、
平等というものを追求できる唯一の自由の島だったわけですよね。それが今の様々なコロナの後によって全世界情勢が変わっていく中で、
やっぱりトランプ自身がアメリカという国をもう一回閉ざして国力をつけなきゃいけないんだという発想と、要はコロナの後にブラックライフマターが起こって、その後にアジアンヘイトが起こって、
それでDIってものがあったことによって社会の中で優秀な人であれば平等にいれなきゃいけないっていう、一方で破綻はしてるんですけれども、
そうすると要はちゃんと組織の中、組織っていうのはクリエイティブの組織の中で、例えば僕らの世界だったらサンフランシスコモモの館長がアジアアメリカの在米韓国人の女性なんですよ。
そうするとアジア人も展覧会として見せていく、女性も見せていくとか、あと今僕が話をもらっている中西部の大きな美術館の館長も黒人女性なんですけれども、
我々の黒人はもう今アメリカではマジョリティになったから、違うマジョリティの声を聞かなきゃいけないから松山の展覧会をやりたいって言ってくれたりとか。
要はアメリカっていうものがずっと外を見ていたものが、中での複雑な問題に対してどう見ていいかみんながわからないと。
何が正しくって分断しか起こってないんです。それは人種においても政治においても経済においても世代においてもなんですけれども、
何をとって正義かがわからないから、そういうみんなの声を聞きたいって言った時にやっと僕らが叫び続けたことが、みんなが聞かないといけないというメッセージに点火されたという時代に来たというところでは、
時代に恵まれ出したのかなっていう考える節は僕の中では少しありますかね。
でもそれって言うとあんまり政治的な話に持っていくつもりはないんですけども、今アメリカがさっきおっしゃるみたいにトランプ大統領がこんな感じなんで、
マイノリティに対しての風当たりは強くなるとは思うんですけども、その辺はなんかどうお考えられてます?
なんか結局ね、僕よくみなさんがトランプっていう政権に対して言うんですけど、アメリカっていうのは大統領自分たちで選べるんで、それがアメリカのリアリティだと思うんですけれども、
アメリカのリアリティも何をもって今の方向性になってるかっていうと、これが僕の今回のキリスト教の原理ってものが破綻するっていうことなんですよ。絶対破綻するんでこの考え方は。
要はアメリカファーストって言ったのは、アメリカっていう国が家族っていう単位を強めていかないと団結できないっていうので、アメリカっていう国ができたわけじゃないですか。
なんかそれが結局今の多様性の中で、様々な価値基準の中でこれからの未来を作っていかないっていう中に、要は同性愛にしてみても、ジェンダーが女性が社会に進出するっていうウーマンエンパワーメントにしても、
古い考え方がすると、そうすると家族っていう国力がつかないっていう、人口が増えていかないっていう問題なんですよね。
っていうのが、あともう30年後にアメリカって白人が50%以下になってしまうっていうデータが出てるんですよね。そうすると考え方を変えていかないといけないわけじゃないですか。
そこで結局、じゃあ奴隷制度としてアフリカン、アメリカンっていう黒人の人たちが来た時に、それがアメリカのマジョリティに完全に成り出してまして、
そうすると、その様々な考え方が、アメリカが選びながら何が正義かがわからないっていう状況の中、今はみんなが意見を逆に言えるタイミングでもあるなっていうことを僕は感じてます。
やっぱりこの20年間、本当に何を言っても通らなかったんで、それは僕はもちろん未熟だったっていうことと、アーティストとしてキャリアっていうものの、ちょっとずつ今は届くとこに来れたっていう現実があるんで、
届きやすくなってるっていうのも一方であるとは思うんですけれども、なんかそんな風に感じますかね。なんかアメリカが自由じゃなくなったと思わなくて、
アメリカっていうのはやっぱりどんな状況でも、違う価値基準の人がこれだけいるんで、みんな聞きたいっていう気持ちがあって、僕も聞くんで、こういう風にものを考えるんだと。
なのでアメリカのキリスト教っていう問題が今、分断で問題になってるっていうと、僕何を調べたかっていうと、この間イスラム教とユダヤ教を勉強したんですよ。
要は一神教っていう考え方と日本みたいに多神教の中でヤオロズがいて、それで僕らがもう毎日神様に見られてるんだよって発想がないから、一つの神にお祈りを捧げて、
一つの神に対して良くあれば、価値基準として我々は後世救われるっていうのが一神教の考え方なんで。
全部の宗教がそこを一神教って旧約聖書はみんな同じなんで、モースの10回はみんながお文字出るじゃないですか。
だから考え方の原理が根底は同じだけれども、その中で時によって一神教なんで自分たちの神を守るために殺してしまうとか、
そういう発想っても凶暴な暴力的な発想になってしまう時もあるし、逆に民主性ってものが保たれるっていうところもあるんだなっていう。
本当にすみません、二立愛犯の話ばっかりしてるんですけど今日この2回4回で。
でもやっぱりアメリカンみたいな多様性だったりとか、我々はアジア人としてマイノリティとして戦ってきた身ではありますけども、
やっぱりそこに町山さんがずっと身を置いてたから、それが考えとしてそして作品として現れてるっていう部分が大きいんじゃないですか。
でもなんでニューヨークにいるんだろうって、レイさんなんでいるんですか?なんかやっぱり色気があってセクシーです。やっぱり何かあるじゃないですか。
僕はですね、いるのはなんかちょっと矛盾してるんですけど、住みにくい。全力で生きないと生き残れないから。
でもそれわかります。すごいわかるっていうのが、なんかぬるま絵に使ってる自分がニューヨークでずっとやってると嫌ですよね。
嫌ですし、これは僕は東京という街も日本という国も大好きなんですけど、あまりにも居心地がいいんですよね。
でニューヨークってやっぱりマイノリティだし、どうしてもその人種差別っていうところは避けられない道だし、よっぽど高いレベルで活動していかないと、仕事していかないと生き残れない。
だからその危機感をずっと背負いながら、あえてニューヨークに動いてます。
僕ね、これ最近日本で今展覧会で取材を受けた時に、最初みんなにキョトンとされるんですよ。
霊さん、瞬時にこれ同意してくれると思うんですけど、僕らって生活の延長線上に表現がなくて、表現の延長線上に生活があるんですよ。
今だから表現をし続けて、それでこうきちんとしたところで認知を得ない限り、僕らの生活ってアメリカ人守られないじゃないですか。
いや守れない。絶対。
だから日本にいてこの話をした時にキョトンとされると、え、だって生活することができて、その延長線上に表現というものがあるから、
アーティストの野物性だったり自由だったり、自分が伝えたいことを伝えられるんじゃないのって。
アメリカにいると真逆で、表現がないと生活がない、食べられない。
だから表現というものが自分の中の全部なんで、そんな悠長なことで物を作るなんて発想を一度も持ったことないし、
緊張感をむしろビリビリ感じながら、今日も何かやってやるぞって思える人、思えないけどもう出し切らないといけないっていうのに慣れすぎてるんですかね、僕ら。
そうですかね。お互い同じ時期くらいからニューヨークにいてそれが普通になっちゃってるんですけど、
でもそれがなんかやっぱり僕もニューヨーク一回5年間離れてるんですね。
サンフランシスコ。
5年間、2005年から10年くらいにいたんですけど、やっぱりニューヨークみたいな住みにくいところ、生きにくいところ、戦わなきゃ生きていけないところにいた方が、
自分のセンスだったりとか自分のレベルが磨けられるなと思って、あえて戻ってきたんですよね。
自分の良いとこよりも自分のダメなとこ、常にここって露呈してくれますよね。
お前ここダメだよ、お前ここまだ全然足りてないよっていう、永久に褒めてもらえないっていう。
だから現実的なことを考えると本当はニューヨークって住まない方が全然お金も貯まるし、他に住みやすいところもいっぱいあるし、
安全になったりとか綺麗なところってたくさんあるんですけど、でもやっぱりニューヨークには他にない力があるというか、
あとやっぱりニューヨークでやれればどこでもやっていけるっていう自信にはなりますね。
なりますよね。
あと何なんでしょうね、ここの新しい才能がボンと出てくる、永久に新しいタレント出てくるじゃないですか。
もうデザインは終わった、美術は終わった、アートは終わったって言われても、
突然若い人がえげつない考えもしなくて、コロンブス卵でも何でもいいんですけれども、
うわあそこもうてんでそんなデザインだったり、そんな作品だったり、そんなステートメントあるかっていうの、
本当出てきますよね、アメリカって。
だからもう20年ぐらい前からそういうふうに言われてるんだけども、
でもなんだかんだ言って、みんなニューヨークに何が起こるんだろうっていうのはずっと気にして、それがもう20年ぐらいずっとついてますね。
でもね、そうじゃないですか、だから僕、なんで最初にニューヨークに来たのって質問も最近受けるんですけど、
どの道最後絶対ここって意識せざるを得ないわけですよね。
だから江戸にいたらずっと京都を羨むのと同じで、だからもうだったら本丸に行ってやるしかないじゃないですかって思っちゃったんですよ。
ずっとここに恋焦がれるぐらいだったら、ここの当事者になっちゃって、
こっから世界を俯瞰した方が、瞬時に情報だったりとかクリエイティビティの現場にいられるっていう意味では、
まあ疲れますし、お金もめちゃめちゃかかりますし、
まあそれを投げ打ってでもクリエイターっていうのはクリエイティブを追求していく人種だと思ってるんで、生き物だと思ってるんで、
なんかこれを取っ払おうと思った時には、クリエイターとして第一線は支持を置きたくないんですけど、
そういう時なんじゃないのかなっていうふうに考えますけどね。
それはじゃあ具体的なところでいうと、ニューヨークから離れてどこかで活動するとか生活するとかっていうことですか。
うーん、なんかどういう、見えないんですよ。
なんかここに住んでみたいっていうのもあるんですけれど、
本当にこんなに疲れて毎日嫌だなーって朝起きて作品作りたくないなーしか思わないんですけれど。
そういう時ってあるんですか?
でももう毎朝ですよ、なんで今日も作品作りたいんだよ。
それ、やっぱりね、仕事としてやるとそのノルマに追われてとか、これやらなきゃいけない、あれやらなきゃいけないとか、
で、まあその場合はそのね30人もいるスタジオの経営者でもあるわけじゃないですか。
だから人事的なことに追われたりとか事務的なことに追われると思うんですけども、
ああもう嫌だなって思うときどうやって気持ちを切り替えるんですか?
でもなんか結局クライアントっていないようでいているようでいないんですけれど、
出来上がった作品がやっぱり美術館とかに収められると嬉しいですよね。
歴史の一部になれるっていうところがやっとこんだけやってきた分できるようになったんだ。
要は美術の経験がどっかがわからないですけれども、
それに対して美術館というところがあなたが歴史の一部になったことを認めますっていうことは
モチベーションになり、それでリサーチャーとか入れるっていうのも
何かスタジオ運営するっていう金星的なモチベーションだと
全然ニューヨークに行ってドキドキしなくなってしまって、
どうやったら自分がドキドキするんだろうって思ったときに
美術館で僕が憧れて恋いこがれてきてる巨匠の人たちと一緒に同じ壁に並んだっていうところとかを見ると
やっぱり本当に美術に携わりながら何かメッセージを伝えられるっていう
証言者になれたっていうところが最大の今のモチベーションですかね。
次に登り山はどこにあるんですか?松さんにとって。
ゴールっていうよりは今それが始め出してると思うんですけれど、
うちコロナで13人コロナ前に行ったスタッフが5名まで減ったんですね。
その時にアーティストとしては結構珍しい考え方かもしれないんですけれども、
4年ぐらいのプランニングを立てて30人ぐらいのスタジオにしたいっていう。
コロナを悪とするんじゃなくて、縮小したっていうことは本当に残りたいというコーンのメンバーしか残らなかったんで、
これは成長の起爆剤にしようと思ったんですね。
もう1個そこで決めたことがあって、30人にした時にファクトリー化して作品の枚数を多くするんじゃなくて、
作品の枚数を絶対的に減らしたいっていう思いが芽生えたんです。
それは自分がこのことを追求するコンセプトの作品を作りたいと。
じゃあ30名どうするかって言った時にアーティストスタジオでリサーチャーなんて入れないじゃないですか。
リサーチャーって言っても学校の研究員とかアカデミックな背景を持ってる人を入れるんじゃなくて、
いわゆるグラフィックデザイナーたちを入れて、要はビジュアルのクリエイティブシンキングできる人たちに、
僕は美術の歴史だったりとかカウンターカルチャー、サブカルチャーっていう資料を渡して、
それで1年、2年かけてレポートを書く形で共通言語を一緒にスタジオで作っていく。
スタジオを一つの存在にしていくっていう生き物にしていく、エコシステムにしていくってやり方をした途端に、
やっぱりそれが美術館たちに響くようになって、今回展覧会で対策の中のいくつものも、
世界的な美術館がコレクションしてくれて、それがゴールがないんで1年半まで。
1年半もゴールもないのに売れるかも分からない作品に、やっぱり大金をすごい投じていかないといけないんですよね。
それを何をもって信じるかっていうのは、もう歴史の一部になるっていうところしか僕の中では今も見えてないので、
よりすごい人に響く作品を作って、それで日本人らしくグローバルシティズン的な感じで世界市民である、
そして世界の今の時代だったり文化をきちんと牽引して、そこに対して日本人としてのマイノリティなんて思わず、
自分は本当に今の世界を分かってんだ、ニューヨーカーだぞこの野郎みたいな、ちょっと強気なスタンスで今後発信していきたいなって思いますかね。
やっぱりニューヨークに20年いると自分はもうニューヨーカーだと思い込んでるんで、
なんかニューヨークの文化の一部であるっていう自負をもってでしか今やれてないと思うんで、
なんか憧れっていうスタンスよりは影響の一つであるっていう自意識を強く今持つようにしている。
ニューヨークっていう街は10年いれば誰でもニューヨーカーになれるっていう言い回しがありますけども、
それをねもう2週プラスされてるわけだから。
でもレイさんもですよね。
同じです。
レイさんちょっと聞いていいですか僕も。
うん、もしもし。
僕の場合っていうのはスタジオを全部自分で主催で作る感じになるじゃないですか。
はいはい。
だから僕レイさんの今までクリエイティブディレクターとして所属してたところって大体お邪魔させてもらってるんですよ今まで。
はいはいはい。
なんかその場所が変わった時にどういうモチベーションの変化っていうものを、
ほら自分の会社を作るまでって多分事務所いくつかサンフランシスコ時代ニューヨーク時代も僕いくつか、
サンフランシスコはお邪魔してませんけれど、すごい有名なデザインファームだったりエージェンシーだったんで、
その辺り僕もちょっと聞いてみたいなと思ってたんです。
どっちが先だったんですか?モチベーションが変わって組織を変えて、そっから独立して作られるまでのどういう変歴があってそういう動きを。
ありがとうございます。最初それこそ松さんとお会いした時はまだRGAっていうデザイン会社にいて、
お互い多分20代だったと思うんで、まだまだ自分のポートフォリオとしていろんな仕事をこなしていこうっていうことで結構がむしゃらだったんですね。
そのRGAという会社に所属をして、そこであるプロジェクトをこなして、ただその時ってあんまり良いプロジェクトがなくて、
僕はその会社とは別に個人で複数の友達とデザイン集団みたいなのを作って、別でほぼただの仕事をして、それが自分の作品になったんですね。
20代の最後の時に、そのRGっていう会社にはいたんですけども、それとは別にしてた活動の作品集で、ADCアートディレクターズクラブっていうのがニューヨークにありますけども、そこでヤングガンズをもらったんですよ。
29くらいの時に。
それってデザイン会社の仕事っていうよりかは、自分の個人でやってた活動の仕事が認められて、20代最後の章としてもらったのが一番最初のブレイクスルーで、
そこからようやく会社っていう存在のアイデンティティーと、あとレイナモトっていう自分としてのアイデンティティーがだんだん両立してきたっていうか、そこからAKQに行くんですけども、AKQには最終的には11年間いたんですけど、
その時はAKQAっていうの仕事があったんですけど、僕結構文章を書き始めたんですね。記事を。
それが例えばマーケティングのこれからとか、広告のこれからとか、クリエイティビーのこれからみたいなことを書き始めて、それが会社のクライアントの仕事プラスレイナモトとしての考え方プラスアイデンティティーになって、今の会社を立ち上げられることになったっていうのが、ざっくりと今聞かれてまとめたらそういう感じですかね。
でもやっぱりそうですね、どこかでフィロソフィーが先行していくって、やっぱりとてもそこって、今の話って日本人の人にすごく響くはずなんですよ。これって日本でない考え方で、自分でやってるものをまずフィロソフィー化をしないといけない。
要はなんでここにいるんだっていう、存命証言をしないといけない。だから表現をさせてもらった時に見なきゃいけないんだよっていう、自分をある種ストーリーの主人公として見せなきゃいけないっていうところって、やっぱりナチュラルにレイさんもしてたんですね。
そうですね、今意外な質問をされて考えてみたらそういうところあったんだなっていうのを言語化していただきありがとうございます。
なんかクリエイティブの表現者ってクリエイティブの表現者以外のところで、その人の骨格だったり根幹が見えてこないと、アメリカみたいな場所ってすぐにやっぱり上書きされてしまうんで、何か絶対的なものって、ジョンにしてもそうじゃないですか。
なんか彼の持っている一つの哲学の中で、彼が携わったブランドたちがすごくなっていくけど、やっぱりジョンがそこにいたんだみたいなのって見えてきたりするじゃないですか。僕もすごい影響を受けましたし、彼がワイデン、日本でやってるとか。
なので、そういうのが見えてくるっていう文化に僕も初活されて、たまたまアウトプットが美術になったんですけれども、僕もプラットでデザインを勉強したんで、レイさんの働いていた事務所にしても、ヤングガンズにしても、僕も舐めるように昔ずっと見てたんで、この話はすごい楽しいです。