はい。
先月から始まった松さんの日本で初めての古典っていうことですよね、今回は。
青森県の美術館では1年半前に開館した東京ですね。
東京で初めてなんですね。
なのでその古典についてちょっと最初お話を聞きたいなと思うんですけども、そのファーストラスト、最初で最後というテーマの古典なんですけども、まずそれを少しご説明いただければと思います。
なんかこう、ニューヨークにいると色んな重層的な意味が僕らって持ってここで表現してるじゃないですか。
でも1番は最初で最後みたいな感じで、0番も僕と同じくしてどちらかというと活動の根幹というか起源がアメリカで始まってるじゃないですか。
そうですね。
だからこう日本で初めての表現者が日本という距離に対しての接点の取り方って僕らと共通して結構難しくなかったじゃないですか。
どこまでが日本人でどこまでがアメリカ人なのかみたいな結構微妙ですね。
あともう一個デザインポイントにしてもアートプロジェクトにしても、両方僕知ってるんですけど、日本って結構やっぱりポイント認識が非常に高めじゃないですか。世界の中でも。
高いですね。
だからそこの中で育んだものがない人間にとって、実は我々の母国ってすごく遠くなってしまうっていう。
よくわかります。
私が愛を送ってもなかなかその愛に対してリターンが得られないっていう。
で、我々は海外で旅を進んでいって知られていっても、なんかどっかで日本人と思われてないんじゃないかなみたいなアメリカで活動してる不安が揺りってしまうっていうところを今回払拭したいという気持ちがあったんですよ。
なんか本当はもっと早くやれればやりたかったって気持ちがあったんですが、四半世紀近く23、4年経ってやっと東京で大きいデザイン展開ができるっていうことに対しての、これをもって本当に日本でやれたんで、東京でやれたんで、僕の出身地でやれたんで、もう以後は世界で思いっきりやりますよっていう自分に対するステートメントでもあったんですよ。
なるほどね。じゃあファーストであり最初であり、ある意味最後かもしれない、じゃないかもしれないけど最後でもこれがもうこういうステートメントなんだっていう表明ってことですね。
もう一個多義的な意味があるって言って、実はそっちがコンセプトの根底になってるんですけれども、一つ聖書の言葉でもあるんですよ、ファーストラストっていうのが。
うちの父が牧師なんですけれども、僕は幼少期にアメリカに来た理由が、父が聖書についてきちんと科学的に研究をして学びたいっていう学問としての聖書学をやるために来たんです。
僕はある種キミスト教の英才教育をかけ込まれるって言い立ちがあるんですけれども、その中でちょっと引用した言葉があったんですけれども、
それが宗教的じゃなくて、気がついて振り返ってみると自分の信念化してる部分に通じるところがあったんで、ファーストラストって言葉を使ったんですけれども、
その言葉っていうのはどういうことかっていうと、ファーストラスト、イエス・キリストが自分の主に使った言葉なんですけれども、最初のものが最後になり、最後のものが最初になるっていう意味の言葉なんです。
これは宗教に対する投資利益率がないっていう意味なんですよ。つまり弟子たちがキリストに対して、我々は自分の全部投げ打って、イエス・キリスト、あなたについてきたから、我々は代わりの評価として大優弁者になれるんですよねって確証が欲しかったんです。
そういう宗教っていうものはキャリアに基づいたものじゃなくて、だからあなたたちはどれだけ投資しようが、そこに利益率はゼロだよと。そんなことよりも、あなたたちはこういう宗教っていうものであって救われたわけでしょ、若いうちにと。
一方で、あなたたちはこれから多くの信者を作らなきゃいけないんだと。あなたよりも遅く死ぬ間際にイエス・キリスト教っていうものを信じて救われるっていうことがあるとすると、彼らが最初に救われるべきだと。
なんでですかっていうと、基本主義の理論でいうと、だって彼が死ぬまでに信じたから、それで同じ領土の評価違うじゃないですか、我々は一生懸けてやってきたのにと。
そうじゃなくて、あなたたちは出会った瞬間に救われたのと。そうじゃない人たちは死ぬまで苦悩の中で生きてきたわけだから、苦悩の中で生きてきた人が報われるべきだと。
僕、ニューヨークに来て二十何年間、地獄のように二十何年間だったので、教化されなかった。
要は、未開業を求めてアートをやっても食えないっていうリアリティをどう乗り越えるかっていうと、情熱とファッションでこれをやるんだっていう使命としてやらないと、
ニューヨークの場所ってクリエイティブが私立な共闘で、お互いに組み合って我が身、自分が成功すればいいみたいなところで、
当たり前のように資本主義の公明の中で我々はキャリアを作っていくっていうリアリティに、僕のアートっていうものが宗教としてじゃなくて、自分の信念の中でこれは人生を賭けてやるものなんだって決めて、
約二十何年間、最初で最後に統計を渡る段階だという、ダブルビーニングを込めたタイトルなんだ、これ。
なるほどね。だから宗教的な意味と、それを自分の人生、自分のキャリア、二十数年間積んできたキャリア、これが日本で、生まれた東京でこういう形で表明できるっていう、そういうことですね。
要は住職の息子って、生まれてこの環境に生まれてしまったっていう選択肢がなかったっていうリアリティも近いんで、なので教会に行くことがどうこうってことすら考えないですし、
小っちゃい頃から国語、算数、聖書みたいな感じだったわけですよね、僕の性格の中で。だからそういう教義の中で、気がついたら知らないところで、もしかしたら信念してるっていうところはあったのかなっていう。
宗教的な、この展覧会をテーマにすることによって、宗教性っていうのは全く真逆で、今アメリカにおいて、後で話したい、キリスト教の原理によって破綻しなしに瞑想しているアメリカの多様性みたいなところに対しては、僕も思うことがたくさんあるので、
もうアメリカ回ってねぇぞ、その考え方っていう。なので僕の中でやっぱりすごい、この根幹にあるものがアメリカの今の光の闇みたいなところがあるってことは、
いろんな人の言語であれば、世界言語に変えたいな、今を捉えたいな、現代美術作家として、って思ってこういうタイトルにしました。
あとその作品いくつか見てみると、例えばそのタイトルの付け方、たとえばWe the peopleとか、あともう一つ、これ僕検索しなきゃわからなかったんですけど、カタルシスとメタノイアとか、結構複雑というか難しいタイトルだなって印象としては思ったんですね。
そういうところに込められた思いっていうのは、その例えばその2つの作品を取るとすると、どんな思いがあるんですか?
なんかこう、We the peopleってアメリカが敵を分裂するために、要はこれから貴族、宗教を使って国を治めていって、結局、権力だったり富の、代々としての、地面としての政治になってみたいなところを、
いわゆるブルジョワっていう市民革命を起こして、市民によっての参見ブリーズを起こして、平等な街を作るんだってできたっていう理念の中のWe the people。
We the peopleってこれ、共産党からとっても危険な発想で、アメリカっていう国は、ある程度の人数が決まって、賛同しますっていうことをやればそれを可決するっていう、
仕事の中でそれを食い食い入れるか入れないかっていうことをしなきゃいけないっていう法律があるんですよ。これ、どれだけふざけてるかっていったら、ある、今は何十万票とか、ちょっと今日ちょっと忘れたんですけれども、声を集めて、
これが必要だって言うと、一応本当に連合の中で協議が行われるんですけれども、かつてスターウォーズのベストスターは作らなきゃいけないって言って25万人ぐらい賛同が集まって、
作るか作らないかっていうことを連合で協議するっていうぐらい、アメリカってまさげな国があるわけですよ。
そこにはみんなの意見を通すっていう熱い魂が込められてるんですけれども、一方で何十万人か何百万人の人が集まって偏った意見を言ってしまうと、
確かにこの間のトランプ政権がDIYにしても多様性にしても、ジェンダーマイノリティに対して無視するっていう権力行使ができてしまうっていう、両極をはらんでるアメリカっていうところでは、
We the Peopleっていうタイトルにしたりだとか、もう一個のカタルシメタノイアっていう作品は、まさかにとても日本とアメリカに全く異なる見解がある。
洋島の成長期っていう写真があるんですけれども、日本ではアメリカが洋島っていう場所で、アメリカの人参が作って成長期を勝てるっていう写真なんですけれども、
それがタイムラバージンの表紙になって、要はアメリカの当時のプロパガンダで、日本が敗戦する前にアメリカが勝ったっていうための、いわゆる商材ツールとしての写真で、ピリッド賞かなかを取った写真なんですけれども、
その写真が、アメリカでは確かに日本っていう国が敗戦国としてのリアリティはあるけれども、世界GDP2位の国にして、世界で最も平和で安心して暮らせる国にしたって、アメリカの誇りでもあるわけですよね。
言ってしまえば、世界警察であるっていうことの裏腹の部分で、これだけこの小さな国をとてもちゃんと世界統治の中で幸せにしたっていう、我々の一つあり方っていうものを証明するっていうイメージなんですよ。
でも日本ではあれって、あれがあったことによって敗戦とすごい強いイメージがあって、飛沫国の象徴みたいなイメージもついてしまってるんですけれども、
アメリカにいると、我々が知っている意識が一つのイメージだったり、言語じゃないところの差異っていうものがあるっていうものを語る希望になると、僕はそういう気持ちが強いんですよ。
それで語る人たちだったら、メタノイアっていう自制的っていう言葉を掛け算的にして、何か僕だって、多分レイヤーさんもそうなんですけれども、アメリカ人じゃないんですけど、僕は異常性なんで。
だからアメリカで生きてる誇りみたいなところと、日本人の誇りっていうところと、アメリカで暮らさせてもらってるっていうところと、日本に帰らないっていうところの宣言のアイデンティティって、この写真を見たときに、両方の視点が僕理解できるんですよね。
だって日本でこれできなかったから、アメリカっていう国で平等性の中で、僕はチャンスがあったわけですよね。
だからこのDIの中だとダイバーシティがあって、イクイティとイコーリティがあって、イクルーシェルがあるって、アメリカの原理が我々を受け入れてくれたんですけれども、その中で表現を続ける大変さもストレスも非常に高いじゃないですか。
そうしたものを美術っていう言語をはらんで、ビジュアルがすごく強くて美しくて、何か日本人としてアメリカってこういう目線もあるんだよっていう、一人で僕、アンチトランプだけでもないんですよ。
今これからの未来に対して一流あるんですけれども、多くは反動していないんですけれども、言い方ってこういう二つのいろんな言い方があるんだよっていうのは、やっぱり言葉とか言語って表現としてかたとってしまうと、
一つの意見っていうものがこれに固まって伝わってしまうということは、美術作家としてアートを作る非言語の領域と戦っている人間からすると、よくよく伝わるので、
何かこういう世の中の今のリアリティーを短期的に絵画場、キャンバス場におけて、何かみんながメッセージを、僕の絵を見た上で完結してくれるストーリーの狙いかなと思います。
そうですね。だからいろんな世界が共存、やっぱりそれって絵じゃないと表現できないって感じじゃないですか。
で、もう一つのカタリジスとメタノイアっていうのは、これ日本語で調べてみると、心の開放と意識の転換だったりとか、精神的変容とか、いくつかの略し方が出てきたんですけども、
何かそれもアメリカ軍が洋島で建てたアメリカ国旗の絵と、その奥にいろいろ繰り広げられる日常的な若者が座っているものだったりとか、いくつの世界が共存しているっていうのは、やっぱり絵じゃなきゃ表現できない世界。
その中に目で見て感じるメッセージっていうのと、今松さんの話を聞いて、そういう思いがあってこういう絵になってるんだなっていう、いくつかのレイヤーで絵を見れるっていうのは、
この番組聞いてくれてる人もそれを聞いてまた見ると、何か違うレイヤーの理解ができるんじゃないかなと思いました。
ありがとうございます。少しウィーザーピークルの作品をリスナーの方にどういう作品かっていうのをご紹介させていただきたいんですけれども、
なかなか絵っていうものを言葉でしゃべると、僕がやろうとしていることがなかなか伝わらないので難しいんですけれども、
内容よりはどんなふうな作品かというと、7メートルくらいある作品で、作品制作自体は1年以上かかった作品なんですね。
僕のアトリエは30名くらいのスタッフがあって、だいたい半分のうちはリサーチャーチームなんです。
だから作品を描き出す前に、リサーチ期間というものは半年くらいあった作品なんです。
それで今あと13名くらいの絵画制作チーム、自分を交えて、その作品を7ヶ月くらいかけてうだいたった作品なんです。
これはどういう絵かというと、僕の作品の制作方法、コンセプトの根底にはパンプリングっていう文化の影響が強いんですね。
これは僕が90年代にアメリカに来る前に、我々の国内で育まれた言語で、情報課題になってインターネットの幕開けがあったぐらいに、
さまざまな情報がすぐに救い取れるようになったことによって、クリエイティビティの領域が少し広くなって、
要はエディット、編集する、DJする感覚でAの情報とBの情報を組み合わせたときに見えてくるストーリーは何なんだろう、
要は今のスポーティファイとかでも、一曲一曲じゃなくて、セットプレイによって30分の時間で自分の個性を表すっていう、
DIYに基づいた自分のメッセージ性みたいなものが、我々のクリエイティビティの新しい影響源になったんですね。
僕もそうした感じで自分の作品というのは、僕は独学の辞書っていうバックグラウンドもあるんですけれども、
パンプリングをすることによって一つの絵画を作っているんです。
なので僕の作品というのは、ほとんど日本の古い業部のトパ派だったりカノン派だったりから、
ルネンパースの絵画から、19世紀、18世紀のフランス絵画から、ニューヨークで家族もあるポップアートから、
まさしく今僕らがやっているコンシューマーカルチャーというもので、日常に囲まれている商品だったりロゴだったりデザインみたいなものを、
全部影響のある一つのキャンバスの中に落とし込んで、いわゆるプレイリストみたいな感じの物語を綴りたいんです。
その作品は、メトロポルトナル美術館が保管している、ソクラペスの死という、
ジャクル・イタビットというフランスの著者が描いた作品を場所買いしているだけなんです。
それはどういう作品かというと、ソクラペスは死刑宣告を受けるんです。
ソクラペスは哲学者なので、若い青年に新しい思想を洗脳したということで、
不秩序、要は社会の秩序を乱したということで、不敬心、神を裏切ったということで、
二つの刑を言い渡されたんです。
一つは島流しになって、後世留罪で孤独で死ぬ、もしくは毒薬を飲んで尊厳して自害する。
本人は僕は洗脳はしないと、哲学者なので、もうだったら私は尊厳死をもって死ぬと言って、
それで毒草を飲むんですけど、周りには奥さんとか自分の弟子たちがいて、
投げている景色なんですけれども、そこの背景にアメリカのスーパーマーケットがあるんです。
片方はシリアルとか、いわゆる砂糖という栄養価がほとんどないものを超加工食品にして、
要は砂糖というものにコンフレークとか、いわゆるシリアルというものがブワーと並んでいるアメリカのコストコみたいな、
無数にコンフレークが100個、200個並んでいる棚があって、
もう一方の棚には、一定投資になって、すごいパースト効いているようなんですけど、
もう一方の棚にはアメリカの浸透剤だったりとか、さまざまな薬品ですね、
農業病とかに対する薬品とかが並んでいるんですけれども、
何を捉えたかというと、毒をもって死ぬトクラテスというのを、
今の現在の毒は何かって考えたときに、
アメリカでは生活習慣病というところで砂糖というのは大きな社会問題になっているわけですけど、
アメリカはスーパーマーケットでキャラクターを使ったり、ロゴを使ったり、
ブラッシーなすごいビビッドなカラーを使って、商品化してコンプレートアイデンティティというブランディングによって、
砂糖を触数、一人のストーリーを作るわけですよね。
そうした形でジャンフードだったり、さまざまな合理化されたアメリカの社会の中で、
食事を触数ということをすごくクイックにするために、
そこに一つのコンプレートが入ってきて、産業化して砂糖を摂取すると。
そこでアメリカの生活習慣病が広い問題になっていて、
アメリカの一つの大きな問題で肥満であることが大きな問題になっていて、
また今度スーパーマーケットに戻って、隣かにブランド化されたアドビルにしても鎮痛剤にしても、
さまざまな薬を持って自分を治そうとするわけです。
その絵の中にはスーパーマーケットでストロベテスの絵をただサンプリングして置いただけなんですけれども、
アメリカの資生館のサイクルが描写されているんですよね。
なぜかというと、そうやってファーマーシーに行って薬局に行って、
例えばアメリカだとマイケル・ジャクソンとかエレベーター・プレスリーは、
そういう鎮痛剤中毒になって亡くなってしまっているんですよ。
だからある種薬だったりがブランディングされて、
例えばブランディング化されて、
それで結果的にそれが人間にとって大きな毒になってしまって、
我々自ら自分のエネルギーを買ってしまって。
一見アメリカは非常的に見えるんですけれども、
レイさんこれ僕もいつも狭いなスーパーマーケットで商品に囲まれると、
アメリカってドキドキしますよね。
いや、ドキドキします。
僕もデザインを勉強したから、
このデザインでどうやってカスタマリーにリーチアウトできるかというのを
真剣に考えて作っているんです。
プロが作ったものはやっぱりメッセージが響きより設計されてくるじゃないですか。
だからアメリカに来るんじゃなくて、僕スーパーマーケットに行くと、
資本主義の中で頑張っている自分からすると、
アメリカっていう場所で成り上がってやるんだっていう、