そうだね、でも最初に帰ってきたシーンでさ、隣りんちのおばあさんがさ、なんで帰ってきた、みんな死んじまったんだよって、主人公のことを、
出席しますよね。
そう、出席するシーンがあるんだけど、直接的にああいうことを言った人がいたかどうかはわからんけど、結局その戦後のさ、全然別の映画になるんだけどさ、この世界の片隅に、
僕の結構大好きなアニメーション映画があるんだけれども、あれを見てると、やっぱり多くの日本人たちっていうのは、あの当時、僕らから見るとちょっとおかしな世界っていうふうに見えてしまう面もあるんだけれども、天皇万歳、日本が勝ってるってことを誰も疑わず、
日本のためにこう、日本でできることを頑張ってやっていこうぜっていうような、すごくすごく、ある意味こう、盲目的に戦争に対して取り組んでたっていう面も確かにあったと思うんだよね。
そういう人たちからすると、やっぱりこう、帰ってきた兵隊っていうのは、に対する思いって、もしかしたら直接的にはぶつけてないかもしれないけれども、なんで帰ってきたっていう思いを持ってた人っていうのは、やっぱり一定数、よく帰ってきたね、お疲れさん頑張ったねって、
心の底から言えた人って、少なかったのかなーとかっていうのをちょっと感じたんだよね。
特に戦後の資料とかを見てるとさ、帰ってきた兵隊さんたちがルンペンになってたりとか、物漏りをするような写真とかっていうのが結構残ってるじゃないですか。
本当に戻ってきて、何か事業を始められたとか、成功者になれたっていう人とか、まともに働いて修正を迎えたっていう人ももちろんいるんだけれども、その一方でやっぱり、そういうまともな職に就くことができずに、
不老者として、いわゆるホームレスとして過ごすっていう人も一定数もいたっていうことを考えると、やっぱり世間の目ってものすごく冷たかったんじゃないかなって思うんだよね。
ある意味では、生きる目的っていう看板をいきなり外されることの苦しみだと思うんですよ。やっぱり今回のテーマは生き残ってしまったことっていう、生き残ったことへの罪悪感っていうものを今さっき言ったばかりなんだけれども、同時に僕はそこもすごい感じていて、
生きるっていうのは何か目的があって叱るべきなんだよね。実際こうして見てみると、戦争においては役割っていうのははっきりしていたわけだ。生きる目的っていうものは、自分から探さなくても提示されていたんだよね。
例えば四季島においては、特攻で命を散らすという目的があったわけだよね。ところが彼はその目的から逃げてしまった。そんな中、戦争は終結してしまう。彼はだから本当に完全に生きる目的っていうものをもはや持ってないんだよね。
でも自ら死ぬこともできない。怖いから。そうなってくると、じゃあ一体何のために俺は生きているんだ。彼の価値が言えることはないんですよ。なぜなら自分の目的っていうものをすでになくしてしまっているからなんですよね。
だから、戦争みたいな異常な状況において、人々がなぜ一致団結できるのかっていうと、やっぱりそこに大きな目的っていうものをデーンと据えられて、そこに走ることを余儀なくされるからなのかなっていうふうに思うんです。
そういう異常な状態で一個のものに必死にさせられてきたにもかかわらず、急にそれを外されてるわけだから、一体何をしていけばいいんだと。
一方で着実に命を散らしていって、国のために命を散らせと言われて、国のために命を散らしていった英霊たちがいるわけですよ。それと自分を対比させてしまうわけですよね。
そこなのかなっていうのはすごい感じました。だから結局俺の戦争が終わってないんですよのセリフに繋がってくる。
あと、まだ許してくれないって言うんですかっていうあっこだよね。
結局自分たちは目的を果たしたよっていうふうに彼には語りかけてくるわけですよ。
亡くなった人たちの写真の一枚一枚が。お前はどうなんだと。お前は目的を果たすのか果たさないのかと。一体何をしているんだということになってくるわけだ。
自分から死を選べない以上、彼らは何かしら生きる目的っていうものを見つけて、それを達成しないといけないわけですよね。それが生き残った者の責務だとおそらく思っているから。
でもそれが結局何なのかわからない。命を捨てる覚悟はいつまでもつけられないわけなんだよね。
ここで僕がすごいなって思ったのが、これがもうとにかくひたすら言いたかったんですけど、ゴジラとのラストバトルのシーンが本当に象徴的だったなっていうふうに思ったんですよ。
目的を失った者たちが改めて自分の目的っていうものを見つけて、それを乗り越えていくストーリーなわけなんですよね。
そう見た時にですね、乗った飛行機神殿じゃないですか。
神殿だね。
あれがですね、非常に面白いなと思ったんですよね。
そうなの?
結局戦争に間に合わなかった機体なんですよ。本編でもちょっと言ってたかもしれないですけど。
ああそうだね、言ってたね。幻の機体でみたいな。
試作機は作られてました。でも本当に試作機を作ったところで終戦だったと思うんですよ。
それがですね、要するに目的がないんですよ、神殿にはもう。
そっか、神殿もまた目的を失った存在なのか。
そうなんです。
そこはね、全く考えなかったわ。
そこなんですよね。とにかくね、神殿は本当に象徴的だったなっていうふうに思いましたし。
何よりですね、神殿の造形って非常に面白くてですね、ゼロ戦ひっくり返したような形してるんですよね。
後ろに、お尻の方にプロペラがついてるっていう特殊な飛行機でしょうね。
鼻先に尾翼がついてるんですよ。だからもう本当に完全に後ろ向きに走るゼロ戦みたいな感じなんですよ。
そうすることでね、得られるメリットとしては、機関銃撃つときにプロペラを考慮しなくて済むっていうところですかね。
でもそうだよね。
昔のはプロペラが回ってるから、高度な整備によって撃った弾丸がプロペラの間を抜けていくようになってるんですよ。
凄まじい技術なんですけど、それはそれで。
紅の豚でもそれ言ってた気がする。
だから神殿は結局それが全く関係なくなります。後ろにプロペラがついてる。
でもあの造形も面白いなっていうふうに思って。
これも一つのメタファーとして捉えることができるのかなっていうふうに思うんですよね。
ゼロ戦で命を散らすっていうことを目的にされていた主人公が、
そういった神風特攻の象徴となった機体と真逆の形をしている乗り物に乗って、最後生き残るための戦いに出ていくっていうね。
あれも完全に全てオポジットしているような、完全に真逆の設定で真逆の造形の機体に乗っていくっていうところも非常に象徴的だったなっていうふうに僕は思ったんです。
これは神殿はめちゃくちゃ素晴らしい選択だなっていうふうに思います。その2つの意味でも。
なるほどね。僕は神殿のことを考えなかったからさ。
特にこの監督自体は永遠のゼロを作った監督だからさ、その辺の機体とかにすごく詳しいし、種類とかっていうところも詳しいんだろうけど、
でもゼロを描いたからこそゼロ戦なんで使わないのかなっていうのをちょっと疑問に思ってたのよ。
なんで神殿って初めて聞いたなっていうのが今なんかスッキリした。
っていうところがすごいなと思ったんですよね。さらに結局この戦いでもってですね、主人公は結局今まで自分の命を散らさなければならないと。
大きな大きな大義に向かって突き進み、その大義のために自らの命を散らさなければならないと思ってきたところに、
最後生きるための戦いっていうものを橘の脱出装置によって提示されて、それを掴むことを許されたわけですよね。
それが結局主人公そのものが一つのメタファーになっていたんじゃないのかと思うんですよね。
主人公の名前何でしたっけ?
四季島。
四季島なんですよね。四季島って一応ですね、一つは四季島っていう名前の戦艦があるんですよ。
戦艦四季島あるね。
あります。戦艦四季島は日露戦争の時に活躍をした戦艦なんですけれども、結局装備も二次大戦の頃には特に古くなってますし、
第二次大戦には参加してないんですよね。
だから演習機として、訓練のために使われる戦艦として使われていて、
結局二次大戦が終了した後に、日本軍が解体されていく中でその役目を終えていくと。
結局最後の戦いには参加しなかった艦の名前なんですよ。それもある種象徴的ですよね。
しかもさっき演習機として使われたっていうところだと、四季島は演習の時は超高成績をやってたっていう設定だったもんね。
彼は結局訓練だからできる、結局でも本来的な目的を果たしていないんですよ。
っていうふうに考えると、戦艦四季島もまたそこに乗っかってくるんじゃないのかと思いますが、
要するに死に場所を失った個体なわけですよ、四季島っていうのは。
結局死なないまま戦を終えていくわけですから。
そういった意味でも、神殿とさらに四季島っていうのが乗っかってくる。
さらにですね、そもそも四季島っていうのは日本の国語の一つでもあるんですね。
そうなの?
そうなんです。四季島っていうのは日本列島を表す言葉なんですね、もとより。
そもそも大和の枕言葉にもなるんですよ。四季島の大和。
大和の国の四季島の道の略って書いてある。
要するに敷き詰められた島みたいな感じじゃないですか。
列島です。古い国語ですね。
そうだったんだね。
それをイメージソースにして、日本海軍の戦艦の四季島も名付けられていたりするんですよね。
だからということは、主人公四季島っていうのは日本のメタファーなんですよ。
そうやって考えてあげると、何もかもにがてんがいくと思いませんかっていうことなんです。
なるほどね。
よくよく考えてみると彼は死に場所を失って、どうやって生きていけばいいのか。
あるいは自分は死ななければならないんじゃないのかっていう、ひたすら申し訳なさとともに生き続けてきているんですよね。
これって本当に戦後賠償っていうものの中で、申し訳なさっていうものを国民の総意としてずっと胸に抱いて生きていかざるを得なくなった日本とすごくかぶってくるように僕は思えるんです。
さらに言えばですね、結局戦後の日本っていうのは、それまでずっと持ち続けてきた一つの目的からですね、
いきなり解放されてですね、外から入ってきた民主主義によって全く強制的にパラダイムシフトが引き起こされるっていう非常に大きな転換を得たわけですよね。
その中でやっぱり戸惑いは絶対にあったと思うんですよ。
それもまさにこの主人公の四季島が持っているような、何のために生きるのかを見失っている日本っていう。
ここにものすごく重なってくるんじゃないのかなっていうふうに思うんですよね。
ちょっと余計な知識踏み込んでいい?
その四季島っていう名前が出てきたのって、読み方忘れちゃった。
金明天皇の時なんだよ。
金明天皇の時は、これ日の取り知識だから、手塚治虫のオマージュ的なやつだったら大変申し訳ないんだけど、犬神編の時なんですよ。
犬神編っていうのは何かっていうと、くだらの国から仏教が伝来して、原始神教と仏教との狭間で妖怪の世界と人間の世界で大戦争が起こって、そこに日の取りが絡んでっていう。
そういう日の取りの犬神編っていうのがやるんですよ。
だから現代の戦争の時代では、新しい文化っていうところが入ってきての混乱だし、
元々の四季島っていうのが言われた時代では、新しい仏教っていう価値観と、
元にあった日本の神道っていう価値観っていうところが、ぐちゃ混ぜになった時代の根明っていうのも、ダブルミニングだったのかなって今思ったっていう。
あ、なんか微妙な顔してるからね。
いやなんかそんな、どうなんだろうなっていう。
そっか。僕が思い出して、ニコりしちゃったっていう。ごめんね。
いや全然いいんじゃないですか?リスナーはうんうんって頷いてるかもしんないしね。
そうだね。日の取り読者はファーってなったはず。
まあ都画ですね。そういったところを考えますと、非常に四季島は日本そのものなんじゃないのかということなんですよ。
日本はどう生きていけばいいのかというね。その中で最後、結局生きるためにもう一回立ち上がるんですよ結局。
ゴジラっていう荒見玉を沈める戦いの中でね。それが結局一つの乗り越えること。逆境を乗り越えること。
レジリエンス?
レジリエンスするみたいな。そういうことになってんだろうなっていうふうに思ったんですね。
同時に、こういう戦争の中で人々がどういう苦悩を経て立ち上がっていくのかっていうのに、今この現代で濃々と生きている自分を重ねるのって非常に難しいよねっていうところはあるんだけれども、
でもそれがなぜか普通にできちゃって泣けてきてしまったっていうのは、ある種ですね、我々が今生きている中で感じている生きづらさっていうのとすごく重なる部分があるからかなって思ったんです。
それは一体何かっていうと、我々に生きる目的っていうものは提示されてないからなんですよ。
ここが本当に難しくて、今本当になぜ生きるのか、何のために生きるのかっていうのを自分で決めていい時代になってるんですけど、
ところが、日本っていうのは結局戦後のぐちゃぐちゃした時代を経て、国として国民の根っこの部分で人々の意識を支えているような統一した何かがなくなってきちゃってるんだよね。
それが一つは、国民の中に基本的な、例えばキリスト教の国家だったらキリスト教の基本的な概念っていうものがそこの方で生きていて、
だから何も与えられなくても人々が生きるというのはつまりこういうことだよねっていう根っこの部分はみんながなんとなく知ってるんですよ。
それは別に唯一の正解ではなくても、そこを基盤にしているから自分の生き方っていうのを見つけやすいんじゃないのかなっていう気がするんだよね。
ところが日本はもちろん生活文化の中で儒教的な意識がまだ残ってるよみたいなそういうレベルの話はあるんだけれども、
ただやっぱり戦争の中で神道っていうものが日本の政府に利用されて国家神道という形でぎゅっと、
明治天皇から続いてくる近代の天皇系を主軸にした一つのストーリーの中で一統一がされて、それがいきなり粉々に破壊されるわけじゃないですか。
そうですね。
ってなると結局、何を拠り所にしていたのかっていうところの一番の土台が破壊された状態で、今日本人っていうのはこの地に立ってるわけで、
そうなってくると結局、国家神道よりも以前からあった神道そのものですよね。
そういうのの教えとか話を聞いてもどこか遠い物語のように響いてしまって、自分たちと直接的な繋がりがあるように感じられない。
そういうところの自分たちの拠り所ってどこなんだろうっていうのを見失ったまま、じゃああなた好きに生きてくださいって言われたときに、僕らはどうやって自分の生きる意味を見つけたらいいんだっていう。
そういうところの戸惑いをものすごく重ねやすかったんですよ。
確かにね。しかも日本って多分、戦争によって意思統一を強制させられて、しかもその統一された意思っていうのが全然違ったぞっていうところを、
強く強く強く突きつけられたからこそ、意思が統一されることに非常に嫌悪感を覚えている気がするんだよね。
必要以上のリスク感をなんとなく自分たちで持ってしまうってことだよね。
そうそう。だからこの、例えば何かに大多数の人間が熱狂するっていうのって、なんか一歩引いちゃうのが日本人かなっていう気がするし、
日本人が宗教善としない宗教を信仰しているっていうのもそこの原因が非常に強いんじゃないかなって、今思った。
それはあるかもしれないね。なんかライブのノリ悪いもんね、みんな。
そうね。アビル・ラビーンが何言っても、日本人が理解してないからとりあえずイエーって言っておけばいいっていう。
みんな英語わかってる?イエーイ!わかってないでしょ?イエーイ!みたいなさ。
まあそういうところとすごい重なるなと思ったんですよね。
そんな中で結局主人公は、自分が生きる意味ってここなんだなという。
生き残った者たち、まだ自分の手で救える者たちのために戦うんだと。
そのために自分の命があるんだと覚悟を決めて、
自分の生命も共に救おうとするというその姿に、
ああ生きるってこういうことなんだなと。
何かこう揺さぶられてしまうわけだよね。
だから自分にも何か生きる目的っていうものがどこか見つけられるかもしれないっていう期待をすごく持たせてくれたんですよ。
それこそ、自分は戦時中の人間でもないのにも関わらず、
戦争を経験した人間でないにも関わらず、
それこそ戦争を経験して初代ゴジラを見た人たちがそこに何か癒しというかね、
魂の浄化を感じたのと同じように、何か自分が現れたような感覚を覚えてしまったのが、
これ迷子児のマジックなんだなというふうに思ったんですよ。
そうだね。
加えるとしたら、さらにご都合主義のエンディングじゃなかったっていうのも、
僕らへのメッセージとしてはすごく強かったなって思った。
はいはいはい。と言いますと。
バッドエンディングじゃん、これ。
はいはいはい。最後のノリピーのね。
生きてたけどねっていう。
そうそうそう。
し、四季島はゴジラの銀座の爆発によって黒い雨を浴びていると。
うん、そうね。
だから無事なのはノリピーじゃなくて、かよこじゃなくて、
秋子。
秋子じゃなくて、秋子、そう。
秋子以外は全員被爆していたりとか、
なんだかの身体の状況っていうのを抱えながらこれから生きるんだよっていうところで言ったじゃない。
だから、たぶんあの後に関してはすごいいろんなことが苦労があるんだよねっていうことは容易に想像できるんだけれども、
でもそういうことがあるからこそお前らって生きるってことが大事なんじゃないのっていうような、
その、描かれ方っていうか、
何て言うんだろうな、メッセージっていうところがあったからこそ、
その最後のシーンまで僕見れたんじゃないかなと思って。
なんか最後のシーンが、最初見たときね、僕あれ、あざと全然気づかなくて。
2回目見たときにようやく気づいたんだけどさ。
そう。
で、あ、なんか最初見たときね、いやこのエンディングだけはねえわと思ったんだけど、
これちゃんと最後までちゃんと描いてたなっていうのに気づいてからは、
あ、この人すごいちゃんと細々したところまでちゃんと伝えようとしてくれてるんだなって思って、
もうね、2回目も泣いちゃった。
まあね、だから、戦争が終わるとはどういうことなのかっていうのを、
本当に多面的に描いてくるなっていう気はしましたね。
結局終戦とかね、簡単に言うけど、やっぱり人々の中で戦争が続いてたんですよねっていう。
被爆した人たちからしたら結局それが後世にも続いていく中で、
やっぱりずっと戦い続けてるわけじゃないですか。
そうだね。
のりこは戦争は終わりましたかっていうふうに四季島に訪ねて、
四季島の戦争はそこで終わったのかもしれないんだけれども、
のりこはこれからね、のりこの戦争が始まっていくわけですよ、戦いが。
またその中で四季島もね、当然そんなのりこを支えていく上で、
新たな戦いが待ってるわけじゃないですか。
やっぱり連鎖していくものであって、悪意っていうものはね。
そこにずっと立ち向かい続けていくこと、それが生きるってことなんじゃないのかという。
生きることって尊いよねとかじゃなくて、
それってすごくエネルギーが必要なことで、そこに立ち向かうから生命は尊いんだと。
そういうね、強い意志を感じさせてくれるような主張だったなって。
なんかチンプな生きるっていいよねじゃないんだよね。
そこに死があるからっていう、そこに明確に死っていうものがあったり、死の恐怖っていうものがあったりっていう。
だから本当にゴジラが明確な暴力の象徴のような形で、とんでもない力を発揮してくるのも、
ある種その生きるということ、要するに生命を維持することっていうのは非常に難しさだったり、
死に対する恐怖って、そう簡単に乗り越えられるものじゃないっていうものを、
この恐ろしいゴジラが見事に描いてくれてるなっていうのをすごい感じましたね。
黒い雨も相当びっくりしたけどね、僕は。
これやるんだっていう。
あれ本当に衝撃的なシーンだったし、その前に、
ここまではっきりキノコグモを描くっていうところからの黒い雨だったじゃないですか。
そうね。ゴジラ、モスラ、キングギドラでもキノコグモが出てましたけど。
遠くの方でね。
あれは巻き込まれた側っていうか、遠くからの体験だったじゃん。
ここまで至近距離で本当に原爆で被爆したっていう人の立ちを描いたかっていうのは、すごく衝撃だった。
なんだろうな、描けるようになってきたっていうふうに言ってもいいのかもしれない。
それはプラスでもありマイナスでもあるのかなという。
記憶が新しいうちは逆に直接的な表現ってできない。
それが尊厳にも関わってくるから、実際に被爆した人たちに対するね。
一方でここまでストレートに描かないと、その恐ろしさだったりっていうものを保存できないフェーズにも、我々の世界は入り始めている。
だからしっかり描いていかないといけないし、しっかり描ける時代になってきているという。
それはメッセージを伝える上では非常に意味があることだから、それは好ましい変化なのかもしれないけど、
一方で本物の記憶っていうものが薄れていっているということにおいては、ある種マイナスの進化でもあるのかなというのはすごい感じますね。
この映画見てもう一回ちょっと広島行きたくなった。
広島ね。僕ももう今まで3回4回は行きましたね。
毎回必ず原爆の資料館に行きますけどね。
そこはやっぱり行かないといけないなっていうのを強く思わせてくれる場所で、
行くたびにやっぱり自分と歴史っていうものがつながっていることをすごく感じるんですよね。
やっぱりね、子どもが歴史の教科書を見て、私たちの暮らしはこういうふうにつながってきましたって言われてもね、何も自分ごとにはならないのかなって気はしていて、
その地に訪れて感じることっていろいろありますねっていう。
昔にやっぱり小学校中学校に行った時っていうのは、ただただ怖かったっていう恐怖感しかなかったんだけども、
後々に大人になってから改めて行くと、その恐怖感の根源って何だったんだろうなとか、
勉強した歴史っていうものを咀嚼して飲み込んだ後に、じゃあ現代に行ける自分と過去っていうところを見つめ直す場所としては非常に行ってほしいし、
大人になったからこそ、やっぱり小学校とかで行って満足とかじゃなくて、大人になってできれば僕としては一人で行ってほしい。
だから一人でも黙々と自分と語り合ってほしいなっていう意味で、もう一回自分と語り合いに行ってみたいなと思ったんだよね。
本当に戦争っていうものが自分と繋がってるっていうことの実感は確実にあるのかなって気はしますね。
そうだねー。
だからね、このゴジラ-1はすごくよくやりましたよ。本当に。
しかもさ、庵野監督の後だったわけじゃないですか。僕だったら絶対やんないね。
だって下手なもん作ったらさ、やっぱり庵野良かったなって言われるだろうし、それぐらい庵野ゴジラの衝撃って日本にとってかなり強かったし、大ブレイクしたわけじゃない。
で、それを超えるものを作っていこうってめちゃめちゃなチャレンジだったと思うんだよね。
それはそうだと思うね。
しかもこれはちょっとね、庵野監督で俺大好きだけど、これもう明確に、悪いけど山崎監督の方が数段上のものを作ったなっていうのがあって。
それはね、全くその通りだと思います。エンタメとして見たら、別に向こうもそれでいいのかもしれないんだけれども、こういうゴジラもあるね、こういう面白さもあるねと。
ただまあ、ゴジラ映画って、やっぱりずっと真にあってほしいものっていうのがあって。それで言うと、やっぱりね、こっちなんですよねっていう。
そうなんだよね。
ゴジラは主役じゃないんですよ。そこは本当に一番重要なところだと思ってます僕は。
ゴジラっていうものを結局何かフィルターにしてですね、人々の内面を深く描く作品っていうものがやっぱゴジラであってほしいなっていうのはすごくあったので。
それで言うとね、マイゴジは本当に理想的にすべてを叶えて、なおかつ今までに誰もが描いたつもりで描ききれてなかったところまでリーチした作品なんだなっていうふうにすごい思いました。
ちなみにですね、スイー君もこの間話してたら言ってました。
スイーさんくればいいのに。
めちゃくちゃ擦られてるけど、シンゴジラと真逆の映画よね。
人間ドラマを廃してシミュレーションに徹したドライなシンゴジラと、徹底的に人間ドラマをやりきったウェットなマイゴジと対局にある映画だと思う。
偉大な先行作品と絶対に比較されてしまう状況で、あの品質の作品を出せたのはすごい。
ダークナイトの後にジョーカーを出してきたぐらいの異様。
そうです。
確かにね。
ダークナイトとジョーカーはいい絵って妙だね。
そうだね、その通りではあるね。
今までにないバットマンっていうのを提示された後にね、さらにそこからまたもう一歩踏み込んで、社会と関連づけてダークヒーロー映画というか、ダークビラン映画。
ヒーローでもね。
ヒーローじゃないからな。
つながる部分はあるかもしれないね。
僕はね、ゴジラこそウェットであってほしいんですよ。
ゴジラこそね。
本当にいろんなものをそぎ落としていって、シンゴジラも悪くないアプローチだったと思うんだけれども、
やっぱりちょっとね、いろいろ散りばめすぎてやっぱりエンタメなんだよね。
正直。
根っこのところではいろんなメタファーがあったんだとは思うんだけれども、
やっぱりこのゴジラの正体が一体何なのかとか、
牧五郎とは一体何だったのか、彼の目的は何だったのか、ゴジラを中心にいろいろ匂わせすぎてね、
それを考察するゲームになっちゃってんだよね。
結局、アンノゴジラってゴジラファンに向けたゴジラ映画なんだよ。
いや、アンノファンに向けたゴジラ映画だよ、あれは。
アンノゴジラを見たい人向けに作ったゴジラだったじゃん。
だけど今回の山崎ゴジラマイナスワンっていうのは、
山崎ゴジラマイナスワンってなんだよ。
どっちかにしろよ。
ゴジラマイナスワンって。
ゴジラファンに向けたやつでもなければ、山崎監督ファンに向けたやつでもないっていう、
非常にフラットなところからゴジラっていうものをもう一回見直しましょうよっていう映画を作ったからこそ、