別にそんなに収益的にも大成功の映画ではないんじゃない?知らないけど。
いや、少なくとも僕の人生の中でジングル・オール・ザ・ウェイを知ってるのはまこちゃんぐらいか。
でもやっぱり当時は本当に、
シュワルツェネガーのキャリア杯ぐらいの時期なんじゃないですか?
本当にもうハリウッドトップスターでしたから間違いなく。
シュワルツェネガーの時代とかあの辺の時代でもね。
コメディにも出始めて、しっかり数字稼げます、みたいな。
そんな感じのところに、
ホリデーシーズンの映画ということで出たのがジングル・オール・ザ・ウェイということなんですけれども。
一応クリスマス企画なのでクリスマス映画を扱うことにいたしました。
じゃあ早速あらすじ紹介からいきたいと思います。
おすすめさん、ちょっと待ってね。
2ミニッツ、レディ、ゴー!
はい、ということで今回はですね、アーノルド・シュワルツェネガー主演のジングル・オール・ザ・ウェイ。
1996年の映画を扱っていきたいと思います。
クリスマスシーズンちょうど終わったぐらいかと思いますけれども、
皆さんはですね、クリスマスプレゼントを必死に探した、みたいな、そんな経験ございますか?
僕はついこの間それを経験しました。
ということでですね、本作は主人公、仕事一徹のサラリーマン、ハワード。
演じるのは筋肉俳優のアーノルド・シュワルツェネガーです。
仕事にかまけるあまりですね、息子のジェイミーとの約束を何度も破ってきたハワード。
そんな彼がですね、息子にクリスマスプレゼントとして何が欲しいか聞いて、
帰ってきた答えが大人気ヒーローガングのターボマンです。
ただですね、毎度のことながらすっかり約束を忘れていたハワードはですね、
クリスマスの前日にそれに気づき、当日大慌てでターボマン人形を探しに放送をいたします。
そんな中でですね、ターボマン人形はとんでもない人気で、
どこに行っても失わせてなかなか手に入らない。
様々なルートを駆使してですね、ターボマン人形を得るために、
はちゃめちゃ大騒動を起こしながらですね、
時に郵便局員と協力したり、すぐに仲違いしたり、爆弾騒ぎに巻き込まれたり、
裏ルートの工場の一斉摘発に巻き込まれたりと、もろもろやりながら、
最終的に舞台はクリスマスパレードへ。
クリスマスパレードですね、まさかのターボマンの着ぐるみを着ることになったハワード。
一体ですね、このドザバ打撃はどこに進んでしまうのか。
そしてハワードは失ってしまった息子からの信頼をもう一度得ることができるのか。
そして家になかなかいない夫に対する不満を爆発させそうな妻との関係は一体どうなるのか。
その後、ハワードってでもね、みたいなところがすごい増す構造になってるなと。
しかもこのエンディング後の一番最後のショートカットみたいなシーンが、結局妻へのプレゼントを買ってないみたいなところで、
一気にこうひっくり返してきて、ヒーロー体験でイエーイ!ってなったけども、
父親像みたいなことは更新されてないし、日常的な家族へのケアみたいなことを相変わらず見落としてるしみたいな。
だからこのハワード自身の成長モード語っていうのはここで拒否しちゃってる。
だからヒーローになっても家族参加型みたいな感じの父親にはなれなかったみたいなことが描かれてて、
これ結局誰も救われないような映画になってるなと。
で、ターボマンのブルースっていう説を言ったんですけれども、
強さだったりとか、あるいは稼ぎだったりとか、仕事への成果みたいなのが評価軸だった時代、
あるいは父親が家にいないっていうことが全然いいよ、外でちゃんと成果を出してくれれば、
背中を見せればいいんだっていう良かった時代に、その父親として適応してしまった男たちの、
もうあの時代は戻ってこれないんだよねっていう、そういうブルースだったんじゃないか。
だからこの映画っていうのは、彼らがもう古いよねとか、あるいはもう役に立たないよねっていうことを裁かない代わりに、
時代は進んだからもうそれだけじゃどうしようもないよねっていうところを、
静かに映し出すような映画で、非常に残酷な映画だなっていうところが見えたなっていうのがあって、
すごいざっくり言っちゃったな、なんかすげー短くなっちゃった。
もう終わりかよ。
思った以上に短かった。
もうちょいだから郵便配達員とかもそういう視点で見たらこうですよみたいな話があるのかなと。
あー、郵便配達員なんも考えてなかったな。
あいつもさりげなく自分の家庭環境の話もしてたじゃないですか。
そうね、あの人も結局その郵便配達員は昔はこうだった、ああだったっていうのをダイナーみたいなところで語ってるし、
だからその、やっぱりハワードだけじゃなく取り残された親父たちっていうのはいっぱいいるわけで、
ある意味そのおもちゃ屋さんに群がっていた人たち、母親もいたけども、
多分旧時代の母親像とか旧時代の父親像っていうところに取り残されていた人たちが、
ターボマン人形っていう昔のその輝かしいものみたいなのに群がるみたいな。
アメリカが要はウェイっていう時期ではありますよねっていう。
冷戦も終わりまして、世界のマーケットが一つになっていくと。
物だったり文化だったりっていうのも今まで以上にギューっと流入していって、
いろんな文化も入ってくる、混ざっていくっていうのが当たり前になっていくような時代。
そういった中で、また資本主義的にもすごい成功して、
どんどんどんどん成長していく、市場が成長していく中で、
その消費の在り方っていうものが少しずつですね、加速していった時代でもあるのかなと。
それは一体何かっていうと、家庭の中でもそういった消費のスピードっていうものがどんどん加速していった時期。
本来的にはね、家族の中で分かち合う幸福っていうのは、
共にすごく実す時間だったり、あるいは交わす言葉であったりだとか、
あるいは親体的なスキンシップであったりだとか、
そういったところに本来的には依存している、要するにプライスレスなものですよね。
時代と共に薄れゆく価値ではなく、その場に確かにある人としての関わり合いっていうものが
家族の価値だったんだけれども、90年代の空気的にはそういった価値っていうものが
どの外部から与えられる金額という形に切り替わっていった時代でもあるんじゃないか。
例えばそれは子どもに何を与えたか。
どんな習い事を習わせているか。
私立の学校に通わせているか。
どんなに高いものを買い与えたか。
あるいはどんな体験を買ったか。
小さいうちからいろんな国に連れて行きました、いろんな文化に触れさせましたとかね。
あるいは子どもの身につけるものであったりだとか。
そういったところにどんどんシフトしていった時代で、
それだけ裕福になっていった中流階級っていうものがより持てるようになってきたんだけれども、
結果として結局子どもに何ができるのかっていうのが金額で押し量られる時代になっていってしまっていた時期なのかな。
実際ハワイでも空手を習わせてるわけで。
家の作りとしてもある程度裕福な家庭なわけじゃないですか。
そういった中で子どもにしてやれることっていうのは、
お金をどれだけ使ってきたのかっていうところに変換されていってしまって。
そしてその影響が一番露骨に出てるのが、このクリスマスなんじゃないのかと。
本作がクリスマスを扱ってるのは何よりここで、
日本ではクリスマスといえばクリスマスの日になると、
高級ホテルのツイーンとかがどんどん回っていって、
恋人たちがせっせと勤しむ日みたいな感じになってますけど、
アメリカではクリスマスっていうのは家族で過ごす日なんですね。
アメリカではというか基本的にキリスト教圏では家族で過ごす日なんですよね。
そうですね。
10月生まれの人はごめんなさいって感じだけどね。
そもそもそこなんですよ。やかましいです。
10月生まれなんで私がね。
だから本来的には家族の絆っていうものを確かめあって、
感謝をする日っていうのがクリスマスなわけなんだけれども、
その一方でクリスマスっていうこの宗教的な行事が、
この資本主義社会においては国家規模の消費意識に変わってやしないかと。
それがいわゆるクリスマス商戦というものなんじゃないのか。
親が引き受ける役割っていうのは子供たちを笑顔にするっていうサンタの役割ではなくて、
子供たちが欲するものを買い与えるための購買担当者になってしまっている。
はいはいはい。
それがどんどん加速して親たちは焦って買い求めていく。
子供たちは欲しいものを親にねだる。
果たしてこれはクリスマスのあるべきものなんだろうか。
家族が共に分かち合える価値を確かめ合う日になってなくないかっていうのが、
多分これスタート地点にあったんじゃないのかっていうふうに思うんですね。
はいはいはい。
そう考えると本作は徹底的にクリスマス商戦の真っ盛りな舞台ばかりなんですよ。
ショッピングモールに行けばそこら中でクリスマスということで、
みんながショッピングバッグを持って買って買って買いまくっている。
当然店の人たちもものすごい勢いで売るわけじゃないですか。
今更ターボマン人形欲しいとか言ってるやつを鼻で笑うぐらいに、
もうみんなが欲しがっているものを我々が売ってやってるんだぞと言わんばかりの、
要するに誇張して描いているんですけれども、
そういった社会の構造が気づいたら子供に買い与える買い与えないっていうところに、
価値を見出すようになってしまった人々の虚しさみたいなものを浮き彫りにしているんじゃないのかっていうのが、
まずこのスタート地点として言いたいですね。
ここでターボマンを深掘りしていくんですけど、
ターボマンを見て、何かどこか身近に感じませんでしたか?
ターボマンにアメリカを感じたか?っていう話ですね。
俺フラッシュっぽいなと思ったけどね。
そもそも実写で子供向けに撮られる、いわゆる特撮みたいな文化って、
アメリカにはそもそもなかったんですよ。
子供が見るのはアニメです。
そういう意味か。コミックだもんね。そりゃそうだ。
相棒の犬みたいなキャラクターも完全に日本の戦隊モノとかに出てきそうな感じしません?
ロボコン的なアジア空気を感じますよね。
何より重要なのはこのスーパー戦隊モノっていうのが、ただの子供向け特撮映像作品ではないということなんですよ。
これ僕が一番ね、スーパー戦隊モノとかに抵抗がある原因になってるんですけど。
スーパー戦隊モノだったり、今だとウルトラマンもですね、あるいは仮面ライダーもそうなってしまってるんですけれども。
あれらは結局、グッズ商戦を前提としたメディアミックスの完成形になってるということなんですね。
そうですね。壮大なプロモーションビデオですからね。
そういうことなんですよ。
まずテレビ番組がある。そしてそのテレビ番組で使用されるものを玩具として販売する。
さらにその玩具を使うときに遊び方が増えるような周辺アイテムを作ると。
そうすると子供たちがそれを欲しがる。で、親がそれを買うと。
もうこの親にグッズを買わせるために映像作品があるというような、一連の購買意欲を煽り立てるための映像作品であるという。
ここらへんのシステムがアメリカにも入ってきたわけですよ。
なるほどね。
ここなんですよね。だからこれって結局ヒーローの物語では何でもなくて、
単純に人間の欲望っていうものが掻き立てられて、生産されていって、それに踊らされるっていうことの、
いかに虚しいことかっていうのを、最もそれがシステム化されていて分かりやすい、
日本由来の特撮ヒーローものっていうものを扱ってですね、バシッと出してるわけですよ。
だからこそのターボマンなんですよねっていう感じがするんですよね。
グッズ展開していってっていうところの、僕が一番嫌いなところではあるんですけれども、
やっぱりそういう形で、外部から輸入してきた様々な商売の資本のシステムみたいなものが、
アメリカにおいても猛威を振って、気がつけばみんな消費に踊らされ始めていくっていうことの、
舞台装置を作るために、ターボマンっていうものが設定されていたんじゃないのか。
っていうふうに考えると、このターボマンっていう存在は、社会の理想とかじゃなくて、