そこがすごく僕は嫌でしょうがなかったんです。
だからこの細田守監督が子どものリアルな嫉妬だったり、
あるいは感触みたいなものを正確に描きたかったみたいなことを言っているそうなんですけれども、
だとしたらなんかこう、もうちょっとあるだろうという気がしているんですね。
しかもまして今回媒体はアニメなわけですから、
アニメーションだからこそできることっていうのは絶対にあるはずだとは思うんですね。
そこをもう少し上手に料理することができたらどうにかなってたんじゃないのかなっていう気はするんですけれども。
僕が気になったところをまずいくつかちょっと確認をしていきたいんですね。
まずやっぱりその舞台装置が意味にあんまりなってないなというふうに思っていて、
家族みたいなものを描こうとしているらしいぞと、
家が起点になっているっぽいぞという感じなんですけれども、
言うほど家が生きてないんですね。
生きてないね。
生きてないんですよ。
正確にはその中庭の木が云々かんぬんみたいな話を最後に未来の未来が言って、
ああそうだったんだねってなるっぽいんですけど、
言うほど木が鍵になっている感も描けてないじゃないですか。
何ならそんな何十年も経っている木があんな細くて短いわけないのよね。
そうなんですよね。
すっごいあの木の存在感が全然ないせいで、
しかも木を起点にしているみたいな描写もないせいで、
時間がかかっていないんですよね。
time is drifting ...
別軸というか、
移動する描写が、
すごく中途半端なんですね。
一方で家ってすごい大事じゃないって僕は思うんですよ、家族を描く上では。
今は各家族化も進んで、
家に出て結婚した新しい家にみたいな感じですけれども、
昔ながらの特徴としては、
て結婚した新しい家にみたいな感じですけれども 昔ながらだとやっぱりね家にこう代々住んでいくみたいな流れの中で家に
やっぱりいろんな記憶だったりっていうものがその様々な形で残るはずなんですよ でそれは例えば傷だったり
ねえっと床の凹みであったり あるいはねもう本当にベタなところで言えば大黒柱につけたあの子供の頃のあの身長の線とかね
そんなベタベタなものまでいろいろあるわけじゃないですか だとしたら時間を移動した時に描くべきはそこじゃないのかっていう
くんちゃん目線で見る家なんていうのはもっと広くてでかいんですよ で
だからなんだろうな子供のリアルな嫉妬や感触を描きましたって言ってるのに ひたすらね引きのカットばっかりなのね
あー確かにね だからね本当にね退屈なのよ画面がで画面退屈だし引きばっかりだから別に大して何だろうな
なんかお母さんみたいな違う人だったみたいな しょーもないルーティンギャグを何回も繰り返して
で全然不安になっているように見えないんですよ くんちゃんの不安が全然表現できてないの
例えばその校内の放送がものすごいエコーで聞こえるとか何言ってるかわからないとかさ
で乗り換えの動線なんてものすごい人がこうわちゃわちゃ動くんですよ別に東京に限らず新宿とかね
今の時代でさえさあんなもんさ5歳児だか4歳児だかわかんないけれども そんな子がうろうろしたらもうあっという間に飲まれるんですよ
その怖さっていうものをもうちょっとなんとか表現できないんかと 例えばもう思い切ってくんちゃんの答申からカメラ構えろよと
で 駅の表示を見たいけどそもそも見えないと
見上げたら別にこう表情が読めないようなさ大きな人間がさこう そこかしここに動いてくわけですすいませんって声かけても誰も下をの見たりしないわけですよね
うん そういうさ主観的なホラー演出がないと
何にも寂しさが伝わってこないわけ あそこは結局家族の大切さを描くために一度家族を失わせるっていうその逆接的な効果によって
家族は大切なんだやっぱりみたいなことにくんちゃんが気づくっていう場面なんでしょ 多分
だったらどこまでもくんちゃんを突き落とさなきゃダメじゃないっていう
それがね本当ねあの なんだろうななんでそこでちょっとなんかコメディみたいな展開を引っ張ってくるのかも
わからんし なんか
クライマックスを盛り上げようって気が全然感じられないよね っていうところが非常になんかもうまだ引きで撮るんかお前みたいな感じで
撮るんかって別に書いてるから撮ってるわけじゃないんですけれども ちょっとね何をさせたいのか迷子の恐怖がわかってねーなっていう
監督迷子になったことないんじゃないかなと思いましたよ
本当にずっと手引かれて歩いてたのかなみたいな風にちょっと思ってしまうような なーんかちょっとピンとこねーんだよなーっていう気がしましたね
そうね同じところを例えばその隣のトトロで比較しちゃうと申し訳ないかもしれないんだけどさ
メイちゃん目線になってヤギのドアップが映って しかもヤギではあるんだけどヤギが怪物に見えるようなアングルだったりとか
演出の仕方をすることによって いつもと来たはずの道なんだけれども自分がどこにいるのかわからない
しかも一人でも立ち向かわなきゃいけないこの怪物にって恐怖感をあれで演出したりとかさ そうねそういう見せ方みたいのは確かに隣のトトロではされてたね
やっぱ音の使い方とかもやっぱ真面目ですよね その本当になんかもうダダッピロイ何もないようなどこ見ても同じような景色みたいなところでただ自分の足音しか聞こえないっていう恐怖ですよね
なるほどねいっそね そうそう未来の未来ちゃんに案内人をさせて最後の最後にユッコが来るみたいな
それもありかもしれないし だって出ないと引き継がれている
未来の未来ちゃんに未来ちゃんに妹がいるんだったら その助ける必然性が生まれるんだけれども
あのユッコはかつてくんちゃんだった でくんちゃんは後の
前の未来ちゃんという愛情が受けられる存在があってそこが
歴史を遡っていくと最初はユッコ次にくんちゃん未来ちゃんみたいな感じになってるんだとしたら 自分が過去そうだったからその次の世代のところを助けるだったらまだわかん
だけど未来ちゃんがまだ何にもなってないの ただの末っ子なのよ
だとするとあそこで助けに行く意味はないと僕は思う とにかくですねなんか未来の未来も
なんか生きて見えないんですよね すごく
なんか誰かが考えて観客に伝えたいことを代わりに読んでくれている感じ それがぬぐいされてないという
感じがどうしてもありましたお父さん自身の変容もすごく弱いから別段なんかこう 家族っていうくくりをあんまり感じられないんですね
家族がどうだって言ったらやっぱり父と母っていうものも明確な変容を見せてほしいんです けれども
別段変容はしてないなっていう お父さんがなんかしみじみに物言って
お母さんがなんか唾を吐くじゃねえけれども 毒を吐くみたいな構図が別になんか何も大きく変わることなく最後まで来ちゃったなっていう気がして
しまって 言うほどこの物語は家族の物語になってるかっていうとなんかこう何のカタルシスも得られることが
ないまま物語が終わってしまったなという気がしました したがってですねこれアニメなんだからもっとさ
自由に描けるんだからどこに何を置くか配置すべてをいじれるんだから もっとなんかこう自由にやってほしいなという
なんかどっかで見たようなアニメのギャグシーンみたいなのをわざわざ色々ところどころに 入れてテンポ悪くするぐらいだったらそんなものは全部排除してですね
あの真面目にドラマを作ってくれよと思うんですね あの
そうそういうことなんですよだからなんかこう あの雛人形を片付けるくだりとかすっごいなんか
つらかったです僕は 何を見てんだろう今っていう
導入にしてもちょっと引きこもれないね そうなんかなーっていう気がしますねだからまぁ最後まですごく退屈でした
でまぁのファンタジーとして描くにしてもファンタジーって別に何でもありなわけじゃなくて
親の行動だったりとか親の反応っていうのに花瓶になっている
だから未来ちゃんのことなんかそんな考えてないよね
自分と親だけの世界だったのが未来ちゃんが存在することを認識することによって
自分と未来ちゃん以外の世界があるんだなということを認めることが嫌だとかいうことになる
しかも対抗っていうものが起こる
それで起きるのがよく言う赤ちゃん返りですね
これよく成長が止まったみたいに言う人いるんですけども
これ全然違います
対抗って自分が安全だった状態に一回戻って
そっからリスタートしていきましょうよっていうための調整の期間のことを赤ちゃん返りと言うんですね
だから前半のくんちゃんは
とにかく壊れたとかわがままとかじゃなくて
自分の中で頑張って頑張ってこの現状というものに調整しようとしている適応過程の一環が
あそこで描かれているわけさ
そして見るとここはもう100点満点の描写だなということがあるのね
で前半は心が処理するための材料集めみたいな感じになっていて
発達課題がいくつかあるんだけれども
どうしようかな
例えばその愛着が失われるのかっていう問題に対して妹が生まれて
親の注意が分散していくって子供にとっては寂しいんじゃなくて
愛着が失われるかもしれないっていうような不安が大きくなる
だからこの不安っていうのがその後半の迷子とか再会とかに対応していくんだけども
そこへの適応がどうするかっていうところ
あとは自分とは何かっていうところで
親が妹中心になったりとか自分以外のところに愛情を注いでいくっていうのがあると
自分の立場が見えなくなる
で子供ってどうやって自分と自分を説明するかっていうと
他者との関係性でしかちょっと説明できないよね
だからそこが自分とは何だっていう自分発信の関係性っていうものを描くっていうところも
二つ課題が一つ
あと兄という役割を引き受けられるかっていうところになってくるわけさ
で後半のシーンと前半のシーンはちょっと結構わかりやすいと思うんで
後半のシーンをちょこっとここから説明していくんだけれども
ここで駅のシーンから発達心理の言葉がなかなか通用しなくなっていくところなんですね
でくんちゃんが迷子になってでも迷子になっただけじゃなくて
どっかに引き込まれていくみたいなところが描かれていくんですけれども
実はここで起こってるのがこの発達心理で扱っていた前提がそのものが崩れていく
発達課題として積み上げていったものが崩れていくところの
真相心理のどっちかと臨床心理的なところよりも
精神医学的なところから見た時のくんちゃんがどうあるのかっていうような分析になってきてるわけ
だから前半発達心理のところのお勉強をしてると思ったら
途中で授業が切り替わっててそこについていけなくなるみたいなことがよくあるから
この映画なんか何ぞやってなるんじゃないかなと思ってます
でここで扱われてる心理概念がまた3つあって
分離不安と関係偽造性事故っていうのと
あと3つ目何だっけ
どれでした?
3つあって
3つ目がどこで何やったかはちょっと忘れちゃった
まあいいや忘れちゃったというかメモにどっか飛んでるんですけど
その分離不安っていうのが親と離れるのが怖いっていうところではなくて
自分が守られる存在であり続けられるのかなっていう不安が本質になってきます
親と離れること自体が問題なんじゃなくて
戻れる保障があるかなっていうところに不安が生じると
駅のシーンでくんちゃんが直面するのはママがいないとかパパがいないじゃなくて
自分がもう親から子供として扱われなくなるかもしれない
今までいた親との関係性のところに戻れないんじゃないかなって恐怖を
この分離不安として表現している
あとはこの関係偽造性事故っていうところなんだけれども
例えばまこちゃんにあなたはどういう人ですかって質問したら
例えば私こういう性格でこういう仕事してきましたとか
今こういう仕事していますとかあるいはこういう趣味がありますみたいな感じで
その自分の内的特性で人を説明できるわけさ自分というものを
幼児っていうのはそれができないよね
幼児の事故っていうのは誰との関係性にあるかっていうところでできています基本的に
だからママの子供パパの子供おじいちゃんの孫みたいな感じで
だから駅で親がいなくなるっていうのが事故の土台そのものが消えていくわけさ
だから自分が誰かっていうのを説明できないっていうような状況になっている
っていうところの理由はそこにあるわけさ
だから駅員さんに君は誰ですかって聞かれた時にくんちゃんは当然答えられない
だってまだ発達課題がそこまでいってないんだもん
それをクリアするのが事故同一性をクリアするもう思春期以降になるから
だからあっこで多分思春期のくんちゃんを出してきた理由は多分そこなんだろうなと思うね