Reel Friends in TOKYOにようこそ。この番組は話題の新作、往年の名作、謎を聞き作からぶっ飛びB級映画まで、あらゆるフィルムを倫理、宗教、歴史に陰謀、多様な視点から切りまくる映画専門チャンネルです。お相手はパーソナリティのマコと…
ネコちゃん、お迎えしまーす。オーマです。よろしくお願いいたします。
お願いいたします。
やっと言えたよ。
前回ね、言うタイミングがなかったからね。
君のせいでね。
俺が別に誘導したわけじゃないですよ。必要な連絡をしてたら、たまたま時間がなくなったというだけの話ですからね。
で、その心は?
ネコちゃんをお迎えしようと思って準備中なんですよ。
それだけです。
コーラ振らなくてよかったじゃん。
もうちょっと聞き出していこうよ。
こっちに責任があるのね。
例えばどんな?
もう全然決まってない。
だからそうなるじゃん。逆に聞きたい。何を聞いてほしいの?
ネコちゃんをお迎えするってどういうこと?とかさ。
ネコちゃんをお迎えするってどういうこと?ネコちゃんをお迎えするってことじゃないぞ。
どこから?とかさ。
どこから?どこから?
今、ネコちゃんのね。
あなた聞く気ないでしょ?
聞く気あるよ。ちょっとディスプレイの汚れが気になって。
続けていいよ。続けて。
いいですか?
今、城都会のホームページやらないやらで繋がっていって。
今、城都会を主催しているところのネコカフェに毎週ちょっと通いながら、
フィーリングの合うネコちゃんと出会うために模索中って感じですね。
フィーリングの合うみたいなやつがあるんですね。
性格の合う合わないみたいなのがあるんで。
実家で飼ってたネコちゃんとか、あとはジュージョンの。
ジュージョンって言っちゃった。
昔の年だし。
後でバキューン入れといて。
ゴキビリハウスだったときに飼ってたネコちゃんとかもさ。
あれはもう完全にもらい猫だったからさ。
飼う人いない?つっていって。
じゃあいいよ、つっていって引き取ったネコちゃんたちだったから。
性格も何もっていう感じだったんだけど。
今回は僕の生活スタイルとか、そういうのに合うネコちゃんと出会いたいなっていう感じで。
そういうのあるんですね。
やっぱりね、性格があるからさ。
日中は仕事で完全に空けちゃうからさ。
子猫だったらちょっと世話しきらんから。
性猫ちゃんの2,3歳くらいの子かなと思ってるけど。
向こうも僕にフィーリングが合うし、こっちも向こうにフィーリングが合うみたいなネコちゃんがいたらいいなっていう感じですね。
なるほどね。
飼う以上は寂しい思いをさせたくないみたいな。
できればね。
そういうのもありますもんね。
日中はいないんだけどね、どっちにしろね。
どっちにしろ。
そうだよね。
なるほどな。
僕はペットとか飼ったことないんで、わかんないんですよね。
お迎えする基準とか物差しも知らなければ、どういう準備が必要だとか、どういう気持ちの変化だったり持ちようだったりみたいな、そういうイメージが全くない。
わかんないですよ、だから。
ネコちゃん家に来たらさ、家に来ればいいんだよ。
かわいがってやれとは。
そうそうそうそう。
なるほどね。
興味はあるけどな。難しいなと思っちゃった、僕。
命を預かれないなっていう。
そういうタイプ。
猫は別に好きだよ。
犬派猫派って聞かれたら、なんでどっちの派の派閥に分かれなきゃいけないんだろう、お前バカかって思うタイプなんで。
どっちもかわいいじゃんっていうふうに思ってるんで。
ただ、どうしてもお別れのことを考えて悲しくなっちゃうから、とても迎えられないんですよ。
そこはね、ザリガニ飼おうが、カメ飼おうがそうじゃん。
例えばザリガニの最後に何度も抜き合った結果、僕はもう無理だってなった。
また、コカクリと哺乳類また違うかもしんないじゃん。
犬の中であんまり変わんないんだよね。
俺だって街歩いてても、何匹のアリを踏み潰したかで結構悲しい気持ちになっちゃうタイプだからさ。
絶対無いじゃん。絶対無い。
ほんとに。
飯食うたんびに、また俺は命を借りとって生かせてもらってるんだなっていう、そういう気持ちになっちゃうんで。
火の鳥のサルタヒ君みたいな。
これから僕のことはサルタヒこと呼んでください。
鼻がボーンとあるからね。
そんな感じですね。とにかくニャンコ迎えたらまた紹介してくださいよ、そしたら。
任せてください。うちの分野に結構ハイテク機材で揃えようと思って。
オートフィーダーみたいな。
そうそう、オートフィーダーもそうだし、全自動猫トイレにしようと思って。
この間ポチっちゃった。
高いのよ。
そりゃそうだろうな。数が出るもんじゃねえからな。
ちゃんと高いやつだよ、11万とか。
僕が買ったの28,000円くらい。セールで28,000円使わせていただいて。
それでも十分だよ。
2万8千円出してさ、使ってくれなかった場合ね。
まあ今時メルカリで一応売れますから。
そこまでのダメージにはならないということを祈って、
祈って運用してあげてください。
なるほどね。いずれ収録にもご参加いただけるということでいいですね。
そうね、入ってきちゃったらどうしようね。
もうそれはそれでいいじゃないですか、参加させれば。
どう思う?
ダメよダメよ来ちゃダメよ。
やめよう、やめよう。
ごめん、俺が間違った。
参加させないでください。
頑張ります。
というわけで、じゃあ本日も参りましょう。
はい、ということで本日のテーマは、
無駄話映画パルプフィクション。
運命の歯車は誰が回すのかでございます。
はい、またこう終わらせにくい感じのやつだね。
いやーまあちょっとね、これはどう見たかを全く僕ら、
今日に至るまでにほんの少しもやりとりしてないんじゃない?
そうだね、これはちょっとね、やりとりしちゃいけないと思って。
とりあえずマコちゃんにはLINEで、
これはスルメ映画だねっていう感想だけ送りました。
そうですね、そのスルメがどの辺なのかね、
その辺もちょっと僕は気になりつつ、
お流ししてるんで、ちょっと今日この収録の中で、
お互いがこの映画をどう見たのかっていうのをちょっとぶつけ合ってね、
見ていきたいなと思っております。
というわけでパルプフィクションについてのあらすじ紹介から参りましょう。
よーいどん。
はい、ということで今回見たのはクエンティン・タランティの監督の名作パルプフィクションです。
この映画は一言で言えば犯罪者たちの人生が工作する、
そんなスタイリッシュな群像劇です。
時系列がシャッフルされているので、
いくつものエピソードが同時多発的に起きて進んでいき、
最終的には絡み合っていく、そんなところが特徴かと。
物語はですね、カフェで強盗するカップル、パンプキンとハニーバニーの会話から始まります。
そこからですね、オープニングが終わったかと思うと、
場面は転換して出てくる一組目、ギャングのボスマーセル・ウォレスと、
その部下ヴィンセントとジュールスの2人。
2人は仕事でブリーフケースを取り戻しに行き、若者たちと打ち合いになる。
撃たれても奇跡的に無傷だったことによって、
ジュールスの方が神の形状を信じ足を洗うと決意する。
2組目はヴィンセントとボスの妻ミアの一夜ですね。
これも一つのエピソードとしてカウントされます。
ヴィンセントはミアをディナーに連れて行き、
帰宅後彼女が薬を過剰摂取して死にそうになるという大騒ぎの天末。
そして3組目は落ち目のボクサーブッチ。
ブッチは八百丁を持ちかけられて、それを裏切って恋人と逃亡しようとする。
ところが運命のいたずらで、このギャングのボス、
これがヴィンセントとジュールスの上司にあたるマーセルなんですけれども、
マーセルと共に何かやべえ奴に捕まって何かやべえことになるんですけど、
それを何かやべえけど何とかなるという奇跡的な、
いろんな奇跡の積み重ねで、何とか逃げ切るということに繋がっていくと。
そんな感じで、本当にドタバタしていくうちに、
あれ、この話ここで繋がってたんだ、この人はこの人と繋がってたんだっていうのが、
少しずつ明らかになってくる。
そうやって観客は人々を見ながら、物語が織り込まれていくのを目撃していく。
そんな物語でございます。
それでよ、最初の30分ぐらい、いやこれもう話長いよと思ってたんだけど、長尺に慣れていけば慣れていくほど、
どうでもいい会話が、実はその後の展開にちょっと響く何かがあったりとか、
とかっていうのがちょこちょこずつ、つぎ込まれて次、つぎ込まれて次、みたいな感じで回っていくじゃない。
もうそれが気持ちよくなっちゃって、最終的には3回ぐらい見た。
たとえば、後に響いてくる会話って何?
後に響いてくる会話。
その最初の銀行強盗でさ、お前らやめきれーってやったときって、世の中ってクソだよなみたいなところからさ、
なんか銀行強盗やったほうが、金が稼げる時代じゃないかみたいな。
あるところには金はあるんだよなっていうところからの、金を回収する話になるじゃない。
マッセルスが。
マッセルス?
マッセルス。
マッセルスじゃない。
マッセルス?
じゃ、あの、なんだっけ。
ヴィンセントとジュールス。
ヴィンセントとジュールスがさ、金回収する話になってくるじゃない。
あれ金かどうかわかんないからね。
でも開けたらキラキラだったじゃん。
だからあのブリーフケースの中身なんて一言も言及されてないから、
あの輝きが何かっていうのは結局最後までわかんないんですよ。
そっか、確かに。
だからお金じゃない可能性もあるんですよ、全然。
確かに。キラキラしてるだけか。
そうです。あそこはもう何の言及もされてないんで。
確かに。
だからあの箱の中身、あのブリーフケースの中身が何だったのかっていうのも、
結構ファンの間では盛り上がるポイントだったりもするわけですよ。
ある種そこに詰まっているのが、この作品を一貫して貫く何かしらのメタファーかもしれないし、
あるいはタランティーノが仕掛けた、ただの何でもない何かなのかもしれないし、
そのあたりっていうのが実に巧妙だったりするわけですよね。
余白を残してるんで。だからあれが金なのかどうかなんていうのは一切わからない。
そうか。
そうなんですよ。ってなると響いてくる会話って何ですか?
何もねえかもしれない。
だからこの作品って結構、タランティーノといえばみたいなところで無駄話ってよくされるんですよ。
で、実際オウマも今回その無駄話に翻弄されたわけじゃないですか。
そうね。
ただ僕はタランティーノの作家性って、その無駄話にあるっていうのはみんな言うんだけど、
この無駄話は一体何のためにあるのかっていうことを、みんなはどう理解してるのかなっていうのが気になってしょうがないんですよ。
オウマはどう感じました?無駄話。
そのストーリーに聞いてくる発言が一切ないんだとしたら、この無駄話は一体どういう機能を果たしてると思いますか?
でもさ、ある意味マコベランチみたいなところもあってさ、
なんか一見何事でもない会話の応酬っていうのがさ、
お互いの関係性が見えてきたりとかさ、あるいはこの思想がどうなってるのかなっていうのが見えてきたりとかさ、
何気ない会話って結構エンターテイメントだと思うよね。
そこに見えてくる人間像、候補人の人間像とそこで生まれてくる関係性の人間像って、
かなりこう、旗から聞いてるうち、特にしかも興味を持って聞けてるうちはすごくなんかこう、
それ一つで完成するエンターテイメントになるんじゃないかなと思って、この映画を見てね。
すると、なんかこの無駄話と言われるけれども、やってる会話自体はそんなに大したことがない会話に聞こえるけれども、
その会話を通した2人の関係性を表してみたりとか、っていう意味では非常になんかこう意味あるんじゃないかなっていう気はする。
まあやっぱりそこだと思うんだよね。タランティーノがなんでこういう会話に終始するのかっていうのが。
よく言われるのは、特に初期のタランティーノ作品って限りなく、要は裏社会の住人、ギャングだったりっていうものを人間臭く描くことを得意としてるみたいな。
時に滑稽で、時に泥臭くてみたいな。そういうのを描くのに長けた監督だみたいな風に言われることが多い。
で、そのうちの一つがなんでもない会話をさせる。ギャングは常に裏社会で生きる何かしらの仕事の話ばかりしてるというわけではなくて、
逆にそいつらも生きた人間なんだからどうでもいい話もするだろうし、中には裏社会の住人なのにも関わらず変な倫理を振りかざしてる部分もあったりすると。
いうようなところを表現するための無駄話。無駄話をさせることによって、こいつらも自分たちと同じくフレームの外にいる人間、同じ人間なんだっていうふうに思わせる機能を持たせてるんじゃないのかっていうお話がよくされる。
ただ僕はその一方で今大間が言ってくれたような、そのキャラクター像っていうものを一番わかりやすく描くことができるのが無駄話なんじゃないのかって思ってるよね。
これが一体何せいなのかっていうと、多分みんなそうだと思うんだけれども、100%素で100%自分の主観的な思いを乗せて語る場面って無駄話以外なくないって思うんですよ。
ここがちょっと面白いところで、僕らは日々会話と対話を繰り返すわけですよね。
対話っていうのは何かしらの目的があってするものなわけですよ。
それはつまり、例えば仕事の場面で何かその対話を通して擦り合わせないといけないものがある。
そして何かしらの意思決定につながるようにしなければならない。あるいは翌日話す何かにつなげていかない。とにかくその次が用意されているときに我々は対話をすると思うんだよね。
そのダイアログっていうものは必ずそういう目的を伴っているから、どうしても役割演技が入ってくる。
自分の中でその対話を通してやらなければならないことに合わせた言葉を紡いでいかないといけない。
一方で会話ですよ。チャットですね。これは一切目的を持たないものじゃないですか。
例えば外国においてロイヤルチーズバーガーがどう呼ばれているかという話は、別に結論は必要ないわけですよ。
そんなくだらないことを話しているときっていうのは、限りなく自分が自分のままで意見ができる場なわけですよね。
だからそこにキャラクターの人格が見えてくるわけだ。
っていうふうに考えると、このパルフィクションが1994年の作品で、2年前にレザボアドックスっていう映画をタランティの撮ってるね。
レザボアドックスは本当に登場人物全員ギャングなんですよ。
で、そのでっかい仕事を受けたギャングたちが、ものすごいどんぱちな疑心暗鬼の状況に追い込まれていくっていうお話なんだけれども、
これのオープニング、ダイナーで10人ぐらいのギャングがひたすら無駄話するんですよ。
めっちゃ長い、しかも10人ぐらいが。
で、この無駄話のテーマがチップ文化は是か非かみたいな話してる。
別にどうでもいいんだけれども、そのチップっていう社会の中で当たり前に、アメリカ社会の中では当たり前に受け入れられている文化に対してそれぞれがどういうスタンスで何を持ってるのかっていうのを、
ただグダグダグダグダダイナーで話してるその場面が、完全にキャラクター紹介になってるんですよね。
だからこれ本当にレザーバードックスってすごくて、そのお話があった後、たぶん何かの仕事をするんですよこれから、そのギャングたちは。
たぶん何かの仕事をする、しかもそれは大きい仕事で。
しかもこいつらたぶん今までお互いを知らないみたいな、お互いコードネームで呼び合おうみたいな話もし始めたんですけど。
その後超かっこいいオープニングが流れたら、その直後にはもう誰かしらが血まみれになって、仕事が終わった後になって急に。
何が起きたんだってことはわからないまま始まるんだけれども、そのチップ文化の話をしていた時の彼らのスタンスだったり倫理観というかその思想。
そこを通して見ていくと、こいつはこういうことやりそうだなとか、裏切ってんのはこいつかもしれないなとか。
なんかそういう見方ができてしまうんだよね。そんな無駄話を通して。
だけどタランティーノの異業って何なのかっていうと、無駄話を通してキャラクターを身近なものにしたというよりは、
無駄話こそ最も説得力のあるキャラクター紹介なんじゃないのかっていうことを映画界に持ち込んだ人なんだって僕は思ってるんですよ。
なるほどね。
そういう視点でパルフフィクションの無駄話を見ていくと、やっぱキャラクター紹介になってますよね。
なってるね。
ね。
確かにオープニングの時にさ、ハニーバニーがなんやかんやでうまく丸め込まれるけれども、
すごくエモーシャルな人間でヒステリックになっちゃいそうだなっていうのは、後半のシーン見なくてもなんとなくわかるし、
こうしゃくされてるけども、内心はビクビクなパンプキンだったりとかっていうのも見えてくるし。確かにね。
そう、そこがすごいなと思って、タランティーノ作品の魅力ですよねっていう気はしております。
特にビンセントとの二人の会話があるじゃない。
ビンセントとジュールス?
ジュールスの最初の車で葉っぱがどうなのとかさ、葉っぱバーがどう残るのとかさ、足マッサージはこれはダメだなみたいな話をするじゃない。
足マッサージ倫理観問題ね。足マッサージは殺されるにたるほどのことなのかという。
ひたすらどうでもいい、あと5分待とうみたいな。その5分意味あるかみたいな。
早すぎたなみたいな。
なんでそんな早すぎ、早すぎも何もねえよ。
待たなくてもやること決まってるからね。
そうそうそうそう。呼ぶ気を読んでパスンって打つだけじゃん。
あれはなんだっけ、エゼキエル少年。
エゼキエル少年。
あれ聞いてるときさ、俺一番マコベランチだと思ったんだよね。
何?
なんかすごいさ、話題として文字に上げるとさ、そんなに大きいトピックスでもないけれども、そこについてお互いにディスカッションしていく感じを見ると。
これ俺マコベランチに感じてる楽しみ方と一緒だなみたいな。
じゃあやっぱマコベランチはタランティの作品だったんですね。
ですね。
そういうことなんですね。
一応リスナーの皆さんに紹介しておきますけど、ポケットに沼尾という番組で、メインパーソナリティのハコベラと私ことマコが一緒にランチをしながら語らうというクソコンテンツを垂れ流しておりますので、
そちらをお楽しみいただけるとタランティの作品の楽しみ方が見えてくるそうです。
ぜひ。
パルプフィクションが大好きでたまんない人はある程度ハマれるかもしれない。
残念ながらね、その後にドンパチはありませんので、ドンパチはしませんからね。
あとジャブ的なところで言うとエゼキエル賞?
はいはい。
あんな文章ないっていう。
俺すげえ調べたんやけど、エゼキエル賞って思ってさ、一応読み直したの。旧約も新約も。
これはタランティーノが仕掛けた小ネタなんですけれども、千葉新一が出てる映画のアメリカ版の導入のセリフらしいです。
へえ。
だから全く聖書でもなんでもないです。
空手をたしなんだというか、空手で日本一のボディガードが犯罪組織をぶっ潰すっていう痛快アクション映画のオープニングの一節らしいですよ。
確かにキリストがあれ言ってたらやべえよ。
なんか面白いですよね。
タランティーノは映画監督である前に映画オタクなんですよ。
とにかく随所に映画のオマージュみたいなものを差し込むのが大好きですし、極限まで楽しむ人なんだろうなという気がしますね。
だからこそ、描き方っていうのはこってこてにスタイリッシュなんですよ。
だからややもするとこのパルプフィクションもスタイリッシュで何かよくわからないけれども、かっこいいから評価されてるっていうふうに思われてしまうし、そういう評価でまとめられることもあるということなんだと思うんです。
意味がないで言えば、調べられなかったから聞いておきたいんだけど、ビンセントが読んでる小説なのか本なのかあるじゃない。あれは実在するの?
わかんない。何読んでた?
なんかトイレで必ず本読んでるじゃん、あの人。
読んでますね。
タイトル何だったっけな。聞いてみよう。
えーと、ビンセントがトイレで読んでる本。
そんなの出るの?
パルプマガジン。パルプマガジンらしいですね。
はいはいはい。だからまあ安いものを読んでるってことですね。
ハードカバーだったよね。
あ、そうなの?
うん。
ハードカバーじゃないでしょ。
ハードカバーだった。
本当?
ハードカバーだよ。
本当に?
うーん、ちょっと自信なくなってきたよ。
そのさ、聞きたくなること…。
いやいや、やっぱそうだよ。ハードカバーだよ。
ほんと?
今画像検索したらハードカバーだったよ。
何読んでんだろう。
ハテナブログにまとめてる人いますよ。
女の人が…。
パルプフィクションのビンセント・ベガが愛読する小説、唇からナイフって書いてありますよ。
唇からナイフ?
はい。
ほっ。
やっぱちゃんと見てる人いますね。
映画化してるみたいよ。
なるほどね。やっぱり映画大好きですから。
必ず映画を差し挟んでくるわけですね。
みたいですね。
ひょっとするとその話の内容に関しても、何かこう意図的にというか意味を持たせている可能性はありますね。
ありますね。ただし残念ながらね、動画配信で一切やってないですね。
唇からナイフ…。どんな話なんだろう。
なんか女スパイ物語らしいですけど、イギリスで人気だったコニックの映画家らしいですね。
そうなんですね。
ジェームス・ボンドみたいなものか。
はいはいはいはい。いやー気になりますね。
キッチューで華麗なスパイアクション映画。モニカ・ビッティって書いてありますね。
モニカ・ビッティさん。
ちょっとご存じないけど。
ご存じ上げないですけれども、何なんですかね。何かを示唆している可能性はありますけど。
ね。ちょっと気になるけどわかんないね。
わかんないですね。
ちょっとその辺も調べて組み上げてから持ち出してくれる?
シンプルな話になっちゃうけど。今ちょっと調べて出てくるぐらいのことなのであれば。
その辺もちょっと詰めてから出してほしいなっていう。
この番組の意図って生きた日本語を届けようじゃん。
そうだね。一応もう忘れかけてるけれども。
一応全世界に向けて生きた日本語を届けるっていうのがこの番組では一番重要としている役割なんで。
そうそうそう。だから生きた日本語を届けるには生きたパッションも届けていかなきゃいけないわけじゃん。
だからさパッションが欠けてるって話してるんだよ今。
いやいや、今湧いたパッションだからさ。見てるときはなんか本読んでるなぐらいだったけど。
今会話を通してあれあの本どうなったんだろうなってパッションが湧いたわけよ。
急に湧いたのね。
そうそうそうそう。そういうことあるじゃん。
まあまあわかる。俺今日こんなこと言いたい場合一応あるから、それ俺が言ってる間お前はそれをちょっと調べておけばいいんじゃない?
唇からナイフがいったいどんなメッセージ性があったのかっていうのを今論を汲み上げるっていうのを宿題にしたら。
いいよ。そこまでのパッションはないな。
いいんじゃないかな。
それよりも言いたいことはあるよ。
じゃあ今日どっちから行きましょうかねっていうのもあるんですけど、まだジャブある?
やっぱね、タランティーノが出てきた瞬間ちょっとにんまりしたっていう。
まあね必ず出てきますから。必ずと言っていいほど出てきますよね。
すっげえ文句垂れる感じがする。
前回はジャンゴの時はタランティーノ出てきたと思ったらすぐに爆破されちゃったからね。
タランティーノがあんまりセリフに絡んでこなかったんだけど、今回もがっつり主人公たちに絡んで文句を言うしブチ切れるしみたいなのをやるところで最後は意地悪くさ。
頭の方まだ泡がある人みたいなこと言ってる人がイキイキしてるなこいつと思って。
ちょっと嬉しかったですね。
レザーバードークスでもゴリゴリに絡んできますから、やっぱり初期作品の方がしっかり絡んできますね、ストーリーに。
タランティーノはいいですよ。やっぱり好きなんだなって。
映画の全てが好きなんだなって気がしますね。
脚本も書いて、撮影もして、自分も出てっていう。多分全身で映画を浴びてないと死ぬタイプだと思います。
マクロだね。
そんな感じだと思いますよ。すごいなと思いますけど。
さてじゃあどっちから行くか。俺、深いかって言われたら深くないからサクッと言っちゃっていい?
じゃあいいですよ。
この映画を見た時の第一感想っていうか第一思い出しがあって、
アベマTVを見た時のことをちょっと思い出してさ、
あるハングレーとか闇バイトみたいなことがテーマの時の、
アベマTVの時のくそくだらないディスカッション、ディスカッションというか討論のね、
番組を見てた時に、あるこのチャラ男キャラの芸人さんがすっげえ真面目な感じで言ってたことをすごく思い出して、
なんかこうそういうハングレーとかヤクザとか、あるいはそういう反社会的な人たちっていうのが、
努力してないから社会に馴染めないんだみたいなことをよく言われるけれどもそれは違うんだ。
彼らは努力をしてる。ただその努力の方向性っていうのが社会に合わなかっただけであって、
彼らは彼らの基準で努力をめちゃめちゃしてるんだよっていうことをなんか言ってて、
この映画なんかまさにそうだなと思って。
なんかこの、なんていうかな、
マーセルスもブッチもさ、ヴィンセントもさ、
あるいはこのお嫁さんの人もさ、
ミヤもそのなんかこうプロ意識とかの自分の中の筋みたいなのを持ってて、
こう間違った方向にある程度全力疾走してる節はあるんだけれども、
でもその努力っていうのはすごくちゃんと自分らでやっているんだなっていうところをすごく感じたのね。
だからなんて言ったらいいんだろうな、この
社会に対する倫理っていうのと、
あとその事故への倫理っていうところがそぐわない形になったときって、
それすごい不幸だなと思って。
で、ちょっとこの映画を浅く見たときって、
えっとなんだっけ、
ヴィンセントじゃない方。
ジュールス。
ジュールスか。
ジュールスはなんかこう、
戒心したからこそ生き残れたみたいな見方もできるかもしれないけど、
結局何も変わってないよね、あの人っていう。
ほうほうほう。
いうのもちょっと感じてさ。
例えば?
なんか、あの、
エゼキエルショーっていうのはなんとなくかっこいいから言ってたんだみたいなことを言ったけど、
世の中の弱者がどうのこうのっつって言って、
強者は俺で弱者はお前だっつって。
だからなんかこう足を洗ってどうのこうのするんだみたいなことをなんかちらちら言ってたけど、
結局この人が足を洗って何するのって、
もちろん全く描かれてない部分だから、
分かりやしないんだけどもさ、発言からこう推察するとさ、
根っこの部分って何も変わってない、なくないっていうところもそうだし、
生き残った人たちっていうところを見ていくとさ、
あとはブッチだよね。
ブッチも結局は何も変わってないじゃない。
こう汚い金をこう手に入れて、
そのままこう汚いその血の中に入れられた、
汚い時計を手に入れて、
田舎に逃げて、
でも一生楽には過ごせるほどの金がない小銭を手に入れたっていうだけだし、
そのマフィアのボスも、
そういう逆に恥ずかしみを受けたりとかっていうような、
普通に考えたら映画の流れだったらさ、
あそこで会心することによって、
社会的にゼトされる方向性に進んでいくっていうのがさ、
一般的な物語かなとは思うんだけどさ、
そういう方向には全く進まないじゃない。
多分彼の気まぐれなだけであって、
別に多分気が変わったらやっぱブッチ殺しとくわって言って、
多分資格を差し向けるだろうなと思うとすると、
根っこの部分で人って何も変わらんのだろうなっていうところが一つと、
あとその倫理のない努力が努力と言えるのかっていう、
矛盾みたいなところを結構突きつけられた感じがして、
心に関してはちょっと俺もあんまりしっかり答えを持ってはいないから、
投げっぱなしにはなっちゃうんだけども、
自分が通している筋とか自分が行っている努力っていうのと、
社会の倫理っていうのはパラレルになった時ってどうしようもないんじゃないみたいな、
いうところを見せることで、
逆に彼らの哀愁みたいなのがすごく見えたなっていう気がしたっていう、
僕の投げっぱなしな感じです。
絶対に許さないんですよね。
そんな彼のスタンス、もちろん作家性が変わっていった彼も物の見方が変わっていったってところはあるかもしれないんだけれども、
やっぱりこのレザーバードックスパルフィクション記においても、
彼らの人生を肯定する見方はさすがにしてないと思うんだよね。
そんな彼らでも頑張ってるじゃなくて、そんな彼らが絡まっているところこそ、
結局人間の人生の喜劇性なんじゃないのかっていうスタンスだと僕は思うんです。
そこは俺も同じ意見よ。
彼らが努力をしているっていうようなスタンスではないんじゃないかなって思う。
だとしたらもっといい努力、必死こいて頑張ってないと困らないっていう。
僕らの尺度で言う努力っていうのと、パルフィクションの映画の中で言う努力っていうのは評価軸が違う。
それはもちろんわかってる。
それはもちろんわかってるんだけど、だったらミアはもっと描きようがあるんじゃないかっていう話。
でしょ?
そうか。
でもどうだろうな、僕なんか腑に落ちないの。
ずっとミアはボスの女であり続けているわけだからさ。
それを彼女の中の、彼女が意識していないところ。
意識してないんだったら努力じゃないし、
多分それを本当に描くんだったら、彼女がどうやって女を使ってボスの女でい続けているのかをドラマとして見せないといけないじゃん。
そこは一切描いてないし、しかも何だったら彼女はボスが完全に自分に惚れていて、
足のマッサージはおろか、結婚式で握手をしただけで一人人間を殺しているという事実を理解してるんだよね。
理解した上で、一切それも死害に欠けずに、ヴィンセントをダンスに誘ったりするし、役を決めるような女ですから。
それは努力とは反対だよね、むしろ。ただ自分が思いついたことをやりたいキャラクターとして完全に描かれてるじゃん。
ちょっと僕の一部妄想というか、願いが入ってたかもしれない、そこは。
なんかね、大間の言わんとしていることはわかる。そこに繋がるのは多分ジュウルスぐらいだと思う。
あとCって言えばブッチ、努力の方向性が間違ってる連中。きっとジュウルスは自分の仕事に信念を持って取り組むっていうことが大事であるっていう風なイメージを持ってる。
だから、よくわからない何の意味もない言葉を毎回言うとか、そういう形骸化したというかね、ただの形としてのことを持ち込んでまで、
自分はその仕事と向き合っているんだみたいなイメージを持とうとしていた。
ブッチに関しては結局まっすぐ生きていくことができないから、汚い金でも手に入れて、危険を犯してでも女と逃げる道を選ぶっていう、
どう考えてもリスキーな賭けに全力を出す男ですから、そういう点で言えばそうかもしれない。
かもしれないんだけれども、例えばじゃあヴィンセントどうなんだっていうと、彼こそ空虚ですよね。
彼別に仕事に何のプロ意識も持ってないですから。
だって彼一度でも仕事に本気で向き合ったことがあるかっていう話なんです。
やってる感は出してるんだけれども、彼って本当に決定して空虚な人間として描かれていて、
だって何にも噛みつく必要がない人間にわざと噛みついてみせるっていう掃除屋に対して、
何にも中身ないのにただ食ってかかってみせる、自分を大きく見せるためだけに。
それでいて中身何にもないから続く玉が一切ないとか。
だから何にもないじゃないですか彼って。
うん、確かに。
そう、だからそういう人間も描くんですよタランティーヌは結局。
だからなんだろうな、悪のかっこよさは描いてないんですよねやっぱりね。
そのかっこよさだけじゃなくて、やっぱりこうなんていうのかな。
多分いろんな人間がいていいと思っているから、
だから一貫してこういう人間たちのこういうところを見てくれがあんまりないんじゃないのっていう気はしていて。
なるほど。
でも大間の言ってるような努力の方向性が合わない、チャンネルが合わないから生きづらいっていう人は多分社会にはいっぱいいると思うし。
ただタランティーヌ作品の中でそれは多分出てくる時もあるかもしれないけど、
それは一部に限られるんじゃないかなとは思ってしまうかな。
そっか。
これも俺の一つのパッションだったかもしれないね。
まあまあまあそれはいいんだけど。
なんかこう問いたいというかさ、なんかないの?
今回の映画見てさ、なんかその社会倫理と滑稽さっていうのがすごいなんかこう自分の中でグルグルグルグル見たっていうのが今回の時の見方なんだよね。
だから、でもこれ駿明画っていった本質っていうのが、多分その時の心情であったりとか立場によって多分見え方がだいぶこう違ってくるんだろうなっていう気もしてて。
で、なんて言うんだろうな。
引き合いに出そうとした話を。
あ、そうそうそうそう。
例えばね、別の映画の話で大変申し訳ないんだけど、
ホタルの墓っていうと、
僕最初は親戚のおばちゃんがなんて野郎だって思ってたんだけど、
ある時から、親戚のおばちゃん真っ当なこと言ってるなっていうのも感じたし、
で、とある時から、いやこれ真っ当なことどっちも言ってねえなっていう。
この状況に侵された社会がやべえんだなっていうのに思ったりとかっていう風に。
たぶんその年代によってとか、その自分が置かれている立場によって、
たぶんその構造の見え方っていうのがだいぶ変わってくるんだろうなっていうのがすごく思ってさ。
今回の映画でもそのなんだろう、
善悪っていうのの見方っていうのが、
今の僕にはすごいグレーゾーンとかグラデーションだったりとか、
っていうようなものっていうのがすごくあるんだよなっていうことをちょっとひしひしと
なんかこう昨今感じてる面があって、だからたぶんこの見え方がしたんだろうけど、
たぶんまた違う見方が、
ひょっとしたらたぶん別のタイミングで出てくるんだろうなと思わせる映画だったから、
だからこれスルメだなって思ったよね。
だからあんまり実のない話で大変申し訳ないんだけど、
将来的に見たらたぶん感想変わるんだろうなってそう思ったっていうそんなに深い話でもないですよね。
その今の話に基づいて、
実際2回目見たらこういう見え方に変わったみたいな話が続いてくるわけではないと。
今はその倫理と努力とか社会と倫理ってどうなんだろうなっていうのをひたすら考えながら3回見たっていう。
で、その社会と倫理が?
さっきの話。
しかもそこに対する大間の強い結論もないわけね。
今回本当に申し訳ない感じにはなっちゃうんだけどさ、
何て言うんだろうな、映画を見ながら1回目を見た時には、
これ社会と倫理の話なのかなっていう感じになって、映画を見終わったと自己反素をずっとしてたわけよ。
これってどういうことだったんだろうなとかって。
そういえばチャラを言ってたなみたいな話を思いながら2回目を見るわけよ。
こういうところってそういうところを被ってくるかもしれないなとかって。
何て言ったらいいんだろうな、この会話を聞き流しながら自己反数の道具になってた。今回の映画。ある意味。
で、自己反数の結果出てきた答えが?
何もないよ。
お前さ、これお前ゴジラマイナスワンが語りたくてその2と同じだよこれ。
違う違う。そこに関してはちょっと反論したい。
ゴジラマイナス2は。
マイナス2ってなんだよ。
ゴジラのその2に関しては、見た内容をよく覚えてなかったし、ごっちゃになってたから実がなかったわけよ。
今回のはそこじゃなくて、見た結果の自己反数の内容っていうのに答えがなかっただけだから。
だって倫理の話なんだもん。答えなんかないさ。
それは答えはないけど、少なくとも今の僕はこれをこういうふうに考えていて、みたいな。
で、それがまた映画にこうやって落とし込むと、みたいな話まで詰めてくるのかなと思うやんかそれ。
たぶんこうやって倫理と社会の話で、努力と社会の方向がつながってないと、それって辛いんかなって、みたいな余韻残されてもさ。
俺に何を言わせたいんだよってなるじゃん。
なんかもやもやして終わっちゃったよこれ。マグノリオ見た時と同じ感じ。
あ、そっか。なんかごめんね。
大丈夫。たぶんね、まこちゃんが前回君たちはどう生きるかを見た時の気持ちとはまた違うなこれな。
でもね、この映画を見ていろいろ考えさせられたし考えたんだよ。
考えたんだけどもやもやする内容しか残んなくて。
正直今日ポッドキャストで何話そうかなってずっと考えてたんだけど、
なるほど。
まとまった話ねえってなったこのもやもやを今日はぶつけるパッションだ。
それはね、そのパッションで走る前に収録ボタンを押す前に言ってくれよ。
今日俺は瞑想してるからみたいなことを言っといてくれよ。
そうね。今度からちゃんと言うようにするわ。
ちょっとね、全体的に準備不足ですね。パッションギリしてくるしさ。
僕のパート行きますよ。
はい。お願いいたしますよ。
本当は僕の視点じゃない視点で何が何のメタファーなのかみたいな話を聞けるのかなって思ってたんよ。
ごめんなさい。自分の自己世界にずっと潜り込んじゃった。
そうならなかったので、僕の話をしますけど、
僕はこのパルプフィクションはスタイリッシュ映画じゃないぞと。
ただのスタイリッシュ映画じゃないぞというふうに思ってるのは、
偶然と運命の境界線って何なのかっていうのがこの作品の最大のテーマだと思ってるんですね。
偶然も運命も実質同じものなんですよ。
はっきり言いますけど、偶然が偶然であるとされるのは、
これは主観的に誰かがそう判断したからであって、
同時にその出来事を運命というふうに判断する人がいればそれは運命になるということなんだと思うんですね。
だからこの作品の中でのキャラクターの分岐点は度重なる偶然であると。
ここからいきますけれども、さっきジュウルスの話を大間が言ってました。
ジュウルスは結局人間が変わってないという話をしていたんだけれども、
別にジュウルスは人間が変わったわけじゃなくて、
僕は変わりたいんだっていうふうに言って、ただ自分の生き方を変えただけなんですね。
でもそれで十分なんですよ。それで十分。
この中でジュウルスは偶然を運命だと読む人間として描かれてるわけね。
そもそもなんで僕はこの大きな群蔵劇を偶然だの運命だのが主題だと考えたかというと、
それは当然エンドロールにつながる話があそこだからなんですよ。
数ある無駄話の中で、オープニング終わってからの話と、
そしてラストの話まで通して貫いているのが、
その銃弾が当たらなかった、至近距離でぶっ放された銃弾が一発も当たらなかったっていうことを、
ジュウルスはこれは奇跡であり運命であるっていうふうに読み取ったっていうことが、
作品を一本貫いてるんですね。
それで終わっていく以上はもうこれが絶対主題だろうというふうに俺は考えましたと。
ジュウルスに関しては偶然ではない、これは神からの啓示だっていうふうにそれを解釈した。
ギャングの世界から足を洗うことを決意するわけだよね。
それが結果として、ジュウルスはその後の仕事に参加してないわけじゃないですか。
結果としてはヴィンセントは死んだけど、ジュウルスはおそらくは死んじゃいないんだよね。
まあね、語られてないからね。
そうなんですよ。
ここで対照的にヴィンセントは一体どうだったのかっていうと、
ヴィンセントにも奇跡が何回も起きてると思うんですね。
これ何だと思いますか?
メリー・ポピンスじゃなくて、ハニーバニーがさ、
まずは多分ハニーバニーとかが暴れ始めた時にトイレにいたっていうのもそうだし、
あんな雑な処置で生き返った、なんだっけ、リサ?
ミア?
ミアもそうだし、
これ全部マイナスの奇跡が起きてるんですよ。
注目してほしいのはトイレですね。
ヴィンセントがトイレに行っている時に最悪の事態が必ず起きてるんですよ。
ミアが過剰接触したのはどのタイミングですか?
トイレ。
そしてハニーバニーとパンプキンが強盗を展開し始めたのはいつですか?
トイレ。
そしてブッチが逆襲してくるのはいつですか?
トイレ。
全部トイレなんですよ。
ほんとだ。
ヴィンセントはこの物語、わずかおそらく1日か2日の出来事なんですね。
群蔵剣カットされてるけど、おそらくは1日から2日の出来事なんだけれども、
この間に何度もトイレに行く度に自分にとって危機が訪れているっていう、そういう偶然が起きてるんですよ。
でも彼は結局その偶然に対して何の対処もしないんですね。
特に注意しなければならないタイミングでことごとくトイレに行くことを繰り返すんですよ。
じゃあなんでそんなことをするかっていうと、これもヴィンセントとジュールスの会話に現れてくるわけですよね。
至近距離で銃弾が撃たれてそれが一発も当たらなかったことに対して、ジュールスはそれを奇跡だと呼ぶ。
そしてこれは運命だというふうに何度も何度も繰り返すんだけれども、ヴィンセントはその度にいやそんなものは偶然に過ぎないんだと。
そんな意味を見出すことが馬鹿らしいと一周するわけですよね。
でも結局彼のそのスタンスもただの偶然に過ぎないんだけれども、その偶然に意味を見出さずにただただ受け流した結果、ヴィンセントは最終的には命をあっけなく落とすわけですよ。
ある意味ではジュールスのようにそこに名前をつけて運命という名前をつけて、トイレに行くタイミングっていうものをただ測れば、彼は全然死ぬはずはなかったはずですよねどう考えても。
ほぼ丸腰のブッチに対してこっちはもう明らかにオーバーキルできるような馬鹿くそでかい銃を持ち込んでいるわけですから、本来死ぬはずはなかったんだけれども、
彼はそれまでに繰り返してきた最も重要なタイミングでトイレに行ってしまうっていう、これを一切回避することはできない。
対してブッチはどうなのかっていうお話なんですよ。
ブッチに関してはさっきオウマが言ってましたけれども、他人から見たらただのおじさんのうんこまみれの金時計ですよね。
金時計だったか忘れました、時計か。
おっちゃんの肛門にひたすら入り続けた時計って誰がどう見ても宝物にはなり得ないですよね。
ただブッチの身に起きた出来事、天末っていうものを考えると、そんな誰もが一切興味を持たない。
そまみれの時計に対して彼はめちゃくちゃ執着をして、絶対に危険だってわかりきっているにもかかわらず家に取りに行くわけだよね。
でもその結果、偶然にもヴィンセントをやることができ、その後マーセルスと鉢合わせしちゃって、やばい目にはあうんだけれども、最終的には彼は目的を果たしているわけですよね。
逃げることができた。そもそも時計に執着をしなければ、おそらくは彼の命っていうのは流れることはできなかったはず。
マーセルスから送られてくる資格でもって、たぶんしばらく生きることすらできなかった。
ところがあのクソみたいな出来事にマーセルスと共に巻き込まれたことによって、結局彼の命はより長くつながることになったわけじゃないですか。
ここで注目すべきは、一般人にとってはクソまみれの時計はクソまみれの時計に過ぎなくて、ある意味では意味を見出さなければ偶然は偶然に過ぎないわけですよね。
クソまみれの時計も意味を見出さなければクソまみれの時計なんですけれども、ブッチはあのクソまみれの時計が幸運の鍵であるというふうに擦り込まれて、そこに自分なりに意味を見出していたからこそ結果的にグッドラックを引き当ててるわけです。
ここでなんだけれども、なぜオープニングがパンプキンとハニーバニーだったのかっていうことを考えたいんです。
これだけ投資でやっていくんだったら、しかもその中心に貫いているのがジュールスとヴィンセントなんだったら、ジュールスとヴィンセントからスタートしてもいいじゃん。
なんでパンプキンとハニーバニーなんだっていう話なんですよ。
なんで?
彼らはまさしくとんでもない偶然を引き当ててますよね。
あの二人をいる中で強盗しようとしたという。
ある意味ではダイナーなんていう誰も狙わないようなところをあえて強盗するっていう奇策を思いついて、これは絶対価値覚だわと思ったらそこに本業の殺し屋がいるっていう環境です。
これはとんでもない偶然なんだけれども。
でも結果的にさらにもう一個偶然が重なっていて、そのうちの例えば片方ですね、おそらく最も直上的ですぐに撃ちそうなヴィンセントはトイレに行っていて、
もう一人のジュールスに至ってはたまたまついさっきの仕事で奇跡を感じていて、結果として逃がしてもらえたわけじゃないですか。
これはとんでもない偶然なんですよ。
ただでもこの偶然を経た後にこの二人がその後どうなるかに関しては一切描かれてないじゃないですか。
天末としてはジュールスは偶然を奇跡と読み取って、結果としては仕事から足を洗って退場していく。
ヴィンセントは偶然を偶然のまま流してきたから結局命を落とす。
ブッチも自分にとっての何の意味もないものに意味を見出したからこそ、結果としては幸運を引き寄せている。
対してパンプキンとハニーバニーに関しては、このちょうど足を洗うことを決意したギャングに命を繋いでもらうという超絶奇跡を受けて、その後どうなっていくかは描かれてないわけですよ。
実はパンプキンとハニーバニーの今後こそが、ある意味ではこの作品の中で描かれている、想像の余地が残されているキャラクターなんじゃないのかと。
もしもこの出来事に意味付けをするのであれば、パンプキンとハニーバニーがこんなことがあるんだと、その出来事に対して彼らが運命だと思うのであれば彼らはひょっとすると生き方を変えるかもしれないよね。
でもこれをただの偶然にすぎない。いやいやいや、そんなことちょっと滅多にあるわけじゃないんだからと。また別のところ行って強盗すれば、単純に今回みたいなことは起きないわよ。
だって偶然だものってなってたら、彼らは多分生き方を変えることもないし、その後も多分なんとなくでやっていくのかもしれないんだけれども。
だから結局のところこの作品は善悪は解いてないのね。善悪は一切興味がないのよ。だから実際連中はみんなほぼ悪なんですよ。
でもここで描かれているのはだから何が良くて何が悪いかじゃなくて、人生にはいくらでも偶然が転がっているんだけれども、それに運命っていう特別な名前をつけるものだけが自分の人生の選択を変えられるんじゃないのかっていうことを描いてるんじゃないかということ。
ジュールスは偶然に意味を見出したから自分の人生を変えた。リンセントは意味は見出さないから破滅している。ブッチもある意味偶然に突き誘拐されて最終的に自由を掴んでいる。
パンプキンとハニーバニーはこれからどう生きるかが作品の中で結局問われている。タランティーノにとっては偶然をどう捉えるかっていうのがその運命の左右に繋がってくるだろうし、
その選択の意味付けっていうのはあくまで人間自身に委ねられてるよねっていうメッセージを物語構造の中に組み込んでるんじゃないのかと。
なるほどね。でもそれって聞いててちょっと虚しいなと思っちゃったんだけどさ、結局そのラベリングをするか否かっていう話になってくるじゃない。
すごく嫌な言い方をすればさ、起こった出来事を後からこじつけているっていうことをするか否かでその人の人生が変わるかどうかっていうのも、
でもそれはある意味自己反数がしっかりできていることになるのからいいのか。自分が起こった出来事に対していかに自分で反通をするかっていうことによってポジティブな方に向かうのか。
それともネガティブまでは言わなくてもそのままニュートラルでいくのかっていうふうに考えたら、確かにそれは意味あるな。ごめん、なんか自己簡潔しちゃった。
いやまあだから単純な話、別にね、人生で起きる物事に導きなんて本来はないっていうことを言いたいんだと思うんですよ。
起きることは起きるし起きないものは起きない。ただそれだけの話。ただ結局自分の生き方を変えるのは自分に過ぎないし、諸行無常なんですよ結局は。
そこに意味なんて本来は存在しない。意味なんて本来存在しないんだけれども意味を見出すやつだけが自分の選択を変えられるんじゃないのっていう。
ただそれだけのことをまあいろんなギャグでもって覆って描いてる。だって別にトイレである必要ないじゃん。
ヴィンセントの天末が。引き金がトイレである必要は一切ないんだけれども、それを全部トイレで描くっていうところがタランティーノのおふざけですよね。
まあ、こじつけるとすると、クソと一緒に流すようなか、事故のうちに溜めておけるか、その反数をすることによってっていう。
弱いな。
まあ弱いな。なんだろうね。クソみたいな人生ぐらいでいいんじゃないだったら。ヴィンセントの人生はクソみたいな人生でいいのかもしれないね。
別にトイレである必要は一切どこにもないんだけれども、そういうちょっとした弱めのジャブジョークですよね。
別にストーリーに全然絡んでこないジョークは必ず挟んでくるんで。ジャンゴでもそうだったじゃん。
頭巾かぶってる連中。
KKK?
そう、KKK申したさ。爆殺されるやつ。馬に乗って。
そうそうそうそう。
ああいうしょうもないギャグは割と挟んでくるから。
なるほどね。
多分それにそぐものなんだろうなと思いますよ、トイレは。トイレである必要はないのかなと思いますけど。
ある意味では偶然も運命もないんだけれども、でも偶然と運命っていうものを名前つけるか否かで、自分なりに判断ができるようになるんじゃないのっていう。
しかもその判断が合ってるか合ってないかも別に興味はないと思うんですよ。
そんなことはどうでもよくて。単純に人間の判断ってそんなもんじゃないっていう。
ものすごい相対的にものを見てるとは思うね。
だからこの作品を通して、だから運命は、だから自分の判断で運命を見つけてこうせえっていう話でもない。
結局それを選択してるのは人間に過ぎないよねっていう。起きる出来事はただの起きた出来事でしかない。すべては偶然でしかない。
っていう多分そういうスタンスかなっていうふうに思う。
そこに意味付けがされるとしたら、自分でそれにラベリングをどうするかっていう話だもんね。
だからもしもこれがそういう運命は自分で勝ち取らなければならないみたいなメッセージ性にするのであれば、やっぱりもう少しキラキラしたものにしないといけないよね。その後の天末をね。
でもほぼ何もわからないじゃない。そんなのは。みんな結局裏社会からただ足洗いましたでしょ。
汚い金持って田舎暮らしでしょ。キラキラした話ではないのよ。始めから終わりまで。
でもなんとなく、ただ自分の生き方を変えていく連中っていうものは、結局自分の中で譲れないものだったりだとか、あるいはただ起きたなんでもない出来事に意味を見出すやつ。
そうだね。
この間すっげえ説教臭い映画を見て、すごいしんどくなったんで、タイトル言いませんけど、うっせーなーとか思っちゃった節はあるんで。
それを思うと、なんて肩の力抜いて見れるんだっていうのはちょっとありましたね。
まあでもさ、ある意味テーマ性は似通ってない。
そうかな。
自分とその社会との関わり方とかさ、自分に身に起こったこと、あるいは自分が生きるということの目的に関して、君たちはどう生きるかっていう話じゃん。
だってそこに何か意思を問うてきてるじゃん。問うなよ。意思を問うてくるな、こっちに。
だからそれをフラットな状況で作ったのがパルフィクションで、これをジジイの…
いやいや、だって向こうはジジイの主張そのものじゃないですか。こっち、ぶっちゃけ最終的には諸行無常じゃないですか。それでいいんだよ、別に。
なるほど。
物事はこうあれとか言ってくんじゃねえよって話じゃん。どう生きるかって問うてくるなら、俺はこうだって言うなよって思うんですよ。
なるほどね。
めんどくさい上司じゃん、それだって。俺の場合だったらこうやってこうやってこうやってやるし、やっぱりこういうリスクとかも考えると、こういうところまでやるのは当たり前だと思うけど、お前どうする?みたいな。
いやもうやれって言えよ。めんどくせえなこいつっていう感じになるじゃん。通ってくるなって話。
タランティーノがさ、君たちはどう生きるか作ったらさ、王子がツンってした時点で積み木が崩れてさ、崩れちゃったねえとか言って、生えるか?とか。
ツンとかしないから。マグナムぶっぱなすから。
ツンじゃないのよ、タランティーノが。
60話なんとかかんとかで。
王子が語り始めた瞬間にもうあの火炎放射器で焼くとかするから、タランティーノ。うるせえ!っていう感じになると思いますね。
包丁研いでるのがタランティーノなんだろうね。
映画というツールをどう捉えているのか、監督が。っていうところが多分、スタンスとして全然違うだろうなって気はしてるね。
タランティーノはさっき映画オタクだっていう話をしましたけれども、本当に映画オタクなんですね。死ぬほど映画オタクなんです、この人は。
映画への愛情がやばいんですよ。
でも多分彼の持っている映画への愛情っていうのは、限りなく自分を楽しませてくれた映画っていう文化に死ぬほど愛情を感じてると思うんですね。
そうでなかったら、登場人物に千葉新一の映画のオープニングを喋らせたりしませんよ。どう考えても。
もっと説教くさい、ヒューマンドラマの中でパンチラインとして使われる、すごい染み入る言葉みたいなのを引用してくると思うんですね。
でもそういうことしないんですよ。彼が引っ張ってくるのはB級とされるような映画だったりだとか、あるいはエンタメ全振りの破綻なんて全然いいよっていう流れの中で作られたようなアクションだったりするわけですよね。
彼は結局エンタメ作品、映画エンタメタレっていうスタンスは、今日に至るまでマジで忘れてない。
だからジャンゴもああいう作品になってくるわけじゃないですか。あれだけ文化を織物として、歴史を織物として積み上げて作品作り、ドラマ性を作っていくにもかかわらず、ラストあれですからね。
もう館ごとぶっぱなして、その時代に存在すらしないはずのサングラスかけて去っていくっていう。
確かにね、エンタメであれっていうのにはすごく共感するところもあってさ、宮崎駿も手塚治虫も言ってることがあるんだけどさ、
アニメーションとかそういう空想の世界を作るには、孤立しちゃいけない、人とコミュニケーションをしとって、人と関わって人と接するからこそいい作品ができるんだみたいなことを言ってるんだよ。
だけど結果として手塚治虫も宮崎駿も生み出してるのはオタクだけなんだよね。人とコミュニケーションが取れない。
すごいなあ、すごい玉投げてきたな。そうだね。
だからどっちかっていうと、晩期の手塚治虫さんの作品、それこそ火の鳥とかブラックジャックとか、今の宮崎駿作品もそうなんだけれども、
特に鉄腕アートムとか三つ目が通るとかさ、あるいはトトロとかっていう時代の、観客を楽しませた上での考察の部分っていうところっていうのは、
だんだんだんだんこう、ジジイになって説教臭くなって、そっちだけがメインになっちゃっていって、
結果として残るのは自分らの希望とは違う人種だけが身の回りに固まっていってるじゃない。
それってすごい皮肉だなって今すごく思っちゃった。
なんかこれも、君たちはどう生きるかを表番組のポケ沼で話した時にも俺は言ったんだけれども、
なんで作家っていうのは最終的に自分史を作りたがるというか、作品に自分を投影しすぎるのかっていう、やっぱりちょっとそうがすごい気になっていて、
宮崎作品もその経路がすごい濃いじゃないですか。
濃くなってきたって言ったらいいよね。
楽しい作品よりも自分を表現することにものすごい軸足を置いてる。
それもまあいいんだけど、ただ結局のところ宮崎駿作品には興味があったけど、別に宮崎駿学には興味がないんですよ僕は。
っていう人にとってそれはエンタメたり得るのかという。
多分やっぱそういうところに陥ってしまうんじゃないのかなっていう気はするんですよね。
だからその点で言うと、俺はタランティーノをものすごい評価してるんですよ。
未だにエンタメを忘れていないから。
で、そこに確かに、いわゆる巨匠と呼ばれる映画監督たちと同様に思想がどんどん乗り始めるよね。
俺はこう考えているっていうふうな、俺は描きたいのはこういう世界だっていうのは乗ってはきているんだけれども、実際こう歴史を扱ってくるようになったし。
ところがそこに、だけどエンタメですからっていう、そういうスタンスがずっと残り続けているのはこの人のすごいところだなと思ってるんですよね。
だからもうここだけは本当に変わらないでいてほしいし、画面の中では全てが自由だっていうことを見せてくれる監督なので。
それはCG技術とかで大空を飛ぶとかじゃなくて、徹底したエンタメとしての暴力で見せてくるんですよ、この人は。
なんか面白い人だなというふうに思っているんで、これからもご活躍くださいっていうお話になりますけど。
これで何かこう、晩年説教くさい作品作ったら面白いね。
それはもう、だからもう僕そういうの本当にドライなんですぐ切りますから。
向こうはもう僕に切られたところで何にも痛くも痒くないの承知の上で。
もう宮崎駿なんてとっくの昔に切ってますから、僕。
とっくに。全然興味ないですっていう感じでちょっとなっちゃってますけど。
やっぱりね、なんだろうな、そこは忘れてほしくないですね。
所詮は我々消費者に過ぎないんですよ。
でも消費者を楽しませてこその作り手だろうよとも思ってはいるんですね、僕は。
当然アートっていうものは自分の中にあるものを表現する行為のことを言うと僕は思ってはいるけれども、
しかし商業ベースに乗せたらそれはもうエンタメでなければいけないとも思ってるんですね。
少なくともね。
その辺はまたアートとは何かエンタメとは何かみたいな語りに繋がっていっちゃうので、深くは掘り下げませんけれども。
まあとにかくパルプフィクションはさておいてですね、
Once Upon a Time in Hollywoodがとんでもない劇だったんで、それもいずれは大間に見ていただきたいですし、
その時は大間にもいろいろ深掘りしてきてほしいなっていう。
自分の世界に閉じこもらないで、こうなんじゃないか、ああなんじゃないかをいろいろ言ってほしいなと思ってます。
ある意味今日の、今週の僕はパルプフィクションだったね。
どういうこと?
意味のない映画を見るという行動と、自分がそれに対して思いを馳せているっていうのをただただ流れて、
偶然性、奇跡性に全く気づかない状況っていう。
まさにパルプフィクションだったっていうね。
これすげえいいオチだったな。
ちょっと撮っておいたほうがよかったんじゃないですかね。
うん、ちょっと言っちゃった。ワンパッションだね。
今日はすごい何かな、これオクラ入りかもしれないぐらいの盛り上がりの賭けですね。
そうかな。
笑いの質が違うもん、今日なんか。どうしようの笑いですから、お互いに。
結構ね、困惑だったんだよな、この映画。
その困惑を先にぶつけといてよ。
そっか。
そしたら手がかりをお互いに共有してさ、こういう感じで攻めたらお互いどういう風に意見変わってくるんだろうね、みたいな。探れたね。
あと1個あるとすると。
ちょっと待って、ちょっと待って。
その1個あるとするとはオチに繋がらない?
繋がらない。
1個あるとすると前回の君たちはどう生きるかは、僕にとってわーっていうお祭り会だったわけよ。
でもマコちゃんにとってはんーっていう感じの会だったわけじゃん。
で、わーってなった後だから、僕としては。
多分脳みそが若干疲れてるわけよ。
で、今回マコちゃんにとってのお祭り会じゃない?
まあそれはマルボフィクションはほんと好きですからね。
だからこのお互いのボルテージの違いがこう…
いやでもさ、でもでもだよ。でもだよ。
でも俺、君域ちゃんと読み取ってきたじゃん。
どれが何のメタファーだったとしたらこれはこういう風な構造でってちゃんと組んできたでしょ俺。
全然好きじゃないけどって言って。
ちょっとバーンナウトはあったかもしれない。
ちょっとね、やっぱり今回ゴジラマイナスワンその2の空気ですよ、これは。
そっか。たまにこういう会が含まれても生きた日本語としてはいいかもしれない。
都合のいい逃げ道を見つけましたね。
生きた日本語ですからっていう。
もう積極的に使っていこう。
ちょっとそんな感じでプランディングしててください。
ちょっとまあとりあえず一旦切りましょうかね。
大丈夫ですかもうそれでもう言い訳は終わりましたが。
僕最後に一言だけ言うとするとね。
1個だけです。
シャブはダメ。
何でみんな同じ吸い方するんだろうね。
あれは何?誰が広めたのって。
あのトントントントンって。