思考の重要性
はい、シゴクリラジオ大橋です。よろしくお願いします。 この番組シゴクリラジオは、パーソナリティである私、仕事クリエイター大橋が仕事づくりに関して話をしていく番組となっています。よろしくお願いいたします。
今回テーマは思考ですね、思うに考える思考、考えることですが、
踏み込んで考えるみたいなことを、今までやってこなかったとは思ってないんですけど、より意識してですね、
これはどういうことが課題って思ってて、どういう取り組みをして、その結果何を考えているのか、過去現在未来みたいなのは考えやすいですよね。
過去、取り組みとしてはこうでした、今現在こういうふうにしてます。何でかというと、こういうのを狙っているからですっていうね。
非常にわかりやすいと思いますが、そういう形で見ているというか、捉えるようにしているんですよね、特に最近は。
そうやって見ていくと、これは僕自身もなんですけど、今起きていることとか、調べることとかってされると思うんですけど、リスナーのあなたも。
だけど、調べていることもすごく偏ってて、全然知らなかったり、もしくは知らなかったことを教えてもらってもピンとこないというか、関係ないというかね。
だから僕からすると、こういうのありますよっていうふうにしたときに、ヒントにならないというとちょっと言い方がおかしいんですけど、その人にとって参考になるものではないと。
その人にとって参考になるものではないというのは、その情報が使えないっていうのはもちろんあるんでしょうけど、
過去現在未来とかってもそうだし、その課題が何でどう解決するかとか、自分は独りよがりになっていないかとか、要は考えることがいっぱいあるわけですよね。
その考えるところが手前のところみたいな、まだそれって言い方よくないんですけど、アイデアじゃないじゃんみたいなね。思いついたっていう。例えばこういうのよくないですかみたいな。
それがダメとは言ってないんだけど、そういうのを思いついただけで形にできるわけじゃないですよね。飲み会とかでの、こういうのあったらいいよねぐらいの、そういう話だったら全然いいんですけど、本当にそれを検証していったり形にしていくとなると、
いいよねではダメなわけですよね。いいよねでダメっていうと、いいよねがいいよねをしちゃいけないっていう話じゃなくて、いいよねでさらにアクセルを吹かすと言いますか、ギアを変えるというか、ギアなのかな?わかんないですけどね。もうちょっといるって感じがしますよね。
で、また話戻るんですけど、あらゆるサービス、商品、ビジネスじゃなくてもいいんですけどプロジェクトとかで、なんとなくやるっていう人っていうのは非常に少ないと思うんですよ。なんとなくですよ。
なんとなくこっちの方がいいから判断したがあっても、なんとなくやるはないんじゃないかなっていう。なんとなく仕事するってあんまりないんじゃないかなと思ってるんですけど、なんとなくやってみようって言って、できます?って話で、要は判断としてはなんとなくだけど、決めたからにはやりますとか、決めたんだけどなんとなくやってるんで、ちょっと身になりませんでしたって。
なんとなくやるとそうなりますよね。なんとなくって危ないなっていうことでもあります。
今回はですね、そんなところでですね、思考ですね。考える深さみたいなのってなんだろうなっていうことをですね、ちょっとふわっと考えてまして、今回ふわっと回ですけど、結論を求める方は聞かなくて全然OKで、なんか考えるってなんだろうねみたいな、そういうふわっとしたテーマで。
今回は言ってみたいと思います。気になる方は引き続き聞いてみてください。今回もよろしくお願いします。
なんとなくの態度
はい、しごくりラジオ大橋です。今回のテーマはですね、ふわっとしてますが、考えるってなんだろうか。これだとちょっと大きすぎるんで、特にですね、しごくり的に言ったら、なんか新しいことをします、したいです、もしくはなんかやってますっていう時に、どこまで考えてやっているかみたいな話ですかね。
いろいろ言いたいことがあるんですが、言いたいことがあるというよりも言いたいことが出てくるんですけど、まず考えているから偉いというかね、考えればいいっていうものじゃないですよね。
要は、考えても進捗しないというか、わからないものもわからなくて、聞かなきゃダメじゃないとかね、わかります?自分なりに何かで考えたから、すなわち良くなるとかね、すなわち成功が保障されるとか、そういうのじゃないですよね。
まず大前提があります。だけど、さっき言ったなんとなくじゃないんですけど、なんとなく仕事作りたいと思って、なんとなくやって、なんとなく得たかったものが得られるかというとですね、わざと言ってますよ、なんとなくって。
なかなか難しいわけですよ、それは。なんでだろうなと思ったときに、なんとなくという態度がダメということもなく、要はどちらかというと、なんとなくっていいこともあるんですよ。
なぜなら、自分が想定していなかったものもちょっとやってみようかなみたいなふうに思ったりしますし、それはなんとなくとか、余地、余白ですよね。中間領域みたいな言葉が僕は好きですけど、間、淡いですか、そういうものが大事なわけですよ。
だから、なんとなくは結構大事だと思ってます。なんとなくを撲滅せよとは全く思わないんだけど、全部なんとなくでも良くないんだろうねみたいなのがある。一方で、カチッと決めてやると、それがいいかというと、決めることで他のものは排除しますから、なんとなくも排除していっちゃうわけですよね。
すごく難しくないですか?だからどうすればいい?中年みたいなことになるんだと思うんですけどね。どうお考えでしょうか?リスナーのあなたはどうお考えでしょうか?
なんかね、その辺りがこうすればいいみたいなのはないですねっていう話ですよ。さっき冒頭話した通りで、じゃあなんでそれをやるのか?それをやったことでどうしたいのかどうしたいのかみたいなことを別に嘘でもいいので言うことができるわけですよ。
別に嘘じゃなくてもいいんですけど、本当に思ってた。だけど、仕事づくりも企業もですが、その確からしさというのが低いと。確からしさ、確実に起こる確実性、実現性みたいなものを言葉で置き換えてもらえばいいんですが、
そうやってやろうとしていることが実現する確率は?って言われたときに、どれくらいで人がやるかなんですよね。1割だったらやります?8割だったらやります?ここが僕は面白いところだなと思うんですけど、8割、7割できますっていうふうに名物って今あんまりやる意味なくないですか?って考えがちなのが僕ですね。
これは人によって違いかもしれない。7割8割できるからやるっていう人もいますよね。だけど、その7割8割は自分だからできるのかみたいな話で、誰でも7割8割な方はまた違いますよね。
みんながやられそうなとか、再現性が高いものっていうのは、すでにやられているものだから、そこまでっていうことはありますよね。不確実性が高い、実現性が低いようなもの、1割とか1割も満たないようなものって大体失敗するわけじゃないですか。
その確率的に10%とか未満。それってやります?って話なんですけど、そういうものの方が面白いと思ってしまうと。僕はですよ。だから難易度の高いゲームの方が簡単なゲームよりもなんか面白いと感じてしまうっていうね。
だから死にゲーと言われている、名前が出てきませんが、まあいいでしょう。そういうジャンルがありますが、要はゲームのプレイヤーが覚えたりして、相手の攻撃パターンを読んで、その上でやり遂げると。なかなかしんどいわけですけど、それが求められると。
だからそういうゲーム、死にゲーみたいな難易度の高いゲームをやらなきゃいけないとは思いませんが、誰しもね。割とそういう考え方が嫌いじゃないですか。だから僕は死にゲーをやっているわけじゃないですか。そういうのはありますよね。
で、これ自分の自己の成長みたいな話になっちゃうんですけど、難易度が低いとか今できることをやってたらできることしかできないですよね。なので、多かれ少なかれですね、これはざっくりというかくくっちゃうんですけど、
人はですね、僕だけじゃなくて、人は自分が今できることだけじゃなくて、これからやってみようとか、より違うことですよね。スキルというとね、ちょっと大げさなんですけど、スキルじゃなくて自分がやれることを拡張する、増やしていくということがすごく重要だなと思っているんですね。
で、それがそのためには多分その簡単だとかできるってことじゃなくて、今できないこととか難しそうなことっていうのにチャレンジしないといくらいつまで経ってもできないんじゃないか。
分かりやすく言えば坂上がりとか飛び箱とかバック転とかね。たぶん坂上がりできると思いますけど、体重くなっているので、飛び箱はちょっと分からないですね。バック転はたぶんできない。で、なんか全然回れるイメージがない。絶対怪我しますよね、ギアにあったらね。
だから、今自分ができないんだけど、これやっていきたいよねっていうのがあったり、やってみようと思えることがある。不思議じゃないですか、仕事づくりもそうなんですけど、今できない、やれてないんだけど、やってこうとしているという姿勢というか気持ちっていうんですか、がですね、ものすごく大事だなと思ったんですよ。
論理的におかしいっていうのは何度か指摘しているかもしれませんが、新しいことをやるっていうのは論理的には破綻しているんですよね。なぜなら、論理的っていうのはどういう論理かというと、今あることをやりましょう。もしくは今やれることとリスクリターンできたら、
リスクリターンはちょっとおかしいんですけど、実際はね、論理的というか、何かをやろうとするときに、まずそれは成功するの?って言ったときに、成功しない可能性もありますよね。むしろそちらが高いですよね。ってなると、チャレンジするというか、なんか新しいことができないんですよ。
これが今論理的っていうことで、論理が全部そうじゃないですけどね。少なくとも、そのリスクが高くないならやりますよっていう人がいるとしましょう。そのリスクの許容範囲は何割なんですか?もしくはどれぐらいのものだったらやれるんですか?っていう話になるわけです。究極的には。
それは時間なのかお金なのか、ちょっとコストの何を費やすか出すかは置いといて。じゃあ2割だったらいいです。8割ぐらい成功するならやりますって言うんだけど、じゃあその8割成功するまでの準備やした準備とか仕込みとか、それどこまでやります?って。
分かりますよね。何かをやるための準備が必要で、その準備でリスクを下げる、成功確率を上げるって言うんだけど、それどこまでやります?って。きりがないんですよね。分かりますかね。伝わってますかね。だからきりがないんで、どこかでもういいやと。これぐらいでやってみようとか。もしくはやってみたけどダメだったと。その見切りをつけるとか。そういう作業が必要になると思うんですよ。
なのでいつまで経ってもその確実性不確実性どちらでもいいんですけど、どっちを見るかによるんですけど、成功しそうなイメージが高まらないなっていうようなものがあったり、もしくはリスクが下がることはないとかね。
新しい挑戦
自分がいろいろ学び直すとかリスクリーニングってことはもうだいぶ風化してしまったような気がしますが、さらに学んだりして、もう一回チャレンジしたらできるかもっていうのは大いにありですよね。だけどそれは結構時間かかるじゃないですか。数年はかかるじゃないですか。
数年かかってかつその気持ちが変わらなくてやってみようというのがあるかっていうんですよね。これも結構難しいような気がしますよね。だから意外に新しいことをやろうっていうのは何か説明できないんですよ。
簡単に言えば、考えていったらこういうことをやらなきゃいけないよねみたいな風になってやれる人もいれば、もうちょっと自分がやりたいことがあってそれに合わせてやっていきますっていう人もいたり。
さまざまあるよねっていう行動パターンというか、新しいことをやる行動パターンみたいなのがいろいろありすぎて、あまり整理はできない気がしてます。整理もしようとしてないですけどね。
人様のやっていることとか取り組みとかそういうのを冒頭で話したところでは、より深く見ていく。何でこれをやってどういう課題を解決したくて、もしくはどういう将来とか展望未来を見ているのか。
でもそれがぽっと出の人じゃなくて、それを今考えましたじゃなくて、今まで何か取り組みをしていたりする人がほとんどなわけですよね、そのテーマに関して。確かになみたいな。
いきなりそれをやろうってことはできないから、何かの知識や経験を生かすか、で全然違うことをやるか、その知識の延長線上とかスキルの延長線上になりますよね。
飛び散っていうやつですけどね。何にも関係ないところが一番大変だし、だからそれをやるなとは言わないけど、イメージが分けづらいだろうなと思ったりするんですよね。
ということはそこまで考えたらですよ。すなわち、いきなり新しいことを全く知らないことをやるっていうのが新しいことをやるっていうイメージにもしかしたら伝わっているかもしれないですけど、
新しいとは、自分の延長線上とか、知っていることをさらに深めるとか、自分がやっていることをさらに探索したりするとか、そんなイメージなんですよね。
多分、僕にとっては。だから新しいことをやるって言ってるんだけど、半分は新しくないわけですよ。
例えばラーメンのメニューで言ったら、醤油ラーメンっていうのがあるわけですよね。醤油ベース、だし、スープか。
それに麺とチャーシューとか、わかりませんか?わかめ?もやしは入れないのか?
そうやっていろいろ入れてた時に、じゃあ新しい醤油ラーメンって何なの?ってなるわけですよ。醤油じゃない、醤油味噌ラーメンだったら新しい醤油ラーメンなのか。
醤油がなかなか使わないものを使ったら新しいのか、麺が変わっているのか、サイズが違うのか。それは新しさの定義が何にするかですよね。
ラーメンで言えばね。それはぜひ考えていただきたいんですけど、醤油ラーメン、新しい醤油ラーメンって言われたら何を思いつきます?もしくは思いつかないですか?
既存にあるものを改良すれば新しいという人もいれば、まだ世の中の人が気づいていないというようなことも言えば新しいとなるのか、他となかなか組み合わせとしてないものを言って新しいというのか、その辺りですよね。
全然違ってくるわけですよ。そこが面白い部分でもありますよね。だからそこはね、今話していてすごく面白い部分だと思いました。
新しさの定義みたいなのが多分人によってだいぶ違うんじゃないかなって。いろんなものを見ている人にとっては、これは別に失格するわけじゃないんですけど、これは新しいアイデアですよって言っても、いやそれあるしみたいなのが。
これは何度か言っているんですけど、それはあるしみたいな。調べてなかったっていう。そういう新規性みたいなのが難しいですよね。
新しさの定義
新しさっていうところで言えば、結局ラーメンで言えば、ラーメンのサイズを大きくしました小さくしましたでも新しくなるわけです。
大きなどんぶりに今までのラーメンを入れることでちょっとしか食べていないみたいな。逆もありますけどね。小さなどんぶりに今までの量を入れて大きく感じさせるとかね。
それも新しいじゃないですか。一応。何を新しさとするかで全く違ってくるんで、それが着眼点というかアイデアそのものでもあるよなと思ったりします。
僕自身が面白いなと思うのは、やっぱり新しいものができるときはワクワクしますね。だからその新しさがやる人にとって新しいんですよ。
ことさらに新しいを強調しなくてもいいんだけど、これが新しいものっていうふうに言っている人がいるときにそうやって考えてるんだなっていうふうに理解するのはかなり好きなんじゃないかなっていうふうにも思いました。
深く考えるとか考え方については、やっぱり自分の中で正解も何もないので、ここまで考えたらどうだろうか、もしくはここまでやってみたらどうだろうかっていうふうにないんですよね、正解はね。
正解ないので、一旦自分なりのフェーズっていうのぐらいですけど、進め方とかを検証してみてどうなるかっていうのをやるしかないんでしょうね。
これね、たぶん同じようなことを言ってても中身が全然違うというか、その人の理解になるじゃないですか。
要は、例えばアイデアを出そう、アイデアが今固まってないよねっていう人に対して、アイデアが固まってないよねっていうふうに言ったときにアイデアを固めないといけないと。
だけど、その固め方というのが、例えば食べ物で言ったらおまんじゅうみたいなものを、おまんじゅうじゃなくてもいいんですけど、食べられない砂みたいなのがあって、砂って食べないですよね、あんまりね。
で、砂で固め、泥で固めちゃうとかっていうイメージ、わかります?それ食べられないですよ。食べ物を出したいっていう状況ですよ。
だから、それは想定してないですよね。要は食べ物を出すっていうのに固めたいから、これは言葉の比喩でもあり、本当にそうやって表現してるだけなんですけど、食べ物なのに食べ物じゃない泥で固めちゃったらダメですよね。固められるとしても。
だから固めることが目的になる。で、そうすると、何ていうんだろう、無理矢理固めたものになって魅力がなくなるというか、食べ物の話ですよね。
サービスでも全然一緒で、無理矢理固めちゃったらダメじゃないかっていう。難しいですよね。固められてないっていうから固めたんだから文句言われたみたいな。ありそうじゃないですか。
それが試行錯誤であり、やりとりなんだろうなとは思います。実際はないですからね。決まりきったこうです、もしくは0点から100点まであってこうですとか、レーダーチャートみたいなものがあって5段階評価でこうですって。
いや、こうですって出したところでそれは何なのみたいな。その審査においては評価が高かったとかっていうのはもちろん使えるんですけど、それだけでしかないっていう。
そういう正解がない状況で新しいことっていうものを考えていった時に結局新しさの定義もふわふわしますし、キリがないってことなんですよね。
だからキリがないから考えなくていいっていう人もいるかもしれないけど、それぞれ全部思いつきじゃんってなっちゃうんで、やっぱり一定程度考えなきゃいけないと。だけど考えすぎて考えることが目的になってもまたおかしいわけですよね。難しいみたいになってきません?
考える楽しさ
だから面白いなと思います、作業が。そういう回です今回。キリ話のまとまりは悪いんですけど、そういうアダコーダー考えていくことっていうのが僕にとってすごく大事だなと改めて思いました。
別にこれ結論があっても同じなんですけど、やっぱり正解ないなっていうので改めて、だからこそやってみようと思うわけですね。正解とかないからやらなくていいやっていう人もいらっしゃると思うんですよ、別に。
だからといってダメってことじゃないですよ。でも正解ないから正解があるものをやりたい人にとってはすごいストレスなんでしょうけど、僕自身は正解なくてもそれを考えたり探るのが楽しいんじゃないですかねっていう考え方なんですよね。
だから難易度が高くてもいいんでしょうし、簡単だったら別にそれは正解があるみたいなものになっちゃうじゃないですか。だったらあまり燃えないかなっていうのはあるんで、やっぱりバランスとして的に難しいというかやりがいがあるって言った方がいいんですよね。
そういうものをやっていこうと、そんなことを改めて思いました。今回はこれくらいにしましょう。四国ラジオ大橋でした。ここまでお聞きいただきましてありがとうございました。以上失礼いたします。