1. シゴクリラジオ!
  2. 本質的に考えるとは、前後や背..
2025-12-22 1:06:10

本質的に考えるとは、前後や背景に目を向けることかも

spotify apple_podcasts

---
stand.fmでは、この放送にいいね・コメント・レター送信ができます。
https://stand.fm/channels/618b94773db982af52639b7a

サマリー

今回のエピソードでは、AIを活用した効率化が進む中で、本質的に考えることの重要性について議論しています。効率化によって得られた時間をどのように活用するか、生産性だけでなく、価値ある活動に向き合う必要性が伝えられています。本質的な考察の重要性を探求し、問題を直視し解決に向けた思考が求められていることも説かれています。また、残された時間の使い方や、仕事におけるサボりのメカニズムについても触れられています。 このエピソードでは、考えることの重要性とその背後にある社会的な影響について語られています。自治体の施策や人口減少問題を通じて、市民一人一人がどのように社会に対して意見を持ち、行動すべきかが探られています。考えることの本質についても探求され、自発的に思考することの重要性や、社会における考える力が失われつつある現状について議論されています。 考える力の重要性とその背景についても論じられ、特にAIを用いた時間の使い方や、社会全体の創造性を高めるために挑戦することの意義が考察されています。

考えることの重要性
はい、シゴクリラジオ大橋です。よろしくお願いいたします。このシゴクリラジオは、パーソナリティである私、仕事クリエイター大橋が、仕事づくりに関して話をしていく番組となっています。
テーマが、思考とか考えるとか、先回は効率化じゃないよね、効率じゃないよね、みたいなことを言ってましたけど、今回も考えるという話をまたしていきたいと思います。
ちょっと固いかもしれませんが、非常に現代において大事だと僕は思ってますし、僕はそう考えているというところで、改めなくてもそうかもしれません。
まずは、フォローいただいた方紹介ということで、これはアルファ王子さんですかね、と読めばよろしいでしょうか。たまごじゃないですね、王子さん。ありがとうございます。
このシゴクリラジオはですね、仕事づくりということをテーマにして話しているんですよ。なんですが、結局、たぶんここがギャップがあるというかズレがあるんでしょうけど、アイディアも思考だよねっていうのがまず一つの考えとしてあります。
ビジネスや仕事や商売することも思考なんですよ。というか、考えないとできないんですよ。例えばお客さんが困っているのを見て、困ってるなって見てたら終わりじゃないですか。本当に。
でも、そういう人というか、そんなんだよねっていう人いますね。見てて困ってるのわかってるけどみたいな。仕事じゃなくて社会生活においてもありませんか。例えば自分が急いでて道案内してくれっていう人がいて、ごめんなさい、ちょっと急いでるんでみたいな。
言われて100%断るわけじゃないけど、本当に急いでたらちょっとすいませんって言われても。もちろん人がいいということを別に否定してるわけじゃなくて、人がいい人なら自分の時間を犠牲にしてもやるかもしれません。それがいいとか悪いとかじゃないんですけど。
その人の信条ってやつですね。信じるに条例の条ですね。憲法7条?8条?あ、9条か。の条ですね。信条というのがあるからそれに適してたら別にいいんじゃないかなと。そこに反社会的なやつとか入ってないですよ。
そういう考えるということが普通と言いますか、僕にとってはですよ。そういうのがありまして、これは何度も何度も高校生とか大学になってとかもそうですし、社会人になってからもそうですし、気づいたら20年ぐらい経ってたと。
本当にね。今20歳の人はいないか。22とか23とかわかりませんが、新社会人だとか働き始めた人が多分聞いてるかわかりませんが、そういう人がいた時にマジで20年あっという間に経ちますね。本当に。
もちろん昨日のことだとは思いませんけど、何してたんだっけなぐらいの感じの速さ感じますよね。多分速いっていうのは良いこともあれば悪いこともあるなと思ってまして、似たようなことをやってたりすると日々の違いがわからないじゃないですか。毎日違わないから。すぐ過ぎちゃうっていう人もいますよね。
集中してたらすぐ過ぎてきますから、あれもう1日終わったみたいな。そっちもありますよね。だから早く過ぎることが悪いわけじゃないかなと。そんなことを思いました。スーパー雑談ですか。そんなことを今後も話していくんで、ぜひよろしくお願いします。気が向いたら聞いてみてください。
AIによる効率化の影響
今回テーマとしては、何度もこれ言ってますけど、AIでですね。AIはどっちでもいいんですけど、シンプルに分かりやすい話で、AIが効率化する。効率化するだけのことを考えてたら、別にあんまり本質じゃないよねみたいなことをちょっと匂わせてたと思うんですけど、もうちょっと突っ込んで、これを取り上げて正面からぶち当たってみたいかなと思いました。
つまりですね、AIで効率化って言われてたり、AIエージェントって言われてるんですね。AIエージェントっていうのは自律的に動くってことですよね。例えば、チャットで今の流行りの服が欲しいって言って、パパパって言ったら、実際にそれを見積もって買ってくれるまでやるとかね。
セキュリティとかのいろいろ課題はあると思いますけど、そういうのができそうだと。そういう期待があると。スピードとか置いといて。
そういうAIエージェントがある中で、人がやる作業とか仕事とかが効率化されますと。1時間かかったのが5分でいいとかもあれば、30分とか20分とかわかりませんが、人間が時間をつかなくていいと。
そこでいつも問題というか、なんだろうねって言ってるのが、じゃあ1時間が30分になったら残り30分何するんですかっていうことについて、あんまり向き合わないというか、効率化されたいよねみたいなところを上げがちだと。
特に大手企業なんかが特にそうですが、業務にAIを入れることで全体の時間が圧縮されましたと。人数が多いし時間もたくさんかかってるってことであれば、ある業務は1人1時間1日減ったら1万時間全部で減りましたとかね。
そういうのがあるわけです。じゃあその1万時間もしくは1人1日1時間空いたら、それ何でやるんですかってことになるんです。この議論がややこしくさせているのは、会社員といういわゆるマネージャーじゃないような人だと時間に縛られるわけです。
つまり9時50分なのか、9時60分とか、8時17時かとか知らないですけど時間は。その1日8時間程度という時間が決まっていて、それで拘束されるわけです。つまり1日4時間例えばやって、今までの作業を仕事をするだけだったら4時間で終わるか。
残り4時間があります。じゃあどうするんですかって言ったら、何もしないわけにはいかないわけです。会社員である以上ね。だから何かしてるわけです。でもそれは何かしてるだけで別に特に特段現状の業務に影響を与えないようなことになると。
もしくは、何でそうなるかというと、時間が半分になったから給料が上がるとか、残り4時間を何かやるとお金がもらえるとか、知識や経験になって何かよりステップアップできるとか。要はお金だけじゃなくてもいいんですけど、そのメリットなりそのものが非常に薄いというか提示できてないと思うんですよね。
そういうのもしあったら知りたいですね。そんなの多分なくて、できるっていうのは多分その規模が小さいところか、あとそういう上場してないステックフォルダーが限られる。もしくはワンマンというと怒られますが、経営者の一存で一気にできるようなところとか、中小規模ですよね。
だから100名もいかないと思いますけど、従業員規模のところじゃないとまずやれない。かつAIに対して積極的に導入して試行錯誤するような環境であり、かつ従業員がそれを受け入れ、さらにその人たちがやって、さらに続けてやってみて、本質は何かを考えられる集団となるんですが、そんな会社あるんかいなっていうね。煽ってるわけじゃないですよ。
何か難しそうじゃないですか。そうなんですよ。だから従業員とかっていう立場からすると、何かややこしいのがあるんだねって感じだと思います。AIって。だからAIの話をするときって、もしくはAIの話を僕がしている人って、会社員の人はもちろんいるし、会社員の人でもそうなんですけど、会社員的じゃないんですよね。分かります?
フリーランスや起業家とか、もしくは自律的に何かこういうことをしたいっていうのじゃないと話にならないんですよね。話にならないっていうのは話ができないといったわけですね。だから前も言いましたけど、何か別のところに、別というかゴールというかやりたいこととか、こういうことをやろうとしているよみたいなのが何かしらないと。
もしくはこんなことしてみたらというアイディアと言ってもいいでしょう。だからなければ、AIを効率化させたっていう効率化の道具みたいな話であって、何でもいいんですけどね。
例えば文章を書くのがスピードが遅い人が、喋ることで文章を書くことをさせました。AIで直したりとかね。そこらへん細かいことは置いておいて。ってなったときに、じゃあ喋ることで書くことは解放されたと。
ゆえに、もっと書くことでアウトプットしてこうみたいになるかというと、書くことというのは喋ることですね。喋って音声入力させてAIに修正させてやればいっぱい書けるってことで、もっとやっていこうってなるかというと、なることもあるんでしょうけど、意外にそこでもう自分の苦手な部分はそれでカバーできたから、もうこれでいいやっていう風に。
充足する方が意外に多いんじゃないかと思います。そういうのはないですか。もっと言えば、仕事に対しての向き合い方みたいな話になってきて、元も子もない言い方すれば、整形立てるためにお金が得られれば何でもいいですっていうね。
やばい奴仕事じゃなかったらいいですっていうね。健康が愛するようなものじゃなかったらいいですっていう人が、これはもう僕の考えというか推測ではあるんですけど、そういう人はほとんどじゃないのかなと思います。だからそれがですね、悪いとかね、もっと志しようとかね、そんなことは一切思ってなくてですね、現状そうじゃんっていうそういうことを言ってるわけですね。
で、そういう時に、じゃあ僕みたいな人がいて、なんかこういうことやった方がいいんじゃないとか、もっとこういうことやっていこうよって言ったら、なんか煙たがられるわけですよ。リスナーのあなたはどうなんでしょう。こういうご経験はありますか。煙たがれるっていうのは、まあ要はそんなことしなくてもいいよと。
そつなくあることをこなしていけばいいんだよ。君はそんなことしなくていいんだよと。言われるわけです。もしくは、そういう明らかに言ってくる人もいたり、そうやって言わないけど、それに対して全然協力的じゃないみたいな人の方が多いかもしれないですね。
で、まさにこんな感じっていうか、なし崩し的というか、実際はこんな感じだと思うんですけど、僕の想像するね。自律的にとか自主的に動けるみたいなのって、遭害されるというか、浮くってやつですね。
で、なかなかやりたいというか、自分はこういうことをやった方がいいよねっていう人が、なかなか活躍できないというよりも、なんで見出してくれないみたいになるわけですよ。でもそういう組織からは何か生まれるかというと、きつくないですか。
そんな話です。つまり、AIの例になりましたけど、AIで効率化されて浮いた時間というのがありますね。AIの活用の方はもうちょっと置いておきましょう。浮いた時間をなんでそもそも本質的って言ってますけど、これもちょっと説明していきますけど、なんでやらないのか。
逆でもいいですよね。なんで浮いた時間を本質的なものに追加さなきゃいけないのかというか、考えなきゃいけないのか。どちらでもいいんですけど、僕は結論的にはそういうことをしないと、社会側とも思いますし、自分もですけど、つまんないなっていう、それが強いです。
自分だけがそれでいいならいいんですけど、明らかにそれっておせっかいなり、社会って言うと大げさな話かもしれませんけど、世の中って言ってはいいんですか?世間と言えばいいんですか?周りと言えばいいんですか?つまんないですよね。
シンプルに僕のエゴということで、面白くしたほうがいいじゃんって思うのと、そんな考え方してるから面白くないんだよっていうのが明らかなわけです。
本質的な活動の意義
例えば日々決まったことをやってそれでいいっすっていう人がもちろんいらっしゃると思うんで、それを否定するわけじゃないんだけど、同様にそれでいいっすってじゃなくて、日々違うことをやりたいっていう人がいたときに、両方ができるような社会のほうが僕は豊かだと思うわけです。
多様性っていうのはちょっと違うんですけど、自分が望んだ仕事とかやってみたい仕事だったり、やりたい形っていうのがあったほうがいいんじゃないのかなって思うんですよ。
でもそれって勝手に願ったり祈ったりしたらできるものではなく、やっぱり実践して考えていかないとできないっていう意味で、それが本質だっていうふうに僕は言ってるわけですね。
だからそれをもうちょっと考えて、今回全編後編みたいになりますが、もうちょっと深掘りしていければいいかなと思ってます。
なんか興味があれば引き続き聞いてみてください。今回もよろしくお願いいたします。
四国理ラジオ大橋です。今回後編ということで、なんでAIで売った時間を本質的なものに使わないのか、もしくはなぜ使うんですかっていう、どちらでもいいです。
肯定的な問いかけだろうが否定的な、なぜ考えないのかってもいいんですけど、どちらでも引っかかるほうで聞いてみてください。
まずですね、さっきの従業員、会社の従業員みたいな話をしました。いわゆるヒラとか役職がないとか、別にその人が悪いわけじゃないんですよっていう人が出世してないって言われるわけですよ。
世の中的にはね。出世してないからダメとか言ってないですよ。そういう人に限ってじゃないんですけど、シンプルにその人の生き方をどうか置いといて、
シンプルに言うと、まずその浮いた時間をどう使うかっていう考え方、視点がまずない。しざって言ったらいいかもしれないですけど、なかったらないでしょうがないんですよ、きっと。
だからそもそもない。概念としてない。これはものすごくレベル低い話だと聞いてください。
でも一方で、世の中ってめちゃくちゃいろんな人がいるってことを考えてほしいんですよね。僕ですね、あるとき、超短期バイトみたいなのが結構、学生のときもそうですけど、社会人になってからも全然やってたんですが、
そのときにですね、アパレル系ですね。要は服の特売みたいなのがあったんです。ホールというか、ホールって言っても分かりづらいけど、ホールでいいのか。大きな体感じゃないですけど、ビジネス的に使えるような会場があると。
そこに本当にまるっといろんなアパレルの企業がブースというか、ブースでもないですよね。エリアがあって、そこに行くとブランドのものがかなり安く買える。ディスカウントというかね。そういうセールがあったと。そのセールは本当に数日間もあるんで、人手がいりますと。
アパレルでは女性が結構多いかなというイメージがありますけど、女性はどちらかというとレジで手早く、男性はどちらかというと在庫が切れたらバックガードに取りに行くみたいなことを永遠に繰り返すみたいなのがあって、単純作業って単純作業ですね。言っても怒られないと思います。
そういうのがあって、充実というか、その作業自体はチームになって、今日ここの人についてやってくださいと言ったんです。年齢もその時もそうですけど、年齢関係ないんですよ。年齢関係ないというのは、僕が20代でしたけど、若者、18、19歳の子とか、あと30とか40とかちょっと年齢高めの人がいたときに、
作業が早く終わりましたと。で、時間が浮いたんですよね。で、時間が浮いたから、何やったと思います?別に時間が浮いたから、やることないからもう上がっていいよって言われたらそれはもういいじゃないですか。
でも上がっていいわけじゃないから、そういうちょっと待機するか、少なくとも遊んでいいわけじゃないですよね。っていうところで、サボり始めるわけですね。そうそうそう、やりたくないみたいな感じで。で、それが別に若い人だったら、これは偏見も含みますが、まだそういう考え方じゃなくて、こういうことやってこうよってことは言えたりするんだけど、不良というかヤンキーというかね、そこで正義ぶってもっとやるべきだなんてことは僕は言わないですよ。
そんな別にしないですよ。だけど不思議なのは観察していて面白かったのは、別に年齢が高い人もサボってたりするわけですよ。そういう短期バイトとか、いわゆるヒアトインみたいに近いところだと、これは別に僕が見た事実というか、主観ももちろんありますが、
仕事というものを生き生きして、良くしていこうよなんていう、陽って言えばいいんですか?光のオーラみたいなのではなく、負のオーラみたいなのが出てて陰なんですね。陽と陰という。まあ陽は光もあれば闇もありますから、別にそれに対してその人の全てではないと思いますよね。
だけど仕事というのは、言われた4時間なのか6時間なのかがあって、それをいかにやらないかサボれるかみたいな、そんな感じなんですよね。わかります?これは伝わっている人は伝わっていると思うし、もしあんまり社会というか働いた経験がない人とかだと、その感覚はわからないかもしれませんけど、中学生とかね。
高校生くらいになってくるとちょっとアルバイトする機会も出てくるし、別に高校でアルバイトしなくてもいいんですけど、大学生くらいになるとアルバイトをしたりして、よく社会を知るなんていうことになるんじゃないかなと思いますよね。
アルバイトが良い悪いじゃなくて、その先での社会人とか店長、いわゆる親とか学校の先生以外での、友達以外での接するということができていることは確かに社会勉強にはなりますよね。
その時の人ってめちゃくちゃいろんな人がいませんか。大変な人から、年下だからバカにしている人から、女性だからっていって舐めてくる人とかもいるじゃないですか。めちゃくちゃいろんな人いるなあって僕は思うんですけど、リスナーの中ではそういった世界を、社会をどう見ているかは知りたいですね。僕はそういうのが結構重要だと思っています。
話を戻しますと、そうやってサボろうとするんですよ。それは短期バイトだからとか、そういうのはもちろんあるんでしょうけど、これなんかあんまり関係ないんじゃないかなと思いまして、別に状況が長期バイトだろうが、どういうことでも社会人で営業だとか、どんな仕事をしても結局一緒なんじゃないかなと思ったんですよ。
OSといいますか、考え方とか、心情とは言いませんけど、そういうものだと思っているというか。不良というとちょっと誤解があるかもしれないですけど、真面目にやらないことがかっこいいというか。
多くの人は真面目にやる中、自分だけサボってやるのがいいと。サボったらお金もらえないとかだったら全然サボりゃいいんですけど、サボってお金もらおうとするからどうなんだろうねっていうツッコミを本当に正論として残しておくわけですよ。
これを持って僕はサボらないとか、サボったらダメとか、そういうことじゃないんです。年齢関係ないよなっていうポイントと、今の話に戻すと、やっぱりサボる。時間が空いたらサボるみたいなのってあるんじゃないかなと思います。
本質的に考えることの意味
サボるのが何で悪くないかっていう話を言っておくと、例えばプログラマーっていうのは、いかにそれを効率よくやれるかっていうことに燃えるタイプの人たちだと思うんですよね。多分ね。いかに自分が動かさずに自動化でプログラムを組んでそれを動かすことができないかって。
確かにこれはプログラマー向きの考え方と思います。だけど、サボる人の1個大きな違いは、そのサボるためにいわゆる努力をする、そのためにプログラムを組むために勉強したり学んだりすることがあるので、サボってると言われてもサボろうという動機から勉強するので、全然違うんですよっていうことは僕は思ったりします。
ここでのポイントって多分自分のことしか本当に考えないんですよね。自分がごみのポイ捨てではないんですけど、いいや自分が目の前から消えたらいいやっていうか、自分がサボっても別にいいでしょって。回ってるしねっていう。そういう判断なんですよね。
だから全部のサボったサボるとかっていう、本当に体調が悪くてダメとかね、そういうのではないですよ。今の状況での話から僕が言いたいことっていうのは、本当に自分勝手というか自分の視点のみだなっていうところがあるなと。
それがチームだとか、周りに迷惑をかけるとかね。周りに迷惑をかけるのもちょっと僕もどうかなと思います。考え方だけが先行しちゃってるので、それはほどほどにしておいてあります。
あと明らかに欠けてるのは自分のことと言っておきながら、自分の成長のためにみたいなエゴじゃないんですよね。ただサボりたいっていうだけのエゴみたいな感じがあると。
ごめんなさいね。それでそういう人が社会で大人になって、大人ですよね。いきなり浮いた時間はAIで来ました。いろいろやってくださいって言ってやれると思いますって話なんですよ。厳しそうじゃないですかっていう話がまずあります。
まずは別の話で、バチの視点からいくと、本質的っていうのは何かっていうと、結局問題を放置しておいて誰かが勝手に解決してくれる類のものってあるんですかって話なんですよ。
これはあんまり引っ張ると、世の中の問題というのを全部僕が知ったから解決しなきゃいけないと。さすがにそこまでないです。
だけど問題だよねっていう人がいなければ問題にならないし、問題があるから社会の不都合というか不利益みたいなのがあるからどうにかしなきゃいけないっていうふうに考える人がいないと話が始まらない気がするわけです。
だから本質的な価値っていうのは、絶対的にこれが善とか絶対的に悪でもいいし、あと絶対的には解ってやつですね。一個だけとかっていうのを求めてる意味じゃないですね。
じゃなくて、もっと手前の話で、じゃあそういう問題に目を向けてみようとか、目を背けてみるけど考えなきゃいけないんじゃないですかみたいな。
だからこれは人によっては、何度か言っていると思うんですけど、非常に痛いわけです。痛いというのは、物理的に打撃をくらう痛さじゃなく、精神的に痛いわけです。
正解がないし、考え方がこれっていう。僕がこれしてくださいって言ったらこれするっていう世界じゃなく、これをしてみたらどうですかって言われたら、違うなーって言ってやらない。
もしくは、そういう部分もあるからやってみようみたいな感じで批判的に受け止める。そんな世界です。
そういう本質的に考えるっていうのは、結構考えを深めていくみたいな話になるので、表層ではないというか、反射ではないっていう話なんですね。
社会の問題解決とインフラ
作家であり、研究者というか、研究者じゃないんでしょうけど、小説家である森博さんという方がいらっしゃって、その方はコンスタントにエッセイじゃないんだけど、ちょっと面白いなと思う本を出していて、
最近、集中力がいらないだったかな。ちょっと名前忘れましたけど。
集中じゃないんだと。アイディアとか発想するっていう部分も見てるんですけど、分散の方が大事なんだと言ってるんですよ。
分散っていうのは、ここでは割愛しますけど、気になる人はぜひ本読んでもらえればいいんですけど、
そこで書かれてたのが、考えるって何ですかって言った時に、理屈を立てるとか、述べるとか、仮説を作るとか、そんなことを言ってるんですね。
確かにそうだなっていう話で、考えてくださいって言われたら、何します?っていう話なんですよ。
リスナーのあなたに何について考えてくださいって言われたら、どうします?考えてください。それを僕に説明してください。
僕にコメントしてくださいとか、分かりませんけど、その双方向性の何かが生まれた時に、別に僕じゃなくていいんですけど、
誰かに言われたり、もしくはご自身が、リスナーのあなたが誰かに考えてくださいっていう時は何を期待してるんですか?
何をしてることを望んでるんですか?作業レベルでは何なんですか?っていう時に、考えるっていうのは確かに仮説を作ることだなって。
例えば独自の意見を述べるとかでもいいですよね。っていうからには、少なくとも頭の中で脳が動いて、
これは言われていることはAだな。じゃあAについて関連するものを集めよう。なのか、Aって言ってるけど実はBを求めてるんじゃないか。
ってことでBをやってみよう。このAやらBやら、それに対する考え方っていうのは色々あるわけで、
仕事だったら求められるものがある種類の明確化かもしれませんし、実はそれは回り道だったりするかもしれません。
遠回りだったりするかもしれませんが、それしか道になるかもしれない。分かんないです。
だけど、少なくとも論理ですよね。論理的に述べるとか、説明するとか、もしくは自分の中でこうじゃないかとか、
こうじゃないか、じゃないかみたいなこと、それを仮説と言っていいと思いますけど、
そういう考えや意見を提示する、述べることってことは、それを導き出す全てのことがいわゆる考えることになるんじゃないかなって思ってます。
とても抽象的なようですけど、その通りで考えること自体は考えることによってしか鍛えられないっていうようなことも書いてたと思います。
まさにその通りだなという気がします。
そろそろまとめていきたいんですけど、考えないというか、ここでいう本質的に考えるってことに関して考えると言ってますけど、
そういった本質的に考えることをしなかったらどうなるかというと、例えば人口減少問題みたいなのがありますよね。
なんで問題かというと、今までの経済活動だったり社会の維持ができない。
例えばわかりやすいのはインフラですよね。社会インフラ。
特に病院とか下水道みたいなものは自治体がやってたり、自治体がそのためにやってるんだけど、税金とかでね。
赤字なわけですよ。厳しいと。
山村というかすごい離れたところに水道をね。水道じゃないですよね。
山とか里というか離れたところだと本当に井戸水とか湧水とか水道ってないですよね。
だからそれとは違うんですけど、電気でもいいですよね。
だからそのインフラの維持って大変じゃないですか。
効率的じゃない。
市民の意識と行動
消えられると言うとちょっと大げさですけど、自治体がコンパクトシティっていうかっこいいことを言ってますけど、全然かっこよくなくて、
特定のエリアの人しかサービスを受けられないって言ってるようなものですよね。
でもそれがいい悪いは一旦思いとくんですけど、そういうふうに乗り切るか国がどうだって言って、
国が何かやってくれないっていうふうにある種の依存ですよね。
だから社会というのは国が作るって言ってるんだけど、そもそも違うと僕は思ってますけど、
市民というか一人一人が何か社会運動じゃないんだけど訴えかけて何かやっていくようなものがなければ、
それは何も動かないですよね。
デモとか煽動ってのは変ですけど、しなきゃいけないみたいな話じゃないですよ。
だけど少なくとも明確に言えるのは、誰かが一人が考え、こういうことをやろうよっていうふうにしないと、
政治とか社会の政策とかそういうだけじゃないんですけど、動かないですよね。
それはもう明確です。明確だと思います。
人口減少問題っていうのは誰か賢い人がやってくれるから、僕は私は死にませんっていう態度がいいかというと、
ものすごく他人任せじゃないですか。だから僕に甲斐があるとかではないですよ。
だけど少なくともこれは僕の態度としてってことなんですけど、それって放置しといていいのっていう。
もちろん分からないから分かりませんっていう態度もいいんですけど、
分かってたら対応できるから分かってないんだよねみたいな話になってきたり、
問題として認識させないっていう手もあるわけです。問題ね。
そうすれば問題じゃないみたいになってくる。人口減少問題は問題じゃないですよっていう人って聞いたことないですけど。
もしかしたら違う見方として問題じゃないのかもしれませんよね。
人口減少としていくっていうのが自然の節理でありみたいな、あんまり言うと宗教臭くさくなりますけど、
考えることのコスト
でもそういう考え方があっても全然ダメだとは思わないんで、問題と思わないことがいいっていう人ももしかしたらいるかもしれないですよね。
だけどそれがある種の考えないプロパガンダというより怒られるかもしれませんが、
ただのそういうトリックというかね。ただ都合のいいように解釈してるっていうこともありますよね。
これはもう何でもそうですね。
で、考えないっていうことでそんな話すら持ってこない社会が僕はいいとは思わないってわけですね。
で、そんなことないじゃないですか岡田さんと。
ツッコミとして、いやそれは考えてくれる人がいるから、我々というか私性の人というか平民というかですね、
普通の人と言ったらいいんでしょうかが、考えなくてもいいっていうたまに意見がありそうなんですけど、
いやそれって結局そのね、我々は考えなくていい、考える人についていくんだみたいなことになりますけど、
それでいいんですかっていうツッコミをするかどうかっていうところですかね。
それは自分では思いもつかないから、ただ従うのみですみたいな方がもしかしたらいらっしゃるかもしれないけど、
それって異性者というかですね、政治家はちょっと違うんですけど、
何か権力を持った力を持つ人たちがいて、その人たちが完全に正しいと、
必ず間違いないっていうのがあったらアリだと思いますけど、人間じゃないですか。
ちょっと不安ですよね。
で、そうじゃなくて優秀な人とか賢い人がいるから、その人たちに任せとけば大丈夫なんでしょうかね。
だからそのあたりなんですよね。そこを批判的に見えるかどうかっていうことがあって、
いやなんか僕も全然わかるんです。逆にわかるんです。
だから他の人がやってくれるし考えてくれるから、別に僕考えなくてもいいし、誰かやってくれたのなって思いたいわけですよ。
でもそれって誰かがやってくれたり、そんな悪いことにならないっていう考え方じゃないですか。
でもその考え方って裏切られる瞬間って結構あって、例えば警察官っていうね。
別に警察官の人は全員悪いと思うんですよ。だけど警察官によっては、
すごい態度が悪かったり、市民を攻撃する人もいたり、とんでもないことを起こす人もいるわけじゃないですか。
何を言ったらいいかっていうと、単純にバイアスとして警察官っていうのは悪い人じゃない。
もしくは医者とかは悪い人じゃない。弁護士は正義の味方だなんていうのは、
プロパガンダとは言いませんが、偏見だったり思い込みである可能性が高いわけですよ。
悪徳弁護士とか悪徳の野部医者みたいな、悪徳医師みたいな人たちがいて、
悪徳コンサルタントでもいいし、悪徳不動産業者でもいいけど、悪徳って言ってればいいわけですよ。
そういう人たちはいるわけですよね。で、もちろんそんなことはじゃないですよと、
大きいのと違いますよっていうことを外蔵する職場の人が思っているかもしれないし、
もちろんその通りだと思うんだけど、みんながそうじゃないじゃないですかっていうね。
っていう時に、良さそうな人に託せばいいかっていうと、かなり危ないですよね。
だから僕も誰かに託してやればいいかなと思ってたんですけど、
多分その考えるコストみたいなのがあって、
何か一定程度考えるってことは時間がいるし、労力がかかるし、
いろいろ勉強したり学んだりしなきゃいけないんですよ、きっと。
っていうところがあるところに対して、ちょっとこれ考えてやるって大変だなみたいな思った時に、
なんかオックンになるんですよね。ちょっとビビるというか、いろいろやらなきゃいけないなって。
それを考えることを潰すというか、要は考えることをしなくていいよっていう方が、
多分社会的にはスムーズに動くんです。
でもそれが良い社会かは激しく疑問というか、ものすごくよくわからない社会になるってことですね。
なんかそんなことがあるんじゃないかなと思ってます。
だから、みんながみんな考えていきましょうよっていうふうには前よりは思わないです。
本質的に考えること
だけど少なくとも、例えば自分の意見があったり考え方があった時に、
それを潰してくるとか、もしくは意見があってそれを意見を言えないような環境づくりとか、
ちょっと人から違う考え方だよねみたいなのが受け入れられるっていうところに行くと、
なんか、前も言ってますけど、それこそ僕が社会に出たぞっていうのを20年ぐらい経った時に見た時に、
そう変わってんのかなみたいな。なんかそんな感じがするわけです。
20年じゃ社会っていうのは変わらないのかなっていうのと同時に変わった部分ももちろんあるわけです。
例えば、ハラスメントってすごい言われて、何でも言えなくなっちゃったらちょっとやりすぎですけど、
労働環境、いいのか悪いのかわかりません。
なんかおかしいよねっていうことをおかしいよねっていうふうになっていったっていう意味では、
SNSが個人が持ち、言えるっていうのはすごく重要な気がしますね。
覚えてる方いらっしゃるかわかりませんが、保育園落ちた、日本支援でしたっけ、原文忘れましたけど、
そういうここから保育園の待機児童のやつでしたっけ、ちょっと俺覚えてわかりませんけど、
政策だったり変わっていくと。
別にそれをそういう象徴的なものをやれってことじゃないんですけど、
誰かが何かを言って変えていくっていう動きがないと、僕は変わらんのじゃないかなと思ったりします。
これはですね、いわゆる人々が自由意志を持っていいじゃないですけど、
何か言って変えていく社会の方がいいよねっていう考え方なんで、
これが絶対いいと思ってないですよ。
もっと保守的に決まっているところでルールを守ってやっていくとか、
人間というのはそういうのは信じられないから、
AIの方で、AI政権じゃないけど、笑い話じゃなくて、
AIがやっていった方がいいっていう考え方の人がいても、別にダメじゃないと思います。
それはそれで面白いと思います。
社会というのはということで、バランスしてどうにかなっていくのかもしれないし、
どうにかならなくなっていくかもしれないし、本当にそこはわからないです。
ちょっと長くなりましたけど、そんな感じですね。
話がだいぶ飛んだかもしれませんが、本質的に考えていくってことですね。
AIで浮いた時間があって、本質的な時間が浮きました。
じゃあ何をしますっていう時に、考えない人もいるよねっていうのがまずありました。
一発目でね。
だけど、そもそも本質的に考えたりするのって、
頭は使いますし、あと疲れますし、いろいろ勉強しなきゃいけないので、
なんていうんだろうな、こうです、ああですって言えないわけですよ。
僕が言っているのもふわっとしている印象を多分受けると思うんですけど、
別に決まった解があるわけじゃないんですよね。
だから、解があって、答えがあって、それを教えてくださいとか、
もしくはその通りにやりますという人は、それがないとものすごく不安なんです。
逆にそういう解がなくていいから、自分で考えたいとか、
何かやってみて試したいという人にとっては、
そういう考えるっていう社会の方が生きやすいと思いますし、いいと思います。
だから役割の違いって言ってもいいし、タイプの違いかもしれないんですけど、
でも役割とかタイプとか性質とか性格とかもあるんですけど、
環境とか教育の方が大きいような気がするんですよね。
自由意志で勝手に自分は考えていくってことは多分できなくて、
考えるっていうことを教育された、もしくは考えるってことが悪いことじゃないんだよっていう風になっていったことがない限り、
結構しんどいんじゃないかなってことを最近思うようになりまして、
だから別に自分の仕事作りに結びつけるわけじゃないんですけど、
仕事作りとか仕事作りって考えることですし、
アイディアでもそうですしって言ってるんですよ。
伝わります?その辺り。
だから考えないといけないっていうことは言わないんだけど、
シンプルに別にいいんですよ。
諦めてるわけじゃなくて、そんな風に、聞いてないと思うんですけど、そんな人はこんな話をね。
考えたくないですとか、やりたくないですって人はもうしょうがなくないですか。
さっき僕が話した通り、時間が空いたからサボろうみたいな人に、
何々さん、サボらずに何かやりましょうよって言います?っていう。
それこそ手が出る人いるじゃないですか。
いきなり殴るわけじゃなくて威圧したい。
あんまり言うとしつこいなみたいになってくるんで、言わないですよね。
そういう気持ちがあってもね。
だから彼彼女かわかりませんが、そういう人はそういう人でやってくださいみたいになるんで、
もう終わるじゃないですか、話がそこで。
これって別に僕が正義感とかではなく、どうするんでしょうねって話なんですよ。
これ難しくないですか。
実際あなたもぜひ考えていただきたいんですけど、そういう場に立ったらどうします?
もしくはマネージャーみたいな人、若いマネージャーさんで都州の部下を持つみたいな状況が今ってあると思うんですが、
全然その部下が動いてくれない。
自主的に動いてくれないし、本当に言われたこともやるかやらないかぐらい怪しいみたいな。
どうします?
それこそ空いた時間があったから、AIでちょっと浮きましたって言って、
ずっと資料を見直して良くするよとかいう話じゃなくて、
ただ単に何もやらずにYahoo!ニュースとか見て、YouTube見てボーッとしてましたみたいな。
いや本当に、どうします?
そう。
それがまさにその立場がね、そういうのじゃないから考えなくていいっていう人ももちろんいると思いますが、
じゃなくて、そうだったらどうしますって話ですね。
結構困りません?
そう。まさにそういうことなんですよね。立場としてね。
考えることの価値
だから別に僕ね、偉い立場の人で教育しなきゃいけないとかそんな立場じゃないですよ、全然。
だけど、想像するわけですよ。困りません?っていうのはすごく課題ですよね。
これは多分、企業でも、実際行政でも、どんな組織でもみんな言うわけですよ。
考えてくれる人材が欲しいとか、そういう人を育てたいとか言うんだけど、そんな人いるんですかねっていう。
なかなか難しいと思いますよ。
なぜならそのルールの中とか決められた中でやるっていうことを繰り返すから、それでいいやってなっちゃうんですよね。
そこ結構難しいです。コンフォートゾーンじゃないけど快適なゾーンがあって、そこでもういいやと思ってしまう。
めちゃくちゃ分かるんですよね。これから飛び出さずにずっと自分の安全領域でずっとやっていったら、いいっすっていうのはあるんですよね。
人間の本能かもしれないけど、危険を犯す必要性はない。リスクを犯さなくていいみたいだね。防衛本能に近いんじゃないですか。
なんでそういう考えずに言われたことだけやるっていうのもちょっと言い過ぎですけど、そんな興味ないっすっていう人に無理してやっていただくとかは全然僕にないです。
今僕がかけてるというか、そうじゃないよねと。自分で自発的に考えて、こうだよね、ああだよねってやってくる人は自分の考えや意見ややりかえことがあって、そのためには何をしなきゃいけないかがあって、
それをやっている人なんだと思います。だからそういう人は新しいものを結果的に生み出せますし、クリエイターじゃないけど想像して何かをやりますし、別にそれがどんなものでもいいんですよ。
別に小説だろうが、プログラムだろうが、絵だろうが写真だろうが、アウトプットなんでもいいんですけど、それこそ自己クリティビジネスでもいいし、それこそNPOでもなんでもいいし、
僕は割とそこを並べちゃうんですけど、変わらないなと思います。自分の取り組みややり方があって、これはこういう方向に向かっているんだという、大きな航路というか進路を描いて、
そのために行くので、多少揺らいでも、多分その進路の方向というか、方向が間違っていなければやってみて、ダメだったら諦めて違うことをやると。
そういうものすごく僕の中では空っとしているというか、地味に自分はしていないですよね、という見立てがイメージとして、比喩としてありますね。
社会の中での思考
で、やれる人はいいよね、やれない人はちょっと置いておきましょうといったんね。多くの人は、僕の考え方ですよ。
多くの人はそんなにはっきりせずに、なんとなくみんながやってるからやろうとか、そんな感じなんですよ。
考えているからどこまでやるか、もしくは考えていないからどこまでやらないかとなってきたときに、シンプルに同調すると。
つまり、周りの人がどの程度やっているかということになる感じなんです。
つまり、SNSみたいに中毒性があって危険ということを最近はよく見ますが、SNSみたいに考えればいいと思うんですよ。
SNSみたいにやってくださいってことじゃないですよ。要はSNSのように中毒性があるような感じで考えるということをやっていったら、全然社会で変わると思うんですよ。
こうした方がいいんじゃないか、ああした方がいいんじゃないかって。でもこういうことやってみようみたいな。
で、やる人をたたえるじゃないけど、グッドマークぐらいのいいねぐらいをしておいてくれればよくて。
そんな社会をイメージしています。
でもですね、それってならないんです。なぜならSNSって中毒性ってありますよね。何度も同じことをやって、同盤民が出るのかわかりませんが、気持ちよくなると。
で、刺激も適度に得られるわけです。
そのYouTubeをずっと見ていたりすると、関連したものとか自分がいいなと思ったものに関連したものがちょいちょい出てくるから、人によってはずっと見続けられるわけです。
で、それが今度は発信する側とかにもなるんですけど、SNSでこういうのがあったらその人にいいねがついて、じゃあ自分ももっとやっていこうってなって、それがループを招いていくと。
それが良い悪いを置いておいて、中毒性があったりして、自分の生活をダメにしていったり、おかしくなっていったらダメなんですけど、そうじゃない限りはいいの。
そういうふうに社会で容認されているというか、あるわけですよね。
で、じゃあ考えるとか、今回テーマにしているような本質的に問うてみるみたいなところって、全然ないわけですよ。
新たな挑戦と変化
ドーパミンみたいなのがないとか。
なんか苦しいとか、辛いとか、面倒とか、大変とか、やらなきゃみたいな。
そんな感じじゃないですか。おかしいなぁと思って。
なんでおかしいかっていうと、別に僕自身は考えることが好きなので、これなんか考えてた方がいいんじゃないみたいな。
そこがずれるんでしょうね。
少なくとも考えることでドーパミンが出たりとか、考えることで何かっていうのはあんまり言われないんじゃないですか。
ただですよ、僕の感覚としては、それは確かにこれをやらなきゃいけないなってときに考えていく作業自体が、
なんか快感かっていうと、別にそこまで快感ではないでしょうね。
別にこれは本当にそう思います。
だけど、こういうふうに考えるとうまくいくぞとか、もしくはこう考えたらしっくりするぞとか納得できるかもしれないっていうのが見つかったり、もしくは見つからなかったりする。
で、見つかったときに、アハ効果じゃないけど、なんかこう脳が快感になるっていうのはあると思います。
説明できたみたいなね、そんなとか。
そういうパターンで、そういう人だからこうなんじゃないかって。
とりあえず人間観察、人間分析ってそうですよね。
なんでこのような行動というのかが全くわからない。
だがしかし、考えてみたらこういうパターン考えられるんじゃないかっていうことですね。
で、いうふうに考えていくと、何が起きるかというと、キャバシティじゃないですけど、受け入れる余裕みたいなのができますよね。
その要は、直接的に自分を批判する人ってなかなかいないとは思いますけど、あと面と向かってとかないかもしれないですけど、
そういう時でも、この人はこういう考え方から走ってるんだろうなっていうのはないですか。
では自分、その人が言っている言葉、もしくは僕が言っている言葉も、その背景にあるものは何か、もしくは裏にあるものは何か。
何を言おうとしてるんだみたいなのがあって、それがある程度見えて、もしくは分かった上で聞くのと、
そうじゃない、それだけ切り取られて聞くのと、だいぶ違うじゃないですか。
で、考えるってことはその前後ですね。
つまり、本質的っていうのは、その表層の言葉だけ切り取って、短絡的に何か抜き出してそれに反応するっていうことが表層的であり考えてないってことなんですね。
反射みたいな感じで反応しちゃうってやつですね。
でもそれは感情的じゃないですか。
システム1、システム2って言われてるやつでシステム1だと思いますけど、感情があって思考がある。
だから思考は遅いんですよね。
だから、その後にちょっと待てよみたいな。
6秒ルール、いかにの6秒ルールあると思います。
僕は別に怒らせたことは言ってないと思いますけど、
もしなんかちょっとんっと思ったら6秒くらい待って考えてみると冷静になるじゃないけど、そういうのはあるわけですね。
それぐらい短期なものはすぐに反応してしまうってことですよね。
それをSNSに書いてオラオラすると、揉めたり変なことになるわけなんですけど、
そこで6秒待って考えてこういうことかああいうことかって言ってたら、別にそこまで腹の立つことってあんまりないんですよね。
そうじゃないのもありますけど、あんまりない。
それがまさに反射じゃない、反応しないってことで考える行為だと思います。
つまりその言っているものの前後を見たり関連を探ったり、
自分ではわからないけどこういう考えのもとに動いていると思ったらわかるかもしれない。
人間ですからね。
だけど人間だったら全員に対話して理解できるかというと、僕はそこまではないですね。
考えが合わない人は本当に合わないし、違う人は違うじゃないですか。
だから別にその人と無理に仲良くならなくてもいいと思うので、そんな感じです。
という意味で、本質的に考えないままだと、心情として考えたくないんだと。
誰かに言われたままにいきたいんだっていうなら、それは否定しないし、そんな方なかなか少ないと思いますけど、そうじゃないよと。
どちらかというと、多くの人は何かやりたいし考えてやりたいんだけどよくわからないみたいな。
よくわからないから勉強しないし、学ばないし、知識を入れないし、実践しないしってことを何でもいいんだけど、何でもいいからやってたら違うんですよ。
何かやってる人を否定してるわけじゃなくて、普段生きてる人を全部否定してるわけじゃないですか。
そういうのは全部チャンスや何かを全部否定してないなとか、違うなーって言って、全部切ってって何かやってたらそれはできないじゃないですか。
じゃなくて、ちょっとしたことでいいんでやってみて、挑戦していくとか、チャレンジしてみる、トライしてみるってことが、多分僕はその考えることにものすごくつながっていくんじゃないかなと思いました。
考えない人ばかりになるってことは多分ないんでしょうけど、ないんでしょうけど、ただそれが自分がやらなくていいと、そういう理由にはならないっていう僕のロジックが最近というかここ数ヶ月で出てきてるわけですね。
それは別にあなたの都合でしょみたいな話になるんですけど、もちろん僕の都合でよくて。
自分としては何がしっくりくるんですかっていうレベルまで来てると。自分にとって何がしっくりくるのかっていった時に、二択ではないんですよ。
二択はないんだけど、リスナーのあなたもぜひそういうのをやってほしいんですけど、誰かに任せて、これは僕の心情の話なんで別にリスナーのあなたはそうしろってわけじゃないんだけど、
自分に問いかけてみて、誰かに従って生きるってわけじゃないんだけど、言われた課題があってそれをやってくださいって言われて、やるのが楽しいのか。
じゃなくてその課題自体を見つけてこうしていった方がいいって考えるのが楽しいのかって言ったら、僕はこうしたですね。課題を見つけてこうじゃないかっていう方向を考えていく方がいいかなと思います。
言われた傾向となりの義務となるなかれというねことわざがあるんですが、その通りで、そんな大きなもののところの下につくのであれば、僕は小さいところで、裸の王様だとダメなんですけど、
その小さいものの集団でトップをやってた方が僕は多分いいと思います。さすがに僕はもうすぐ44になりますが、43年間生きてきたときにさすがにいいかなって思うわけですね。
これが40にして知るでした。40過ぎてますけど。なんかですね、そのあたりじゃないかなと思います。
これはですね、感情の問題だと思いますけど、あと僕が言ってることが嘘くさいとか信じられないとか、そういう人もしかしたらいるかもしれないし、友人だとね、さすがにそれはないと思ってますけど、
それは分かんないじゃないですか。会ったことない人たちだとどう伝わってるか分かんない。だけど、結局生き様だと思うんで、じゃあそういう人が何をやるかっていうところで、別にものすごいことをいきなり一発逆転でやるぞとかね。
そういう考えを持った人が動いていくってことを、どういうふうになっていくかを、ドキュメンタリーじゃないですけどね。そんな黒言はやらないですけど、なんか言ってたけど、いろいろやらそうに本質的なとか言ってたけど、めっちゃ長いものに巻かれとるやんみたいなね。
自分で考えてとか言ってたけど、めちゃくちゃ人に考えたことに従ってるじゃんっていうふうになるかもしれませんけど、それも含めて、言ってやるかと言ってる方向とは違うけど、やらないとそのまま全部分かんないじゃないですか。
批判することの意義
そういう意味では、やってない人に批判がするのはどうなんだろうなと思うわけです。その場合ね。やるっていうのは特定の野球選手になる、野球選手になったことのない人が野球選手になる人を批判できないとか、そういう狭末な話じゃなくてですね。
何かしら抽象化すると、リスナーのあなたもそうだと思いますけど、なんかやってみたいとかチャレンジしてみたいとか、もしくはこんなことがやれたらいいなみたいな妄想があったりするときに、それをやろうとしてるのであれば、リスナーのあなたご自身もやろうとしてる人なわけですよ。考えてる人なんですよ。
っていうのがあるときに、やろうとしてる人を批判して言うのは良くないんじゃないですかねっていうのは常にあるわけです。そういうことを対して批判していくと、浮き上がってくる浮いてくる人たちをどんどん叩くだけなんで、そういうゲームをもしかしたらしてる人がいるかもしれませんが、別にやめたほうがいいと思います。おせっかいですけどね。
まあいいことはないかなと思います。じゃなくて、違うんですよね。そういう人たちで溢れて、一個でもいいからやっていこうっていう風にしとかないと、社会全体がね、ロッティングっていうことはね、脳が腐るってすごい言葉ですが、腐っていくと思うんですよね。本当に。
なんかそのままです。でなんかね、腐ったみかんになるわじゃないですけど、金橋先生っていうね、知ってる方は通じるネタになって申し訳ないんですが、腐ったみかんというか、みかんの時期ですけど、カビですかあれなんですかね、白いね、白カビなのか分かりませんが、できてずっとそのままにしとくと、ダンボールなりに他のみかんもどんどん腐ってきますよねみたいな、あれですね。
だから腐ったみかんは浄化しなければならないみたいな。それをあまり言い過ぎると優先主張みたいになって危ないんで、僕はそんな思想はないんですけど、腐らせるなっていうのはありますよね。だからさっきの話で、サボりたいみたいな人がいて、その人だったら隔離してサボらせとけばよくて、サボらせてサボろうぜみたいな風にやると、どんどん環境が悪化していくみたいなね、のはあると思います。ある程度ね。
そんな感じですね。今回はAIで浮いた時間を本質的に考えられないのはなぜかということでした。端的に言えば、そういうそもそも視点がない。よくも悪くも従業員でありワーカーであって誰かに従うよねっていう人だったら、その考え方ちょっとないですよね。
だからそれが悪いというよりも、そういう人に求めるのも酷だなっていうふうには最近思ってます。っていうことをもって別に考え入れてる人が偉いとかってことでもないですよね。なんか役割の問題かなーとか思ったりします。逆に僕は言われたことをきっちりルーチンで回すとかっていうのは多分苦手ですし、多分できないんですよ。
そういう意味で、お互いすごいよね、それやれるよねっていう方が良くないですか。今回は考えるっていう意味では批判的に言ってるかもしれないんだけど、それやれるのはいいじゃないですかってそういう人必要ですよっていうふうになるだけなんで、そこで気持ちよくなって終わるのか、そうじゃなくてもっとやっていこうってなるのかっていう、そういう話だけなんですよね。
その話は本質的に考えるかどうかっていうことも言いましたけど、結局欲の問題になってくると思うんですよ。個人に言えば欲です。まさに何々欲ってやつで、別にこういうふうにしたいっていう、なければそんなしなきゃいいわけなんで。
ある程度、自分の納得度の話だと思うんですよ。考えられるってことは、いろいろ見たり聞いたり話したり何か見えてくるから、僕が別に社会を知ってるとか世界を知ってるってことはないんですけど、これできるんじゃないかって思うことが多くなるんですよね、きっと。
だからそれが考える効率というか、ベネフィットと言いますか、便益だと思ったりします。得っていうよりも増えるって感じですよね。だから考えてないと増えないって感じがしますよね。
定義されたものを選んでくださいっていうふうになる感じです。一発そこを疑ってみるみたいなとか、あれみたいな、なんかちょっと違うぞみたいな。今回わかんないですけど、僕の社会の見方と実はあなたご自身の社会の見方がだいぶ違ってたら、ん?ってなると思うんですよ。違和感が発動すると思うんですよ。
なんでこの人こんなふうに社会が見えてるんだ、もしくは世界を見てるんだ、もしくは世界とか社会じゃなくて世の中に対する認識がこういうふうに見えるんだって思うかもしれないですよね。そういう違和感が面白いんじゃないかと思います。僕は正しいとかね、合ってるとかいうことでなく、実はあなたが間違ってるとかね、そんなことは全くなくて、見方の問題みたいなのがあると。
ときに、考えたい、もしくは考えるのが好き、もしくは考えて形にしていくことが面白いみたいな人のタイプは、僕タイプに似てますけど、大きなところで組織に勤めてとか、そういうことじゃなくて、自分で小さくてもいいので店をやるとか、商売するとか、起業するとかでもいいんですけど、そのリスク、リターンを置いておいて、そういうことをやっていった方が僕はいいと思います。
でもそういう人がやることが少ないっていうのはシンプルで、考えてないとは言わないんですけど、考えてやりたいよねっていう欲というか、こうじゃダメなんだとか、なんでもいいんですけど、そういうのがやっぱりないと、モチベーションというかわかりませんけど、できないんじゃないかなって思ったりします。
それが教育によって身につけられるかはわかんないんだけど、考えるところは、やっぱり訓練というかトレーニングで何とでもなるような気がするんですよ。それがもしかしたら最強の私国理トレーニングみたいなものになるかもしれません。
私国理というと商売をして儲ける、お金を取ったら終わりみたいなことをもしかしたら思うかもしれませんが、それはものすごく狭い競技のビジネスとか仕事だと思います。
競技というか定義じゃなくて、自分なりの仕事だったりビジネスを定義すればいいんですよ。要は自分が関わった人が幸せになるとか豊かになるとかだったら、じゃあそれ豊かになるってどういうことですか。それがまさに考えていくことなんですよね。
仕事は何があったらいいんですかっていうのも、僕に聞かなくてよくて自分で考えればいいんですよね。こういうことやってみたい、ああいうことやってみたい、かき氷やってみたいとか、ドライヨーカーみたいなの作ってみたいとか、職員でもいいし職員じゃなくてもいいわけですよね。ハンドメイドで作るのもいいし絵を描いて売ってみるのもいいし、何でもいいんです本当に。
自分がやってみたいことをチャレンジしてやって、それがビジネスになるかどうか置いておいて、仕事になるかどうかも置いておいて、少なくとも取り組みってことを否定しないっていう社会の方が僕はいいんじゃないかなと思ってまして、それって結局本質的に考える人ですよね。
人が増えないと成立しないし面白くないよなと心から思ったという回になりました。ちょっと散らかりましたけどAIからの話ね。でもそうだと思います。思考とか考えるってことはまさにそんな状況になっているのかなと思います。
考える力の重要性
考えないことで回せると。それこそ別に出版の人は否定してないですけど、売れる本を何万部何千万部売れたから売れている方は売りやすいわけです。売れてるから買うみたいな。でもそれはある種のバブルというかSNS中毒みたいな。
そんなことで怒られるかもしれないですけど、なんか乗っかってる感じはするわけですよね。それも売った人は評価されるし、より売った方が楽と言えば楽っていうかね。
だけどちょっとわからないものとか売れそうにないものを売るとかだとわからないから、今ってそうじゃないですかって伝わるかわかりませんが、インフルエンサーじゃないけどSNSですでにリピーターで顧客がいるという人がファンがいて、その人が出す方が売れるわけですよ。なぜならそのファンが買うから。
それって出版の意味あります?って話で。出版自体は否定してるわけじゃないし、そういう売り方を絶対ダメと言ってるわけじゃないんですけど、そういうのもあってもいいけどねっていうところで、だけどそういうのしかなかったら単にインフルエンサーの人たちの出世というか本を出しましたみたいなものしかなってなくてつまらないですよね。
それだけです。そこも難しいと思いますよ。そうやって言いながら自分が出版事業やってて、どういう人を、著者を選んでどういう人が売れる、それこそ数字として売れるものを見つけていくって言ったら、これはなかなかしんどいよねってなるんですよ。
分かりますよ。分かった上で言ってます。でもどうしましょうねっていうね。みんながみんなそんなSNSで売れたやつでしか売れないですよっていう保守的な案件ですよ。もう既に出版する前から売れるようなものしか売らないと。
それはどう捉えてもいいんですけど、やっぱ冒険はしてないですよね。文字通りね。だから故にそこに迫力はないですよね。力はこもらないですよね。何千万部、何百万部っていうのが保障されたものをやるっていうのは面白いのかどうかは分からないですよね。
それでコケた事例があるのかもしれませんが、それでもね。だからそれでもコケないようにすると。そうするとおかしな話になってきて、防犯のための防犯のための防犯みたいになってて、最後に生活が防犯になってて、何ていうのだったの。
26の上にさらに36掛けるみたいになってて、なんか生活がしづらいみたいになるんですよね。そういう滑稽なことが起きてないのか起きてるのかは分かりませんが、よくある話であります。そこも売れている売れ方がどうとかじゃなくて、それって何でそうなっているのか、その前後を見て考えるってことをしてみると全然違うものが見えてくるんじゃないかなと思います。
はい、ほんの1ミリでもですね、今回の話面白いところがあれば幸いです。だいぶ長くなりましたが、今回は以上となります。四国理ラジオ大橋でした。ここまでお聞きいただきましてありがとうございました。以上失礼いたします。
01:06:10

コメント

スクロール