怖さの本質について
はい、シゴクリラジオ大橋です。よろしくお願いいたします。このシゴクリラジオは、パーソナリティである私、仕事クリエイター大橋が、仕事づくりに関して話をしていく番組となっております。
今回ですね、ビジネスとかね、シゴクリではないかもしれませんが、
ちょっと哲学っぽいテーマですと。結局ね、哲学ないとやれないんだと思うんですけど、考えましょうということであるんですけど。
今回のテーマはですね、怖いですね。怖さです。で、あと本質的な、ごめんなさい。怖いって何かっていうとですね、
例えば僕がですね、リツアーの中で僕と会ったことがない人がほとんどだと思ってるんですが、僕と会ったことがある人も聞いてるかもしれませんが、
人によっては怖いって言われるんですよね。話し方とかもあると思いますが、
分析的とか論理的とかってことで、クールで冷たい印象を与えることが多いと。僕は与えたいわけじゃないですけどね。
だけど、感情的で触れ幅が大きくっていうのも、ちょっとわちゃわちゃしてるというか、制御不可能な感じもしません。
っていうのも怖いんで、データじゃないけど事実と意見を分けたいですよね。
だから多分ここがおかしいなと思うんですけど、事実と意見を分けられるってことが分析的になっちゃってる時点で、
話はそこら辺で終わるんですけど、それは良いとして、そういう状況があるわけです。
社会的にね。知らんがらってものはあるんでしょうけど、おかしいなと。
例えば僕が分析的だと思ってないんだけど分析的になっちゃってるみたいなのがあるっていうのが、ある種の社会的と言えるわけです。
実際と想定が違うと。そういう時に怖いっていうイメージって、何だろうなとふと思ったんですけど、
気にしてるというよりも、怖いんじゃなくて、それは本質的なところを言われるんじゃないかみたいな。
それは分かるんですよね。言っちゃいけないんじゃないかみたいな。
いうところの本質か表層ですよね。もしくは、具体も本質的じゃないことがあると思ってるんですよね。
それは話すとごちゃごちゃするのと、抽象化こそ本質だみたいなのもまたちょっと違ってくると思うので、
今回ですね、僕の感覚の話になりますが、僕がなんで怖いと言われることがあるのか。
かなり稀ですよ。稀なんですけど、あるんですよ。
それってこういうことじゃないか。仮説としては、それは本質的なことを見たくない。
もしくは見ることに対して怖いので見たくない。ゆえに、怖いですよねっていうところを言っておくことで、
ある種のホラーとか怖さって、DNAじゃないけど、恐ろしさってあるわけじゃないですか。
人から攻撃されるみたいな。本当にその部分はあるんじゃないかと思います。
だからその安全とかを作れなかった、僕の中でのコミュニケーション失敗でもあるんですけど、そんなことあんまりないんですよ。
前に言い訳しておきますけど、そういうのがあるよなっていうのがあります。
心理的安全みたいなところで、いくつかシーンはパッと思いつくんですけど、
はっきり言い過ぎて、攻撃されるんじゃないかって思う人たちもいるんでしょうね。
すごくここが難しいんですけど、医療行為とか、僕はカウンセラーでもないんですけど、
別に攻撃するつもりないのに、攻撃されたと思われたら、もう話は終わっちゃうじゃないですか。
全然攻撃するつもりないんだけど、むしろあなたの仲間だと思ってほしいんだけど、
仲間だと思ってほしいものに敵認定されるからっていうのがこのコードに近いと思います。
本質的な怖さっていうのは、要はその相手にとって本質的っていうのが怖いわけなんで、
その怖い部分を見るようにしてくる、言語化してくる。
全部、事実と意見も全部暴くというか、分析してくるから、誤魔化せないんですよ。
ということで、僕と話をして、みんなで別に本音で話せとか、立て前やめろとかね、
心理的安全と分析的思考
そんなこと言ってるわけじゃないですよ。
だけど、その人の考え方とかを知りたいんで、どんな感じですかね、みたいなのをやるわけですよ。
で、ぶっちゃけなくても別にそれって人によって変わるんで、正解もないですし、
そういうふうに捉えてるんですね、っていうふうになったら、変えるわけですよ。
で、これを稀に差別というか、区別だと思いますけど、
区別してることを差別してるみたいなね、方が稀にいらっしゃるんですよ。
これも稀な確率でね。そこが何か出てくると厄介ですよね。
何言ってるかっていうと、例えば企業でいいでしょう、
企業の初心者、初心者でも変ですけど、何かやったことない人にやりましょうよっていうのを、
ちょっとずつ一歩ずつ丁寧にやりましょう、みたいな感じにはなりますよね。
つまりその人にとっての、例えばアドバイスしてくださいってときに、
何もやったことなければちょっと働いてみましょう、みたいなね、本当に思います。
だから働かないと企業できないとかはないと思いますけど、
知識や経験が足りなさすぎれば、無理じゃないですかってなりますよね。
だからいきなりやらずにちょっとずつやればいいっていうのです。
もうだいぶそれをやって、いくつかやってきて考えてますっていう人だったら、
いらっしゃるわけじゃないですけど、じゃあ5年10年やりました、仕事働きました。
何を得ましたかとか、どういうことができそうですかみたいなのも、
別にそれが絶対できる、100%できるとかじゃないんだけど、
その延長線上で考えることっていうのは別にいいんじゃないかなと思うんです。
だけど延長線上だけで考えてると狭いし、延長線とか延長に世界があるわけでも全くないと思うんで、
世界の認識の仕方みたいなのがないと、その狭さがわからないというかね。
だからありふれた月並みな言い方になりますが、外に出ようというか、
いろんな人を知ってるんですかって話なんですね。
別に物理的に言わなくても僕もいいなと思ってるんですけど、
どういう考え方があるのを知ってますってことだけだと思います、本質としてね。
少なくとも自分が狭いのであるという認識がなく、その中でいいのであるというのであればちょっとまずいんじゃないかなっていうんですよね。
それは話したり考え方で判断をしているので、
どこか旅行に行ってるからとか、どこかいろんな職業を体験してるから絶対視野が広いわけではないわけですよ。
つまり、転職回数が多い人の方が転職を全くしたことない人より世界が広いかというと、これはまた別なわけですよね。
話が伝わります。だからそれだけでわかるもんじゃないっていうことです。
ちょっと長くなる話かもしれませんが、ちょっと話も載せていくと、
今回これぐらいに冒頭しておくんですが、怖さですね。
僕自身の怖さみたいな、僕自身が怖いと思っているんじゃなくて、
僕が怖いと思われることというのは、表層的なとか、いわゆる本音と建前で言えば建前的な話ではなく、
本質のところに切り込んでくるっていうのが怖い。一言で言えばビビる。逃げたいと思うわけですよね。
自分で何をやろうとしているんだとか、そういうのを別に僕はどういう状態でもいいから、楽しんだり面白がるっていう感覚なんですけど、
それとかはこちらの別に意図は全然無視して、その人自身が怖いと。
前にみかんがあるんですけど、みかん怖いって言ったら、みかん見ただけで怖いから、
みかんは避けてくださいってことで目隠しで、みかんに布をかけて隠したんですけど、そういう状態になるんじゃないかと思います。
人間関係と本質の関わり
つまり身の前のみかん、怖い。だから蓋をするみたいなね。
臭いものを蓋するじゃないけど、本質的に見ることは怖い。だからそこは見ないようにする。
その生き方として、生きざまとして、狂辞みたいなね、プライドみたいなものとか、いろいろ様々があると思うんですけど、様々あるじゃないですか。
だから本質的に見ろっていうことのみを強要し、本質ハラスメントじゃないんだけど、何でもハラスメントになりますよね。
冗談ですけどそれは。どうしたいのみたいなのだけを言っているとは思わないし、それだけじゃないと思いますよ。
別に話を合わせることも時には必要だと思うし、ということです。
だけど僕はですよ、その上でこうやって長く喋ってるかっていうと、つまんないなって思ってるんですよ。
別にぶっちゃけなくてもね。伝わってると思うんですけどこれは。
渋谷グリフイグルの方、「その考え何?」みたいな。
言葉を選ばずに言うと、腐ってるんじゃないよみたいな感じになるわけですね。
腐ってるっていうのは、建前とかで、他の人がこうだからみたいなやつですね。
だからあなたは何ですかみたいなね。
っていう話をリスナーの中で僕が知らない方が聞いた時に、これ初めて聞いてる方だと怖く感じるんじゃないですかね。
多分ね。っていうことを想定します。
ということをちょっと考えようって話ですね。
だからビビらせようとかそういうとはなく、意図はないんだけどっていうところではある種のハラスメントみたいなね。
気づかないじゃないですか、ハラスメントっていうのはね。
自分は意図せず無意識にやっている。
無意識に本質の方に行ってるから、よく言われるのが、大橋さんって、
なんか哲学じゃないけど、語りじゃないけど、なんかそういうのありますよねみたいなね。
別にそれは悪い意味ではないと思いますけど、そういう人ばっかりじゃないわけですね。
本質なに?みたいなね。
で?っていうやつですよね。
ぬるいとね。
で、そんな話をしてみたいと思います。
もう一回整理すると、僕が怖いと言われるという時に、
それは表層的なものを建前とかで取り繕うというのはほぼなくですよ。
ほぼなくね。
もちろんそれは状況によるってことは言っておきますけど、
仲が良いとか、親しくなるということは、
本質としてどうしたいの?みたいな。
それが別にね、本質的に怠けたいのだとかね。
で、あれば怠けてるんだねって別にいいじゃないですか。
って言わずに、本当はなんかいっぱいやりたいんだけど、みたいな。
その、見栄とか格好をつける。
格好をつけるのはいいんでしょう。いいけど、
本音のところを言わなかったり、建前だけでなると、
まあ、しんどいですよね。
だから別に仲良くなれないっていうね。
っていうところで、
僕のこと怖いっていう人はまず仲良くなれないから、
イーコールしてて世界は一致してるんですけど、
そういうことについて考えてみようってことですね。
それは怖さっていうのは、怖いと言われてるものは
本質的なものを見るところじゃないかと。
見ようとしてくる何か、圧をその方ですよね。
怖いと思った方は受けたんじゃないかなと思います。
僕は知らないですよ、それ。出そうとしてるんじゃない。
だけど、僕からするとそれは一致してて、
それが怖いならもう無理でしょっていう話になりますから、
そのあたりをですね、ちょっと考えてみたいと思います。
この話はね、あんまり聞かないですよね。
どうですかね。聞いたことある方いたら、
ぜひ心理学なのかな、哲学なのかな、わかりませんが、
怖いですよね。快適なポジティブな話じゃなくて、
怖さの話、本質とリンクして話していきたいと思いますので、
もしよかったら、興味があれば引き続き聞いてみてください。
今回もどうぞよろしくお願いいたします。
はい、中国リラジオ大橋です。よろしくお願いします。
怖さの本質
テーマは怖いですね。
本質的なものを考えるというのが実は怖いのではないか、
みたいな話をしていきたいと思います。
めちゃくちゃ整理できてるわけじゃないんですけど、
ちょっとその前に余談なんですが、
YouTubeでもですね、Podcast配信しておりますと。
で、最近ですね、そんなにたくさん聞かれてるわけじゃもちろんないんですが、
人気だったものがありまして驚いたんですけど、
視聴回数はあるけど、別にそんなに視聴時間が長いわけじゃないけど、
視聴回数だけでも珍しいなと思ったのが、
先々回ですか、先々回、4日前のようは。
なんで、金曜日じゃない、木曜日ですか。
自分と他人で考えずれている前提がいいのかも。
これガガッとなってますね、直しとこう。
すいませんね。
これがちょっと見られてたってことなんですね、YouTube側では。
前提ってずれてないっていうね、
一緒だっていう前提で話してたら楽ですけど、
相手が違ってたら違うわみたいな風になるので、
ちょっと危険だなと思いますね。
でもこういう感覚を提示していけるか、言語ができるかとか、
そういうあたりは大事かなと、今こういうのを見て思いますね。
ガガッと直させてください、いいですか、すいません。
前提がいいのかですね。
はい、じゃあ今回テーマやっていきましょう。
本質的って何かみたいな話ですよね。
冒頭ですね、お話ししたところありますが、
若干繰り返しになりますが、
たまにですよ、ごくごくまれにと言った方がいいですが、
僕がですね、私話している大橋ですが、
ショートグレーター大橋さんという人がいますと、
その人が誰かに出会ったときに怖いって言われるわけですよ。
怖さとは真言みたいなもので、
本質的なものを見ていく怖さじゃないか、
それを見られたくない、もしくは見ようとするっていうところが
そもそも怖いんじゃないですかねっていうのが今回の仮説でした。
温室と路地栽培
めちゃめちゃ簡単、仮説です。
本質とか根本的とかね、そういうところです。
これは悪意はないんですけど、
本質の反対って何?って言ったら、
表層とか本質じゃない、
水面下と水面上とか見える部分。
見える部分が絶対ってこともあると思いますけど、
そこで温かい場所みたいな、
温室っていうのを否定しているわけじゃないですよ。
一旦温室で表現させてください。
温室ってあったかいじゃないですか。
冬場も空気が入らないようにして植物とかがぬくぬく育って、
ヒーターとかを入れたりすればぬくぬくできます。
その温室っていうのがいいわけですよ。
その人にとってはね。
ぬくぬく育って温かいし、いいじゃんみたいな。
布団から出たくないとかね、めちゃくちゃわかります。
だけど、それでも温室でしかないじゃないですか。
世の中って植物というか野菜もそうですけど、
路地栽培って言われている、
路地はバクロンの路に、地面路地か、合ってます?
外で作るやつは路地栽培だと思いますが、
違ってたらすみません。
要は外と人工か、野菜も人工なんですけど、
そうやって路地とか温室かって言われた時に、
より路地の方が温室かなと思ったりするわけですよ。
絶対じゃないですよ。
温かいところの囲われたエリアが温室みたいな話ですね。
そういうのがいいよと。
ここで勘違いしてほしくないのは、
温室育ちの人に温室で出て、
破いて温室を、扉から出させてもらって、
昔だと引きこもっている人をそのまま引っ張っていくっていう、
引っ張り出すみたいなシーンがあって、
全然笑えないんだけど、
暴力なのか愛情なのか分かりませんが、
一言言えないですよ。
だけど、そんな嫌々なんかやるっていうことは言ってないですよ。
ただ、遭遇するわけですよ。
ごく稀に遭遇したときに、
何の話をします?
こっちは温室でぬくぬくやってるんで、
あなたみたいに路地ってどうこうはないんですよね。
ということで、想定されるのは、
僕が温室の方に入っていって、
温室あったかいですね、みたいな、
本当に素朴というか、
素っ気ない会話しかできないというか、
わっつらっていうかね、
温室あったかいですね、そうですね、
でも会話終わっちゃうぐらいの話なんですよね。
しょうがないですよね。
これって怖いなっていうのは、
世界は温室でできているわけじゃないよね、
っていう認識があった上での温室っていうことだったらいいんですよね。
成功と失敗の人間関係
だからこれを言っちゃうと、
路地行っている人が温室じゃないことを知っているということになるかもしれないですけど、
一応そういう認識です、僕は。
温室ではないかなと思ったりします。
とはいえ、ここで自分は世界のすべてを知っているとかっていうのは、
もちろん一番良くないことなんで、
違うんじゃないかなぐらいっていう話です。
だから温室にいる人が、
温室じゃない世界もあるよね、
っていう認識があるかどうかは、
かなり重要な話ですね。
ここでちょっと違うかもしれないですけど、
僕が思ったのは、
例えば企業で、
僕は一回目企業をしていて、
友人とやって、結果的にはうまくいかなかったということになっているし、
生産もしていますから、
生産というのはお金の生産ではなくて、
清らかに産の方ですね。
清いっていう生産ですね。
それは会社とかを、
陶器場をなくすとか、そういうようなことなんですけど、
生産もしていますね。
これって、僕よかったなと思っているのは今でも、
友人とは一応付き合いはありますが、
うまくいったら雇っているとか、
うまくいったら誘っているという人はいません?
そういう人って基本的にダメなんですよ。
ダメっていうのは、
アウトオブガンチューという、
ガンチューやアナズという、
これは親父ギャグになるんですか?
おじさんギャグみたいになるんですか?
わかりませんが、置いておいて、
うまくいっていることしかやらないんですよね。来ないんですよね。
しかもそう言っている人は、
うまい時のタイミングもわからないから、
何で判断するの?
自分がうまいと思った時に来るのかな?
って思いますけど、来ないですけど、
うまくいっている時は誰もがいいんですよ。
ニコニコ、ハッピー、家族、コミュニティ、何でもいいです。
うまくいっている時は、いいよね、いいよね、
仲の人というかね。
会社、企業仲間とかもそうです。
リスナーの後もご自身で、
そういうのを考えてみてください。
立ち上げたり、新しくチャレンジしたりとか、
じゃなくてもそういう場にいた時とかですね。
うまくいっていた時はよかったんだけど、
だけどそれはだいたい問題にならないです。
うまくいっている時って。
うまくいっていない時ですね。
あれ、これどうしたらいいの?とか、わからないよ、みたいな。
これ見ているとすごい面白いんですけど、
スタートアップとかで見ていると、
思い出しただけなんですけど、
うまくいかないとみんな離れてくるんですよね。
これ面白くないですか?
いや、面白いっていうのは、
そうだよねっていう。
そこにいてもしょうがないしってことで、
みんな離れてくっていうのは、
雇ってた人が辞めてくっていうのはもちろんですけど、
雇ってなくても自分たち役員とか、
心としておいお前一緒にやろうぜみたいな、
意気投合した人で、
かなり本質で語り合ったような人っていう。
まさにここでは本質的な付き合いができたっていうね。
ここでは一応怖い人になりますけど、
冗談ですよ。
ときにその人からも逃げられるというか、
逃げられるというか、さられるというわけですよね。
これは相当ショックですよね。
僕はそこまでないかもしれないけど、
ちょっとよくわかんない、
別れ方みたいなのもありますよね。
数をこなすと言うと怒られるかもしれませんが、
人の出会いの数だけあればそういうことも起きる。
数だけ見れたらね。
だから知事困って特定の人と関わりを増やさないようにすれば、
それは温室になると思います、基本的に。
だけどそれってやっぱりですね、
世界は狭いよねって思うから、
毎日新しい人に出会いとは全く思わないですけど、
閉じるという概念を持っていくと危ないなっていうふうにはやっぱり思います。
とはいえもちろん開きすぎてもどうなのって思うので、
開きすぎにならないか。
ここで言いたいのは、
うまくいかなかった時に、
うまくいってる時だけがいいよねっていう人たちは破綻するんですよ。
破綻っていうのは要はうまくいかなくなるんです。
だからごめんなさいね、
スタートアップでうまくいかなくなったところにも
いなきゃいけないっていうことはないんですよ。
そういう実際があるから。
だけど、
そんなもんだよねって話です、一つの例としてね。
だからもっとひどいというか、
もっと重たい言い方をすると、
自分に都合がいい関係性を求めているということであれば、
うまくいってる全体がうまくいってる時は
自分も相手もいいからいいと。
だけど悪くなったら自分も悪いし相手も悪いから
相手は去っていくっていう。
だから自分に悪かったら去るっていう。
ものすごく当たり前ですけど、
でもそういうのってありますよね。
だからここで言いたいのは逆で、
その状況が良くない時に
見捨てないとかちゃんと話ができる人が
多分本物だと思います。
これはね、
よく言われるんじゃないかなと思います。
見捨てないというか、
関わりが保てるっていうところです。
なぜならそれは何でかっていうと、
これシンプルで本質だからだと思ってます。
つまり、
それこそスタートアップでもいいし、
イケイケどんどんって意味はないですね。
だから要は名誉というか、
社会的地位とか、
それこそお金持ってるとか、
いいようにしてくれるとか、
上手くいってるみたいなところっていう時に、
そろそろ知り合いが増えるみたいなのが出てきて、
人間関係の本質
そういう時に付き合った人たちって、
結局上手くいってる時しか出てこないわけですよね。
だからそれをある種の目当てというか、
要はコマと言ったら怒られますけど、
おこぼれに預かるじゃないけど、
仕事でもいいですけど、
仕事がもらえるとかお金がもらえるとか、
そういう関係性みたいなのがあったりする。
それを期待してしまっている。
故に上手くいってないなら、
あなた用ないですよみたいなそういう感じ。
芸能とか知名度とか、
知名度とかっていうフォロワーも、
今どうか分からないからフォロワーもじゃないですね。
要は知名度みたいなものか、
もしくは知名度が広告になっているような仕事をやると、
まさにそれがダイレクトにきますよね。
人気ないなら入ってきませんみたいな。
それはシビアとか、
社会がひどいとかもしかしたら思われるかもしれませんけど、
それをお金に変えているという意味でのリスク、
リターンというのがあるので、
多分それを知らずにやっている人はいないんじゃないかなと思いますね。
本質的なコミュニケーション
やってみて初めてそうだったという人の知見はあると思うんですけど。
ゆえに本質というのが、
上手くいかない時でも付き合われているような関係性かなと僕は思ったりしますね。
でもそこに面倒くさい関係性もあると思ってて、
そういうところで妙に変なアドバイスをしてくれる人とかもいたりすると思うので、
それはちょっと違うなと思いますね。
逆にそれを置いといて、
音質というのが逆で、
上手くいっている時はいいよねみたいな、
変なポジティブシンキングってあると思うんですね。
何でもポジティブに考える。
それはいいんだけど、
ちょっとそれをやりすぎても怖いなみたいなのが若干あるかなって感じです。
さっき話したけど話が合わないっていうのは、
そういうところにあるかなと思います。
つまり、あなたはどういうことを考えているの?みたいなところ。
本質みたいなのって、
考えたり、もしくは、
考えなくてもいいんですけど、その場でね。
考えてきたものがあったり、
もしくは質とか量という意味では量ですよね。
何かやっている。
こういうことをやっているからこういうことが言えるかなっていう話ができる。
何かやった話がまずあるかもしれないですね。
何かやりましたよっていうのがないと、
まず考えるところに行かない感じですよね。
だからまずやらなきゃいけないですよね。
希望はないんですけど、
そのやるっていうのが、
自分の中でそれだけやっていればいいっていうことじゃなく、
なるべく違う、自分とは違う、
自分がやってこなかったことをやろうとするっていうことだと思います。
僕はそれを見てますね。
というのがなければ、話つまらなくないですかねっていう。
だから本質の話をすれば、
じゃあ新しいことを何かやったりしているから、
アップデートされてますよねっていうのもちょっと甘いになるわけですね。
厳しくいいかもしれないですけど。
でもそれはそうだなと思います。
僕も自分に次回を込めていくと。
新しいことをやっているように見えて、
実は同じことをやっている繰り返しになっていると、
本人が思っている、僕が思っていたら、
それは新しいことをやってないですよねっていう。
そうなの?って思うかもしれないけど、
自分が挑戦しているなって思っているっていうことは、
たぶんそれは本質的に新しいことなんですよ。
挑戦していないなと思っていたら、
たぶん新しいことを客観的に違うことをやっていると言っても、
変わっていないと思うんですよね。
そこですよね。
そこが見極めたり考えたりというふわふわしたところで、
分からないですよね。
本質的に話していくとか、
建前じゃないよねとか、音質じゃないよねっていうところに話していくと、
話が合わないかできない、感覚的にはできないか近いですね。
安全と恐怖の二項対立
難しい話を言われても分かりませんみたいになると、
難しいかみたいになって終わるっていう感じです。
リスナーの方ももしかしたら心当たりがあるかもしれないです。
逆があるかもしれないですね。
この人が言っていることが難しいみたいな、
何か言っているけど。
分かるように話をしたとしても、
自分では手に負えないとか、
自分ではちょっとみたいになっていくと。
それはありますよね。
いくつか脱線をしていますが、
話が合う合わないとか、うまく言っているとき、言っていないときとか。
これが最後のトピックというか、話になっていくんですけど、
会話の中でコミュニケーションですね。
会話として意思疎通、文章でもいいです、話すでもいいですね。
何でもいいんですけど、
その対人でのコミュニケーションについて、
この人は何を考えていたりとか、
本当はこれを狙っているんだろうなとか、
こういうことを考えている人なんだなという理解が乏しいか、
そういうことを求めないというふうになるわけですね。
極端なことを言えば、こんなことはないと思うんですが、
骨と建前みたいなのがあったときに建前だけで生きると。
建前というのは結局周りから言われるようなこととか、
言っているようなことみたいなことの連続になりますから、
本質とは程遠いわけですね。
だけどその人にとっては本質とは怖いのであり、
建前はある種、優しいと言ったら、
ここは言葉がおかしいかもしれませんが、
でもその人から見たら、その人視点では優しいのでしょう。
ふわふわした布団のような、ぬくぬくしたものがあると。
優しさですよね。
でも、世界としては完結しているなと思うのが、
怖くない、安全みたいなこと。
反対言葉がちょっと分からないですけど、
そういうふわふわした安全ということは、
その怖さからゆえにあるわけですよね。
二項対立じゃないけど、概念として、
痛いから不快と快みたいな感じで、
快的なものがあるから不快なものがあるというかね。
不快しかなかったら不快なんかないし、不快とも思わない。
だからその優しさ、安全、ぬくもりみたいなところと、
怖さ、恐怖、痛みみたいなのがあるんでしょうね。
その世界の中で。
本音を言うということは怖いことだよと。
つまりその布団をひっぺ返す。
ひっぺ返す、あってます?
名古屋弁ですか?
わかりません。
布団を引き剥がすようなこととか、
その優しいぬくもりのところから、
音質を壊すとは言わないけど、
音質を破壊するような、ぬくぬく、
ぬくぬく優しいヒーリングミュージックがかかっているところに、
すごい大きな声で来て、
何かどこを行っていくみたいな、
怖さを感じるんじゃないかって。
本音を言うということだね。
本質の話をすると。
ゆえに本質とか本音とか、
本当に本音というのがあったときにも、
例えば自分はこういうところにいていいのかなって思っていても、
言えないわけです。
誰か言う人がいても、
なんでそんなこと言うの、建前で行こうよみたいなね。
建前で行こうよじゃないですね。
たぶん楽しく行こうよみたいなのがあるんじゃないかな。
そんな怒らない方がいいよみたいなね。
わかります?
怒らない方がいいよ。
それは違うよみたいな。
それが腹立つんですね、僕ね。
そこで怒らないと、
いつ怒るのぐらい、
怒る機会を失しているというか、
まさにその怒るが本質なんですよね、そこで。
そういうことなんですよ。
ある青春小説みたいなね、
ちょっと名前忘れてるんですけど、
読んでましたまた。
その登場人物のキャラクターって、
主人公じゃないんだけど、
メインの主人公の友達がいいキャラしてて、
そういう友達いいよなっていうのなんですけど、
そういう友達作れるかみたいな問題があって、
わかります?
本音とか自分こういうことやろうと思ってるんだみたいな。
青春っていうよりも、
本音で語ってます?みたいな。
本当に。
それを青臭いとか、
どうとか、
いや、わかりますよ言ってること。
っていうところを、
なんていうんだろうな。
で、笑って恥ずかしいとか、
思う人もいると思うんですよ。
松岡修造さんみたいに頑張ろうみたいな。
でもあの人はめちゃくちゃすごいなって僕は思うんですけどね。
まあまあそれを置いといて、
分かった上でやるって感じですよね。
僕もそう思ってます。
恥ずかしいなっていうのは分かるんですけど、
慣れてくると恥ずかしいとかじゃなくて、
言わない方が恥ずかしいくらいになりますよね。
厚苦しいっていう人もいると思いますけどね。
本音でとかね。
まあそんな厚苦しさではないんだけど、
それに質言うのみたいなね。
そういうのですよね。
だから最後のトピックとしては、
会話自体が建前とか、
要は他の人の考えとかっていうのをなぞることで、
究極の安定行動、
格闘ゲームとかじゃなくてもいいんですけど、
安全で平均的な選択肢を選ぶということがあると。
それをやると確かに安定はするんだけど、
成長は多分ないかなっていうのと、
パターンが読み入っちゃいますよね。
この人はこういうパターンで絶対こういう行動をすると。
安全行動を取ると。
3つあったときにタクが、
この人は絶対安全の行動を取るから2だよねって分かっちゃうから、
読まれるっていうね。
最適解が言えに決まってたら最適解になるから、
それを逸脱するかずらすかっていうブレがある人が、
そこには勝敗のブレはあるんだけど、
勝てるんでしょうね、勝てるときは。
それは安定行動の話で置いといて、
全部なんか野球の話で言えば、
野球そんな見るわけじゃないんだけど、
ずっとバウントやってるというか、
なんでって言ったらバウントが確率が高いからみたいな。
バウントだけしてるみたいな。
ショーって見せるっていう見せ物みたいなイメージで、
ファンを楽しませる、観客を楽しませるっていう意味では、
ダメでしょうね。
バウント禁止になるんじゃないですか、バウントばっかりやったら。
これはバウントして当てて走るゲームになりますよね。
そうなると外野って飛ばして取る人いらないじゃないですか。
内野もいらなくなってきて、
本質と恐怖の関係
5人制ベースボールでしたっけ?
なんかありますよね、9人?
9人じゃない、ごめん、5人だと思いました。
見たことありますけど、すごい狭いスペースでできるからいいんですよね。
しかもピッチャーすらいなくて、
ピッチャーも内野の人で、
打つから始まるんじゃなかったでしょうか。
確かね、変わってるなと思いましたけど。
そうするとだいぶ変わりますよね。
変わりますよねってことを言いたかっただけです。
ここまで見てきたように、もう一回繰り返しますと、
本質的なことを見る、気づく、そこに触れるっていうことが、
痛い、もしくは怖い、もしくはトラウマとか言われて、
笑われたり、そんなのできるわけないだろうとか、
それですごく詰められて、そんなのやめなさいとか。
例えば宇宙飛行士になるから免許したり、
そんな宇宙飛行士なんて夢を見てる場合じゃないみたいなね。
夢を見ろよっていうね。
何のために生きてるんだって思いますけど。
しかもそれ人の人生ならいいけど、いいっていうか、
別に自分の人生ですからね。
人の話じゃなくて自分がの話だから、
干渉してどうこうの話じゃないから、そこですよね。
そうやって本質的なことっていうところを見ると、
怖いわけですよ、多分その人にとっては。
僕みたいな人が来て、何やってるんですかとか、
どういうこと考えてますかっていうふうなコミュニケーション自体が怖いわけです。
そんなに考えてないからですよね。
そうやって言うと、考えてないからダメだよねみたいな、
圧をかけてるように思えるかもしれませんが、
基本的に圧をかけて、その場でないんだなってなったら、
そうなんですよねぐらいで別に話は詰めないし、
それはしないですよ、そんなにね。
なんだけど、とはいえですよ、なんか出ちゃうんでしょうね。
で、どうなんですかみたいなのが、
カッコその間にあるというか、
みたいなものもあるんでしょうね、多分ね。
それを察知した人が怖いみたいなね。
怖いのは説明になってないですからね。
だから言われてはないですよ。
怖いって言った人が本質的なことを言ってくるから、
怖いですって言われたことはないんで、仮説って言ってるだけですね。
でもそれぐらいしかないかなっていう感じはします。
コミュニケーションの難しさ
だから別に、ごく稀に怖いとか言われた時に、
わからんなみたいな、思います僕は。
これが価値観とか考え方とか世界の認識みたいな、
手遣くっぽいですけど、じゃないかなと思います。
それを擦り合わせていくのはすごく大変ですし、
話せばわかるなんていうことをもしかして、
アリサの中でも思っている方いらっしゃるかもしれませんが、
僕はね、話してもわからんこともありますよねっていう感じがするし、
だから話せばわかるぐらいの、
なったら世界には戦争もそうだし、
紛争もそうだし、争いって起きないですよね。
話してもわからないっていうのが多い。
だからそういう戦争とか紛争とか、戦い、武力ですよね。
力でどうっていうことを別に認めてるわけじゃないですよ。
そういう話だったんですね、仮説としてね。
だからそうやって本質的なことを話していこうとかすると、
どういうふうになっていくかというと、
話はシンプルで、建前で行きましょうとか、
周りの人がやってるからこれにしましょうとか、
いわゆる考えずに、自分で考えずにとか、
もしくは他者、他人に考えさせて自分をやらせないっていうような人に対して、
喧嘩っていうと怒られるかもしれませんが、
嫌ですよね、基本的にね。
なんでかっていうと、こちらに考えさせるからですよね。
自分は考えずにね。
ここで問題なのは、自分で考えた上でこうですよ、
だからこうしませんかって言ったらいいんですよ。
だって考えてるからね。
だけど自分は考えずに誰かに考えさせて、
それでもそれは価値があると思ってるってことで、
要は自分が思考せずに誰かに考えさせて、
それを手柄を取るというかね、言い方はその通りなんですけど、
それがものすごく嫌いなんですよね。
汗をかくとかそういう精神的な話になりますけど、
汗をかくっていうのはその人が考えたり動いたってことですね。
考えるっていうのも結局頭で行動せずにってことは無理だから量をこなすしかないんですよね。
ここだったらいろんな人に会って、
今温室だって言いましたけど、温室だっていう人も自分でいろんな人と出会ってて、
こういう考え方があるよねっていうところで行くと。
例えば極端なことを言ったら温室で行くぞと。
だから温室で行くから私は温室でずっとやるんだみたいな風に主張していただければいいし、
そういう考え方は別に否定はしてないですよね。
でも温室で行くぞっていうのも突き詰めればある種の温室だから、
いかに建前の部分と、建前で動くかですよね。
周りが動くかってことになるから、建前でそれが全部動いてたらもういいじゃんってなりますから、
そういう感じになっていくんじゃないかなと思いました。
というわけで着地は仮説ってことで、悪いというかあんまり良くないかもしれませんけど、
逆に言うとここで言う怖さって言うんじゃなくて優しさですよね。
優しさっていうのが建前とかで本質を言わないことなんだみたいな風な世界観になるわけです。
逆にするとね。
でもそれってそうなんですかね。
身も蓋もないこととか、いわゆるKYって最近聞きませんが、空気を読まずに言うことが正義だとか、
ロジックで詰めていったらそれが勝ちだ、論破ですとかね。
そんなことを言ってるわけじゃないですよ。
それは絶対誤解してほしくないですけど。
そうじゃなくてみたいな。
じゃあそれ優しいのかねみたいな。
それってただ逃げてるとも言えるかもしれませんよね。
本当に向き合いたくないならね。
向き合いたくないなら今じゃないからってことで逃げてまた考えることはあると思うんですけど。
正直なところこれ生き方の問題だから別に温室かロジ栽培かとか本室か温室かっていうわけじゃないんですよ。
だけどこれは僕の考え方なんで別にいろいろあるかなと思います。
そこで本室ってものを考えずに建前だけでどうかみたいなことを言ってたらもう終わりじゃないですか。
つまんなくないですかっていうところです。
これにロジックも何もないんですよね。
僕がそう思うだけだから。
話が合うというか楽しいなっていう人はその本室というか建前とかはもちろん言うけど、
本当はこうですよねっていうのがある人が僕は面白いと思ってます。
四国理とはだいぶ離れているかもしれませんが、四国理とは建前じゃないですね。
本室なので自分がやりたいというのは本室だと思いますし、
興味があること、ないことも本室ですが、興味がないことを無理にやらなくてもいいし、
それは自分にとって何が心地よいというよりも心から動けるかみたいな部分では、
やっぱり本室というのは深い部分なところになっていくんじゃないかなと思ったりしました。
ごく稀に怖いと言われる時というか、
僕の中では心外という感じなんですけどね。
それで怖いって、会話できないじゃんみたいな晴れ物を触るような感じですよね。
怖いですみたいな。
パターンを言うと、心理的な部分ですよね。
心理学を勉強しているみたいな話をすると、心を読まれるみたいなことを本当に思う方が稀にいらっしゃる。
でもそれって確かに心理を学んでいるから、目を合わさないとか、いろいろ動き出したらこういうことだとか、
読まれることを特に怖がるっていう。
ということで材料を与えないようにするみたいな。
騙し合いじゃないけど、よくわからないゲームになってきません?
読まれると怖いんだみたいなね。
相手に開示したくないということだし、共有したくないという心理ですよね。
でもそれも嫌な経験したり、
僕はおかげさまでというか、幸いにもというか、
変な人ももちろんいますし、分かっているつもりですが、
対人関係のところで行わす数が、要は会う人が少なく、
もしくは、これは僕のさらに仮説ですけど、
本質で何かやっていこうという関係性を築けなかったり、
本音ですか、思っていることを言えないという人が少ないというか、
少なくていいんですけど、本当に全くいなかったりすると、
そのコミュニケーションができないわけですよね。
僕が言っているような、今言っている本質とか本音とか言っているけど、
そんなの言ったら、お前アホちゃうかじゃないけど、
バカにされたり、それこそいじめられたりとか、
そんなことはお前は考えなくていいとかという親の教育を受けたりとか、
それは本当にあると思うんですよ。
そういう教育環境みたいなのが強いから。
そういう風になっていったらそれは言わないですよね。
分かります。
だからそういう人がダメだよねというわけじゃなくて、
それは環境が良くないよねというか、
良くなかったよねという風に僕は思っているわけですよ。
僕がごく稀にということを言っているのは、
つまらないということもありますけど、
なるべく自分が傲慢に、自分が思うことは全てである、
自分が本質的なことを言っていたら許されるのだみたいな、
そんな傲慢な話ではなく、エゴを全開にしようということではないんだけど、
それが全くないのもどうなの?という話と、
ここがバランスになっちゃって中央的な話になっちゃうんですけど、
というところかなと思いました。
だからそこを100%じゃないけど、すごく強い本質に行こうという人が、
僕が代表しているとは思わないんだけど、
代表している人が来て、それを守るじゃないけど、
本質で建前でとか言っちゃいけないんだとか、
自分の何か考えを言っちゃいけないんだという人で、
それを言うことは怖いというトラウマみたいなものがあったら、
それは分かりますよ。
だからそこがぶつかったら、それは怖いなという感覚は分かるので、
そういうことだろうなと。分かります。
だから想像できるんだけど、僕はその世界では行きたくないし、
行こうとは思わないので、
自己分析の重要性
別にカウンセリングをするとか、会場をするとかそんなことはできないですけど、
そういうことを思ったっていう話でした。
そういう意味では自己分析ですね。
リスナーのあなたも、自分が言われて心外ですよね。
何かそうなるみたいなのってありませんか。
いいやつもいいですけど、悪いやつもあるよねということで、
今回は悪いやつというか、そっちなんだみたいなのを考えてみました。
自分がいいふうに思われたらいいかもしれないけど、
それが全然自分が思っている感覚と違いすぎるのも、
主語くりポイントで何度も言ってますけど、
自分がそこまで無意識でやってて大したことじゃないっていうものを
評価してもらえる方が持続的にできるっていうのはありますよね。
価値になりやすいっていうのはあります。
だけどあまりにも評価、大評価されてもちょっと気持ち悪いじゃないですか。
一方でそれは違うよっていうふうに、
過小評価されるのもちょっと尺じゃないですか。
ぴったりその人が適切に、適切評価みたいなのがバシッとはまるかっていうと、
まあ難しいんでしょうね。
なんかわかります。
それを調整していくっていうのが、ある種の生きるってことかもしれないなと思います。
今回はそんな感じで締めたいと思います。
なので、その侵害っていうのがいいとか悪いとかあると思いますけど、
もしリスナーのあなたでそんな侵害だなと思ったのがあれば、
今回のように少し取り上げて考えてみるのもありかもしれません。
そこにこだわりとかヒントがあるかもしれません。
今回だったら、僕の場合だったら、
多分本質じゃないけど、
その人がどうしたいのかとかどう考えてるかっていうのを知りたいんですよね、きっとね。
だから侵害なんです。
その人に怖いとか言われて、自分が本質的に考えるとかってことに察して興味がなければ、
なんか変なこと言われたなぐらいで話が終わって取り上げることすらないんですけど、
おかしいなみたいな、ふとは立ち止まって考えたいってことは重要視してる。
だから僕自身ですね、本質とは何か、それはどういうことをしていきたいのか、
その人の考えとは何かってことですね。
その人の考えですね、本質というか。
その人自身が結局その考え方とか考えるとか、
何かやるってことに対して重きを置いてるっていうことです。
だからそれが嫌な人は僕の周りにはいないし、続かないですね。
なんかつまんないなと。
そんな話でした。
考えることの重要性
うまくヒントになってくれれば幸いです。
今回は以上となります。
しごくりラジオ大橋でした。
ここまでお聞きいただきましてありがとうございました。
以上失礼いたします。