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  2. 比較しないと、自分に向き合う..
2025-04-16 44:13

比較しないと、自分に向き合う形になりやすい

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参照していたtogetterネタはこちら。
https://togetter.com/li/2539051
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サマリー

このエピソードでは、他人と比較しないことの重要性が語られています。特に、自分らしさを出すためには他人との比較を避け、自分の価値を理解して生かすことが鍵であると述べられています。また、個人の興味や考え方が影響を与える中で、他人の意見に囚われず自分の軸を持つことが大切であると強調されています。さらに、他人と比較することで生じるメンタルの不安定さや、自己の独自性を保つことの重要性について考察されています。精神的な安定を得るための刺激の管理についても触れられています。このエピソードでは、他人と比較することのストレスと自己の楽しさについて探求され、自分自身の物差しを大切にすることが強調されています。特に、他者の成功や評価に依存せず、自分の好きなことややりたいことを見つけることの重要性が語られています。また、他社の評価に流されずに自分自身を評価することの重要性について考察し、自己理解のプロセスを通じて自分らしさを見出す方法が探られています。

他人と比較しない重要性
こんばんは、シゴクリラジオの大橋です。 今回もシゴクリラジオを始めていきたいと思います。
今回のテーマは、他人と比較しないみたいな話をしていきたいと思います。
よくある競合とか、人がやっていることを真似するというのは、
最初の入り口としては全然アリだと思うんですが、 真似する対象がいなくなったりとか、もしくは真似しているだけでは、
比較をしているだけになります。 よくある自分だけの価値みたいなものっていうのを、
よくないですけどね。 よくはないかもしれないですけど、
自分のらしさだとか、もしくは自社とか、その自社組織とかでもいいんですけど、それをどう出すかってかなり
簡単じゃない。 できないわけじゃない。ただ時間がかかるようなことかなと思いながら、
ちょっとそのあたりの話をしていきたいと思います。 今回もどうぞよろしくお願い致します。
はい、四国ラジオの大橋です。 今回ですね、他社と比較しない、他人と比較しない、ある記事がありまして、
ゲタですね。 Xなどのまとめですかね。リンク貼っておきますので、よかったら見てみてください。
そこからですね、気づいたこととして、元ネタとしてはですね、 比較しない、要は自分と他人を比較しない人の傾向というのが、
主観ではもちろんありますよね。 Xポストした人とかの主観ではあると思いますが、
確かに他人に対しての期待値が低い。
他人に考えにあまり興味がない。
ちょっとそれは言い方もあるんですが、そのあたり解釈していきながら、
じゃあ他人と比較しないってどういうことかと。 それがどう自分らしさに繋がっていくのか。
さらに発展させれば、僕は別に得意としているわけじゃないんですけど、自分、人ですよね。
自分の価値を理解する
人が集合している組織においても、同じこと言えるんじゃないかなと思ったりしたようぐらい。
だから最後の組織論とか話ではないんですけど、僕が言える範囲でちょっと考えていければと思います。
まずですね、仕事クリエイターとしてもですね、他人と比較することにおいて、
どやがあるじゃないんだけど、優位に立って何かっていうのって、あんまりうまくいかないですよね。
仮にその一時的にですね、短期的に良くなっても、結局それは、そんな話最近ばっかりしてますけど、
中長期的に見たら、そんな一瞬なんです。他人に勝ったとかね。
勝負スポーツとか競う世界っていうのは、勝ち負けなんで他人と比較せざるを得ないし、
そこで勝つのは当たり前というか、そういう論理が働くんでしょうけど、それだけじゃないですよね。
誰かに勝った、他者に勝った負けだって、めちゃくちゃ狭いじゃないですか、考え方として。
仮にその狭さを実感しているのに、それをやらざるを得ないみたいなのはジレンマだと思いますし、ものすごくストレスになっていくと思います。
まさにそのストレスを出せないから、どうしたらいいですかという相談が別に僕のところに来るわけじゃないですけどね。
来るわけじゃないんですけど、なんか頑張れみたいなことに。頑張れとは言ってないですけどね。
頑張れても無責任ですけど、無責任な言い方になってしまいますが、そういうところもあると。
ここでですね、整理として、至極理というところで自分の持ち味を出していきましょう。
例えば才能というのも長所であり、もしくは短所でもあるので、自分の資質みたいなものですよね、性格みたいなものをうまく使いましょう。
わかりやすいかわかりませんが、例えるなら、いろんなものに興味があるというのは長所に聞こえるかもしれませんが、
それは転じて、逆の短所から見れば飽きっぽいので同じことをできないとも言えるじゃないですか。
この時に飽きっぽいということでそちらに当ててしまうと、同じようなことをやってくださいというのには多分資質は発揮できないわけです。
まあそれ誰のことだったら僕のことなんですけどね。僕のことで同じことをやってくださいと言った時に、多分しんどいのでごめんなさいみたいになるんですよね。
個人の軸を持つ
でも世の中の仕事が同じことばかりやってください、こうしてください、ああしてくださいというふうに決まってたら、決まっているものしかなかったら、
まあ僕はとっくに絶滅しているというか、人生を辞めているかもしれないという、まあその死ぬとかじゃないんですけど精神的には死んでますよね。
じゃあ僕が生き生き生きていくにはもうシンプルで、同じことをしない、新しいことをやる、いろんなことをやっていくみたいなことをやるしか、
割と生きる術がないと言った方がいいでしょう。そういう意味でそういう言い方をすると、
リスナーのあなたがどう思われるかわかりませんが、器用か不器用かと言われたら、なんか不器用なんじゃないかなって思いますが、いかがでしょうか。
何を器用とするか、何を不器用とするかによると思いますが、まあそういう感じですね。僕自身が生きていくという時に比較を、
そこで、そういう長所をどう生かしていくかということがあるわけですね。
仕事づくりということに行くと、完全に僕の仕事クリエイト、仕事づくりというのは、完全に興味をいろいろ散らかしていって、
そこで面白いものがあればやっていこうという感じの設計というかデザインなわけですよね。だからこのやり方がいいかわかりません。
だから同じようなことをしていって、そこから微差というか違いを見出して作るやり方もありますから、別にこのやり方しかダメだとか、そういうことを言っているわけじゃないんですよね。
そういう仕事づくりをしていくときに、まさに例えば隣のAさん、隣のAさんとかわかりませんが、近しい人でもいいし、遠くのXさんでもなんでもいいんですけど、
そういう人と比較して自分はできている、できていないというのは、ある種最初の頃はありかもしれないです。この人はやられているんだ、やられていないんだ。
例えば僕を比較の対象に入れていただけるかわかりませんが、仮にいただいても意味ないんですけど、してもこの人みたいな仕事を作りたいと思ったらするじゃないですか。
でもそれってあんまり意味がなくて、結局理想のあなたはあなただし、僕は僕なんで、比較しても結局、比較しないでって言っているのに比較してるんで、もはや世界線というか全然違う世界を生きているような感じになっちゃうわけですよね。
比較すると比較する世界が広がっているし、比較しないと比較しない世界が広がっているって言えばいいんでしょうかね。扉みたいなものです。
ただ別に扉ってどちらかしか選んじゃいけないとか、どちらを開いたら戻れないとか、そういうちょっとエグい設定の世界観でもないと思っているので、どちらも見ればいいじゃないですか。
しっくりくるところを選べばいいじゃないですか。1個扉開いたら20年ぐらい帰ってこれないとか、そういうことでもないんで、2ヶ月ぐらいで帰ってこれるじゃないですか。
ただ、2ヶ月だったら短くないですか。2日ぐらいですかね。わかりませんけど。そういうですね、それは例えです。実際わかりません。
だから、考え方に染まるのが嫌だっていう人が、ある種保守的かもしれないし、ある種石橋を叩いて渡るかもしれないし、もしくは自分の感覚を研ぎ澄ませたいから嫌だっていう人もいるし、もう正直わかんないですね。
正直わかんない。だけど、ここで言ってるのは比較しない扉であり、生き方みたいなことを一応前提とはしています。
で、その至極理的な話はどうでもいいとして、僕がですね、比較しないという感覚で冒頭にお話した通り、他人に対しての考え方に興味がないというのは若干乱暴かなとは思っています。
誰々さんがどう考えるとか、何々さんが考えるとか、リスナーのあなたがどう考えるということには興味はもちろんあります。
というか、なければ社会の他人側とかってことは言いはないので。
ただ、ここが分かりづらいかもしれませんが、他人の考え方というのには興味を持つし、なるほどなとは思うんですが、それと自分とのリンクさせるかっていったら、
要は自分は自分であり、他人は他人であるというか、あなたはあなただし、僕は僕であるので、そこは別なんですよね。
そうやって言うと、個人主義だとか、集団とか形成とかチームが作れないんじゃないかみたいなことを、もしかしたら思う方もいらっしゃるかもしれませんが、
考え方というのは違うんだけど、目指すものが一緒であれば、すり合わせたりとか、ルールでもいいかもしれないし、
あとは目線じゃないんだけど、マインドセット的な考え方ですよね。
新しいことにチャレンジしようということに関して、一つ提示したときに、それをどうその人たちが解釈して動くかはまた別じゃないですか。
でも、新しいことをやってみようという、そういうミッションというかビジョンというか分かりませんが、そういう考え方があると。コンセプトみたいなね。
それをどう解釈するかってことができればできるわけですよ。
っていうことを言ったときに、リスナーのあなたがどう思うか分からないですけど、割とそれって、高度というと怒られますかね、分からないですけど、
何かコンセプトを提示して、それをもとに自分が具体化してですね、コンセプトだから。具体化して自分の行動に置き換えてやれると。
もしくはここはやれないといって、このコンセプトのどこをどうしていったらいいかを考えることができる。
コンセプトレベルであれば抽象度が高い。自分の中に落とし込むのであれば具体度が高い。どちらもやる必要があると思うんですね。
具体的にこういうことをやってくださいって言われてやっているのでは遅いし、抽象的なものだから分かりませんって言ってたら抽象度の理解ができないんで、いつまで経っても新しいことをやろうみたいなこともできないわけです。
このあたりはちょっと言い方が難しいかもしれませんが、その具体と抽象をですね、行き換えて解釈してやれるっていう人が求められるわけですよね。
そういう新しいことをやろうみたいなところで動ける人たちを集めたいのであればってことですけど、これ結構難しいんじゃないかなと思うんで、それは置いておきましょう。
その時に自分、僕がですね、他人の考え方はもちろん興味があるし、それには一定に考えるんだけど、でもここで切り離しとして他人は他人だし、僕は僕だっていうのが明確にあるわけですよね。
お子さんとか子育てしている方であれば、よそのうちとうちは違いますよねみたいなやつですよね。
小遣い制度をしっかり、ゲームを何時間やっていいか、あとスマホを持たせるかどうか、様々ですよね、そのあたり。
それは同じ社会や同じところに生きてるんだけど、そのルールを課す、もしくはやり方を課すみたいなところがあって、解釈で変わってくるってことではわかりやすい事例なのかなと思ったりします。
その時に、他の家庭とか世帯があろうが関係ないよね。
仮に例えばお小遣い制度であれば、お小遣いをたくさん出す都度、言えば親が払うようなうちがあったとして、それが是非はともかくうちはそうはしませんよっていうのが親の考え方かなと思います。
自分のうちは自分だって。でもここで影響を受けるところは他の家庭でそういうことをやっているのであればうちもやりましょう。
まさにここで出てくるのが何度も申し上げている通りで、他人軸と自分軸みたいな考え方です。
それは二択ではなくて、他者に影響を受けるのも受けますよね。自分も影響を受けます。だから関係ないって言ってる割には受けるんですよ。
関係ないぐらいにしておかないと、まるっと受けるぐらいって感じですか。
自分は自分って言っても、その自分が単独で単一で、孤立して一人だけ、もしくは世帯だけ、家庭だけで生きてるわけじゃないじゃないですか。
なんで緩やかにつながってはいるんだけども、考え方とかは受け入れる受け入れられもあるんだけども、
別にべったりずっと同じ考え方しなきゃいけないとか、同じようにお昼に一緒に行かなきゃいけないとか、そういうのは違うじゃないですか。
っていうところがあると。それは全然別ですけど。そういうところで要は他人と比較するってことは
自分が不安、自分の状態が不安、もしくは他人とか自分がモデルとしているようになりたい、憧れですよね。
憧れはいいんだけど、嫉妬ですよね。要はなんで自分が他人の対象としているような人になれないだろうかみたいな嫉妬につながるので今は良くないかな。
嫉妬って結局攻撃したりとか、その人を攻撃するかもしくは自分を攻撃することによってうまくいっていない。
真理学的には確か原因既属とはっていう言葉があると思いますが、何に原因があるかってことを理由をつけて攻撃するか、もしくは自分を傷つけるかってことであんまりいい話にならないですね。
昨日であります嫉妬しててその嫉妬パワーでうまくいきましたっていうのはあんまり聞いたことない。
他人との比較の影響
もしくはその嫉妬っていう言葉の理解が違うところにあったり、言語化がミスってるというか解釈が違うようなパターンぐらいしかないかなって僕は思っています。
だからその比較ってパワーになる人ももちろんいるかもしれませんが、スポーツとかの世界ではないからその人を倒すとか勝ってどうなるのみたいな話になると思うんですよね。
特にビジネスでもいいし、あとビジネスとかスポーツじゃなかったら生きる。
日常生きてて誰かと競います。例えばそのスーパーの買い物に行って、買い物に行ってすぐ決めて判断して短く効率的にできる。
だからその一緒に入ってきた人よりも自分たちは5分早かった、勝ったとかいう人っています?
いや面白いですけど、別にえ?ってなるじゃないですか。え?ってなりませんか。ちょっとわかんないですけどね。
世の中の人がみんなこれ勝ったってやってたら面白い、こっけーですけど。まあでもそうやってゲーム化するのはいいです。ゲーム化するのはいいんだけど、別にそれを日常生活の優先事項というか原理原則に落とし込んでやってたらちょっと疲れないですか。
まあその疲れるかどうかはあなたご自身の感覚なんですけど、僕は疲れるかなっていうところです。
そこまでは嫌わないんだけど、他人と比較してしまう人っていうのはわかるんですよ。比較するのわかるんですよ。
僕も比較することもありますけどね。ただ独自路線を突っ切ったり、ある程度やってしまうともう比較がバカバカしくなる時がある。
少なくとも僕は比較してどうって言ってもまあしゃーないなっていうか、要はもう違うじゃないですか人が。
逆もありますよね。何々さんと似てますよね。何々さんみたいな方向性ですかって時に、まあそうかもしれないですねぐらいで、
社交事例じゃないけど、相性じゃないけどまあそうかもねってぐらいで受け入れていくぐらいが大人だなっていう
渋さがあるかわかりませんけど、それぐらいがいいんじゃないかなと思っています。
なので、自分は自分ですよねっていう人ってやっぱり他人への興味というか他人の考え方は認めるが、
しかしそこで染まるということ、染めるってことはなかなか難しい。例外はその自分が勉強したいとか学びたいっていうその
師匠じゃないけど、誰かを設定した時にその人から吸収しようということで、喋り方とか
考え方とかね、それをインストールしてねやるってことはありますが、でもそれもねずっとは続かないと思います。
ずっとは続かなくて、型じゃないんですけど、型取ったらもう次はもう出して自分のオリジナルの方に入っていく。
そんなような感じがね、しています。
でですね、基地とか元ネタではですねメンタルの安定の方を書いてて、確かにメンタルが安定するってことは精神的に安定する
ということで一気に中止しないみたいな時になってて、これはですね前ね、よかったら
見てもらえばいいんですけど、聞いてもらえばいいんですけど、田目精さんという人の本の軸立論の中にあった
一番気になったポイントで、その型とかね、そういう何か学習していくところにおいて、
だと思いますが、型の前かもしれないですけど、遊びでもいいかもしれないですけど、型かな、型です。
何かやろうとしている時にその反応の大きさが大きい人って、要は一機一優度が高いって言った方がいいでしょうか。
解釈するならば、威悪ですね。諦めることが多いんですよね。諦めるっていうのはやめてしまうってことですけど、特に上手くいっている時は大丈夫なんです。
上手くいっている時はすごい乗れる。だけど上手くいってない時も同様に同じぐらいへこむので、ものすごく上手くいかないなってことになって、
自分は向いてないんだっていうふうに多分紐付けやすいのかな、自身の感覚としてね。それでやめてしまうってことですね。
この一機一優度が高い、まさにメンタルが安定してないというか感じがします。だからどういうことかというと、
型を淡々と得て上達していける人っていうのは、そこの刺激が少ないんですよね。こんなものかとか、そんなものかということで、プラスもマイナスも振れ幅が少ない。
これまさに僕はメンタルの安定にすごく似ているかなと思いました。なんでかというと、結局何かを学ぶとか新しいことをやるっていう時も、
ほぼイコールで話してるんですけど、結局その自分への刺激量が多すぎれば楽しいんですよね、最初ね。でもそれが上手くいかないのも逆にマイナスになるんです。
その振れ幅が大きいとやっぱりやろう、やらない、やる、やらない。それこそ1日の中で何回も、もしくは1時間の中でもしくは何かをやろうとする瞬間に何度もその振れ幅が。
やるけどでもやっぱりダメなんだとか、その振れ幅が大きい。大きいとメンタルって大変じゃないですか、心理的に。
リスナーのあなたがどういうメンタルの持ち主かまでは僕は分かりませんが、その振れ幅が大きいというのはやはりですね、しんどいんですよね。
これを相打つとか、灰になる相と打つというのを相打つ、相と打つを繰り返すということで、その相打つを繰り返すというのはものすごく疲れると思います。
それから脱出退治という人もいると思うんですが、別に僕はカウンセラーでも何も言えないので、そこは申し訳ないですがスルーなんですけど、結局そのメンタルが安定しているということは刺激が少ないかなということになります。
他者の評価とのバランス
こういうと、メンタル安定している人は刺激が少ないということで、何かに感動しないのかという、感動で喜ばないのかというと、それはないと思います。それはまた別かなという話で、一緒にしていないほうがいいかなというのはあります。
この話で一つ僕が見ていて気づいたのは、ことを最後に共有して終わりたいかなと思います。それは何かというと、他人と比較しないとか、メンタルが安定とか、他人に対してあまり興味を持たないとか、自分は自分であり他人は他人である、他人の物差しは置いてあるというところで、
絶対出てくるというか、感覚として自分の軸、もしくは自分の物差しと他人の軸、他人の物差しみたいなのがありますね。ここでちょっと分かりづらいかもしれないですけど、僕のフレーズでまとめたのが一つありまして、
他人ですね。要は僕じゃない。リスナーのあなたでもいいと思います。僕がリスナーのあなたに対して他人ということで扱ってもらうといいと思うんですが、僕はリスナーのあなたが自分の成功というふうに定義をしているというのが、自分の成功の定義じゃなくて、
他人が、リスナーのあなたじゃない誰か他人が、誰か第三者、誰かがこうやってやると成功だよねとか評価されるよねみたいなことを尺度で見るっていうふうな考え方をすることに対して、ものすごく僕は不思議に思うんですよ。もう一回これ言いましょうか。
リスナーのあなたをちょっと巻き込むと分かりづらいかもしれませんけど、僕が誰かと話します。その人が自ら満足したとか面白かったとか良かった、まさに自分の尺度で自分のものさしで捉えて話しているとか、捉えて生きている、捉えて仕事をしているのであれば、あまり文句というかあまり何も思わないです。
あ、そうやって見たりそうやって考えるんだなってことで、もちろんそれが受け入れられないこともあるし、受け入れられる部分もあるかもしれない。それはケースはケースです。だけどその人の考え方なんだなっていうのであれば、特に僕は何も思わないし、その考え方って言っているのは何かというと、もちろん僕もいろんな人の影響を受けているから、そのね、選択ですよね、そのまでの人たちの意見とか考え方を受けて社会で生きているからそれを植えているのは確かです。
だから僕がオリジナルと言っても、僕オリジナルというのはないかもしれないし、1%もないかもしれないですね。そこも踏まえた上でその話しているその誰かが、僕と話している誰かが、その人の自分の意見だと思っているし、その考え方を受け入れているから話しているじゃないですか。
っていうことなんですね。であればいいし、僕は何も不思議と思わない。不思議と思うパターンは、その誰かという人が話している時に自分の考え方かのように言っているけど、実は誰かの考え方だったり、考え方を真似してただこう言っているだけだとか、それぐらいだったらまだいいかもしれないですけど、
自分の尺度じゃなく他人の尺度で見ている。例えばわかりやすいのは、誰かから評価されたってことがあるから自分はすごいんだっていうことを言っているような方。
例えば言い方が悪いんですけど、フォロワーが何万人いるから自分はすごいんですって言っている人って、それは結果としてそうなったのは全然いいと思うんですけど、それで自分はすごいんだっていうのは、やっぱり極論でも究極的に言ってもやっぱり違うなって思うんですよね。
例えばわかりやすいのは、その誰かという人が自分はすごいんですよって、すごいフォロワーがいるからすごいんですよっていう人がいたとするじゃないですか。自分と話していても全然面白くないとするじゃないですか。リスナーもあなたもそうやって想像してみてください。目の前の人がすごいフォロワーの人がいて、何か100万人以上のフォロワーがいる人なんだけど、話をして何にも面白くなかったとするじゃないですか。
そんなことはあんまりないんでしょうけど、少なくともあなたが面白くなかったことが事実だとするじゃないですか。感覚としてね。その時に、そう見た時に、この人の考え方は何なんだろうなとかっていう時に、まさにその人が自分がやりたい感覚とか世界とか表現っていうのはあんまりなく、他者が評価した何かに乗っかっているっていうところがある。
もしくはそれだけっていうのって、僕は不思議なんだなっていうことに、この記事を見て改めて感じたっていう話でもあります。ちょっと分かりづらかったかもしれないですけど、要はもうちょっと一段階落とすと、自分の落とすというか、もっと構造化しないと、自分で自分がいいなと思ったことをいいなと言っている人が僕はいいなと思うんです。
だけど他人がいいなって思っているものを引っさげて、それに対していいよねっていうのは僕はあんまり好きじゃない。何でかっていうと、いいんですよ。他者の評価っていうのは自分がやってきたことでそれが認められて、表現が例えば小説や漫画とかでもいいですし、自分の文章が認められたとか、それこそアイデアが認められたら全然アリなんです。
だけどそれって一瞬じゃないですか。一瞬であるし短期であるし、誰かの人からの評価であってってわけなんですよね。もしかしたら違う見方をすると、その評価を受けたけど自分は全く納得していないというのがあるかもしれないじゃないですか。評価されたけどこれ別に自分はそんなにいいと思っていないみたいな。結構あると思うんですよ。
その時に考え方としては評価されたからいいよねっていうふうに終わるんじゃなくて、評価されたけど自分は納得している分はあまりないんですよぐらいのところが僕はその人らしいと思うし、その人には共感はするんです。
だけど自分の尺度で見てなくて誰かの考え方とか尺度があってそれで評価されたってことでいいんですよ。もしくは自分がもっと言えばその人が全然面白いとか楽しそうじゃないんだけど明らかにですよ。もしくは本当にその人も面白くないと思ってるんだけど評価されてるからいいやみたいな。
これはもう最近何度も言っているように他者、要は成功という定義が自分がうまくいったってことでは全然なく他人が成功してるよねっていうふうに言ってくれることの回数とか、入賞じゃないけど賞を得て対外的に社会的地位じゃないけど評価を得た。
いいねの回数でもフォロワーでも何でもいいですけどそういった他人の評価、他者の評価っていうものをベースに考えているときに出てくるんじゃないかなっていう話です。
その評価がダメですと自分の感覚だけでやってくれっていうことを主張したいわけじゃなくて何でもバランスですからそれがいいなって僕の意見が言ったことでそれがいいよねって言ってもらえれば僕も嬉しいです。
ただ間違えていけないのは他者の評価のために生きてるわけじゃないじゃないですか。ここで一応スキーとかのスキージャンプの経典でしたっけ、なんで経典というかわかりませんけど危険なポイントかわかりませんが
そこのポイントっていうところで行くと危険なラインっていうかこれまずいなっていうラインがさっきの壮物じゃないけど鬱病みたいなところで行けば自分の感覚とか主観みたいな心からどう思うかってことがわからなくなるもしくは見えなくなることなんじゃないかなと思います。
他人との比較によるストレス
それ何かというと面白いってことですね。自分が面白いとか楽しいって思っていることがわからなくなるかもしくはそれを言わなくなるってことですね。自分はこれが面白いんだということが言えなくなる感覚別に誰から言わなくても自分で持っててそれを表現するのでもいいし自分で本当に持っているってことがあればいいわけです。
それがないのに他者の成功とか評価っていうのを受けたり得ててそれで続けていくことでもそれってやっぱり無理で何が無理かというと自分が面白くないことを他者が面白いからやり続けるってめちゃくちゃストレスたまるんですよね。
だからそのストレスがたまる状態があってでもそれが実践的にはライスワークとかライフワークみたいなところでいくとライスワークになることが多いわけですね。自分が心からやりたいわけじゃなくて自己の満足度はあまり高くない。ただゼロではない。
でもそれでお金が得られるってことがあってそれに対して拍手はしないけどそういう状態があるってことは全然そこで100%ってことの割合が8がライスワークだとしてライフワークみたいなのが2だとするじゃないですかわかりやすく。
でもその2割っていうのがものすごく息抜きでありその人の考え方に対してポジティブだったりさっき言った自分軸っていうのを磨くというかキープする意味でも全然重要でキープというかより磨いていけるぐらいの割合としてあれば十分かなと僕は思ったりします。
だから2割とか1割とか僕の割合の感覚は全然当てにならないと思いますが多くの人にとって僕も含めてですね1割とか2割あればそれが心から楽しんでいたりすごいワクワクするのであればむしろその残りの8割を消すというか無きものにして楽しいというものでできるやり続けられるということですごく持続可能性が高いんじゃないかなというふうに思ったりします。
でこうやって言うと時間で割るとかね週5で働いて週2で趣味やればいいやってる人ももしかしたらいるかもしれないんですけどそれはなんかちょっと素手が悪いとか違ってましてその時間とか定量的なものできるからなんかおかしくなるんですよね多分ね。
でじゃあ趣味を1時間やって趣味を2時間毎日やって8時間働いてたら何も感じずにワクワク楽しく生きられますかって言ったらこれは人によると思うんですよ。それでいい人もいれば2時間もあるんだって思う人もいれば2時間しかない人もいるわけですよ。
なのでそこが自分のリスナーのあなたがですね解釈していただくしかないかなっていうところがあるんですよね。だからここのメッセージがすごい伝わりづらい。要はケースバイケースみたいになってしまうしその人それぞれで違ってくるからこのね何かテンプレートがあってパッケージがあってどうかってことが言いづらいわけですよね。
これが何で曖昧になるかっていうのは非常にポイントだと思ってまして曖昧であるからこそ解釈ができるし解釈ができるからこそまさにそのあなたらしいとか僕らしいとか自分らしいっていうその自由みたいなものがあるかなと思ったりします。
これが何も決められてない何もしない何もしなくていいみたいな自由っていうのがあると思いますがそれは完全に自由の解釈の違いということで全然違うかなと思ったりします。
というわけで自分の物差しってものを大事にしようということに終始一貫として述べているわけです。何でかというと結局他者の成功とか他人の評価ってことを得て成功したとしても結局それだけではそれ100%では生きられないので頑張っても7割8割?
わかりませんもっと低いかもしれないですけどじゃあ結局自分らしさとか自分がなんで生きてるのかみたいな話に結局なってくるんですよねそれからは避けられないんですよね。
自己の物差しを大事にする
要は自分が何者で何をしたいかなんてことはもう定義次第だし決められないし僕もね別にそんな決めているわけでもないし決まっているわけでもないしこうですって言ってるのも妄想かもしれないし熱道とは熱道ではないですけど自分がそう考えているだけの話なんですよね。
だからものすごいめちゃくちゃ主観なんですよね。でそれが社会に求められないからそれはあなたは生きる必要がないとかそんなことはないわけじゃないですかこの日本社会でそれはさすがにない。
もちろん様々な問題がある中でとか状況が様々にある中でどう振る舞っていくかってことが問われるんで環境が一人一人全然違うし持っているそのリソースというか資源というか持ち味長所短所も違うしお金もそうだし時間もそうだしもっと大事なのがもしかしたら考え方かもしれないですね今ある考え方っていうのがどういうものなのかとか今ある考えがどういうものなのかってことでもありますが
そういうものを駆使するというかどう使っていって何をやっていくかっていうのは割と僕は自由にあるんじゃないかなと思っています。
そういう自由意志じゃないんですけど自由な状況がある中で例えば今回のように他人と比較するってことは最初とかもしか初心者とか何か本当に初めてやる人にとっては何もないから誰かと比較してこうなりたいああなりたいっていう風に文字通りウブですよね。
何か見て楽しいなーとかこういう人いてすごいなーっていうのは素直に全然僕はいい世界だしそれはいいと思う。ただそれが上達していったりいろいろなことを知っていった人で目標としたりとかしてその人と競って落とし合うとか競争し合うっていうのは結局世界を築けてない。
要は劣等者みたいな感じなんですかわかりませんけどそのどこかに入っていってそこでパイを奪うみたいなところをやらないとできないと思っている。もしくは思わされているって言った方がいいですか。
実際にやらなきゃいけないというか楽しいかなって僕が思うのはやっぱりですねそこで新しいものを作っていくってことになるので終始一貫してどのような状況でもやっぱりですねその作らなきゃいけないというか作ってないのであれば結局ですねあんまり僕は面白さを感じない。
ただ究極的にはさっき言った少し言いましたように何か同じことをやると飽きてしまうというところが究極的にありますから。シンプルにどういうことが起きるかというと同じことをやり続けるとこれは別に僕じゃなくてもよくないですかというふうに思ってそれをやらなくなっていくということですね。
それを言って社会はもしかしたらリスナーの中でこういう反論があるかもしれないです。社会はいっぱい同じことをやっていくというふうに決まっているでしょうと。それをやるのが社会人たるいとかね。説教みたいなのが始まるかもしれないですけど。
分からんでもないです。そうやっていう方の気持ちも分からんでもないです。そういう時に注意していただきたいのはリスナーの中でそう言うとは限りませんが、そうやって考える人がいた時にその人はやっぱりそういう環境下でいたんですよね。社会とはそうやって同じことをやっていくってことが仕事なのであるという人はそういうふうに考えませんか。
僕の周りでもそういう人もいますし、別にその人がダメとかねそんなことは思わないです。でもそういうふうに生きられているのだなっていうぐらいです。逆があるわけです。その人から見ると僕の生き方なんてなんだそれはっていうふざけてるんじゃないかっていう人もいると思うんですよ。
全然ふざけてないんですけど、それを真意というかは結構難しいかなと思います。戦争とか平和というふうじゃないんですけど、話していっても結局その部分で哲学ですよね。自分の哲学みたいな部分がありまして、哲学ってものすごい高尚なことを言ってるんじゃなくて、どう生きたくて何を面白いと思っているか。何を面白いと思っているかじゃないですか。
先回だってもう遊びの話したと思うんですけど、どういうふうに遊ぶと面白いのかっていうその人と関係の時に、遊びが、例えばカラオケに行くとするじゃないですか。遊びとして適切かわかりませんが、カラオケっていうのはご存知の方多いと思うんですが、
メロディーが流れてくるんで歌詞に沿って歌うと。それで楽しいよねっていう。そんな結構原始的な遊びじゃないですか。で、その時に例えば、一人は歌うんだけど一人は全然歌わない。聴くだけでいいよっていうね。そういう方もいらっしゃるじゃないですか。
別にいいんじゃないですか。歌が上手くないとか、別にそれは置いておいて、別に僕も含めて上手い人なんでそんなにいないじゃないですか。って言ったら怒られるかもしれないですけど、歌が上手くなくてもいいわけです。楽しんでやればいい。
その時に一緒に歌いたい人が歌って楽しみたいのに、一人は自分は聴くだけでいいよっていう人がいた時に、遊びとしては成立しづらいじゃないですか。でもその上でどう一緒に遊んでいくかってことは割と対話のレベルになってくるから、遊び難しいなと思いませんか。
結構高度なことをやっている気がします。みんなが遊べる楽しいっていうのは結構高度なことをやっていると思います。この場合どうしたらいいでしょうかね。僕もアイディアがあるわけじゃないんですけど、歌えっていうね。カラオケハラスメントじゃないですか。
勝手に作りましたけど、歌え、歌わないんだ、一緒に歌わないと何事だったら、これも明らかにハラスメントというよりもあんまりいいやつじゃないですよね。一言でチクチクチクチク言う人もいるじゃないですか。それもまたレベルが低い感じもしますが、そういう方も結構いらっしゃるかもしれません。
話脱線しましたけど、そういう遊びにおいても結局楽しいですね。面白いというところをどこまで共有できるか。それが割と近い人とは気が合うし、そうじゃない人はやっぱり気が合わないから疎遠になる。それだけなんですよね。
楽しく生きるための考え方
仕事作りっていうことをしたときに、明らかに自分のこととか自分の考え方がいいなと思ってくれる人がお客さんになりますし、もしくはお客さんはそういう人とつながりたいと思ってくるって感じですかね。
だからそこで間違ってはいけないというか、妄想のペルソナみたいなのを生み出して、さっき言ってたレッドオーシャンじゃないけど、それこそ他人と比較して他人塾で他人の物差しでみたいな人もいらっしゃると思うんですよ。
分かりやすいから、他人塾ってね。定量的にテンプレートじゃないけどパッケージ化されててね、こうすればいい。でもそれってやっても何も得られないことが多いし、やったとして得られるのは虚しさだったりするし、少なくとも自分が面白いというのとは全然違う世界観になるんで、正直なところ話が合わないんですよね。
話が合わない人と無理に話すなんていうことは全然僕も思わないけど、結局社会生活を営む上でそういった方と話さなきゃいけないとか、そういう状況も出てくると思うんですよ。
これが社会の面白さとあり難しさでもあり、全部自分の思い通りにいくっていうわけじゃない、それは全部ストレスだと思いませんが、コントロールできないところがあるというので、もう受け入れるしかないのかなと思ったりします。
だからそれはある前提で正しい、それを最大にストレスを最大に受けるぞみたいなことはおかしいので、最小限にしつつ、それこそ疎遠になるというか、距離を上げるとか、様々なアイディアと施策と工夫で乗り越えつつ、そういった保守的なものは置いておいて、
じゃあそっちのリソースじゃなくて、より時間をかけたいのは自分の面白いと思ったこととか、それを共有して楽しいなと思ってくれる人、もしくはお客さんとか、もしくは自分なりの表現をして、その世界を作っていくってことになるかなと思ったりしました。
なので、もう一度問いかけておくと、結局すごい自分が世界があって自分はこうだってことがないと生きちゃいけないなんてそんなことは一言も言ってなくて、他人と比較するってことで、他人と比較してどうかってことをやりすぎるってことですね。
一切やるなどじゃないですよ。やりすぎて自分が面白いのは何かとか、自分が面白いのはこれだったよなってことを忘れるレベル、もしくは全くやってないっていうのは、これはやりすぎなんじゃないかなと言えそうだなと思います。
仮にそういう他人軸だけでやっぱり生きちゃっていると、それで生きられたらいいですけどね。正直。わかんないですけど。でもそれはさすがにないかなと思ってます。
自分が何者かは置いておいて、自分が何がやりたいのかなとかってことを全く一切、人生において全く考えたことはない。そういう方がもしくはいらっしゃるかもしれないし、初めてずっと同じ会社で仕事してきて、
転職というか新しい仕事をしなきゃいけなかったときに考えるとかもありそうですけど、そこでいきなりストレスかけて一気にやるのってなかなか難しいんで、そういうときって別なことをやりながら段階的にやるっていうふうにやらないと、何でもそうですけどね。
いきなり一発で何かやろうとするってことが一番愚かと言いますか、よろしくない感じも覚えました。なのでメッセージとしてシンプルに自分の軸で生きよう、自分らしく生きようなんていうことを言いたいわけじゃなくて、
自己評価の重要性
その要素があまりにもないと持っていかれるというか、他人のタレンジック、もしくは他社の成功、他社の評価みたいなところがありすぎて、そっちを見すぎてしまうということですね。
今って評価とか反応が早いからそこを見がちですけど、実はというか本質的にはやっぱり自分の方に矢印を向けてまず自分がどうかってことが、ここではくどいくらい言ってますけど、自分が面白いかどうかっていうことがある方なら全然いいんですよ。
それをやっていただいて、考えて、やってる人。考えた上でその他社の評価とかがあるなら全然いい。その順番を逆にして他社の評価自分の評価ってやるとちょっとおかしくならないかなぐらいです。絶対やるなってことじゃないですよ。
じゃなくて自分の評価、他社の評価だったら問題はならないです。でも自分の評価って何かとか分からないとか、自分で自分の評価することが怖いとか、自分っていうのが何かよく分かってない、何も分かってないっていうのがいわゆる空っぽみたいな感じです。
これをやると他社の評価しかなくなるじゃないですか。なので自己防衛としてもやっぱり自分とは何かを考える。自分を考えるってめちゃくちゃ難しい話じゃないんですよね。面白いって何ですか。最近面白かったことは何ですか。そこにあなたらしさが絶対入っている。
これは絶対って使わないですけど、ここは絶対やります。あなたらしさがそこに入っています。あなたらしい視点が入っています。面白いとは何か。好きとか言うよりも面白いと思ったことを挙げてください。大体わかります。そこに隠れています。そこにもちろん言語化とか説明できないとか、人見知りとかいろいろあるじゃないですか、その表現。
それを伝えなさはもう込みで言っています。ないわけじゃなくてあるんだけど、あとはそれをどう解釈してどう自分の軸というか考え方の方に落とし込んでいくかってだけなのかなって思ったりしました。はい、今回も長くなりました。以上となります。四国にラジオ大橋でした。ここまでお聞きいただきましてありがとうございました。以上失礼致します。
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