でも世の中の仕事が同じことばかりやってください、こうしてください、ああしてくださいというふうに決まってたら、決まっているものしかなかったら、
まあ僕はとっくに絶滅しているというか、人生を辞めているかもしれないという、まあその死ぬとかじゃないんですけど精神的には死んでますよね。
じゃあ僕が生き生き生きていくにはもうシンプルで、同じことをしない、新しいことをやる、いろんなことをやっていくみたいなことをやるしか、
割と生きる術がないと言った方がいいでしょう。そういう意味でそういう言い方をすると、
リスナーのあなたがどう思われるかわかりませんが、器用か不器用かと言われたら、なんか不器用なんじゃないかなって思いますが、いかがでしょうか。
何を器用とするか、何を不器用とするかによると思いますが、まあそういう感じですね。僕自身が生きていくという時に比較を、
そこで、そういう長所をどう生かしていくかということがあるわけですね。
仕事づくりということに行くと、完全に僕の仕事クリエイト、仕事づくりというのは、完全に興味をいろいろ散らかしていって、
そこで面白いものがあればやっていこうという感じの設計というかデザインなわけですよね。だからこのやり方がいいかわかりません。
だから同じようなことをしていって、そこから微差というか違いを見出して作るやり方もありますから、別にこのやり方しかダメだとか、そういうことを言っているわけじゃないんですよね。
そういう仕事づくりをしていくときに、まさに例えば隣のAさん、隣のAさんとかわかりませんが、近しい人でもいいし、遠くのXさんでもなんでもいいんですけど、
そういう人と比較して自分はできている、できていないというのは、ある種最初の頃はありかもしれないです。この人はやられているんだ、やられていないんだ。
例えば僕を比較の対象に入れていただけるかわかりませんが、仮にいただいても意味ないんですけど、してもこの人みたいな仕事を作りたいと思ったらするじゃないですか。
でもそれってあんまり意味がなくて、結局理想のあなたはあなただし、僕は僕なんで、比較しても結局、比較しないでって言っているのに比較してるんで、もはや世界線というか全然違う世界を生きているような感じになっちゃうわけですよね。
比較すると比較する世界が広がっているし、比較しないと比較しない世界が広がっているって言えばいいんでしょうかね。扉みたいなものです。
ただ別に扉ってどちらかしか選んじゃいけないとか、どちらを開いたら戻れないとか、そういうちょっとエグい設定の世界観でもないと思っているので、どちらも見ればいいじゃないですか。
しっくりくるところを選べばいいじゃないですか。1個扉開いたら20年ぐらい帰ってこれないとか、そういうことでもないんで、2ヶ月ぐらいで帰ってこれるじゃないですか。
ただ、2ヶ月だったら短くないですか。2日ぐらいですかね。わかりませんけど。そういうですね、それは例えです。実際わかりません。
だから、考え方に染まるのが嫌だっていう人が、ある種保守的かもしれないし、ある種石橋を叩いて渡るかもしれないし、もしくは自分の感覚を研ぎ澄ませたいから嫌だっていう人もいるし、もう正直わかんないですね。
正直わかんない。だけど、ここで言ってるのは比較しない扉であり、生き方みたいなことを一応前提とはしています。
で、その至極理的な話はどうでもいいとして、僕がですね、比較しないという感覚で冒頭にお話した通り、他人に対しての考え方に興味がないというのは若干乱暴かなとは思っています。
誰々さんがどう考えるとか、何々さんが考えるとか、リスナーのあなたがどう考えるということには興味はもちろんあります。
というか、なければ社会の他人側とかってことは言いはないので。
ただ、ここが分かりづらいかもしれませんが、他人の考え方というのには興味を持つし、なるほどなとは思うんですが、それと自分とのリンクさせるかっていったら、
要は自分は自分であり、他人は他人であるというか、あなたはあなただし、僕は僕であるので、そこは別なんですよね。
そうやって言うと、個人主義だとか、集団とか形成とかチームが作れないんじゃないかみたいなことを、もしかしたら思う方もいらっしゃるかもしれませんが、
考え方というのは違うんだけど、目指すものが一緒であれば、すり合わせたりとか、ルールでもいいかもしれないし、
あとは目線じゃないんだけど、マインドセット的な考え方ですよね。
新しいことにチャレンジしようということに関して、一つ提示したときに、それをどうその人たちが解釈して動くかはまた別じゃないですか。
でも、新しいことをやってみようという、そういうミッションというかビジョンというか分かりませんが、そういう考え方があると。コンセプトみたいなね。
それをどう解釈するかってことができればできるわけですよ。
っていうことを言ったときに、リスナーのあなたがどう思うか分からないですけど、割とそれって、高度というと怒られますかね、分からないですけど、
何かコンセプトを提示して、それをもとに自分が具体化してですね、コンセプトだから。具体化して自分の行動に置き換えてやれると。
もしくはここはやれないといって、このコンセプトのどこをどうしていったらいいかを考えることができる。
コンセプトレベルであれば抽象度が高い。自分の中に落とし込むのであれば具体度が高い。どちらもやる必要があると思うんですね。
具体的にこういうことをやってくださいって言われてやっているのでは遅いし、抽象的なものだから分かりませんって言ってたら抽象度の理解ができないんで、いつまで経っても新しいことをやろうみたいなこともできないわけです。
このあたりはちょっと言い方が難しいかもしれませんが、その具体と抽象をですね、行き換えて解釈してやれるっていう人が求められるわけですよね。
そういう新しいことをやろうみたいなところで動ける人たちを集めたいのであればってことですけど、これ結構難しいんじゃないかなと思うんで、それは置いておきましょう。
その時に自分、僕がですね、他人の考え方はもちろん興味があるし、それには一定に考えるんだけど、でもここで切り離しとして他人は他人だし、僕は僕だっていうのが明確にあるわけですよね。
お子さんとか子育てしている方であれば、よそのうちとうちは違いますよねみたいなやつですよね。
小遣い制度をしっかり、ゲームを何時間やっていいか、あとスマホを持たせるかどうか、様々ですよね、そのあたり。
それは同じ社会や同じところに生きてるんだけど、そのルールを課す、もしくはやり方を課すみたいなところがあって、解釈で変わってくるってことではわかりやすい事例なのかなと思ったりします。
その時に、他の家庭とか世帯があろうが関係ないよね。
仮に例えばお小遣い制度であれば、お小遣いをたくさん出す都度、言えば親が払うようなうちがあったとして、それが是非はともかくうちはそうはしませんよっていうのが親の考え方かなと思います。
自分のうちは自分だって。でもここで影響を受けるところは他の家庭でそういうことをやっているのであればうちもやりましょう。
まさにここで出てくるのが何度も申し上げている通りで、他人軸と自分軸みたいな考え方です。
それは二択ではなくて、他者に影響を受けるのも受けますよね。自分も影響を受けます。だから関係ないって言ってる割には受けるんですよ。
関係ないぐらいにしておかないと、まるっと受けるぐらいって感じですか。
自分は自分って言っても、その自分が単独で単一で、孤立して一人だけ、もしくは世帯だけ、家庭だけで生きてるわけじゃないじゃないですか。
なんで緩やかにつながってはいるんだけども、考え方とかは受け入れる受け入れられもあるんだけども、
別にべったりずっと同じ考え方しなきゃいけないとか、同じようにお昼に一緒に行かなきゃいけないとか、そういうのは違うじゃないですか。
っていうところがあると。それは全然別ですけど。そういうところで要は他人と比較するってことは
自分が不安、自分の状態が不安、もしくは他人とか自分がモデルとしているようになりたい、憧れですよね。
憧れはいいんだけど、嫉妬ですよね。要はなんで自分が他人の対象としているような人になれないだろうかみたいな嫉妬につながるので今は良くないかな。
嫉妬って結局攻撃したりとか、その人を攻撃するかもしくは自分を攻撃することによってうまくいっていない。
真理学的には確か原因既属とはっていう言葉があると思いますが、何に原因があるかってことを理由をつけて攻撃するか、もしくは自分を傷つけるかってことであんまりいい話にならないですね。
昨日であります嫉妬しててその嫉妬パワーでうまくいきましたっていうのはあんまり聞いたことない。
少なくとも僕は比較してどうって言ってもまあしゃーないなっていうか、要はもう違うじゃないですか人が。
逆もありますよね。何々さんと似てますよね。何々さんみたいな方向性ですかって時に、まあそうかもしれないですねぐらいで、
社交事例じゃないけど、相性じゃないけどまあそうかもねってぐらいで受け入れていくぐらいが大人だなっていう
渋さがあるかわかりませんけど、それぐらいがいいんじゃないかなと思っています。
なので、自分は自分ですよねっていう人ってやっぱり他人への興味というか他人の考え方は認めるが、
しかしそこで染まるということ、染めるってことはなかなか難しい。例外はその自分が勉強したいとか学びたいっていうその
師匠じゃないけど、誰かを設定した時にその人から吸収しようということで、喋り方とか
考え方とかね、それをインストールしてねやるってことはありますが、でもそれもねずっとは続かないと思います。
ずっとは続かなくて、型じゃないんですけど、型取ったらもう次はもう出して自分のオリジナルの方に入っていく。
そんなような感じがね、しています。
でですね、基地とか元ネタではですねメンタルの安定の方を書いてて、確かにメンタルが安定するってことは精神的に安定する
ということで一気に中止しないみたいな時になってて、これはですね前ね、よかったら
見てもらえばいいんですけど、聞いてもらえばいいんですけど、田目精さんという人の本の軸立論の中にあった
一番気になったポイントで、その型とかね、そういう何か学習していくところにおいて、
だと思いますが、型の前かもしれないですけど、遊びでもいいかもしれないですけど、型かな、型です。
何かやろうとしている時にその反応の大きさが大きい人って、要は一機一優度が高いって言った方がいいでしょうか。
解釈するならば、威悪ですね。諦めることが多いんですよね。諦めるっていうのはやめてしまうってことですけど、特に上手くいっている時は大丈夫なんです。
上手くいっている時はすごい乗れる。だけど上手くいってない時も同様に同じぐらいへこむので、ものすごく上手くいかないなってことになって、
自分は向いてないんだっていうふうに多分紐付けやすいのかな、自身の感覚としてね。それでやめてしまうってことですね。
この一機一優度が高い、まさにメンタルが安定してないというか感じがします。だからどういうことかというと、
型を淡々と得て上達していける人っていうのは、そこの刺激が少ないんですよね。こんなものかとか、そんなものかということで、プラスもマイナスも振れ幅が少ない。
これまさに僕はメンタルの安定にすごく似ているかなと思いました。なんでかというと、結局何かを学ぶとか新しいことをやるっていう時も、
ほぼイコールで話してるんですけど、結局その自分への刺激量が多すぎれば楽しいんですよね、最初ね。でもそれが上手くいかないのも逆にマイナスになるんです。
その振れ幅が大きいとやっぱりやろう、やらない、やる、やらない。それこそ1日の中で何回も、もしくは1時間の中でもしくは何かをやろうとする瞬間に何度もその振れ幅が。
やるけどでもやっぱりダメなんだとか、その振れ幅が大きい。大きいとメンタルって大変じゃないですか、心理的に。
リスナーのあなたがどういうメンタルの持ち主かまでは僕は分かりませんが、その振れ幅が大きいというのはやはりですね、しんどいんですよね。
これを相打つとか、灰になる相と打つというのを相打つ、相と打つを繰り返すということで、その相打つを繰り返すというのはものすごく疲れると思います。
それから脱出退治という人もいると思うんですが、別に僕はカウンセラーでも何も言えないので、そこは申し訳ないですがスルーなんですけど、結局そのメンタルが安定しているということは刺激が少ないかなということになります。
こういうと、メンタル安定している人は刺激が少ないということで、何かに感動しないのかという、感動で喜ばないのかというと、それはないと思います。それはまた別かなという話で、一緒にしていないほうがいいかなというのはあります。
この話で一つ僕が見ていて気づいたのは、ことを最後に共有して終わりたいかなと思います。それは何かというと、他人と比較しないとか、メンタルが安定とか、他人に対してあまり興味を持たないとか、自分は自分であり他人は他人である、他人の物差しは置いてあるというところで、
絶対出てくるというか、感覚として自分の軸、もしくは自分の物差しと他人の軸、他人の物差しみたいなのがありますね。ここでちょっと分かりづらいかもしれないですけど、僕のフレーズでまとめたのが一つありまして、
他人ですね。要は僕じゃない。リスナーのあなたでもいいと思います。僕がリスナーのあなたに対して他人ということで扱ってもらうといいと思うんですが、僕はリスナーのあなたが自分の成功というふうに定義をしているというのが、自分の成功の定義じゃなくて、
他人が、リスナーのあなたじゃない誰か他人が、誰か第三者、誰かがこうやってやると成功だよねとか評価されるよねみたいなことを尺度で見るっていうふうな考え方をすることに対して、ものすごく僕は不思議に思うんですよ。もう一回これ言いましょうか。
リスナーのあなたをちょっと巻き込むと分かりづらいかもしれませんけど、僕が誰かと話します。その人が自ら満足したとか面白かったとか良かった、まさに自分の尺度で自分のものさしで捉えて話しているとか、捉えて生きている、捉えて仕事をしているのであれば、あまり文句というかあまり何も思わないです。
あ、そうやって見たりそうやって考えるんだなってことで、もちろんそれが受け入れられないこともあるし、受け入れられる部分もあるかもしれない。それはケースはケースです。だけどその人の考え方なんだなっていうのであれば、特に僕は何も思わないし、その考え方って言っているのは何かというと、もちろん僕もいろんな人の影響を受けているから、そのね、選択ですよね、そのまでの人たちの意見とか考え方を受けて社会で生きているからそれを植えているのは確かです。
だから僕がオリジナルと言っても、僕オリジナルというのはないかもしれないし、1%もないかもしれないですね。そこも踏まえた上でその話しているその誰かが、僕と話している誰かが、その人の自分の意見だと思っているし、その考え方を受け入れているから話しているじゃないですか。
っていうことなんですね。であればいいし、僕は何も不思議と思わない。不思議と思うパターンは、その誰かという人が話している時に自分の考え方かのように言っているけど、実は誰かの考え方だったり、考え方を真似してただこう言っているだけだとか、それぐらいだったらまだいいかもしれないですけど、
自分の尺度じゃなく他人の尺度で見ている。例えばわかりやすいのは、誰かから評価されたってことがあるから自分はすごいんだっていうことを言っているような方。
例えば言い方が悪いんですけど、フォロワーが何万人いるから自分はすごいんですって言っている人って、それは結果としてそうなったのは全然いいと思うんですけど、それで自分はすごいんだっていうのは、やっぱり極論でも究極的に言ってもやっぱり違うなって思うんですよね。
例えばわかりやすいのは、その誰かという人が自分はすごいんですよって、すごいフォロワーがいるからすごいんですよっていう人がいたとするじゃないですか。自分と話していても全然面白くないとするじゃないですか。リスナーもあなたもそうやって想像してみてください。目の前の人がすごいフォロワーの人がいて、何か100万人以上のフォロワーがいる人なんだけど、話をして何にも面白くなかったとするじゃないですか。
そんなことはあんまりないんでしょうけど、少なくともあなたが面白くなかったことが事実だとするじゃないですか。感覚としてね。その時に、そう見た時に、この人の考え方は何なんだろうなとかっていう時に、まさにその人が自分がやりたい感覚とか世界とか表現っていうのはあんまりなく、他者が評価した何かに乗っかっているっていうところがある。
もしくはそれだけっていうのって、僕は不思議なんだなっていうことに、この記事を見て改めて感じたっていう話でもあります。ちょっと分かりづらかったかもしれないですけど、要はもうちょっと一段階落とすと、自分の落とすというか、もっと構造化しないと、自分で自分がいいなと思ったことをいいなと言っている人が僕はいいなと思うんです。
だけど他人がいいなって思っているものを引っさげて、それに対していいよねっていうのは僕はあんまり好きじゃない。何でかっていうと、いいんですよ。他者の評価っていうのは自分がやってきたことでそれが認められて、表現が例えば小説や漫画とかでもいいですし、自分の文章が認められたとか、それこそアイデアが認められたら全然アリなんです。
だけどそれって一瞬じゃないですか。一瞬であるし短期であるし、誰かの人からの評価であってってわけなんですよね。もしかしたら違う見方をすると、その評価を受けたけど自分は全く納得していないというのがあるかもしれないじゃないですか。評価されたけどこれ別に自分はそんなにいいと思っていないみたいな。結構あると思うんですよ。
その時に考え方としては評価されたからいいよねっていうふうに終わるんじゃなくて、評価されたけど自分は納得している分はあまりないんですよぐらいのところが僕はその人らしいと思うし、その人には共感はするんです。
だけど自分の尺度で見てなくて誰かの考え方とか尺度があってそれで評価されたってことでいいんですよ。もしくは自分がもっと言えばその人が全然面白いとか楽しそうじゃないんだけど明らかにですよ。もしくは本当にその人も面白くないと思ってるんだけど評価されてるからいいやみたいな。
これはもう最近何度も言っているように他者、要は成功という定義が自分がうまくいったってことでは全然なく他人が成功してるよねっていうふうに言ってくれることの回数とか、入賞じゃないけど賞を得て対外的に社会的地位じゃないけど評価を得た。
いいねの回数でもフォロワーでも何でもいいですけどそういった他人の評価、他者の評価っていうものをベースに考えているときに出てくるんじゃないかなっていう話です。
その評価がダメですと自分の感覚だけでやってくれっていうことを主張したいわけじゃなくて何でもバランスですからそれがいいなって僕の意見が言ったことでそれがいいよねって言ってもらえれば僕も嬉しいです。
ただ間違えていけないのは他者の評価のために生きてるわけじゃないじゃないですか。ここで一応スキーとかのスキージャンプの経典でしたっけ、なんで経典というかわかりませんけど危険なポイントかわかりませんが
そこのポイントっていうところで行くと危険なラインっていうかこれまずいなっていうラインがさっきの壮物じゃないけど鬱病みたいなところで行けば自分の感覚とか主観みたいな心からどう思うかってことがわからなくなるもしくは見えなくなることなんじゃないかなと思います。
要は自分が何者で何をしたいかなんてことはもう定義次第だし決められないし僕もね別にそんな決めているわけでもないし決まっているわけでもないしこうですって言ってるのも妄想かもしれないし熱道とは熱道ではないですけど自分がそう考えているだけの話なんですよね。
だからものすごいめちゃくちゃ主観なんですよね。でそれが社会に求められないからそれはあなたは生きる必要がないとかそんなことはないわけじゃないですかこの日本社会でそれはさすがにない。
もちろん様々な問題がある中でとか状況が様々にある中でどう振る舞っていくかってことが問われるんで環境が一人一人全然違うし持っているそのリソースというか資源というか持ち味長所短所も違うしお金もそうだし時間もそうだしもっと大事なのがもしかしたら考え方かもしれないですね今ある考え方っていうのがどういうものなのかとか今ある考えがどういうものなのかってことでもありますが
そういうものを駆使するというかどう使っていって何をやっていくかっていうのは割と僕は自由にあるんじゃないかなと思っています。
そういう自由意志じゃないんですけど自由な状況がある中で例えば今回のように他人と比較するってことは最初とかもしか初心者とか何か本当に初めてやる人にとっては何もないから誰かと比較してこうなりたいああなりたいっていう風に文字通りウブですよね。
何か見て楽しいなーとかこういう人いてすごいなーっていうのは素直に全然僕はいい世界だしそれはいいと思う。ただそれが上達していったりいろいろなことを知っていった人で目標としたりとかしてその人と競って落とし合うとか競争し合うっていうのは結局世界を築けてない。
要は劣等者みたいな感じなんですかわかりませんけどそのどこかに入っていってそこでパイを奪うみたいなところをやらないとできないと思っている。もしくは思わされているって言った方がいいですか。
実際にやらなきゃいけないというか楽しいかなって僕が思うのはやっぱりですねそこで新しいものを作っていくってことになるので終始一貫してどのような状況でもやっぱりですねその作らなきゃいけないというか作ってないのであれば結局ですねあんまり僕は面白さを感じない。
ただ究極的にはさっき言った少し言いましたように何か同じことをやると飽きてしまうというところが究極的にありますから。シンプルにどういうことが起きるかというと同じことをやり続けるとこれは別に僕じゃなくてもよくないですかというふうに思ってそれをやらなくなっていくということですね。
それを言って社会はもしかしたらリスナーの中でこういう反論があるかもしれないです。社会はいっぱい同じことをやっていくというふうに決まっているでしょうと。それをやるのが社会人たるいとかね。説教みたいなのが始まるかもしれないですけど。
分からんでもないです。そうやっていう方の気持ちも分からんでもないです。そういう時に注意していただきたいのはリスナーの中でそう言うとは限りませんが、そうやって考える人がいた時にその人はやっぱりそういう環境下でいたんですよね。社会とはそうやって同じことをやっていくってことが仕事なのであるという人はそういうふうに考えませんか。
僕の周りでもそういう人もいますし、別にその人がダメとかねそんなことは思わないです。でもそういうふうに生きられているのだなっていうぐらいです。逆があるわけです。その人から見ると僕の生き方なんてなんだそれはっていうふざけてるんじゃないかっていう人もいると思うんですよ。
全然ふざけてないんですけど、それを真意というかは結構難しいかなと思います。戦争とか平和というふうじゃないんですけど、話していっても結局その部分で哲学ですよね。自分の哲学みたいな部分がありまして、哲学ってものすごい高尚なことを言ってるんじゃなくて、どう生きたくて何を面白いと思っているか。何を面白いと思っているかじゃないですか。
先回だってもう遊びの話したと思うんですけど、どういうふうに遊ぶと面白いのかっていうその人と関係の時に、遊びが、例えばカラオケに行くとするじゃないですか。遊びとして適切かわかりませんが、カラオケっていうのはご存知の方多いと思うんですが、
メロディーが流れてくるんで歌詞に沿って歌うと。それで楽しいよねっていう。そんな結構原始的な遊びじゃないですか。で、その時に例えば、一人は歌うんだけど一人は全然歌わない。聴くだけでいいよっていうね。そういう方もいらっしゃるじゃないですか。
別にいいんじゃないですか。歌が上手くないとか、別にそれは置いておいて、別に僕も含めて上手い人なんでそんなにいないじゃないですか。って言ったら怒られるかもしれないですけど、歌が上手くなくてもいいわけです。楽しんでやればいい。
その時に一緒に歌いたい人が歌って楽しみたいのに、一人は自分は聴くだけでいいよっていう人がいた時に、遊びとしては成立しづらいじゃないですか。でもその上でどう一緒に遊んでいくかってことは割と対話のレベルになってくるから、遊び難しいなと思いませんか。
結構高度なことをやっている気がします。みんなが遊べる楽しいっていうのは結構高度なことをやっていると思います。この場合どうしたらいいでしょうかね。僕もアイディアがあるわけじゃないんですけど、歌えっていうね。カラオケハラスメントじゃないですか。
勝手に作りましたけど、歌え、歌わないんだ、一緒に歌わないと何事だったら、これも明らかにハラスメントというよりもあんまりいいやつじゃないですよね。一言でチクチクチクチク言う人もいるじゃないですか。それもまたレベルが低い感じもしますが、そういう方も結構いらっしゃるかもしれません。
話脱線しましたけど、そういう遊びにおいても結局楽しいですね。面白いというところをどこまで共有できるか。それが割と近い人とは気が合うし、そうじゃない人はやっぱり気が合わないから疎遠になる。それだけなんですよね。